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Wednesday, August 04, 2010

Muerte de un ciclista / 恐怖の逢びき [スペイン映画]

muerte de un ciclista おはなし
マドリードのブルジョア階級の人妻マリア・ホセと大学で教鞭を執るフアンは愛人関係にある。二人はマドリードを離れては逢引きを重ねてきた。ある日の逢引きの後、マリア・ホセの運転する車が自転車に乗った男を轢いてしまった。

助手席からおりたフアンが駆け寄った時、その男はまだ息があった。しかし非情にも二人は瀕死の男を見捨てて車で逃げ去る。「私こわいわ」「誰も見ていなかったさ」。


この作品のストーリーは意外とあちこちの映画情報サイトで扱われているようです。日本でも公開されたからでしょうか。(されたのですよね)

が、そのほとんどが―――おそらく全てが―――見当違いなことに焦点を絞ってあるから、「しかし、この作品は案外あっさり。全く盛り上がりません」などと言い捨ててしまう被害者が生じる。被害者であり加害者かもしれないけれど。

「女性のエゴイズムを描いたサスペンス」「男女の偽善と恐怖を追求した」といった切り口で見るのは、そんな2サス目線で見るのは、この作品を読み解くための登山道の入り口にも到達してない段階。


この作品は怖いよ。怖かった。

と言っても、「私が当時権力側にいたならばさぞかし怖かっただろうな」と想像した場合の「怖かった」です。私が当時の為政者だったら、こんな映画の存在は恐ろしく、そしてとても目障りだったと思う。「こんなん作られちゃたまらんよ」と。ひねり潰してやりたくなっただろう。

それほど「お上」から苦々しく監視されたであろう作品という、その存在意義が怖いわけです。この作品の刃先の鋭さが怖いのです。スペイン映画は“判じ物”。そのように観る努力・工夫をしながら観たほうが格段に面白いしまた怖いのです。


Muerte de un ciclista@IMDb
直訳: あるサイクリストの死
英題: Death of a Cyclist

監督: Juan Antonio Bardem フアン・アントニオ・バルデム(カルロス・バルデム、ハビエル・バルデムの伯父)

脚本: Juan Antonio Bardem  
(原案?): Luis Fernando de Igoa ルイス・フェルナンド・デ・イゴア

←この書籍は知らないけど、たぶんこの作品に言及していると思うのでメモ。

Cast (in credits order)
Otello Toso オテッロ・トーゾ ... Miguel Castro ミゲル・カストロ: 実業家

Lucia Bosé ルチア・ボゼー ... María José de Castro マリア・ホセ・デ・カストロ: その妻
Alberto Closas アルベルト・クロッサス ... Juan Fernandez Soler フアン・フェルナンデス・ソレール: 愛人

Alicia Romay ... Carmina カルミナ: フアンの姉
Emilio Alonso ... Jorge ホルヘ: カルミナの夫つまりフアンの義兄; かなりの高位の人物で大学にも影響力を持っている
Julia Delgado Caro ... Doña Maria マリア: フアンの老母

Bruna Corrà ブルーナ・コラ ... Matilde Luque Carvajal マティルデ・ルケ・カルバハル: フアンの大学の学生
Carlos Casaravilla カルロス・カサラビーリャ ... Rafael "Rafa" Sandoval ラファエル・“ラファ”・サンドバル: 美術評論家

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Comments

語句メモ
・venir a cuento algo:
1. fr. coloq. hacer al caso.
2. fr. coloq. Ser útil o conveniente por algún concepto.

・cátedra: 1. f. Empleo y ejercicio del catedrático.

・de tiros largos
1. loc. adv. a tirantes largos.
2. loc. adv. coloq. Con vestido de gala.
3. loc. adv. coloq. Con lujo y esmero.

・「chantajeなんて醜い単語だねえ。カステジャーノですらない」
→・chantaje: (Del fr. chantage).1. m. extorsión. (フランス語起源)

・「内戦が終わった頃、フアンはTeniente provisionalかなにかだったわ」
→・ teniente: 中尉?

・venirse abajo: 1. fr. venir a tierra.
→venir [venirse] a tierra: 1. frs. Caer, arruinarse, destruirse.


・フアンは女子学生の口頭試問の最中に新聞で例の交通事故死が報じられているのを読んでしまう。そこで画面に映った新聞記事の読み取れた部分がこれ
↓↓↓

MUERTE DE UN CICLISTA 自転車の男性、死亡
La pareja de motoristas de ---- de carreteras comusta ---- Enrique Arévalo y José Anto --- González encontró ayer a las --- de la noche en la carretera --- Coruña, inmediaciones del --- del Palomar, el cadáver del --- Antonio Gó--- que se supone fué --- muerto por un co-

Posted by: Reine | Wednesday, August 04, 2010 19:32

タブラオでのシーンで緊張は高まる。ところがここで困ったのは、日頃からスペイン映画俳優の顔の見分け方で苦労したことないよなんて大口叩いていた私が、どーーーうしてもフアン(情夫; 長いネクタイ)とミゲル(夫; 蝶ネクタイ)を見分けられなかったという点です。いったいどうしたことか!二人そろって同じようなヒゲ生やさないでほしい!

さて、このタブラオでのシーン、歌い手は誰で何という曲かと探したところ、http://lasnochesamericanas.wordpress.com/2009/03/18/muerte-de-un-ciclista-y-muerte-de-un-cine/のブログにありました。Gracia Montesの歌う、『Fandangos de Huelva』?みたい?

http://www.youtube.com/watch?v=i__0ZjfsBZs

このシーンはまた1947年Missイタリアであるルチア・ボゼーの美貌が大写しになるシーンでもあります。いやあ、ミゲル・ボセ(Miguel Bosé)は似てるんだわね。

なんてことを思ってると、それにつけても、ルチア・ボゼーがルイス・ミゲル・ドミンギンと結婚した時は世の女性陣はどれくらいうっとりしたのでしょうかなどとどんどん脱線していってしまうのでした。

Posted by: Reine | Wednesday, August 04, 2010 20:14

さて、私からできるメモと言ったらこの程度なので、あとは乾先生の『スペイン映画史』を読んでしまおうと思います。

ただ、同書の『恐怖の逢いびき』の解説が始まる前のページには、『Esa Pareja Feliz』のときに引用した解説文が入っているのです。あっちがあって、そのあとこっちが始まる格好です。
↓↓↓↓

Posted by: Reine | Wednesday, August 04, 2010 20:36

1951年にルイス・ガルシア・ベルランガと共同で『あの幸せなカップル』を撮るが、公開までに2年もかかり、その間にベルランガ、ミウーラと共同で『ようこそ、マーシャルさん』のシナリオを完成。……略……

……略……50年代を代表する名作と言ってもいいのが『恐怖の逢いびき』[原題: 自転車の男の死](55)と『大通り』[原題: マヨール通り](56)である。


そしてここから『恐怖の~』のストーリー説明が始まりますが、当然のことながらネタバレは起こるし、あと“判じ物”の答えも読めてしまうわけだから、未見の人はこの先は読まない方がいいような気がする。


それでは、二人が逃げ去ったところから先を。


マリア・ホセは今の何一つ不自由のない生活を失いたくなかったし、フアンも元ファランヘ党員であったことから首尾よく手にいれた現在の身分を捨てたくはなかった。……略……

……略……被害者の遺族を訪ねてみるとそこは貧民街で、かつて自分がそのために闘ったつもりでいた理想が現実とはなっていないことを見せつけられる。……略……

Reine注: 読点が一つ私の目にはどうしても邪魔だったのでトった)


フアンは……略……女子学生のマティルデを不当に落第させ、これが学生たちの怒りを買ってストライキが起きて罷免要求が出され、……略……

Posted by: Reine | Wednesday, August 04, 2010 20:48

マリア・ホセは、言ってみれば、他人などどうでもよく、何を置いても現在の繁栄を守ろうとする人たちを象徴し、マティルデは正義を要求する新しい世代を象徴している。また、フアンは、過去の過ちに苦しみ、自分のかつての理想が実現されていないことに悩み、良心に基づいて現実を見つめ直そうとする人たちの象徴である。

そして、これこそは、当時の為政者たちが最も恐れていたことなのである。


馬鹿みたいなこと書いときますけど、私、この点はこの本を読む前から気づきましたからね(`・ω・´)キリッ(苦笑)


こんなのをこうもわかりやすく一般大衆にレクチャーされちゃったんじゃぁたまらないでしょう、独裁政権側にしてみれば。

Posted by: Reine | Wednesday, August 04, 2010 20:53

Las paradojas de la censura: «Muerte de un ciclista» (1955), de Juan Antonio Bardem より:

・カンヌ映画祭で国際映画批評家賞を受賞

・この作品の意味するところは国境を越えてもわかりやすく解釈されたようで、バルデム監督は反フランコ体制の文化的象徴ともいえる存在となった

・国外では俄然知名度は上がったが、国内での創作活動はもちろん難しくなったのである

・1951年の『Esa Pareja Feliz / あの幸せなカップル』から54年の『Felices pascuas』まではどうにかこうにか厳しい検閲は免れたが、『恐怖の逢いびき』はそうはいかない、『恐怖の逢いびき』は、勝者の視点とは違う視点でスペイン内戦を見つめ直した、フランコ体制下では最初の映画作品だったと言えよう

・主演女優には当初グロリア・マリンが考えられていたがバルデムがルチア・ボゼー主演を望んでいて、脚本を書いてもいないうちから説得をしていた


・で、えーっと、なんだ?ずーっと斜め読みしていくと?

早い話が、検閲のひとたちは男女が不義密通をしているっていう点を直せと指摘することはできても、この作品が体制や内戦の過去や内戦を経てもいっこうに是正されぬ社会の不公平などを糾弾しているというのには気づきもしなかった、ってことが述べられているのかな?

・だから「フアンは自転車乗りを轢き殺してしまったこととマリア・ホセと密通をしていたことの二点について後悔しているように描け」だとか、「愛をこんな形でここまで膨らませてしまったことで慨嘆に堪えないって感じで描け」だとか、はたまた「ミゲルとマリア・ホセの夫婦のありようを麗しく描き、妻が夫を裏切って浮気をしているようには見えないように描け」だとか、「マリア・ホセの死はあくまでも事故死とすべきで自殺ととれるような死に方はNGである」とかいう道徳面の注文ばっかりつけたはいいが、政治・社会批判に関してはノーチェック、みたいな滑稽な顛末になってしまっていた、ということかな。

面白いね。


・不義密通は殺人と同等の重罪なのだということを明瞭にせよ
・学生ストライキではなくて大学側への抗議デモくらいの描写にしておけ
・フアンの義兄(カルミナの夫)は国務次官なんかではなくて、高官であることはわかるけど具体的にはどんな職位なのかは曖昧に描いておけ

とかいう指示も来た、と。

そう、だから私も困ってたんだよ。本文のキャスト紹介を書く時に。この義兄の役職がわからなかったから。大学の人事にも口出しできるしアメリカ大使館のパーティーなんかに顔を出すような人々との交遊があってっていうのはわかるけど、何の仕事をしている人なのかがハッキリ描いてないんだよ。


-他にも検閲当局から宗教面での注文はついて、教会内でのフアンとマリア・ホセの会話も省かれたりした。

イタリアの検閲当局はこの作品の基底にある社会批判のメッセージにはっきり気づいていたのに、って。

(ここまででまだ記事の三分の一くらいしか読んでない)

Posted by: Reine | Wednesday, August 04, 2010 22:09

えーっと……ここから先は本当に結末に触れてしまうので危険です

昨日facebookにメモっておいたのだけど、最後のマヌエル・アレクサンドレ演ずる自転車に乗った男性が光の見える方に向かっていくけどあれはいったいどっちなのかという点、しばし考え込んでたんだよね。何度か巻き戻したりしつつ。

1) 最初はやはり彼もまた立ち去ろうとするような表情を浮かべていると思う。そして自転車を漕いで走り去る。

⇒ だとするとココは、「庶民もまた不正の前には口をつぐむじゃないか」「一般市民も自分に都合の悪いことからは逃げてだんまりを決め込むのさ、ブルジョアジーと変わりはしないんだよ」ということなのか??? 

と思ったけれども、「いや、待て」と。

2) ここでマヌエル・アレクサンドレは何か思い直したような表情を浮かべてから走り去るようにも見える。

⇒ ということは、つまり人を呼びに走ったわけで、とりもなおさず事故の原因に自分がある(かもしれない)と白状しにいくわけです。彼の去ってゆく後ろ姿は正義が成されたということを意味する。


どっちかなあ…と思っていたところだったのだけど、上で紹介した記事に「en este caso, sin embargo, el ciclista sí irá en busca de ayuda.」 とあるので疑問はあっさり解消した。

やはりマヌエル・アレクサンドレのあの最後の意を決したような表情は「逃げたれ!」ではなかった。「人を呼びに行かなきゃ!」であった。穿った見方をする必要はなかった。

なんかホッとした。

Posted by: Reine | Wednesday, August 04, 2010 22:28

ラファのセリフがたくさん語ってる:

Me tienes miedo. Todos me tenéis miedo. ¡Todos!

(Pero ¿por qué?)

Yo sé cosas, cosas feas de vosotros. Las quereis tapar, ¿eh?, que nadie las vea.

Estoy harto de ser siempre vuestro invitado, el invitado listo, el invitado gracioso, el bueno de Rafa, el simpático de Rafa.

Soy el más fuerte. Vosotros sois una basura, una basura asquerosa, una partida de cerdos egoístas. Y yo sé, yo sé vuestras cosas sucias, las cosas que escondéis. Me tendréis que pagar para que no hable. Para que sigáis siendo la virtuosa dama, el brillante profesor, el gran industrial. Para tapar la porquería que sois todos vosotros, todos esos, ¡y tú y María José!

Posted by: Reine | Saturday, August 07, 2010 22:09

昔々あるところに、時代を超えた寓話

A: 第8回1955年カンヌ映画祭、国際映画批評家連盟賞受賞というのだから、既に半世紀以上前の映画というわけです。このブログの訪問者はおおかたこの世にまだ存在していない(笑)。
B: 日本では翌56年2月に劇場公開になっている。『スペイン映画史』の乾氏は1949年生れだから、まだ小学校に行ってないかも。

A: 公開が素早かったのは、勿論カンヌが効いたからですね。前年に衣笠貞之助の『地獄門』がグランプリを受賞して、急にカンヌが近づいたわけです。当時のグランプリは現在のパルムドールと同じで最高賞、パルムドールの名称は1990年からです。

B: バルデムの『恐怖の逢びき』は、グランプリではないのですね。
A: いろいろな経緯があって、つまり邪魔がはいって、コンペ外として上映された。第8回の審査委員長は作家のマルセル・パニョル、バルデムも審査員の一人でした。最初はフランスの作家とか詩人とか歴史家が委員長を務めた。例えばアンドレ・モーロア、ジャン・コクトーなど。

B: バルデムも審査員だったんですか。
A: 第6回(1953)にガルシア・ベルランガの『ようこそマーシャルさん』が、ユーモア賞と脚本賞をもらった、バルデムも共同脚本家でしたね。このコンビはスペイン映画の新しい顔として注目されつつあった。ユーモア賞は英語のジョークとは違いますから、この賞を貰うことは名誉なことでした。第7回にはルイス・ブニュエルがメキシコ監督として審査員になっています。だからスペイン監督としてはバルデムが最初です。

B: ブニュエルは先に『忘れられた人々』(4回・1951)で監督賞を受賞しています。メキシコ亡命時代のことで、メキシコ映画ですね。


A: 本ブログで紹介された「この作品は案外あっさり。全く盛り上がりません」は、すこぶる大胆なコメント、5点評価で1点。過去にどんな映画を見ていたか興味をそそられます。
B: 昔々あるところに、不倫をしている男と女がおりました。不注意で自転車乗りを轢き殺してしまいましたが怖くて逃げました。男は自責の念に駆られ出頭しようとしますが、愛の冷めた女は男が邪魔になりこちらも轢き殺してしまいました。女もハンドルを切り損ねて橋の欄干に激突、バチが当たって死んでしまいました、アーメン。

A: 因果応報、教訓的でタメになるお話ではありませんか(笑)。哲学的に言うと、時間と空間を超えた永遠の寓話となります。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:33

マリア・ホセは吹替えだった

B: マリア・ホセ役のルチア・ボゼーはイタリア人、監督が安心して顔のクローズアップができる女優の代表格。
A: 1931年ミラノ生れ、1947年のミス・イタリアに選ばれたのがきっかけで映画界入りした。スペイン映画出演はこれが初めて。バルデムも大いに気配りして大切に撮っています。まだスペイン語ができなかったから、エルサ・ファブレガスの吹替えでした。クレジットには出なかったようですが、気をつけて見ると微妙にズレています。

B: イタリア語とスペイン語は親戚みたいなものだから言われるまで分からなかった。でも花形闘牛士ルイス・ミゲル・ドミンギンと結婚したんですよね。
A: 映画と同じ1955年に結婚、子供も3人できた。しかし最初は「二人の会話は、ぼくはスペイン語、彼女はイタリア語、でもちゃんと通じている」とマタドール。

B: 愛に言葉はいらないということ。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:41

A: スペインでは現在も外国映画は吹替えが主流です。1941年4月に産業商務省が外国映画を輸入する場合、「スペイン語以外の映画の上映を禁止」しました。つまりオール吹替えです。
B: 1938年11月に内務省が出した《映画検閲委員会》の設置より、長期にわたって害毒を垂れ流し続けたと言われていますが。

A: 検閲のほうはアレコレ策を弄して戦える部分がありますが、こちらは単純明快、逃げ場がありません。これはさすがに6年間続いただけでした。
B: アメリカ大使館で開催されたパーティーのシーンでは、アメリカ側は英語を喋っていました。

A: 既に禁止は解かれていましたから問題なかった。しかしスペイン映画が受けたダメージは想像以上に大きかった。一つには観客が吹替えに慣れてしまったから。
B: 識字率が低く、年輩の観客の中には字が読めない人も多かったと聞いてますが。

A: 何しろそれまでスペインは、スペイン語、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語の4言語。「スペインは一つの言語」と、フランコ国家元首がいくらスペイン語以外を禁止しても一朝一夕にはいかない。
B: 言語は思考の道具ですから、そう簡単に乗り換えられないし、反体制側も抵抗しました。

A: 観客もさることながら、興行成績が伸びた配給会社が、吹替えのメリットにぞっこんになってしまった。つまり検閲を通すために映像を切り貼りする手間が省けるは、セリフは容易に改竄できるはで手放したがらなかった。内容まで変更したので観客は筋が追えなくて目をシロクロ。更に声優労働者組合も死活問題と反対したわけです。
B: まだテレビがなかった時代だね。

A: 日本同様、ニュースは映画館で見るものでした。国家製作のつまり国策に沿った週刊ニュース映画NO-DOを劇映画の前に上映することが義務付けられ、情報操作をしたのです。
B: フアンが映画館で見ていた特権階級の偽善じゃない慈善パーティーのニュースがそれですね。

A: マリア・ホセが参加者から寄付金を集めているシニカルなシーン。この映画を見て感心するのは、当時のスペイン社会のドキュメントを見ているかのようなシーンが随所に挿入されていることです。
B: イタリア・ネオレアリズモの手法が巧みに取り入れられている個所ですね。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:42

ミケランジェロ・アントニオーニの『愛と殺意』のパクリ?


A: ルチア・ボゼーは、日本では『愛と殺意』(1950・直訳「ある恋の記録」)というタイトルで公開されたアントニオーニ監督の長編第1作に出演。これは大実業家の若い人妻の不倫を描いていたせいか、バルデムのはパクリではないかと非難する人もいたそうです。
B: ネオレアリズモの手法、上流階級のヒロインが不倫をする、女優も時代も同じ、サスペンスもあり、死人が出る。似てると言えば似てるけど、テーマは違うのでは。

A: そうね、アントニオーニが追求したのは、不安定な《不毛の愛》ね。殺人でなくあくまで《殺意》、死者は自殺だったり事故だったり、目指すテーマは見かけほど似ていない。しかしバルデムに限らず、アントニオーニの『愛と殺意』は、スペインの映画人に多大な影響を及ぼしたのです。

B: パクリならカンヌ受賞はなかったでしょう。
A: しかし、剽窃とは言わないまでも、監督がインスピレーションを受けたことは否定できませんね。

B: どういう経緯でイタリア女優を起用したのでしょうか。
A: バルデムは前作の“Felices pascuas (1954・直訳「楽しいクリスマス」)”が思ったほど評価されず、もっと社会にコミットした、つまりフランコ体制を批判した映画を作りたがっていた。しかし検閲の壁に突き当たって前に進めなかった。

B: 微妙なテーマですから正攻法ではダメですね、鉄格子も覚悟しなくちゃならない。
A: そういうとき、プロデューサーのマヌエル・J・ゴヤネスに出会い、それが転機となった。ゴヤネスがイタリアの製作会社トゥリオンファルチネの協力を取りつけてきた。

B: そこからボゼー起用となるのですね。そう、これは西伊合作映画だった。
A: 他にも候補者はあったようですが、バルデムは彼女に絞りこんで脚本作りをした。

B: 本ブログにマリア・ホセ役はメキシコのグロリア・マリンだったとあります。
A: 契約金も決まっていたようですね。しかしバルデムは1954年のヴェネチア映画祭でボゼーと知り合い、どうしても彼女でやりたかった。まだシナリオも書いてなかったのに。

B: グロリアなら吹替えの必要もなかったのでは。
A: バルデムはインターナショナルな映画を意図していたとも考えられます。次の『大通り』の主役を演じたベツィ・ブレアはアメリカの舞台女優出身です。
B: マリア・ホセの夫ミゲルのオテッロ・トゾ、女子学生マティルデのブルーナ・コラもイタリア出身です。

B: 原作はルイス・F・デ・イゴア、しかしシナリオはバルデム自身が手掛けた。
A: 原作者から映画化の権利を買ったようです。フランコ体制との対立を巧みに避け、検閲官の感情を傷つけないよう配慮もした。努力の甲斐あって《高危険度映画》と分類されずに済んだわけです。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:46

検閲官との丁々発止

B: 濡れ場は厳禁、しかし工夫をしている。二人の密会場所の室内のベッドは乱れていないが、マリア・ホセは外したネックレスを手で弄んでいる。
A: アンモラルな不倫をしてるのだから、マリア・ホセがフアンと一緒のときの笑顔は厳しくチェックされた。不倫を後悔しているように観客を誘導することが求められた。不倫同士のいかなる親密な会話も削られたそうです。

B: 確かに笑っているシーンはありませんね。女たちのドレスの胸あき具合も規則を守った。
A: しかし背中はよかったのかしら。マリア・ホセがパーティで着ていたドレスの背中はざっくり開いていましたよ。
B: スペイン女優じゃないからパスさせたのでは(笑)。

A: モラルが強調されている。自転車の男を置き去りにした結果死亡させたことを悔いること、不倫関係を解消することです。
B: 結果はどうあれ、フアンがマリア・ホセを悔悛させること、自首するよう説得する過程が必要だった。

A: バチカンを含めて教会批判はオミットです。当時はカトリック至上主義でした。
B: フアンとマリア・ホセが教会で待ち合わせをする。先に着いたフアンが落ち着きなくうろうろしていると、懺悔聴聞僧が近づいてきて話しかける。フアンは何でもないと断るシーンは意味深でした。

A: 後から着いた似非信者のマリア・ホセは礼拝堂には入らず、ただしエントランスに置かれている浄財箱には次々と寄付していく。特権階級の偽善性、エゴイズムを描いて無駄がない。
B: 最初は二人の気持ちは一致していたが次第に齟齬が生じてくるシーンですね。ブルジョア同士の連帯のなさや偽善、インテレクチュアルズの責任放棄を描くことは推奨された。

A: 反対に労働者の連帯は強調されている。体制側は民衆の不平不満の捌け口として映画を利用していたからですね。
B: それで最後の部分が180度変更された。もとはマリア・ホセは逃げ去るバージョンだったとか。

A: マリア・ホセが逃げ去るフィナーレに検閲官は応じなかった。独善的な殺人者を生かしておくわけにはいきません。バルデムは、ここが一番重要な変更だった、とフランコ没後に語っています。
B: 結果に変わりなくても、サイクリストは助けを求めて走りだす必要があった。私には関わりを怖れて逃げ去ったように見えましたが。

A: かつてフアンとマリア・ホセがとった行動とは反対のことを労働者がとることが求められた。いま見ると逃げたようにも取れる。時代が経つにつれて、検閲逃れにバルデムが仕掛けた巧妙さが分かります。
B: マリア・ホセに宗教的道徳的な《罪》を支払わせることで決着をつけた。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:48

サラマンカ映画会議、新時代の鼓動

A: 市民戦争に言及してもいいがマルクス主義の階級闘争に触れてはいけない。

B: フアンと母親の会話を通してなんとなく伝わってくる。
A: 戦死した兄弟は勲章を貰ったが、生き残った自分は持っていない。これは国家は戦死者にはそれなりの《名誉》で報いたと言ってるのですね。

B: しかし、勝ち組のフランコ側に属していた軍人だけという皮肉も込められている。
A: こういう危険なところのセリフは韜晦している。厳しい検閲があった時代にテーマ性をもつ映画を目指すなら、ステレオタイプな人格、セリフのわざとらしさ、芝居がかった社会的主張、紋切り型なプロットなどは許容されていい。

B: 世代間の対立も取り入れ、上流階級の特権を守るためには阿吽の呼吸で男同士は団結する様子など、当時のスペイン社会を批判的視点で描いています。
A: 1950年代半ばのスペイン映画は外国映画に押されて風前のともしび、その消滅を救った映画と称される所以です。これには1947年、イタリア・ネオレアリズモの流れをくむ映画作りを目指した国立映画研究所が開校されたことが大きい。

B: バルデムはそこの第1期生ですね。
A: 同校の教官や卒業生たちを中心にして1953年、映画雑誌「オブヘティボ」も創刊された。
B: 残念ながら1956年に発禁となりました。

A: また同じスローガンのもと、1955年5月14日から6日間の日程でサラマンカ映画国民会議が開催された。カンヌ映画祭上映は4月25日、帰国早々のバルデムも出席、以後再三再四引用されることになる演説をした。スペイン映画は世界の水準に遠く及ばず、「政治的に効なく、社会的に偽り、知的に最低、美的に無能、産業的に脆弱(※ políticamente ineficaz, socialmente falso, intelectualmente ínfimo, estéticamente nulo e industrialmente raquítico)」と。
B: ドキュメンタリー分野におけるNO-DOの独占廃止も求めたんでした。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:49

内戦の爪痕、貧富の二極化

A: 50年代半ばのマドリードが舞台、撮影の大半はチャマルティン・スタジオ、ロケ地はマドリードとその近郊で行われた。ですから事故現場となるマドリード郊外の深夜のような静寂と暗闇は、現実だったと考えていい。雨に濡れた石畳が薄暗い街灯の光の中で映える、モノクロならではの美しさです。
B: まだ石畳だったんですね。時刻は夕食前だというのに、あの荒涼とした風景には胸を突かれます。

A: チャマルティン・スタジオは1942年1月に完成、本格的な設備を整えたスタジオだそうです。マルセリーノ坊やでお馴染みの『汚れなき悪戯』(1954)もここで撮影された。
B: 青春時代を内戦のうちに過ごしたフアンの世代は、過去から自由になりたい欲求が強く、理想と現実のギャップから精神的に屈折している。

A: 特にフアンはファランヘ党員として従軍していて、現状に幻滅している。
B: 民兵としてではなく職業軍人みたいですね。
A: ファランヘ党の性格は時期によって異なるのですが、内戦時にはフランコ側の母体となっている。スペインの伝統を重んじ、勿論カトリック至上主義、反ナチだがムッソリーニからは資金援助を受けているという複雑さです。

B: フアンは義兄のコネで現在の分析幾何学助教授という地位を得ている。
A: 日本では準教授と名称の変わった助教授とは少し違うように思います。正教授を補佐する教授補のような身分じゃないかな。現在は廃止されている。だから正教授になることが周囲から期待されている。

B: だから母親の目からは、フアンはまだ成功者と映っていないんですね。

A: 学年末試験の風景に興味を惹かれました。途中で立ち去ったのが多分正教授だと思う。合否を決める試験なのに立ち去るなんて、一種の職場放棄ですね(笑)。
B: インテレクチュアルのいい加減さ、危機感のなさです。マティルデを含めて聴講していた女子学生に美人を揃えたのは、スペイン女性の美しさと先進性を宣伝するよう指導があったのかと勘ぐった。

A: マティルデ役のブルーナ・コラは、1933年トレント生れ、大人っぽくて大学生には見えませんでした。次の時代を指導するだろう世代の代表として描かれた。
B: 今の大学生が子供っぽすぎるのです。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:49

アルベルト・クロサスはラテンアメリカの二枚目だった

A: フアン役のA・クロサスは1921年(1916説も)バルセロナ生れ、1994年に鬼籍入りしています。父親がカタルーニャ自治州政府の高官だったことで、内戦が始まると家族でチリに亡命しました。俳優としての本格的デビューはチリ映画で1943年、アルゼンチン映画にも多数出演、あちらでは二枚目として活躍していました。

B: スペイン映画に出るきっかけは?
A: スペイン側の製作会社スエビア・フィルム(1941年設立)のセサレオ・ゴンサレスの推挙、バルデムに彼を起用するよう助言した。この大物製作者はガリシアのビゴ市出身ですが、若い頃はキューバやメキシコで仕事をしていた。その線で最初はマリア・ホセ役もメキシコのグロリア・マリンだったのではありませんか。

B: 本作を転機に、その後はもっぱらスペイン映画に出演、本数も多い。
A: そうですね、一時的に戻ってアルゼンチン映画に出ることがあっても、生涯を閉じるまでスペインがメインでした。日本でも公開なったフェルナンド・パラシオスの『ばくだん家族』(1965“La gran familia”)やペドロ・マソーの『試験結婚』(1975“La experiencia prematrimonial”)などがそれ。

B: 海外にも紹介され、コマーシャルベースにも乗った。

A: 前者はファミリー・シリーズのひとつ、15人の子持ちのパパ役でした。未公開ですがエドガル・ネビーリェの“El baile”(1959)では、シニカルで冷静な紳士役を演じ、シリアス、コメディともにこなし、演技の幅も広かった。

B: ネビーリェはブニュエルと同世代のようですが。
A: ブニュエルより先にハリウッドに渡った経験豊かな監督、帰国してからも若い世代に影響をあたえた。もっと評価されていい監督です。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:51

B: フアンが見殺しにしてしまった男の未亡人を訪ねるシーン、労働者階級の貧困を目の当たりにして慄然とする。
A: 事故以前からフアンは何のために自分は戦ったのかと苦しんでいる。やっと戦争から生還したのに、将来を誓い合った恋人は既に人妻になっている。さらに貧富の差は拡大して決して交錯することがない。二極化なんて言うと聞こえがいいですが、翻訳すると三度のご飯が満足に食べられない階層と贅沢三昧ができる階層に分かれている、ということです。

B: 労働者の死なんか誰も調べようとしない、そういう社会的混乱の時代を生きている国の象徴として、フアンに貧民街を訪れさせている。自首の動機付けとしてではない。

A: フアンの相手をする隣りの奥さんは、監督のお母さん。バルデム家は、両親も俳優、甥のカルロスとハビエル兄弟、姪のモニカ、その母親ピラールも女優という映画一家です。 
B: 最近ハビエルがペネロペ・クルスと結婚、さらに増えた。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:55

夫ミゲルはコキュ、美術評論家‘ラファ’は寄生虫
 
A: 夫ミゲル役は辛いです、権力も財産も容貌も不足ないのに女房に浮気された<寝とられ男>です。男としてまことに不面目このうえないのに堂々としていなければならない。
B: 理解ある亭主を演出することで、逆に妻を苦しめている。

A: ミゲルのような産業ブルジョアジーが台頭する背景には、外貨不足に陥っていたフランコ側が軍事基地の提供をエサに、アメリカから経済援助を引き出し自己の体制強化を狙いたいという事情があった。

B: アメリカ大使館でのパーティなどがそれ。ユニークだったのが上流階級に巣食う熟達のパラサイト“ラファ”。ゴシップを嗅ぎまわって脅しをかけて生き延びているのですが、腐った社会に「警鐘を鳴らす人」でもあるのですね。
A: カルロス・カサラビリャ、1900年ウルグアイのモンテビデオ生れ、1981年バレンシアで死去。戦前から活躍、ハリウッド映画にも出演している。スタンリー・クレイマーのスペクタクル『誇りと情熱』(1957)にケーリー・グラントやソフィア・ローレンと共演している。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:57

B: タブラオ・フラメンコのシーンのカンタオーラは、グラシア・モンテスだそうですね。
A: 1936年セビリア生れ、グラシータの愛称で親しまれ、当時はまだ十代でしたが若いアーティストとしてセビリアで成功していた。

B: 独特の声をしてますね。
A: 歌っているのはファンダンゴスの“Amor, ¿por que no viniste amor?”です。

B: ファンタンゴスというのは愛、悲しみ、宗教がテーマのフラメンコ、ぴったりですね。
A: このシーンは特別撮影用に録音された別バージョンだそうです。

B: 闘牛とフラメンコは格好の《輸出品》だったから故意に挿入されたように感じました。
A: 体制側からドル箱アメリカに気配りするよう求められたかも知れません。その後もカルメン・フロレスと共に《コプラ》の2代歌手としてファンを楽しませております。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:57

B: 助けを求めに行くサイクリスト役マヌエル・アレクサンドレは、マルコス・カルネバルの『エルサとフレド』でフレドになった人ですね。

A: 2006年のラテンビートで上映され好評でした。1917年マドリッド生れ、77歳のときの作品、今でも現役で活躍しています。バルデム作品では“La venganza”(1958・直訳「復讐」)に出演しています。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:58

イタリア・ネオレアリズモの優れた教科書

B: テクニックも当時としては斬新ですね。場面展開にハッとするシーンがいくつもあった。

A: ベッドにいるマリア・ホセがマドリッドから逃れたくて、夫に「どこか旅行に連れてって」とせがむシーン、夫に両手差し出すので抱き合うのかと期待すると、突然夫の顔はフアンの顔に入れ替わる。
B: 無力感ただようフアンの顔にね。口髭が似ているので一瞬アレっと思う。

A: ラファの仄めかしで不倫がばれる。マリア・ホセが「他に知ってることは何?」と狂ったように問い詰めるシーン。夫ミゲルもラファを軽蔑の眼で見やる。やりきれなくなったラファが酔いに任せて傍らのワインの瓶を投げつける。
B: 割れるのは大学の窓ガラス、学生たちが石礫を投げて抗議している場面に転換していく。

A: 唸ったのは、マリア・ホセの友人クリスティーナが、私たちが集めた寄付金は「おバカな貧乏人の子供のためよ」と歌うと、貧民街で遊んでいる子供たちにカメラが移動する。
B: 次は同じ構図で着飾ったお譲ちゃんお坊ちゃんが現れるという具合。

A: 寄付金はおバカな子供の酔っ払いとデブのおっ母さんたちを増やすだけ、という自嘲も込められている。
B: 検閲をパスしたのは歌に託して逃げたから。

A: 余談ですが、これは後年エリセが『ミツバチのささやき』(1973)で使った。「これはおとぎ話ですからね」と。教室から小学生の歌が聞こえてくる歌詞がそうです。エリセの場合、他にもたくさん手が込んだ細工をしていますけど。

B: 反体制文化の発展のなかの単なる通過点にすぎないという評は公平じゃないですね。
A: そう、プロテストは臆病者とは無縁です。

Posted by: アリ・ババ39 | Friday, August 20, 2010 15:59

このところ『恐怖の逢いびき』という語によるアクセスが増えていたので不思議に思っていた。各種映画情報サイトにあらたに作品掲載ページができたりしたのかね? たとえば下記のようなサイトにね。以前は無かったような気がするんだが……:

"恐怖の逢びき - goo 映画" http://movie.goo.ne.jp/movies/p13656/index.html
"恐怖の逢びき(詳細)@ぴあ映画生活作品情報" http://cinema.pia.co.jp/title/ex-806559
"恐怖の逢びき : 象のロケット≪映画DVD総合ナビゲーター≫" http://www.paoon.com/film/bshjdcpb.html

Posted by: Reine | Monday, February 13, 2012 11:00

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» Calle Mayor / 大通り [スペイン映画] [Cabina]
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Tracked on Tuesday, August 16, 2011 00:30

» 恐怖の逢びき [象のロケット]
実業家の妻が恋人と逢びきの帰り、人をひき逃げしてしまう。 だれにも見られることはなかったが、男は良心の呵責から自首しようとする。 女は不倫の発覚を恐れて、男の殺害を図る。 [Read More]

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