La gran familia / ばくだん家族 [スペイン映画]
お笑い番組でのホルヘ・サンツのスタンダップコメディを見たのは3年前のこと。その漫談の中でペペ・イスベルトが「チェンチョ、チェンチョ」と叫ぶシーンがどうのこうのと言っていますが、その「チェンチョ、チェンチョ」とはこの“La Gran Familia”の一シーンです。
友人とセビーリャ市内観光中にfnacに立ち寄った時に見かけたので買ってきた。
おはなし
建築施工士のカルロスは妻とのあいだに15人の子供をもうけた。老父も同居しており、子供たちの名付け親であるフアンも頻繁に家を訪れる。騒々しくも愉快な毎日である。大家族を養うのは楽ではなくカルロスは兼職をせざるをえない。子育て、家計…、悩みは尽きないが、子供たちの未来に思いを馳せるときカルロスと妻は幸せを噛みしめるのだった。
反抗期にさしかかった子供らに手を焼きつつも夏のバカンスを楽しく過ごした。やがて季節が過ぎてクリスマスがやってくるが、幼いチェンチョがマジョール広場で迷子になってしまう。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
ペペ・イスベルトの「チェンチョ!チェンチョ!」のシーンを見ることができたのはいいですが、内容は……
鑑賞直後のtwitter:
http://imdb.to/bIdj0K La gran familia (1962) を友人と観てみた。(友人は何度か観たことがある。←クリスマスシーズンにテレビで放送されることが多かったから) 途中、乾いた笑いが漏れてしまうほどに、これは……国策映画。
夫婦は仲睦まじく、子供を産めよ殖やせよ、家族は互いにいたわり合い、隣人は助け合い、理想の親子のありかた・健全な男女のつきあいとはこういうものであり、国民は働くことでこのようなバカンスを楽しめるはずであり、神に祈りは届くものであり、国家警察は人民のためには迅速に動いてくれるものであり、テレビという新しいメディアは万能である、と。
そういう社会の理想像を御国がひとまとめに授けてくださっているような映画。
あまりにもメッセージが露骨なので呆気にとられた。そして苦笑い。この大家族のちょっとしたセリフに思わず「うっわ゛……」と声を漏らし、目を白黒させ、隣で観ていた友人の方を「ちょっと、どうすんの、これ」と言う顔で見遣ってしまった瞬間もあった。
そんなとき友人は「みなまで言うな、みなまで言うな」という表情で私を見ていた。
最後、「次に生まれてくる子の名前はクリスマスにちなんでヘスス(=イエス,イエス・キリスト)にするわ」というシーンではついに私は「ぃひゃぁっ」という形容しがたい声を発して仰け反ってしまったよ。
プロパガンダ映画って体によくはないね、やっぱり。今日これを書くのにDVDを見なおしてみたが、脂っこいものを食べたあとみたいな気分、いま。
監督: Fernando Palacios フェルナンド・パラシオス Rafael J. Salvia ラファエル・J・サルビア
原案・脚本: Pedro Masó ペドロ・マソー Rafael J. Salvia Antonio Vich
出演:
Alberto Closas アルベルト・クロサス ... Carlos Alonso カルロス・アロンソ(父)
Amparo Soler Leal アンパロ・ソレル・レアル ... Mercedes Cebrián メルセデス(母)
José Isbert ホセ・イスベルト(ペペ・イスベルト) ... El abuelo おじいさん
José Luis López Vázquez ホセ・ルイス・ロペス・バスケス ... Juan フアン(名付け親)
Chonette Laurent ... Luisa Alonso ルイサ(旅先で恋に落ちる娘)
Jaime Blanch ... Carlitos Alonso カルリートス(落第した息子)
Pedro Mari Sánchez ... Críspulo クリスプロ(いたずらっ子)
Alfredo Garrido ... Chencho チェンチョ(末弟)
Tomás Picó ... Jorge ホルヘ(旅先でルイサに恋する男)
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Comments
まず何からメモすればいいのかな。
中島晶子氏のスペインの「家族主義的」福祉レジームを検討するという論文を幸運にも見かけた。(以下、改行・太字は私)
3,国家と家族
3-1 家族をめぐる歴史的文脈
20世紀を振り返ると,多くの欧州諸国で宗教と家族との関連が徐々に希薄化するなか,スペインでは教会と政体に関連して,家族には常にイデオロギーが強く投影されてきた。
第二共和制(1931-36)は,伝統的家族規範の近代化を,中絶や離婚の承認非嫡出子の権利の平等化といった民法改革によって推進し,伝統との断絶を社会的安定への脅威とみる教会と対立した。
続くフランコ体制(1939-75)は,カトリシズムに伝統的な家族規範を,権威主義体制を支える論理と重ねて推進した。すなわち家族は社会の基本的単位として,永続的な婚姻関係に基づき組織される家長を頂点とした階層制であり,その目的は生殖にある。
こうして出産奨励主義に立脚し,避妊や離婚の禁止,既婚女性の家庭外の賃金労働からの排除婚姻内外での性別による権利不平等を進めた。フランコ期の福祉全般は社会的統制の手段として用いられ,家族給付,結婚や離婚母性や児童保護に関わる家族政策も,体制の強化維持を目的として,権威主義的な家族モデルをイデオロギー的支柱として最重要視する文脈で行われた。
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 20:56
まさにそういう時期の家族像が描かれているのがこの『La gran familia』。
Fundación Saber.esのPERSONAJES LEONESESというページにこんなことが書いてある:
1967年3月、レオン県サンタ・マリーナ・デル・レイ村のサンティアゴ某という男性がフランコ総統からじきじきに‘出産奨励賞’を授けられた。最初の妻との間に5人、二番目の妻クラウディアとは16人の子をもうけた。クラウディアは21人の子のうち18人の世話をみていた。この夫婦はすでに町村からも子だくさん奨励賞を授与され、地元では有名な夫婦だった。
とかなんとか。
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 21:14
その‘premio nacional de natalidad’とやらで検索してみたところ、1941年9月ではあるがABC紙のこんな記事が目に入る:
GENEROSA INICIATIVA DEL JEFE DEL ESTADO
El Instituto Nacional de la Vivienda premiará con diez hermosas casas a otras tantas familias numerosas y la del que obtuvo el premio de natalidad se construirá inmediatamente
フランコ総統のはからいによって子だくさん世帯には家が贈呈される、という記事。貧窮家庭が優先されるようだ。
a transición de Andalucía(アンダルシアにおける移行期)というページにも、「フランコ体制下の制度であった出産奨励賞だが、1973年にもまだハエン県リナーレスで19人の子宝に恵まれた家庭が受賞した」とある。
『La gran familia』のカルロスとメルセデス夫婦も子だくさん奨励賞を取れればと願っているのだ。
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 21:43
語句メモ
子供たちが帰宅してエレベーターに向かうと門番が「階段でいかなきゃなりませんよ」と声を掛ける。「Osease, de motu propio エレベータが動かないんですよ」と言う。
スペイン語字幕は「Osease, de motu propio」の部分だけイタリック。
この門番はのちのシーンでも変な単語をまぜてしゃべる。incomodismo, disconfusión, prepoterado、と。それに応えるようにお爺ちゃんまでがpretoramientoと言っている。これら4語すべて字幕ではイタリックで示される。
と、このシーンで友人がDVDを停め言う:
「これ、門番はさ、自分がこのマンションの権威者にでもなったかのように錯覚してると描写したいんだと思うよ。そういう人物っているだろ。彼は偉ぶるためにしかつめらしく話すくせがあるし、知的であると示したくて聞き慣れない語を用いる人、という設定なんだろう。だからこの人のシーンではそういう語がイタリックになってるんだろう」。
さて、‘motu propio’ではなくて‘motu proprio’でないと辞書に載ってない。門番がペダンチックだから間違えているということなんだろうか。
・de motu proprio: 自発的に (ラテン; literalmente, 'con movimiento propio')
1. loc. adv. Voluntariamente; de propia, libre y espontánea voluntad.
・motu proprio: 1 Frase latina que significa "por propio impulso": espontánea o voluntariamente:
例) Se ha ofrecido a ir él motu proprio.
同様に門番のセリフの字幕は‘osease’だが、それは正しくないのだと思う。
→ oseaseって何ですかというスレッド
「つまり,即ちだよ」という回答がまず上がるが、それに対し「でもoseaseはそもそも誤用なんだから英訳するにしてもその誤用のニュアンスを込めなきゃいけないだろうけどそこのところはどう訳すのかって質問者は聞きたいんじゃないの?」というレスがつき、「誤用と言うのかどうか私はよくわからないけど、oseaseって滑稽さを滲ませるようなトーンで使う場合はあるよね」という人があり……そういうスレッドとなっている
アカデミアの説明だとこの辺が該当するのかな:
6. o sea, (誤)o séase.
La locución o sea equivale a es decir y sirve para introducir una explicación o precisión sobre lo que se acaba de expresar, o la consecuencia que se deriva de ello:
例) «Al día siguiente, o sea el lunes, me presenté [...] en la embajada polaca» (Piglia Respiración [Arg. 1980]);
例) «Ya no creo que vuelva, o sea que nos podemos vestir» (ASantos Vis [Esp. 1992]).
No es correcta su escritura en una sola palabra:
(誤)«Flotan en tiempo de réquiem, osea, en cámara lenta» (Nacional [Ven.] 11.4.97).
Se trata de una locución fija y, por tanto, invariable en el español actual, por lo que conviene evitar el uso concordado cuando lo que sigue a ser es un sustantivo plural:
(誤)«La épica travesía dura setenta días, o sean mil seiscient[a]s ochenta horas» (Tibón Aventuras [Méx. 1986]).
La variante (誤)o séase, usada a veces en el habla popular, debe evitarse en la lengua culta:
(誤)«—Y también a los hijos de los hijos de los hijos. —O séase los biznietos» (MtnSantos Tiempo [Esp. 1961]).
No es obligatorio escribir coma detrás de esta locución, aunque es lo normal cuando introduce una explicación o paráfrasis del elemento precedente; por el contrario, si lo que introduce es una consecuencia, no suele ir seguida de coma.
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 22:13
語句メモ
・sacar las castañas del fuego: 1. fr. coloq. Ejecutar en beneficio de alguien algo de lo que puede resultar daño o disgusto para sí.
・arrojar [tirar] la esonja: 1. frs. coloqs. arrojar la toalla.
→arrojar [tirar] la toalla:
1. frs. Dep. Dicho del cuidador de un púgil: Lanzarla a la vista del árbitro del combate para, dada la inferioridad de su pupilo, dar por terminada la pelea.
2. frs. coloq. Darse por vencido, desistir de un empeño
・corto de vista: 1. loc. adj. miope. U. t. c. loc. sust.
・soñar con los angelitos: 1. fr. infant. dormir (= estar en reposo).
・ser alguien cero [un cero] a la izquierda.
1. frs. coloqs. Ser inútil, o no valer para nada.
2. frs. coloqs. No ser valorado o tenido en cuenta por los de su entorno.
・como una rosa: 1. loc. adv. Muy bien, perfectamente.
・plante: 1. m. Protesta colectiva, con abandono de su cometido habitual, de personas que viven agrupadas bajo una misma autoridad o trabajan en común, para exigir o rechazar enérgicamente algo.
例) Plante en una cárcel, en una fábrica.
・お爺ちゃんが子守をひとりきりでまかされて、「これじゃわしは de amo secoだ」と言う
→・ama seca.1. f. Mujer a quien se confía en la casa el cuidado de los niños
・no caerá esa breva: 1. expr. U. para manifestar la falta de esperanza de alcanzar algo que se desea vivamente.
・家族みんなで海を見下ろす見晴らしのいい場所はBalcó del Mediterrani 地中海のバルコニー
・彼らが泊まった宿はCiudad Residencial ― Obra sindical de "educacion y descanso"。今はもう無いのかな?
・クリスマス、子供たちが列をなしているデパートはGalerias Preciados。1995年11月24日にエルコルテイングレスに買収された老舗デパート
⇒ Galerias Preciados 検索結果
・関係ないけど……
ルイサをナンパするホルヘという好男子を演じた人。これが映画デビュー作みたい(少なくともIMDbの記録によれば)。色男だし、シーンは少ないけれどもセリフも多いし、この作品の雑多なストーリーにあっては中盤から終盤までコンスタントに言及のあるちょっと大事な役所だし……
デビュー作でそのような扱いならば前途有望な若手だったのじゃないかなと思うんだ。
けれどもその後の出演作リストを眺めるに、銀幕のスタアとはなれなかった様子がうかがえちょっと寂しい気分になったわ。
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 22:19
見終わったとき私は少し空(くう)を見つめていた。どうしたんだと友人に聞かれ、「夫婦の年齢を計算してたんだ」と答えたら、「僕もそれが気になっていた」と。
長子は就職を考える年頃で、今現在一番下(15人目)の子が赤ちゃんで、いよいよ16人目を妊娠するというのだから、いったいこの夫婦というか女房は何歳で結婚して何歳で生み始めて今は何歳なのか。出産と出産の間はどれくらいつまっていることが可能なのだろうか。
18歳で結婚して19歳から生み始めたとして……まあ、生めるか。生めるのか?
そんなことをついつい真面目な顔で友人と考え込んでしまった。
※ちなみに父親を演じたアルベルト・クロサスはこのとき41歳、母親を演じているアンパロは29歳。
だからいかんのよね。
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 22:35
結婚何年目か見当もつかないが、そんな夫婦が夜、仕事をしながらあるいはアイロンをかけながら、唐突に「ねえ、あなた、愛しているわ」「わかってるとも。僕もだよ」と言い合う。
……「うへぁ('A`)」ですわ。
さて家族総出でバカンスに行く。夫婦は二人っきりの時間を楽しむ。
「あなたって本当に優しいわね、ダーリン」
「こうして二人っきりになったことなんて久しぶりだよね」
ツイストが始まると
「もう出よう。これは健全じゃないね」
「日焼けした君はますます美人だよ。若返った感じだ」
「今でもまだ私を口説くつもり?」
「ずっとずっと魅力的だ」
「言わせてもらうと、あなたも今日は物凄くハンサムだわ。周りじゅう見回しても、あなた以外の男なんて目に入らないもの」
「もうその辺にしてくれよぉ」
「もしも私の夫じゃなかったら、あなたのこと一瞬で狩っちゃうんだから」
「鉄砲でかい?」
「大砲でよぉっ!」
………聞いてるだけで疲れる会話。
娘たちが若い男と踊るのを遠目に見ながら夫婦は語らう。
「なんだ、洟垂れ小僧ばっかりじゃないか」
「あなたが私を初めてダンスに誘ってくれた時ってあたしたち何歳だったかしらね」
「大昔じゃないか」
「あたしたちのお年頃だったのよ。今はあの子達がお年頃ってこと。このままいけば、私はうちの子たちのお母さんじゃなくなって、あなたの孫のおばあちゃんになるってわけ」
「うわあ、すごいお婆ちゃんだな。アメリカ人がドキュメンタリー番組でも作りそうだよ。“世界一美人なおばあちゃん”って」
………もう…なんかすごいでしょ。
知り合ったばかりのフアン(カルロスの子らの名付け親)とパウラ(カルロスが息子のために雇った家庭教師)が数時間後にはチャチャチャを踊りながら結婚の話をしている。
「でもあんまり急じゃないかしら」
「急でけっこう。急に知り合って急に恋に落ちて急に結婚する男がいたっていいだろう」
………露骨でしょ。
NHKの朝ドラがいつも主人公の女をめぐって恋の鞘当てになって、女も女で、自分がなんかを目ざして周りを巻き込んで大騒ぎになってたことなんかすっかり忘れちまったかのようにこっちの男とあっちの男とどっちを選べばいいのかしら、あたしもててもてて困っちゃう、MMK! なんていう浅薄な展開に陥ってしまうのは、あれはああいうドラマを公共放送で垂れ流すことによって国民に結婚願望を抱かせようという国策の一環なのだ、少子化対策の一種なのだ、という都市伝説があるけど、この『La gran familia / ばくだん家族』は直球でソレを訴えてるの。
健全に恋をしろ、でもプラトニックにつきあえ、すぐ結婚して子供産め、って。
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 22:56
このDVDをセビーリャのfnacで買った時のtwitter:
http://twitter.com/#!/reneyama/status/23037408554
私がこのDVDを手に取るや、友人がもう待ち切れんといったウズウズ顔で、「この作品でね、一つたいへん興味深いスペイン語の成句が用いられてるから。後で説明するぞ!」と。⇒ hacer el amor”が ちゃんと《Cortejar》の意味で用いられているらしい。//
上のコメントで
「日焼けした君はますます美人だよ。若返った感じだ」
「今でもまだ私を口説くつもり?」
とあるけど、ここで‘hacer el amor’が使われていたわけです。¿Me vas a hacer el amor a estas alturas?と女房が夫に言うのです。
Posted by: Reine | Thursday, December 23, 2010 23:04
今から結末について書きます
↓↓↓
結末にふれますから
↓↓↓
まだ言葉もきちんと発することのできないチェンチョがマジョール広場で迷子になる。一家は警察に届けを出し、ラジオも行方不明を報じている。
それでもチェンチョは現われない。誰も名乗りでない。
実は子供のいない夫婦がチェンチョを保護していた。その夫婦は「ラジオはつけちゃダメだよ」「新聞が届けられても開かないで捨てるの」「明日は新聞が休みだ。だから誰もこのことは気づかない」と話している。迷子のことが報じられているのを直視したくないわけだ。
警察が家まで来てくれて、「どこかで保護されているはずなのに誰も名乗りでないということは、ラジオの無い家庭にいるにちがいない」と言う。
「昨今じゃあラジオは聞かんですからなあ。テレビっちゅうもんがありますから」となり、テレビで呼びかけよう!となるわけです。
そして‘テレビのちから’でもって、ついにチェンチョは家族の元に戻るのです。めでたしめでたし。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
見終わったとき友人が言いました:
「スペインでテレビ放送が始まったのはこの作品(1962年)の数年前なんだ。でもまだ一般家庭にはテレビが普及していなかった。だからこの作品でこんな風にラジオの衰退とテレビの台頭を描くことで人々にテレビって便利な道具だと知らせたかったんだ。と思う」と。
今日の時点ではその点についてなにか参考となりそうなページを見つけてはいないけれども、そういう意図はたしかに感じられる作品だった。
Posted by: Reine | Friday, December 24, 2010 00:09
観ている途中で私はちょっとDVDを停めて友人に話しかけた。
「イスベルトとかロペス・バスケスって『El Verdugo』とか『El Cochecito』とかに出てたでしょ。制作年もだいたいおんなじぐらいでしょ。おなじような時代に同じような顔ぶれで撮影しても…」
と言いかけたところ友人が即、
「ぜんぜん違うよ。あのへんの傑作とこれとをいっしょの引き出しに入れるべきじゃないね」
と言ったものだ。
「ただ、これは資料としては非常に興味深い作品だと思う」と言ったところ彼も頷いていた。
Posted by: Reine | Friday, December 24, 2010 00:29
この作品はテレビの普及を国が推し進めたがっていた時期に作られた、について。
他の作品について調べ事をしていたらちょうどいいものに出会ってしまった:
教育省のサイトの「テレビの歴史」から、「La expansión de los años sesenta 60年代にはいり普及した」の記事。
テレビは非常に高価な製品で、買うことができるのはごくごく限られた富裕層のみだった。60年代初めにはスペイン全土で―――といっても専らマドリードかバルセロナの―――たった5万世帯がテレビを所有していた。
60年代初頭に公的権力はテレビが社会に浸透するよう対策を練った。テレビ受像機の購買意欲を高めるべく、1961年にはテレビ受像機に係る奢侈税を廃し、62年にはテレビを月賦で購入できるよう許可した。また60年代を通してテレビ受像機の広告宣伝費は他の物品よりも安く抑えられていた。
とか。
Posted by: Reine | Friday, December 24, 2010 21:41