ここしばらく、選挙の一票の「格差」がまた話題になっています。
要は、人口の少ない地域の票と、多い地域の票では、一票あたりに「不公平」がある、憲法違反である、という論。
これについては、07年の6月8日に書いたことと、私の考えは今もまったく変りありません(「数値の軽重・・・・数の大小でものごとは決まるか?」)
そして先日、TVのアーカイブでみた、北海道・二風谷(にぶたに)でのダム建設をめぐるアイヌの人びとの反対抵抗運動に際して、運動の先頭に立たれていた方(亡くなられましたがアイヌの存在と人権を強く説いてきた有名な方です)の話された言葉は印象的でした。
「民主主義とは、多数が少数を見捨てることなのか。」
ひんしゅくを買うであろう言い方をさせていただくと、「一票の格差」論を聴くたびに、私は、「満員電車を何とかしてくれ」という都会の人たちの言う「愚痴」と変りはないな、といつも思うのです。
そのとき、「何とかしてくれ」と不満をぶつける人たちの脳裏に、はたして、鉄道やバスが運行をやめてしまった地域の人びとの「不満」への思い遣り、気遣いが、多少でも浮かんだことがあるでしょうか?
多分、ないでしょう。なぜなら、もしもあるなら、そんな「身勝手な」発想は浮かばないはずだからです。
今は、採算がとれない鉄道やバスは、廃止するのがあたりまえになっています。
明治のころ、全国各地に鉄道が敷設されました。その鉄道は、どこも採算がとれたのでしょうか?
そんなことはありません。しかし、敷設したのです。費用は、時の政府が負担。そういう時代があったのです。
採算が合うか合わないかだけが判断基準になってからというもの(そのようになったのは、そんな遠い昔ではありません)、採算のとれることの一要因、員数の点で、人口の多い都会の「考え方」が、少ない地域:町や村を傷めつけるようになったのです。
大きいことはいいことだ?!それは単に、数が多いというだけの話。
私は以前、都会では、電車が混む、道は渋滞する、空気が汚い、・・・を問題にすることがおかしい、と言ったことがあります。
なぜなら、そのような状況は、なるべくしてなった、つまり、そこにすべてが集中したからこそ生じたもの。
その根本的な「因」を放置しておいて文句を言うのは理が通らない、と。もっと言えば、甘受してしかるべきなのでは、と。
それはけしからぬ、と思うならば、常に時刻表を持って歩き、時計を気にしながら行動する地域があること、一日に数本しかバスが来ない地域があること、あるいはそのバスさえ廃止されてしまった地域が多数あること・・・・、それに気付き、思い遣らなければウソというもの。
そのように私は思うからです。
つまり、「一票の格差」を憲法違反と言うならば、より根本的に、都会への人口の集中は、「多数決」「採算性」の理屈で、いわゆる「過疎地」の人びとの健全な生活を、否応なく破壊している、という点で、より一層憲法に違反している、と言わなければ筋が通りません。
阪神・淡路震災のとき、神戸の市街の道幅が狭く、消防自動車が火災現場に近づけなかったため火災が大きくなった、という報道をよく聞いたものです。
私はそのとき、それはおかしい、道幅が狭いのが分っていたのなら、なぜ小型の消防車を常備しておかなかったのか、と思ったものです。火災が大きくなったのは、単に道幅が狭かったからだけではないはずです。
だからと言って、神戸では「復興」にあたり道幅が広げられ、建物は高層化され、
「道」をはさんで繁く見られた近隣のお付き合いはできなくなってしまいました。
農村地域では、狭い道幅のところに対応するため、小型の消防車を常備するのがあたりまえ。その上、水道が普及する以前につくられた防火用水槽(地下)が、今でも現役です。
そして、阪神・淡路地震以来、都市の防災への備えが叫ばれています。「耐震」化もその一つ。
なぜ、都市の防災が問題になるかといえば、やはりその主因は人口の集中とそれにともなう過密化が、一旦災害が起きたとき、被害を雪だるま的に増大させるからです。
しかも、都市の多くは、きわめて地盤が悪い。しかも、都心と言われる場所ほどひどい。それを承知の上で、「技術」に頼り切って密度濃く人が暮す。
そういう「危険地帯」の「耐震基準」が、安全な地域にまで「適用」される。私はこれはムダツカイではないか、と思っています。
あまりにも、本末転倒の論が多すぎるのでは、と私は思います。
そんなことを考えるのは、「世間からはずれた」私だけかと思ったらそうではなかった!
3月21日の毎日新聞「書評」欄に、注目すべき書の評が載っていました。全文を転載します。
評者は中村桂子氏。私は、本書を読んでいませんが、読んでみたくなりました。
著者は数学者とのことですが、こうしてみると、これまでにも紹介してきましたが、
数学者や物理学者などの「自然科学」畑の方がたには、「複雑な事象」は「複雑な事象として、あるがままに観よう」「あるがままに観たい」、という「意識」が常にあるようです。正真正銘の「理系」です。
ところが、建築をはじめ、社会とかかわりの深い分野の「工学」畑の人たちは、どういうわけか、「複雑な事象」を「モデル」化して先を急ぎたがる。
しかもそのとき、その「モデル」が「適確であるかどうか」の検証は、常に「そこそこで済まされる」。
どうしても「工」学畑の人たちは、「理」よりも「利」に走るらしい。そしてそれは、この書の著者によると、世界的な傾向のようなのです。
自然科学の方法論の真似事をしてみても、それだけでは、科学ではないのです。
事象に対応できる適確なモデル化なしの「研究」は、科学ではないのです。自然と社会の「複雑さ」を認識する(先だけを急がない)地道な努力を、との評者の言に、私も賛意を表します。
要は、人口の少ない地域の票と、多い地域の票では、一票あたりに「不公平」がある、憲法違反である、という論。
これについては、07年の6月8日に書いたことと、私の考えは今もまったく変りありません(「数値の軽重・・・・数の大小でものごとは決まるか?」)
そして先日、TVのアーカイブでみた、北海道・二風谷(にぶたに)でのダム建設をめぐるアイヌの人びとの反対抵抗運動に際して、運動の先頭に立たれていた方(亡くなられましたがアイヌの存在と人権を強く説いてきた有名な方です)の話された言葉は印象的でした。
「民主主義とは、多数が少数を見捨てることなのか。」
ひんしゅくを買うであろう言い方をさせていただくと、「一票の格差」論を聴くたびに、私は、「満員電車を何とかしてくれ」という都会の人たちの言う「愚痴」と変りはないな、といつも思うのです。
そのとき、「何とかしてくれ」と不満をぶつける人たちの脳裏に、はたして、鉄道やバスが運行をやめてしまった地域の人びとの「不満」への思い遣り、気遣いが、多少でも浮かんだことがあるでしょうか?
多分、ないでしょう。なぜなら、もしもあるなら、そんな「身勝手な」発想は浮かばないはずだからです。
今は、採算がとれない鉄道やバスは、廃止するのがあたりまえになっています。
明治のころ、全国各地に鉄道が敷設されました。その鉄道は、どこも採算がとれたのでしょうか?
そんなことはありません。しかし、敷設したのです。費用は、時の政府が負担。そういう時代があったのです。
採算が合うか合わないかだけが判断基準になってからというもの(そのようになったのは、そんな遠い昔ではありません)、採算のとれることの一要因、員数の点で、人口の多い都会の「考え方」が、少ない地域:町や村を傷めつけるようになったのです。
大きいことはいいことだ?!それは単に、数が多いというだけの話。
私は以前、都会では、電車が混む、道は渋滞する、空気が汚い、・・・を問題にすることがおかしい、と言ったことがあります。
なぜなら、そのような状況は、なるべくしてなった、つまり、そこにすべてが集中したからこそ生じたもの。
その根本的な「因」を放置しておいて文句を言うのは理が通らない、と。もっと言えば、甘受してしかるべきなのでは、と。
それはけしからぬ、と思うならば、常に時刻表を持って歩き、時計を気にしながら行動する地域があること、一日に数本しかバスが来ない地域があること、あるいはそのバスさえ廃止されてしまった地域が多数あること・・・・、それに気付き、思い遣らなければウソというもの。
そのように私は思うからです。
つまり、「一票の格差」を憲法違反と言うならば、より根本的に、都会への人口の集中は、「多数決」「採算性」の理屈で、いわゆる「過疎地」の人びとの健全な生活を、否応なく破壊している、という点で、より一層憲法に違反している、と言わなければ筋が通りません。
阪神・淡路震災のとき、神戸の市街の道幅が狭く、消防自動車が火災現場に近づけなかったため火災が大きくなった、という報道をよく聞いたものです。
私はそのとき、それはおかしい、道幅が狭いのが分っていたのなら、なぜ小型の消防車を常備しておかなかったのか、と思ったものです。火災が大きくなったのは、単に道幅が狭かったからだけではないはずです。
だからと言って、神戸では「復興」にあたり道幅が広げられ、建物は高層化され、
「道」をはさんで繁く見られた近隣のお付き合いはできなくなってしまいました。
農村地域では、狭い道幅のところに対応するため、小型の消防車を常備するのがあたりまえ。その上、水道が普及する以前につくられた防火用水槽(地下)が、今でも現役です。
そして、阪神・淡路地震以来、都市の防災への備えが叫ばれています。「耐震」化もその一つ。
なぜ、都市の防災が問題になるかといえば、やはりその主因は人口の集中とそれにともなう過密化が、一旦災害が起きたとき、被害を雪だるま的に増大させるからです。
しかも、都市の多くは、きわめて地盤が悪い。しかも、都心と言われる場所ほどひどい。それを承知の上で、「技術」に頼り切って密度濃く人が暮す。
そういう「危険地帯」の「耐震基準」が、安全な地域にまで「適用」される。私はこれはムダツカイではないか、と思っています。
あまりにも、本末転倒の論が多すぎるのでは、と私は思います。
そんなことを考えるのは、「世間からはずれた」私だけかと思ったらそうではなかった!
3月21日の毎日新聞「書評」欄に、注目すべき書の評が載っていました。全文を転載します。
評者は中村桂子氏。私は、本書を読んでいませんが、読んでみたくなりました。
著者は数学者とのことですが、こうしてみると、これまでにも紹介してきましたが、
数学者や物理学者などの「自然科学」畑の方がたには、「複雑な事象」は「複雑な事象として、あるがままに観よう」「あるがままに観たい」、という「意識」が常にあるようです。正真正銘の「理系」です。
ところが、建築をはじめ、社会とかかわりの深い分野の「工学」畑の人たちは、どういうわけか、「複雑な事象」を「モデル」化して先を急ぎたがる。
しかもそのとき、その「モデル」が「適確であるかどうか」の検証は、常に「そこそこで済まされる」。
どうしても「工」学畑の人たちは、「理」よりも「利」に走るらしい。そしてそれは、この書の著者によると、世界的な傾向のようなのです。
自然科学の方法論の真似事をしてみても、それだけでは、科学ではないのです。
事象に対応できる適確なモデル化なしの「研究」は、科学ではないのです。自然と社会の「複雑さ」を認識する(先だけを急がない)地道な努力を、との評者の言に、私も賛意を表します。