考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

矛盾を認めない矛盾

2013å¹´05月31æ—¥ | æ•™è‚²
 今はもう本当に、クリアカットな物言いや判断がよしとされる。しかし、人間はそんなに明解な「線引き」ができる存在ではない。
 学校でもどこででも「基準をはっきり示す」ことが求められるし、「マニュアル」も「線引き」が変形したものである。これが子供の成長に悪影響を及ぼす。詳細な教育目標や言語化が可能のされるcanーdoリストなんぞもこの類いだと私は思っている。
 子供の成長というのは、何本の線であれ、既に「線」として引いてあるものの上に存在するものではないと思う。一見したところではそのように見えるかもしれないが、幼子が成長する際に、果たしてどの子も同じように成長するかというとそんなわけないことはすぐわかる。それなのに、いざ「教育」となると、まるでどの子も同じ線上に立てるかのように題目が与えられ、子供がそれに沿っているかどうかの判定が要求される。
 子供を馬鹿にした話だと思う。
 「じゃあ、どうすればいいのだ。子供の読み書きの能力を学校という集団教育の場で教えるには、目標や達成基準が必要なのではないか。」と言う声が聞こえそうである。

 何だろう? 
 私は、そこまで大人が子供の能力の向上に介入しなければならないのかと疑問に思うのだ。

 「できる」とか「わかる」というのは個人的な敬虔で、何も他人が評価して行う事項ではなかろう、というのが持論なのかもしれない。
 本当に「できた」とか「わかった」というのは、自分しか評価しえないことではないのかなぁ、と思うわけだ。いい頃加減に「できた」と判断する子供もいるだろうが、それは、「できた」と表明することが自分の利益に通じるという経験則から来ているんじゃないのかなぁ、と言う気がする。そんなのは「できてない」と示唆する必要性があるだろうが、できた子ができたことを「他人による評価」で判断しやるのはどうなのかなと思ったりする。もっと、本人の気持ちのありようや気分のような主観的なものと結びつけてやる経験をさせるのが良いんじゃないのかなと思う。
 私が見ているのは高校生で幼児や小学生ではない。しかし、今どきの高校生を見ていると、何かしら、「自信のなさ」のようなものというか、「不正直」というか、そんなのを感じる。私の例え方だと、イチローをはじめとする一流のアスリートの努力の仕方とはだいぶ異なるのではないかなと思うのだ。(と書くと、「誰でもがイチローになれるわけではない」とか「それには才能が要る」などの反論が来るが、それは結果論でしかない。イチローほどに才能を開花させることができる能力を持つ者であっても育て方によっては才能を決して開花させることが不能になる方向に進むようなやり方だ、と言う意味で、「不正直」と表現する。)
 イチローのような才能であっても、決してクリアカットな成長の仕方をしたわけではないと思う。グニャグニャ、あっちこっちずれることが合ったと思う。しかし、それが本物を作り上げる重要な要因になっているのではないかと思うのだ。それなのに、今風に、クリアカットな評価で詳細に判定され続けると、こうした一見無駄な「グニャグニャ」がそぎ落とされてしまうと思うのだ。

 ちょっとめんどーになってきたから端折るが、矛盾した存在で矛盾した思考体系を取り、矛盾した行動をする人間を、まるで矛盾が悪であるかのように「矛盾」を認めない蛮行が横行しているように感じるのである。原因は、おそらく「前提」と「目的」を確認したがらないことである。射程の長いものの見方を「わかりにくい」と嫌悪するせいである。
 私は人間が人間である条件が何であるかと問われたら、「今、ここにないものを想像できる力を持っていること」と即答する。時空を超えた存在を思い浮かべることこそが人間の能力の証だろう。この意味で、クリアカットなわかりやすさは、人間が人間でなくなっているように思われる。

 

勉強の階層性

2013å¹´05月15æ—¥ | æ•™è‚²
「勉強は感動だ」
「えっ、英語の勉強は動詞の勉強じゃなかったの」
「感動の上に、動詞があるの」
「哲学的だなぁ」

このところ、忙しすぎ。書くヒマも元気もない。