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2019/05/28

堕落論2017 NHKはまだ必要か

  テレビ放送、インターネット、スマホだと世の中は、情報で溢れかえっている。情報爆発である。確かに、我々は、情報社会のまっただ中にいる。固定電話を持たない家庭が増えているという。固定電話の必要性がなくなったのである。私は、携帯電話もスマホも使わない。携帯電話は外出の時に持って出るが、緊急の場合の連絡用である。公衆電話がなくなったのだから仕方がない。公衆電話や電話ボックスが全くといっていいほど姿を消した。東京駅で公衆電話を探しても見つからない。日本だけかと思いきや世界的な傾向だそうだが、アメリカでは公衆電話が見直されているそうである。公衆電話の廃止は、採算性が悪いという理由だけではないと思われる。公衆電話があると、携帯やスマホの販売数が増えないからというのも理由の一つに違いない。
  
  テレビ放送も様変わりした。アナログ放送からデジタル放送へと通信方式も変わったが、それよりも放送チャンネルの多さである。地上デジタル放送のチャンネル数に大きな変化はないが、衛星放送のチャンネル数は、BS、CSでゆうに300チャンネルを超えるだろう。通信販売、有料放送、無料放送と放送内容も種々雑多である。

  このネットを中心とする情報社会の中で、公共放送なるものが存在し続けているぐらい不思議なことはない。公共放送について議論を進める前に、テレビ、ラジオ、新聞といった従来のメディアの現代的役割をみる必要がある。
  
  新聞については、全ての先進国において規模縮小、廃業に追い込まれており、ネット配信が主流になりつつある。有料の配信もあれば無料の配信もある。新聞の歴史をみると、新聞報道に対する姿勢は必ずしも中立的であったとは言いがたい。むしろ、新聞初期の時代には、時の政治権力、政府に対する批判勢力として機能し、言論の自由をうたっていた。日本語で批判というと、「あら探しをして人を中傷する」というイメージであるが、英語で「批判する」は、criticizeであり、勿論、「あら探し」や「非難」という意味もあるが、語源はギリシャ語、ラテン語にまで遡り、英語のcriticと同義である。criticは、評論、批評であり評論家、批評家の意味もある。何が事実で何が事実でないか、何がわかっていて何がわかっていないかの境界を明らかにすることを評論、批評という。新聞初期の役割は、政治評論であり社会評論であった。発行者の意志・思想が強く反映されたものであったが、新聞の販売を始めると、すぐに購読者のニーズへの対応を迫られることになる。要因は、経営が成り立たないことである。発行部数を増やし、広告主を探す必要に迫られた。明治初期から日露戦争直前までの新聞報道において、中江兆民が果たした役割は極めて大きい。現代政治思想の根幹は、明治10年頃から日露戦争直前までの、まさに兆民らが政治評論・社会評論で活躍した時期に形成されたと言える。この時期以後、新聞は良くも悪くもニュース報道を中心に、大衆・庶民が求める情報提供、政府のプロバガンダ等々、多種雑多な情報紙としてテレビ放送が開始されるまでメディアの本流としての地位を保つことになる。

  一方、テレビ放送は、昭和28年2月にNHKが、8月には日本テレビが実用放送を開始している。本格的にテレビが一般家庭に普及するのは、昭和34年の皇太子御成婚報道以後であると言われている。テレビ放送の特徴は、映像をリアルタイムに家庭に届けることにあり、皇太子御成婚のライブ放送等は、面目躍如といったところである。その後も、ケネディー暗殺、月面着陸、東京オリンピック、60年、70年安保闘争報道、浅間山荘事件24時間放送と、イベントや事件に事欠かない時代背景も重なって、テレビ報道は、新聞報道よりも優位にたつことになる。それでも、社説、評論等の文字による報道という特性を持つ新聞は、一面ではテレビ放送と一線を画していた。テレビ放送は、イベント・事件の映像を伝える点では優れていても、そんなに大それた事件や、大イベントがしょっちゅうあるわけではないから、ドラマや歌番組、クイズ番組等娯楽番組がその大半を占めていた。娯楽番組のほとんどは、アメリカの物真似であったが、アメリカの番組を見たことがない庶民にとっては、極めて新鮮なものであった。TVドラマで人気を博したのは、アメリカのTVドラマだった。今でも続く、NHKの朝ドラ、大河ドラマ、紅白歌合戦は、昭和を代表するTV番組であった。当時は、年齢を超える高い視聴率を確保した。これらの番組が、大衆から熱狂的に受け入れられた背景には、戦後経済成長というほぼ絶対的とも言える条件が重なっていた。豊かなアメリカ社会のニュース、ドラマ、音楽等が毎日のように日本の庶民に降り注いだ。そして、ついに、ジャパン アズ ナンバーワンの登場となる。

  1970年~80年代にかけて日本が熱狂的に浮かれた時代、経済成長の恩恵にあずかった最後の時代に、テレビ放送は考えられる限りの娯楽番組を制作した。

  インターネットの登場は、1995年のWindows95の発売後に広まった。本格的な普及は、光通信網の全国的整備以後であるから2010年代に入ってからである。日本の通信網の整備は、世界の先進国に比べてかなり遅れた。韓国に比べてもかなり遅い。この遅れが、その後の日本IT産業が世界の開発競争から遅れる大きな要因となったと考えられるが、もっと大きな原因は、バブル経済末期の1980年代後半から1990年代前半にあった。スマホは、2008年のiPhonの発売以後であるから、これも2010年以後といって良く、ここ数年のことである。GPS機能を除けば、ほとんどパソコンと同じ機能である。LSIの集積度、処理速度の飛躍的向上がスマホの誕生となった。理論的にははるか昔のものであり、製造技術の進歩によるものであるが、スマホよりも、サーバーと言われるコンピュータの処理速度と記憶容量の進歩はすさまじいものがある。また、この20年間のプログラム言語の進歩もかなりのものだが、言語というには少し問題があるかもしれない。

  インターネット上には、ありとあらゆる情報が記憶されている。ブログ、SNS、ツイッターには、世界中の膨大な個人情報が蓄積され、公開されていれば誰でも情報を見ることができる。トランプの言っているフェークニュースも堂々と出回る。サイバー空間は、まさに現実社会から情報だけを切り取った情報社会なのである。情報の発信者と受信者は、情報だけで相手のことを想像する。私は、中学生の頃、オランダの女の子と文通をしたことがある。文通の内容と言えば他愛もないことだが、一枚程度の便箋に書かれた内容で女の子のことを想像するのだからいい加減と言えばいい加減なものだ。現代の情報空間では、写真もビデオも掲載できるので、一枚の便箋よりも情報量ははるかに多いが、果たして、私が文通をしていた情報と何が違うのだろうか。私の文通の内容は、日常のこと、日本の歴史、習慣、家族のこと、学校のことであり、中学生が発信できる情報等はたかがしれている。女の子の手紙の内容などは全く覚えていない。サイバー空間を飛び交う個人間の情報のたぐいは、こんな程度のものである。サイバー空間を通してどんなに多くの人と交信したとしても、人生においてはほとんど無意味なものである。

  私がインターネットを利用するのは、メールが仕事上なくてはならないこと、新聞をとっていないので新聞代わりにニュースを見ること、辞書代わりに検索すること、ネット通販で書籍その他を購入することの4つである。肉体労働ではないので、情報さえあれば仕事ができるからメールは仕事上の必需品である。メール機能だけで元は取れている。ニュースを見るための利用があるが、テレビのニュース放送があまりにも内容がないので確認のために利用する。それこそフェークニュースがあるから、新聞社等のニュースで確認することにしている。辞書代わりの利用は、重宝するが内容に間違いが多いので電子辞書で確認する。また学術論文の検索は結構重宝している。ネット通販は、書籍の購入ではかなり便利だ。しかし、ぱらぱらと読んで選ぶということが出来ないので、これもネット上で書評等を検索したり、購入した雑誌等を参考に選択する。

    インターネット、スマホ、パソコン等を利用する情報社会の現実とは、私の利用範囲が一般的だろうと思うが、SNSで積極的な情報交換(おしゃべり)している個人も、アメリカの大統領でさえ利用するぐらいだから、膨大なユーザー数に達している。世界中で活動しているユーザー数は、20億人を超るという。世界人口の30%を超えるではないか。我が国でも6千万人~7千万人に達し、全人口の半数を超える。勿論、一人で複数の登録をしている場合もあり、かつ企業も登録しているから、人口と比較することは適切ではない。SNSユーザー登録数をみると、古くからあるSNS提供会社の登録数は年々減少の傾向を示し、新たなSNS会社が新技術を開発して登場するとユーザー数が増加する現象が起きている。

  何故、SNSに人が引きつけられるか。これまでのテレビ、新聞等のメディアでは、個人が情報を発信するなどということは不可能であった。個人が、メディアに取り上げられるのは、犯罪事件の犯人か政治家・俳優・歌手等の有名人に限られていた。それがSNSの登場で簡単に世界中に自分を発信できるようになった。目立ちたいという自己顕示欲を簡単な方法で実現できるのである。知性を発達させ言語を獲得した人間というものは、何ともやっかいな生き物である。情報社会は、自己顕示欲で充ち満ちた世界なのだ。堕落した世の中とは、欲で満ちあふれた社会でもあるから、仮想空間の情報社会はまさに堕落社会の代表とも言える。現実社会の中から情報を吸い上げて仮想空間に投影したら、自己顕示欲という人間の持つ一種の欲の情報が多数を占めたのである。SNSの内容を見ると、日々の行動、何を考えたか、自分が最近購入した物の情報等々、個人のありふれた内容ばかりである。「私が、僕が何を考えているか知って!」、「私が、僕が今日何をしたかわかる?」という情報に好奇心をかきたてられないかと言えば、興味を抱く人間も多いだろうが、長くは続かない。自己顕示欲を満たす情報は様々であり、グルメ、旅行、趣味、音楽、ファッション、コスメ等々の人間生活のあらゆる部面に存在する。SNSを経営する会社は、これでもかこれでもかと目先を変えて情報発信をしろと誘惑する。こうして、現実社会の多くの部分が、仮想空間で情報として記録され交換されることになる。現実社会の日常というものも他愛ない情報からなっていることを考えれば、ネット社会は情報による仮想社会だからこの点において変わりはない。しかし、現実社会と異なる点が一つだけある。現実社会で付き合う人間の数は、数人程度でそれもよく知っている人間であるが、ネット社会では膨大な数に上り、全く知らない人間であることだ。

  ところで、スモールワールドと言う言葉をご存じだろうか。ディズニーランドのスモールワールドのことではなく複雑系で取り扱うネットワーク理論の一つである。全く知らないある人と出会って話をしていると、共通の知人がいたといった経験がある人もいるのではないだろうか。「世間は狭いものだ」ということを科学的に立証したのがスモールワールドである。人間の情報ネットワークでは、人から人へと情報を伝達すると数段階でほぼ目的の人にたどり着くということである。SNSを利用すれば、このスモールワールドを体感することができる。

   話題が、SNSから複雑系へとそれてしまった。話を、NHK問題に戻そう。この70年間で、メディアの主流は、新聞からテレビ、テレビからインターネットへと大きく変化した。特に、この20年間の情報社会は、現実社会の投影としての性格-堕落の構造-だけが強調されている。

  さて、NHKであるが、NHKは、日本郵便(株)等と同じ特殊法人であるが、株式会社ではない。株式会社の場合には、株式公開を前提としているが、NHKは民営化の方向も見えない特殊法人である。NHKの受信料契約の憲法違反を巡る裁判が最高裁で争われており、1ヶ月後には結審の予定である。NHKは公共放送ということになっている。NHK問題を考えるとき、常に公共放送とは何かという極めて曖昧な問題を議論しなくてはならない。ちなみに公共放送とは、放送内容が公共的であるということではない。公共放送事業体としてのNHKという意味で使われている。アメリカにPBSという公共放送がある。PBSは受信料を徴収していない。参考までに、公共放送で受信料を徴収していない国には、カナダ、ニュージーランド等がある。PBSとは州や地方の小さな公共放送の連合体であり、NHKのような巨大な組織ではない。財源は、連邦予算、寄付金、広告収入等である。PBSは、市民的公共組織と言って良い。NHKが公共事業体かと言えば、特殊法人だから公共事業体には違いない。しかし、経営財源は、国の交付金も僅かながらあるものの大半は受信料収入によっている。利用者からの収入によって経営する点では、日本郵便(株)と同じであるが、郵便は利用したときに支払い、利用しなければ支払う必要はない。公共的事業体には、例えば電気会社、水道事業等があるが、いずれも利用しなければ支払う必要はない。

  ところで、気になる受信料契約であるが、イギリスBBCではテレビを買うときに半年分の受信料を支払った証明書を必要とする。ドイツでは、受信料徴収が連邦裁判で違憲状態であるとされ、世帯、事業所から無条件に徴収する方式に変更したとのことである。イタリアでは、面倒くさいので徴収をやめたそうだから、いかにもイタリアらしい。ちなみにイギリスBBCのチャンネル数は20を超えており、制作されるソフト数は、NHKとは比較にならない数に上る。

 日本、イギリス、ドイツは、強権的受信料契約制度と言えそうだ。イギリスの権力集中と国家的強権性は、王権の残像を今に残す伝統的国家統治思想と無関係であるとは言えそうにない。ドイツは、国家連邦は放送に関与しないことを国是としており、州の公共放送の連合体のARDとZDFで構成されている。ドイツは、ベルリンの壁の崩壊後、国鉄、郵便の民営化を行ったが、公共放送は州の管轄であることから体制は現在まで変わっていない。

  ところで、テレビ放送は全てディジタル化されたことから、基本的にスクランブル放送に設定することが可能である。いつでも有料放送と無料放送を切り替えることができ、無料放送の場合にはスクランブルを外せばいいだけである。何故、NHKは、有料放送にしないのかである。イギリスやドイツでも同じことである。イギリスの報道をみると、有料放送にすると契約数が激減するからだそうだ。契約数が減ると経営不能に陥るので有料放送にはできないというのがBBCの主張だ。

  公共放送を残さなければならないという政治的必然性は、どこから生まれてくるのだろうか。ドイツは、ナチス時代に放送がプロバガンダとして威力を発揮した経験から連邦としての公共放送をやめたが、州では維持し続けている。ヨーロッパ諸国では、第二次世界大戦時代の放送メディアに対する恐怖とでもいうべき記憶が今も後を引いているとしか考えようがない。国民の不満が大きくならないように、受信料を加減し、徴収方法に配慮しつつ、しかし、体制は残すというのが政治思想として今も脈々とヨーロッパ諸国の底辺を流れているのではないだろうか。このインターネット時代、ネット情報社会では時代遅れも甚だしいが、それよりも頑冥な政治思想の持つ怖さである。

  受信料の強制契約は、貧乏人はテレビを見るなということなのか。子供の貧困、生活保護費の増加、シングル家庭の増加等々、給食費さえままならぬ家庭が増えている時代に、年間2万円を超える受信料の強制契約は、まさに圧政に近い政治手法ではないか。

  一方、NHKの受信料契約については、最高裁により「契約の自由」、基本的人権を争点に争われている。しかし、いやしくも契約というからには、提供者、購入者の双方による契約が成立しなければならない。契約に関する常識的範囲では、NHKの受信料契約なるものは道理的ではない。前述のように、ディジタル放送ではスクランブル放送は常識であり、NHKを含め全ての放送電波がスクランブルされている。NHKは、有料放送に切り替え、契約世帯にのみ受信できるようにすれば良いだけである。BBCやドイツの公共放送においても同様の議論があったそうであるが、前述のように現在の規模を維持できなくなるという理由から問題を先送りしている。一定規模以上の受信料収入が必ず入ることを前提とした経営が存在することもおかしいと言えばおかしい。放送法により、受信者は受信料の支払が義務づけられているが、これもおかしいと言えばおかしい。年金制度も日本年金機構という特殊法人が行っているが、年金を支払わなければ年金は受け取れないのだから契約としては常識的である。放送法だけが、受信料支払いの義務化と強制徴収を可能にしている。「受信料契約は何かおかしい」と感じているのは日本だけではなく、世界中の先進国に共通ではないだろうか。

  公共放送が始まったのは、これも世界中ほぼ同時期の1920年代である。E.H.カーの言う「危機の20年」の時代に、ラジオ放送の実用化のための公共経営組織として登場した。第一次世界大戦から第二次世界大戦前までの20年間であり、この間の技術開発、軍備拡張はすさまじく、さらに世界各国の政治・経済も大きく変動する。世界連盟の設立、ロシア革命等、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの世界情勢は、猫の目のように変化していた。政治思想、社会思想においても同様である。実用化可能となったラジオ放送は、当時の政治権力にとって、国内の思想的混乱を最小限に抑えるために、政治思想の啓蒙・普及のプロバガンダとして効果的で効率的な道具であった。第二次世界大戦がはじまると、公共放送のプロバガンダとしての効果は決定的となった。戦後回復期においても同様である。自由主義圏は反共産主義を、共産主義圏は反資本主義を喧伝するために、公共放送は格好のメディアとなった。戦前、戦中、戦後という危機的社会状況においては、政治的行動というものは向かう方向は違っていても、強固な社会秩序の樹立と言う点では同じなのである。

  しかし、こうも平和な時代が長く続くと、危機的状況において極めて効果があった公共放送の役割は失せて、公共放送の組織体そのものが漫然と肥大化するのみとなる。組織というものは、経営財源に何らかの制約がなければ無限に拡大する。歴史的に、公的組織そのものが内部から改革することなどはあったためしがない。受信料は、制約条件のない組織財源の典型的な例である。現在の経営が成り立たなければ、受信料を上げれば良いのである。郵政民営化は、貯金・保険資金の政府への流入を止めることが目的であったろうが、それよりも組織の肥大化に歯止めがかけられなくなる限界であったに違いない。この意味では、小泉改革は評価できる。NTT、国鉄の民営化も同様である。現在、残っているのは、NHKと国有林である。

  国有林問題もいつか堕落論2017の議論にあげなければならないが、まずはNHK問題である。なぜなら、公共放送の存在価値や税金でもない受信料を強制的に徴収することの合理性について、政治・政府は何も説明していないからである。組織の制限なき肥大化に対しては、NHK人事、予算の国会承認が歯止めになっていると言うだろう。経営が成り立たなくなり、赤字が累積される状況になったとき、国民は税金の投入を認めるのか。年間8千億円もの費用がかかる法人である。受信料収入が仮に20%ダウンすると毎年の赤字額は1,600億円にもなる。5年間続くと8千億円もの借金を抱えることになるではないか。少子高齢化社会で、20年後には高齢者世帯のほとんどがいなくなる。受信料収入は、今から毎年減少し、おそらく2~3年後からは、毎年、受信料を上げざるを得なくなるというのが現実である。

  最高裁の判決がどのようになるかは想定さえできないが、受信料契約に違法性があるということぐらいの判定がなければ、現代民主主義国家をスローガンとする我が国の正義と我が国が依ってたつ法治思想が疑われる。NHKという公的組織をどうするかは政治的問題である。政治家が現実を直視し、かつての政治家が自らの政治思想を貫き組織改革を断行したように、NHK改革を断行する時代に入った。目先の政治的野合と保身に汲汲としている堕落した政治業界が、NHKという巨大メディア組織に切り込むことができるか。国民国家では、政治家を選ぶのは国民であるから国民が悪いという批判は正しくない。なぜなら、国民にできることはうまいことを言う政治家に票を入れることぐらいだからだ。国民の関心が薄いから、公共放送は際限なき肥大化へ向かうという批判も正しくない。NHKを変えられるのは、政治家しかいないのである。一旦、戦争を始めたら国民には止められないのと同じである。政治だけが戦争を止められるように、特殊法人という政治的判断により設立された組織の自然膨張を止めることができるのは、政治だけなのである。
                                                                                                       2017年11月6日
                                                                    
参考
   明治初期に活躍した思想家、評論家。「中江兆民評論集」(松永昌三編 岩波文庫)等。
○ジャパン アズ ナンバーワン
   「ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓」(エズラ F. ヴォーゲル 広中和歌子、
        木本 彰子 訳 TBSブリタニカ)
○スモールワールド
      「複雑な世界、単純な法則」(マーク・ブキャナン 坂本芳久訳 草思社)
○NHK放送文化研究所のホームページで「シリーズ 世界の公共放送のインターネット展開」
 が紹介されている。https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/oversea/086.html
○危機の20年
   E.H.カー著 原 彬久訳 岩波文庫

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