[文言追加 9日 11.52 17.34]
毎日新聞の元日・茨城版に、調理士養成専門学校の方の興味ある談話が載っていました。
・・・・・・古くから4里の中で取れたものを食べて生活すると、おのずと体は丈夫になるという
『四里四方』という言い伝えがあります。この中を走り回って材料を確保するから『ご馳走』と書く。
まさに『地産地消』の原点です。
全国各地においしい名産品がありますが、私は現地に行って食べればいいと思っています。
その土地の気候風土で食べるからこそおいしい。
日本の食料自給率の低さが問題視され、その観点から地産地消が推奨されています。
しかし、どうもこの発想は逆のように思えてなりません。
確かに自給率が高いにこしたことはありませんが、先ずは地元の旬の食材を良く知ること。
それは結果的に生産者と我々の生活を守ることにもつながる。
おのずと自給率は上がってくることでしょう。
(中川学園調理技術専門学校 真嶋伸二 実習部長 談)
私もまったく同感です。
建築の世界でも、林業の再生の為に、国産材を使って家を建てよう、国産材をたくさん使おう・・・・などと、「国」を挙げて叫ばれています。
「木を活かす・・・・協議会」などというのは、それに乗って一旗挙げようという「民間?」の動きにほかなりません。
これも順番が逆です。
木材を使わなくなった、国産材を使わなくなったのは何故なのか、それについて考える事が先ず先決だと私は思います。
そして、これも「国」をあげて、日本の本来の木造の建物* をつくるにあたり、
大きな制約・障害になっている建築関係の法規制を、
「簡単に」 に適用できるようにする、との名目で諸種の実験等が行われているのも、そのためなのです。
* いわゆる「伝統工法」です。
けれども、これも順番が逆、本末転倒の論理。
「日本の本来の木造の建物づくりを衰退させた」法規制そのものを検討し直すのが先なのです。
既存の諸種の法規制の中味ををそのままにしておいて、それを「保存・温存するため」に、
いろいろな「策」を講じる。
いま行なわれている「振動台実験」の目的も、その「策」のためのもの。
そもそも「日本の本来の木造の建物づくり」には「存在しなかった《理屈》」を、
「日本の本来の木造の建物づくり」に「適用」しようというのが、論理的に無理無体。
だから、「本来の木造の建物に《似たような》試験体」をつくるなど、実験に苦労しているのです。
これではますます辻褄のあわない「規制・制約」が増えるだけです。
これを世間では、普通、「姑息」と言います。
掛け違ったボタンは、早いうちに掛け直すのが普通の常識ある行動です。
もしも日本が、中近東や中国西域のような乾燥地帯* だったなら、人は建物を何を使ってつくったでしょうか。
* 最初から乾燥地帯であったわけではないようです。
あえて言えば、乾燥地帯に簡単になってしまう、そういう気候の地帯。
ギリシャも、元は森林国だったと言います。だから、木造に倣った石造建築が生まれた・・・
と言われています。たしかに、石を使うつくり方には思えません。
柱を先ず立て、柱と柱の間に、横材:梁を載せる。
横材を受けるため、柱よりひとまわり大きい「座」を設ける。
「座」:「柱頭、キャピタル」は、
木造の「斗」あるいは「肘木」と同じ理屈。
当然ですが、日本が乾燥地帯だったら、そのときは、先回紹介の中国西域や中近東あるいはアフリカ、南米などの乾燥地帯のように、「土」を使って建物をつくったでしょう。そして、まわりの土が、扱いにくい砂のような土だったならば、砂の元の「石」を使ったかもしれません。
だから、日本の建物づくりで「木」が使われたのは、「暖かな、人に優しい」材料だからではなく、「手近に木がたくさんあった」からに過ぎないのです。
もちろん、まわりには「土」も「石」もありました。
しかし、主材料としては、「木」の方が数等扱いやすかったからなのです。
これはいつの時代も、いつの日も同じだった筈です。
それがなぜ(近)現代になっておかしくなった、あたりまえにつくれなくなったのか。
そこに問題の根源があります。
いま木造振興を唱える人たちの《祖》が、ほんの少し前(1970年代)まで、木造からの脱却を
叫んでいたことを、多くの人が知りません。下記の冒頭の引用文参照。
これを説いて、20年も経つと宗旨替えをする節操のなさ。[文言追加 9日 11.52 17.34]
「20年前に考えていたこと・・・・なにか変ったか」
ところで、今でも、木材は木曽のヒノキ、吉野か秋田のスギ、何はどこそこの・・・・といった具合に、「有名な」材料を集めてつくるのがいい建物づくりだ、と思われているフシがあります。
しかし、これが普通の建物づくりだった、と考えるのは大きな間違いです。
こんな風なつくりが流行るようになったのは、幕末、明治初期からのようです。
武士の力が衰え、商家の力が増大すると、その中の一部の人たちに、そういう「流行」が生まれるのです*。
* 不思議に思うのは、近江商人の町では、それを見かけないことです。
普通の建物づくり、住まいづくりは、食べ物と同じく「四里四方」の材料でつくるのがあたりまえだったのです。
それは別に「地産地消」を考えたからではありません。
もちろん、林業の振興のためでもありません。
それはまったく、中国西域の人びとが、足元の土で住まいをつくるのと同じ、足元の、手近なところにある木を使ってつくったからに過ぎないのです。
もう一つ大事なことは、その際、必要以上の量の材料、必要以上に大きな、太い材料は使わない、という点です。
必要とする大きさの空間を確保できるに足る木材であればよいからです。
これは、土でつくる場合も同じです。
土の場合、必要以上の土を使うのは、労力の点でも無駄だからです。
考えてみればあたりまえです。この「判断」こそ、きわめて「合理的」と言うべきではないでしょうか。
その判断の「根拠」、今の言い方で言えば「基準」は、実際にものをつくる経験で培われたものです。
現場でものをつくる人びとは、「経験」から「理屈」を会得するのです。
実は、これこそが science の「原点・出発点」なのですが、現在の「科学」では、
多くの場合、この「原点・出発点」を忘れた「机上の空論」が蔓延っているのです。
建築という「ものづくり」にかかわる「科学」で特に著しいのは不可解です。
古代、多くの寺院は、奈良盆地近在の木材を使ってつくられました。以後、多くの寺院の材料も同様です。
その結果、平安時代末期(鎌倉時代初頭)、東大寺再建の際には、奈良近在ではすでに必要な木材はなくなっていて、遠く周防:山口まで材料を集めに行ったという記録が残っています(下記に載せた東大寺建立~再建の年表に、重源が木材を求め周防に赴いた記録があります)。
「日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震」
ただしそれは、寺院に使う大径木の話、一般庶民の材料は、まだ十分近在で得られたはずです。
奈良・今井町は難波に注ぐ大和川の近くにありますが、そこに材木商が店を構えています。
今井町・豊田家の前の持ち主の牧村家は材木商でした。
材木の取引がそこで行なわれたわけではなく、いわば本店業務、
実際の木材はさかのぼった上流の山地にあったようです。
そこで扱われたのは、おそらく、一般の建物用だったと考えられます。
今でも、今井町より上流にあたる桜井のあたりには多数の木材市場があります。
大分前に紹介した長野県塩尻にある「島崎家」* の材料について、「島崎家住宅修理工事報告書」には詳しく調べて報告されています。
*「日本の建築技術の展開-27」
「日本の建築技術の展開-27の補足」
下の航空写真は、「島崎家」のある塩尻周辺の航空写真です。
写真で分るように、塩尻は、標高約750m、日本列島の分水嶺になっているところです。
塩尻地内を流れる河川は日本海へ注ぎますが、少し南で峠を越えると、太平洋へ注ぐ天竜川(諏訪湖から始まる)、木曽川があり、いずれも古代以来の街道が通っています。それゆえ、塩尻は、古代以来の交通の要衝でした。
以前の記事内容と一部重複しますが、「島崎家住宅修理工事報告書」によりますと、柱には、居室部にはカラマツ、サワラ、一部にケヤキ、馬屋まわりにはクリが使われていて、この他6本のサワラの「転用材」が当初から使われています。いずれも130mm(4寸3分)角に整えられています。
「転用材」は、次のように他の部材にも使われていました。
大 引:マツ丸太、マツ平角の小屋梁の古材
根 太:サワラ心持材の棟木、母屋の古材を二つ割して使用
小屋梁:マツ、サワラ、クリ、カシの小屋梁の古材
小屋束:サワラの柱古材(正面の妻壁はカラマツの新材)の切断使用
小屋貫:サワラの貫の古材(正面はカラマツの新材)、材寸4寸×1寸
棟木・母屋:約3割がサワラの母屋・棟木古材
建替えにあたって、元の建物の材料を転用することはありますが、島崎家の場合は島崎家の前身建物の材ではなく、その形状、加工法、材種などから、これらの転用材は、島崎家と同規模の切妻板葺きの「本棟造」形式の1軒の建物に使われていた材料であろう、と推定されています。
なお、この旧建物は、母屋を柱が直接支える「棟持柱形式」* のつくりで、
妻梁はなく、横の繋ぎはすべて貫で、島崎家をはじめとする本棟造とは異なる姿をしていたようです。
* 棟持形式については、下記で触れています。
「続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家」」
当時、塩尻近在では「家売」「くね木売」がかなり行なわれていたという記録が残っており、古材の転用は、ごく普通に行なわれていたようです。
「家売」とは、農村の年貢収納などによる困窮で手放したもので、ほとんどは「くずし売」、つまり解体して「木材」として売却することを言うようです。
なかには8間×8間、6.5間×7間など、形から「本棟造」と思われる建屋の「家売」も見られます。
多分、島崎家に使われている古材は、こういう「家売」で手に入れたものでしょう。
「くね木」とは、垣根や屋敷内の樹木のことで、ケヤキやサワラが多く、元々、建築用材としてその家が育てていた樹木と考えられます。これらの樹木も、売りに出されていたのです。
「板屋、くずし売、6.5間×6.5間、くね木87本」などという記録もあります。
私の子どものころの住まいの近在の農家は、皆屋敷内にケヤキやスギ、ヒノキを持っていました。
現在暮している集落の農家でも、大きなケヤキやヒノキ、スギが屋敷内にあります。
木小屋に各種の木材を保管しているお宅もあります。修理、改築、新築のための用意です。
これらのことは、かつては、まさに「四里四方」で手に入れられる材料によって建物をつくるのがあたりまえであった、ということを示していると言ってよいでしょう。
塩尻の「四里四方」は、写真のように、森林です。サワラやカラマツは、天然ものが、地場の木としてたくさんあったのでしょう。
修理時には、カラマツの天然心持材は入手困難で、ネズコに代えたという。
ネズコ:黒檜(クロベ)、木曽五木の一。堅牢、耐朽性大。
すでに、天然カラマツは使い切っていた、ということだと思います。
各地に、多くの住居の遺構があります。それらは、東大寺再建のように、遠くまで材料を集めにゆくなどということはあり得ず、その建物をつくった頃、手近で得られる材料でつくられたはずです。
そこから逆に、その使用材種を調べると、建設当時の建設地周辺の植生が分るのではないかと思います。
その点から考えると、住居遺構は、できるなら現地で保存するのが最良なのです。
毎日新聞の元日・茨城版に、調理士養成専門学校の方の興味ある談話が載っていました。
・・・・・・古くから4里の中で取れたものを食べて生活すると、おのずと体は丈夫になるという
『四里四方』という言い伝えがあります。この中を走り回って材料を確保するから『ご馳走』と書く。
まさに『地産地消』の原点です。
全国各地においしい名産品がありますが、私は現地に行って食べればいいと思っています。
その土地の気候風土で食べるからこそおいしい。
日本の食料自給率の低さが問題視され、その観点から地産地消が推奨されています。
しかし、どうもこの発想は逆のように思えてなりません。
確かに自給率が高いにこしたことはありませんが、先ずは地元の旬の食材を良く知ること。
それは結果的に生産者と我々の生活を守ることにもつながる。
おのずと自給率は上がってくることでしょう。
(中川学園調理技術専門学校 真嶋伸二 実習部長 談)
私もまったく同感です。
建築の世界でも、林業の再生の為に、国産材を使って家を建てよう、国産材をたくさん使おう・・・・などと、「国」を挙げて叫ばれています。
「木を活かす・・・・協議会」などというのは、それに乗って一旗挙げようという「民間?」の動きにほかなりません。
これも順番が逆です。
木材を使わなくなった、国産材を使わなくなったのは何故なのか、それについて考える事が先ず先決だと私は思います。
そして、これも「国」をあげて、日本の本来の木造の建物* をつくるにあたり、
大きな制約・障害になっている建築関係の法規制を、
「簡単に」 に適用できるようにする、との名目で諸種の実験等が行われているのも、そのためなのです。
* いわゆる「伝統工法」です。
けれども、これも順番が逆、本末転倒の論理。
「日本の本来の木造の建物づくりを衰退させた」法規制そのものを検討し直すのが先なのです。
既存の諸種の法規制の中味ををそのままにしておいて、それを「保存・温存するため」に、
いろいろな「策」を講じる。
いま行なわれている「振動台実験」の目的も、その「策」のためのもの。
そもそも「日本の本来の木造の建物づくり」には「存在しなかった《理屈》」を、
「日本の本来の木造の建物づくり」に「適用」しようというのが、論理的に無理無体。
だから、「本来の木造の建物に《似たような》試験体」をつくるなど、実験に苦労しているのです。
これではますます辻褄のあわない「規制・制約」が増えるだけです。
これを世間では、普通、「姑息」と言います。
掛け違ったボタンは、早いうちに掛け直すのが普通の常識ある行動です。
もしも日本が、中近東や中国西域のような乾燥地帯* だったなら、人は建物を何を使ってつくったでしょうか。
* 最初から乾燥地帯であったわけではないようです。
あえて言えば、乾燥地帯に簡単になってしまう、そういう気候の地帯。
ギリシャも、元は森林国だったと言います。だから、木造に倣った石造建築が生まれた・・・
と言われています。たしかに、石を使うつくり方には思えません。
柱を先ず立て、柱と柱の間に、横材:梁を載せる。
横材を受けるため、柱よりひとまわり大きい「座」を設ける。
「座」:「柱頭、キャピタル」は、
木造の「斗」あるいは「肘木」と同じ理屈。
当然ですが、日本が乾燥地帯だったら、そのときは、先回紹介の中国西域や中近東あるいはアフリカ、南米などの乾燥地帯のように、「土」を使って建物をつくったでしょう。そして、まわりの土が、扱いにくい砂のような土だったならば、砂の元の「石」を使ったかもしれません。
だから、日本の建物づくりで「木」が使われたのは、「暖かな、人に優しい」材料だからではなく、「手近に木がたくさんあった」からに過ぎないのです。
もちろん、まわりには「土」も「石」もありました。
しかし、主材料としては、「木」の方が数等扱いやすかったからなのです。
これはいつの時代も、いつの日も同じだった筈です。
それがなぜ(近)現代になっておかしくなった、あたりまえにつくれなくなったのか。
そこに問題の根源があります。
いま木造振興を唱える人たちの《祖》が、ほんの少し前(1970年代)まで、木造からの脱却を
叫んでいたことを、多くの人が知りません。下記の冒頭の引用文参照。
これを説いて、20年も経つと宗旨替えをする節操のなさ。[文言追加 9日 11.52 17.34]
「20年前に考えていたこと・・・・なにか変ったか」
ところで、今でも、木材は木曽のヒノキ、吉野か秋田のスギ、何はどこそこの・・・・といった具合に、「有名な」材料を集めてつくるのがいい建物づくりだ、と思われているフシがあります。
しかし、これが普通の建物づくりだった、と考えるのは大きな間違いです。
こんな風なつくりが流行るようになったのは、幕末、明治初期からのようです。
武士の力が衰え、商家の力が増大すると、その中の一部の人たちに、そういう「流行」が生まれるのです*。
* 不思議に思うのは、近江商人の町では、それを見かけないことです。
普通の建物づくり、住まいづくりは、食べ物と同じく「四里四方」の材料でつくるのがあたりまえだったのです。
それは別に「地産地消」を考えたからではありません。
もちろん、林業の振興のためでもありません。
それはまったく、中国西域の人びとが、足元の土で住まいをつくるのと同じ、足元の、手近なところにある木を使ってつくったからに過ぎないのです。
もう一つ大事なことは、その際、必要以上の量の材料、必要以上に大きな、太い材料は使わない、という点です。
必要とする大きさの空間を確保できるに足る木材であればよいからです。
これは、土でつくる場合も同じです。
土の場合、必要以上の土を使うのは、労力の点でも無駄だからです。
考えてみればあたりまえです。この「判断」こそ、きわめて「合理的」と言うべきではないでしょうか。
その判断の「根拠」、今の言い方で言えば「基準」は、実際にものをつくる経験で培われたものです。
現場でものをつくる人びとは、「経験」から「理屈」を会得するのです。
実は、これこそが science の「原点・出発点」なのですが、現在の「科学」では、
多くの場合、この「原点・出発点」を忘れた「机上の空論」が蔓延っているのです。
建築という「ものづくり」にかかわる「科学」で特に著しいのは不可解です。
古代、多くの寺院は、奈良盆地近在の木材を使ってつくられました。以後、多くの寺院の材料も同様です。
その結果、平安時代末期(鎌倉時代初頭)、東大寺再建の際には、奈良近在ではすでに必要な木材はなくなっていて、遠く周防:山口まで材料を集めに行ったという記録が残っています(下記に載せた東大寺建立~再建の年表に、重源が木材を求め周防に赴いた記録があります)。
「日本の建物づくりを支えてきた技術-12・・・・古代の巨大建築と地震」
ただしそれは、寺院に使う大径木の話、一般庶民の材料は、まだ十分近在で得られたはずです。
奈良・今井町は難波に注ぐ大和川の近くにありますが、そこに材木商が店を構えています。
今井町・豊田家の前の持ち主の牧村家は材木商でした。
材木の取引がそこで行なわれたわけではなく、いわば本店業務、
実際の木材はさかのぼった上流の山地にあったようです。
そこで扱われたのは、おそらく、一般の建物用だったと考えられます。
今でも、今井町より上流にあたる桜井のあたりには多数の木材市場があります。
大分前に紹介した長野県塩尻にある「島崎家」* の材料について、「島崎家住宅修理工事報告書」には詳しく調べて報告されています。
*「日本の建築技術の展開-27」
「日本の建築技術の展開-27の補足」
下の航空写真は、「島崎家」のある塩尻周辺の航空写真です。
写真で分るように、塩尻は、標高約750m、日本列島の分水嶺になっているところです。
塩尻地内を流れる河川は日本海へ注ぎますが、少し南で峠を越えると、太平洋へ注ぐ天竜川(諏訪湖から始まる)、木曽川があり、いずれも古代以来の街道が通っています。それゆえ、塩尻は、古代以来の交通の要衝でした。
以前の記事内容と一部重複しますが、「島崎家住宅修理工事報告書」によりますと、柱には、居室部にはカラマツ、サワラ、一部にケヤキ、馬屋まわりにはクリが使われていて、この他6本のサワラの「転用材」が当初から使われています。いずれも130mm(4寸3分)角に整えられています。
「転用材」は、次のように他の部材にも使われていました。
大 引:マツ丸太、マツ平角の小屋梁の古材
根 太:サワラ心持材の棟木、母屋の古材を二つ割して使用
小屋梁:マツ、サワラ、クリ、カシの小屋梁の古材
小屋束:サワラの柱古材(正面の妻壁はカラマツの新材)の切断使用
小屋貫:サワラの貫の古材(正面はカラマツの新材)、材寸4寸×1寸
棟木・母屋:約3割がサワラの母屋・棟木古材
建替えにあたって、元の建物の材料を転用することはありますが、島崎家の場合は島崎家の前身建物の材ではなく、その形状、加工法、材種などから、これらの転用材は、島崎家と同規模の切妻板葺きの「本棟造」形式の1軒の建物に使われていた材料であろう、と推定されています。
なお、この旧建物は、母屋を柱が直接支える「棟持柱形式」* のつくりで、
妻梁はなく、横の繋ぎはすべて貫で、島崎家をはじめとする本棟造とは異なる姿をしていたようです。
* 棟持形式については、下記で触れています。
「続・日本の建築技術の展開・・・・棟持柱・切妻屋根の多層農家」」
当時、塩尻近在では「家売」「くね木売」がかなり行なわれていたという記録が残っており、古材の転用は、ごく普通に行なわれていたようです。
「家売」とは、農村の年貢収納などによる困窮で手放したもので、ほとんどは「くずし売」、つまり解体して「木材」として売却することを言うようです。
なかには8間×8間、6.5間×7間など、形から「本棟造」と思われる建屋の「家売」も見られます。
多分、島崎家に使われている古材は、こういう「家売」で手に入れたものでしょう。
「くね木」とは、垣根や屋敷内の樹木のことで、ケヤキやサワラが多く、元々、建築用材としてその家が育てていた樹木と考えられます。これらの樹木も、売りに出されていたのです。
「板屋、くずし売、6.5間×6.5間、くね木87本」などという記録もあります。
私の子どものころの住まいの近在の農家は、皆屋敷内にケヤキやスギ、ヒノキを持っていました。
現在暮している集落の農家でも、大きなケヤキやヒノキ、スギが屋敷内にあります。
木小屋に各種の木材を保管しているお宅もあります。修理、改築、新築のための用意です。
これらのことは、かつては、まさに「四里四方」で手に入れられる材料によって建物をつくるのがあたりまえであった、ということを示していると言ってよいでしょう。
塩尻の「四里四方」は、写真のように、森林です。サワラやカラマツは、天然ものが、地場の木としてたくさんあったのでしょう。
修理時には、カラマツの天然心持材は入手困難で、ネズコに代えたという。
ネズコ:黒檜(クロベ)、木曽五木の一。堅牢、耐朽性大。
すでに、天然カラマツは使い切っていた、ということだと思います。
各地に、多くの住居の遺構があります。それらは、東大寺再建のように、遠くまで材料を集めにゆくなどということはあり得ず、その建物をつくった頃、手近で得られる材料でつくられたはずです。
そこから逆に、その使用材種を調べると、建設当時の建設地周辺の植生が分るのではないかと思います。
その点から考えると、住居遺構は、できるなら現地で保存するのが最良なのです。
本年もよろしくお願い致します。
今年は、次のステップへ進みたいと考えています。
昭和30年代のことですが、私の兄が所帯を持つことになり、父は兄のため住宅を建てました。生家近くにあった納屋を解体して再利用していました。
私のいとこは大工をやっており、その方が中心となり、父も手伝い(かんな、ノミを扱っていました)ながら建てていました。戦後でも古材を使うと言うことは当たり前だったようです。
ちなみにGoogleマップで調べて見ますと、納屋があったところから移築した場所までの直線距離は約14kmでした。人の生活圏内と言うことですね。
毎日言ってきた(言わない時も多かった)言葉の意味を
知らなかった自分を恥ずかしく思いました。
意を凝らして相手に呈したい。
そのために四里四方を馳せる。
呈される方はその思いに応え
「ご馳走様でした。」
と相手に声をかける。
原点を知ろうと心がけていないと
その本当の味がわからないのですね。
もし、この言い伝えの「元」はどこらへんにあるのか、分ったらお教えください。