[文言改訂 27日 7.30][註記追加 27日 12.12][註記表記改訂 28日 16.52]
数日前、5月23日の毎日新聞夕刊「文化欄」に、次のような記事が載っていました。
記事の執筆者が、どこまで、発言を正確に伝えているかは分りません。
ただ、通常、こういう記事の場合、発言者の了承を得るものだ、と私は理解しています。[文言改訂 27日 7.30]
以下の私の感想は、「この記事の伝えている発言内容」についてのものです。
「建築家」の「思想・思考」の様態については、ある程度は「想定内」ではありましたが、この「発言内容」は、まさに「想定外」でした。
曰く 「人間がどう自然と折り合いを付けていくのか、問い直す時期がきた」
曰く 「避難所や仮設住居に居心地のよい『心の拠点』をつくりたい」
曰く 「人間の欲望と建築が結びつき、経済も回ってきた。足元が揺れる思い」
曰く 「震災後、文化が深いところで変りつつある。自分も建物をつくるうえで変っていかなければ」
曰く 「建築家も『私』を超える必要がある」
・・・・・
順に見てゆきます。
いったい、「折り合いを付ける」も「付けない」も、これまで、「自然」をどのように「認識」していたのだろうか、その「説明」なしで、見直すも何もないでしょう。私は寡聞にして、この方の「自然についての認識」を聞いたことがありません。
「折り合い」とは、「妥協」、すなわち、「対立した同士が譲り合って解決する」という意味(「広辞苑」「新明解国語辞典」その他)。
この発言から察するに、発言者はこれまで、「自然」を対立相手として見てきた、ということをいみじくも語っている、と理解できます。
たしかに、そう言われると、発言者の「作品」のありようが「納得」ゆきます。
そして、「問い直す時期が来た」というフレーズが、地震がなかったなら、今まで通りやるだけだった、ということをも示しています。
「心の拠点」は、避難所や仮設住宅にではなく、本来、「日常」に求められるのです。
避難所や仮設住宅は、それこそ、字の通り「緊急時」のもの。人は、「日常」にそれを必要とする。
建物をつくることは、空間を「日常」に供するもの。そのように認識・理解している私にとって、この発言は、一体何なのだ。
「日常」に「心の拠点」になるものがない、
特に「建築家」の「作品」にはない、ということについての「認識」が欠如しているのではないか、そう私には思えます。
つまり、まずもって「日常」を直視してほしい、私はそう思います。[文言改訂 27日 7.30]
「人間の欲望」だと?
そんな風に人間一般に「普遍化」してはもらいたくない。
人間の欲望ではなく、「建築家の欲望」ではありませんか?だとすれば、発言はまさにその通りです。
震災後、「文化」が深いところで変りつつある?
この文言も、発言者の「文化」についての「認識(の程度)」をいみじくも示しています。
「文化」って、そんなものなのですね。
「文化」というのは、私たちの外側に、あたかも「固形物」の如くに存在するモノなのですね。
そういう意味の「文化」を英語では何て言うのでしょう。少なくともそれは culture ではない。
建築家も「私」を超える必要?
やっぱり、これまでやってきたのは、「私」のためだった、ということ?
こういう指摘は、ことによると、揚げ足取りのように聞こえるかもしれません。
しかし、決して揚げ足取りではないのです。
なぜなら、揚げ足取りとは、言葉尻をとらえて言うこと。
私は、その「内容」、そういうことを言わしめた発言者の「思考」についての感想を述べているのです。
こういうことは、「建築の世界」では、何も言わずに「なあなあ」で済ますのが常です。
しかし、「なあなあで済ましてしまう」と、「建築家の世界」では、こういう無思慮な発言がまた繰り返されるのです。だから、敢えて言うのです。
だいたい、地震で、たとえそれが如何に想定外の巨大さであろうが、
そんなことで簡単に「思想」が変るなんて、私には理解不能。
「建築家」とは、気楽な稼業ときたもんだ・・・。
これらの「発言」は、「想定する」「仮定する」「検討する」・・・を「評価する」という語に置き換えて「満足する」のと同じ構造のように、私には見えるのです。
註 私は、「自然 vs 人間」「風土 vs 人間」・・・などのような二項対立的な考え方は「不得意」な人間です。
そんな考え方をすると、人間ではなくなってしまうように感じるからです。
先に、「建物をつくるとは、どういうことか」シリーズの第2回で、
道元の「・・・うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず・・・」を引用したのも、そのためです。
なお、このシリーズの全体は、
「建物をつくるとは、どういうことか-16」にまとめてあります。
[註記追加 27日 12.12][註記表記改訂 28日 16.52]
コメントがありました。
そのご意見の参考として、かつて書いた記事をリンクします。
「アンリ・ラブルースト・・・・architect と engineer 」
数日前、5月23日の毎日新聞夕刊「文化欄」に、次のような記事が載っていました。
記事の執筆者が、どこまで、発言を正確に伝えているかは分りません。
ただ、通常、こういう記事の場合、発言者の了承を得るものだ、と私は理解しています。[文言改訂 27日 7.30]
以下の私の感想は、「この記事の伝えている発言内容」についてのものです。
「建築家」の「思想・思考」の様態については、ある程度は「想定内」ではありましたが、この「発言内容」は、まさに「想定外」でした。
曰く 「人間がどう自然と折り合いを付けていくのか、問い直す時期がきた」
曰く 「避難所や仮設住居に居心地のよい『心の拠点』をつくりたい」
曰く 「人間の欲望と建築が結びつき、経済も回ってきた。足元が揺れる思い」
曰く 「震災後、文化が深いところで変りつつある。自分も建物をつくるうえで変っていかなければ」
曰く 「建築家も『私』を超える必要がある」
・・・・・
順に見てゆきます。
いったい、「折り合いを付ける」も「付けない」も、これまで、「自然」をどのように「認識」していたのだろうか、その「説明」なしで、見直すも何もないでしょう。私は寡聞にして、この方の「自然についての認識」を聞いたことがありません。
「折り合い」とは、「妥協」、すなわち、「対立した同士が譲り合って解決する」という意味(「広辞苑」「新明解国語辞典」その他)。
この発言から察するに、発言者はこれまで、「自然」を対立相手として見てきた、ということをいみじくも語っている、と理解できます。
たしかに、そう言われると、発言者の「作品」のありようが「納得」ゆきます。
そして、「問い直す時期が来た」というフレーズが、地震がなかったなら、今まで通りやるだけだった、ということをも示しています。
「心の拠点」は、避難所や仮設住宅にではなく、本来、「日常」に求められるのです。
避難所や仮設住宅は、それこそ、字の通り「緊急時」のもの。人は、「日常」にそれを必要とする。
建物をつくることは、空間を「日常」に供するもの。そのように認識・理解している私にとって、この発言は、一体何なのだ。
「日常」に「心の拠点」になるものがない、
特に「建築家」の「作品」にはない、ということについての「認識」が欠如しているのではないか、そう私には思えます。
つまり、まずもって「日常」を直視してほしい、私はそう思います。[文言改訂 27日 7.30]
「人間の欲望」だと?
そんな風に人間一般に「普遍化」してはもらいたくない。
人間の欲望ではなく、「建築家の欲望」ではありませんか?だとすれば、発言はまさにその通りです。
震災後、「文化」が深いところで変りつつある?
この文言も、発言者の「文化」についての「認識(の程度)」をいみじくも示しています。
「文化」って、そんなものなのですね。
「文化」というのは、私たちの外側に、あたかも「固形物」の如くに存在するモノなのですね。
そういう意味の「文化」を英語では何て言うのでしょう。少なくともそれは culture ではない。
建築家も「私」を超える必要?
やっぱり、これまでやってきたのは、「私」のためだった、ということ?
こういう指摘は、ことによると、揚げ足取りのように聞こえるかもしれません。
しかし、決して揚げ足取りではないのです。
なぜなら、揚げ足取りとは、言葉尻をとらえて言うこと。
私は、その「内容」、そういうことを言わしめた発言者の「思考」についての感想を述べているのです。
こういうことは、「建築の世界」では、何も言わずに「なあなあ」で済ますのが常です。
しかし、「なあなあで済ましてしまう」と、「建築家の世界」では、こういう無思慮な発言がまた繰り返されるのです。だから、敢えて言うのです。
だいたい、地震で、たとえそれが如何に想定外の巨大さであろうが、
そんなことで簡単に「思想」が変るなんて、私には理解不能。
「建築家」とは、気楽な稼業ときたもんだ・・・。
これらの「発言」は、「想定する」「仮定する」「検討する」・・・を「評価する」という語に置き換えて「満足する」のと同じ構造のように、私には見えるのです。
註 私は、「自然 vs 人間」「風土 vs 人間」・・・などのような二項対立的な考え方は「不得意」な人間です。
そんな考え方をすると、人間ではなくなってしまうように感じるからです。
先に、「建物をつくるとは、どういうことか」シリーズの第2回で、
道元の「・・・うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず・・・」を引用したのも、そのためです。
なお、このシリーズの全体は、
「建物をつくるとは、どういうことか-16」にまとめてあります。
[註記追加 27日 12.12][註記表記改訂 28日 16.52]
コメントがありました。
そのご意見の参考として、かつて書いた記事をリンクします。
「アンリ・ラブルースト・・・・architect と engineer 」
この文章を拝見し、妥当な御意見だと思いました。
もう少し「構造の重要性」について建築家の反省の弁が
聞きたかったのですが「建築家」からは一言も
「構造設計者」に対する期待や、奮起の弁が上ら無かったとは・・・
人命を確保する為の「建築の基本性能」である耐震性を
「今後の建築の基本路線とする」とは誰一人言わない・・・それで建築か?(家)
国にしてもしかり。また建築学会も同様
僅か20年程度で「既存不適格」となる耐震性能とは・・・
そんなもん、今だけ適合設計と・・・
当方も「建築防災協会の委員」として既存木造住宅の
耐震診断法の改訂作業に携わったが、あんな酷い委員会
次回の委員会は辞退したが・・・
当方の論文等を横取りしただけの委員会だった。
「建築家は絵描き」で有るともっと「国民」に対して伝えなければ・・・
本来のデザインとエンジニアの融合が「建築」となる事を。
これもあれも、根っこは同じ。目を部分にだけしか向けず、全体を見ない、あるいは全体が何かを考えない、そこに根っこがあると思います。もっとも、そういうのを根っこなどと言うのはおかしいのですが・・・。根っこと言うのは、そんないいかげんなものではない。
この点について、西欧近代初頭の話を書いたことがありますので、本文の方にリンク先を追加しました。