2018年11月24日
自分の命さえシビアに見つめる眼差しと、独特の感性
今回ご紹介するのはこちらの詩集…
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……の中にある1つの詩(と言うより序文)です。
宮沢賢治さんの「心象スケッチ 春と修羅」の「序」なのですが…
自分はこの「序」の冒頭を読んだ時、いきなりある種の衝撃を受けました。
それは彼がこの「序」の中で、「自分自身」のことを「現象」と言い切っているからなのですが…
人間の一生というものは、確かに言ってしまえば「現象」です。
現にその肉体を持って生きている当人から見れば「形あるモノ」あるいは、とても大きな意味を持つ「いのち」に思えたとしても、花が咲いて散るような、蛍光灯が点る一瞬の瞬きのような、そんな生じては消えていく「現象」に過ぎないとも言えます。
けれど、それを自身で「現象」と言い切ってしまうのは、なかなかに勇気の要ることではないでしょうか。
人間の多くは、自分が消えた後のことや、100年の命さえ一瞬の刹那にしてしまえるほどの途方もなく長大な時間の流れのことなど、考えたくもないと思っているのではないでしょうか。
ですが、宮沢賢治さんは人生初の詩集(と言うか「心象スケッチ」)の冒頭で、いきなりサクッと自分自身を「現象」と言い切っているのです。
自分は「現象」で、たしかなものに見えても、明滅する青い照明のようなものなのだと。
そして彼は(たぶん)、これから記される「心象スケッチ」について、自分ならざる他人の目に触れたり、長い時間を経るうちに、「彼自身の感じたもの」とは違う解釈をされ得るであろうことに言及しています。
人間という生き物は、結局、自分の目や物差しを通してしか世界を視ることが出来ません。
一人一人その目にはまった“心のレンズ”は別物で、たとえ同じ景色を見ていても感じることは人それぞれです。
なのに現実には、「自分にはこう見えているのだから、他の人にもこう見えるはずだ」と思い込み、そこから誤解を生じさせ、要らぬ諍いを起こしている人が多いように思います。
宮沢賢治さんはたぶん、そのことを知っている人だったのでしょう。
自分が美しいと思って文章という形で切り取った風景や事象が、必ずしも他人から美しいと思われないこと、下手するとばかにされてしまうかも知れないこと、あるいは自分が“ある意図”を持って書き綴ったその言葉が、他人からは“全く別の意図”で解釈されてしまうかも知れないこと…
それを知って、それはそれで仕方のないこと、と受け止めつつ、それでもなお、自分の感じたもの、美しいと思った景色たちを書き残さずにはいられない…
そんな印象を自分は受けたのです。
まぁ、自分が宮沢賢治さん本人でない以上、これもまた“一つの解釈”に過ぎないわけですが…。
<文庫読み比べ>
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文字が小さめなので、小さい字がダメという方にはツライかも知れません。
ただその分、場所を取らずスリムな本です。
収録されているのは「春と修羅」第1~4集、文語詩未定稿、文語詩定稿、疾中、手帳より(「雨ニモマケズ」等)です。
巻末には草野心平さんによる解説も付いています。
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こちらは新潮文庫さんのものに比べて、文字サイズや行間等「読みやすい」という印象を受けました。
また、口絵に何点かの写真が付いていたり、本文にも畑中純さんによるイラスト(版画?)が付いています。
収録されているのは「春と修羅」の第1~3集と「雨ニモマケズ」等の「補遺詩篇」、詩ノートや短歌、初期断章・短篇です。
巻末には吉田文憲さんによる解説、畑中純さんによるエッセイ、語注に宮沢賢治年譜、宮沢賢治参考文献のリストが付いています。