考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

勉強のための時間

2013å¹´08月18æ—¥ | æ•™è‚²
 世間的には長い?かもしれないと思われる夏休みもまもなく終わる。夏期休業期間の講習やその他もろもろの仕事があって、盆休み(という名称の休みはないが)は取れても実質的に休みにならない。そうこうするうちにまた講習が始まる。
 小中学校であっても高校であっても、腰を据えて勉強をする時間が欲しいものだ。
 様々な勉強や研修の機会は求めればないでない。生徒指導や校務分掌関係も多い。しかし、大方はハウツー式の「ああすればこうできる」のような現場で即役に立つかもしれない事項の研修や勉強である。知っていれば(言い方は悪いが)便利で、それはそのまま教員としてのプロフェッショナルの仕事に役に立つ。

 しかし、教科に関する勉強時間がなかなか取れないのが近年の悩みである。
 教科指導で扱う内容は、学校教師の仕事として、大方が「知識の受け売り」だが、この十数年で大きく変わったのは、教師用指導書の「厚さ」、書かれている量的な知識。しかし、生徒の勉強でもそうだと思うが、まあ、少なくとも、私の場合、読んだとしても、全然、アタマに入ってこない。今で言うと、コミュニケーション英語、高校2年以上なら、英語Ⅰ・Ⅱ、リーディングの類いである。題材で扱われている周辺的な知識や文法事項などの知識は載っているが、私は、それが何の役に立つのだろう、と思う。
 環境問題が題材としても、何も英語の授業で環境問題の勉強をする必要がないだろうに、さまざまな環境に関するもっと詳細で精密で情報は世間に転がっている。英文に扱われている語彙だって少なく、とてもじゃないが、応用できるレベルではない。あの有名な(といって良いだろう)国際教養大学に進学した生徒が、英語を使った授業だから、たとえば経済なら、経済に関する専門知識や内容の習得に不安を感じる、と言っていた。すでにある純粋な知識の習得ならば、何も外国語を通して学ぶ必要はない。豊かな日本語と明治時代からの翻訳というすばらしい技能を通せば何とことはない。既に国内で定着している知識は母語を通すに如くはないのである。この観点で、「内容理解」に関わる教科書の編集には、非常に効率の悪いヘンな誤解があるとしか思えない。もっと言ってしまうと、大きな勘違いとしか思いようがないのである。

 日本人が英語を習得するのは、非常にハードルが高いのだ。ホテルのフロントの英語やスーパーのレジの英語なら決まり文句でいいだろう。(近頃、コンビニでもファミレスでも、中国人が上手に日本語を使って注文を取る。しかし、マニュアルになさそうな言葉は通じない。)今の英語教育は、そっちの方だけを目指すかのようである。それでは文化がやせ細るばかりだろう。先人に恥じるような気がしてならない。

 突然だが、その昔、子供の頃に読んだ(ような気がする)「ターヘルアナトミア翻訳の苦労話」に言語教育の原点があるような気がしてならない。もちろん、今は辞書という便利なものがあるから、ターヘルアナトミアの方法それそのままをやれなんて無茶を言うわけはない。(当たり前だけど。)しかし、別の言語を理解する際の思考の方法というか、そうした理解の根源を重視する学習でないと、結局外国語を身につけることは不可能ではないのかと思うのだ。そうした教育のメソッドが決定的に欠けているのが現在の教育課程のような気がする。
 だから、生徒は、勉強をしても間違える。で、間違いやすそうなところのごく一部が「入試問題」になって出題される。

 もう、書くのが面倒になってきた。

 言語は、どんな母語に関しても、知能が高く生まれついた人も、低く生まれついた人も、ネイティブは、ネイティブでない人がおかすような「ヘンな間違い」は決してしない。日本人でもアメリカ人でも、アタマが悪くても必ず生まれ育つ国の日本語や英語は習得する。よって私が思うのは、言語の基盤になる原理原則は、きわめて単純なものではないかという仮説である。でないと、「アタマが悪くても正しく習得して間違えない」現象の説明がつかないではないか。ならば、その原理原則の研究を行う方が話が早いはずである。上記で述べた「ターヘルアナトミア」の解釈などには、それが関わるのではないかということなのだ。
 生まれつき言語習得の才能がある人(こういう人はいる。)、また、アタマのいい人は、教えられなくても、この感覚を身につける才能がある。しかし、凡人は、無理。教えてもらわないと、無理。
 それなのに、今の英語教育は、その肝心な部分を教えない。本当の意味で、日本語話者が英語を習得するプロセスの研究を行っていないから、理屈で教えられないのだ。そういえば、ある同僚が「そうしたことは、それぞれ自分で気がついていくことではないか」と言っていた。だったら、何のための教師なのか。

 きわめて意地悪くとらえると、「英語ができる人」は自分の優位性を保持したいから、英語習得の「秘訣」としての原理原則がないフリをして、枝葉末節の語彙や単語の習熟、ストックフレーズの習得に努めさせるのだろうな。売っている本の大部分は、それだ。そりゃ、これらが無意味だなんて言うつもりはない。必ず役に立つ。だけど、そこまでのレベルに達していない人が大半だと、私は言いたいのであって、一定のレベルに至らせる教育を施していないのが現状だと思うのである。

 と、話がどんどん変わってきたが、まあ、そういうことでもなんでも、自分で勉強をしようと思うと、とにかく時間がない。
 勉強がたとえ小中学校や高校であったとしても、学校で学ぶ知識は単なる「伝授されたもの」であってはならない気がするのだ。「ターヘルアナトミア」の読解に関わるような知の習得のための思考法の学習体験であって欲しいと思う。しかし、そのためには、教師自身がもっともっと知の学習体験を積むべきだと思う。それは、単に「教えてもらって、なるほど」と思うことではないと私は考える。
 せめて夏休みのこの時期くらい、そうした体験をしたいと思うのに、ああ、もう終わってしまう。。。

 言いたかったのは、「夏の間にもっと勉強したかったなぁ。」ということ。

英語の教え方の良し悪しのある判断法

2013å¹´08月04æ—¥ | æ•™è‚²
 英語の教え方にもいろいろあるが、その先生がそれなりに英語をちゃんと理解して教えているかどうかは、on をどのように教えているかを聞いてみると良いかもしれない、と、さっき、ちょっと思った。(ちょっと思っただけだけどね。)

 On を「上」「~の上に、~の上で、」と教える先生だったら、ちょっと考えた方がいいかもしれない。
 理由はここに記さない。

 外国語の教え方は、その人がどんな日本語観を持っているかと大いに関わると思う。英語の授業を英語で行う陥穽もこれだ。

「上から目線」と英語

2013å¹´08月04æ—¥ | æ•™è‚²
 『日本語に主語はいらない』と『英語にも主語はなかった』(いずれも金谷武洋著・講談社選書メチエ)が面白かった。筆者は、カナダでフランス語話者に日本語を教えている先生だ。つまり、現場に立って様々な問題に直面しているが、これに役立たない日本語の学校文法の不合理を嘆く。恨みさえしているかのようである。三上章という日本語には主語がないことを看破した先人の偉業を受け継いだ論考に、私は思わず膝を打った。amazonのレビューなどにはいくらか批判があるが、時折見られる内田先生に対する批判もそうだけど、「ざっくり」物事をとらえると、どうしても細かいことを捨てなければならない。専門家の批判はそれゆえのような気がする。また、文体にしろ内容にしろ、かなり恨みがましいところがあるから辟易する人がいるだろうな。まあ、私の場合は日本語話者に英語を教える現場にいるわけだから、生徒がなぜ間違えるのか、理解できないのか、という観点で読むと、意気投合しそうな気分になる。これが正直な読後感である。

 金谷先生は、英語は神の目線の言語だという。(一方の日本人の思考は、「虫の目線」である。)
 これがものすごく説得力があって面白かった。
 なるほど。
 Those who と言う表現が決してthese who でないのは、人間は神から遠いところにいるからである。(この本に書いてあることではないよ。)また、白眉は、dummy subject(この語は著者の作ではない。)である。It seemes to me that ・・ のitが何故だったのか、わからなかった説明が付く。(これは、この本で得た知識。)それなら、英語の文章読解の際に文頭副詞に着目すると読みやすくなるのも合点がいく。(これは私の推論的な理解。)

 すごい本です。一読をお勧めします。
 ただし、自分が持っている既成概念や思考法にとらわれがちの人は、理解しにくいかもしれません。ほとんど全く、「異質」な言語観だからです。
 私の場合は、養老先生の抽象・具体の思考の流れや目線の取り方を訓練されているし、また、自分がこれまで疑問に思って来たことや経験と合致するから、ものすごくすんなり理解できました。

 で、書きたかったのは、実は、ここからほんの少しのことです。

 「上から目線」が批判される昨今ですが、他方、非常に多くの人が、まるで社会全体が「英語熱」にうなされているかのようです。
 「上から目線」が批判や非難の対象になるのは、英語という「上から目線」の言語の広まりに反抗している日本人の無意識的な抵抗ではないでしょうか。

 今更、「英語」から逃れることができないかのような世の流れです。でも、「虫の目線」で暮らす日本人は、本質的に「上から目線」がイヤなんですよね。これまで「お上」頼みの下から目線で、つまり、逆に言えば上から目線も一部受け入れ耐えてきたのですが、ここまで露骨に「上から目線である英語をやれ」と言われると、「虫の目線」の日本人は無意識的に英語の「上から目線」に反応して耐えきれなくなった。その苦難が、日常生活における「上から目線」に対する嫌悪感に形を変えたのではないでしょうか。
 無意識的な理解は決して侮れません。英語が、上から目線の言語であることを日本人はちゃんと気がついているんですよ。でも、英語を拒否することはできない。仕方がないから、「上から目線はいけない」と言って、日常生活でストレス解消を図っているというのが私の仮説です。

 ついでに言うと、無意識の力は大きいです。無意識をいかに意識化して理解し、戦略にするかで結果が変わるのは、勉強でも商売でも同じでしょう。