再検・日本の建物づくり-7:掘立ての時代から引継いだもの

2010-02-01 18:27:02 | 再検:日本の建物づくり
[文言追加 22.51]


きわめて長い時間をおくった「掘立て」の時代、人びとは多くの天変地異に遭遇したはずです。
そして、そのような天変地異にも負けずに生きてゆく方策も見出したでしょう。
もちろん建物づくりでも同じです。
日本という環境で、天変地異にも応えられる建物づくりの「根幹」「基本」は、その頃に見出されていたと考えてよいと思います。

寺院などの建物については、古代から遺構が現存していますが、一般の人びとの住まいについては、残念ながら、「掘立て」の時代から千年家:「古井家」「箱木家」までの間の遺構が存在しません。
したがって、その間の経緯については、「住まいをつくるという視点で想像してみる」しかありません。

「掘立て」の時代が途方もなく長いと言っても、人びとがいつまでも「竪穴住居」に安住していたとは考えられません。
地面よりも一段高い所の方が、「竪穴」よりも暮しやすいとの認識があって当然と思われるからです。

暮しの場を地面から一段高くする方法としては、土を段状に積み固める方法と、木材で床を組む場合があったと考えてよいでしょう。
土を段状に積む方法とは、先に紹介した中国西域で現在も行なわれている方法と同じです(写真をhttp://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/129999f445a867ee7ca2254e041fc62cに載せてあります)。
日本でも寒冷の地域では、土の保温性を活かせることと、隙間風が生じないなどの点で、近世まで普通に行なわれていたといいます。

  参考 日本の土座 第二次大戦前までは、普通に見られたといいます。


一方、地面は湿気を帯びやすいため、湿気が問題になりやすい地域では、かなり早くから木材で床を組む方法が行なわれていたと考えられます。

つまり、生活面を土で高くしたり、木材を組んで高くする方策は「掘立て」の時代からあった、と考えてよいと思います。

「掘立て」の建物で床を木で組む一番簡単なのは、おそらく、地面の上に木材を転がして並べ、その上に小舞や板を並べる方法です。
板は簡単には手に入れにくいため、15世紀末ごろの建設と考えられる「古井家」の「ちゃのま」と同じように竹を並べて竹簀子(たけすのこ)をつくったり、あるいは小枝を並べ、莚のような敷物を敷くのが普通だったかもしれません。

当然、柱と柱の間にも小舞や板を受ける木材:横材を据えることになります。
そのようなとき、単に転がして置くだけではなく、柱に固定することも考えたでしょう。
なぜなら、幾度か経験すれば、木材を転がすにあたって、はじめに高さの基準を決める必要があることを知り、基準は柱の通りに決めるのがよいことも知るはずだからです。

横材の固定の方法としては、はじめは木材を土や石で固める策を採ったかもしれませんが、すぐに、柱に横材より少し大きめの孔を穿ち、木材を嵌めこみ、隙間に埋木をする方策を考え出してもおかしくありません。その方がしっかり固定でき、基準としても確実だからです。

ここに想定した床をつくる方法は、「礎石建て」になってからの建物に多数の例があり、その諸例を基にした推量です。
以下に「礎石建て」の場合の例をいくつか挙げます。

奈良時代の建設とされる「法隆寺」の西院伽藍わきにある「妻室(つまむろ)」には、床に板が張ってあります(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/3846ea9d088099fb0c6d534e19df8bb7参照)。

この建物の場合、床がどのようにつくられているかは、図面が見つからず分りませんが、写真で判定するかぎり、地面に据えた石の上に横材:「大引(おおびき)」を転がし、その上に板を張っているものと思われます。床を張る一番簡単な方法です。   
     

外観の写真の柱間の足元に入っている横材は、後から柱間に置いた材:「地覆(ぢふく)」で、壁の足元を納めるとともに、床板を受ける役割をも持っていると考えられます。
したがって、転がした横材「大引」と、上面が同じ高さのはずです(と言うより、転がした横材の高さを、この「地覆」の上面にあわせた、と言う方が適切です)。
なお、室内側では、壁の見切り:幅木様の材:を別途設けているものと思われます。
   この材を「地覆」の内側だとすると、床のレベルは「地覆」の下端ほどになりますが、
   外観で見ると「地覆」と地面との距離がなく、別材と考えられます。

奈良時代の建物である「室生寺・金堂」の床も板張りですが、その床は、下の断面図のようになっています。
     
オレンジ色に塗った材が「根太」を受ける材:「大引」ですが、柱通りでは、「大引」の両端は柱の礎石上に載せられ(右側の「庇」部と「孫庇」部との境の柱では柱に納めてあるようです)、中途は石で支えています(「庇」部の中途は角材かもしれませんが不明です)。
多分、柱通りの「大引」は、単に柱の礎石に載っているだけではなく、何らかの形で、柱に噛ませてある(たとえば「大引」大の孔を浅く彫ってある、など)のではないかと思います。

さらに、法隆寺・伝法堂の床は、地面に転がすのではなく、一段高くする床の形式を採っています。下の図は、その分解図です。
   ただし、右側の囲んだ図の手前の柱の「床束」とあるあたりの図解は正しくないと思われます。
   多分、作図者が、描図の際、「地長押」と「床桁」との区分を間違えたものと思います。
   その部分については、左側の図を参照してください。その図にある板を受けている材が「床桁」です。
   この「床桁」を受ける「床束」が、柱の内側にあります。

この建物では、柱と柱の間に設けられた「床桁」に、以降のような「足固め」の意識はないものと思われます。
しかし、結果として、このような簡単な納め方でも、柱脚部の柱間に入れられた材が、思った以上に架構を固めることを知ったのではないでしょうか。


以上見てきた礎石建て建物で行なわれている床組の方法は、何も寺院建築特有の方法ではなく、当時の一般の人びとの間でもあたりまえの方法であったように思えます。

たとえば、15世紀末の「古井家」では、「大引」を石で受ける方法が採られています。これは、おそらく、ごく普通に行なわれていた方法だと思います。
下は、「古井家」の梁行断面図と解体修理の際、「おもて」の床板を剥いだ時の写真です。いずれも「修理工事報告書」からの転載、ただし、図面には手を加えてあります。

図でオレンジ色に塗った部材は、丸太の「大引」で、地面に自然石を積んで支えています。1/2間ごとに入っていて、梁行の柱通りは「足固め」を兼ねています。
なお、断面図には描かれていませんが、中央の柱列(桁行方向)には、床レベルに「足固め」の「貫」が入っていることが写真で分ります。「大引」は丸太、「根太」との取合いでは欠き込みで床面を調整しています。

[以下 文言追加 22.51]
「大引」を支えるには、おそらく、「室生寺」のような方法、あるいは「束」で支える方法なども一般の人びとの住まいでも用いられていたと思われます(その古い例がないだけなのではないでしょうか)。

   註 「日本建築辞彙」によると
      大引:尾引とも云ふ。地層床の根太を承ける横木にして束上にあり。
          英語:sleeper
          大帯木なりといへる説あり、又大負木なりともいふ。
      根太:床板を承くる横木。
          英語:bridging joist, floor joist, joist   [文言追加 了]


以上は、「礎石建て」の場合の例。
この「礎石」の上端を「地面」と考えれば、同じようなことが「掘立て」の建物の場合でも行なえたと考えられます。
と言うより、そのような体験が「掘立て」の時代にあったからこそ、「礎石建て」になっても行なえた、と考えた方がよさそうです。
いつでも「一から始める」ということはないはずだからです。
   註 現代人(のある部分)は、すべて新たに「一から始められる」、と考えているようです。

そして「掘立て」から「礎石建て」への移行も、おそらくスムーズに行なえたと思われます。
なぜなら、「掘立て」の時代に床を木を組むことを通じて、柱の足元が床組などで固められれば(柱の上部だけではなく下部も横材で繋がると)、仮に柱の脚部が腐朽で地面を離れても、風に吹かれてもそのまま移動する、地震に遭っても形を維持している・・・・、つまり、「地上部の立体に組まれた架構」は安定している、ということを体験で知っていたはずだからです。


以前に、法隆寺の建物の礎石を例に出しました。
そこでは、柱を礎石の上に立てるために、礎石に孔を穿ち、柱の側の「太枘(だぼ)」を落し込むようにしたり、逆に、礎石の側に枘をつくりだし、柱側の孔を納める、などの工夫がなされていました。
    
ところが、1190年(平安時代~鎌倉時代の過渡期)に建てられた浄土寺・浄土堂では、そのような用意はまったくされていません。
下は、すでに浄土堂の解説の際にも載せた、柱の底部の写真ですが、平らです。礎石の上部が平らに均されていて、柱はその上に置いてあるだけ、ということになります。
        

なぜ、12世紀末には柱を礎石に置くだけになったのでしょうか。
その理由は、床を張るか否かの違いに拠ると考えられます。
浄土堂の建て方手順の解説ですでに触れましたが(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/46152cfa4f8c9450e6fbdfe2c9d99745)、浄土堂では、柱間20尺の3間四方の平面に対して、縦横に「足固貫」が入れられていて、しかもその組込みは建て方の最終段階でした。最終段階で、「足固貫」を組込むことで、柱間を設定どおりの位置に調整可能だったのです。
一方、床を張らない法隆寺の時代には、柱位置の建て方終了後の調整は難しく、はじめに柱位置を設定箇所に据える必要があったのだ、と考えられます。「太枘(だぼ)」は、定位置確保のための用意と考えることもできるのではないでしょうか。
もしかすると、「長押」は(特に「地長押」は)、「大引」や「足固め」の役割を担う材として発案されたのかもしれません。

   なお、法隆寺も浄土寺・浄土堂も、礎石建てにしてもなお柱脚の湿気・腐朽を気にしています。
   これは、日本の工人たちが、時代を越えて木材の腐朽防止に如何に腐心してきたか、を如実に示しています。
   一方でこれは、現代、最もないがしろにされていることの一つです。


以上、想像に想像を重ねてみました。

要は、建物の架構を「立体に組上げる」という発想・構想(これこそが、日本という環境で育てられた「日本の木造建築の真髄」だと思うのですが)は、「掘立て」の時代からの長い長い体験の積み重ねの中で会得されたものだ、と考えてよいのではないか、ということなのです。

そして、そうやって見てくると、架構を各面に分解し、各面に耐力部を用意することで架構の安定化を図る、などという現代の理論が、浅ましく見えてきてならないのです。

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室生寺金堂の天井 (加藤英之)
2013-12-03 14:07:52
初めまして。趣味で古建築に興味があり、貴方のブログを楽しく拝見しております。
昨日室生寺に行きました。室生寺金堂の内陣の天井は、どの様な構造になっているのでしょうか。これは、組入天井なのでしょうか、それとも小組格天井なのでしょうか?
又、貴方の図面では、桔木が使用されているように見えますが、いつ頃の修理で入れたのでしょうか?
自分にとっては専門外のことで、御教示頂ければ幸甚です。
返信する
お答え (筆者)
2013-12-04 16:10:16
「日本建築史基礎資料集成 五 仏堂Ⅱ」に「室生寺金堂」について、詳細な解説が載っています
この建物は、創建以来、ときどきの信仰の様態に応じた改造、増築が、中世、近世に為され、明治にはいわゆる「文化財修理」もなされているようです。
同書によれば、天井は「組入天井」です。ただし、創建時には、「化粧屋根裏」であったとのこと。
「桔木」は、「孫庇」が設けられたときに用いられたようですが、時期については諸説あるらしい。

いずれにしろ、前掲書をご覧ください。大きな図書館にあると思います。国会図書館の複写サービスも受けられます。
私も室生寺に魅かれますが、それは、個々の建物だけではなく、「既存の自然地形に対する繊細な理解に基づく空間構成」が素晴らしいからです。そして、関わった人々が、代々、その「理解」を継承してきた、これも素晴らしいことです。人びとにとって、単なる鑑賞の対象ではなかったのです。建物は、鑑賞のためにつくられるのではない、ということを示すいい事例なのです。
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ご回答有難うございます (加藤英之)
2013-12-04 22:43:12
素人の要領を得ない問合わせに暖かくご回答頂き有難うございます。
何を調べればよいのかも御教示頂き、重ねて御礼申し上げます。
室生寺の金堂は、外陣の側面が連子窓となっていますが、内陣は、雨風から防がれているのでしょうか。
深い軒と周囲の杉林があるから大丈夫なのでしょうか。
返信する
再び、お答え (筆者)
2013-12-05 09:34:08
外陣のつくりかた、もしも貴方が室生寺建立の時代の人であったとしたら、どのようにしようと思いますか?そこに答があります。その答のありようは、素人も「専門家」もありません。
返信する
御礼 (加藤英之)
2013-12-06 21:15:27
お忙しい処を有難う御座います。
自分でよく考えて見ます。
以上。
加藤拝
返信する
土座と土下座と天皇陛下 (ishigoro)
2014-05-24 13:09:01
昨年仕事で京都御所を見学してきました。

 清涼殿の正面向かって左側に、床が漆喰になっている「石灰壇〔いしばいのだん〕」という部屋がありました。

 この部屋以外は床を張っているのですが、ここだけ地面を床面にそろえて築いています。

土間を床面の高さまで築くというのが不思議に思いましたが、こういう例は民家建築にもあったのですね。


ちなみに、
天皇陛下はここで、頭を地面に付けて、国の平和と万民の幸せを祈るという説明を受けました。

自分のためではなく、人のために祈るのだと。

「土下座」をしているわけですが、「土下座」がある種の特別な行動とされる由来がここにあるのではないかと思いました。
返信する

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