考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

↓と言いながら・・

2007å¹´04月28æ—¥ | Weblog
昨日から今日と、記事やコメントをたくさん書いてしまった。
ああ、楽しかった~。

皆さん、どうもありがとうございます。

今からイロイロ働きます。(笑)


英語の勉強

2007å¹´04月28æ—¥ | Weblog
 実は英語はキライである。(今まで何度も書いている。)しかし、今年は、必要があって勉強をさせられている。(って、授業の予習だけなんだけど。笑)でも、やってみると、昔取った杵柄のようなもので、けっこうそれなりに楽しめることも発見した。(笑)辞書を引きながらだから、時間が掛かる。(笑・生徒みたいなことを言っている。)
 でも、頼むから、これ以上、教材を増やさないでおくれ。。。ブログを書く時間がなくなる。(笑)精神衛生上よろしくない。脳味噌のキャパが限られているから、英語の勉強をすると、思考を深めて文章を書くことができないのである。

 さあ、試験問題も作らなければならないし、教科書の予習もしなければならない。忙しい。

ふつーの学校の先生はホントにアタマの良い子を好まない

2007å¹´04月27æ—¥ | æ•™è‚²
 だって、自分よりアタマが良いと、見透かされるんじゃないかと思うもの。何だか嫌じゃない? そういうのって。

 アタマの良い奴って、何を考えているのかわからない。不気味な存在である。で、自己防衛本能が働く。自信のある自分の教科だけの話なら構わないかもしれない。が、それ以上は、ちょっと「遠慮」したくなるだろう、たぶん。自分にちょっと「プライド」を持っている人だったら、覿面だろう。

 だから、もの凄い進学校は、人間教育をしてないと思う。やってもボランティアだのそういうので「人間教育だ」と称しているだけだろう。(どこの学校でもやっている話だ。)
 「する必要がない、彼らは限度を知っている。すべきことしてはいけないことをよく分かっている」等と言ってるだろうが、これは、「個人」の問題としてしか捉えていない証である。少なくとも「学校教育において人間を育てる」とは、個々人の問題で留めるべきことではないと思う。もっと社会的な視点が必要なはずだ。
 彼らの有り余る能力を十二分に発揮させず、才能をちょいとばかり余分なところで浪費させてるんじゃないのかなぁ。

 この記事、同業者の顰蹙買うかなぁ。(苦笑)

以上。


「目からウロコが落ちる」とは

2007å¹´04月27æ—¥ | æ•™è‚²
 私は養老先生を読むとよく目から鱗が落ちる。で、目から鱗が落ちるのは、どういう時か。

 で、これ、それまで知らないことを知ったときでは、決して「ない」。知識は、「あっそう。」「ふ~ん」程度である。ちょっと体重や身長が増えた感じかな。(笑)洋服が1枚増えたとか。でっかく、リッチな気分になることはある。でも、それだけである。
 そう、それだけ。
 
 で、私が目からウロコが落ちるのは、自分がそれまで知っていたことに「何か新しい繋がり」を見いだしたときなのである。

 ぱっと思い出すのは、物理学は、人間がどんなふうに外界を捉えいるかという世界観である、という文言を見つけたとき。このときは、ホントに目から鱗だった。
 私は、それまで、物理学とは何か絶対的なモノだと思っていた。ところが、そうではないのだ。人間による世界観だというのだ。
 なるほど。なんだか、新しい地平が開けた気がした。だからどうだってことがないのだけれどもの凄く感動した。

 で、今の学校教育について言うと、授業が、目から鱗を落とす場でなくなっているような気がする。上に書いたような、身長や体重や、洋服の枚数を増やすようなことばかりやっているような気がする。
 全てが「羅列」なのである。知識の集積、たとえそれが「問題の解き方」であっても、「知識を増やす」だけのような気がするのだ。

 もっと根本的な「へぇ~、これって、こんな意味があって、これとこれが結びつくんだ」という感動がないような気がする。それまで自分が知っていたことが深まるとでも言うか。そういう感動。

 もう少し違う表現をすれば、「応用力」であろうか。しかも、数学が数学だけにとどまらない応用力とでも言うか。それまで別物だと思われていたモノがくっつき合って一つの世界を形作るような感覚。「応用」とはそういうものだろう。「羅列」に「応用」はない。それは「普遍」とも関連するだろう。普遍は、もの凄い「応用」である。全てに「繋がり」がつくのだから。

 でも、生徒の様子を見ていると、それなりのレベルの生徒しか、こういった「感動」に意味を見出さない。で、全く、勘違いしている子も多い。それで、大学に行ってどうするのだろう。新しい道なんぞを探せるわけないだろう。

 で、それより何より、人生、生きている甲斐もないだろうと思う。
 結構できる生徒でも、「勉強をする意味が分からない」という子がいるのは、だからではないのかな。「発見の喜び」という「感動」を勉強において教えられてこなかったのだろう。人生なんて、感動(悲しみも喜びも含めてだろうけど)の連続であるはずなのに。

 近頃、学校によっては、部活動や行事に異様に熱心になっているようだ。感動を求めているのだろう。だって、授業に感動がほとんど全くないのだから、他の活動に感動を求めるしかないのだろう。
 なるほど。

 ちなみに、私は、「感動しながら勉強をしろ」とときどき言っている。辞書を引いて感動しろ、といっている。どこまでどうだかはわからないが。


予習をしてこない奴はフリーライダーだ

2007å¹´04月25æ—¥ | æ•™è‚²
 予習をしてこないと、迷惑である。予習をすることになっている授業である。

 個人的なメリットは、とにかく自分でやることが大切なのだ。間違っても良いのである。とにかく、やってこないことに話にならない。自分でやることを覚えるのが学校の活動である。結果だけ覚えたって、実は仕方がないのである。

 更に、予習をしてこない人がいると、予習をしてきた人に大変迷惑である。実は、これが大きい。
 指名されたら、さっさと答える。やってないと、これができないから無駄な時間が生まれる。迷惑である。「わかりません」はいけない。間違いは構わない。「辞書でこうやって調べたけど、載っていなかった。」は、まだ良い。正しい辞書での調べ方を教えることが出来る。他の人にも役に立つだろう。間違った答えも、なぜ間違えたか、どこで勘違いが起こったか、などの説明が出来る。似たような間違いは誰でもする。決して無駄にはならない。
 
 授業で「ただ乗り」をするな。迷惑である。

文法四択問題の解説

2007å¹´04月24æ—¥ | æ•™è‚²
 今を去ること数十年(?)前、私の頃でも、四択問題はあった。自分で予習をするとき、たとえ答えが分かっても、選択肢の中に自分の知らない語があったときにはそんな語も辞書で調べて覚えた。それでも、量があると、ついうっかり調べ忘れるという事態になる。調子に乗って、どんどんやっているウチに、時々ついつい忘れてしまうのだ。
 そうやって授業を受ける。先生は、だいたい「こうこうこういう理由でこれが答えになる」という解説をくださったように思う。でも、他がなぜ正答にならないかまではなかなか言ってくれなかったように思う。それでも時々は教えてくれて、調べ忘れていたときなどは大変嬉しかった。で、このやり方はかなり役に立ったと思う。だって、他の選択肢が「次の試験、他の問題」対策になるからだ。

 で、自分が授業をする立場になった。私は、なるべく、なぜそれしか答えにならないか、他がなぜ答えにならないかを解説しているつもりである。(過保護かなぁ?)ときどき、生徒に「なんで他は答えにならないの?」と聞く。まず、答えられない。
 しかし、肝心の生徒さんたちは、ほとんど私の言うこと、詳しい説明に関心を持ってくれないのである。既に知っているからではない。彼らの多くは、正しい答えさえ分かればそれで良いのである。

 あ~あ。。

今日は本を並べ替え損ねた

2007å¹´04月22æ—¥ | Weblog
 本屋に行ったら、友人の本が先日のように並んでいた。また端っこである。モノの陰に入っている。でも、人が大勢いたから、真ん中に出し損ねた。ちぇっ。

本のタイトル、考えます(冗談)

2007å¹´04月21æ—¥ | Weblog
 もし、本のタイトルを思い付かない方がいらっしゃいましたら、私にご相談ください。概要をお教えくださいましたら、いくつか参考例をお示し致します。

 冗談です、はい。冗談。

センター試験、キライ

2007å¹´04月20æ—¥ | æ•™è‚²
 センター問題演習をやらされている。年を追う事に、出題が嫌らしくなっているような気がする。読解は、引っかけ問題の四択をさせるくらいなら、文章内容の要約させるなり、なんなり、もっと良い出題方法があってしかるべきだ。その方が社会に出てから役に立つぞ。二次試験なんていらない。(もっと言うと、2回も試験は要らない。)

 全国の受験生よ、文句を言え。
「せっかくの試験である。もっと社会に出てから役に立つ形式の出題にせよ。」と。
社会に出たあと、一体誰が四択を作ってくれるのか。少なくとも、人の言うことをきちんとまとめ上げて自分のものにする力ほど重要なことはないではないか。抽象的な表現は、具体例などで説明をし、具体例はそれを抽象化て述べる。言語学習の最終的過程、或いは目標とは、そういうものではないか。現在、一体どれだけのが抱くが、そういった能力を要求しているのだろうか。(と、大学のせいにしても大学が気の毒だが。)

養老先生と気が合うみたい(笑)

2007å¹´04月17æ—¥ | é¤Šè€å­Ÿå¸
 中央公論5月号の「鎌倉傘張り日記」に大いに同感してしまった。(笑)
 
 以下、「>」の後は引用。

>われわれの現実を決めているものはなにか。それが自分自身だと言うことは私には明白だった。
 
 この部分の後は略。ちょっと違うし、よく分からないところもある。

 仮面浪人した頃、親と自分の現実は違うんじゃないかと思った。同じものを見ているはずなのに、全く違うことを言い合う。それで、私は、真実は人によって違うと思った。もっと言うと、真実は生きている人間の数だけあると思った。後々、20代半ば頃に読んだ曾野綾子氏の文章に全く同じことが書いてあった。その頃、私の周りでそんなことを言っている人は誰もいなかった。だから、自分の思ったことが満更ウソでもなさそうだと思って嬉しかった。教員になってから雑談でそんな話をしたら、たまたまその時の現代文の教科書に、「真実の百面相」というのがあって、似たような内容だったらしい。生徒が分かってくれて嬉しかった。

>こうやって書いていても、自分の考えを表現することがいかにむずかしいか、よくわかる。人は一直線にものを考えるのではない。一直線に表現するのである。さもなければ、話が面倒になって、相手に伝わらない。しかし本当は一直線には考えていなのだから、どうしたってウソが入る。

 以前、「作文が下手なわけ」に書いたことに似ていると思った。私は、「考え」とは巨大な分子のようなもので、複雑に絡み合っていると思っている。その記事には書いてないが、「時間」の要素も当然関わってくる。以前の考えがなんだかんだの理由で変化してどうのこうのとか。文章化するとは、上記養老先生の言葉だと「一直線」になる。私も正に、「文章化することは、立体構造のものを上手に1本の線になるように切り取っていくことなのだろう。」とそのときに書いているよん♪♪ でも、それは難しい。だから、養老先生は、「ウソが入る」と表現されたのだろう。確かにウソといえばウソである。

>それは幾何学と同じである。幾何学ではまず定理を習う。論理は前提を固めるところから始まるからである。でも実際には、定理は最後に発見されるのである。最後に発見されたものが、説明では最初に来る。それを実際に最初だと思ったら、既に誤解なのである。論理的説明の困難はそこにある。数学の問題ならまず解けて、それから証明がついてくる。「まず解けた」部分は意識下だから説明できない。やむを得ず事後的に「説明を書く」のである。

 学校で、いろいろ疑問を持つ。やっていることや対応の仕方が間違っていると思うことが多い。それが正しいと思うこともある。「まず解けた」ということだろう。しかし、意識化できないから、言葉で表現できないから、なぜそれが間違っているのか正しいのかの説明ができなかった。自分の考えや立場をも守ろうと、私は仕方がないから、理由を自分で考えた。自分なりの定理を発見したつもりもある。このブログはそのためのものだった。

 本当は、そんなこと、したかったわけではない。私は現実で自分を分かって貰いたかっただけだ。生徒に対してでも同僚に対してでも、「そんなの、いいわけないでしょ。」「それは良いことだ。」本当は、私は、それだけ言い切れれば良いはずだったのに、適わなかったということだ。

 今の教育界は、私の教育観に合わない。相変わらず、疑問に思うことが多い。最新の疑問は、人間があまねく勉強をするってのは、本当のところ、どういうことなのかな、ってところかな。(笑)

 考えるのは好きだが、結構辛いところがある。自分の無意識を掘り起こす作業だからだ。少なくとも、よほどアタマの良い人でない限り、はっきり言って健康的ではない。人間が動物として生きている感覚の世界を無視するかのように、異様に抽象の世界に入り込むことになるからである。(言語は抽象の世界である。)私が自分で考えていることは自分の能力をはるかに越えている気がしてならない。(笑)