考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

オーラル指導の悪影響?

2009å¹´12月29æ—¥ | æ•™è‚²
 英語の作文を書かせると、けっこうな頻度で I want to a book. という文に遭遇する。かつては絶対になかった間違いである。これって、中学校英語のアクティビティ重視の授業の悪影響だと思う。I want の[t] の音と曖昧に聞こえるto不定詞のtoがごっちゃになっての間違いであろう。
 「耳から覚える」英語を私は信用しない。ネイティブはそれこそ胎児の頃から耳を鍛えている。しかし、外国人である日本人の耳は、子音だけの音と、母音が付く子音とを区別しない。[t]をどうしても「トゥー」のように母音を[t]の音の後に付けてしか発音できない生徒が大勢いるのがその証拠である。耳で区別が付かない音を発音することはできない。(リスニングの力を付けたかったら、それなりにしっかりとした発音を身に付けることである。)
 一旦間違えて身に付けた事項は、なかなか消去できない。これは、文法事項についても当てはまる。明らかに単数の不定の可算名詞なのにaを忘れる生徒は何度注意しても、忘れる。アクティビティ中心の「なんとなく通じればいい英語」は決してきちんとした将来性のある英語に通じることはないと私は思う。

やっと書けた

2009å¹´12月28æ—¥ | æ•™è‚²
 けっこう長い作文を書いた。やっと書けた。良かった。
 あー、大変だった。
 長い文章を書くというのは、記憶力が良くないといけないとわかった。そう言えば、水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」に長編小説を書く人は記憶力が良くないといけない、みたいなことが書かれていたが、なるほどとわかる気がした。

 終わり。


世の中には「素直」な人が多い

2009å¹´12月27æ—¥ | æ•™è‚²
 ブログをやっていると、他の人のブログものぞいたりする。まあ、ウチのブログは、余り変な人は来そうにないが、もっとも私が相手できないときには追い返してしまうから、平和にやっているが、よそ様だと、こんなコメントを貰うとたいへんだろうなぁと思うときがある。あるいは、よそ様そのものの主張を理解しかねる、というか、よくぞまあ、これだけ大衆迎合的に、マスコミに扇動されて、ご本人は自分で考えているつもりなのだろうが、「時代の流れ」にそのまま乗っているなぁと感じることがある。まあ、そういう方のブログはあまりというかほとんど読みに行かないが。その意味で、皆さん実に素直である。なんだか中途半端にできる生徒みたい。理屈が地に足付いていない感じがする。まあ、学校の先生に多いレベルとも言える。(あ、敵を作りそう。。)
 目下の疑問は、なぜ、彼らは、そのような意見を抱いて表明できるのか、という謎である。まあ、文科系的なことは、内田先生が自分が人と論争をしない理由でおっしゃるように、最後には、知的レベルの争い、どっちのアタマがいいか悪いかと言う話になるからだ、ということに収斂しそうだが、う~ん、何なのだろう???

 と書いていて気がついたが、そう、地に足が付いていないのである。
 もっとも「地」と言っても、人によって地面の高さが違う、ということにもなろうか。この辺が鍵かな?
 「自分の立ち位置」というと、大抵は、平面上の位置を思い浮かべるだろうが、それでは話が進まない。立体的な意味の立ち位置である。これをどの程度認識できるか。

 まあ、少なくとも、自分自身は、勉強をして良かったと思う。私の場合は、勉強をすることで、今、いろいろなことを発見し、理解できるようになっていると思うから。

今頃になって何を言うか・続き

2009å¹´12月27æ—¥ | æ•™è‚²
「先生、これも覚えなければいけないんですか」
「なぜ覚えなくてもいいの?」

 どうやら、かなりの生徒は「初めて出てきたものは覚えなくていい、覚えるべきことはこれまで習った覚えのある事項である」と思っているようだ。
 この考え方で学力はつかないよ。

今頃何を言うか

2009å¹´12月27æ—¥ | æ•™è‚²
その1
「先生、なかなか点が上がらないんですけど、これから何をやったらいいんですか?」
「なぜ点が上がらないのかなぁ。どうしたら、上がると思う?」
「もっと速く読めないといけない」
「速く読めれば点が上がる? 理解できているかな?」
「読んでいて、よくわからないです」
「どうしたらよくわかるようになるかな?」
省略
「じゃあ、○○単語集をやったらいいんですか?」
「自分でどう思う?」
「でも、他の教科もあるし、時間がないんです。」
「やれるだけやるしかないじゃない」
「はぁ」

その2
「先生、これも覚えなければいけないんですか」
「なぜ覚えなくてもいいの?」

たくさんの感想があったから。偏差値55の記事。

2009å¹´12月24æ—¥ | æ•™è‚²
「 偏差値55前後が世間を動かす」 のはてなブックマークの感想より

>偏差値55の子って、中レベルの学校なら上位、高レベルの学校では下位にいるわけで、両者でプライドとか全然違いそうな気が。「そのコミュニティで知的に中の上くらいの人が人望を集めやすい」って話ならまあわかる。

もちろん例外はあるが、上位校の偏差値55は、学校内では底辺にいて劣等感を抱くことがあったりする代わり、逆に学外ではものすごくプライドが高いことがある。「私は○○高校なのよ」という鼻持ちならないプライドになることがある。上位校の上位層は、その点、けっこう謙虚で素直だったりする。

>共感の層。僕はそれをジャーナリズム層と呼んでいる。エリートの考えを一般の人にわかりやすく伝えること、共感させることができる

この通りであれば確かに望ましいが、私は、経験的に偏差値55はエリートの考えを理解出来ない方が多いように感じている。理解できていれば偏差値60以上を取るものだから。ものの見方に俯瞰性があるか否かの違いが大きい。

>単に沢山いるからそう見えるだけな気が。

たくさんいるのは、もっと低い層である。偏差値55は、人口全体から見ると、そうとうに高い層である。

>そしてポピュリズムに走ると...

同感。より低い層への影響力が大きいから。

>おれ60前後だったからだめなのかな・・・

60は、かなりの抽象思考ができるレベルです。

>亜インテリの話?

インテリが何を意味するか問題だが、まあ、そんなところなのかな。

>なんか皆さん評価高いようですが、私には釣りエントリに見えるんですけど??

それは、この感想を抱いた方ご自身のブログ観によるのではないか。

>娑婆世界 動員するならココ!と表現することも可能かもしれない。

そういうことかもしれない。

>先生なのに偏差値が何か分かってるんだろうか。wiki「分布が正規分布に近い場合は、40から60の間に約68.3%、」人数比でみて、それは「世間」そのものじゃないですか。

書かなかったけど、もちろん、ここで言う偏差値は大学入試の偏差値である。世間の人の全てが受ける試験(そんなのあるわけないけど)の偏差値ではない。
しかし、何というか、こうした「前提」の取り間違いをよくするのが、偏差値55などの層である。
この感想に、たぶん、同感の意味の星印がたくさん付いていたが、「前提」の取り方を間違える人が多い証左である。その好例と思った。

>どれぐらいの規模の世間なんだろうか。

一般の世間。大学に行く人も行かない人もいる世間。その中で、偏差値55は頼りになるリーダー層になりうる。

>輪切り?自己紹介のところに…"養老孟司先生を師と仰ぐ。"なんかだいたいわかった気になった(<こういう印象批判はいけない)。

書いてある意味がよくわからなかった。

>偏差値55前後というのは、お山の大将と上の方に付いていけなくて諦めた人の2パターンが居ると思う。前者はここで書かれてるとおりだと思うが、後者はむしろ自分の実力を自覚して謙虚に馬鹿っぽく振舞うと思う。

後者のタイプの人について、私はよく知らない。

>偏差値55の実感として当たってる気がするけどこれもバーナム効果なんだろうか。/『思考の枠組みや方法が目に見えないのに対して知識は、有無や量で現れ出てくるから誰の目にもわかる』

同感してもらえて嬉しかった。

>フツーの感覚は大事なので一理あると思うけど、そもそも、勉強ができる、の物差しと世の中を動かす物差しは異なるのではないかと思いますが…偏差値はその後の伸びしろとそんなに関係ない気がするんだけどなあ。

世の中を動かす物差しはいろいろあるから、そのとおりである。「例外」がないものもない。混沌とした中で、何か漠然とでも言えることはないか、と言う視点で述べた小論である。伸び代の話をしているつもりはない。

>となると落とし穴のはまり方を知っている75upは最強だな。「75upの人は、それ以下の多くの人がはまる「落とし穴」にはまらないから、つまり、思考法が根本的に違うから、多くの人の理解や共感を得ない。」

しかし、彼らの言うことを大多数の人が理解することはない。

>これはいつか伸びる これ、書くとこで書いたら余裕でhotentry入りすると思う。グラフつきだとなお良い。なんならつくろうか?(笑)

私の記事の中ではお客さんが多かった記事だった。あっという間に減ったけど。減り方も興味深かった。

勉強は試験のためではない

2009å¹´12月23æ—¥ | æ•™è‚²
 世の中の人は、勉強は試験のためにすると考えるのはなぜだろうと思う。
 たぶん、そう言う人は、試験のためにしか勉強をしてこなかったのだと思う。
 気の毒だな。

 関係ないけど、かなり優秀な生徒が「先生、(勉強を)見てください」と言ってたが、授業の生徒ではないし、だいたい、私は個人指導は好きではない。学校の先生は家庭教師ではない。断った。「私、英語、できないもん」と言ったら、周りの先生に笑われた。自分は英語は出来ないが、どうしたら、生徒は英語が出来るようになるかはかなりわかっている。自分が出来ないのは、能力が足りないのと、努力しないからである。
 で、ここまでだと、余りにも無責任な先生だと思われそうだから、言い訳がましく書くけど、文章の読み方と書き方なら、かなり指導できるつもりだ。授業もそんな授業をしている。気に入ってくれる子はけっこう気に入ってくれている。「この文の訳を教えて欲しい」という子は私の授業を好まない。

生徒が漢文を嫌うワケと素読の関係

2009å¹´12月21æ—¥ | æ•™è‚²
 職員室で時折出てくる言葉に「何故生徒は漢文を嫌がるだろうか」というのがある。「勉強をすれば確実に点が取れるのに」である。彼らの多くは、まるで食わず嫌いのように漢文を嫌がる。もちろん、漢文こそ点が取りやすい科目だと取り組む生徒もいる。多くは比較的優秀な生徒であるが、なぜこういった相違が生じるのか。
 優秀、優秀ではないとはどういうことか、という問題かもしれない。それで、クドイと言われそうだが「偏差値55」が見え隠れするとも思っている。しかし、これでは答えになるまい。なぜ偏差値55かということになる。実は、ここに、日本人独自の思考法が見え隠れするような気がしている。

 漢文を嫌がる理由は、まずは、難しそうな漢字がただただ並んでいて、ワケがわからないように「見える」ことだろう。原稿用紙のマス目に「記号」がバラバラとズラズラ並んでいるように見える。しかも「記号」は、一つ一つが複雑怪奇である。その上、並んだ記号には、返り点や送り点などの更なる小さな記号が付いている。何だかワケがわからない、こんなのイヤだ。しかも、読んでもわかりにくい。短い文章でも、話がどんどん展開していく。なぜ、そのように話が繋がっていくのかわからない。。。。
 しかし、通常は(って、何が通常なのか)、漢文こそ点になるというのが常識である。英語の構文よりずっと少ないいくつかの句法を習得し、学習した句法を基にパターン的な話の流れを掴めば、「試験」という観点において非常に対効果率の良い科目になる。ところが、漢文を嫌う生徒にとって、こうした「常識」こそがとんでもないのである、たぶん。
 なぜなら、ここに日本人的思考法、私の考えでは「羅列的思考」が漢文の勉強を妨げていると考えられるからである。日本人は、風土から言って、「いつどこに行ったら、何がある」「これはこんな様子の時にはこうするといいが、あんな様子だったらああする方が良い」と言った方策や「手入れ」によって自然を巧みに操ってきた。ここにあるのは、相手を見てこちらの出方を変えると言った柔軟さであろう。養老先生が言う「手入れ」も「無思想」も要はこういった柔軟さだろう。
 ところが、「漢文」は違う。徹底的に、「約束事」の世界で、「ああすればこうなる」という脳化された都市の思想にあふれている。日本のような身体感覚に訴える田舎の感性ではないのである。だから、偏差値55程度以下で、記号に代表されるような約束事に馴染まない思考法の持ち主には、とんでもなく異質な世界に思われるのだろう。「記号」という抽象は、日本の自然に合わないのだから。
 ここで、その昔、「教養」の一環として行ったのが漢文の素読であることを思いだそう。
 ほら、何だか、関係があると思いませんか?
 たぶん、相手によって自分の出方ややり方を変えるのが日常の日本人に、「そうではない世界観」があることを教えたのが漢文の素読ではなかったのだろうか。
 漢文の素読を通して、教養ある日本人は、「手入れ」と「無思想」に充ち満ちた自分の世界観をそうでないもっと抽象化された世界に導かせたのが漢文だったのではないか。
 武士という支配者階級の教養がこれだったのは、抽象化された世界に接することで、俯瞰的な世界観やものの見方を学んだのではないか。もちろん、漢文で述べていることの全てがストレートに俯瞰的な世界観を語っているとも思わないが、日本の物語に比べたらより抽象化された世界であるのは間違いないことだろうし、記号化された書き物に親しみ、記号を読解する過程で既に大きく、思考の根源に変容を来すことだろう。彼らは素読を通して幼い頃から、日常と異質の世界に接し、思考の幅を広げたのではないだろうか。もちろん、これは、「結果的にタマタマそうなった」だけかもしれないが、無意識的にその効用に与っていることを知っていたのだろう。

 もし、この推測が正しいならば、今の「ふつー」の生徒が漢文を嫌がるのも理解できるというものである。彼らは日本的な羅列的、並列的な日常からの逸脱を好まないのである。

クラ交易という動的平衡

2009å¹´12月15æ—¥ | æ•™è‚²
今日の内田先生ブログの

>クラにおいては、「自分の交換のパートナーとなってくれる相手が何人いるか、どのような社会的ポジションにいるか」ということが死活的に重要である。
それは相手にとってもまったく同じことである。
どれだけ多くの他者から「必要」とされ、「信頼」され、彼らと互助的な関係をとりむすぶことができるか。
>贈与経済は市民的成熟と高い共生能力をプレイヤーに要求する。

パスをすることを目的にするのは、まさに、動的平衡ではないか。
人間は、ミクロでも、マクロでも、動的平衡を求めているのだな。
クラなんて、典型的。交換そのものを目的とするのは、まさに、動的平衡である。