fc2ブログ
2024/09/24

この国の精神  ―思考停止社会(1)―

この国の精神  ―思考停止社会(1)―

秋 隆三

 

<世界の動向と思考停止社会>

 

思考停止社会を支配するものは何か? 感情が支配しているのだろうか。だれも考えない民主主義社会において、米国では大統領選挙、我が国では総理総裁選挙が行われる。

 

米国大統領候補、トランプとハリスの討論会を少し聞いてみた。このトランプという男は実に面白い。銃撃事件で一命をとりとめるほどの運の強さを持ちながら、その主張・言動は、銃撃前と後ではほとんど変わらないのである。運の強さは、この男の経歴をみても明らかである。これほど運の強い男はめったにいるものではない。一国のリーダー、企業のリーダーに必要な能力を一つあげるとすれば、頭の良し悪しは並程度、人格もほどほど、倫理観もそこそこでよいとすれば、運の強さである。運の強さとは何かと言われれば答えに窮するが、強いて言えば、時期を得た決断力(直感力)とよい結果を得ることのできる確率の高さと言えるだろう。かのローマにおけるカエサルのように。

リーダーに求められる最大の要件は、一か八かの決断である。運の悪いやつをリーダーにすると、大体失敗する。銃撃事件で一命をとりとめる等は、そこら辺にごろごろしている話ではない。とてつもなく運が強いこの男を大統領にしないとすれば、よほどおかしな国民である。

しかしである。これほどの体験をした人間は、自分自身の生について少しは考えるのが普通であり、体験後の生き方、考え方が変化するのが普通である。つまり、体験を通して、新たな知性のネットワークが生じるのである。これまで知らなかったことに気づき、少しでも知性を働かせ、自己と他について考えるはずである。どうも、トランプという男は孔子の言う「知」を体感しなかったようである。一方のハリスはどうかと言えば、さっぱりわからない。ただ、なかなかいい顔である。美人というわけではないが、人に安心感を与える顔である。つまり「顔施」がある。政治家にはなくてはならない要件である。日本の総理大臣候補では、高市(ほどほどの顔施)、林、茂木といったところだろう。

 

米国大統領は、現時点では、多分、ハリスで決まりだろう。それにしても、ウクライナ戦争を米国はどうするつもりなのだ。私が、このブログで述べたように、この戦争を終結させる唯一の手段は、ウクライナが受けている悲惨さをロシア国民も共有することである。まさに、そのように進み始めたが、これに対して米国は、相も変わらず、長距離兵器の使用を認めない。ロシアの核使用を警戒してとのことだが、こんなことが起こるわけがない。民主党には、へんてこりんな考え方をするエリートが沢山いる。

 

第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線への米国参戦などそのいい例である。ホロコーストが行われていることを米国民主党政府は、国民にはひた隠しにし、優生学(本ブログの「恐怖の思想」で解説)という似非科学に政府、学者、経済人がずっぽりと浸かりドイツと戦おうとはしなかった。

 

それとも、今、ロシアが負けるとだれか困る者がいるのであろうか。ヨーロッパのエネルギー供給に支障を来し、経済状況が悪化することを恐れている(ドイツのように)とか。あるいは、ウクライナやロシア及び旧ソ連圏を徹底的に疲弊させることで膨大な利益を上げるとか。陰謀論はいくらでも書けそうであるが、まさかそこまでのことはなかろうと思うが。

あるいは、ウクライナあるいはロシアのうまい負け方を考えている奴が米国ホワイトハウスにいるのだろうか。日本は、第二次世界大戦で如何にうまく負けるかが戦争の決め手であると考えた。旧日本軍部と官僚の一部のような奴らが、米国ホワイトハウスにいるのかもしれない。もしいるとしたらとんでもない奴らである。戦争は、一度始めたら止められないだから。

考えてみると、米国は、第二次世界大戦以後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、イラク・アフガン戦争と20年ごとに戦争をしている。ジャーナリズムが煽りたてる分断されたアメリカ社会は、建国以来続いている。この自由的民主主義国家が分断社会を団結国民社会に変えるためには、戦う以外には方法がなかったのかもしれない。

 

ウクライナは、武器・弾薬、長距離ミサイル、誘導弾の国産化に総力を結集しなければ勝てない。他国からの供与を当てにして長期戦に勝てるわけがない。ウクライナは即刻国家総動員体制をとり、通常経済を停止し、完全な戦時経済に移行する必要がある。農産物の輸出だなどと悠長なことを言っている暇はない。資金は借りまくれ。武器弾薬、農産物、エネルギー、輸送に全ての労働力を結集・分配しなければならない。ロシアのあらゆる軍施設、インフラ、流通網、行政機構への攻撃を開始する必要がある。

 

大統領選挙、総理選挙からウクライナまで一気にきてしまったが、国際問題の専門家なるものが、ウクライナ戦争の行方を何も解説しない。戦争というものをどのように考えるべきかは、報道番組をみてもさっぱりわからない。彼らもわからないのである。戦後、それも学生運動、ベトナム反戦運動の経験のない専門家なるものに戦争の思想などわかるはずもないのである。つまり、思考、知的思惟のネタという近代思想材料を仕込んでいないのである。これが、思考停止ということである。

 

脳科学の進歩>

 

学生の頃から、情報技術・社会の先端を走ってきたが、現代社会をみると、何とも、不思議な思考停止の様相が見えてきた。

政治の話をしない国民。会話もなくスマホにかぶりつく国民。やたら旅行をしたがる人間。僅か10%の需要増加で米がなくなる日本。5%の給料アップでありがたがる労働組合。円安が進めば日本売り、円高が進めば株価が下がると騒ぎ立てる日経新聞。たかが数億円のパーティー収入に右往左往する自民党と野党。増税だともっともらしく演説する総理大臣。どこのTVも朝から、食い物だ、絶景だ、旅行だと、馬鹿まるだしのワイドショー。そうかと思えば、ネットニュースでは、病気と健康の話ばかりだ。

耳垢はとらなくても自然に出るともっともらしく解説する耳鼻科広告。そんなわけないだろう。学術論文のどこにもそんなものは載っていない。耳の穴が蠕動運動するわけがない。耳垢が外にでるとすれば気圧の差が要因である。さらに、自転車が前立腺に悪影響を及ぼすという医院広告に至っては、あきれかえるばかりだ。15年前ぐらいに米国の学会での報告があったが、すぐに大規模疫学調査の結果が報告され、全く嘘であることが証明された。医者が、何の疑いも持たずにこういった嘘情報、似非科学情報を信じ込む等は、科学者として恥ずべき行為である。科学を志したものならば、ちょっと考えればわかりそうなものだが、権威ある学会誌に載ると何の疑いもなく信じ込む。思考停止状態になっている。記憶している知識、経験した知識のみで判断し、知性は働いていない。知不知、知の知が機能していないのである。孔子が喝破した知の思想は的確であった。

専門家さえ思考停止をしているのだから、一般国民全体が思考停止状態に陥るのは当たり前である。

ところで、こういった脳の働きに関する科学、脳科学は、近年、急速に進歩した。死人の脳をいくら解剖してもわからない。かといって生きている人間の脳を開けて見ることもできない。コンピュータ、センサー等電子機器の発達が、生きた脳の観察を可能にし、脳科学を飛躍的に進歩させた。といっても、未だ記憶のメカニズムさえその機構は不明である。最近、脳から直接、記憶されている言葉の信号を読み取り、解読に成功したという論文が発表された。詳細はわからないが、脳の信号パターンの一部の解読に成功したのかもしれない。

 

脳科学の歴史>

 

人間の精神性が脳によるものではないかという疑問は、ギリシャ時代からあったらしい。しかし、その後、心は心臓にあるということになった。さらに、おかしくなったのは心身二元論という、心と身体は別物だという思想(哲学)が生まれた。哲学とは、そもそも脳の働きを究明するものである。人の感情とは何か、知性とは何か、人はなぜ悩むのか、人はなぜ飽くなき欲望を抱くのか、人は何のために生きるのか、等々、哲学は、ギリシャの昔からつい20世紀初頭まで、堂々巡りと過去の論説否定という思考を繰り返し、時には道徳倫理の思想・実践となり、時には政治思想として戦争を引き起こし、時には宗教的神秘性を秘め、時には文学的創作を生み革命にまで発展した。

 

考えること、つまり思考・思惟とは、脳の働きのことであるが、よく考えてみると、日常の生活で行っている思考とその結果についてもわからないことばかりである。感情と思考とは同じなのか、意識的な思考・行為、無意識の行為とは何か、等々。

ギリシャ哲学では、有名なのがプラトンの洞窟の比喩である。人間の思考というものは錯覚なのだという比喩である。ソクラテスは、不知の知といった。知らないということを知っているということであるが、年代から見て孔子が遙か昔に言っているので、ここらあたりについてはちょっと検討の必要がありそうだ。アリストテレスは、人間が正しく生きるための、徳、善、幸福、欲望等々について論究し、息子が「ニコマス倫理学」としてとりまとめたとされている。内容は、かなり面倒くさく、かつ現代脳科学からみればハチャメチャなところは致し方ない。現代では、ほとんどが脳科学の領域である。孔子は、徳について論じ始めてから、感情の論究については諦めている。つまり、脳で生じる現象のほとんどを論理的に説明することはできないとさとったのだろう。当然である、やっと脳科学がその端緒についたのだから。

 

西洋哲学が、この後、19世紀まで、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神と人間の思考との関係で右往左往し、感情と知性の関係の論理的追求を続けることになる。一方、東洋哲学の儒教と仏教では、勿論、思想的混濁は歴史的に見られるものの、混濁の都度、基本原理としての古典に戻ることで、感情の論理的・哲学的究明へ踏み出すことはなかった。これが、西洋文明を特徴づける科学性と東洋文明における精神性の差異である。

 

哲学が感情と知性の理論的究明へと急速に進むのは、ルネサンス・宗教改革を経て17世紀中葉のスピノザ(汎神論で有名である。オランダの哲学者だが、時代(1600年代)からみてオランダ東インド会社がもたらした儒教・仏教思想の影響がなかったとは言いがたい)の登場以後のことである。一方、脳科学は、19世紀にようやく脳神経細胞を明らかにした。イタリアの神経学者・解剖学者であるカミッロ・ゴルジは、細胞の染色法を開発し、顕微鏡でニューロンを見た最初の科学者であった。

 

脳の研究は、精神病の原因究明として進められた。精神病者と健常者の脳を比較することで、脳の部位の機能を解明しようとするものだった。

1800年代後半には、夢分析で有名なフロイトが登場する。意識と無意識の究明である。脳は、無意識でも働きがあることがわかったが、意識とは何かについては全くわからなかった。当然である、記憶のメカニズムそのものがわからないのだから。

1950年代になって、やっと記憶機構がわかってきた。それは、海馬の発見である。海馬の切除や海馬損傷患者が言葉の記憶ができないことを突き止めたのである。今から、僅か70年前に言葉の記憶機構の解明の端緒についた。孔子から2500年後であり、つい最近のことなのだ。それでも、まだ脳内の記憶の方法は解明されていない。勿論、意識などは到底わからない。

 

<現代脳科学の挑戦>

 

今の経済、例えば消費経済、ネット経済等は、もはや脳科学により解明された消費意志決定メカニズムを基礎としなければ到底解明できない。このことは経済問題だけではなく、政治、社会、道徳・倫理、芸術等、人間行動のあらゆる分野に及んでいると考えられる。

ということは、資本主義、民主主義等の政治思想の論究においても脳科学が解明している部分を前提として進めなければ、論理性を示すことができないことを示している。

 

前述のように、1950年代になってやっと記憶機構にたどりついたが、人間の精神と行動について、1920年代には、社会心理学として究明されていた。フランスの社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンの「群衆心理(講談社学術文庫 櫻井成夫訳」である。同時代には、スペインの哲学者オルテガがこの時代に誕生した大衆に迫っている(「大衆の反逆」)。群集心理というよりは、群集化理論とでもいうべき論考である。

脳科学に迫ったのは、「情動と感情」の解明に挑んだ、ポルトガル生まれのアントニオ・R・ダマシオの著作「感じる脳」(ダイヤモンド社、2005年、田中三彦訳)であろう。ホモサピエンスとして進化した人間の感情とは何かを克明に観測し、かつ統計学的な解明を試みた。

イタリア人のマッテオ・モッテルリーニは、経済学的知識を基に「世界は感情で動く」(紀伊國屋書店、2009年、泉典子訳)を発表した。人間はそれほど理性的に行動してはいない。感情が社会を動かしていることを論破した。

スウェーデン人のアンデシュ・ハンセンは、スマホにより思考停止状態に陥る人間の脳のメカニズムに迫った(「スマホ脳」 新潮新書、2020年、久山葉子訳)。

脳科学の研究成果が、単行本として世界で出版されるのは、2000年代以降であると言っても良い。しかし、「意識」については、まったくわかっていなかった。現在もわからないのだが、今、この難問に挑戦している研究者が日本にもいる。渡辺正峰の「意識の脳科学」(講談社現代新書、2024年)である。

 

こうやって文献をみると、脳科学はかなりわかってきているのではないかと思われるかもしれないが、実は、極めて部分的であり一部なのである。従って、上記文献を読み終えても、シナリオ(論点)が明確ではないために単なる知識の羅列となってしまい、それらの知識をどのようにとりまとめるべきかは、全て読者に委ねられることになる。

そこで、これらの文献を参考にしながら、思考を停止した現代社会の様相を基に、上記文献の知識を応用して一つのシナリオを考えることとした。

次回は、感情が社会を動かしているかを中心に考えてみることにする。

2024/09/23

コメント

非公開コメント