考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

家を売る

2005å¹´05月08æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 家を売り買いするということを、私は恥ずかしながら大人になってから知った。家は、一度建てたら、あとは代々手入れをして直しながら住むものだと思っていた。

 昔のことだが、アメリカかどこかでは新婚夫婦が二人で住むときは小さいアパートで、子供ができてちょっと大きな家に引っ越し、必要に応じて住み替えていき、最後にまた夫婦二人になったとき、小さい家に移り住む、と読んだ。

 そんなものなのかなぁと思った。自然の状況に合わせて、こういうのを合理的というのだろう。でも、何か、割り切れないものを感じてしまう。

 なぜなら、家は数十年単位で存在するものだという感覚があるからだと思う。そして家とは物理的にも過去を引きずるものであるからだ。

 人間と動物の違いは、意識的な過去を持つか否かだと思っている。人間だけが過去を持つ。過去は、数億年の過去だと思っている。だって、人間は、自分たちが存在する以前のことまで「知っている」んだもの。それが学問だったり、文化だったりするわけだ。それが動物にはない豊かさなのだ。過去はとにかくはまず「大事に考える」べきものである。

 だから、簡単に家を売って欲しくない。壊しても欲しくない。それは過去を失い、文化をないがしろにすることのように思われる。そしてそれが、何か貧しさの表れのような気がするから。(実際、家は金食い虫だから、家の維持は、豊かでなければできないことではある。)

 ・・・・・実はある女性週刊誌(いつの発行かは知らない)の記事を読んで思ったの。記事の真偽はよく知らない。。。

平均値の低下

2005å¹´05月08æ—¥ | æ•™è‚²
 教員と生徒との両方の問題。
 
 不適格教員の問題などが取り沙汰されているらしいが、極端に問題のある人だけが問題にされると、平均値のレベルが下がることに繋がる。
 自分の感覚が判断の中心にもなるが、養老先生や他の(私がまっとうだと思う)人の本を読んでいると、(まあ、養老先生に関しては、教育者としての実践力はあまり信用しないが)「そーだよな、まずいよな」と思われる方は、不適格でなくてもかなりいる(というか、マジョリティーを占める)。それで、逆説的に、そういう先生が「まっとうである」と市民権を得ることに繋がるのが問題だ。
 (注・問題教員を放っておけばいいというつもりではない。それで済むわけではないと言うこと。)

 生徒に関して、底辺の生徒を意識して、「底辺の生徒も大事にする」気持ちで、欠点者を多く出すわけにはいかないから、留年者を多く出すわけにはいかないからという理由で、「授業ではあまり教えず、試験を簡単にする」と、(それは、「生徒の実態に合わせて」が錦の御旗で、)まともな平均的な生徒の学習意欲をそぐ。だって、簡単な試験だったら、必死になって勉強する気がだんだん失せてくるではないか。
 こういった「下を大事にする」配慮?は、生徒の平均値(点数だけを言っているわけではない。)を下げ、卒業後には社会全体のレベルを下げることになるのだ。

 底辺を無視しろと言うつもりはないが、大事なのは、真ん中。大多数を占める真ん中。かつての日本の教育は、社会の動きも関与して、これがかなりうまくいっていたのだろう。だから、ここまで豊かな生活が送れるのだろう。