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2019/05/27

堕落論2017 選挙で何が変わるか

 また衆議院選挙だそうだ。国民に信を問うたびに総選挙となる。今回の衆議院解散総選挙の目的は一体何なのだろうか。文部科学省の忖度問題に端を発した一連の政治問題、特に安倍総理近辺に漂う不信感に決着をつけることを狙ったものなのか。それとも、北朝鮮に対する安全保障問題なのか。 安全保障問題だとすれば、自民党政権は北朝鮮の脅威に対して何をしたいのだろうか。戦争の危機が迫りつつあることは間違いない。危機的状況がどの段階にあるのかは誰も知らない。政府、政党、政治家、政治評論家、軍事評論家、誰も危機的レベルを評価していない。70代のぼけのはじまった爺様と30代の頭のいかれかかっている青年との罵倒を我々は見ている。

 この金正恩という男の異常さ、残虐さは並ではない。この男の命令で処刑された人数は、70名を超えているという。さらに、腹違いの兄までも殺した。独裁者による虐殺は、歴史の上では常識である。独裁国家では、必ず虐殺が発生する。とりあえず、都合の悪い奴は殺してしまうのである。考えてみれば、民主制のようにああでもないこうでもないと政敵と議論するよりは殺してしまう方が極めて効率的で経済的だ。民主制は、非効率で金がかかるのである。

 米国がこれ以上北朝鮮を非難し制裁を加えるなら、太平洋で水爆実験をやるという。本当にやるのか。ミサイルに核弾頭を搭載し、日本の上空を飛んで太平洋上に落とすことになる。日本は、どうするのだ。間違えたら日本に落ちて爆発するかもしれない。しかし、あくまでも目標地点を太平洋上においた水爆実験であるので、日本に対する戦線布告ではない。こんな論理がどこまで通用するのか。水爆実験だと宣言しているが、考えようによっては、日本に対する戦線布告にも等しい行為である。
 日本上空を通過するミサイルに対して日本は、何もしていない。トランプも馬鹿ではないと見えて、安倍総理に「日本はどうするのか」と尋ねているようである。トランプの言うとおりではないか。日本は一体どうするのだ。戦線布告と捉えるのか、実害が起きていないから声明は出すが何もしないのか。太平洋上での水爆実験が実際に行われたらどうするのか。既に、過去にもミサイルは日本上空を通過しているが、何もしていない。こんな国がどこにあるのだ。我が国領海にミサイルが到達した段階で爆弾の搭載の有無にかかわらず宣戦布告とみなし、我が国は自衛のためにあらゆる手段を講じるぐらいのことは言うべきである。こういった議論を野党も出そうとはしない。国会の議論としないから国民は政府自民党や野党の考え方を知るすべがないのである。当面の戦争危機に直面して、今の政治は、国民への責任を果たしていない。政治家は全て失格である。

 戦争になるかもしれないという危機に直面したとき、民主制の国家は、国民に対して何を問いかけ、国会はどのような機能を果たすのか。あるいは果たすべきなのか。攻撃に対する反撃は、安全保障法制により原則として事前に国会の承認を得るが事後承諾もあるというものだ。憲法9条により我が国から戦線布告はできない。一方、戦線布告されたときにどうするかという法律・憲法条文もないのである。何をもって宣戦布告と見なすかについても何もない。こういう状態を「平和ぼけ」というのではないか。かつて、金正恩体制に移行した直後、北朝鮮は韓国に砲弾をぶちこんだ。死者がでたはずである。韓国は、これに対して報復の砲弾で反撃したが、北朝鮮のこの行為を宣戦布告とは見なさなかった。韓国人の国民性というものはかなりわかりにくい。というよりは、理解することが難しいのである。韓国の首都ソウルから一番近い北朝鮮との国境までの直線距離は、僅かに40km足らずである。自走砲やカノン砲等のいわゆる大砲の長距離弾であれば80km程度までは到達するいうから、北朝鮮が国境付近から撃てば、ゆうにソウルまで到達する。北朝鮮は、既に8千基を超える大砲をソウルに向けているという。こんな状態であるにもかかわらず報道を見る限り、韓国国民は実にのんびりしたものだ。ソウルから逃げ出すわけでもなく、政府に対する非難もない。何故、朝鮮戦争後に、国境に近い危険地帯のソウルに首都を置いたのか。日本に近い半島南部に首都を移すのが普通ではないのか。このあたりの政治感覚は、理解不能である。朝鮮半島をみていると、平和とは、細い糸が今にも切れそうになりながら何とか布をつなぎ止めている状態であることがよくわかる。政治とは、何とかとりつくろっているこの細い糸である。

 ギリシャ・ローマの昔から現代に至るまで、政治権力とは武力であり、暴力である。法治国家の本質は、法律という絶対的権力による統治を意味する。法に反すれば、武力が行使される国家を法治国家という。法を作るのが政治である。法の執行権は行政機関にある。法に反すれば、法の執行を委ねられた行政機関の権限において法を執行する。しかし、法が真に正義であるとは限らない。ただし、権力を手にいれるために暴力を使ってはならないというのが民主制である。

 数年前に、NHKがマイケル・サンデルの「正義」についての講義を放送した。政治における正義とは何かを考える講義である。ところで、正義とは何かについては、民主主義が発明されたギリシャ時代から、ソクラテス、アリストテレスによって論じられてきた。近代以前の正義論は美徳から出発し、近代以後は自由から出発する。正義は個人の権利を制限する。だから、政治を論ずるときには正義を論じ、正義を論じるときには個人の徳を論じ、自由を論じなければならない。個人の徳と自由は、純粋に個人的諸問題として片付けることができないのである。我が国憲法では、個人の自由権は、第19条思想及び良心の自由、第20条信教の自由、第21条表現の自由、第22条居住・移転・職業選択の自由、第23条学問の自由として定めている。しかし、社会の正義と、個人の自由・美徳との間には大きな矛盾がある。

 正義論へと論点が逸れてしまった。話を元に戻そう。平和を維持するということは極めて難しい。国内外のいずれにしても、武力という力なしに秩序を維持することは、現代のどのような知性をもってしても不可能である。武力を持たなければ武力を持っている側の論理を正義として受け入れなければならないのである。人間は、理性だけで生きてはいない。多くの人間は、感情と知性のバランスで生きている。感情をうまくコントロールできなければ世の中をわたれない。しかし、先天的に感性が弱い、つまり低い感受性しか持たない人間もかなりの割合でいるらしい。脳の感情を司る機能が先天的に発達していないのである。サイコパスと呼ばれる症状である。感情に対する感応性は低いが知能が高いのが特徴であり、通常の生活行動をみているだけでは判断がつかないという。サイコパスの診断表なるものもあるがほとんどあてにならない。高い知性を持っているので、どんなときに怒り、悲しむか、そのための条件は何かについては学習記憶されている。そのため、悲しむ場面に遭遇すると瞬間的に反応する。しかし、その場面が悲しむための条件として記憶されていなければ悲しむ場面で悲しめない。特に、芸術的感性に至っては、サイコパスの人間は記憶と知識と理性により反応するため、芸術特有の美に対する精緻で微細な感覚を感知できない。何が芸術で何が芸術でないかを判断する基準として感情が働かないのである。サイコパスの人間は、高い知力を必要とする職業、法曹界、政治家、新聞記者、高級官僚、学者、医者等の職業につく場合が多いと言われている。感性を失った権力者が、知性、理性、論理だけによって秩序を維持しようとすれば、権力者同士の対話による感性の機微に触れた感動といったものが得られないから、最終的には武力の行使を正当化し信じ込むことになる。西郷と勝の江戸城無血開城の対談等は、豊かな感性を持ったリーダー同士の対話の典型的な例である。武士道の本質とは、感性と知性を磨きあげることにより、感情的な死闘やドグマに陥った死闘を避けることにある。孔子の言う仁も、豊かな感性と高い知性との融合状態をさしている。

 ところで、人が他の人への信頼感を抱いたり、一体感を持ったりする、いわゆる社会性に大きな影響を与えるホルモンにオキシトシンというホルモンがある。勿論、このホルモンだけで人の社会性同化気質が決まるわけではないが、無視できない影響があるのは確かだろう。全ての哺乳動物で分泌されており、哺乳動物の知的レベルにおいても機能することを考えると、高度な知的レベルではなく、闘争、生存といった本能に関与していると考えられる。愛情ホルモン、信頼ホルモンとも呼ばれている。優しい接触、性交等により分泌される。外交交渉における首脳同士のつきあいは、この意味で極めて重要である。だからといって豪華な別荘で、馬鹿高いワインを飲む等は言語道断である。ゴルフ、釣り、スポーツ、うまい食事程度が妥当なところだ。
 
 北朝鮮との戦争が回避されれば、政治的には成功したと言えるが、将来の戦争勃発の不安が完全になくなったわけではない。外交交渉なしの経済制裁がどこまで続くのか。こうしているうちに、北朝鮮は本格的に核武装することになる。韓国、日本はこれにどのように対抗するのか。国民が対策を考えなければならないのか。
 野党合同で自民党を破ったとして北朝鮮の核武装に対して何をするのだ。自民党は、どうするのだ。何も言えない政党が、権力だけを求めて選挙をするのを国民は黙って見ているしかないのか。国民が堕落しているのではない。明らかに政治家が堕落している。政治家は、保身に走り、権力に走ったときに堕落する。

 ところで、国政選挙は金がかかる。かつては、解散総選挙となると、与党であれ野党であれ派閥の長は、金集めが大変であった。そこで、金権問題の解決策として税金で助成する政党交付金制度が設けられた。国民一人当たり毎年250円として計算される。年間320億円が税金から拠出される。先進国で政党交付金を出している国をみると、ドイツでは175億円、イギリスでは3億円、フランスでは98億円となっており、カナダ、スエーデン、デンマーク等も出しているようであるが、米国は出していない。選挙費用の公費負担分はこれとは別となっている。衆議院選挙費用の総額(投票用紙、ポスター類、管理・取り締まり人件費等々)は、700億円程度だそうだ。3年に一度選挙があるとして年間換算すれば、選挙費用で240億円あまりとなる。これに政党交付金を足すと年間平均560億円が選挙のために費やされる。参議院選挙費用を加算すれば年間600億円を超える。選挙費用はいたしかたなしとしても、政党交付金はやめるべきだ。政治家の集金能力は、一面においては、国民の政治家への信頼度や期待度を示すバロメーターともなる。勿論、企業献金に制限があること、個人から政治家への献金が原則である。選挙の活動員はボランティアが原則だが、一定範囲の謝礼は認めるべきである。ジャーナリズムは勿論、内部告発による摘発など監視を強化し、政治家、政党の行動をバロメーターとともに公開すべきである。

 といっても、政党交付金という楽な制度を作ったために共産党を除いて与野党ともこの制度を廃止すべきという議論はない。法律とはこういうものだ。政党にとって都合の良い法律ができると、それが国民のためにならないと知っていても廃止しようとはしない。政党交付金制度は、政党、政治家の堕落の温床である。こういった法制度を見直し廃止するために国民にはどんな方法があるのか。結論から言えば国民投票制度しか廃止する方法はない。行政訴訟や民事訴訟の対象とはならないからである。これが米国ならば、小さな政府を理念とする共和党が廃止、民主党が維持側になり対立するだろう。日本では、与野党の対立軸がほとんどないに等しい。与野党とも制度維持となる。真に国民と国益を考える政党がなく、一人でも正義とは何かを究明する政治家はいないのか。国民投票も実際には不可能である。国民投票を実施するか否かは国会の決議であるからだ。それではどうするか、地方議会や県民投票で発議を促す方法である。都民ファーストや希望の党は何をしている。大体、東京都民の選挙行動ぐらいいい加減なものはない。何が、都民ファーストだ。都知事ファーストの間違いではないのか。

 今回の選挙の野党連合なるもののいい加減さには、反吐が出る。政治理念などは二の次だ。前原の言うとおり名より実をとった。つまり理念・正義よりも議席と金と権力をとったのである。希望の党なる怪しげな政党は、ポピュリズムやデマゴーグという低級な思想とも無関係である。
 迫り来る戦争の危機に対して何をすべきか、人口減少社会における社会保障とは何か、経済成長の方法とは何か、子供の貧困対策とは何か等々、現実的諸問題への処方とその考え方を明示すべきである。現実問題の具体的解決方法と未来の予測が政治理念を作り出す。現実的諸問題への対応は、問題の本質を見抜かなければ正しい対応は不可能である。それが正義であり、理念である。これができなければ、かつて民主党が政権をとった時のようにポピュリズムでやれ。そんな政党はたちどころに崩壊する。

 自民党にしても同じだ。とってつけたような政策メニューで何を国民にアピールするのだ。迫り来る戦争の危機に対して政権政党は何をしようとしているのか。地方創生はどうなった。今もって、「社会全体で面倒をみます」か。できもしない社会保障夢物語を語るのか。介護保険だけでも大変なのに、今度は子供保険だ。ホケン、ホケンと犬が鳴いているんじゃない。年金制度の賦課方式という戦後経済成長のどさくさに紛れて、時の官僚と御用学者が何も考えずにとりあえずつじつま合わせに作ったシステムは、とうの昔に破綻しているではないか。世界に冠たる国民皆保険。嘘だ、嘘だ、ウソだ。介護保険にしてもはじめから無理だとわかっている。人口の25%が、高齢化しその大半に介護が必要となったとき保険でカバーなどできるわけがない。まして、社会全体で面倒をみる、つまり国が面倒をみるなどできるわけがないではないか。「社会保障は国がやります」というスローガンは、バブル経済の崩壊後に現れたポピュリズムだ。北欧の例にならい、高い税率であっても医療、老後は、国が保障するというものだ。スエーデンやノルウェーが何故可能かの説明が全くない。北海油田の歩油権が国庫に入り、使い切れない金がファンドにたまるだけ貯まっている国と、借金まみれの国とでは社会保障のためのファンドマネジメントシステムは全く違う。国民健康保険の金の使い方もひどいものだ。健康診断だ、高齢者診断だ、アンケートだ、予防接種だ、ガン診断だとやたら予防診断を行う。若い人なら少しは予防効果はあるだろうが、国民健康保険の対象の大半は高齢者である。高齢者には逆の効果になるばかりか、医者に患者を送り込む格好のシステムとなっている。そればかりか、市町村職員の増員につながっている。何を考えているのだ。こんなことを全てやめれば、国民健康保険の費用負担は、人件費の削減も含めて現在より数10%程度低くなる。医療保険というものほど悩ましい保険はない。健康な人は払い損し、不健康な人が払い得になる。生活習慣病等は、考えようによってはもってのほかだ。医療費の自己負担率を50%以上に引き上げるか保険料率を引き上げる必要がある。その代わり、医療用薬品のうちのジェネリック薬品については簡便な処方で入手できたり、市販薬として生活習慣病の証明等で購入できる方法を考えろ。個人が払った医療保険料の記録をしっかりとって保険料率に反映させるぐらいのシステムを構築することは、現代の情報社会では簡単なことだ。国の保険制度の改革の決断を自民党であれ野党であれ本気でやるとは思えない。まして、厚生労働省に企画立案させるぐらい危険なことはない。ここまでくると、国民には、社会変革のための手段が全くないことに気づかされる。国民参加の制度という、民主主義の根幹となる部分を、政治という業界が全て駄目にしたのである。政治業界の堕落である。

 経済成長なき日本の存続はもはやあり得ない。経済成長が不可能であれば、そう遠い将来ではない時期に日本政府が崩壊し、次に国家が崩壊する。経済成長のためには、政府も企業も国民もなりふり構わず取り組まなければ国が滅びる。オリンピックだと浮かれているどころではない。1千兆円の負債と成長なき経済は、ボディーブローどころではなくカウンターパンチとなって国民生活を襲う。

 現在の人手不足の状況は、25年ぶりだそうである。宅配便の運転手不足、青果市場の労働力不足、震災復興建設労働者の不足等、どの職業をみても、かつて言われた3K労働者の不足ではないか。AI技術者も不足しているらしいが、新技術の先食い現象だから一般の労働力不足とは質が違う。給料を一段と上げればすぐに人は集まる。人手不足といいながら給料を一段と上げようとはしないのは何故だ。わずかばかりのベースアップ、労働時間の規制、働き安い環境等々を整備すれば労働力不足は解消できるのか。

 ところで、この数年進められている労働環境改革なるものは何なのだ。過剰な時間外労働に規制をかけ、サービス残業等はとんでもないという。元来、ブルーカラーとホワイトカラーでは、働き方が全く違っている。熟練技術者であってもブルーカラーは、肉体労働が伴うため長時間労働では、生産性や品質が低下する。こういった職業では、会社側の管理もきちんとしていたが自己管理も重要であった。中小零細企業でも、過剰な労働を強制するようなことは全くないといっていい。高度経済成長期には、ホワイトカラー層では、何日も徹夜が続き、1ヶ月の残業時間が200時間を超える者もいた。残業が集中するのはそいつに能力があるからで、能力のない奴には仕事がこなかった。昔のような状況が良いというのではないが、経済成長にはこういった側面は必ずある。100人のホワイトカラーがいれば、そのうち20人程度は能力が高く、20人程度はかなり低く、60人は普通程度というのが人間組織である。たとえ能力が低くてもその能力に見合う仕事は、必ずある。時間外労働規制、ワークライフバランス等の労働規制を必要とする側面と、それらの規制がなく、しかし、労働時間に見合う報酬が支払われる仕組みとが共存しなければならない。現在の日本は、全員が楽して経済成長できるようななまやさしい状況にはないのだ。みんな楽して暮らせる社会という政治思想は、亡国の思想であり、堕落の思想である。
 労働環境改革の発端はいろいろあるが、有名広告会社の新人女性が、過剰な時間外労働を強いられて自殺に追い込まれたあたりから本格的に社会問題化した。亡くなった女性は、若く、美しく、聡明で感受性の強い女性であったと思う。豊かな感性が、自らを追い詰めた。報道の情報だけだが、この有名広告会社の組織管理が如何に非人間的であるかが推測できる。非人間的というよりは、理性だけで人をコントロールできるという管理思想の恐ろしさである。ほめる、なだめる、怒る、しかる、命令する、罵声を浴びせる、けなす等々、おそらくあらゆる心理的操作があったに違いない。こんな管理思想が、組織の主流をなしているとすれば、この会社が作った広告で商品が売れるわけがない。消費者は、理性だけで商品を選ばない。感情・感性に響かなければ、理性的判断を正当化しない。人は、自己実現の可能性が見えれば大抵のことは我慢できる。そして、感性の機微に触れる言葉が必要なのだ。最近のTVコマーシャルの俗悪さは、まさにこの事件の本質を表している。企業の管理思想の堕落は、人心の堕落である。今、求められている労働環境改革の本質は、労働時間規制等の規制いじりではないのだ。理性や悟性(技術)だけで人を動かそうとする管理思想は恐怖の思想だ。マネジメントサイエンスでは人は動かない。人を動かすためには、磨かれた感性が必要なのである。まず、政治・政党から始めよ。理性だけで忖度する組織などは不要である。感性による忖度は崇高なものである。

 米国の所得格差は極めて激しい。ロイターが発表した所得格差は次のようなものである。「一部のアナリストは、米国の富が上位1%の富裕層に集中していると指摘しているが、FRBの調査によると、実際には上位3%の富裕層に集中していることが分かった。2010~2013年の期間に、米国の家計所得(インフレ調整後)は平均でおよそ4%増加したものの、所得の伸びは富裕層に集中した。上位3%の富裕層が所得全体に占める割合は30.5%だった。また、家計純資産の保有状況ではさらに格差が拡大。上位3%の富裕層が全体に占める割合は、1989年の44.8%、2007年の51.8%から2013年には54.4%に上昇した」。

 米国の家計所得の平均は約4万6千ドル、世帯数は1億1千7百万戸なので、国民総家計所得は約5兆4千億ドル、日本円では約594兆円、ほぼ600兆円とすると、このうちの30.5%の183兆円が総世帯の3%、351万戸に集中していることになる。富裕層1戸当たり平均では日本円で5,213万円、富裕層を除く家計所得の平均は367万円である。富裕層と富裕層以外の所得格差は、14倍にも達する。世界各国の所得格差については、国連がいくつかの指標で示しているが、世界銀行が算出しているジニ係数はよく知られた指標である。また、所得の上位10%と下位10%の所得比率等もある。しかし、所得上位の世帯に何%の富が集中しているかを示す方が、富の極端な偏在を表す指標としてはわかりやすい。家計純資産についても公表されている。純資産とは、金融資産や不動産資産から借入金を差し引いた額である。収入のある個人の3%に個人純資産総額の54.4%が集中しているといのだから、ものすごい集中度合いである。

 日本の場合には、同じ基準の統計がないので比較は難しいが、公表されている統計で比較してみよう。OECDのジニ係数(2005年公表)では、日本は31.4、米国は35.7、メキシコが48となっており、日本は米国より僅かに低い程度であり、所得格差にそれほど差は見られない。メキシコの方が遙かに格差が激しい。所得格差をジニ係数で判断することは難しいことがよくわかる。所得格差問題では、一時期話題になったピケティの「21世紀の資本」がある。大学の講義録を本にしたものだから、500ページを超えるが、ポイントは、K/Y 比率を長期の統計データにより分析し、KがYより大きければ格差が広がるという結論だ。ピケティの本では、Kをrで示し年間資本収益率を、Yをgで示し国民所得や産出量の年間増加率を示している。この単純な式だけでは所得格差の拡大を証明することにはならない。そこで、家計所得の多い順の10パーセンタイル所得層の合計所得が総所得に占める比率の大きさを計算して所得格差の幅を評価した。その上でK/Y比率との関係を分析した結果である。資本収益率が高く、所得の伸び率が低いほど格差が広がる。現在の日本そのものではないか。給料が上がらず、株価だけが上がる。それでも一人当たり家計純資産は世界一だ。家計に占める借入金が極端に少ないのだ。米国は資産も多いが借金も多い。金融投資の比率が高く、金融利回りも6%程度と高いから、借金してでも投資に回す。住宅を担保に金を借りて金融商品に投資した方が所得が増加する。

 我が国の格差是正政策はどうなっているのだ。給料を上げろと政府が言っても、企業が「はいそうですか」と動くわけがない。それでなくても、マイナス金利政策で何とか円安を維持し、株価を維持しているのだから、マイナス金利政策をやめると円安から急減な円高に向かいかねない。

 加工貿易立国の我が国において公共事業以外の経済政策として何があるのか。ないならば、やることは一つである。地球温暖化で今世紀中には数mの海面上昇は避けられない。出来もしない温暖化対策等はほどほどにして(温暖化ガスの排出量を抑制するのは、公害の面からも当然取り組む必要がある)、沿岸域都市の内陸部への移転を本格的に考えよ。現行の新エネルギー対策はやめよ。太陽光発電や風力発電ではゴミの山を作るだけだ。新たな物理学研究に全力を傾けろ。水素の生産・備蓄技術開発を急げ。原子力発電を期間限定で解禁し、余剰電力で水素を生産し備蓄せよ。イオンレベルの蓄電池技術に未来はない。来たるべき電気自動車時代は、従来の蓄電池技術に依存する絵に描いた餅だ。膨大な蓄電池が生産され、地球の希少金属資源を使いつくし、新たな公害をまき散らすだけだ。世の中の環境学者、環境経済学者、地球温暖化信者と化した政治家、学者諸氏よ、目先の金に堕落せず真実を語れ。近未来のエネルギーに向けた新たな公共事業に踏み出すための財政手法を作り出さなければ我が国の未来はない。このエネルギー技術は、既存技術の延長線上にはない。地球温暖化という敵にくそ真面目に取り組んでいると、近い将来必ず我が国は崩壊する。

 経済成長、格差是正のための従来の経済政策は、完全に行き詰まった。それと同時に、化石燃料の枯渇が顕在化した。化石燃料の枯渇と人口爆発は、1970年のローマ会議で予見されていたが、世界は無視した。そして、1992年からは、気候変動問題だ。気候変動の原因が二酸化炭素の排出量だけではないことは、最近の幅広い気象学研究からも明らかにされつつある。経済成長のカギは、実に新エネルギー開発とそのエネルギーを利用する動力機関の革新的開発にある。リチウムの経済的生産限界、電極のための希少金属の埋蔵量と生産限界、再生技術と生産限界、廃棄処分費用等々、既存電池技術に関する技術的、経済的限界を早急に試算する必要がある。おそらく、試算するまでもなく、資源不足、採算性、コストパフォーマンス、社会的費用のいずれにおいても実現不可能と考えられる。

 政治は現実問題との戦いである。現実問題への対応策がなく、先送りも許されないとなったとき、政治はどんな決断を下すのか。外国との関係であれば国交断絶か戦争である。経済問題であれば、政府の破産である。たとえ政府が破産したとしても誰も責任をとる必要はない。国もなくなるわけではない。政府が破産するのだから、国家機関の全ての機能が停止する。警察、裁判所、自衛隊、霞ヶ関の省庁、入出国審査、年金事務等々だ。こういった政府の破産状況については、アルゼンチン等に既に事例があるし、ギリシャ等もその直前までいった例があるが、いずれも最悪の事態は避けている。法律が無効になったわけではない。国の支払がストップしただけなので、国債償還、国の支出停止をして再生計画を作るだけである。世界経済に及ぼす影響は計り知れないだろう。リーマンショックの数10倍のショックとなる。国債のデフォルトによる影響が最も大きい。

 ところで、日銀の国債保有残高は、最近の報道によれば500兆円を超えたという。銀行・保険業界の保有比率も40%を切っている。このまま、日銀が国債の買入れを継続すれば、近い将来、国債発行残高の70%程度を日銀が保有することになる。勿論、市場金利等から限界はあるだろう。日銀が、国債を買った銀行に買入額と同額を当座預金に記録し信用を与えたというような説明があるが、国債を担保にして当座貸し越しで融資するのではないのでこの説明は誤りである。日銀がマイナス金利政策をとっているので、当座預金の残高にはマイナスの金利がかかる。つまり、利盛りとは逆に残高が減少する。市中銀行は、日銀当座から資金を引き出して運用しなければ損をすることになる。そのため、まずは金利の高い国へ資金を移動し、つまり、円を売ってドルを買ってドルで運用することになる。円安へと誘導することになる。この日銀の操作を長く続ければ、円の信頼は低下し、市場は余剰資金で溢れかえる。

 円安、株高は、何のことはない国債を原資とする比較的単純な資本原理で動いていることになる。投資先のない資金は、どうなるのだ。ところで、企業経営者の年収を東洋経済で見ると、現職の社長、会長の最高額は22億円あまり、トヨタ自動車の社長でも3億5千万円程度だ。1億円以上が600人未満というのだから、何ともなさけない話である。これが、GDP世界第3位の経済大国、日本の実態である。銀行や企業にジャブジャブある資金を、経営者の報酬にも回せず、かといって従業員の給与にも回せずただ眠らせておくだけだ。税制では、法人税減税だという。投資先がないのに法人税減税をやってどうするのだ。研究開発への投資減税は、大いに結構だが、内部留保で金融投資をしている企業の法人税率は逆に引き上げるべきだ。銀行も同じだ。

 所得税についても同様である。非課税が年収100万円未満とは。年収100万円で生活ができるわけがない。生活保護の方が収入が多いではないか。年収100万円でも、国民健康保険、年金、地方税、介護保険はとられる。地方税の税率が高いのは何故だ。地方税を払ってどんなサービスを受けられるのだ。住民票、印鑑証明、選挙人登録ぐらいのものか。こんなもの、情報社会では個人情報保護を含めても簡単なシステムで対応可能だ。税制、保険制度は、国民生活の根幹に関わる。税金は払わないと抗議をすれば、逮捕投獄である。大体、所得税、地方税の徴収システムに金をかけすぎている。高額所得への税率を高くし、低所得者層の税率を抜本的に見直し、株など金融商品による所得税率を見直さなければならない。金融商品による所得は、とりっぱぐれがないのだから、徴収コストは極めて低い。所得税の徴収コストを徹底的に見直し、徴収効果がない税部分は控除方法・税率など全て見直すべきである。政府、与党の税制調査会なるものが、いかに機能していないか。国民は、税制についても何もできない。どうせ、解散総選挙で金がかかるのだから、税制の変更の都度、税制だけの解散総選挙をやったらどうだ。

 外交、戦争、経済、税制、教育、社会福祉等々、国政は、日本社会のありとあらゆる分野に行き渡る。活力を失い、経済成長もなく、社会全体で面倒をみるという福祉社会を理想とする国家に未来があると言えるか。政党政治は、今や目先の安定に堕落した。真の堕落は、金や権力という堕落の渦でなくてはならぬ。その堕落の渦の中から光明を見いだした者だけが真の政治を担うのである。

                                 2017年10月
2019/05/27

堕落論2017 戦争の危機

   坂口安吾が「堕落論」を発表したのは、昭和21年(1946年)4月である。戦争終結から八ヶ月、戦災の跡が生々しく、先のことなどは到底見えず、しかし戦争から解放されたという実感だけが国民に浸透していった。この年の12月には「続堕落論」が発表されている。
  論文でもなく、小説でもなく、かといって随筆と呼ぶには強烈な文体である。タイトルを見るとなにやら破滅的な思想書かと思うがそうではない。現人神がおわします神の国、神風が吹く神々しき国が一敗地に塗れ、今や、花と散り損なった若者達が闇屋となり、ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりてとけなげな心情で男を送った女達も、やがて新たな面影を胸に宿す世相へと変わった。人々が営々と作りあげてきたものが崩れ落ちる様のはかなさ、みにくさに対する叫びである。

  今、この時間も世界のどこかで戦争をしている。日本人のおおかたは、「戦争してるんだ」、「どうして戦争するんだろうね」、程度の認識だろう。
  ところで、私も含めた現代の日本人は、「戦争」について考えたこともないと思われる。毎年、8月になると、報道番組の主要なテーマは、第二次世界大戦一色となる。第二次世界大戦当時のニュース・フィルムの再編集か、僅かに生き残っている戦争体験者の体験番組が大半である。これらの報道内容の意味するところは、端的に言えば、戦争は悲惨なものであり、戦争をしてはならないという教訓である。とかく教訓というものは、まわりくどい。一方、第二次世界大戦がどのようにして引き起こされたかについては、ほとんど何も報道されない。そこで、開戦に至る原因のいくつかをひろってみると次のようなものである。
 「満州国(中国東北部)開国に対する中国の反発に対し、国連は、一度は対日経済制裁を黙殺したものの、盧溝橋事件以後日中事変の勃発によりアメリカを中心とする経済制裁の主張が本格化した。いわゆるABCD包囲網が張られ、その頂点に達したのが昭和16年の日本に対する資産凍結と石油の禁輸であった。現代の北朝鮮やイランに対する制裁手法とさほど変わりはなく、経済封鎖である。満州には石油はなく、石油資本は、アメリカ、イギリス、オランダが独占していた。若干の鉱物資源は満州で調達可能としても、火薬の原料となる硝石等はベトナムから輸入しなくてはならない。しかしベトナムはフランスの植民地だ。インドを始め東南アジア諸国は、欧米の植民地であった。中近東は、欧米諸国、欧米石油資本、王族とによる石油独占の独裁的国家である。日本は、我慢に我慢を重ねた結果、太平洋戦争の開戦を決意した」。説明不足の点はあるが、経済制裁による資源窮乏に対して堪忍袋の緒が切れたという説明である。

 1970年代に任侠映画が大ヒットした。高倉健主演の網走番外地は、70年安保時代の象徴的映画であった。健さんは、罪を犯しはしたが、それにはやむ得ない理由があった。彼は常に謙虚で、物事を深く考え、感情には流されず、しかし人情味あふれた人物である。彼が属する真面目な集団の権益を狙う悪者達が、ああでもないこうでもないと難癖をつけては執拗に妨害し、暴力を加える。忍耐に忍耐を重ねた結果、健さんは一人敵に立ち向かうのである。話は、単純だが物語の筋立ては、第二次世界大戦のそれとそっくりである。一人で戦うならば、まあ好きにやれでよいが、国民を巻き添えにするとなるとそうはいかない。日本は、資源がなく、国民の生活も困窮の極みに達し、生き抜くためにアメリカと戦うというのである。本当か。本当に、全ての国民が食うに食えなくなっていたのか。そんな馬鹿なはずはない。そんな単純な理由ではないはずだ。
 先の大戦は、日清・日露戦争での勝利、第一次世界大戦における漁夫の利、欧米先進国のアジア植民地化と富国強兵等々、明治維新から第二次世界大戦までの「成功の70年間」に徐々に蓄積された奢りが生み出した日本という国家の堕落によるものだ。坂口安吾は、終戦に人間の堕落をみたが、国家の堕落ははるか昔に始まっていた。
 ところで話はそれるが、テレビに氾濫している韓ドラを見ると、悪人と善人との関係が単純な論理構造になっていないのに気が付く。悪人が、嘘をつき、人をだまし、相手を殺すのにはそれなりの理由がある。悪人の行為には、悪人なりの正当な理由があってのことだと言う。その理由は、悪人の地位を脅かしたり、悪人の昇進を妨害するのは善人がいることである。善人さえいなければ悪人は幸せになれるのである。悪人は善人に比べて自己実現の欲望が強いだけで、だましたり、嘘をついたり、暴力といった行為は、悪人にとっては許容範囲なのである。この論理においては、自己実現の欲望が強いことは悪ではない。人間として当然であり、そういう欲求は正当なのである。韓ドラでは、悪人の善人に対するいじめが尋常ではない。反対に、いじめられる善人は、実に真面目だ。決して悪いことはしない。耐えるのである。そして、反論できない証拠をつかんでから、じっくりと反撃にでる。
 お国柄が違うと、善と悪、正義に対する考え方がこうも違うのかと考えさせられる。とはいっても、5分で済む内容を1時間もだらだらと続くのにはうんざりするが、耐えに耐えて善人が反撃に出るという筋書きには不思議な魅力がある。成り行きはわかっていても、反撃にでるものに対する同情と反撃の快感がたまらないのである。
  堪忍袋の緒が切れて開戦に踏み切るにしても、このような経済的理由以外の理由もある。それは、「恐怖」である。敵の軍事力が増強しており、これ以上軍事力が増すと危険にさらされるという恐怖だ。政治手法の根幹は、「国民」に対する脅迫にある。今、これをやらなければ将来国民はこれだけの損失を被ると脅迫する。河川改修等の国土保全に関わる公共工事の必要性に対する説明であれば、一定程度は受け入れられるが、戦争となれば話は別だ。「気候変動」も話は別だ。二酸化炭素濃度が、ppm単位で増加した場合の気候変動を実験レベルで証明しない限り信用できない。今の説明では、将来の海面上昇は必死である。それならば、何故、都市の高所移転を進めないのか。恐怖政治は、ここにも存在する。

 9.11以後、ブッシュがはじめたイラク戦争の大義は、建前は、「大量破壊兵器は持たせない」というものだったが、本音は、「やられたらやる」というものだ。その上、おりからの石油資源問題もあった。人類の歴史は、戦争の歴史である。塩野七生の「ローマ人の物語」は、全編、戦争、戦争、また戦争である。ローマの歴史書は戦史だ。それも何故戦争をしなければならなかったかは、勝った側が記録しているから、負けた側の理屈はわからない。
 なにはともあれ、戦争が始まったら、戦争を始める理由などは二の次、三の次、まあどうでもいいのである。勝たなければ歴史にその正義を残せない。
 第二次世界大戦は、我慢に我慢の末にやむなく始めたが、負けることはわかっていたというのである。戦争を始めるからには勝たなければならないが、負けるときも重要だと言うのだ。それは如何にうまく負けるかだというのである。これはどうなっているのだ。これでは国民は、たまったものではない。戦争を始める政治家、官僚、高級軍人は、将棋や碁のようなゲーム感覚で戦争を仕掛けたというのか。最近なら、スマホの戦争ゲームみたいなものだ。命を賭けた戦争では、負け方も何もあったものではない。小国民は、黙って国の言うとおりにすれば良い。批判でもしようものなら非国民である。欲しがりません勝つまでは、生めよ増やせよ、が国民の義務である。このモットーはドイツからの借りものらしい。国の責務は、負けることはわかっているからうまく負けることである。あまりにも都合が良すぎないか。おまけに、奇襲攻撃で開戦するのだから、天皇、政府関係者、軍人以外の国民にとっては寝耳に水の話だ。勿論、うすうすは知っていたか、戦争を始めるらしいとか何とかの噂は飛び交っていたに違いないが。

 しかし、一旦、戦争を始めたらやめることは不可能だ。相手がいるのだから、こちらが思っているようにはやめられない。それどころか、戦争を止める法律、制度、システムというものは何もないのである。勿論、戦争を始める法律もない。

 さて、我慢に我慢を重ね、戦争に踏み切るという決断が、国の指導層だけで勝手にできるのであろうか。限定的にしろ民主的国家において国家間の開戦は、それほど単純ではないはずである。

 開戦を正当化する思想、倫理・道徳、法は戦争開始と同時に形成されるものではない。まあ、一部にはそういうものもあるだろうが、政治思想というものは、多くの場合、時間をかけて、それもかなり長い時間をかけて、権力層、知識層、国民各層の間を何度も行き来しながらゆっくりと形成される。近代戦争における大義・思想の形成とはこういうものだ。第二次世界大戦に至る思想では、東亜新秩序、八紘一宇、五族協和等々があるが、よくもこれだけ考えたものだ。当時の官僚と御用学者によるものと思われる。このくそ真面目な作品が国民を戦争へとかきたてた根源である。

  「堕落論」の冒頭は、「半年のうちに世相は変わった。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は、大君のへにこそ死なめかえりみはせじ」である。言葉の調子というものは、人の感情に直接響く。しかし、意味がわからなくては響きようがない。「醜」とは、みにくいのではなく、「強く頑丈」なという意味だ。
 「海行かば」という曲がある。昭和十二年に作曲され、戦争中は盛んに歌われていたが、戦後は全く歌われなくなった。次のような歌詞であり、万葉集(元は日本書紀らしい)からとられた。「天皇の足下に死ねれば本望だ。後悔はない」といったような意味である。天皇に忠誠を誓った歌とされている。

海行かば 水漬(みづ)く屍
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

  音域はやや高いが、格調高い斉唱である。旋律は、日本人の心性に直接響く。こういう曲はどこの国にも一曲や二曲はある。第二の国歌だ。「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」という曲がある。「ナブッコ」というオペラの中で歌われる合唱曲だが、イタリアの第二国家である。しかし、それにしてもこの「海ゆかば」は、恐るべき歌詞である。死をもって天皇に忠誠を誓うという歌を国民に唄わせるという政府も政府だが、この歌を選んだ官僚の神経とは何なのだ。こんな国は、世界のどこにもあるまい。軍部の独走が開戦の要因だったという話がまことしやかに言われるが、そんなに単純な話ではない。時代の支配層、権力層、知識層、富裕層のほとんど全てが関係していたことは間違いない。

 言葉に楽曲が加わることで、思想にぬきさしならぬ心情的重みが加わる。国家指導層・政府は、戦争を始めるためにありとあらゆる手立てを講じる。これは戦争だけではない。戦後復興から高度経済成長へと進む時代も似たようなものだ。ちなみにこの時代の第二の国家は、昭和の歌謡曲だろう。戦前から唄われていた「影を慕いて」、「誰か故郷を思わざる」ばかりか、軍歌も盛んに歌われた。しかし、「海行かば」は、全くといって良いほど歌われていない。「リンゴの歌」、「港町十三番地」、「有楽町で会いましょう」、「銀座の恋の物語」、「函館のひと」、膨大な第二国家が誕生した。

 日本は、戦争に負けた。それも惨敗どころではない。無条件降伏である。政府が考えていたうまい負け方はどこにいったのだ。全ての、秩序、思想が崩壊した。敗戦直後の社会は、どのようなものだったのだろうか。闇市、売春などは小説・映画の題材で知られているが、社会秩序について記述した文献が皆無というのも不思議である。米国占領軍がもっとも恐れたのは、無法状態と化した日本への上陸であったという。しかし、上陸してみると何とも整然としていたというか無法地帯をとおりこして無条件従順社会へと変貌していた。終戦直後に占領軍が車で移動している記録映画を観ると、日本軍と思われる軍人が、道路側とは反対方向を向いて整然と立ち並び、あたかも占領軍の移動を護衛しているような映像が映し出されていた。こんな敗戦国は、世界のどこを探してもない。ちなみに、ドイツの終戦状況をみると、連合軍がじわじわと首都ベルリンに向けて侵攻し、ベルリンが陥落したときには、ドイツ国土のほぼ全域が連合軍に占領されていた。

  日本は、本土決戦を予想して武器の準備をしていたというから、無条件降伏だからといっておいそれと上陸できるわけがない。アメリカはゲリラ戦を覚悟していただろう。しかし、日本は何の抵抗もしなかった。勿論、全くなかったわけではないと思うが、ほとんど無視できるほどの抵抗だったに違いない。抵抗よりも従順解放を選択した。このまま進めば死ぬ、個人では選択できない運命、完全な強制から逃れられないという極限的状況からの解放である。体験したものでなくては知り得ない感覚であろう。戦争に負けた側の開放感は、勝った側の開放感の数倍も大きいに違いない。負ける側は、突如として負けるのではなく、負けそうだ、もう駄目だ、限界だと思いながら戦っているのだから、負けた、すべてを失ったとなった瞬間に、何とも言えぬ虚脱感と開放感に襲われる。何のために飢えや耐乏生活に耐えてきたか、何のための戦争だったのかといったことなどどうでもいいのだ。もう頑張る必要がない、何を言っても自由なのである。

 最近の戦争報道を見ると、武器を持った戦闘員同士が戦うのが正しい戦争で、一般市民を巻き込んだ戦争は正しい戦争とは言えないというのが一般的論調である。イラク、シリアの紛争報道では、一般市民が犠牲になった、学校、病院が空爆され児童や患者が殺されたといった報道ばかりである。本当にそうなのか。戦争ゲームみたいな戦争に変わったというのか。敵の国土を徹底的に破壊し、殺す、それが戦争ではないのか。軍人だろうと民間人だろうと区別はしない。敵国にいる者は全て敵なのである。近代戦争では、無差別攻撃こそが正当な戦術である。第二次世界大戦をみるとよくわかる。

 日本にしろドイツにしろ戦争に対しては実に真面目だ。自らの置かれている状況を真面目に研究し分析対応している。その上、前述のような開戦思想をくそ真面目に構築する。官僚や学者が真面目なのである。「クソ」がつくほどに真面目だ。真面目な分析と正しい分析とは違う。真面目な分析とは、分析結果に疑問を持とうとはしない。突っ走るのである。真面目という英語はearnestであるが、本来はearn(正当な報酬を得る)ではなくeager(熱烈な)に近い。熱烈かつ情熱的に物事に取り組み、真面目な行為に対しては正当な報酬が得られると信じている奴を真面目な奴と言う。クソ真面目な奴は危険なのだ。こうと信じたら何が何でもやる。実現するまでは何はともあれ堪え忍ぶ人並み外れた忍耐力がある。堕落に至る最大の要因はこれである。

 ところで、戦争をするからには、戦争によって得られるものがあるから戦争をするはずである。戦争の経済学である。第一次世界大戦前までは、戦争による利益は莫大なものだった。戦争は、利害関係の衝突の結果であり、より多くの利益が得られるか、多くの損失を被るかのいずれかの理由で戦争となる。ローマ帝国は、より多くの富を得るために数百年にわたって領土拡大を続けた。富の得られそうにないところは侵略しない。ローマ帝国の領土拡大の仕組みは実に面白い。ローマは、現代に比べると仕組みとしては単純だが、かなり民主的な方法で選ばれた元老院議員によって国家運営がなされていた。しかし、元老院の多数決でものごとが決定されても、皇帝が「ウン」と言わなければ国家の決定とはならない。拒否権だ。この点だけみれば、アメリカやフランスの大統領制と変わりはない。領土を拡大するためには、侵略する相手を納得させなければならない。「これからは、ローマ帝国がおまえたちの国を支配し統治する」と言い渡すが、納得しなければ暴力で屈服させる。単純明快である。ローマ軍の司令官は、元老院及び皇帝によって任命されるが、貧乏人は司令官にはなれない。軍隊は、司令官の私兵みたいなもので、報酬の多くは略奪した物資と司令官の資財であったからだ。元老院議員だって同じようなものだった。かのカエサルにしても、名門の出ではあるが女に貢ぎすぎて借金で首が回らなくなったためにガリアに活を求めた。カエサルは借金で首が回らなくなって戦争に走ったが、多くの場合には金持ちがより多くの富を得るために領土拡大に走った。カエサルが例外なのである。

 戦争をしないためには、相手国が侵略しても利益にならない国になれば良い。敵に回せば百害あって一利なしの国である。資源はないが富があり科学技術、知的能力が高い国、日本の場合にはどうすれば良いのか。第二次世界大戦では、スイスが中立国だった。あのナチも手出しはしなかった。スイスを敵に回せば、ドイツは国際的に完全に孤立する。ドルやポンド等の主要な外貨が調達できなくなり、かつ物資の輸入も困難になる。侵略するメリットは何もない。敵に回すと百害あって一利なしなのである。現代では、このような国家体制を維持することは不可能である。グローバルな経済環境下では預金者機密の完全保護は許されない。敵に回すと百害あって一利なしの国家となることは不可能である。

 日本は米国と同盟関係にあり、米国がどこかの大国と戦争状態に入れば、当然米国側につく。それでは、日本とどこかの国が戦争状態になった場合、米国は日本側について戦争をするだろうか。日本とどこかの国の戦争が世界を二分するほどの戦争となるならば、米国の参戦はあるだろうが、そうでなければ、単なる紛争であって積極的な米国の参戦は期待できない。中東のイラクとISとの戦いみたいなものだ。

 見方を変えると、第三次世界大戦が勃発するとすれば、第二次世界大戦のような世界を二分するような戦争ではなく、二国間の戦争が世界のあちこちで起こり、戦争状態が長期化することである。中東の紛争状態の長期化は、近未来の第三次世界大戦の始まりを感じさせないか。東アジアだって危ない。北朝鮮が内部から崩壊し始めた時が問題である。紛争の火種は世界中あちこちにある。

 外交力によって戦争を回避するというのが日本人の常識的考え方である。しかし、明治以来の我が国の外交を見ると、戦争を未然に防ぐ外交力というものが存在したか。これは、日本だけではない。第二次世界大戦におけるイギリス、フランスの外交力はどうだったか。第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る20年間のヨーロッパ外交はどうだったか。守られもしない、ころころ変わる同盟条約締結儀式の連続であった(E.H.カー)。英米に至っては、ナチズム、反ユダヤ主義を擁護する外交論調だって存在した。

 外交交渉は、戦争に至るプロセスである。うまく取引できれば戦争を回避することができるが、よしんば失敗したとしても戦争開始の名目はたつ。大体、戦争を始めようとする国との間に正常な国交があるわけがない。外交とは、平和な状態をできるだけ長続きさせるための手段であり、平和なうちに有事のための敵・味方を選別しておくことであり、戦争後の処理をうまくやるためのものだ。これから戦争を始める国との外交交渉などというものは基本的にあり得ないのである。

 敗戦から72年が経った。我々は、先の大戦から何を学んだか。戦争は悲惨だから、戦争をしないということを学んだのか。こんなことは学ぶまでもなく当たり前のことだ。我々は、戦争の歴史から何も学んではいない。否、戦争の歴史記録から学べるものは、戦争の仕方だけであり、それ以外に何も学ぶことはできない。国民を戦争へと駆り立てる狂信的思想の形成、国民に戦争の正義を信じ込ませる巧妙な政策手法、恐怖政治等、戦争の原因となった歴史的記録はあまりにも少ない。何故か。こういった事実・記録は歴史から消されているのである。知的進歩、知性は全て正しいのではない。知性にこそ真の悪が潜み、知的進歩はより強大な悪を作り出すのである。
                                                                                     2017年8月24日
2019/05/26

堕落論2017  堕落とは何か

 アメリカではトランプが自分を非難するメディアやキャスターをツイッターで口汚く罵り、そのたびにメディアが何だかんだと報道している。最近は、女性ニュースキャスターが大統領批判をしたとかで、トランプがやたらと怒りまくっている。ホワイトハウスの高官が「大統領批判をやめなければニュースキャスターのスキャンダルを公開する」と脅迫したそうだ。すごい国ですな。大国の大統領が、自分に対する評価にこれほど執着し、執拗にメディア攻撃を繰り返すとは。相手を執拗に汚い言葉で攻撃する人間が果たして正常なのかと疑いたくなる。人間、歳をとると、感情のコントロールが難しくなる。涙もろくなるのもその一つだ。なかには喜怒哀楽とは何の関係もありませんという老人もいる。顔の表情がほとんどなくなるのだ。そうかと思うと、やたら人の言動に固執する者もいるし、人の悪口しか言わなくなる者もいる。アルツハイマーや認知症の特徴の一つに極端な強迫観念があるそうだ。トランプの取り巻きは、大統領の病気を知りながら操っているというのは考えすぎだろうか。アメリカならありそうな話である。

 共和党の支持基盤である中西部の田舎町で、トランプについてどう思うかというテレビ報道を見た。「トランプの言うとおりだ」、「トランプは金持ちで信頼している」、「雇用の確保に努力している」といった意見ばかりだ。どうみても考えて意見を言っているとは思えない。一般的アメリカ人の知的水準とはこの程度のものか。この報道の前に、フランス大統領選挙についてのインタービューを見たが、まだあのフランス人の方が常識的だ。世界で最も豊かな国の国民がこの程度かと思うと日本国民もまんざらではない。
 
   ところで、我が日本はと言えば、文部科学省の天下り斡旋問題に端を発し、大阪の私立小学校の認可、四国の獣医学部の新設等、問題といえば問題ではあるが、なんともちまちました話ばかりだ。
 
 天下りに対して日本人は特に敏感に反応する。役人のOBがうまい汁を吸っているというのだ。中央政府に補助金や許認可の権限が集中しているのだから、優秀な役人を民間組織が欲しがるのは当たり前である。しかし、つい10年ほど前までは、役人の天下りは常識で、肩たたきと言って官僚が定年前に関連団体へ再就職していた。再就職先で高給を得、数年で莫大な退職金を手にし、さらに年金最高額を受け取るというのが当たり前だった。こういった天下り役人への報酬がどこからでていたかと言えば税金である。公共事業、委託事業、補助金等々様々な手法で税金が投入された。まさに国家的犯罪に等しい行為が堂々と行われていたのである。発展途上国もびっくりである。現在は、役人の定年延長、天下り対策もあってなりを潜めているが、潜めているだけでなくなったわけではない。水面下では数は少なくなっているが今でもあるに決まっている。世界のどの国をみても国家官僚は優秀なのだ。優秀な人材を求めるのはそれこそ当たり前のことだが、問題は税金の使途と関連していることだ。中国では、国営企業の役員が莫大な資産を保有しており、日本の天下り役人の比ではないと言う。どんな社会、組織でも人は必ず堕落する。

 役人の「忖度」が問題だといって野党が政権を攻撃している。組織あるいは社会というものが維持される大きな要素の一つに「忖度」があるのではないのか。高度経済成長時代、クレージーキャッツが「ゴマをすりましょゴマを・・・」とおおらかに歌っていた。サラリーマン社会では、偉い奴にゴマをするのは常識であり、サラリーマンとして生きるための欠くべからざる処世術である。ところで、「忖度」とは相手の考えを汲みとることであるが、「忖」を漢字源で調べると、心と寸の形成文字とある。寸とは、指一本の幅のことであり、指で脈をとるようにそっと相手の気持(心)ちを汲みとることである。行動するかどうかは別である。「忖度」は、知性のなかでもかなり高級な部類に入る。そこへ行くと、「ゴマすり」は、自分の利益のために偉い奴に取り入りへつらうことであるが、相手の考えを推察することは同じである。「推察」という本質的行為では同じだ。野党であっても組織があり階級があれば「ゴマすり」野郎は必ずいる。強固な組織には「忖度」は付きものであり、
「忖度」はマネジメントの根幹である。どうせゴマをすらなければならないなら、もっと粋な「忖度」をしろと言いたい。「ゴマすり」野郎は、堕落を生き残りの手段として使う。堕落といってもいろいろある。
 
 それにしても昨今の官僚の脇の甘さは目に余る。役所内の会議、打合せ、上司との会話は、全て記録されていてそれもパソコンに記憶されている。昔なら手帳にメモる程度であったが、今やパソコンへの記録保管、メールで配信ときたものだ。アメリカの元FBI長官もトランプとの会談をメモしていたというから、まあ、似たようなものだ。公文書の取扱に関する考え方は、アメリカと日本ではかなり異なる。それにしても、このデジタル時代にアナログのメモだ。録音しておけばいいではないか。今のレコーダーは超小型です。スマホでも録音できます。必要なければすぐに消せます。一人のパソコンに記憶されているならまだしも、メールであちこちに配信したというのだから話にならん。「情報の共有」と称して隣に座っている同僚や上司にも同時配信するのが当たり前になっている。会話で済む話だ。
 
  ツイッターにしろ、メモ情報の共有配信にしろ、情報社会とは何とも幼稚な社会ではないか。30年前、来たるべき情報社会の素晴らしさを誰も疑うことはなかった。情報社会は、情報処理の効率が飛躍的にアップし、生産性が極めて高くなると予想されていた。いざ現実となってみると、膨大な情報がネット上に溢れ、情報の共有という曖昧で無責任なマネジメントが横行する。生産性とは何の関係もない情報ばかりだ。情報社会は、我々に見えなかった現実を見せるようになったのではないか。そうだとすれば情報社会に生きる人間の「堕落」についても考える価値がある。
 
 情報が共有されたからといってマネジメントがうまくいくわけではない。不必要な情報はない方がいいに決まっている。何かのときの保身用にメモをとるのは、役人だけではなく組織人の常識だが、マネジメントとは何の関係もない。まして、組織や個人の保身のためにメモを共有するとは一体何を考えているのか。

 内閣府が特区事業を推進するために、文部科学省に圧力をかけて無理強いしたことが問題だと言う。アメリカの政治システムを見てみろ。ホワイトハウスがトップ官僚の人事権を握る。強要圧力をかけるどころではない。昨日まで長官だった人間が平に降格し隣に座っている等は当たり前だ。日本の官僚制が既に時代に合わなくなっている。
 
 国、地方を問わず政府組織の全ては社会主義体制で動いている。アメリカもヨーロッパも日本とさして変わらない。社会主義的で階級的な組織が堕落した場合、だれが堕落していることを見分けられるのか。はたまた、政治によって堕落を止めることができるのだろうか。堺屋太一は、官僚こそ日本の堕落の根源であると批判する。本人が高級官僚であったのだから、骨身にしみているに違いない。
 
 東京都議会議員選挙が終わった。自民党、民進党の惨敗、都民ファーストの会の圧勝であった。小池都知事を党首とする地域政党「都民ファーストの会」は、数ヶ月前に発足したばかりの新党だ。当選した党員の多くは議員経験がない素人である。何となくフランスの国政選挙と似ている。投票率も40%程度と極めて低い。フランスではマクロン大統領の新党「アンマルシェ (共和国前進)」が圧勝した。築地の移転問題、都政の伏魔殿問題等いろいろあるだろうが、なぜかしっくりこない。政治に対する「しっくりこない」感じとは一体何なのか。「しっくりこない」感じは、投票率に表れている。何をどうしようと、もはや政治は変わらず、官僚システムも変わらない。何も変わらないが、せめて新たな政治家がやる気をもって取り組むならば、少しはやらせてみようというものだ。日本では、1993年に細川護熙らの日本新党やその他の新政党が自民党をやぶった。自民党が敗れたのは、バブル経済の崩壊が直接の原因である。現在の政治のさきがけであった。それにしても、あれだけの政変があったにも関わらず、経済再生がうまくいかなかったのは何故だ。アメリカは、リーマンショックに対して極めて迅速に対応し、僅か数年で処理を終えたが、ヨーロッパはEUという体制・制度のために、今も後遺症を抱え、難民問題も重なって経済再生はうまくいかない。バブル崩壊から30年近くたつが、政変によって何がどのように変わったか。変わったのは、政治家の堕落、役人の堕落、政府を信用しない国民の堕落、情報社会の堕落だ。
 
 民主主義は、2千5百年前にギリシャで発明された。塩野七生の「ギリシャ人の物語」が読みやすいが、この本を読む前に、プラトンとアリストテレスを読んでおくことをお勧めする(くどくて相当に読みにくい)。民主主義とは、簡単に言えば、国民国家のことだ。国民によって選ばれた議員が、法を作り、国を統治する法治国家のことである。我が国では1925年から普通選挙が行われているが、明治憲法制定後からも国民による選挙は行われている。民主主義といっても、一人一票の平等な権利を持つ場合と、資産額に応じた権利を持つ場合の二通りの民主制がある。後者は、株主民主制が代表的である。議会議員選挙は国民一人一票である。戦前の日本、ドイツ、イタリアは、全体主義国家であったが、民主制でもあった。あのヒトラーも選挙で選ばれている。民主主義だからといって独裁国家にならないという保証はどこにもない。近年ではトルコのエルドアン、ロシアのプーチンが独裁制を強めており危ない。さらにポーランドもおかしい。民主制ではない国家の代表は中国だ。共産党一党独裁である。政府は共産党によって運営されているわけで、役所も軍隊も共産党の組織であって政府の組織ではない。国民全員が党員ならば、共産党という党そのものの存在が無意味である。中国の総有権者数に占める共産党員数の比率は約7%か8%といったところだから、少数の国民による一国独裁といって良い。こういう簡単な説明が、様々な文献のどこにもない。現在の日本は、自民党が政権政党ではあるが、司法、立法、行政の三権分立が建前であり、自民党が直接三権に関わることはない。従って、自衛隊は自民党の思い通りにはならない。欧米先進国も同様である。しかし、中国の軍隊は共産党の指揮下にあるので、党総書記、党中央軍事委員会主席である習近平の意思決定で動く。元来、国家と政府は別ものである。政府は国家運営を行う組織体である。政府が破産したとしても国家が崩壊するわけではない。ここまでくると国家とは何かを考えなくてはならなくなるが、これはもう少し後で考えよう。
 
 民主主義国家では、ポピュリズムは政治手法の常套手段である。最近では、フランスのルペンのようにポピュリズムどころかデマゴーグではないかと思える大統領候補さえ出てきた。ところで、ポピュリズムとデマゴーグの違いは何か。ポピュリズムは、大衆迎合主義というように訳されるが、大衆の望むような政治公約を掲げる政治姿勢を言う。選挙に勝つためには当たり前の手法である。例えば、税金を安くする、医療費を無料にする、学費を無料にする等は典型的なポピュリズムの政治公約である。最近のヨーロッパの極右政党は、ポピュリズムというよりデマゴーグである。デマを流して国民を扇動するのだ。最近ではフェークニュースと言っている。民主主義という政治システムは、ポピュリズム、デマゴーグという欠陥を内在している。自由で平等な国家にとって民主制は必須のシステムではあるが、自由・平等・法という甘い果実もぶら下げているのだ。だから、民主制の国家であっても独裁国家となりうるのである。
 
  最近のいくつかの政治的話題を見ても、何かがおかしいと思うが、人間というものは元来、ややこしくおかしなものなのだ。人間をややこしくおかしくしているのは知性である。勿論、動物的本能や生存本能、感性等の全ての知的生命活動を含む知性のことである。知性の本質とは何か、人間は何故このように堕落するかについて迫ってみる必要がある。それでは、どのようにこの問題に迫ることができるのであろうか。普通の学者ならば、抽象的に、形而上学的に、哲学的に、論理的に、つまるところ真面目に迫るであるうが、いい加減な評論家であり研究者である私は、不真面目に迫る方が適している。
 
 ところで、堕落とは何かであるが、和英辞典で引いてみると、あるわあるわ、沢山ある。人間は、これほどまでに堕落するのだ。名詞、動詞、形容詞等いろいろあるが、関係なく挙げると次のようである。

 corrupt,fall,degrade,rot,vicious(vice),lapse,decline,seduce,astray

 最初のcorrputはcor(共に)とrupt(決裂、折れる)とが合わさった言葉だから共倒れだし、折れるのだ。fallは文字どおり落ちるのである。degradeはグレードが低くなるのだから品質の低下で、品のないことだ。rotは腐敗を意味し、芯から腐った奴のようにに使われる。viciousは意地の悪さだから生まれながらの悪だ。lapseは過失や堕落を意味し、declineは下に曲げることだ。seduceは誘惑だし、astrayは道を外れる意味である。底意地が悪く、品格がなく、腐れきった奴で、誘惑に弱く、人生の脱落者ということになる。堕落の対象は人間だけではない。こういった人間を多く抱える組織、社会も対象だ。
 
 全て堕落に通ずる言葉だが、これだけではほとんど説明されていないに等しい。キリスト教では原罪を意味するらしい。アダムとイブが楽園を追われ現世に落ちて堕落するのである。現世は堕落に満ちている。といっても宗派によって解釈は様々なようだ。

 漢字源で「堕」の意味を見ると、丘や盛土が崩れる様が語源である。ただ落ちるのではない。苦労して盛り上げた土が崩れるのである。崩れては再び土を盛り、そしてまた崩れるのである。
 
 仏教では、現世は混沌としていて善人もいれば悪人もいる。欲望にあがないきれないのが現世なのである。仏教の教えに従っていればまんざらこの世も悪くないが、従わなければ堕落しこの世で苦しむことになるといった程度の堕落である。

 これから話を進める堕落とは、宗教的な意味合いの堕落とは少し違う。漢字の語源の方がより近く、人が積み上げてきたモノが崩れ落ちる様である。堕落とは、人々が作りあげてきた、あるいは作ろうとしている倫理・道徳・規範、その他もろもろの常識、人の道に背く様なのである。
 
 表題の「堕落論」は、坂口安吾が昭和二一年(一九四六年)四月に発表した「堕落論」からいただいた。坂口安吾は、戦争で焼け野原となった東京の片隅で生き延びた。戦時政府が崩壊し、それまで信じてきたものが全て無に帰した中で、人々が必死に生きようとする様に「堕落」を見たのである。それは、人間が極限的状況におかれた時の思考と行為を記録したものではない。人間が堕落する様に対する「叫び」なのである。
 
 最近の研究では、人間の進化は止まったと言う。700万年前に二足歩行を獲得したヒト属が、450万年という途方もない時間をかけて道具を使うヒト属のある種に進化する。それから、更に225万年をかけて現在のホモ・サピエンスとなる。今から25万前のことである。このホモ・サピエンスが現代人の祖先であるが、7万年前に発生したインドネシア・スマトラ島のトバ火山の大噴火によって地球が寒冷化し、人口1万人程度まで減少する。この人口減少が、現代人の遺伝的均一性を生み出した。現代に至る7万年の間に、人間は知性を発達させ、文明を生み出し、人口70億人にまで達した。しかし、遺伝子の多様性は失われた。遺伝子の多様性は生命体進化の原動力であるから、遺伝子の多様性が失われたことにより進化が止まったという説には説得力がある。遺伝的均一性により進化は止まったが、一方では知性の進歩を促した。人間は、絶滅の極限状況において知性を獲得した。しかし、知性の進歩と引き替えに堕落も獲得したのである。犬や猫を見ろ。実に真面目に生きている。サルにしてもごくごく真面目に生きている。人間以外の生命体の生き様は見事に真面目であり、決して堕落することはない。堕落は、知的生命体である人間のみが持っている。知性の進歩の本質は、堕落にある。
 
                                2017年7月