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2020/05/26

この国の精神 緊急 なぜ日本の感染者数は少ないのか

この国の精神 緊急 なぜ日本の感染者数は少ないのか

 

 

    行動自粛の効果によるものか、ウイルスの変異によるものか、原因はわからないが感染者数は減少している。欧米の感染者数の増加率も少なくなっているようだが、ロシア、ブラジルが増加傾向にある。

 

 とにもかくにも、日本の感染者数、死亡者数が欧米に比べて格段に低い。何故なのか。日本の奇跡とも呼ばれるが果たしてそうなのか。直近のニュースによれば、なぜ日本の感染者数が少ないかを究明するための国の研究班が発足したそうである。日本を礼賛する都合の良い根拠だけを挙げるような愚行にならなければ良いが。日本には、コロナウイルスの研究者は、僅かに畜産関係にいるだけで、ヒトコロナウイルスの研究者は誰もいないのだから、COVID-19ウイルスの専門家はゼロと言って良い。一方、中国と米国には、それなりに研究者がいるが、米国の研究者の大多数が中国人の研究者だというのも不思議ではある。

 

<日本の感染者数が異常に少ない謎に少し迫ってみよう>

 

日本の感染者数が少ないとされる仮説は下記のように整理される。

 

(1)日本人の衛生観念が優れているからという仮説

 

①日本の住宅は土足ではないから。

 住宅が土足ではない国は、日本、韓国、中東諸国である。しかし、中東のイラン・トルコの感染者数は極めて多いので、この仮説は妥当とは言いがたいが、それなりの感染率の低下には寄与している可能性は考えられる。

②手洗いの習慣があるから。

 外から家に帰ると手を洗う習慣があるというのは、ごく一部の家庭に限られているが、小学校の給食などでは習慣になっているので、それなりの効果はある。今回のCOVID-19では、国が手洗いを推奨してことで、かなり高い割合で習慣化したと考えられるが、ヒト-モノ-ヒトの感染率がどの程度なのかはほとんどわかっていないので、効果評価は難しいのが実態だろう。

③握手・ハグ・キスなどの習慣がないから

 感染防止効果としては、かなり効果があると考えられる。ヒトからヒトへの感染が最も危険であることから、日本人のソーシャル・ディスタンスはそれなりに保たれていると考えられる。そのため、感染ウイルス量が少ないため重症化しにくいと考えられる。

④マスクが習慣化しているから。

 冬期になると日本ではマスクをしているヒトを多く見るようになる。インフルエンザ対策として付けているヒトが多いと思われる。しかし、東京の人混みをみるとせいぜい30%程度ではないだろうか。ただ、風邪をひいたヒトが他人に感染させないためにマスクを付ける習慣は、日本人特有の習慣ではないだろうか。このことが、ヒトへの感染を防止している効果は高い。また、ナノフィルターマスクは、花粉症対策として10年ほど前から生産されるようになったことも大きく貢献している。インフルエンザの流行最盛期は2月上旬であり、この頃から東京では花粉症が出始める。首都圏を中心とするCOVID-19の感染予防効果として30%以上の効果があったと推定される。感染していないヒトのマスク効果は、ウイルスの曝露量であり重症化の予防効果だろう。

 

(2)BCGの接種効果ではないか。

 世界各国の単位人口当り感染者数の低い国とBCG接種とには相関があるという調査報告があり、BCGが感染予防に効果があるのではないかという仮説である。BCGというのは、弱毒化した牛結核菌を投与することで抗体が作られ、かつ免疫記憶されるという予防効果である。COVID-19に効果があるとすれば、免疫記憶された抗体によるものであるが結核菌とCOVID-19ウイルスでは天と地ほどの差があるので、抗体効果であるとは考えられない。ただし、免疫記憶機構もほとんどわかっていないため、全てを否定することもできない。免疫記憶における抗原認識と樹状細胞の関係等の解明はこれからの研究であるからだ。

 

(3)HCoV・SARSウイルスの感染による交差免疫の効果ではないか。

 科学誌Natureに掲載された論文によれば、SARS感染患者の免疫記憶B細胞から発見された抗体がCOVID-19ウイルスの感染を防ぐことが可能だという。まだ、実験室レベルであり、臨床応用には今後の研究が必要であるが、日本人がCOVID-19ウイルスに感染しにくく重症化しないのは抗体を持っているからではないかと考える研究者もいる。

YouTubeデモクラシータイムズでCOVID-19について児玉氏(東大先端研)が、似たような仮説を展開している。児玉氏は、日常的に感染する4種類のコロナウイルス(Human Coronavirus:HCoV)に日本人が冬期にさらされていることから、日本人はHCoVの抗体を保有しており、HCoVとCOVID-19ウイルスの基本的遺伝子配列は同じなので、重症化を抑える効果があるのではないかという仮説をたてている。

免疫記憶という機構はまだよくわかっていない。また、非常によく似たウイルスに対する抗体が、中和抗体の機能を有する(交差免疫)かどうかも確認されてはいない。中和抗体が、体内のウイルス量を少なくして重症化を防ぐという仮説も考えられるメカニズムではあるが、未だ確かめられてはいない。しかし、これらは重要な仮説であり、今後の研究が必要だろう。

 

(4)キクガシラコウモリを宿主とするHCoVウイルスとCOVID-19ウイルスとの遺伝子組み替えによる効果ではないか。・・・・・・私の仮説・・・

 

 児玉氏は、通常の4種類のHCoVに着目したが、私の仮説もこれらのウイルスに着目したものである。そこで、SARSウイルスの自然宿主であるキクガシラコウモリについて調べてみた。それは、アジアでは感染者数、死亡者数が欧米やブラジルに比べて格段に少ないのは何故かを説明するためには、人獣感染ウイルスまで遡る必要があると考えたからである。

 HCoV(ヒトコロナウイルス)の自然宿主はヒトであるとされている。HCoVには4種類のコロナウイルス、HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1があり、HCoV-229E、HCoV-OC43が最初に発見されたのは1960年代、HCoV-NL63とHCoV-HKU1は2000年代に入って新たに発見されたと言われている。ウイルスそのものを人類が発見してから実は100年も経っていない。HCoVは、恐らく相当昔から・・・日本では縄文時代よりはるか昔から・・・日本人に感染していたと考えられ、推定であるが、元々のウイルスは、キクガシラコウモリを宿主としていたのではないかと思われる。コウモリのウイルスについては、下記のサイトで詳しく説明している。

https://www.ayyoshi.com/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%81%A8%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87/

 

 MERS-CoV、SARS-CoV、HCoV-OC43HCoV-HKU1はβコロナウイルスに分類されており、ヒトの細胞への侵入受容体はほぼ同じとされている。

 1889年にウズベキスタンで最初に発生したHCoV-OC43感染症は、当初はインフルエンザではないかと言われたが、コロナウイルスであることが判明している(Wikipediaより)。世界中に広まり、死亡者数は100万人程度であった。

 HCoV-OC43は、コウモリ(オオコウモリかキクガシラコウモリかは不明)からウシに感染したウシコロナウイルスがヒトに感染したものである。

 SARSは、キクガシラコウモリから中国南部に生息するデマレルーセットオオコウモリに感染した後、動物からヒトに感染した。

 MERS-CoVは、エジプシャントゥームバットというオオコウモリからラクダに感染してヒトに感染した。

 

 このようにMERS-CoV、SARS-CoV、HCoV-OC43、HCoV-HKU1はよく似たウイルスであるが、HCoV-OC43に対するヒトの部分的抗体は免疫記憶としてかなりの割合で保有していると考えられているが、科学的根拠は見られないので推測の域は出ない。また、HCoVによる感冒様症状は、何度も発現するので免疫記憶による抗体保有説は疑問である。

 

以上のウイルスはいずれもコウモリに関連するが、オオコウモリの生息域はかなり限られることから、ユーラシア大陸、北アフリカ、日本に広く生息するキクガシラコウモリが元々の宿主ではないかと推測される。HCoVウイルスは、キクガシラコウモリから動物へ、動物からヒトへとうつり変異し、ヒト-動物-ヒトの間を循環して生き残ることになった。キクガシラコウモリは、南北アメリカ大陸、アフリカ南部には生息していないので、この地域の人はHCoVウイルスへの感染機会が少ないと考えられる。勿論、現代ではヒトの移動が激しいので多くの人は一度は感染していると考えられるが、HCoVウイルスに対して部分的であれ免疫記憶を獲得しているという科学的根拠は見られない。

 

 日本には3種類のキクガシラコウモリが、北海道から鹿児島県まで広く分布しており、富士山麓樹海等の洞窟にも生息していることは知られている。日本人は、キクガシラコウモリ由来のHCoVを野生動物や家畜、ペットを通して昔からかつ日常的に感染している、とも考えられるのである。

 今回の中国武漢で発生したCOVID-19ウイルスは、SARSウイルスとHCoV-OC43等のウイルスとが動物あるいはヒトの細胞の中で遺伝子組み換えが発生して誕生したウイルスであるという仮説も考えられる。

 ヒトの細胞の中に2種類以上のウイルスが侵入し、塩基配列の組み替えが発生することは日常的であると言われる。

 

 タラ・C・スミス(ケント州立大学公衆衛生学部疫学教授)が、QuantaMagazineに掲載した記事では次のような解説がある。

 

 「ウイルスがその遺伝物質と他の循環コロナウイルスの遺伝物質とが混ざり合う組換えです。このような現象は頻繁に発生し、まったく新しいウイルスが出現する可能性があります。例えば、2017年に確認されたイヌ呼吸器コロナウイルスの新規株は、既存のイヌやウシコロナウイルスの組換え体である可能性が高い。SARS-CoV-2と他のヒトコロナウイルス、あるいは動物コロナウイルスとの組み換えは可能かもしれないが、そのような事象の結果(良い、悪い、またはその中間)を事前に予測することはほとんど不可能」

 

 動物のコロナウイルスの中には、猫腹膜炎コロナウイルスのように通常の腸炎コロナウイルスとして感染した後、数ヶ月体内に留まり、腹膜炎コロナウイルスに変質し、強毒性を持つものもあるとも説明しており、今回のCOVID-19ウイルスの変異についてもわからないとしている。

 

 さて、私の仮説の結論である。

 

 

 日本人、中国南部、台湾等ではキクガシラコウモリを宿主とするHCoV-OC43等のHCoVの変異種に多くの人が日常的に感染しており、特に日本では、昨年秋から流行し始めた風邪の大半は、インフルエンザではなくHCoV-OC43等のヒトコロナウイルスの流行ではなかったのかと推測される。全国各地の学校での学級閉鎖では、インフルエンザウイルス検査が行われていなかった可能性も高く、またインフルエンザワクチンもほとんど効果がなかったことを考えるとHCoV-OC43による感冒であった可能性は否定できない。

 日本における感染者数、死亡者数の少ない原因は、COVID-19と弱毒性に変異したHCoV-OC43との間で組み替えが起こり、弱毒性のCOVID-19に変異したというのが、私の仮説の結論である。

逆に、欧米で何故死亡者数が多いかと言えば、欧米ではHCoV-OC43等のヒトコロナウイルスによる感染者数が少なかったからではないだろうか。フランス、イタリア、イギリス、スペイン、南北アメリカではヒトコロナウイルスによる流行性感冒がほとんどなかったためと考えられる。この冬のヒトコロナウイルスの流行が、中国南部、台湾、日本に集中していたか、あるいはキクガシラコウモリの生息地であったことのどちらかの要因によるものと推定することができよう。

 

 

<COVID-19の第2波は来るのか?>

 

 全く分からないが、1889年にウズベキスタンで最初に発生したHCoV-OC43感染症は、第1波の大感染で収束したようである。ネコ伝染性腹膜炎コロナウイルスのように、感染細胞の選択という複雑な変異を同一生体内で長期間にわたって起こす場合には、強毒性化して第2波が発生する可能性がある。

 COVID-19の第2波が発生し、強毒性化する可能性としては、今年の秋以後にヒトコロナウイルスの流行が発生しない場合が考えられる。今回のCOVID-19の結果、ウイルス感染予防が習慣化し、昨年のようにヒトコロナウイルスの感冒にかからなくなると、COVID-19ウイルスの遺伝子組み替えが発生せず、HCoV-OC43のような弱毒性へと変異しにくくなる。COVID-19ウイルスは、複写ミスを修復する機能があるらしいので、他のウイルスとの組み替えがなくなると、元のSARSウイルスへ修復するように複写される。この場合にはかなり強毒性に変異することも考えられる。つまり致死率10%以上、30%程度までの猛毒のウイルスへの変異である。第2波が発生すると相当にやっかいなことになりそうである。

 以上のように、COVID-19ウイルスは、HCoV-OC43等のヒトコロナウイルスよりも受容体の多様性等の複雑な機能を有していることから、強毒性への変異の可能性もあり、全く分からないというのが現実であろう。今のところ強毒性化の確率は、50%といったところだろうか。

                                                         2020/05/26

2020/04/30

この国の精神 緊急 どうなるCOVID-19!

この国の精神 緊急 どうなるCOVID-19

行動自粛にどこまで耐えられるか>

80%の行動自粛をしようと頑張っている。行動自粛なるわけのわからないシステムを実施している国は、日本ぐらいなものである。欧米の民主主義国家では、何らかの緊急事態法制の基に、外出規制が敷かれ、罰金制度等の厳しい規制下におかれるのが普通である。自由を標榜する欧米の民主主義は、公益、共同の利益(Republic)という上位概念によって個人を規制する。「公益とは何か」を問うことは、民主主義という社会システムを維持するための基本原理であり、個人の自由、人権論の対立概念である。公益について議論することさえないこの国の民主主義は、「行動自粛」なる曖昧な概念によって国民に暗黙の規制を強い、自粛しない国民を「非国民」として蔑視する危険な思想である。

国民に行動制限を要請し、規制をかけるのであれば、国民生活に対する最低限の補償は当然である。戦時を想定すれば良い。食料、生活必需品、武器等の生産供給は、政府の責務である。

都市的中毒患者は行動自粛に耐えられない

ところで、この「行動自粛」にこの国の国民はどこまで耐えられるかである。バブル崩壊以後、思考停止状態にある国民が、政府の要請にどこまで黙って従うのか。パチンコ屋に列をなして並ぶ、パチンコ中毒患者。飲み屋・バーに通う飲み屋中毒患者。ジョギングを止められないジョギングハイ中毒患者。毎日スーパー・コンビニに行かなければ気が済まないコンビニ中毒患者。孤独に耐えられない都市老人。DVにはしる夫婦。じっとしていられない子供達。「行動自粛」要請が出てから、こういった都市的中毒患者が如何に多いかがわかってきた。人の思考が作り出した都市という環境がどれほど人間の精神をむしばむかを、今回のCOVID-19は我々に示してくれた。これは、日本だけではなく世界の都市で共通に見られる病理である。

「行動自粛」の限界はおよそ1ヶ月といったところだろう。日本は、感染検査をしないからすぐに基に戻る。ただし、COVID-19の感染力が落ちないということを前提としてであるが。

COVID-19とは何者か?>

このウイルスのことが徐々にわかってきたようである。

2003年にSARSウイルス感染症が突如として中国で発生した。この新型コロナウイルスは、ハクビシンを自然宿主とするウイルスであり、ハクビシンから人に感染したと報道された。しかし、これは嘘であり、2003年9月には香港大学がハクビシン由来のウイルスではないことを証明した。

今回のCOVID-19ウイルスは、センザンコウを自然宿主としたウイルスが人に感染したと言われている。根拠は、センザンコウのコロナウイルスとCOVID-19の塩基配列が99%程度類似していることによる。SARSの場合には、僅か29個の塩基配列が異なっていたが、別物で、遺伝学的には異なるウイルスだった。一般的にウイルスの塩基数は3万程度程度である。SARSの場合、ハクビシンコロナウイルスとは僅か0.1%の違いでしかないが、これだけの違いでもタンパク質特性においては全く違うウイルスとなる。チンパンジーと人の塩基配列の差も同様である。

2003年のSARSウイルスの遺伝子解析でもわかるように、今回のCOVID-19ウイルスのセンザンコウ説には同意できない。ウイルスだろうと人の遺伝子だろうと塩基配列が99%一致しているということは、基本的に別の種だといっているに等しいことは遺伝子学では常識だからだ。

さらに、COVID-19ウイルスにはHIVウイルスの一部と同じ配列が含まれていると報告されているが、HIVの機能発現に関わる塩基配列がどの程度含まれているかについての報告がないのでこれもほとんどわからない。新型コロナウイルスに含まれるHIVウイルスの塩基配列と同じ配列は、15種類のウイルスにも見られると報告している科学誌もある。これも遺伝学的にはいい加減なものであり、前後の塩基配列、発現機能との関連性などは全くわかっていないので、「だからどうだ」というぐらいの報告である。

こうやって見てくると、SARSも今回の新型コロナウイルスも、自然界で変異して人に感染するようになったと言い切るには問題がありそうである。


COVID-19ウイルスは人為的につくられた?

そう考えていた矢先に、フランス人のHIVウイルス発見者が「新型コロナウイルスは人為的な操作の産物」だと発表した。今回のウイルスが人為的なものであるということは、台湾人の高名なウイルス学者も発表しており、世界の有名な学者が二人も塩基配列の結果を見ただけで、簡単に結論を出した。この発言はかなり重い。「地球温暖化の恐怖」において説明したように、研究者・学者ほど地位・名誉・金で動く人種はいない。堕落しているのである。金も地位も名誉もいらないとなったとき初めて本当のことを言うのが学者である。どうもここらあたりが真実ではないかと思われるがいかがだろうか。

人為的に操作されたウイルスであれば、ウイルスが増殖するたびに遺伝子の複写ミスが発生し、元の、操作前に近いウイルスに変異する。そのため、流行はすぐに終息する。COVID-19ウイルスは、かなりしぶといウイルスのようで、変異はするが感染力・毒性の強いウイルスの系統が残ったままになっている。このウイルスは、遺伝子組み替えのような人為的操作ではない旧来の遺伝学的操作ではないかと思われる。つまり、SARSウイルスを動物に移植し、その動物からウイルスを採取し、次の動物にウイルスを移植し、さらに動物種を変えて繰り返すということを17年間程度継続的に実験していたのではないだろうか。その結果としてSARSウイルスに、HIVウイルスの断片に似た塩基配列が含まれる変異種が発生したと推測することもできよう。HIVウイルスの断片を含むウイルスを保持している動物にはサル以外にも数種存在する。ひょっとしたら豚や牛も同種のウイルスに感染していたかもしれない。
もし、この仮説が正しいならば、半自然的あるいは旧来の遺伝学的操作により発生したウイルスということができる、これは手強い。短期的には終息しない。感染者が一人でも残っていれば、必ず再発する。それと、抗体ができてウイルスが死滅することも考えにくい。

それはさておき、武漢には武漢ウイルス研究所という最高危険度の研究機関がある。YouTubeの川添恵子氏によれば武漢ウイルス研究所が破壊されたと報告しているが、GOOGLE MAPで検索してみると航空写真の2020年版では存在しているので、間違いだと思われる。座標系の原点を合わせないと地図と写真が一致しないのでご注意を。
武漢2

<COVID-19はなぜ手強いのか?>

ウイルスの毒性は、①人体細胞内に入り込み増殖によって細胞を破壊すること、②破壊はしなくても癌化させるなど異常細胞に変異させること、③癌化させなくともタンパク質の合成過程で毒性物質を作ること等、の3種類が考えられる。COVID-19ウイルスは、増殖による細胞の破壊であるとされている。癌化、毒性物質の産生についての報告は今のところ見られない。


細胞内への侵入経路については、ACE2受容体、フーリンの2種類については解明されていたが、直近の報告では、8種類もの経路があることがわかってきた。このうち、下記の4種類については報告されている。ものすごいウイルスである。ワクチンや薬品が短期的に開発されるなどは考えられないのである。

①ACE2受容体
ウイルスの表面にあるスパイクタンパクが細胞表面のACE2受容体と接合して活性化し細胞に取り込まれる。ACE2は、血圧調整に関わる情報物質であり、加齢とともに増加する。腎臓で産生されるが、上部気道、肺、腸管に多く存在する。そのため、生活習慣病、心臓病、腎臓病、喫煙者、喘息等で重症化しやすい。若い人でも、これらの既往症のある場合には重症化する。さらに、アスリートやスポーツ好きの若者で重症化する可能性も否定できない。
最近の報告では、喫煙者の感染率が低いという。かつて喫煙していたが禁煙している人は感染しやすい。喫煙し続けている人の場合には、ACE2の量が少ないという報告もあるが、この研究では、ニコチンがACE2に結合するため感染しにくくなるということである。喫煙もまんざらではない。
②フーリン
フーリンは、年齢を問わず産生しているタンパク質であるが、特に、T細胞の末梢系免疫寛容、ヘモクロマトーシス(鉄の過剰蓄積)との関係が深いと言われる。HIVウイルスがT細胞に侵入する経路はこのフーリンによるとされている。北欧系白人に多い遺伝性のヘモクロマトーシスでは、感染率が高くなり、HIVへの感染率も高い。北欧系白人のヘモクロマトーシスは、100人に一人の割合と言われている。
③TMPRSS2
COVID-19は、男性ホルモンであるアンドロゲンの受容体と結合する。男性の感染率が高くなるのはこれが原因ではないかと推定されているが、男性ホルモンは女性にもあるのでこの説は疑わしい。前立腺癌等では多く見られる。前立腺炎は、高齢男性で多くみられ、特に欧米系人種では発症率が高くなる。これが高齢男性の感染率の高さと関係していると考えられる。
④GRP78
免疫細胞の表面にあるタンパク質でありCOVID-19ウイルスの受容体となっている。そのため、免疫細胞に侵入して増殖することで、抗炎症サイトカインの放出を抑制し、サイトカインストームを引き起こす。自己免疫疾患の関連因子として知られている。血管障害に関連した因子であり、このタンパク質とCOVID-19ウイルスが結合することにより、血管壁細胞のアポトーシスの抑制が止まり、血液凝固が促進されて血流が極端に悪化し、アテローム性動脈硬化を促進させる。つまり、血栓が急激に増加し、心不全、脳梗塞を発症する。また、感染後の兆候として、手足指先にしもやけに似た紅斑や、極端な冷え症状が見られる。肺炎は確認されないが、血中酸素量が減少する。これは推測であるが、赤血球も破壊されるのではないかと考えられる。

さらに、このウイルスは、細菌のようにRNA複製ミスを修復する機能を保持しているらしい。そう簡単には、弱毒性へと変異しないばかりか、ひょっとすると強毒性に変異する可能性も秘めている。

COVID-19ウイルスの変異は極微少?

国立感染研究所が、COVID-19ウイルスの変異状況を発表し、現在の日本は第二波だと報告している。

2月から始まったこのウイルスによる感染症は、収束の気配さえなく感染者が増え続けている。第二波ではなくて、変異したウイルスが同時に国内に持ち込まれたと考えるのが当たり前ではないのか。

感染研の初動ミスをごまかし、クラスター分析等の小手先の処方で対処できるとした判断ミスを隠すために発表したとしか考えられない。こんなことは英独の研究者が既に実施している。

COVID-19ウイルスの本質になぜ迫らない。

役人根性丸出しの保身主義者にはうんざりである。


<行動自粛の効果はでるのか?>

下記の図は、いつもながら恐縮であるが月間の推定感染者数のグラフである。5月9日の感染者数を推定し、5月以後の行動自粛の程度により毎月の感染者数の変化を見たものである。
予想感染5-25


5月以後、行動自粛80%とした場合が黒線である。

行動自粛80%に押さえなければ感染は止まらない。

行動抑制80%は、国民の自主的行動では無理だ。


行動自粛50%程度 恐らく40%前後で収束させるためには、これしか方法はない。

感染検査体制、1日5万人を1ヶ月以内に準備し、感染者隔離施設を全国で2万人分以上確保しなければ収束しない。

これしか方法はないと確信する。


安部、管、加藤は、以下のことを肝に銘じよ。

国家国民の危急存亡にあって、政治家は我欲、政治欲等の全ての欲望を廃し、自らの生命を賭け、勇気を持って一点に集中して決断せよ。

この時局においてよくぞ政治家となれしと喜ぶべきである。

如何に死ぬかは、如何に生きるかである。直感を信じよ。

2020/04/30 










2020/04/12

この国の精神 緊急 コロナで自民党政権は崩壊する

<財政出動16.8兆円?>

  ガーゼマスク二枚を国民に配り始めるそうだ。袋詰めに厚生労働省の役人が作業しているというから、役人はよっぽど暇に違いない。袋詰めぐらいしか仕事がないのか。

安部マスクに総額470億円  無駄だ!

安部マスクは犯罪である。
ガーゼマスクの効果がほとんど無いにもかかわらず、あたかも効果があるかのように配布し、使用した国民の多数が感染したらどうするのだ。明らかに犯罪である。


こんな税金の使い方に財務省はOKを出した。税金の使用も不正使用にあたり犯罪である。

 安部政権は、事業規模108兆円だと宣伝している。報道はどうなっているのだ。中身を見ると、金融対策費(融資及び保証)と昨年度の消費税増税対策費を除くと、僅か16.8兆円ではないか。

財政支出は、僅かにGDPの3%でしかない。この支援対策の表現も詐欺行為に等しい。

 安部、麻生、管は、財務省から脅されているという噂がネットで流されている。財務省の言うとおりにしなければ森友問題の真実をばらすというのである。16.8兆円などというとんでもない対策を最もらしくごまかすところを見ると、何となくこの噂は真実らしく聞こえてくる。

 政治家が、官僚ごときに脅されるようになってはおしまいだ。自民党の内部からも反論が出ているらしいが、一般には全く報道されない。これが、かつての自民党であったらば、派閥ごとの反論が堂々と報道されたに違いない。

今や、この政党に、保守の精神はない。

<東京都の検査件数はなぜ増えない>

 4月7日の東京都の感染検査件数を調べた。検査件数の少なさはこの緊急レポートで何度も指摘しているが、今もって増えていない。相談センターが受け付けた、累積件数は66,300件に達しているが、検査件数は僅かに5,945件である。この検査件数というのが全くわからない。陽性である場合、最低2回、通常は3回程度は実施する。つまり、初回の検査数を恣意的に公表していないのである。仮に公表検査数が全て初回であったとすると、相談件数の9%しか検査していないのだ。

小池さん、これで命を守れるのか。

 なぜ検査件数が増えないかを調べてみると、大学、研究機関等でのPCR検査をしてはならないという通知・通達が文科省からでているそうである。PCR検査装置は、大学や研究機関で多数保有している。米国の検査の大半は、大学で実施されている。ところが、日本では萩生田文科大臣が検査の禁止を命じたというのだ。ウイルスは、試薬を添加した段階で無毒化する。勿論、取扱には注意を要するため、大学といえども安全基準が適用されるのは当たり前である。

 11日の報道によれば、埼玉県の保健所長が、検査をしないように指示していたと告白したという。

政府・都道府県は感染検査を意図的に実施せず、この状況が現時点でも続いている。

これは、国家犯罪であり、憲法第25条生存権に関わる明確な違反である。

 東京首都圏には、医学系、生物系、農学系の大学が集中しており、PCR検査装置を大量に保有している。これらの資源は何も利用されていない。これが我が国の実態だ。

 11日の報道の中で、前大阪市長の橋下某が感染検査で陰性であったということである。この男は、検査は少なくて良いと盛んに言っていた男である。ウイルスのことを何も知らずにバランスがどうのこうのと物知り顔でしゃべりまくっていた。おまえだけ検査を受けた。検査されずに拒否された者がどんな思いで毎日を送るか想像したことがあるのか。 馬鹿野郎!
 こんなクズ野郎に検査などする必要もない。医療崩壊等は、この国でははるか昔からそうなっていた。高齢者を見捨てた国なのだ。

 安部マスク470億円、厚生労働省の新型コロナウイルス対策批判情報の監視費用25億円(憲法19条違反)があれば何台の検査装置が買えるか。何人の検査要員を確保できるか。


<緊急事態宣言で感染爆発を止められるのか>

 感染者数予測は、これまでも何度か行ったが、4月8日のデータを基に、再度予想してみよう。4月9日の感染者数と死亡者数が一致することを条件とすると、3月11日から4月9日までの1ヶ月間に、一人の感染者が3.1人に移していたことになる。この状態、つまり、3月の状態から、緊急事態宣言による行動自粛によって、50%程度行動が抑制されて感染率が1.5人に低下したとすると、図1のような予想曲線になる。

50%程度の行動抑制では感染拡大を止めることは出来ないのだ。

 1年後の2月には、累積感染者数5百万人、死亡者数12万人程度と予想される。死亡者数は、現状の肺炎死亡者数年間12万人と同じになるのだ。

     図1 行動抑制50%、感染率1.5人の場合の累積感染者数予想
感染率15予想-2


 それでは、3月の状態から70%程度行動抑制したらどうなるか。感染率を0.9人まで押さえるということである。これでも、感染者数は減らすことはできない。それも、10ヶ月間行動抑制を継続するという条件である。来年1月から2月までの1ヶ月間の新規発生者数は、35,000人に達する。

 感染を押さえ込むには、80%程度行動抑制をして感染率を0.6人まで低下させる必要がある。図2は、このような行動抑制をした場合の毎月の新規感染者数の予測である。政府が公表している(北大の某教授の推定)予測と一致する。しかし、来年2月まで厳しい行動抑制を継続したとしても、4月9日の時点で累積感染者数が5000人を超えている状況では、来年2月に至っても1ヶ月間に1500人以上の新規感染者が発生する。この厳しい行動抑制を来年8月まで継続したとすれば、新規感染者数はやっと月間で1000人未満になるが、感染能力を有する感染者が1000人もいるとなると、行動抑制がなくなったとしても、すぐに元に戻ってしまう。
        図2 行動抑制80% 感染率0.6人の月別新規感染者数予測
感染率06予想


それでは、感染者数を低水準で維持し続けるためにはどうしたらいいのだ。

 5月9日以後、武漢のように都市封鎖、交通遮断、外出禁止令という97%の厳しい行動抑制を8月までの3ヶ月間実施し、8月以後4ヶ月間は80%の行動抑制に戻し、その後65%の行動抑制に緩めるという条件でシミュレーションしたのが図3である。

 このグラフは、武漢の都市封鎖とよく似ているではないか。武漢の都市封鎖効果とはこのような状態を想定したシナリオだと考えられる。つまり、公表されているデータは、こういったシナリオに基づいた創作データ、偽データではないかと推定されるのである。

武漢のデータは創作データである

 80%の行動抑制とは、通勤禁止、スーパー、薬局、役所関係、警察、消防、医療機関以外の全ての事業・営業の禁止、外部交通遮断、地域内交通のみといったものである。97%の行動抑制では恐らく隔離状態とほぼ変わらず、外出は許可制になる。

こんなことは、今の日本でできるわけがない。

   図3 外出禁止令、交通遮断という97%行動抑制の場合の新規感染者数予測
感染率01予想


<行動抑制50%程度、感染率1.5人の状態でどうすれば感染を止められるか>

 現状の緊急事態宣言、つまり行動抑制50%程度、感染率1.5人の状態のままで、どうすれば感染を食い止めることができるのだろうか。

方法は一つしかない。

感染検査を徹底し、陽性患者を片っ端から隔離することである。

感染検査の徹底とはどうすればいいのだ。

 毎日100万人の検査を実施し、100日で1億人を検査することだ。そう難しいことではない。何せ布マスクを全世帯に配布するというのだから、こんなばかげたことに比べれば遙かに簡単で、効果がある。まず、サンプルキットを全世帯に配布し、自分で採取することを原則にする。回収は郵送にするとまずいので、郵便局員、宅配業者に防護装備を配給し、回収する。後は検査をして、陽性であれば、無条件に隔離する。勿論、陽性患者の家族、接触者は後で再度検査することになる。

 布マスクの製造、配布の数倍の手間で全国民の検査が完了する。これを3ヶ月間で実施する。全国でなくとも、感染者数の多い大都市に限って実施してもいいだろう。

 他にもある、企業、公共事業体、自営業、学校等の機能的組織構成員を中心に全て実施する方法もある。これらの情報は、都道府県、市区町村にあるのですぐに特定可能である。

 検査装置は、メーカが沢山作っているから、1ヶ月もあれば用意できる。隔離施設も簡単だ。後は、労働力だ。これもそう難しくはない。大都市を中心に休業状態なので、危険手当付き時給でいくらでも集まる。アメリカの失業保険申請者数が僅か数日で1600万人にもなったのだから、日本だってこれから500万人ぐらいは発生するだろう。防護装備は、国が全量買い上げであれば1ヶ月で十分調達可能だろう。

なぜこんな簡単なことを、迅速にかつシステマティックにできないのだ。

 経団連、経済同友会は何をしているのだ。世界では、企業が全力を挙げて支援している。マスク、防護装備の生産等はお手のものではないか。この2ヶ月間何もしていない。一時帰休、借り入れ準備・・・それだけしかできないのか。今もって金儲けだ。三井、三菱、住友・・・・・トヨタ、日産、日立・・・・・・。何をしているのだ。今からでも遅くない。マスクと防護装備をすぐに生産しろ。


<実は、日本の医療はとうの昔に崩壊していた>

 急激な感染者の増加は医療崩壊につながると、医師会、政府は繰り返し、しつこいぐらいに解説している。何故なのか。
そこで、その理由を少し考えてみると、以下の理由のようである。
①指定感染症と判定されると、症状の有無にかかわらず隔離入院しなければならない。そのため指定医療機関のベッド数がすぐに不足して医療崩壊
②感染者が一般病院に押しかけて、一般診療が困難になる医療崩壊
③院内感染が広まり感染爆発の連鎖が起こって医療崩壊
④重症者数が増加しても指定医療機関のベッド数がすぐに不足して医療崩壊
⑤人工呼吸器、人工心肺装置が不足状況なので医療崩壊。

これは全部嘘であることがわかった。実はこういうことなのだ。

 我が国の肺炎死亡者数は、年間13万人、月平均1万人、1日平均300人~400人となっている。この数字は実に不思議な数字である。肺炎死亡者1日400人、重症肺炎患者の死亡率50%、重症者の入院期間10日間とすると、現状で1日当りの重症肺炎患者入院数は8000人にもなる。現状の重症肺炎患者だけでも満杯状態であり、これ以上の患者の受け入れは難しいのが実態である。つまり、武漢肺炎(これから新型コロナウイルスというのは長すぎるので武漢肺炎と言うことにする)が発生しなかった場合でも、現状の設備・体制で既に既存の重症肺炎患者できつきつの状況なのである。

医師は、なぜそう言わない。
何故、重症肺炎患者ベッド数を増やせと言わないのだ。

 次に、人工呼吸器の利用状況はどうだろう。一日400人の死亡者に対してどのくらいの割合で人工呼吸器が利用されたのだろうか。私の周りに聞いてみると、70歳以上で重症の肺炎になると医師は人工呼吸器を付けないのが普通だという。仮に助かっても、余命は少ないからだ。

何のことはない。日本の医療では、命の選別は常識なのだ。

医師会、厚生労働省よ。医療崩壊などと格好のいい言葉でごまかすな。
これも犯罪のにおいがする。

 ジャーナリストの皆さん。政策がどうのこうのという前に、肺炎死亡者が人工呼吸器をどのくらい使用しているか足で取材してみろ。おうむがえしの報道ばかりでは能がない。文春砲も空砲ばかりか。

 武漢肺炎の重症者数は、4月10日現在でも僅かに125名である。仮に、重症者数が5000名になったとしても高齢者に人工呼吸器が使われることはないのだ。

 暗黙の了解により、高齢者が重症化した場合には、武漢市やニューヨーク、イタリアと同じように命の選別が行われ放置される。日本では、昔から行っていたのだ。

<新型コロナウイルスは猛烈なスピードで変異する>

 京都大学(北京大学?)の研究グループが、日本の新型コロナウイルスには大きく2つのグループがあると発表している。S型とL型だそうである。このうちS型は弱毒性、L型は強毒性ではないかと推定しているが、11日の報道では不適切だったと修正している。毒性の強さとは、増殖力のことであるが、ウイルスの増殖は感染したウイルス量と、ウイルスそのものの特性による場合があるので、簡単には解明できない。最近では独英の研究者が京都大学よりも多い検体により解析した論文が発表されている。これによれば、日本に入ってきたウイルスは武漢よりも広東省あたりのものが多いらしい。ヨーロッパは武漢を起源として変異したウイルスであるという。しかし、人の移動が激しいので、日本でもヨーロッパタイプもかなり入っていると思われる。ウイルスは、一般的には、人-物-人と感染して変異を繰り返すと毒性が弱まる、つまり、共生能力を付けると言われる。しかし、例外もある。強毒性に変異する可能性も否定できない。

集団免疫という嘘。

 集団免疫とは、死ぬ者は死んで、生き残る者は残るということである。しかし、生き残った者に免疫があるとは必ずしも言えない。ウイルスが変異して毒性が弱まっただけかもしれないのだ。
 コロナウイルスに対する応答免疫が長期間記憶されるという研究報告はどこにもない。短期的に、例えば、半年とか1年間程度は抗体が産生されるがこれは免疫記憶ではない。ウイルスに常時さらされている環境であるために抗体産生が継続しているに過ぎない。

 武漢肺炎は必ず第二波、第三波がありピークから半年以上1年以内に次の波がくる。ワクチン、新薬がなければ収束はない。


<自民党政権は、コロナで崩壊する>

 この国の政治における保守の思想とは、この国の精神そのものである。この国の精神は、命あるもの全てに対する、つまり全自然・全生命に対する思いやりの心であった。しかし、この国の政党は、保身と金のためにこの精神を放棄し、堕落した。自民党だけではない、野党も含めた全ての政党・政治家がそうである。官僚は、政治家に対峙するべき唯一の砦であったはずであるが、野良犬のごとく政治家にすり寄り、ただしっぽを振るだけである。
 今後最低2年間は続くと思われる戦後最大の大不況を乗り切るためには、口先や小手先の経済手法ではどうにもなるまい。

もはや手遅れである。

                                     2020/04/11

2019/05/27

堕落論2017 戦争の危機

   坂口安吾が「堕落論」を発表したのは、昭和21年(1946年)4月である。戦争終結から八ヶ月、戦災の跡が生々しく、先のことなどは到底見えず、しかし戦争から解放されたという実感だけが国民に浸透していった。この年の12月には「続堕落論」が発表されている。
  論文でもなく、小説でもなく、かといって随筆と呼ぶには強烈な文体である。タイトルを見るとなにやら破滅的な思想書かと思うがそうではない。現人神がおわします神の国、神風が吹く神々しき国が一敗地に塗れ、今や、花と散り損なった若者達が闇屋となり、ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりてとけなげな心情で男を送った女達も、やがて新たな面影を胸に宿す世相へと変わった。人々が営々と作りあげてきたものが崩れ落ちる様のはかなさ、みにくさに対する叫びである。

  今、この時間も世界のどこかで戦争をしている。日本人のおおかたは、「戦争してるんだ」、「どうして戦争するんだろうね」、程度の認識だろう。
  ところで、私も含めた現代の日本人は、「戦争」について考えたこともないと思われる。毎年、8月になると、報道番組の主要なテーマは、第二次世界大戦一色となる。第二次世界大戦当時のニュース・フィルムの再編集か、僅かに生き残っている戦争体験者の体験番組が大半である。これらの報道内容の意味するところは、端的に言えば、戦争は悲惨なものであり、戦争をしてはならないという教訓である。とかく教訓というものは、まわりくどい。一方、第二次世界大戦がどのようにして引き起こされたかについては、ほとんど何も報道されない。そこで、開戦に至る原因のいくつかをひろってみると次のようなものである。
 「満州国(中国東北部)開国に対する中国の反発に対し、国連は、一度は対日経済制裁を黙殺したものの、盧溝橋事件以後日中事変の勃発によりアメリカを中心とする経済制裁の主張が本格化した。いわゆるABCD包囲網が張られ、その頂点に達したのが昭和16年の日本に対する資産凍結と石油の禁輸であった。現代の北朝鮮やイランに対する制裁手法とさほど変わりはなく、経済封鎖である。満州には石油はなく、石油資本は、アメリカ、イギリス、オランダが独占していた。若干の鉱物資源は満州で調達可能としても、火薬の原料となる硝石等はベトナムから輸入しなくてはならない。しかしベトナムはフランスの植民地だ。インドを始め東南アジア諸国は、欧米の植民地であった。中近東は、欧米諸国、欧米石油資本、王族とによる石油独占の独裁的国家である。日本は、我慢に我慢を重ねた結果、太平洋戦争の開戦を決意した」。説明不足の点はあるが、経済制裁による資源窮乏に対して堪忍袋の緒が切れたという説明である。

 1970年代に任侠映画が大ヒットした。高倉健主演の網走番外地は、70年安保時代の象徴的映画であった。健さんは、罪を犯しはしたが、それにはやむ得ない理由があった。彼は常に謙虚で、物事を深く考え、感情には流されず、しかし人情味あふれた人物である。彼が属する真面目な集団の権益を狙う悪者達が、ああでもないこうでもないと難癖をつけては執拗に妨害し、暴力を加える。忍耐に忍耐を重ねた結果、健さんは一人敵に立ち向かうのである。話は、単純だが物語の筋立ては、第二次世界大戦のそれとそっくりである。一人で戦うならば、まあ好きにやれでよいが、国民を巻き添えにするとなるとそうはいかない。日本は、資源がなく、国民の生活も困窮の極みに達し、生き抜くためにアメリカと戦うというのである。本当か。本当に、全ての国民が食うに食えなくなっていたのか。そんな馬鹿なはずはない。そんな単純な理由ではないはずだ。
 先の大戦は、日清・日露戦争での勝利、第一次世界大戦における漁夫の利、欧米先進国のアジア植民地化と富国強兵等々、明治維新から第二次世界大戦までの「成功の70年間」に徐々に蓄積された奢りが生み出した日本という国家の堕落によるものだ。坂口安吾は、終戦に人間の堕落をみたが、国家の堕落ははるか昔に始まっていた。
 ところで話はそれるが、テレビに氾濫している韓ドラを見ると、悪人と善人との関係が単純な論理構造になっていないのに気が付く。悪人が、嘘をつき、人をだまし、相手を殺すのにはそれなりの理由がある。悪人の行為には、悪人なりの正当な理由があってのことだと言う。その理由は、悪人の地位を脅かしたり、悪人の昇進を妨害するのは善人がいることである。善人さえいなければ悪人は幸せになれるのである。悪人は善人に比べて自己実現の欲望が強いだけで、だましたり、嘘をついたり、暴力といった行為は、悪人にとっては許容範囲なのである。この論理においては、自己実現の欲望が強いことは悪ではない。人間として当然であり、そういう欲求は正当なのである。韓ドラでは、悪人の善人に対するいじめが尋常ではない。反対に、いじめられる善人は、実に真面目だ。決して悪いことはしない。耐えるのである。そして、反論できない証拠をつかんでから、じっくりと反撃にでる。
 お国柄が違うと、善と悪、正義に対する考え方がこうも違うのかと考えさせられる。とはいっても、5分で済む内容を1時間もだらだらと続くのにはうんざりするが、耐えに耐えて善人が反撃に出るという筋書きには不思議な魅力がある。成り行きはわかっていても、反撃にでるものに対する同情と反撃の快感がたまらないのである。
  堪忍袋の緒が切れて開戦に踏み切るにしても、このような経済的理由以外の理由もある。それは、「恐怖」である。敵の軍事力が増強しており、これ以上軍事力が増すと危険にさらされるという恐怖だ。政治手法の根幹は、「国民」に対する脅迫にある。今、これをやらなければ将来国民はこれだけの損失を被ると脅迫する。河川改修等の国土保全に関わる公共工事の必要性に対する説明であれば、一定程度は受け入れられるが、戦争となれば話は別だ。「気候変動」も話は別だ。二酸化炭素濃度が、ppm単位で増加した場合の気候変動を実験レベルで証明しない限り信用できない。今の説明では、将来の海面上昇は必死である。それならば、何故、都市の高所移転を進めないのか。恐怖政治は、ここにも存在する。

 9.11以後、ブッシュがはじめたイラク戦争の大義は、建前は、「大量破壊兵器は持たせない」というものだったが、本音は、「やられたらやる」というものだ。その上、おりからの石油資源問題もあった。人類の歴史は、戦争の歴史である。塩野七生の「ローマ人の物語」は、全編、戦争、戦争、また戦争である。ローマの歴史書は戦史だ。それも何故戦争をしなければならなかったかは、勝った側が記録しているから、負けた側の理屈はわからない。
 なにはともあれ、戦争が始まったら、戦争を始める理由などは二の次、三の次、まあどうでもいいのである。勝たなければ歴史にその正義を残せない。
 第二次世界大戦は、我慢に我慢の末にやむなく始めたが、負けることはわかっていたというのである。戦争を始めるからには勝たなければならないが、負けるときも重要だと言うのだ。それは如何にうまく負けるかだというのである。これはどうなっているのだ。これでは国民は、たまったものではない。戦争を始める政治家、官僚、高級軍人は、将棋や碁のようなゲーム感覚で戦争を仕掛けたというのか。最近なら、スマホの戦争ゲームみたいなものだ。命を賭けた戦争では、負け方も何もあったものではない。小国民は、黙って国の言うとおりにすれば良い。批判でもしようものなら非国民である。欲しがりません勝つまでは、生めよ増やせよ、が国民の義務である。このモットーはドイツからの借りものらしい。国の責務は、負けることはわかっているからうまく負けることである。あまりにも都合が良すぎないか。おまけに、奇襲攻撃で開戦するのだから、天皇、政府関係者、軍人以外の国民にとっては寝耳に水の話だ。勿論、うすうすは知っていたか、戦争を始めるらしいとか何とかの噂は飛び交っていたに違いないが。

 しかし、一旦、戦争を始めたらやめることは不可能だ。相手がいるのだから、こちらが思っているようにはやめられない。それどころか、戦争を止める法律、制度、システムというものは何もないのである。勿論、戦争を始める法律もない。

 さて、我慢に我慢を重ね、戦争に踏み切るという決断が、国の指導層だけで勝手にできるのであろうか。限定的にしろ民主的国家において国家間の開戦は、それほど単純ではないはずである。

 開戦を正当化する思想、倫理・道徳、法は戦争開始と同時に形成されるものではない。まあ、一部にはそういうものもあるだろうが、政治思想というものは、多くの場合、時間をかけて、それもかなり長い時間をかけて、権力層、知識層、国民各層の間を何度も行き来しながらゆっくりと形成される。近代戦争における大義・思想の形成とはこういうものだ。第二次世界大戦に至る思想では、東亜新秩序、八紘一宇、五族協和等々があるが、よくもこれだけ考えたものだ。当時の官僚と御用学者によるものと思われる。このくそ真面目な作品が国民を戦争へとかきたてた根源である。

  「堕落論」の冒頭は、「半年のうちに世相は変わった。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は、大君のへにこそ死なめかえりみはせじ」である。言葉の調子というものは、人の感情に直接響く。しかし、意味がわからなくては響きようがない。「醜」とは、みにくいのではなく、「強く頑丈」なという意味だ。
 「海行かば」という曲がある。昭和十二年に作曲され、戦争中は盛んに歌われていたが、戦後は全く歌われなくなった。次のような歌詞であり、万葉集(元は日本書紀らしい)からとられた。「天皇の足下に死ねれば本望だ。後悔はない」といったような意味である。天皇に忠誠を誓った歌とされている。

海行かば 水漬(みづ)く屍
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

  音域はやや高いが、格調高い斉唱である。旋律は、日本人の心性に直接響く。こういう曲はどこの国にも一曲や二曲はある。第二の国歌だ。「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」という曲がある。「ナブッコ」というオペラの中で歌われる合唱曲だが、イタリアの第二国家である。しかし、それにしてもこの「海ゆかば」は、恐るべき歌詞である。死をもって天皇に忠誠を誓うという歌を国民に唄わせるという政府も政府だが、この歌を選んだ官僚の神経とは何なのだ。こんな国は、世界のどこにもあるまい。軍部の独走が開戦の要因だったという話がまことしやかに言われるが、そんなに単純な話ではない。時代の支配層、権力層、知識層、富裕層のほとんど全てが関係していたことは間違いない。

 言葉に楽曲が加わることで、思想にぬきさしならぬ心情的重みが加わる。国家指導層・政府は、戦争を始めるためにありとあらゆる手立てを講じる。これは戦争だけではない。戦後復興から高度経済成長へと進む時代も似たようなものだ。ちなみにこの時代の第二の国家は、昭和の歌謡曲だろう。戦前から唄われていた「影を慕いて」、「誰か故郷を思わざる」ばかりか、軍歌も盛んに歌われた。しかし、「海行かば」は、全くといって良いほど歌われていない。「リンゴの歌」、「港町十三番地」、「有楽町で会いましょう」、「銀座の恋の物語」、「函館のひと」、膨大な第二国家が誕生した。

 日本は、戦争に負けた。それも惨敗どころではない。無条件降伏である。政府が考えていたうまい負け方はどこにいったのだ。全ての、秩序、思想が崩壊した。敗戦直後の社会は、どのようなものだったのだろうか。闇市、売春などは小説・映画の題材で知られているが、社会秩序について記述した文献が皆無というのも不思議である。米国占領軍がもっとも恐れたのは、無法状態と化した日本への上陸であったという。しかし、上陸してみると何とも整然としていたというか無法地帯をとおりこして無条件従順社会へと変貌していた。終戦直後に占領軍が車で移動している記録映画を観ると、日本軍と思われる軍人が、道路側とは反対方向を向いて整然と立ち並び、あたかも占領軍の移動を護衛しているような映像が映し出されていた。こんな敗戦国は、世界のどこを探してもない。ちなみに、ドイツの終戦状況をみると、連合軍がじわじわと首都ベルリンに向けて侵攻し、ベルリンが陥落したときには、ドイツ国土のほぼ全域が連合軍に占領されていた。

  日本は、本土決戦を予想して武器の準備をしていたというから、無条件降伏だからといっておいそれと上陸できるわけがない。アメリカはゲリラ戦を覚悟していただろう。しかし、日本は何の抵抗もしなかった。勿論、全くなかったわけではないと思うが、ほとんど無視できるほどの抵抗だったに違いない。抵抗よりも従順解放を選択した。このまま進めば死ぬ、個人では選択できない運命、完全な強制から逃れられないという極限的状況からの解放である。体験したものでなくては知り得ない感覚であろう。戦争に負けた側の開放感は、勝った側の開放感の数倍も大きいに違いない。負ける側は、突如として負けるのではなく、負けそうだ、もう駄目だ、限界だと思いながら戦っているのだから、負けた、すべてを失ったとなった瞬間に、何とも言えぬ虚脱感と開放感に襲われる。何のために飢えや耐乏生活に耐えてきたか、何のための戦争だったのかといったことなどどうでもいいのだ。もう頑張る必要がない、何を言っても自由なのである。

 最近の戦争報道を見ると、武器を持った戦闘員同士が戦うのが正しい戦争で、一般市民を巻き込んだ戦争は正しい戦争とは言えないというのが一般的論調である。イラク、シリアの紛争報道では、一般市民が犠牲になった、学校、病院が空爆され児童や患者が殺されたといった報道ばかりである。本当にそうなのか。戦争ゲームみたいな戦争に変わったというのか。敵の国土を徹底的に破壊し、殺す、それが戦争ではないのか。軍人だろうと民間人だろうと区別はしない。敵国にいる者は全て敵なのである。近代戦争では、無差別攻撃こそが正当な戦術である。第二次世界大戦をみるとよくわかる。

 日本にしろドイツにしろ戦争に対しては実に真面目だ。自らの置かれている状況を真面目に研究し分析対応している。その上、前述のような開戦思想をくそ真面目に構築する。官僚や学者が真面目なのである。「クソ」がつくほどに真面目だ。真面目な分析と正しい分析とは違う。真面目な分析とは、分析結果に疑問を持とうとはしない。突っ走るのである。真面目という英語はearnestであるが、本来はearn(正当な報酬を得る)ではなくeager(熱烈な)に近い。熱烈かつ情熱的に物事に取り組み、真面目な行為に対しては正当な報酬が得られると信じている奴を真面目な奴と言う。クソ真面目な奴は危険なのだ。こうと信じたら何が何でもやる。実現するまでは何はともあれ堪え忍ぶ人並み外れた忍耐力がある。堕落に至る最大の要因はこれである。

 ところで、戦争をするからには、戦争によって得られるものがあるから戦争をするはずである。戦争の経済学である。第一次世界大戦前までは、戦争による利益は莫大なものだった。戦争は、利害関係の衝突の結果であり、より多くの利益が得られるか、多くの損失を被るかのいずれかの理由で戦争となる。ローマ帝国は、より多くの富を得るために数百年にわたって領土拡大を続けた。富の得られそうにないところは侵略しない。ローマ帝国の領土拡大の仕組みは実に面白い。ローマは、現代に比べると仕組みとしては単純だが、かなり民主的な方法で選ばれた元老院議員によって国家運営がなされていた。しかし、元老院の多数決でものごとが決定されても、皇帝が「ウン」と言わなければ国家の決定とはならない。拒否権だ。この点だけみれば、アメリカやフランスの大統領制と変わりはない。領土を拡大するためには、侵略する相手を納得させなければならない。「これからは、ローマ帝国がおまえたちの国を支配し統治する」と言い渡すが、納得しなければ暴力で屈服させる。単純明快である。ローマ軍の司令官は、元老院及び皇帝によって任命されるが、貧乏人は司令官にはなれない。軍隊は、司令官の私兵みたいなもので、報酬の多くは略奪した物資と司令官の資財であったからだ。元老院議員だって同じようなものだった。かのカエサルにしても、名門の出ではあるが女に貢ぎすぎて借金で首が回らなくなったためにガリアに活を求めた。カエサルは借金で首が回らなくなって戦争に走ったが、多くの場合には金持ちがより多くの富を得るために領土拡大に走った。カエサルが例外なのである。

 戦争をしないためには、相手国が侵略しても利益にならない国になれば良い。敵に回せば百害あって一利なしの国である。資源はないが富があり科学技術、知的能力が高い国、日本の場合にはどうすれば良いのか。第二次世界大戦では、スイスが中立国だった。あのナチも手出しはしなかった。スイスを敵に回せば、ドイツは国際的に完全に孤立する。ドルやポンド等の主要な外貨が調達できなくなり、かつ物資の輸入も困難になる。侵略するメリットは何もない。敵に回すと百害あって一利なしなのである。現代では、このような国家体制を維持することは不可能である。グローバルな経済環境下では預金者機密の完全保護は許されない。敵に回すと百害あって一利なしの国家となることは不可能である。

 日本は米国と同盟関係にあり、米国がどこかの大国と戦争状態に入れば、当然米国側につく。それでは、日本とどこかの国が戦争状態になった場合、米国は日本側について戦争をするだろうか。日本とどこかの国の戦争が世界を二分するほどの戦争となるならば、米国の参戦はあるだろうが、そうでなければ、単なる紛争であって積極的な米国の参戦は期待できない。中東のイラクとISとの戦いみたいなものだ。

 見方を変えると、第三次世界大戦が勃発するとすれば、第二次世界大戦のような世界を二分するような戦争ではなく、二国間の戦争が世界のあちこちで起こり、戦争状態が長期化することである。中東の紛争状態の長期化は、近未来の第三次世界大戦の始まりを感じさせないか。東アジアだって危ない。北朝鮮が内部から崩壊し始めた時が問題である。紛争の火種は世界中あちこちにある。

 外交力によって戦争を回避するというのが日本人の常識的考え方である。しかし、明治以来の我が国の外交を見ると、戦争を未然に防ぐ外交力というものが存在したか。これは、日本だけではない。第二次世界大戦におけるイギリス、フランスの外交力はどうだったか。第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る20年間のヨーロッパ外交はどうだったか。守られもしない、ころころ変わる同盟条約締結儀式の連続であった(E.H.カー)。英米に至っては、ナチズム、反ユダヤ主義を擁護する外交論調だって存在した。

 外交交渉は、戦争に至るプロセスである。うまく取引できれば戦争を回避することができるが、よしんば失敗したとしても戦争開始の名目はたつ。大体、戦争を始めようとする国との間に正常な国交があるわけがない。外交とは、平和な状態をできるだけ長続きさせるための手段であり、平和なうちに有事のための敵・味方を選別しておくことであり、戦争後の処理をうまくやるためのものだ。これから戦争を始める国との外交交渉などというものは基本的にあり得ないのである。

 敗戦から72年が経った。我々は、先の大戦から何を学んだか。戦争は悲惨だから、戦争をしないということを学んだのか。こんなことは学ぶまでもなく当たり前のことだ。我々は、戦争の歴史から何も学んではいない。否、戦争の歴史記録から学べるものは、戦争の仕方だけであり、それ以外に何も学ぶことはできない。国民を戦争へと駆り立てる狂信的思想の形成、国民に戦争の正義を信じ込ませる巧妙な政策手法、恐怖政治等、戦争の原因となった歴史的記録はあまりにも少ない。何故か。こういった事実・記録は歴史から消されているのである。知的進歩、知性は全て正しいのではない。知性にこそ真の悪が潜み、知的進歩はより強大な悪を作り出すのである。
                                                                                     2017年8月24日
2019/05/26

堕落論2017  堕落とは何か

 アメリカではトランプが自分を非難するメディアやキャスターをツイッターで口汚く罵り、そのたびにメディアが何だかんだと報道している。最近は、女性ニュースキャスターが大統領批判をしたとかで、トランプがやたらと怒りまくっている。ホワイトハウスの高官が「大統領批判をやめなければニュースキャスターのスキャンダルを公開する」と脅迫したそうだ。すごい国ですな。大国の大統領が、自分に対する評価にこれほど執着し、執拗にメディア攻撃を繰り返すとは。相手を執拗に汚い言葉で攻撃する人間が果たして正常なのかと疑いたくなる。人間、歳をとると、感情のコントロールが難しくなる。涙もろくなるのもその一つだ。なかには喜怒哀楽とは何の関係もありませんという老人もいる。顔の表情がほとんどなくなるのだ。そうかと思うと、やたら人の言動に固執する者もいるし、人の悪口しか言わなくなる者もいる。アルツハイマーや認知症の特徴の一つに極端な強迫観念があるそうだ。トランプの取り巻きは、大統領の病気を知りながら操っているというのは考えすぎだろうか。アメリカならありそうな話である。

 共和党の支持基盤である中西部の田舎町で、トランプについてどう思うかというテレビ報道を見た。「トランプの言うとおりだ」、「トランプは金持ちで信頼している」、「雇用の確保に努力している」といった意見ばかりだ。どうみても考えて意見を言っているとは思えない。一般的アメリカ人の知的水準とはこの程度のものか。この報道の前に、フランス大統領選挙についてのインタービューを見たが、まだあのフランス人の方が常識的だ。世界で最も豊かな国の国民がこの程度かと思うと日本国民もまんざらではない。
 
   ところで、我が日本はと言えば、文部科学省の天下り斡旋問題に端を発し、大阪の私立小学校の認可、四国の獣医学部の新設等、問題といえば問題ではあるが、なんともちまちました話ばかりだ。
 
 天下りに対して日本人は特に敏感に反応する。役人のOBがうまい汁を吸っているというのだ。中央政府に補助金や許認可の権限が集中しているのだから、優秀な役人を民間組織が欲しがるのは当たり前である。しかし、つい10年ほど前までは、役人の天下りは常識で、肩たたきと言って官僚が定年前に関連団体へ再就職していた。再就職先で高給を得、数年で莫大な退職金を手にし、さらに年金最高額を受け取るというのが当たり前だった。こういった天下り役人への報酬がどこからでていたかと言えば税金である。公共事業、委託事業、補助金等々様々な手法で税金が投入された。まさに国家的犯罪に等しい行為が堂々と行われていたのである。発展途上国もびっくりである。現在は、役人の定年延長、天下り対策もあってなりを潜めているが、潜めているだけでなくなったわけではない。水面下では数は少なくなっているが今でもあるに決まっている。世界のどの国をみても国家官僚は優秀なのだ。優秀な人材を求めるのはそれこそ当たり前のことだが、問題は税金の使途と関連していることだ。中国では、国営企業の役員が莫大な資産を保有しており、日本の天下り役人の比ではないと言う。どんな社会、組織でも人は必ず堕落する。

 役人の「忖度」が問題だといって野党が政権を攻撃している。組織あるいは社会というものが維持される大きな要素の一つに「忖度」があるのではないのか。高度経済成長時代、クレージーキャッツが「ゴマをすりましょゴマを・・・」とおおらかに歌っていた。サラリーマン社会では、偉い奴にゴマをするのは常識であり、サラリーマンとして生きるための欠くべからざる処世術である。ところで、「忖度」とは相手の考えを汲みとることであるが、「忖」を漢字源で調べると、心と寸の形成文字とある。寸とは、指一本の幅のことであり、指で脈をとるようにそっと相手の気持(心)ちを汲みとることである。行動するかどうかは別である。「忖度」は、知性のなかでもかなり高級な部類に入る。そこへ行くと、「ゴマすり」は、自分の利益のために偉い奴に取り入りへつらうことであるが、相手の考えを推察することは同じである。「推察」という本質的行為では同じだ。野党であっても組織があり階級があれば「ゴマすり」野郎は必ずいる。強固な組織には「忖度」は付きものであり、
「忖度」はマネジメントの根幹である。どうせゴマをすらなければならないなら、もっと粋な「忖度」をしろと言いたい。「ゴマすり」野郎は、堕落を生き残りの手段として使う。堕落といってもいろいろある。
 
 それにしても昨今の官僚の脇の甘さは目に余る。役所内の会議、打合せ、上司との会話は、全て記録されていてそれもパソコンに記憶されている。昔なら手帳にメモる程度であったが、今やパソコンへの記録保管、メールで配信ときたものだ。アメリカの元FBI長官もトランプとの会談をメモしていたというから、まあ、似たようなものだ。公文書の取扱に関する考え方は、アメリカと日本ではかなり異なる。それにしても、このデジタル時代にアナログのメモだ。録音しておけばいいではないか。今のレコーダーは超小型です。スマホでも録音できます。必要なければすぐに消せます。一人のパソコンに記憶されているならまだしも、メールであちこちに配信したというのだから話にならん。「情報の共有」と称して隣に座っている同僚や上司にも同時配信するのが当たり前になっている。会話で済む話だ。
 
  ツイッターにしろ、メモ情報の共有配信にしろ、情報社会とは何とも幼稚な社会ではないか。30年前、来たるべき情報社会の素晴らしさを誰も疑うことはなかった。情報社会は、情報処理の効率が飛躍的にアップし、生産性が極めて高くなると予想されていた。いざ現実となってみると、膨大な情報がネット上に溢れ、情報の共有という曖昧で無責任なマネジメントが横行する。生産性とは何の関係もない情報ばかりだ。情報社会は、我々に見えなかった現実を見せるようになったのではないか。そうだとすれば情報社会に生きる人間の「堕落」についても考える価値がある。
 
 情報が共有されたからといってマネジメントがうまくいくわけではない。不必要な情報はない方がいいに決まっている。何かのときの保身用にメモをとるのは、役人だけではなく組織人の常識だが、マネジメントとは何の関係もない。まして、組織や個人の保身のためにメモを共有するとは一体何を考えているのか。

 内閣府が特区事業を推進するために、文部科学省に圧力をかけて無理強いしたことが問題だと言う。アメリカの政治システムを見てみろ。ホワイトハウスがトップ官僚の人事権を握る。強要圧力をかけるどころではない。昨日まで長官だった人間が平に降格し隣に座っている等は当たり前だ。日本の官僚制が既に時代に合わなくなっている。
 
 国、地方を問わず政府組織の全ては社会主義体制で動いている。アメリカもヨーロッパも日本とさして変わらない。社会主義的で階級的な組織が堕落した場合、だれが堕落していることを見分けられるのか。はたまた、政治によって堕落を止めることができるのだろうか。堺屋太一は、官僚こそ日本の堕落の根源であると批判する。本人が高級官僚であったのだから、骨身にしみているに違いない。
 
 東京都議会議員選挙が終わった。自民党、民進党の惨敗、都民ファーストの会の圧勝であった。小池都知事を党首とする地域政党「都民ファーストの会」は、数ヶ月前に発足したばかりの新党だ。当選した党員の多くは議員経験がない素人である。何となくフランスの国政選挙と似ている。投票率も40%程度と極めて低い。フランスではマクロン大統領の新党「アンマルシェ (共和国前進)」が圧勝した。築地の移転問題、都政の伏魔殿問題等いろいろあるだろうが、なぜかしっくりこない。政治に対する「しっくりこない」感じとは一体何なのか。「しっくりこない」感じは、投票率に表れている。何をどうしようと、もはや政治は変わらず、官僚システムも変わらない。何も変わらないが、せめて新たな政治家がやる気をもって取り組むならば、少しはやらせてみようというものだ。日本では、1993年に細川護熙らの日本新党やその他の新政党が自民党をやぶった。自民党が敗れたのは、バブル経済の崩壊が直接の原因である。現在の政治のさきがけであった。それにしても、あれだけの政変があったにも関わらず、経済再生がうまくいかなかったのは何故だ。アメリカは、リーマンショックに対して極めて迅速に対応し、僅か数年で処理を終えたが、ヨーロッパはEUという体制・制度のために、今も後遺症を抱え、難民問題も重なって経済再生はうまくいかない。バブル崩壊から30年近くたつが、政変によって何がどのように変わったか。変わったのは、政治家の堕落、役人の堕落、政府を信用しない国民の堕落、情報社会の堕落だ。
 
 民主主義は、2千5百年前にギリシャで発明された。塩野七生の「ギリシャ人の物語」が読みやすいが、この本を読む前に、プラトンとアリストテレスを読んでおくことをお勧めする(くどくて相当に読みにくい)。民主主義とは、簡単に言えば、国民国家のことだ。国民によって選ばれた議員が、法を作り、国を統治する法治国家のことである。我が国では1925年から普通選挙が行われているが、明治憲法制定後からも国民による選挙は行われている。民主主義といっても、一人一票の平等な権利を持つ場合と、資産額に応じた権利を持つ場合の二通りの民主制がある。後者は、株主民主制が代表的である。議会議員選挙は国民一人一票である。戦前の日本、ドイツ、イタリアは、全体主義国家であったが、民主制でもあった。あのヒトラーも選挙で選ばれている。民主主義だからといって独裁国家にならないという保証はどこにもない。近年ではトルコのエルドアン、ロシアのプーチンが独裁制を強めており危ない。さらにポーランドもおかしい。民主制ではない国家の代表は中国だ。共産党一党独裁である。政府は共産党によって運営されているわけで、役所も軍隊も共産党の組織であって政府の組織ではない。国民全員が党員ならば、共産党という党そのものの存在が無意味である。中国の総有権者数に占める共産党員数の比率は約7%か8%といったところだから、少数の国民による一国独裁といって良い。こういう簡単な説明が、様々な文献のどこにもない。現在の日本は、自民党が政権政党ではあるが、司法、立法、行政の三権分立が建前であり、自民党が直接三権に関わることはない。従って、自衛隊は自民党の思い通りにはならない。欧米先進国も同様である。しかし、中国の軍隊は共産党の指揮下にあるので、党総書記、党中央軍事委員会主席である習近平の意思決定で動く。元来、国家と政府は別ものである。政府は国家運営を行う組織体である。政府が破産したとしても国家が崩壊するわけではない。ここまでくると国家とは何かを考えなくてはならなくなるが、これはもう少し後で考えよう。
 
 民主主義国家では、ポピュリズムは政治手法の常套手段である。最近では、フランスのルペンのようにポピュリズムどころかデマゴーグではないかと思える大統領候補さえ出てきた。ところで、ポピュリズムとデマゴーグの違いは何か。ポピュリズムは、大衆迎合主義というように訳されるが、大衆の望むような政治公約を掲げる政治姿勢を言う。選挙に勝つためには当たり前の手法である。例えば、税金を安くする、医療費を無料にする、学費を無料にする等は典型的なポピュリズムの政治公約である。最近のヨーロッパの極右政党は、ポピュリズムというよりデマゴーグである。デマを流して国民を扇動するのだ。最近ではフェークニュースと言っている。民主主義という政治システムは、ポピュリズム、デマゴーグという欠陥を内在している。自由で平等な国家にとって民主制は必須のシステムではあるが、自由・平等・法という甘い果実もぶら下げているのだ。だから、民主制の国家であっても独裁国家となりうるのである。
 
  最近のいくつかの政治的話題を見ても、何かがおかしいと思うが、人間というものは元来、ややこしくおかしなものなのだ。人間をややこしくおかしくしているのは知性である。勿論、動物的本能や生存本能、感性等の全ての知的生命活動を含む知性のことである。知性の本質とは何か、人間は何故このように堕落するかについて迫ってみる必要がある。それでは、どのようにこの問題に迫ることができるのであろうか。普通の学者ならば、抽象的に、形而上学的に、哲学的に、論理的に、つまるところ真面目に迫るであるうが、いい加減な評論家であり研究者である私は、不真面目に迫る方が適している。
 
 ところで、堕落とは何かであるが、和英辞典で引いてみると、あるわあるわ、沢山ある。人間は、これほどまでに堕落するのだ。名詞、動詞、形容詞等いろいろあるが、関係なく挙げると次のようである。

 corrupt,fall,degrade,rot,vicious(vice),lapse,decline,seduce,astray

 最初のcorrputはcor(共に)とrupt(決裂、折れる)とが合わさった言葉だから共倒れだし、折れるのだ。fallは文字どおり落ちるのである。degradeはグレードが低くなるのだから品質の低下で、品のないことだ。rotは腐敗を意味し、芯から腐った奴のようにに使われる。viciousは意地の悪さだから生まれながらの悪だ。lapseは過失や堕落を意味し、declineは下に曲げることだ。seduceは誘惑だし、astrayは道を外れる意味である。底意地が悪く、品格がなく、腐れきった奴で、誘惑に弱く、人生の脱落者ということになる。堕落の対象は人間だけではない。こういった人間を多く抱える組織、社会も対象だ。
 
 全て堕落に通ずる言葉だが、これだけではほとんど説明されていないに等しい。キリスト教では原罪を意味するらしい。アダムとイブが楽園を追われ現世に落ちて堕落するのである。現世は堕落に満ちている。といっても宗派によって解釈は様々なようだ。

 漢字源で「堕」の意味を見ると、丘や盛土が崩れる様が語源である。ただ落ちるのではない。苦労して盛り上げた土が崩れるのである。崩れては再び土を盛り、そしてまた崩れるのである。
 
 仏教では、現世は混沌としていて善人もいれば悪人もいる。欲望にあがないきれないのが現世なのである。仏教の教えに従っていればまんざらこの世も悪くないが、従わなければ堕落しこの世で苦しむことになるといった程度の堕落である。

 これから話を進める堕落とは、宗教的な意味合いの堕落とは少し違う。漢字の語源の方がより近く、人が積み上げてきたモノが崩れ落ちる様である。堕落とは、人々が作りあげてきた、あるいは作ろうとしている倫理・道徳・規範、その他もろもろの常識、人の道に背く様なのである。
 
 表題の「堕落論」は、坂口安吾が昭和二一年(一九四六年)四月に発表した「堕落論」からいただいた。坂口安吾は、戦争で焼け野原となった東京の片隅で生き延びた。戦時政府が崩壊し、それまで信じてきたものが全て無に帰した中で、人々が必死に生きようとする様に「堕落」を見たのである。それは、人間が極限的状況におかれた時の思考と行為を記録したものではない。人間が堕落する様に対する「叫び」なのである。
 
 最近の研究では、人間の進化は止まったと言う。700万年前に二足歩行を獲得したヒト属が、450万年という途方もない時間をかけて道具を使うヒト属のある種に進化する。それから、更に225万年をかけて現在のホモ・サピエンスとなる。今から25万前のことである。このホモ・サピエンスが現代人の祖先であるが、7万年前に発生したインドネシア・スマトラ島のトバ火山の大噴火によって地球が寒冷化し、人口1万人程度まで減少する。この人口減少が、現代人の遺伝的均一性を生み出した。現代に至る7万年の間に、人間は知性を発達させ、文明を生み出し、人口70億人にまで達した。しかし、遺伝子の多様性は失われた。遺伝子の多様性は生命体進化の原動力であるから、遺伝子の多様性が失われたことにより進化が止まったという説には説得力がある。遺伝的均一性により進化は止まったが、一方では知性の進歩を促した。人間は、絶滅の極限状況において知性を獲得した。しかし、知性の進歩と引き替えに堕落も獲得したのである。犬や猫を見ろ。実に真面目に生きている。サルにしてもごくごく真面目に生きている。人間以外の生命体の生き様は見事に真面目であり、決して堕落することはない。堕落は、知的生命体である人間のみが持っている。知性の進歩の本質は、堕落にある。
 
                                2017年7月