★なぜ、今、堕落論なのか
坂口安吾の衝撃的な随筆、「堕落論」にインスパイアされてこの文章を書き始めたのは、2017年の夏であった。私は、戦後生まれで、堺屋師匠が名付けた団塊の世代である。戦争は知らないし、まして戦前の世相などというものは全くわからないが、子供の頃に、両親から戦前の写真帳を見ながら戦争の話を聞いたことがある。しかし、中学に入り日本の歴史を知ってからは、両親と戦前の話をした覚えはない。戦前の日本がアジア各地で行った戦争について、様々な情報から知ったからかもしれない。何はともあれ、太平洋戦争を引き起こした日本が悪者であることに何の疑いも持たなかった。
大学時代はノンポリに近かったが、それでも安保、ベトナム反戦デモには参加し、機動隊との衝突も経験した。
あの頃の熱気は何だったのだろうか。ニーチェだ実存主義だ、共産主義だ資本論だと手当たり次第に本にのめり込んだ。1日1冊を目標にしたのだからとんでもない乱読である。当時は、分かったつもりでいたが、今になって思うと何も分かっていなかった。当然、「堕落論」も読んでいたが、ほとんど印象に残っていない。当時、私が何を考えていたかを思い出そうとしても全く思い出せない。それこそ、「記憶にない」のである。貧乏学生が、アルバイトと通学と、ときたま参加する学生運動にすべての時間を費やしていた。何かを考える、考え出すということをほとんどしていなかった。ただただ、知識をむさぼりあさっていた。社会人となってからは、高度経済成長のおきまりのコースをひた走る。
バブル経済が崩壊した後は、ご多分にもれず食えなくなった。食わなければならないから、片っ端から仕事を引き受けてこなすことの毎日である。しかし、ここでちょっと考えた。これまで突っ走ってきた人生を少しばかり振り返ってみたのだ。最先端の科学・技術にずっぽりと浸り、進歩だシンポだとカルト教団の熱狂的信者のようになっていた自分に気がついた。さらに、新たな科学的発見や技術革新なるものがほとんどないことに疑問を持ったのである。遺伝子解析にしてもタンパク質の構造解析にしても方法論は既に解明されている。新たな追加的発見は時間の問題だ。インターネットやスマホ等もまさに時間の問題なのだ。人工知能なんか20年前にやっているではないか。科学的進歩なるものが限界を迎えたと感じたのである。ちょうど、その頃オーム真理教事件が起こった。何と、我が国最高学府の医学部出身者が信者となっていたではないか。専門バカというが、ここまでバカになると言いようがない。私は、中途半端で不真面目な科学者ではあるが、仮にも科学に身をおいているからには、神の存在は信じないし、無神論であり、無宗教である。
その当時、地球環境問題が浮上し、その上、ソビエト連邦の崩壊まで起こった。直感的に、人間とは何かを知らなければならないと考えた。そこで、自然生態系の研究を始めることにした。特に、人間を含めた自然生態系に関する研究である。このテーマであれば、とりあえず短期的には何の成果も得られない。ひたすら歴史を追い現実を観測するだけである。それも、人間の側から観測する必要がある。当然、今もって、「人間とは何か」への解答は得られていない。
というわけで、2017年の終戦記念日から堕落論2017を書き始め、2018、2019と少しづつ書き進めてきた。堕落は、人間の本性であり、知性の本態であると確信する。堕落は、知的生命体である人間にだけ与えられた特権である。人間は堕落するから、神や仏を想像し創り出した。堕落しなければ、神や仏は必要ない。犬や猫、猿やオランウータンには、神も仏も必要ない。堕落の根源は、人間の欲望にある。
ところで、欲望とは何かである。日本語では、欲望、欲と言うが、英語を調べると、desire、lust、greed、thirst、hunger、appetite、等々といろいろある。英語では、性欲、食欲、強欲等のような欲望の種類や強度によって使い方があるようである。
人間がなぜ欲望を抱くかについて、脳内のメカニズムはほとんど解明されていない。大脳側頭葉の旧皮質という原初的脳が食欲や性欲、恐怖や攻撃という生理的・本能的欲求に反応し、自己顕示欲や野心といった想像的な欲求は前頭葉の思考部が関係していることは分かっている。欲求に関係する脳が、内的・外的ストレスによりどうして反応するのか、その反応がなぜ思考に影響を与えるのか、欲求によって活発化した思考脳がなぜ想像的なのか、ほとんど何も分かっていない。
今から半世紀以上前に、マズローが欲求の5段階説を唱えた。「生理的欲求」「安全への欲求」「社会的欲求」「自我欲求」「自己実現欲求」の5段階である。性欲や食欲といった人間の生理的欲求から順により高位の欲求へと発展する。本能的で動物的な欲求から知的欲求へと欲求は際限なく拡大するのである。
キリスト教、イスラム教、仏教等宗教では、本能的欲求に耐えることから修行が始まる。人間の欲望の始まりである本能的欲求(五欲、六欲)に耐えられなければ、高次元の想像的欲求をコントロールし、正しい知性の働きへと導くことなど到底不可能なのだ。
人間の飽くなき欲望は、堕落への道であることは間違いないが、反対の堪忍、忍耐、自重もまた限度を超えれば人間破壊・社会の停滞につながる。生きていける最低限に生理的欲求を押さえ、不安や恐怖からひたすら逃避し社会から遠ざかるような生活は、確かに堕落してはいない。しかし、こういった遁世、隠棲、厭世的思想、清貧思想が蔓延すれば、社会は崩壊の道を進むことになる。
欲望の制御とは実に難しいものである。人類の進歩は、知的探求と欲望の制御によってもたらされた。欲望の制御、堕落は、知性を働かせ豊かな想像力を発達させた。知性とは想像力であるとも言える。
2500年前の人類がどれだけ遠い未来を、そしてどのような未来を想像できたかは全く分かっていない。人類の知的進歩の本質は、想像可能な未来時間と内容である。江戸時代の武士、農民、庶民がどのように未来を想像していたのか、これも全くわからない。江戸の都市計画等をみるとそれなりの未来を想像していたことは間違いない。しかし、人類が確固たる未来社会を想像し始めたのは、19世紀近代西欧科学の発展以後のことではないだろうか。ただし、神や霊的存在という空想の世界は別である。
いつものように、話がそれてしまうことはご容赦願いたい。これも、自由にものを言うために必要不可欠なことであるから。ということで、堕落の視点から最近のトピックスをみることで、この堕落論を一時中断としよう。
★厚労省の不正統計問題 あれやこれや
文部科学省、財務省に続いて今度は厚生労働省の不正統計問題だ。不正の対象となった統計は、「毎月勤労統計調査」という統計だ。それも、本来悉皆調査をしなければならないところを適当なサンプリング調査でやったので不正だということらしい。毎月勤労統計だから、毎月調査をしているのだろうが、今の時代に何も悉皆調査をしなくてもと思うのは、不正をやったとする厚労省の役人ばかりではあるまい。それにしてもだ、統計を軽く見過ぎている。厚労省には、人口統計や労働統計等、国の重要統計が集中しており、古くから統計の専門家がごろごろしていた。厚労省官僚のトップクラスは、必ず統計部局に配属されて勉強したものだ。統計手法によって誤差が異なることは熟知しているはずである。
ところで何が問題かと言えば、報道によれば「アベノミックスの成果をよく見せるために官邸から調査の改ざん指示があった」というものである。一方、不正調査をした厚労省の理由は、
①大手企業が調査に時間がとられるため、協力を得るのが難しくなった。
②統計関係の予算が十分なものではなく、調査に支障を来していた。
というところだ。
勤労統計調査であるから、産業種類別賃金等の実態調査である。今どき、手作業で給与計算をしている企業などよっぽど零細な企業以外には考えられない。何故、厚労省は、こういった決まり切った調査のシステム化をしないのだろうか。コンピュータ化された給与計算結果を所定の様式に集計整理して、都道府県に自動的に送信するなどは、極めて簡単だ。様々な役所のルーティン化している統計調査業務等は、システム化すべきであるが、何故かしようとしない。
ところで、国の統計がおかしいのは、今に始まったことではない。12~13年前であったか、産業連関表の分析をしようとデータを整理していたら、中間投入額とその合計値が違うではないか。産業連関表は、産業分野別に中間投入額が算出されているから、どこにデータミスがあるのかを発見するのはかなり難しい。ミスは1箇所どころではなかったと記憶している。こんなデータが10万円以上で売られていたのだからたまったものではない。平成の市町村合併が終了した頃には、今度は統計の種類・内容が変更された。例えば、それまでの事業所・従業者数統計は、経済統計に変更され、内容も簡素化された。総務省だけではなく、農林水産省、経済産業省、国土交通省、厚生労働省等々、すべての省庁の統計内容が簡素化(詳細部分を省く)されてしまったのだ。ちょうど、民主党政権への移行時期に一致する。その前から、予算削減により徐々に統計の簡素化が進んでいたが、民主党政権下の事業仕分けによって一気に進んだ。
何のことはない、不正統計問題の根は、事業仕分けによって省庁外郭団体を一掃し、統計内容までも簡素化してしまうという予算削減にあった。勿論、役人の怠慢、堕落は否めないが、これにも原因がある。橋本内閣以後の構造改革と称する機構いじりである。この官邸主導の役人管理体制は、民主党政権下で完成される。行政組織というものは、それ自体が社会主義体制である。政治が行政組織を管理するということは、ポピュリズムを常套手段とする民主政治において、政権政党の都合のいいように官僚組織を支配し、社会主義的官僚体制をさらに強化することになりかねない。特に、議会制民主主義においては危険である。
官僚の自律性を維持することは、極めて困難である。日本だけではなく、世界各国の行政組織においても似たり寄ったりと思えば良い。規則、法律、罰則等を強化することである程度は可能であるが、規則・規制による組織管理に限界があることは、歴史が示している。企業経営では、経営者の人格がマネージメントの基本となる。経営者の人徳である。何を経営組織の目的とするか、何をもって経営行動の正義とするか、組織人の使命とは何か、等々、徳目と倫理に関する見識、教養が経営組織の自律性に大きく影響する。
規則・規制による組織管理を強化すると、役人は自律的には動かなくなる。良くも悪くも、官僚体制というものは、官僚OBも含めた内発的自律思想によって組織が維持されていた。官僚組織における自律の精神とは、単なる規則ではない。今の官僚統制は、歴史と伝統に裏打ちされた価値観、使命感に基づく官僚思想を断ち切ったのである。
国会の議論は、「官邸が政策成果を有利にするように統計改ざんを指示した」のではないかという点である。こういう事実があったがどうかはわからないが、統計データの扱いが争点になっていることは、上記のように事実である。仮にも国会における議論である。未熟な民主主義発展途上国の国会が、政権の追い落としを狙って執拗に野党が与党を攻撃する手法と同じである。森友問題をはじめとしたこの2~3年の政治論争は、正しくない。規則・規制が改善になると信ずる政治思想こそが問題なのである。どうすれば、官僚の自律的精神、進取の気性を喚起せしめることができるのか。贈収賄や役人の腐敗は、目に見える堕落であるが、精神の堕落は目に見えない。日露戦争が終わり大正期に入ると、明治維新の元勲や言論人の大半が亡くなってこの世にはいなくなった。官僚の精神的支柱であった維新の志士がいなくなったこの大正デモクラシーの時代は、まさに官僚・高級士官の精神的堕落の始まりであった。出世とごますり、忖度である。陸軍大学校では、そういう奴を納豆と呼んだそうだから、公然の事実となっていた。納豆的な奴が官僚、軍人のトップに座り、政治家となったことが第二次世界大戦の悲劇を生んだとも言える。政治家の諸先生方よ、今の世の中、目の前にある現実問題とその本質について言いたいことは山ほどあるのではないのか。ちまちました問題は、法的手続きでわかりやすく簡便に処理し、問題の本質を問え。
★朝鮮半島情勢 あれやこれや
二回目の米朝会談がものわかれで終わった。トランプは、会談途中で席をたったとか。何はともあれ、米国流ドタバタ劇というか、ビジネスドラマを地で行く演出ではないか。これで、一国の命運を決めるのであれば、こんな簡単なことはないが、国の命運は、企業間取引とは訳が違う。北朝鮮という国家のよってたつ論理などというものも、はなはだ怪しげなものである。
最近の報道によれば、北朝鮮に拘束されていた米国人青年の医療費2億円を、北朝鮮が米国に支払えと請求したという。根拠は、解放交渉にあたった米国側高官が解放条件として文書に署名したからだそうだ。米国側高官も「支払うべきだ」とか何とか言っているそうだが、手続きからすれば、そういう契約をしたのだから支払うのは当然であるが、米国の報道によれば、拘束中の拷問によって脳に損傷を受けたとある。それが事実であるならば、被害を与えた北朝鮮側が賠償金を支払うのが妥当なところだろう。米国青年が何のために北朝鮮を訪問し、何故スパイ容疑をかけられたのかがよくわからない。本当に脳に損傷を受けるほどの拷問を受けたのかどうかも詳しくは報道されていない。
北朝鮮だけではなく、韓国情勢も怪しげである。韓国大統領の文在寅という人物は、北朝鮮からの避難民の子であるという。相当貧しい家庭で育ったようだ。
ところで、韓国の政党というのは実にわかりにくい。リベラルと保守という二大政党ではなく、社会情勢によってめまぐるしく変化する。日本の野党の分裂・融合みたいなことをしょっちゅうやっている。韓国には、戦前の日本の治安維持法みたいな国家保安法という法律があって、共産主義等の政治活動は禁止されており、言論の自由もない。この法律によって、共産主義的労働運動も政治活動も禁止されているため、反保守の政党がどこまで民主主義的であるかの評価は極めて難しい。つまり、政党幹部が共産主義者なのかどうかの判別は困難なのである。
文在寅は、金大中、盧武鉉と続く反保守系政治家である。金大中は、日本のグランドパレスから拉致された金大中事件で有名である。たしか1973年頃と記憶している。不思議なことに、この事件の前後から北朝鮮による日本人拉致事件が頻発する。金大中の拉致には、日本の右翼ややくざが深く関わっていた。この事件の25年後、金大中は韓国大統領に選出される。金大中の有名な政策に太陽政策という北朝鮮との融和政策がある。北朝鮮への5億ドルの不正送金問題、息子達による不正蓄財問題で失脚するが、太陽政策によってノーベル平和賞を受賞する。このノーベル平和賞にも不正働きかけがあったらしい。北朝鮮に送金された5億ドルは、現代グループが画策したようだが、金正日とその息子で最近暗殺された金正男、粛正された張成沢にわたったということが分かっている。
現在の北朝鮮の脅威は、金大中の太陽政策と不正資金によってもたらされたのではないのかと考えるのは、何も朝鮮半島情勢の専門家に限ったことではなかろう。北朝鮮のミサイル、核爆弾開発は、2000年以後急速に進展している。金大中の後に大統領となった盧武鉉は、太陽政策を継続し、北朝鮮との融和政策を進めた。盧武鉉もまた、不正資金疑惑、親族の贈賄容疑、逮捕有罪があり、退任後自殺した。
ところで話はそれるが、識字率と国政との関係を少し調べてみた。19世紀の先進諸国の識字率と現代民主政治とに関係があるのではないかと考えたのである。19世紀中頃のイギリス、フランスの識字率は、都市部では70%以上という説もあるが、小学校の就学率が両国とも10%未満という説もあるので本を読む、日記を書くといった能力は、良く見ても40%程度ではないかと推定される。アメリカもほぼ同様の水準ではないかと思われる。日本の場合には、寺子屋制度の就学率が80%を超えていたというから、いろはの読み書きだけではなく論語までも読めた可能性は高い。戯作本が飛ぶように売れ、貸本屋も繁盛したことから都市部では50%以上であったと推定してもいいだろう。一方、中国はどうかといえば、20世紀初頭でも20%に満たないと推定され、王朝の役人、商人、僧侶等に限定されていたと思われる。韓国の識字率はよく分かっていない。韓国側の説では、日韓併合以前の韓国には、私塾が沢山あって識字率が高かったが、併合後の学校制度では授業料が払えなくなり識字率が低下したとされている。日本側の記録では、1910年の日韓併合後に学校制を開始しても識字率が向上せず、福沢諭吉等は、原因として漢字による文字表記ではないかとしてハングル文字の使用を進めている。ハングル文字の利用が盛んになるのは日韓併合以後であると考えるのが妥当なところである。
さて、こういった各国の識字率をみると、民主的政治が進む背景には、どれだけ多くの国民が読み書きできるかということが大きく影響していると言えるのではないだろうか。中国は漢字発祥の地であるが、あまりにも漢字が難しく、2千年以上に亘り特権階級以外の庶民は読み書きができなかった。韓国の文字は漢字で代替していたが、日本語のカナに相当するハングル文字が近代以後に使用されるようになり、普及したのは20世紀に入ってからである。カナだけで書かれた文章がいかに読みにくいか、ハングル文字による文章の読解のややこしさが想像できよう。文学、評論、哲学、歴史、法律、思想等々、およそ論理的な文章等が、カナだけで記述されていると想像してみると良い。漢字はそれ自体が表意文字であり、見ただけで意味が理解できる。西欧の単語もギリシャ語、ラテン語を起源としており、単語を見れば意味が理解できる。カナやハングルは表音文字なので見ただけでは、単語、熟語のような読解が難しい。
ある国家国民の識字率だけではなく、使用している文字によって国民の論理的理解力の度合いを評価することが可能だとも考えられる。最近の中国の簡体字等は問題である。現代中国人の大方は、歴史的文書はほとんど読めないと思われる。韓国人はさらにひどく、19世紀以前の歴史書は読むことさえ不可能である。
最近、武士道を調べるために「葉隠」を読んだ。江戸時代1700年頃の鍋島藩の武士が聞き書きした文書である。読み始めは、漢字辞典と首っ引きで少し苦労したが60ページ目ぐらいから、すらすらと読み、理解できるようになった。漢字かな混じり文であれば、平安時代ごろまでの文章は、訓練すればほとんどの人が読んで理解することができると思われる。
識字率、文字様式の歴史が、国民の民度や文化度を大きく左右したと考えられる。国民の知的成長度合いは、社会・経済・政治の進歩と密接に関係する。その国の言葉は重要であるが、最も重要なのはどんな文字を使用するかだ。日本は、明治維新以後、西欧文学、哲学、科学、法制度等を輸入するために、膨大な造語を作った。曖昧な翻訳後もあるが、それでも江戸時代に使用していた漢字のイメージと合致する言葉をあてて、直感的に判断可能なものとした。このことが、明治期における国民知性の飛躍的進歩となったことは疑いようがない。
さて、文在寅であるが、この人は、盧武鉉の弁護士事務所に勤務することで、政治的活動に加わることになったようだ。盧武鉉という人は、弁護士活動の当初はやたら金儲けがうまい弁護士だったようである。文在寅も同じ弁護士事務所だから、金儲けはうまい方だと思うが、盧武鉉が大統領時代には、側近であった。盧武鉉の不正資金問題にもおそらく深く関与していたと思われる。
文在寅の思想が共産主義的であるのか自由主義的であるのか、右か左かの程度は分からない。しかし、アメリカ的なリベラリストというよりは、冷戦時代の資本主義国における左派のイメージに近いと思われる。日本の1980年代で言えば、社会党よりは共産党に近いというイメージである。
韓国の政治情勢は、李承晩以来、日本では想像さえ困難な激変を続けている。歴代の大統領は、すべてといって良いほど金権、不正蓄財で暗殺、自殺、投獄されている。こんな国とまともな付き合いができるわけがない。我が国の立ち位置は決まっている。我が国の政治家は、自らを律し、我が国の国家思想である、資本主義、自由主義、民主主義、平和主義、人権主義、環境主義等を確固たるものとし、抑止力としての軍事力を憲法に明記して、これが国家の正義であることを毅然として韓国に示すべきである。このことは韓国だけではない。グローバル経済に浮き足立っているアジア諸国の政治・経済に対して我が国の正義を示すことこそ、太平洋戦争の真の終結である。
慰安婦保証問題が再燃している。何とも切ない話だが、性ビジネスの問題は、この世の中に男と女がいる限り避けて通れない問題の一つである。突き詰めて考えれば、婚姻そのものが性のディールだ。汝、姦淫するなかれとは、キリストの山上の垂訓である。キリスト教では、婚姻は男女の性に関する固い契約である。キリスト教という宗教は、男女の性に関しては厳格である一方、あえて見て見ぬふりをする。マグダラのマリアとキリストとの関係は微妙であり、ダン・ブラウンのダヴィンチ・コードという小説で有名になった。キリストの子孫は今でも存在するらしい。キリスト教という宗教は、セックスについて建前と本音を使い分けている。キリスト教の浸透と共に男尊女卑の思想が広がったと言っても良い。
ところで、慰安婦問題が気になって、売買春について少し調べてみた。日本、中国、韓国、アメリカ等は、現在も売春禁止であるが、ヨーロッパ、アジアの多くの国では、売春は合法なのである。オランダ、ドイツ・ハンブルグ等の飾り窓の女は、隠れた観光名所になっている。売春には、人身売買、性病、麻薬等薬物問題がついて回るので、深刻な社会問題となる。組織的な犯罪ではなく、個人間の性の取引であれば、自由とするというのが主流になりつつある。
戦前は、公娼といって、国が認可した売春宿があった。日本だけではなく世界中すべてと言って良い。日本は昭和31年の売春禁止法により禁止となったが、韓国にはつい最近まで国営の売春宿があったらしい。軍隊と慰安所は、まさについて回っており、戦後もしばらくの間は韓国軍にもあったという。
それでは、この慰安婦問題をどのように解決すべきなのだろうか。どうも、方法は一つである。売春は、人類不滅の、かつ根源的ディールであることを考えれば、日本、韓国、ヨーロッパの売春の歴史と現在、そして売春が如何に根源的なものであるかの解説本をだれかが書いて、世界で販売することである。世界のすべての国で、軍隊の駐留地には合法、非合法に関わらず必ず売春地区が隣接している。韓国の駐留米軍と売春の実態レポート等は、アメリカでは相当売れるはずだが、CIAから脅迫されそうだ。
徴用工問題にも困ったものだ。桜井よしこさんの解説ではないが、慰安婦や徴用工問題の裏には、日本政府あるいは韓国政府から基金を出させ、それを食い扶持にする集団がいるのではないかと疑いたくなるがどうだろうか。左翼系活動家・弁護士・政治家等の集団である。
徴用工については、一部には過酷な労働もあったかもしれない。日本国内でさえ、蟹工船ではないが、奴隷同様の労働環境が一部にはあった。戦前の日本のプロレタリア文学にも数多く見られる。戦前の軍需産業への就業は、何も日本だけに限ったことではなく、イギリス、アメリカ、ドイツ等でも見られるし、植民地においても現地人の徴用は常識であった。賃金、労働条件が日本人と同一であり、強制的労働ではない限り、法的な制裁を受けることは不当である。
慰安婦、徴用工問題も含め、日本が韓国に対してとるべき姿勢は、前述のように何が国家の正義であるかを毅然と示すことである。日本国民は、戦後の破壊と貧困の中から国民の懸命の努力と弛まぬ技術の研鑽によって世界第3位の経済大国にまでに成長した。その間、可能な限りの戦後賠償と惜しみない技術協力によって韓国の経済成長に寄与してきた。現在においても、通貨スワップは終了しているがいくつもの経済協力を継続している。韓国政府のここが悪い、あそこがおかしいと言うことはもはや止めよう。客観的な分析による理性的な判断を行い、韓国に対する対応策の妥当性を丁寧にかつ論理的に説明し、果断に実行すべきである。韓国の反日や抗日運動がどのような動きを見せようと一切反応はしないことだ。ニュース報道は、冷静に報道すべきである。
★アメリカの大統領 あれやこれや
ところで、1993年以後のアメリカ大統領は4人であるが、このうち、ビル・クリントン、ジョージ・ブッシュ、ドナルド・トランプの3人は、1946年生まれの同い年である。バラク・オバマは、1961年生まれであるから、これら3人に比べればかなり若い。クリントン、ブッシュ、トランプの3人の生い立ちの共通点と言えば、1946年生まれの同い年以外に、ほとんど共通点は見られない。
クリントンの育った家庭環境は、義父がアル中で酒癖が悪いということを除けば、戦後の平均的家庭といったところだろう。1968年ジョージタウン大学を卒業というからまあ順当に進んでいる。その後、オックスフォード、イエール・ロー・スクールに進むという長い学生生活をおくっている。1960年代後半のベトナム反戦運動にも参加しているが、それほど熱心な運動家というでもなく、むしろ学生時代から政治活動に参加して留学、ロー・スクールへのチャンスをものにした、努力家で運のいい男というところだ。1978年のアーカンソー州知事選に勝利するが、その前に下院議員選での敗退、州司法長官選勝利等を経験している。企業実務経験がほとんどない、政治好きの幸運な南部生まれの青年がそのまま大統領になった。
ブッシュは、言わずと知れた東部コネチカットの名門ブッシュ家の長男である。イエール大学を卒業し、ベトナム戦争中にテキサス州兵として6年間を過ごしているが、ベトナムには行ってはいない。その後、石油会社やMLBのオーナー等をして食いつなぎながら1995年にテキサス州知事になる。ブッシュの政治活動は、この時から始まり、2001年に大統領になった途端に9.11同時多発テロにあう。クリントンに比べると、名門ブッシュ家という後ろ盾で大統領にはなったものの、実についてない男と言わざるをえない。
トランプは、ドイツ人移民の父とスコットランド人の母の間に生まれた5人兄妹の4番目である。ニューヨークのクイーンズで育ち、ブロンクスの大学に入った後、ペンシルベニア大に転校している。クイーンズ・ブロンクス育ちというから人種のるつぼで育ち、相当手の付けられない不良であったらしい。他の兄妹についてはよくわからないが、姉には裁判官などもいるようで、トランプは、兄妹のなかでは出来のいい方ではない。大学卒業後は親父の不動産業を手伝い、その後不動産開発業で独立するが、地上げ、カジノ経営等何でもやっているので、推測だが、その筋とも少しは関係しているのではないかと思われる。一時期は、事業に失敗し借金を抱えるが、何とか乗り切ったようだ。現在も中国の銀行に多額の借財があるという噂もあり、中国に貿易戦争を仕掛けるのもなんとなくうなずける。
クリントンは、品行方正で努力家、そこそこに勉強ができて野心もあり、女好きの好青年タイプ。ブッシュは、才能はないが、天性の人の良さと親父の七光りで何とかのし上がったお坊ちゃんタイプ。トランプは、商売人の父親に「金の稼ぎ方」を仕込まれ、脅しとごますりの才能に磨きをかけた典型的商売人二世タイプ。
オバマは、以上の3人の大統領に比べて、15歳も若く戦後世代ではないこと、アメリカ初の黒人大統領であること、演説のうまさ等が目立っているが、オバマケア政策以外にはこれといった新たな政策はなかった。現在の中国の経済成長と覇権主義に何もせず、知的所有権問題を無視したとか、イラクからの米軍の撤退を早めたためにISを肥大化させた等、無能な政策に対する批判が大きい。ブッシュ後のテロ対策を政策の主眼とすべきところをやりきれなかった。政治的経験の浅さと、生まれ育ちから推測できるが、周囲の人の空気を巧みに読む知恵が、「Change」のスローガンだけで何もしなかった大統領となったとも言える。
クリントン時代は、ITバブル期であり、アメリカのIT企業が飛躍的な成長をとげ、米国中が沸きに沸いた。不動産証券化、活発な住宅開発とともに新たな金融商品が次々に生み出された。クリントンにもこれといった政策はないが、しいてあげるとすれば政策手法に成果主義を取り入れたことぐらいだろう。成果主義とは、政策成果をアウトプットではなく、アウトカムで評価するという手法である。これがなかなかわかりにくい。アウトプットとアウトカムでは何がどう違うのか。このことは少しおいて、そもそも政策をどのように評価すべきかについては、古くから様々に議論されてきたにもかかわらず、何故この時期にクリントンが成果主義を唱えたかである。推測にすぎないが、アメリカ経済がITバブルによって奇跡的に再生・回復したこと、Windows95の登場によりインターネットの発展が期待され新たなIT市場が生まれること、情報通信技術の発達によりグローバルな金融市場が形成されると見込まれること、等々の経済成長をもたらした要因が、企業経営の成果主義による結果だともてはやされたことがあると思われる。当時、経済学者は、もはや米国に不況はないとさえ言っていた。今になって考えると、単なるイノベーションであって、すべて嘘だとわかるのだが。
クリントンは、企業経営の成果主義という考え方を政策手法に採用した。1980年代中頃から政策科学なる学問が登場し、NPM(New Public Management)という経営手法を政策に取り入れた。この手法を、政策評価に応用し、1993年に政府業績評価法 GPRA(Government
Performance and Results Act)という法律を制定する。この制度は、成果目標(アウトカム)を数値目標で示し、毎年評価するというものである。その後、同様の制度は、旧英国領である、オーストラリア、ニュージーランド、カナダで採用され、日本も採用した。
ところがである、9.11以後、政策の計画様式としては現在も継続しているが、肝心のアウトカムの数値目標なるものは、姿を消してしまう。さらに2000年代に入ると、住宅バブルとなり、企業の成果主義等はどこかへとんでいき、金融工学による荒稼ぎが主流となる。
当時、日本では政策評価だ事務事業評価だとどこかの県の知事が叫んでいた。細川内閣、村山内閣と革新政党時代のことである。
実は、この成果主義による政策運営というのは、実に面倒なシステムなのである。企業の成果主義などというものはいい加減なもので、利益の一定額を研究開発や社会貢献に使い、消費者の潜在的購買意識に良い企業イメージを植え付けることで、消費者が商品やサービスを選択する場合の優位性を確保するというものである。いわば、経営の保険のようなものをアウトカムというと思えば良い。こんなものが政策成果に利用できるわけがない。企業ならば、低コストで効果の高い方法に金を使えば良いが、政策となるとそうはいかない。くそまじめに、政策目標を検討し、成果目標なるものを何とか創り出し、それも実行可能な範囲の数値目標をひねり出す。そして毎年、毎年データを集め評価するのである。税金がこれでもかこれでもかと投入される。すべてが無駄であるとは言わないが、国や都道府県が実施している今の政策評価なるものは、90%は不要だ。1/10以下に簡素化すべきである。成果指標は不必要だ。定性的目標でよい。政策評価は、議会で議論すべきである。
米国は、日本の会計検査院とは異なり、議会にGAOという監査機関が設けられている。業績評価は、議会委員会の専権事項なのである。
ところで、新自由主義経済とか自由放任経済といった経済思想が、このクリントン時代に再燃する。IT革命でイノベーションに成功した米国にとって、グローバル化した金融市場は何はともあれ自由放任でなければならなかった。これに対しても、クリントンは何もしなかった。前述のNPM、GPRA、そして費用対便益(B/C)という政策評価の3本柱は、この時代の新自由主義経済思想を理論的背景に形成された。
新自由主義経済思想なるものは、フリードマンらの経済学者達が提唱した。簡単に言えばというよりこれしか理論的根拠はないのだが、すべての経済は、市場に任せれば良いという思想である。それも完全に自由な市場にである。医療、福祉、教育等、行政サービスのほとんどすべても市場経済でやるべきだという。こんなことができるわけがないことは、ちょっと考えればわかることである。貧富の差、つまり格差の大きい社会では、教育さえままらないというのに、市場経済による教育経済システムなどを導入すれば格差はさらに広がることになる。さらにいう。格差が広がったら貧困層には税金とは逆に国から給付金を支給するのだそうだ。こうなると、自由放任の資本主義経済は格差社会を生み出すと証明しているようなものだ。
ところで費用対便益という経済手法にも問題がある。便益をすべて貨幣価値に換算して評価するというのが費用対便益分析である。公共事業などの公共政策の効果のうち経済効果として貨幣換算可能なものもある。例えば、道路や橋を作ればそれなりの経済効果は発生する。さらに、公共事業そのものが経済波及効果として雇用を生み、技術開発を促進させる。ケインズの乗数効果である。しかし、貨幣価値に換算できないものも沢山あるのだ。この便益という概念を研究したのがベッカーである。フリードマンの弟子であり、新自由主義経済を担いだ経済学者の一人である。とんでもない学者で、自殺の便益等とてもつもない貨幣価値への換算方法を考え出した。
新自由主義経済学なるものに、格差是正の経済思想といったものはちりほどもないのだが、格差社会が広がるとみると、前述のように貧困者への給付金制度だと主張し始める。これでは社会主義ではないか。そうか、新自由主義思想とは、状況に柔軟にかつ自由に問題解決に当たる経済手法なのだ。経済思想・哲学というには余りにも狭小であり、経済理論というよりは経済手法といった方が適切であろう。
自由放任の経済学だけではなく、特に経済学は、極めて危うい学問である。経済学に限らず、社会科学という学問(科学と呼べるかどうかは問わなければならないが)全般が危うい学問なのである。経済政策、医療福祉・教育等の社会政策、公共政策全般に対して、社会・経済学者は自説の経済理論(理論というよりは手法)は絶対正しいとしてやたらと実験したがる。こういった社会実験で成功した試しがない。日本のバブル経済は、フリードマンが日銀の顧問であった時期に一致し、マネタリズムそのものによってもたらされた。バブル崩壊した時には、急激な金融引き締めが原因でありもっと緩やかにすべきであったと言っている。バブルの前には円をどんどん印刷して、ドルをやたら買わせていたのにである。
何はともあれ、1990年代アメリカのITバブルは、その場限りの金儲けとばくちに明け暮れる金融経済に依存した自由放任経済システムへと突き進むことになる。これがクリントン政権の本質である。
クリントンからブッシュに替わってすぐに、あの9.11が発生した。米国にとって歴史的衝撃である。ちょうど徹夜で仕事をしており、テレビを付けっぱなしにしていた。すると、突然ニュースが飛び込みツインタワーから煙りが上がっている。何が起こっているのか放送している方もわからないようだったが、2機目の飛行機が突っ込んでいくところがリアルタイムで放送された。攻撃目標となったのが、ウオールストリートの貿易センタービルであり、アメリカ金融経済の中心地であった。
ブッシュも運が悪いというか、本来ならばクリントン政権下で起こってもおかしくないテロであるが、なにせ、外交的には何もしなかったクリントンの後に大統領となったのである。イラクのサダムフセインからみれば、父ブッシュの湾岸戦争以来、にっくきブッシュ一族である。
ブッシュ政権の最後の年には、あのリーマンショックに陥る。つくづくこの男はついていない。住宅バブルの芽は、既にクリントン政権下のITバブルと同時に発生していた。
テロ対策と経済再生という二大政策課題に対して、オバマは「チェンジ」と叫んで登場した。この男もオバマケアという医療改革だけが政策成果として挙げられるが、他にはこれといった政策はない。テロ対策どころか、イラク、アフガニスタンからの撤退、アラブの春とその失敗、ISの台頭、中国の覇権主義の助長等々と外交上の危機的失政を招いた。と言っても、当人はノーベル平和賞を受賞するというのだから話にならん。
そして、わがトランプの登場となる。堕落論2018にも書いたように、この男の登場にはいささかびっくりした。私がびっくりするより、当の本人が最も驚いたに違いない。まさか当選するとは思ってもいなかったのだろうから。当選するなりメディア批判、フェークを連発する。オバマケアの撤回、メキシコとの壁と移民規制問題、次いで、同盟国に対して驚異から守ってほしければもっと金を出せだ。今は、盛んにディールしている中国との貿易問題である。
この男の価値基準は、これまでの行動をみれば極めて単純明解であることが分かる。今、やれることをやるということだ。それが、選挙で勝つために必須であり、他のことはどうでも良いのである。しかし、考えてみれば、理想を掲げて挑んでみても、たかだか4年か8年で、世の中がそれほど変わるわけではない。それよりは、票集めであっても見たくない現実問題にメスを入れるのであれば、最も確かな政策である。それが遠い将来においても正しい政策であるかどうかは、誰もわからないのだから。今、トランプがやっていることは、少なくとも誰もが見たくない現実であることは間違いない。企業経営の本質は、理想を求めて、いけいけどんどんで闇雲に突っ走ることではなく、今、そこにある問題、それも誰も見たくない現実問題をいかに早く解決するかにかかっている。先送りしないで終わりにすることが重要なのである。
中国との貿易問題は、貿易問題が問題なのではなく、共産党一党独裁による共産主義政府が巨大化することに対する危うさーリスクーである。このまま放置するわけにはいかない。かつて、冷戦時代に、経済は東西に分断されていた。中国市場が自由主義圏とは一線を画すことになるのは、今の政治体制が続けばかなり近いうちである。それで困るのは金余りの投資家や企業だけだ。その時には、経済構造を作りかえればいいだけではないか。10年程度は相当苦労するかもしれないが、日本が生き残るには最善の方策である。日本企業も既に中国から徐々に離れ始めているとは思うが、そろそろ引き上げの方法とタイミング、他の民主主義国への移転を本格的に考えておく時期である。そのために、400兆円を超える内部留保を貯め込んだのだから。
トランプは、クリントン以来ほとんど何もしなかった大統領に比べればそれなりにやっている方である。ここまでくると、もう少し続けてやってくれと言いたくなる。アメリカ国民ももう少しやらせてみるかという感じになっているのではないだろうか。
何はともあれ、ここしばらくはトランプから目を離せない。米中貿易問題と覇権争い、北朝鮮問題と戦争、中東紛争等々、どれ一つとっても我々の生活と密接に関連する。メディアにとっては大喜びだ。メディアが煽らなくても、トランプがかってにやってくれる。
★平成から令和へ あれやこれや
平成から令和へと元号が変わった。考えてみれば、現代では元号なるものに何の意味もない。歴史的には、中国皇帝による統治年を示し、紀元前140年の「権元」が始まりである。日本では、大化の改新(最近では大化の改新とは言わないようだ)が元号の始まりとされている。元号の平均年数を調べると、たかだか数年といったところだ。天変地異や政変があると、良い年にしたいと元号を変える。一世一元号となったのは、明治からである。明治時代以後、天皇の即位年数は、天皇と同年代の国民の平均的労働年数にほぼ一致するので、元号は、時代感覚というか時代性をなんとなく表している。
「令和」の典拠は、『万葉集』巻五の「梅花謌卅二首并序(梅花の歌
三十二首、并せて序)」/天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也」である。「令和」の選定については、文藝春秋2019年6月号に選定者の一人である中西氏が一文を載せており、令和の令は、麗しいという意味であるとしている。
梅花の歌序の一部は下記のようになっている。
于時初春令月 氣淑風和
時に初春の令月(この場合『令』は“物事のつやがあるように美しい”の意)
新日本古典文学大系『萬葉集(一)』(岩波書店)の補注では、「令月」の用例として詩文集『文選』巻十五収録の後漢時代の文人・張衡による詩「帰田賦」の下記の句を挙げているという。
於是仲春令月時和氣淸原隰鬱茂百草滋榮
仲春の令月、時は和し気は清む
天平二年は、西暦では730年であり、桓武天皇の平安遷都の64年前に当たる。大伴旅人が左遷されて太宰府に赴任し、正月の宴会で作った歌である。
令月の意味は、広辞苑によれば、
①万事をなすのによい月、めでたい月
②陰暦2月
となっている。参考に和漢朗詠集の例を挙げている。平安時代以後の解釈ではめでたい月や2月の意味で使われていたと思われるが、奈良時代のこの時代ではどうであったろうか。
その前に、暦について少し調べておく必要がありそうだ。天平2年頃、我が国で使われていた暦は、儀鳳暦という中国唐の麟徳暦を使用していた。この暦は、進朔という方法をとっていなかったので、暦と季節とのずれが大きかったと思われる。現在の暦は、グレゴリオ暦という太陽暦であるが、江戸時代までは太陰太陽暦あるいは陰暦、現代でいう旧暦であった。この陰暦は、地球が太陽の周りを回る黄道周期と月の周期とからなる二十四節気というややこしい暦である。1月1日を、冬至と春分の中間日として、1年を月の周期12で分割するが、一端1月1日を決めると1年で11日ぐらいずれてくる。このずれを補正するのが進朔という方法である。朔は新月のことであり、1日のことである。太陽と月・地球が並び、月が真っ暗になる日のことで、1直線になれば日食である。夜になって月が最初に見える日のことを朔日ということもあるが、この時代にどれを朔日としたかは分からない。しかし、大伴旅人が新春の宴を開いた正月13日は、望月、つまり満月だったと思われる。正月元旦の神社詣は、朔日の前日の夜の厄除け(節分)であり、元日のお祝いは、元来、1月の満月の夜に歳神(としがみ)を迎える神事であったものが1日元旦に行われるようになったと考えられるが、中国や日本の一部の地域では望月を1年の初めの祝いの日としている場合もある。歳神とは、民俗学、古代宗教の研究等でも知られるように、日本の古代では人が死ぬと山に葬った。通常、霊は山にいるが新年の初めに里に下りてくる。そのため、社(やしろ)が山の入口に作られ山から下りてきた霊が山に帰るまで止まるところとされた。
ということで、大伴旅人が開いた宴は、新年の歳神を敬う宴であると考えられる。太陰太陽暦は、1年の日数はかなり正確である。元日が新月であれば、満月は14日の夜中になると思われるが、新月から数えて14日目とすれば、13日が満月となったかもしれない。いずれにしても、まだ望月を年の初めとする風習はあったと思われる。梅の開花時期は、温暖化の現代では、奈良地方で1月末、九州北部で1月10日頃である。陰暦では、九州の梅の開花は12月末頃、奈良で1月上旬といったところだが、西暦730年ごろの平均気温はどうだったかである。これも研究されていて、屋久杉の年輪を炭素同位元素により測定して推定している。大化の改新前後は、寒冷期にあたりかなり寒かったようだが、この西暦730年前後から温暖化となっているから、現代ほどではないにしても、現代歴の1月末頃、陰暦の12月下旬には九州で梅が開花したと推定される。ということは、大伴旅人が歌ったように、初春1月13日頃は梅が満開であったと思われる。平安遷都後の西暦900~1000年頃の京都は、温暖期に当たる。2019年の京都の梅の開花は、2月24日であったから、平安時代中期では今よりはやや寒いので、満開は新暦の3月上旬、陰暦では2月上旬と考えられる。2月を梅見月と呼ぶのも納得できる。
令月の令という字を漢字源で調べると、上の「人」は、集めるとか、冠という意味であり、下の文字は、元来「ひざまづいて神意を聞くさま」と解説されている。
「帰田賦」の「仲春令月」は、仲春も令月も2月を示しているが、仲春はそのままで令月は2月と呼ぶ方が語呂が良い。つまり、「時は、春なかば2月」であり、仲春は2月にかかる言葉と解釈できる。しかし、大伴旅人の歌の解釈には次のように少し工夫がいると思われる。
①「時に初春であるが2月のようだ」
太宰府に赴任して初めての正月だが、奈良に比べてかなり早い梅の開花に驚き、「帰田賦」の句を借りて洒落たものと解釈する。
②「時に初春、歳神を迎えるめでたい月だ」
「令月」を先祖神を迎えるためのめでたい月と解釈する。「帰田賦」の2月の意味ではなく、「帰田賦」の句にかけたもの。
③「時は初春、麗しい月だ」
万葉集の常識的解釈。
大伴旅人の句に対する長い私見で恐縮である。「令」を単純に「良い」と解釈するには、やや抵抗があったためであり、何故、「令」を「良い、よし」と同義とするかについての説明がどこにも見られないためである。現代でも使われる、「令嬢、令息、令夫人、令兄」等の「令」は、敬称であり、しいて解釈すれば「ご立派なお子さん」等という言い方と同じである。「心から敬意を払います」という意味ともなる。「麗しい」という意味では余りにも意訳ではないかと思うがいかがだろうか。
さて、平成が30年続き、次の令和が現天皇の御存命期間とすれば、およそ30年といったところだろう。今の働き盛りの30代、40代の時代となる。令和時代の終わりは、2050年頃となり、人口は1億人を下回ると言われている。令和時代は、人口減少の時代だ。気候変動はますます激しくなり、関東大震災、南海トラフの発生確率は、70%以上と予想されている。「人智を尽くして天命を待つ」時代と言っては言い過ぎだろうか。もはや、人智では何ともしがたく、ひざまずいて天命を聞き、国民相和して奮闘努力する令和の時代となるのかもしれない。
★「今時の若い者は」 あれやこれや
今時の若者には欲がないと言う。最近の報道でも、欲のない若者についての特集があったと記憶している。「今時の若い者は」は、おそらく限りなく古くから、老人が当世の若者に対して抱く感嘆の普遍的言葉である。
考えてみると、私の若い頃にも、年寄りは「今時の若い者は」と言っていた。学生運動が過激化した時代である。当時の思想は、戦前からの大川周明、安岡生篤、文芸評論の和辻哲郎、小林秀雄、政治思想の丸山真男、福田恆存、吉本隆明、小田実、さらにマルクス・レーニンと、まさに思想の混濁、ごった煮状況であった。戦前・戦中世代においても、保守、中道、左派と様々であった。国鉄・私鉄のストライキは、当たり前の時代である。学生運動は、しまいには赤軍を名乗り、粛正、ハイジャック、国際テロにまで過激化する。こういった運動も、団塊世代が社会人になった1970年代半ばから、嘘のように消えていった。
今時の若い者は、何故こうも欲がないのだろうか。欲がないのではなく、欲のレベルが違うのではないか。いろいろ考える前に、まず「今時の若い者は」の「若い者」とは誰をさしていうのかから考えなければならない。
同じような表現に、例えば、「国民感情」の国民とは誰か、とか、「大衆」・「庶民」とは誰かといった疑問がある。スペインの哲学者、オルテガの名著「大衆の反逆」では、大衆とは平均的な国民をさすと言いながら、国民の何を平均するのか等、大衆とは何かについて論究している。そのとおりである。
「今時の若い者」の年齢はどうだろう。まず、「今時の若い者は」という言う側の年寄りの年齢からみなければならない。年寄りが現役からはずれる60代以後と考えるのが妥当なところだろう。平均的には70歳前後と考えておくことにしよう。そうすると、70歳前後の人にとって若い人というのはどうなのかということだが、自分の子供達の年齢以前とみることができるのではないだろうか。70歳前後の人たちの子供の平均年齢を仮に40歳としておくことにする。次に「若者」の最低年齢であるが、労働力年齢の最低が15歳だが、投票権が与えられる18歳以上とでもしておこう。これで、「今時の若い者」を、18歳以上40歳未満と考えることができる。
次に、「今時の若い者の欲」とは何かを問わねばならない。欲といっても、前述のように種類・程度等、結構色々である。マズローの言う欲求5段階のどの段階のどんな欲望をさすのかである。生理的欲求である性欲が減退することはあっても無くなるわけがない。食欲について同じだ。飢えて死ぬかもしれない、生きていけないという恐怖は、確かに戦後の一時期に比べれば、現代は無きに等しいが、それでも生きたいという欲求にそれほどの差があるとは考えられない。
ところで性欲であるが、文藝春秋の今年の6月号に、「30代の150万人が「性交渉未経験」」という記事が載っていた。日本人の30代の人口のうち10数%が異性との性交渉未経験だというのである。イギリスやオーストラリアでは、1%~5%だという比較分析もされている。要因として、所得が低いとか雇用形態が不安定だとかが挙げられている。しかし、現在の失業率は、3%未満であり、ほぼ完全雇用状態に近い。所得が低いから彼女を作らず、セックスが未経験だというのには少々無理がある。未経験なのだから、一度も異性とセックスしていないのだ。全く、別の要因ではないのかという疑問がわくがどうだろう。例えば、ホモやレズが数%いるのではないのか、あるいは、肉体的欠陥(勃起不全等)があるとか、何らかの精神障害のある人達が数%いる等も考えられるのではないのか。
どんな要因にしろ10数%というのは、異常な状態である。仮に、肉体的・精神的欠陥によるとすれば、セックス未経験では済まされない社会問題と考えなければならない。現在の30代が老後になると、確実に単独世帯が10数%発生し、そのうち数%は精神障害があることになる。これだけで、将来の社会保障制度は破綻する。
話はそれるが、「今時の若い者」のうち、自閉症、発達障害、学習障害、精神病等々の精神障害者が何%いるのかは、全くわかっていない。DV、虐待等のニュース報道が後を絶たないが、これらも一種の精神障害である。田舎では、発達障害、学習障害の若者や、遺伝的な精神疾患のある若者が、都会に比べるとはるかに多いように見える。都会に出て行けないために、結果として田舎に残り、田舎に濃縮されるのである。こういった精神障害者に加えて、アルコール依存症や酒乱、ドラッグ漬けの若者の増加である。丸山某という国会議員が、戦争しなければ云々で維新の会を除名されたという。東大出のエリート官僚であっても、酒を飲むと思考回路がおかしくなる。あきらかに何らかの精神障害としか考えられない。
性欲の有無は別にしても、セックスをしたくないという若者に金銭欲や名誉欲、権力欲、達成欲といった野心や欲望はあるのだろうか。野心家や金銭欲の強い人間ほど、性欲も強いというのが一般的であり、英雄、豪傑、権力者の歴史がそれを示している。性的支配欲も強いのである。
NHK-BSの「クールジャパン」という番組で、日本の若者には欲がないというのをやっていた。「今時の若い者」は、リスクを避けるのだそうだ。リスクというのは、将来の損得勘定のことである。今、こんな行動をとれば、将来、損をすることが予想される場合には、行動しないということだ。それでは、将来どうなるかわからない場合、つまり不確実な場合にはどうするのだ。リスクというからには、不確実な場合には、勿論、何もしないということだろう。つまり、「今時の若い者」は、損得勘定だけを自らの行動基準においているということか。
今の世の中、何も変える必要がないという精神が「今時の若い者」の精神だそうである。確かにそうかもしれん。何とも平和で、仕事も選ばなければあり、食うに困らず、困れば親が何とかしてくれ、社会保障もそこそこにあり、差別もない、素晴らしい日本に暮らしているのだから、何も変える必要を感じていないのである。
「金で成功することは評価されない」のが「今時の若い者」だそうだ。会社を作り、大金持ちになったところで、何ほどのものか。「そんな者は、俗物」だと言わんばかりであるが、どうもそうではなさそうである。最近、噂のウーファーの日本法人が、初任給を倍にして募集をかけたそうだ。若者の目の色が変わったというから面白い。大企業が、横並びの給与しか出さない時代が長く続いた。高度経済成長期には、外資系の企業と日本企業では初任給で2倍近い差があったと思う。優秀な人材の多くが外資系に流れていったこともあった。
将来に安定を求める若者が多いのだそうだ。つまり、給与はそこそこでも、長く努めることができて安定していることを望むという。そういえば、バブル経済の崩壊後、公務員への就職志望学生が急激に増加した。高度経済成長時代の就職志望は、何と言っても民間企業であった。公務員の給与がかなり低かった。東京ではとても生活していけなかったのだ。しかし、その後公務員の給与が加速度的に上昇し、現在では、中小企業レベル以上、大手製造業なみの給与だろう。公務員同士で結婚し、共稼ぎであれば、何とも優雅な生活である。
ところで、「今時の若い者」は、政治の話はしないのだそうだ。政治の話をすると、シリアスな話になってしまうので避けるという。社会保障問題、選挙、国際情勢等々、考えてはいるようだが、報道等を見聞きして一人で考え、自分の思考だけで納得する。誰とも話さないのである。社会、政治、経済、環境といった問題は、仕事上の問題や技術的問題とは異なり、白黒の解決が得られない問題である。各人各様の意見がある。しかし、問題をどの視点で捉えるか、問題の本質はどこにあるかを探るためには、人との意見交換は重要であり、学ぶことの原理でもある。学ぶとは、単に知識を得ることではない。問題の本質を発見することである。思考の壁を打ち破ることだ。「今時の若い者」は、年寄りの話も聞きたくないのである。何とも、浅薄で、薄っぺらな「若者」が多くなったものだ。それでいて、政治問題を全然知らない訳ではない。「君はそんなことも知らないのか」と言われるのが嫌なのだろうか。知識などは、お得意のスマホで簡単に調べられる時代だ。昔のように、知らないことは恥ではないのだ。知らないものは「勉強します」と言えば良い。
年寄りは、何時の時代でも「今時の若い者は」と言ってきたが、最近はほとんど聞くことがなくなった。年寄りが言わなくなったのだ。そんなことを言うと若者から嫌われるからだそうだ。年寄り諸君、嫌われるような悪いことをしてきたのか。嫌われたっていいではないか。言わなければ、「今時の若い者」は、ますます内にこもり、精神病者のようになっていく。「今時の若い者は何をしている」、「私の、俺の若い頃は」と声高に叫ぶのだ。それが、若者に対するエールであり、励ましになると信ずる。
今の世の中まだまだ沢山の問題がある。社会保障・税の問題、グローバリズムとトライバリズム、共産主義と自由主義、資本主義と社会主義、日本の産業構造・・・・・・等々、考えてみれば、どれもこれも手に余る問題ばかりだが、問題の本質を探るにはまさに好機ではある。
現代は、古代から20世紀にかけて、人類が築いてきた真理探求の論理・哲学、思想なるものの大半が嘘か、あるいは間違いであり、新たな地平があるかもしれないという時代に入ったと感じるのである。こういった問題に対して、全く別の視座から考え直してみるとしよう。
令和元年5月17日