「知見」はどうして得られるか・・・・「構想」と「理論」

2010-03-19 20:06:48 | 論評

1674年建設の「椎名家」小屋組 この架構の「構想」を生んだのは、土地の大工さんの「知見」である
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建築の仕事にかかわる若い人に、長方形の断面をした木材:通称平角材:を梁に使うとき、縦に使うのと横に寝かせて使うのでは、縦に使う方が効率がよいが(より重いものを載せられるが)、それはどうして?と尋ねると、たいていの場合、縦に使う方が「断面二次モーメント」が大きいからだ、と答えます。これは、若い人に限らない。
さらに、それはどうしてですか、と尋ねると、たいてい、そこで答に窮します。

   断面二次モーメントというのは、断面の形に固有の定数で、
   幅が b 高さが h の長方形の場合、[ b ×( h の3乗)÷12]で計算される、とされています。
   縦に使う場合だと b < h 、横に使う場合は b > h ですから、
   縦に使う場合の数値が大きくなることが分ります。
   だから、それによって、縦に使う方が効率がよい、と判断できるわけです。

   そして、縦に使う方が効率がよいということを、
   計算してみないと分らないという人が、最近増えているのです!
   日常で、そういう現象を経験したことがない人、あるいは、
   経験しているはずなのに、そこから「知見」を得ていない人が増えている、
   ということです。

このような、材料の持つ性質が生むいろいろな「現象」は、現在は一般に数式をもって示されます。
そして、
多くの場合、その数式は「その現象の生じる理由」を示している、たとえば、断面二次モーメント値が大きいから重い荷に耐えられる・・・などと理解されているように見受けられます。
しかし、それらの数式は、決して、「その現象の生じる理由を示しているのではない」ということを、あらためて確認する必要があるのではないか、
と私はかねてから思っています。なぜなら、そういう認識が、多くの誤解の基になっていると思えるからです。

すなわちそれは、「理由」を示しているのではなくて、そういった「現象」を、「数式をもってアナウンスしている」に過ぎないのです。
つまり、平角材は縦使いの方が荷に耐えるよ、・・・・などと「日常語」で語られる「日常の常識的現象」を、そういう「日常語」の言い回しではなく、名アナウンサーが格好良く描写しているにすぎない、ということ。
そして、これがきわめて大事なことなのですが、名アナウンサーの格好良い描写が生まれる以前から、「日常語」はあったという「事実」に気付かなければなりません。

たとえば、断面二次モーメント、つまり材料の断面の形とその強さの関係。
平角材の場合、縦使いが横寝かせ使いよりも重い荷に耐えることは、日常の暮しの中での経験で(昔の人は)皆知っていた。
そして、縦にしろ横にしろ、角材に物を載せると撓み、その荷が重過ぎると、最後は折れる。そのときの様子、すなわち角材の下側にささくれた割れが入ることから、下側が引張られていることを知る。
これは、角材ではなくても、例えばあたりに転がっている木の棒:丸太から木の枝まで多種多様:を曲げることからでも分ったでしょう(角材というのは加工が必要だから、むしろ、経験としては、こちらの方が先だったはず)。
そしてまた、同じ木の棒でも、中が詰まっていないで空洞に近いものもある。そしてその方が、中の詰まっている棒よりも、意外と曲げに耐える、などということも経験したはず。
・・・・・・
こういった数々の「事象」「現象」を、人びとは、あたりまえのように日常の暮しの中で経験し、そして得た「知見」を、日常の暮しのなかの「ものづくり」にふたたび応用、活用してゆく、・・・・これが人びとの暮しの姿であったはずです。


そして、こういう日常の暮らしの中で得た「知見」が、かのジェームス・ワットをして、「構造力学」が生まれる前に、世界最初の I 型鋼の使用を思い付かせたのですhttp://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4e20811a5310328a715054d0bdf9c0f6)。

   物体を曲げると、物体にどのような現象が生じるか、
   消しゴムを使って説明している構造力学の本があったことを思い出しました*。
     * 和泉正哲著「建築構造力学」(培風館 刊)
   曲げられた内側には押されてシワが、外側にはヒビ割れのシマが生じる。
   内側は縮んで、外側は伸びている。
   ならば、中央部分には、伸びも縮みもしない部分(中立面)があるはずだ。
   そして、ゴムだから曲るが、堅い材質の物体だったら、曲げが大きくなると、ヒビが入り割れてしまう。
   中味の詰まった棒が中空の棒よりも曲げに弱いのも同様の現象によるわけです。

人びとが日常の暮しのなかで得た「知見」は、こういう材料単体に生じる「現象」だけではありません。
人びとは、いろいろな材料を組み合わせて生活に必要な「もの」をつくります。建物などもその一例です。

そういう「もの」をつくる作業を通じて、人びとは、「組み合わせ方で生じる現象」をも体験します。簡単に言えば、こうすると頑丈な「もの」になり、こうするとこんな欠陥が生じる・・・・等々の体験です。
しかし、この「組み合わせ方で生じる現象」は、材料単体のときとは違って、簡単には「定型の知見」にはなりません。「生じる現象」は「組み合わせ方」によって異なるからです。
しかし、人びとは「定型の知見」を得ている。
では、人びとは、「組み合わせ方で生じる現象」についての「知見」に、どうやって到達できたのでしょうか。

それはきわめて単純な経験によったのです。すなわち、失敗の連続。
ただし、ただ単に失敗したのではありません。
何かをするとき、何の「構想」もなしで作業をするわけがありません。

   註 「学」を学んでしまった若者は、「学」こそ最高と考えるがゆえに、
      梁の断面は何で決めるのか、と問うと、計算で決める、と答えます。
      計算は、「構想」を「事後確認」できるだけだよ、と言っても信じません。
      これが「現実」なのです!

たとえば、手近にある木で住まいをつくるとしましょう。
何とか手に入った木で、「空間」をつくってみようと考えます。そのときつくりたい「空間」の「構想」はあるはずです。それは多分、あたりの自然の中に見付けた空間での「経験」から生まれたイメージです。

おそらく、地面に木を立てる:埋める・突き刺す・叩き込む:ことは容易に思いついたはず。なぜなら、まわりには地面から生える樹木があるのだから・・・。それにどうやって別の木を寄りかからせるか(掛け渡すか)、その方法もあたりの状景からヒントを得る。・・・そういう繰り返しで、とにかく「空間」はできあがる。ときには失敗する。うまく行く。・・・・。
「構想」⇒「失敗」、「構想」⇒「成功」、・・・・こういう経験を何度も繰り返せば(しかもそれを、一人ではなく、いろいろな人が試みるのです)、そこに、同じ方式のつくりかたの中でも、どういう風につくるのがより良いか、自ずと分ってきます。それが、その方式のつくりかたの「定型の知見」となるのです。

一たびその「知見」が得られると、その「応用」も可能になります。
それを可能にするのは、これもまた人びとの「構想」です。つまり「想像力」です。
ああしてこうなったのだから、こうすればああなるだろう・・・、そしてやってみる、失敗する、また試みる、うまくいった・・・・。
そしてさらに「知見」は増強され、失敗を重ねないでものをつくることを知るのです。つまり、「失敗」も「想像できる」ようになる。

すでに見てきたように、日本の木造建築の構築技術は、近世までに、ほぼゆるぎない形にまで体系化されていますが、それもまた、上記のような過程を経て到達したものと考えてよいでしょう。
重要なことは、「進展」にあたっては、常に「構想」がある、ということです。
そしてその「構想」は、誰かに教えられて、ではなく、まして、「教科書」があって、でもなく、唯一、「己の感性によって生まれる」のだ、という事実です。
そして、そのような「構想」なしに「ことが為される」ようになったとき、
言い換えれば惰性で仕事がなされるとき、
さらに簡単な言い方をすれば、仕事がマニュアル化してしまったとき、
そのときは沈滞するのです。清新でなくなり、溌剌さも失われる
のです。


ここしばらく、「清新で溌剌とした時代」の生みだした例として、19世紀末~20世紀初頭のいくつかの仕事を紹介してきました。
また、「最高の不幸は理論が実作を追いこすときである」というレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉もあらためて引用・紹介しました。
それは、まさに今、私たちが、私たちの日常の中で「身をもって得た知見によって立てる構想」が、「科学」や「理論」と称する一連の「意見」によって、その存在を否定されるのがあたりまえになっている、と私には思えるからでした。

そしてそれが、決して私の「思い過ごし」ではないことを、先にシドニー・オペラハウスについて書いた記事(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/6530109a114b0b97070a9388653795a7)へいただいたコメントで知ったのです。
そのコメントは、以下のような内容です。原文のままですが、読みやすいように段落は変えてあります。

   馬鹿か!! (Unknown)
     2010-03-17 03:53:35
   最終実施案の形態ですらアロップは苦労している。
   あなたに、あの原案を解析できる素養がありますか?たまたま見たこのブログを読むと
   なんとまあ独りよがりの記述だなぁ、と感じてしまいます。
   解析技術も知識も無いのだったら思いつきで物事言わないことです。
   エセ建築家が建築界の品格を下げるだけです。

私のこのコメントについての「感想」は、当該箇所に書きましたが、簡単に言えば、このコメントに今の建築界に暮す(一部の)人びとの深層に潜む「思考」を見て取ったのです。

コメントの指摘のとおり、私は、建築構造の最新の「解析手法」(コメントでは解析「技術」とありますが、それは「技術」ではなく「手法」に過ぎません)もその「知識」もありません。

ただ、何度も書いてきていますが、私は、いわゆる最新の「構造解析」を支える「理論」は、「実際の事象: reality 」を「見やすいように変形して」組立てられているのだ、という「事実」については「よく知っている」つもりです。
そしてそうだからこそ、「解析手法」なるものへ「拒否反応」を示してきたのです。
すなわち、「その手法による結果」は「実際の事象: reality 」からかけ離れてしまうのが目に見えている、そういう「流れ」には身を任せたくない・・・・。そして、大げさに言えば半世紀以上、その思いは変っていません。

今、「見やすいように」と「優しい」言い方で書きましたが、本当のところは、「都合のよいように」と言うべきでしょう。
どういう「都合」か?
「数式にのる」「数値化できる」、そういう「都合」です。
数値化できないものは、存在しないものとして扱われているのです。恰好よく言うと「捨象」されているのです。
私はこれを、「工」学に於ける「物理学の悪しき真似事」と見ています。

この点については、すぐれた先達の論を以前に紹介させていただいています「厳密と精密・・・・学問・研究とは何か」)。

ものごとが「複雑な数式」と「詳細な数値」をもって語られるとき、人は、その黒白の判別しやすい数字のために、ただそれだけのゆえに、言われていることが真実であるかに思い込まされてしまいがちです。
なぜか。反論するにも数値がないとダメ、と言われるからです。
そしてそれをいいことに、この人たちは傲慢・不遜になる。(数字を)何も知らない奴は黙っていろ・・・。


普通の人は素直ですから、数値化できないものは数値化できない、だからと言って、存在しないと思っているわけではない。どうやって数値化しろ、と言うのだ・・・・。と「当惑している」に過ぎません。
本当はそうではない、「論理的な反論」を行なえばばよいのですが、「論理的な反論」をも数字で示さないと理解しないのがこういう人たち:数字信仰の人たちです。
これほど始末の悪い人たちはいないのです。
しかし自らは「科学的な思考」の持ち主だと「自負」している。ますます始末が悪い・・・。


そして、この人たちが勝手につくりだした「実際の事象: reality に即しない多くの数字」が、人びとの「構想」の妨げになってきていることは、もうすでに何回も触れてきました。

私たちは、このような傲慢・不遜な人たちの差配から自由になるため、私たちの「日常の感覚の世界」を取り戻さければならないのです。
そして、そのためには、私たちの「日常の感覚」、私たちが日常の暮し、日ごろの体験・経験のなかで行使している私たちの「感覚」を信じることだと私は思います。


私はここで、これも以前に書いた記事(http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/da3c8c6233618b3417567b4f8433dfca)で紹介した理論物理学者の言葉を思い出しています。以下に再掲します(抜粋)。

「・・現代物理学の発展と分析の結果得られた重要な特徴の一つは、自然言語の概念は、漠然と定義されているが、・・理想化された科学言語の明確な言葉よりも、・・安定しているという経験である。
・・既知のものから未知のものへ進むとき、・・我々は理解したいと望む・・が、しかし同時に「理解」という語の新たな意味を学ばねばならない。
いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない・・。
というのは、そこにおいてのみリアリティに触れていることは確実だからで、だからこの自然言語とその本質的概念に関するどんな懐疑論にも、我々は懐疑的でなければならない。・・」
(ハイゼンベルク「現代物理学の思想」富山小太郎訳 みすず書房)

(建築)「工」学の人びとは、そろそろ「物理学」の「形だけの真似事」をやめる時期に来ているのではないでしょうか。
コメント (1)
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