考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

旅行とグルメのテレビ番組

2006å¹´08月31æ—¥ | ç”Ÿæ´»
 テレビを付けると、休日は旅行かグルメ番組である。大人になって大分経ったから、わかった。なぜ、旅行とグルメなのか。答え。他にすることがないから。金とヒマがあれば、簡単に誰にでもできることだから。(苦笑)

 子供は、自分がどんどん変化するから、同じところにいても毎日旅行をしているようなものである。これまでの自分が知らなかったことを体験し、発見する。毎日がその連続である。「どこか、連れてって~」はあるが、基本的に彼らは日常的に相当EXCITINGな生活を送っているはずである。

 しかし、大人は違う。大抵のことは体験済みである。それでも、毎日が同じ状況であるのに耐えられればよいが、人間というのは、新奇探索傾向が強い動物らしく、恒常的に「何か新しいこと」「いつもと違うこと」を見つけ続けないと、どうやらやっていけないようである。となると、空間移動による旅行が気分も変わってなかなかよろしいということになる。(で、持論として、昔は「祭り」が非日常をもたらしてくれたのだろうと思うのだ。)

 かつ、人間が生きていく上で必ず必要なことは何か。メシを喰うことである。この豊かな世の中である。必然的に、せっかく食うなら美味い物が良いということになる。
 
 終わり。

夏休みの反省

2006å¹´08月31æ—¥ | ç”Ÿæ´»
 本が読めなかった。小さい字が読みにくいから文庫に手が出ない。大きな文字だと文字を追うのに時間が掛かってまどろっこしい。というか、私の場合、速く読まないとどんどん忘れてしまうから(笑)、文字が小さいのが好みだったのだ。

 ブログに作文を書くのに時間が掛かる。(別に書かなくっても良いんだけれど・笑)考えながら書くからキリがない。本を読んでいても、ちょっと何か思いついて気になると、考えてしまう。最後まで待ってから考えればいいのに我慢ができない。というか、これも、そのとき考えないと忘れてしまう。だから本が読めない。

 要は、私の場合、読書と作文の両立ができないということかもしれない。

 高校生の時、勉強が難しかったから相当勉強をした。「こんなに勉強していたら、バカになっちゃうよ」と思った。何を考えるヒマもなかった。つまり、考えると勉強をする時間がなくなるということである。ということは、勉強を読書に置き換えると今の状態だということになる。

 なんだ、私は高校生のときから何も変わってないってことか。ああ、進歩がない。がっかり。


欲望の追求

2006å¹´08月30æ—¥ | æ•™è‚²
 前にもちょっと何かの記事に書いたけど、たぶん、今の子供は、生まれ落ちて大きくなる過程で有形無形に最初に教えられるのが、「自分の欲望を成就させよ」になっているのではないかな。
 欲望の質を検討することは教えない、或いは、現状としては後回しになっている。後回しなのは、教える側としては、言うまでもないことだと思っているからである。(或いは、既に、抜け落ちているのである。)で、後回しになることは、総じて、通じてないことが多い。

 そういう前提に立つと、良きにつけ悪しきにつけ、世の中のいろんなことが納得できる。

養老先生を読んで学んだこと

2006å¹´08月30æ—¥ | æ•™è‚²
は、たぶん、なるべく根源に遡って考えると言うこと。
 「ってことは、どういうことか?」を考えること。「同じ」と「違う」の認識。結局は、これに行き着く。
 私は元々こういう思考法を取っていたから、馴染みやすかったのかも知れないけれど、養老先生の本で随分訓練された気がする。(笑)

 「同じ」と「違う」の認識は、学問の基礎である。「同じ」は、抽象化に関わるからである。しかし、生徒にそう言っても、「ああ、そうだ、そうだな」という顔をしてくれない。前の学校の時は(養老先生を読む前でも)「分類することだ」という言い方をしていたけれど、今のところ、一人として「なるほど」という顔をしてくれていない。(苦笑)(既にわかっているからアホらしくて同意できない、という感じではない。)残念である。

 たぶん、彼らは、「同じ」と「違う」を自分で発見することだと思ってないからではないかな。つまり勉強は「考え方、モノの見方」だと捉えていない。先生や参考書で、「これとこれはこういうモノです。」「これとこれはこういう点で同じです。」ということは、結果たる知識として教えてもらうモノだと思っている。結果を理解し、覚えることだと思っている。勉強を、モノの見方の考え方として自分の力で関係性を捉え直し、発見し直す過程なんてことは全く思いもつかないでいるのだ。だから、「同じ」か「違う」の発見の妙を感じ取らない。たとえ些細なことであっても、人から聞いたことであっても、自分自身による「捉え直し」は、興味深いことだと思うけれど。通常の教授法では、どこがどのように「同じ」か「違う」かまでは明確に言わないし(というか、言えない)、全てについてやってられないのである。(言い出したらきりがない。)だから、自分でしなければならないことになる。必要なのは、意識的な努力なのだ。数学の問題を解くにしても、そう言うことだけど。英語なんて言うに及ばない。

 それでまた、あるモノを別のモノと比べて、部分的にこことここが似ている、こことここは違う、と、それぞれの属性を捉えるのは、単純に分解できることではないから難しいのである。属性を捉えるのは、階層的に一つ上位の概念で捉え直すことだから、アタマを使うし、めんどーなのだ。まあ、それこそが勉強だと思うんだけれどなぁ。分解しながら切り捨てるのでなく、特徴を捉えて活かし続ける作業というか。でも、これをしない、したがらない。
 だから、生徒の思考を見ると、知識がバラバラ。関連付けられない。関係性が捉えられない。人間関係でも、すぐに「関係ねぇ」と言うのと繋がっているのではないかなぁ。

 ちょっとずれるけれど、人間が社会的動物だと言うことと、言語の発達もそれが学問の発達に繋がったのも、ひっくるめて、ひょっとしたら全部繋がってのことじゃないか。構造的には、何か同じ「仕組み」があるんじゃないのかなぁ。

 う~ん。そう考えると妙に納得できるかも。(これも発見の妙だわね。今頃気が付いたの、と言われればそれまでだけれど。笑)


真のセレブと庶民の成功

2006å¹´08月29æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 事業やその他で精魂込めて努力をし、成功を収めた女性は、どうやら宝石にお金をつぎ込むようである。それがまた事業の拡大やお金を生むようである。見ている方は、「うぁ~」と歓声を上げ、憧れ、溜息をつくのか。
 宝石は、金持ちの証だろうけど、美の象徴でもあろう。ところが、何か美しくない。総額ン億円とか、数値に置き換わっている。それだけのお金があったら、もっと違うこともできるだろうになぁ。もっとも、「できること」の一つが「宝石・貴金属の購入」であるのだろうし、豪快と言える巨額を投じてのお買い物は誰にでもできるわけではない、成功者のものである。

 ある国の女王様がお誕生日お迎えになった。お祝いのプレゼントは何がいいですか、と問われ、「国中を花で満たして下さい」と言ったそうな。それで国民は、家々の窓という窓を花で飾り、女王様の誕生日を祝ったそうである。

 おおっ、真のセレブはやはり違う。
 比べて、宝石でもなんでも、個人で所有できるものを所持するだけなのは(男性の場合は車なのかな?)、どんな高級品であろうと「庶民」だと思う。

 まぁ、もっとも、「極める」ところまで言ってしまえば、また別である。やがては博物館を作るほどにしてしまえば「文化的価値」が出る。文化的価値が出れば、子々孫々(赤の他人でも良いんだけれど)の飯のタネになる。そこまで行けばセレブであろう。この人たちは、そこまで行っているということなのかな?


「有名になる」と「名を上げる」

2006å¹´08月29æ—¥ | æ•™è‚²
 「仰げば尊し」に「身を立て、名を上げ、やよ励めよ」という歌詞がある。卒業生の立身出世を願う心だろうが、今どきは流行らなさそうだ。
 大昔の子供は、大きくなったら大臣になりたい、博士になりたい、等言っていたと思う。(一体いつの時代だという気もするが。笑)私が小さな子供だった頃に大人だった人たちが持っていた先入観だ。(もちろん、歌手や野球選手もあるけど。)大臣にしろ、博士にしろ、共通するのは、「人の上に立つ」「名誉」的な職業だということだ。大昔のイメージで絵に描けば「お髭を生やした立派なおじさん」である。大臣も博士も、今のイメージにそんなに「立派なおじさん」はない。だから、憧れの対象にならないという理由もあるが、今どきは、このような支配欲や名誉欲といったストレートな社会的欲望を表明することは、それはそれで「格好悪い」と見なされるのだ、たぶん。

 その代わりに出てきたのが「有名になりたい」だと思う。
 個人情報云々前は、テレビに映る子供に「将来の夢は?」という質問が投げかけられると、「プロ野球選手」などのよくある夢以外に、「有名になりたい」というのがけっこうあった気がする。「具体的に何がしたいか」より、「有名になる」が目的化しているわけである。
 大昔の子供が「有名になること」を自分の将来の夢として語ることがあったと思えない。「マスコミ」の存在が大きい。「テレビに出る」「雑誌に出る」のは社会的成功の証であると見なされる。「名を売る」「顔を売る」ということだろう。家族の写真が出るビジネス系家庭教育雑誌に、「どうしたら雑誌に載ることができるのか」という問い合わせがあって編集者も驚くらしい。(何かの雑誌に書いてあった。)承認欲求というのか、多くの人から認められる欲求が満たされるのだ。私がブログで書いていて、少しはアクセス数が気になるのも一種この類だろうし、ブログ世間でしばしばアクセス数を上げることが話題になっている様子なのもだからだろう。「お母さん、見に来て。」と基本は同じである。人間の本能的な欲求である。否定しない。

 しかし、「有名になりたい」は、あまりに露骨である。大人も子供もない。この場合、「より多くの人に自分の存在を認めて貰うこと」が目的で、存在そのものの意味は問うていない。「有名」には「悪名名高い」というのもあって、「売名行為」という非難の表現もある。しかし、「仰げば尊し」の「名を上げ」は、あくまでも「良いこと」をして「有名になる」ことを推奨している。大臣や博士には「立派」という良い含みがあった。これは、大臣や博士が立派だったかどうかを別として、「有名になること」における「善悪の区別」がちゃんと存在していたことを表す。ここが肝要である。何でもかんでも有名であればいいと言うのではなかったということである。

 ってここまで書いて、「悪名名高い」は、最近死語になっているんじゃないかと思った。「売名行為」は、まだ耳にする気もするが昔ほど非難されていない印象がある。ってことは、昨今、「有名」にますます「善し悪し」がなくなってきたのではないかということだ。もちろん、大臣や博士が子供の関心を引かなくなったように、社会的観点での「善悪」が危うくなってきているという理由があろう。大臣にも博士にもまともな人がいるだろうけれど、こちらは普く名を馳せることがない。よって、広く浅く見る限り(つまり、マスコミで取り上げられない限り)「認められない」に等しくなってしまう。まともなのは「目立たない」という理由で、有名無名の見地では、今どきのコトバで言うと「意味ない」になりそうだ。

 犯罪を犯してでも有名になりたい、というか、「世間をあっと言わせたい」と、自分の存在を知らしめたい願望というか、事件を起こして犯人がそんなことを言うのを新聞記事で読んだことがある。方法手段を問わないのだ。常識的には「そんなにしてまで、『有名』になりたいのか」というところである。しかし、何故そのような考え方が生じるのか、このように考えるとそれはそれで理に適っている。

 急な結論。
 子供には、「有名になる」のには2種類あることを教えてやるべきである。更に、断固として、良い方の「身を立て名を上げる」という公明正大な欲望の成就方法を教えてやるべきである。こういう理想論を言うと、「身近に手本がないから、無理だ」と反論する人が多いけど、ないものは、もう、どうしようがないじゃないか。だから、コトバだけでも教えてやるのである。(何のために人間はコトバという実体のないモノを持っているのか。)感度の良い子は、それでもきっと十分にわかってくれるさ。賢い子供は腐った大人よりはるかにずっと優れている。

 一度UPしてから、こう言うと、「身を立て名を上げ」のような立身出世する子ばかりではないから云々という反論が来そうであると気が付いた。しかし、この続きはまた後で。せっかくここまで書けたわけからUPさせて下さいな。


「何かうまいやり方があるはずだ」の中の絶対評価

2006å¹´08月25æ—¥ | æ•™è‚²
 「何かもっとうまい勉強法があるはずだ」と思っている生徒は多い。
 残念ながら、地に足つけて自分で勉強をし、工夫したいと思っているのではない。「うまい方法」というのがどこかにあって、それを伝授されれば自分だってひとりでにできるようになる、と思っているのである。できるヤツは、それを知っているから、できるんだ、しかし自分は、知らないからできないだけなんだと。だから、日頃の勉強に身が入らない。
 
 この考え方の奥底には、「誰でも同じ能力を持っている」というのがありそうな気がする。
 「元々アイツはアタマが良いんだ」という能力差を認めていない。だから、勉強ができるヤツがいたら、そいつは自分の知らないその方法を知っているからできるだけなんだと考える。全て成果とは、方法次第で何とかなるものだ、という考え方である。

 何もかもを方法論に起因させるのは、相対評価をほとんどされずに育ってきたせいではないか。
 
 小さいときから「絶対評価」の名の下で、ほとんど(というか昔ほど)他人と比べられて育ってきていない。しかも、「褒める指導」を受けている。「やればできるんだ、よくやったね」という現状肯定である。言っている方は、「だから、もっとがんばれ」であるが、そこまでの声はなかなか心に届かない。
 よって、能力差を感じ取る機会が非常に少なく、褒められているから「自分には能力がある」と思う。いわゆる「万能感」に通じる考え方のようでもある。
 
 他人と自分に能力差がないのなら、成果の違いは一体何のせいか? 能力はあるのだから、「方法」を知らないだけなのだ、ということにならざるをえない。

 なるほど。相対評価で常に値踏みされてきた我々世代には及びもつかない、しかし、理屈に合った考え方である。

 昔は、できないのは「能力差のせいだ」と考えた。で、地道な努力を放棄した。
 今は、できないのは「方法を知らないせいだ」と考える。で、地道な努力を放棄している。(共に努力を放棄するのは、「その方がラクだから。」)

 しかし、それでも何とか、成果は欲しい。だったら、どうするか。
 前者の「能力」はお金で買えそうにないが、後者の「方法」は、お金で買えそうだし、時と場合によっては実際にお金で買えるだろう。
 なるほど、子供の教育に金がかかるはずである。(もちろん、この背後には、「学校の教育はダメだ」がある。)
 しかも、次から次へと。これが曲者である。本気の努力と自分を見つめる目がなかったら、いつまでたっても「もっと、もっと、良い方法があるはずだ」と青い鳥を求め続けるだけになる。これは不幸である。


無思想と四季

2006å¹´08月22æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 養老先生の「無思想の発見」に、白洲次郎「プリンシプルのない日本」などがこのごろ目に付く(後者は読んでないが)。
 難しいことはわからない。そんなに勉強もしていない。しかし、前に書いたかも知れないけど、「これだけ四季の移り変わりがある国に住んでいるのだから、そりゃ、無思想でもしかたがないよ、思想に節操がなくなってもしかたがないよ」と思う。
 これが結論。

 「二十四節気」なるものがある。四季それぞれの季節を6つに分けたものである。古典の授業で少し習ったか。
 ちなみに調べてみた。立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒。24と言うことは、当たり前だが2週間毎に季節が変わる。お茶のお稽古をしていると(学生時代の話)、特定のお道具を使った稽古は1年に1回にしかできなかったりする。なんと忙しい世界なのか。

 二十四節気は中国伝来の季節の分け方で、今では暦の上だけの言葉もある。しかし、日本の風土では、春になれば、梅が咲く、桃が咲く、桜が咲く。晩春か初夏になれば菖蒲が咲く、藤が咲く。何せ1年に一度のことである。見に行かねばならぬではないか。散ってしまえばおしまいだ、次は来年。それでも今年の花は今年限りのものである。
 4月半ばに桜の着物を着るのは、野暮である。花より先に着るものである。だから、そのつもりがあるなら、ずっとずっと先のことを考えて作る。(作ったことない。笑)
 夏が来れば、部屋の設えも変えねばならぬ。暑くてしようがないではないか。簾を掛ける。障子や襖も替える。網代を敷く。箪笥まで移動させての大仕事だ。しかし、これとて格別の味わいがあろう。設えを変えてやっと夏が来る。時が過ぎればまた元に戻す。でなければ、寒々とした風情は秋の風鈴に劣らない。

 自然の風土や環境は、人の精神の根底に影響を及ぼすものであろう。この点、日本は、次から次へと変化すること夥しい文物に囲まれて暮らしているから忙しすぎるのだ。時候に合わせるだけで大変だ。とにかく手入れが忙しい。手間も出費もかかるではないか。知恵も工夫も必要である。考えるには事欠かない。すればするだけの甲斐も喜びもある。だから、一つのモノやコトについてじっくり考えて「特定の思想を持つ」なんてこと、できるわけがない。脳味噌は、容量も時間も限られている。

 「特定の思想」を持つには、たぶん、落ち着いて考えねばならないだろう。思想とは「抽象」である。どこにも見えない、触れることのできない抽象である。具体物の集合から何らかの普遍を抽出し、階段を上るように昇華させなければ得られないものである。それで、このような思考には、もの凄く時間が掛かろうというものだ。大変である。更に「抽象化させて考える」を言い換えると、「数多ある具体物の差異を一方向に削ぎ落とす」ことになる。非常に手荒な思考である。これがいけない。考える方向が真反対である。自然の文物に対処するときの思考は、より感覚を研ぎ澄まさなければできるものでない。自然界には二つとして同じものがない。その差異を愛で、繊細さをいかように慈しみ大切に育んできたか、それが日本人が昔から「考えて」きたことであろう。だから、日本人は、時間がかかるうえに特定の方向に違いを削ぎ落とすなんて荒っぽい「抽象化思考」を好むわけがない。

 それより、次から次へと降ってくるような季節の行事の準備に精を出し、堪能し、せっせと後片づけをする。その方が、どれほど楽しく有意義であろうか。このような季節に合わせた暮らしぶりは、人の精神にも生活にも変化と潤いを与えてくれるだろう。樹木の手入れは大変だがすればするだけのことはある。桜を咲かせるために肥料をやれば花は、やがて春になれば喜んで咲いてくれるだろう。松の木にビールをやれば緑は濃くなるではないか。(←これホント。効果ありますよ。)

 -----だったら、それで良いではないか。毎日やるべきことを考える。大切なのは日々の営みを全うさせることであろう。それだけでも大変なのに、これ以上ほかに何を考えなければならないというのか。ふつーの人間はそう考える。

 周りの様相に合わせて柔軟に己を変化させていく。自然は思い通りにはならない。じっと待って様子をうかがう。自分がドグマを持つのではない。相手に合わせて考えて、対応する。これが養老先生のおっしゃる「手入れ」である。おそらく日本では、その方がずっと暮らしやすいのだ。しかも素晴らしく豊かな暮らしになるのだ。
 他所から「思想」が入ってきても拒否する理由はさしてない。たとえ「神」であろうと、八百万の神にもう一人や二人が加わったとて何の異存があろうか。その時その時、必要なときにお出まし頂ければよい。「相手」に合わせて対応しよう。共存共栄、このどこが不都合というのだろうか。

 だから、日本人に思想はないし、どんな思想でも受け入れられるのだ。


スカート丈のグレイゾーン

2006å¹´08月21æ—¥ | æ•™è‚²
その1
 スカート丈が短い。異様に短いのである。それでもたぶん、広い世の中、そう思う人と思わない人はいる。良しとするのは、「短い方が可愛くって良いじゃない」という他愛ない理由で好むものから、「おっ、いいねぇ」と異性の目から見た何か勘違いまであるだろう。しかし、後者の「おっ、いいねぇ。」は、学校がそーゆーことを目的とする場では決してないわけだから、肯定できるはずはない。否定すべき対象である。(←変な検索に掛かると嫌だから、こういう書き方になっちゃうけど。)前者の「可愛さ」も学校が目するところではないからたとえ親が望んでも(←たまに、そう言う親がいる。)肯定しない。何にせよ、年頃の女の子のスカート丈は、やはりそれなりの丈であるべきだろう。
 また、これは生徒の「能力」と多少相関する。もちろん、長い方が能力が高い。短いのは、ちゃらちゃら見た目にこだわる性格の者が多い。一般論としては、そういう性格では、学習に対する集中力が弱い。もっとも、こういうことを言うと、必ず「成績が良くても短い生徒はいる。」「もっと上の進学校でもいる。」と言われる。しかし、能力の高い生徒集団に短い生徒は少ないし、同じ「短い」であっても「程度」が甚だしく異なる。(全体の傾向を言うときに例外を持ち出して反論するのは邪道である。)

 「スカート検査」なるものをする。かつては物差しを使って行った学校もあると聞くが具体名は知らない。「厳正に、公平に検査をする」を目的にするとそうなるだろう。なぜなら、ここには「グレイゾーン」がなく、「長いか短いか」の二者択一できっちりとしたラインが引かれるからだ。

 私はこれを良しとしない。「公平を期す」は、「検査の目的」としては好ましい。「不平不満が出にくい」という「する側」のメリットもある。(しかし、もちろん、厳密に行うために費やされる多くの労力と言うデメリットも存在する。)しかし、学校教育の目的は検査をすることではない。生徒は検査を受けるために学校に来ているのではない。これが肝要である。スカート丈を指導されることによって、生徒は、本来の学校教育に期待できる有形無形の利点を得るという目的を叶える。これがスカート検査の目的で、「長い」「短い」の厳正な分類そのものが目的ではないから、その点の勘違いをしてはいけない。
 人によっては、この論理を「屁理屈」と言う人がいるかも知れない。(何となくそんな気がする。)しかし、生徒は公平に評価(或いは検査)されるために学校に来ているのではない。彼らは成長するために学校に来ている。その目的をはっきりさせた方が良い。

 ところで、グレイゾーンを持つデメリットは当然上記の逆である。不公平が起こる。生徒が文句を言ってくる。
 しかし、このデメリットは、グレイゾーンだから起こりうるデメリットで、誰の目にも長い、必ず合格するラインにいる場合には決して出ない不平不満である。「合格したいなら、必ず合格する丈にしなさい。」と言えば、済むことである。試験を受けるのに、それ以上の努力を放棄してギリギリの点数で合格を目論む者がいるだろうか。(いたとしても希であろう。)必ず合格したいと願うなら、精一杯の努力で望むだろう。スカート丈の検査も同じである。必ず合格する基準は知らされている。

 それでもグレイゾーンで引っ掛かる生徒はいる。しかし、検査を何度か行うと、必ず「何か言われる」ことになる。育ち盛りの体調によって、「この間は合格だったが、今回はダメ」ということもある。検査の度に注意されるのは嫌そうである。すると、開き直るの場合と、きちんと直そうとする場合に分かれるようだ。開き直るのは、他の指導との関わりによる。他で何らかの「甘さ」を認めると、開き直りがちになる。他でもしっかり指導すると、そうでもないようである。指導の絶対性とでも呼ぶべき「これはダメ。ダメなものはダメ」といったいつも変わらない基準があると「安心」できるようである。

 とか何とか書いていると、「この先生はスカート検査が好きだね」と思われそうである。
 スカート丈は重要だと考えるが、スカート検査は、アホらしい。何でこんなことにエネルギーを費やさなければならないのか。

(その2)
 グレイゾーンが生じる検査をしようとすると「私は苦手です。できません。」と言う教員がいる。
 線をきっちり決まったところに引きたがる人である。「大体この辺から黒、ここからは白」という分類ができないようである。これは、グラデーションがあると白と黒の区別も付けられなくなることを意味する。(不思議である。)完璧を期そうとするからできなくなる。コトバは悪いが、いい加減でもやむを得ないのである。
 なぜなら、目的は、何センチという長さそのものではないからだ。「短いスカートがいけない」が目的だからである。同じ長さでも生徒によって、長く見えたり短く見えたりするだろう。尺度としての長さではなく、「短く見える」ことがいけないのだ。スカートの丈は、はっきり言って「主観」である。それで問題はない。
 だから、私だって、どうだろうかと思うことはある。悩むときは原則に立ち返る。何を良しとするかをはっきりさせる。

 しかし、こう書いても「わかる人はわかる」「わからない人はわからない」になると思う。


集団と個の対立

2006å¹´08月20æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 サルの群れに若い雄ザルがやってくる。雌たちはボスザルを子供を育てているが、子育て中のサルは発情しない。だから、若い雄ザルは、ボスを倒すと子供を皆殺しにするという。ひとえに自分の子供を早く雌に産ませるためである。結構有名な話のようだ。

 集団と個の対立である。繁殖率を考えると、殺さない方が良い。しかし、「自分の子供」のためにはそう言っていられない。だから、「個を優先させた」と言うことである。

 集団と個の対立は、学校でもしばしば見られる。闇雲に個を活かそうとすると、集団がダメになる。しかし、その集団がダメになれば「個」に跳ね返る。しかし、この跳ね返り方は、属する個全てに関わる跳ね返り方だから、「集団がダメになったから自分たちのことろに跳ね返った」ということはわかりにくい、或いは、わかりにくい跳ね返り方になることがあるのだ。よって、「個を活かすのは良いことだ」という教訓を得ることがある。(余程ひどいときはわかるけれど。それでも、わからない人はいる。)

 前のサルで言うと、繁殖率が高まるのが集団の利であろう。しかし、繁殖率が上がることは、サルには(或いは、これが人間のような存在であったとしても)認識できまい。というか、個のレベルでは、どうでもいいことになる。だから、「自分の子の繁殖」という個の利益を優先することになる。

 学校では「集団の秩序維持」が望まれる。しかし、このためには、「個の意志」は二次的なものになる。お腹が空いたからと言って、いつでも食事をして良いわけではない、など、低次元のものから様々ある。保護者がいろいろ「要望」してくるものの中には、或いは、生徒が要望することの中には、この問題が絡む。

 で、私は、(学校以外でも)「ほとんど全ての問題」は、こういった集団と個の対立問題だと思う。

 しかし、同じ集団に属するメンバーが望むことはたいてい似ている。(或いは、似た考えを持つよう予め何らかの策を取る。←こういう言い方をするといやらしく聞こえるが、「ご協力を呼びかける」こともその一つだ。)だから、言わば「多数決の論理」で合意が起こり、少数は「しかたがないわね」と問題にならない。 

 しかし(だから?)、どういったことで集団と個の対立が生じるかは、メンバーの認識のレベルでべらぼうに異なってくる。学校だと、例えば、生徒のみならず保護者が「何故、休み時間に携帯を使ってはいけないんですか?授業中でなければいいでしょうに。」と聞いてくる。学校では使用禁止です、と言って、それだけでなるほどと理解してくれる人たちもいる。「個」の不便を認識した上で、生徒集団全体の動向に悪影響を与えない配慮を理解するとしないの違いである。
 こういった例は枚挙にいとまがない。

 それで、「私はこれで良い。他の人のことまで考えられない。」「わしらはもうこの世からおさらばするから、先のことはどうでもいい。」「とにかく、皆がそれぞれ、自分が楽しく暮らすことが大事なんだ。迷惑をかけなければいいでしょ。」などなど、全てが集団と個の対立概念を含む。
 
 「環境問題」もその一つだ。
 インディアンには、「自然は子孫からの借り物だ」という考え方があるらしい。(昔々の新聞の日曜版で読んだ。)この考えは、「未来の子孫」を「今暮らしている自分たちの集団」に含めている。「先のことは知らん。」という発想ではない。だから、今の自分たちの暮らしはひょっとしたら「不便」かもしれない。しかし、未来の子孫のために、その不便を凌ごうとする考え方があるだろう。或いは、彼らのために何かしてやろう、という考え方がある。
 「集団」の範囲を非常に大きくとった考え方である。(私の人間の定義、「今、ここにないことを考えることができる」に即している。)

 まあ、今、私は、環境問題とか、そう言った具体的なことを言いたくて書いているのではない。
 
 藤原さんが言うような日本人としての品格とか誇りに関しても、日本人という「集団」を認識するかしないかの問いに関わる。「どのように認識するか」と同意と思われるかも知れないが、私は、むしろそういった種別的(つまり平面的)な捉え方ではなく、「文化的にどこまで深めて考えるか」という次元に関わる立体的な側面で捉える考え方を取る。

 言いたいのは、かなりの問題は、見えないところを踏まえた上でどこまでを「集団」を認めるかどうか、である。別な言い方をすれば、どこで切って、個としての自分を優先するか、という問題になると言いたいのである。

 先端医療でも言えよう。「個の命」と、一般には倫理と言われる「人間とは何か」という最も大きな人間集団との対立である。

 このような見方をすると、ほとんど全ての事象についての人の意見は、その人がどこまでを己の集団(←もっとも、こういう書き方をしても、日本、アジア、人類、などといった「平面的な」次元の捉え方ではない。もっと目に見えない側面での捉え方である。)として認め、どこから「個」を優先させようとしているかという問題に収束する。

 そう思いません?

 それで、付け加えて言うならば、「何をもって集団と捉えるか」は、想像力である。知識や技能を超えて深く学び勉強をすることでしか捉えられないのではないかと私は思う。個を優先させる考え方は、大なり小なり欲望の追求という観点で十分である。しかし、「何をもって集団とするか」は、何せ見えないところを探る過程だから、しっかりと勉強をして、自分のアタマで考えて学ばなければわからないし、人によって答えも変わってくるのである。