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2020/08/31

この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(2)

この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(2)

 

大学中庸

 

論語により孔子が説いた儒学に少しだけ触れてみた。孔子は、言葉の定義はおろか断定的な表現もしていない。自分で考えろと言っている。

しかし、大学中庸では、正反対に極めて説教的なもの、つまり教条的なものとなり、いわば儒教の教科書としての性格が強くなるのである。

 

大学は、漢の武帝(前141年~前88年)による大学設置に関連して、論語、孟子、荀子など、儒学思想の核心を集めて大学教育のために編纂されたと考えられる。「大学」の内容に注目した人は、まず唐の韓愈(768年~824年)である(金谷治訳「大学・中庸」岩波文庫版から)。唐時代の仏教興隆に対抗して儒学を復興させるためであった。その後、250年を経て北宋の司馬光が初めて礼記から抜き出して注釈を加えた。その後二程(程明道、程伊川兄弟)、呂大臨らが大学の解釈本を著している。「大学章句」(漢文は区切りなく連続しているため、区切りやかえりを付けるなどして読みやすくすること)として完成させたのは、朱子学の開祖である朱子である。

 

大学第一章(一)は、「大学の道は」という言葉で始まり、大学教育の本質を説いている。

「大学之道、在明明徳、・・・・・・・知所先後則近道矣」

「大学の道は、明徳を明らかにするに在り。・・・・・・先後する所を知れば則ち道に近し。」

 

最高学府である大学で学ぶべき事は、輝かしい徳を身につけ世の中にさらに輝かせることである。・・・・・・何を先に行い何を後にすべきかを知るならば、それは道に近づいた事になる。

 

現代の最高学府である大学でこんな教育を受けることができるだろうか。1200年前の大学は、現代の大学とは格が違うのだ。今の大学では教える側の教師に、徳の微塵もなく、金銭欲、名誉欲、地位欲という欲望の塊となった堕落者だけである。

「道」とは、学習能力を高めること、つまり研究心の涵養によって自ずから開けるものであると言っているのである。

 

第二章(二、三)は、儒教の根本思想である「修己治人」を説いている。第一章(二)は概ね下記のような内容である。

国を平安にしようとするには、「国を治め」、国を治めるためには「家を和合(斉)させ」、家を和合させるためには「己を修め」、己を修めるためには「心を正し」、心を正しくするためには「意念(思い)を誠実にし」、意を誠にするためには「知を致(きわ)め」、知を致めるためには「物に格(いた)る」のだ。

 

この論理展開は、「目的展開」とも言われる。目的を達成するためには下位の目的を実施しなければならず、下位の目的はさらに下位の目的というように展開される。国家統治のためには「格物致知」から始めなくてはならないと説く。

「致知」(知を致(きわ)める)とは、知能を高めるあるいは道徳的判断力を高めるというように訳されるが、学習能力を高めると解釈すると、論語学而の思想と一致する。

「格物」は、物事の善悪を確かめることであるが、王陽明は「格」を正すと読んでいる。従って、「格物致知」は、学習能力を高めるためには物事の善悪を確かめること、あるいは物事の何が正しいかを考えることが学習能力を高めることになると読めることから、「格物」と「致知」は相互に関連し切り離すことはできないとも考えられる。

 

「大学」では、「明徳」、「格物」、「致知」に関する明確な説明はないが、後の朱子学陽明学において最も重要な概念として解釈されることになる。

 

(三)は、要約すれば、「天子から庶民に至るまで自分自身を良く修めることを根本とし、その根本を知りぬいていることを知のきわみ(致知)という」である。

 

天下国家を治めるためには、我が身を修めることである(修己治人)と説く。君主が国を治めようとすれば、まず我が身を修め格物致知であらねばならないとすることは理解できるが、一般庶民が修己であることと国家治人とはどのような関係にあるかなどは何の説明もない。

 

国を良く治めるためには、国民がすべからく修己し、格物致知とならなければならないとすれば、それは理想国家を通り過ぎて空想国家である。人は様々であり、格物致知など国民の隅々にまで啓蒙普及させることなどは不可能である。

そこで、第二章(一)の有名な言葉が登場する。「小人閑居して不善を為し、至らざる所なし」である。「つまらない凡人は、一人で人目につかぬ所にいると、悪事をはたらいてどんなことでもやってのける」と訳されている。小人とは、徳のない人、身分の低い人から転じてつまらない凡人と訳している。

古代中国には、奴隷制もあった。プラトンの「国家」では、奴隷制は当たり前であると認識されている。「修己治人」は、国を治めるにたる資格のあるもの、つまり官僚であり、君子たるものに必要なのが「修己治人」・「格物致知」なのである。

さらに曾子の言葉を借りて、「曾子曰く、おおぜいの目に見つめられている、おおぜいの手に指さされている、だれもいないと思ってはならぬ。ああ、畏れつつしむべきことだ」としている。

論語の解釈において、前述のように、安富は、アダム・スミスの倫理論を取り上げて、「スミスは、全体の利害のために自分を犠牲にすることが「倫理」であり、他人の目にさらされていることへの意識によって「倫理」は生じるとしている」とし、孟子の倫理は、自己の内部からの自発的作動であり、西欧的倫理との違いであるとしている。しかし、曾子(孔子の弟子)では、明らかに周囲の目が自己規律において重要だと説いている。これでは、スミスの言う西欧的倫理と、儒教が説く倫理とにさほど変わりがないのではないかと思ってしまうが、そうではない。

この曾子の言葉を引用したのは、「君子がうわべをつくろって悪事を蔽い善いところを見せようとするが、そんなものはすぐばれるものだという」ことの説明であり、「心が公明正大であると肉体もおおらかになる。・・そこで君子は必ず自分の意念(おもい)を誠実にするのである」と説いてる。自己内部からの、理屈ぬきの心の作動が君子たるものの根本であるというのである。

 

これが、東洋と西洋の倫理の違いである。

 

 

中庸」という言葉は、人の世の中をうまくわたるためには、なるべく極端に走らず、ほどほどのところを行く方が良いという処世訓として、現代にも生きている。しかし、最近では、平均的な生き方とか、問題の解決方法を選択する場合に、二択ではなく三択の真ん中を選択することを中庸だなどと言っている。「中庸」とは、こういう意味ではない。

「中庸」の「中」とは、「喜・怒・哀・楽」(この4つの感情に愛悪(お)欲の3つを加えて7つとする場合もある。悪とは「憎しみ」の意味である(小島毅 朱子学陽明学より))などの感情が動き出す前(未発)の平静な状態を「中」(ちゅう)というのである(「中庸」第一章(二))。「庸」は、「かたよらない」という意味である。人と会うことで感情が動きはじめたら、感情は表面に出てくるが、その場合には節度が必要であり、それを「中庸」では「和」と言っている。小島は、「人倫にもとる行為を知った場合には、むしろ怒らなければならない。ただし、その起こり方が問題なのである」とし、「正しい起こり方や正しい悲しみ方がある」という。正しい感情の表出の仕方が「礼」である。

さて、「中庸」の第一章(一)は、「天命之謂性、率性之謂道」(天の命ずるをこれ性という。性に率(したが)うをこれ道という)で始まる有名な一文である。「天」とは、宇宙万物の主宰者であり、だれだか何者であるかはわからないが宇宙や全ての生物の運行を司る極めて漠然とした存在であり、まさに抽象的概念そのもと言ってよい。しいて言えば、我々が普通使用している天と同じであるが、「神」ではない。つまり、宇宙万物の創造主でなければ霊的存在でもないのである。

人は、生まれながらにして平等に本性(もちまえ)を持っており、それは「天」が命令として個別の人間に人間としての本質をわりつけたのだというのである。現代に生きる人類の種は「ホモサピエンス」の一種だけであり、遺伝子構造は同じなのであるから、まさに「中庸」の言うとおりなのである。この世に存在する人間という種(ホモサピエンス)は、本質的には全て同質であるという思想である。孟子は、「人間の本性は善」であるという性善説を説いたが、この「中庸」における人間の本性に関する思想的確立があってこそであるとも言えよう。

 

「中庸」の中間部では、主として孟子の五倫(君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友)を実践するための「知・仁・勇」の三徳(達徳)が説かれ、後段の「誠」の思想へとつながる。

「知・仁・勇」の三徳については、「人格の働き(徳)として人に備わるものを、知的・情的・意志的の三者に分けた」という解説がある(金谷訳)。論語の子罕編(第九 三〇)には、三徳(達徳)に関する有名な言葉がある。

「子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼」

「子曰く、智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず」

 

「知識が豊かで賢い人は惑わされることがなく、思いやりのある人は憂うことがなく、勇気ある人は物事に懼れない」とでも訳されようか。三徳とは、人ならば誰もが身につけることのできる徳のことである。

中庸の中心的目標は、後半第十章の「誠身有道」(身を誠にするに道あり)から始まる。

「身を誠にするに道あり、善に明らかならざれば、身に誠ならず」であり、「わが身を誠実にするためには、現実の問題に対して何が善(正)かを明確に認識する能力を獲得しなければならない」とでも訳すことができる。

ここでも論語の学習論と知識論がその基本的骨格をなしている。知性を高めるためには、一にも勉強、二にも勉強なのである。

 

<儒教伝来>

 

かくして、儒学という哲学は宋の朱熹により中庸として完結することになる。

飛鳥寧楽時代、あるいはそれ以前かもしれない時代に我が国に輸入された儒教は、論語、孟子、五経であったと思われるが、利用しれたのは五経の方ではなかったかと思われる。儒教の思想・哲学にどれほどの学術的好奇心を抱いていたかはわからない。それよりはむしろ、様々な儀式・儀礼様式、孟子の五倫という倫理的社会構造、役人・官僚の試験問題、占い等々のHow toものに関心があったのではないだろうか。哲学としての儒教は、極めて限られた僅かな特権階級の知識人や僧侶が、趣味として細々と続けていたと考えられるのである。

 

和辻哲郎のところでも説明したように、儒教が日本に渡来したのは、応神天皇の16年、王仁が論語と千字文をもたらしたのに始まるとされる。応神天皇が実在の人物であるか否かは確かではなく、世界遺産登録に伴い、2011年に応神天皇の陵墓の調査がされているが、結果は公表されていない。王仁天皇の16年は西暦275年であり、中国では三国志時代の末期に当たる。また、中国で千字文が編纂されたのは5世紀末から6世紀初頭と推定されるので、王仁がもたらしたとする年代は、千字文の編纂時期よりも250年も遡ることになる。応神天皇陵とされる陵墓の建立時期が5世紀初頭と推定され、この陵墓が応神天皇陵であることが証明されれば、応神天皇の在位期間は4世紀~5世紀にかけての時代ということになる。それでも、千字文の編纂時期よりは早い時期となるので、千字文に似たような漢字の練習用木簡等がもたらされた可能性はある。いずれにしても、かなり古い時期から論語を読み、学習していたと考えられる。聖徳太子の「以和為貴(和を以て貴しと為す)」も論語から引用された。

 

日本における平安時代から鎌倉時代にかけての儒教の変遷についての研究は極めて少なく、「従来の儒学が朝廷における博士の漢唐訓詁の学であるか、民間の研究にしてもほとんど寺院内における僧侶の個人的=趣味的研究にとどまっていた」(「丸山真男全集 第1巻」(丸山真男著 岩波書店 1996))と思われる。こういった、趣味的研究が、やや広く公開講座となり、仏教教理(主として禅宗)と妥協するのは、鎌倉時代の宋学の渡来からである。需釈不二が説かれる。仏教への一方的依存から儒教が独立するのは、江戸時代初期に登場する藤原惺窩とその弟子林羅山である。

徳川家康の全面的支援を受けて、儒教=朱子学は、江戸初期に飛躍的発展を遂げる。二程子(程顥・程頤)が発展させた程朱学=朱子学の壮大な体系については、江戸時代から明治時代、あるいは現代においてもその影響がみられることを考えると、朱子学の思想体系をみておく必要がある。

丸山は、朱子学体系の簡単なスケッチをその形而上学(宇宙論)、人生論、実践倫理という順序で述べるとして、次のように解説している。

「朱子学の形而上学の基礎となったのは周濂渓の太極図説である。これは易の繋辞上伝に「易に太極あり、是れ両儀を生じ、両儀四象を生じ、四象八卦を生ず」とあるのに基づいて、之に五行説を結びつけて宇宙万物の生成を説いたもので、その趣旨を要約すると「自然と人間の窮極的根源たる太極より陰陽二気を生じ、その変合により水火木金土の五行が順次に発生しそこに四季の循環が行われる。陰陽二気は男女として交感し万物を化生するが、その中人は最も秀れた気を稟けたためその霊万物に優れ、就中聖人は全く天地自然と合一している。故に人間道徳はこうした聖人の境地を修得するところに存する」というのであって、宇宙の理法と人間道徳が同じ原理で貫かれていることがここに示されている。」

 

宇宙がビッグバンで誕生し、素粒子がヒックス粒子により減速して質量を確保し、より重い粒子が形成され、それが生命体の発生へと宇宙が進化したことは現代ではほぼ常識となっている。従って太極図説のような宇宙の生成ではない。しかし、朱子は、こういった面倒くさい理屈を抜きにして、「太極はただ是れ万物の理」として、天地万物を超越した窮極的根源であるとした。丸山によれば、「超越性と内在性、実体性と原理性が即自的に(無媒介に)結合されているところに朱子哲学の特徴が見出されるのではなろうか」としている。人は何故人となり、人以外は何故人以外となったか。こうした平等と差別の関係は人間対自然物の間だけではなく、人間相互の間にも存在する。天地万物は悉く「形而上」の理と「形而下」の気の結合により成っている。万物は一理を根源とするいうことで平等であるが、気の作用によって差別相が生ずる。この論法が宇宙論から人生論への橋渡しとなる。

「太極=理は人間に宿って性となる。これが「本然の性」であって生まれながら之を具えない人間はない。人に聖賢暗愚の差別が生じるのは気の作用に基く。気が人間に賦与されて「気質の性」となる。気質の性には清明混濁の差がある。聖人はその稟(う)けた気質が全く透明なので本然の性が残りくまなく顕現する。しかるに通常の人間は多かれ少なかれ混濁した気質の性を持って居りそれから種々の情欲が生れる。この情欲が本然の性を覆(おお)うて之を曇らすところに人間悪が発生する。しかし人間性の善は悪より根源的である。けだし理に基く本然の性-絶対的善-は気に基く気質の性-相対的な善悪-よりも根源的だからである。そこで何人と雖(いえど)も気質の性の混濁を清めれば本然の性に復りうる。そこで次の問題はいかにして気質を改善するかということになり、ここから朱子学の実践的倫理が展開される。

前述の論語の思想とは全く赴きを異にする。論語は、学習過程をその中心思想とし、開かれた学習過程の人のふるまい、態度を仁と呼び、仁なる人を君子とした。それが、人と人との関わりとしての倫理となり、倫理は宇宙観へ駆け上がり、絶対善としての理の概念となり、理は物理の本性であり、物の形を決めるのが気という概念に変化する。

 

宋学が渡来し朱子学として日本で発展していく時代背景は、疾風怒濤の戦国時代から一転して、漸く固定した秩序と人心の上に成立した近世封建社会であった。朱子学は普遍的な精神態度となるべき充分の素地があった。しかし、徳川幕藩体制が100年も経過すると人はこういった朱子学的な思想に安住しえなくなる。「天理ははたして「本然の」性であろうか。人欲は抑々滅尽しうるか、また滅尽すべきものだろうか。理は一切の事物を規定するほどしかく強力であろうか。窮理が純粋に道徳的実践といえようか。人ははたして皆、聖人たりうるのだろうか。修身斉家はそのまま治国平天下の基礎となりえようか。・・・・・・一の疑惑は他の疑惑を生む」。朱子学は、徂徠学、宣長学において根本的な批判の対象となった。朱子学では、「歴史はなによりも教訓でありかがみであって「名分を正す」ための手段でしかない。そうした基準から離れて歴史的現実の独自的な価値は認められない」からであった。

 

勿論、この朱子学全盛期である徳川時代前期には、陽明学の中江藤樹、熊沢蕃山、古学の山鹿素行等の思想家が自説を展開して後世に継承されるが、政治思想の主流は政治的イデオロギーにたる朱子学であった。

同時代にあたる17世紀、18世紀のヨーロッパ哲学の状況も見ておく必要がある。暗く長い中世の夜明けであり、11世紀、12世紀に始まるスコラ哲学からの脱皮期にあたる。ガリレオ・ガリレイの地動説が異端審判により否定されるが、科学の進歩は確実に宗教的真理の嘘を暴き、「我思う故に我あり」のデカルトによる「理性」による真理の追究という近代哲学へと変貌を果たす。ニュートン力学の発見は、カントの批判哲学に影響を与える。ヨーロッパにおける思惟の体系が宗教哲学から離れ、科学的真理に基づく理性の体系へと変貌している。

 

徂徠学は、熊沢蕃山の経世論、徳治論を発展させるが、時の封建的諸施策から離れることはできなかった。真淵、宣長学に代表される国学は、日本書紀、古事記の研究を通して中世文学思想、神道へと展開される。西欧における哲学、思想革命あるいは、宗教哲学と科学的真理との対立といった思想の対立には至っていない。しかし、天体科学の飛躍的発展、ニュートン力学の発見等の断片的知見が日本に輸入されていなかったということは考えにくい。壮大な思想体系ではあっても、科学的真理と対立する朱子学の崩壊は、断片的先端知識だけで充分であったと考えられるが、西欧思想の輸入による崩壊ではなく、蕃山-徂徠学による批判という宋学内部からの崩壊であった。

朱子学が徳川時代初期の幕藩体制において盛んになるのは、江戸幕府の正統性の論理の確立のために思想導入の必要性があったためと思われる。さらに儒教的倫理としての天子・諸侯・郷・大夫・士・庶民という身分階級構成(士大夫という)と江戸幕府の士農工商という絶対的身分分離の相似性、士社会の細分化された階級構成等々の社会関係を儒教的イデオロギーで基礎づけるにはうってつけであった。武士支配の理論について、雨森芳洲は次のように述べている。「人に四等あり。曰く士農工商。士以上は心を労し、農以下は力を労して自ら保つのみ。顛倒すれば則ち天下小にしては不平、大にしては乱る。」

武家組織が、大名を頂点とする階層社会へと変貌するとそれまでの恩情主義は求めがたく、ガバナンスの思想的手段としての客観的論理が求められた。俸禄という経済的関係は、家族階級を生み出し、儒教の家族倫理がそのまま導入され、武士階級から農工商へと浸潤するという身分社会の一般的法則が妥当することになる。こういった上位知識階級から下層民へとしたたり落ちる思想の浸潤では、思想の根源的体系が浸潤するのではなく、倫理・情感に直接訴えかける言葉や言葉のもつ感傷的リズム感が網の目をすり抜けて先行的に浸潤する。朱子学の持つ政治的思想よりは原始儒教的用語とその断片的解釈が浸潤したと思われる。朱子学の江戸中期以後の分解過程では、陽明学、原始儒教の古学等、全国に様々な儒教思想家をみることができる。特に、蕃山、徂徠の経世論は、封建制度の頂点にある藩財政の安定化を中心的課題として、小農制思想、勤倹節約思想として、経済制度の中核的存在となる。

 

安岡正篤の日本精神に近づくためには、事前勉強が必要である。論語のいうところの学習こそ知への道、精神を知る道であるので、もう少しおつきあいをいただくことにする。

 

(次回へ続く)

2020/08/31

2020/08/20

この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(1)

この国の精神 「日本精神の研究」 安岡正篤(1)

 

安岡正篤という人物

 

私が「安岡正篤」の名を初めて知ったのは、今から40年も昔の1970年代後半(昭和50年頃)であったと思う。社会システム開発に首を突っ込み初め、学者や政治家とも少しは関係ができはじめた頃であった。当時は、せいぜい日本の右翼の大物程度の認識であった。

 

当時、全共闘世代にとって、政治思想と言えばマルクスであり、それ以外の思想など思想と呼べるものではないと信じ込んでいた。社会人となってもしばらくはそうであった。この症状は、昭和10年生まれ以後団塊世代までの比較的高い教育を受けた世代の多くが持っている病気である。高齢者になっても、共産主義的思想に対して無条件に肯定的であったり、あるいは、逆に、無条件に否定的であることは、戦後日本の思想的状況が生み出した一種の社会的病理であるとも言えなくはない。

 

私が「日本精神」に取組むきっかけとなったのは、日本人の自然観というものが世界のどの民族とも異なるのではないかと感じたことにある。日本人の自然観は、歴史的に極めて複雑な過程で形成されたと考えられる。神道、仏教、儒教、朱子学、陽明学、詩歌、美術等々の宗教、東洋哲学、文学芸術が複雑に絡み合い、もつれあいながら独特の自然環境の中で独自の思想を形成した。まさに、多神教的、多角的、多次元的、生態学的な生命感得の精神と言って良い。

 

こういったことから、私も儒教や宋学に興味を持ち、少しは勉強した。江戸時代の陽明学が、近代日本の政治思想の基にあるのでないだろうか。そこで登場するのが、この安岡正篤である。

 

「日本精神の研究」は、大正13年に初版され、安岡正篤、若干27歳前後の論文を編集したものである。これから展開する安岡正篤の言う日本精神は、平成17年致知出版社版を基にしている。

 

安岡正篤は、1898年大阪に生まれた。幼少から「大学」(四書の一つ)を素読していたという。中学卒業と同時に東京の安岡家に養子に入り、旧制一高から東京帝国大学へと進学している。実兄には高野山金剛峯寺第403世座主、堀田真快がいる(Wikipedia)。東京帝国大学卒業記念として出版した「王陽明研究」が有名になったきっかけである。以後、我が国の代表的陽明学者として、戦前・戦後の政財界に多大な影響を与えた。

 

陽明学研究者としての安岡正篤の評価は、「大学アカデミズムの陽明学研究において、彼の業績に言及することはまったくといってよいほどない」(小島毅 近代日本の陽明学 講談社)とするものもあれば、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)を刪修し戦後の日本の黒幕であったというレガシーもあるが、本人の口から戦前戦後の自らの政治的行動については何も語られてはいない。しかし、現代においても多くの読者を引きつける強烈な魅力という点では、いかなる研究者・学者も安岡正篤にはかなわない。

 

何故か? 一言で言えば、東洋思想あるいは日本思想の評論家として際立っているからである。評論といっても、そこら辺の政治評論や経済評論とは訳が違う。人間の精神に関する評論である。評論とは、知の限界の解説のことである。学者や研究者がひけらかす知識のことではない。知とは「格物致知」の知、つまり精神の極みのことである。

 

陽明学の前に儒教を知る

 

陽明学とは、明(11271276)の王陽明(本名は王守仁)が唱えた儒学(広辞苑より)とされている。中国発祥の学問は、「○○学」と呼ばれる場合が多い。例えば、儒学とは孔子やその弟子達の教えをどのように解釈するかを言う。考証学は、推測によるのではなく過去の文献を基に論理を組み立てる手法を指す。陽明学は、王陽明が儒教の経典である四書五経を読み解き、自らの解釈を論理的に主張したものということになる。

どうやら陽明学を知る前に、儒教とは何かを探っておく必要がありそうである。陽明学に関する書籍、例えば、「王陽明(安岡正篤、PHP出版)」では、王陽明の一生とその思想形成が解説されているが、王陽明の言う致良知とは何か、ここで言う「知」とは何かについてほとんど解説がないのである。つまり、儒学では「知」や「理」は、説明する必要がない、常識なのだ。

このような傾向は、「朱子学と陽明学」(小島毅 ちくま学芸文庫)、「近代日本の陽明学」(小島毅 講談社)においても同様に見られるが、安岡正篤の場合には、人生論として他の人格を借りて解説している分だけわかりやすいと言える。小島毅は、アカデミズムが先行し、陽明学の主張とはかけ離れた学問形成の系譜に偏り、分かりにくいものとなっている。

 

哲学に関する解説書の最大の問題は、学者・研究者が学術性を強調するあまり自己満足とも思える前近代的論文を書きたがる強い傾向があることである。明治近代化以後の我が国の社会思想、哲学、経済学論文にみられる病理的現象と言って良い。こういった論文様式は、19世紀後半、欧米の人文系論文に特徴的に見られ、文章の大半は論証のための考証に当てられており主張内容とはほとんど関係が無い。こういった論文様式を明治期の我が国の学者が翻訳したものが現代にも継承されている。この傾向は、人文系だけではなく自然科学系においても今なお残っている。世界の過去の文献のうち、現代に生き残っている文献の多くは、こういった虚飾を取り払い、自らの主張を丹念に論証したものだけである。

 

Wikipediaでは、儒教を次のように説明している。

 

「儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡り強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。」

 

儒教は、五経(あるいは六経 詩、書、礼、楽、易、春秋)を経典とするが、五経は、元来、外交儀礼、葬祭儀式、標準語教本、歴史書、楽曲本、詩歌集、占い等を孔子が編纂したとされる。楽経は秦の始皇帝の焚書坑儒により失われたとされる。

四書は、論語、大学、中庸、孟子を指すが、儒教としては五経の方がより高次であるとされる。四書五経の解釈・集大成の歴史は古いが、四書として整理されるのは南宋(1127年以後)の朱熹(朱子)が、礼記から中庸と大学を独立させ、論語、孟子とともに四書としたことに始まる。中国の元時代以後、四書は科挙試験に採用され、五経よりも重要視されることになる。

 

「科挙」が出てきたので、少し寄り道をして「科挙」とは何だったのかを探ってみよう。「科挙」とは、国の官吏登用試験のことであり、西暦598年~1905年、即ち隋から清の時代までの約1300年間継続した。現代で言えば国家公務員試験のようなものであるが、「科挙」の場合には合格さえすれば高い地位と報酬が約束されていたのだから、現代の官僚試験とは格段の差である。中国明朝以後の科挙試験の競争率はものすごいものだったらしい。さらに科挙試験のための私塾は山村にまで存在したと言われており、立身出世と金儲けのための教育は中国全土に及んでいた。

 

現代の中国や韓国の過当競争・点数制度の教育とそっくりである。日本では明治維新以後、官吏登用試験が採用され、立身出世と金儲けのための教育へと、教育そのものが変質した。

福田恆存は、現代日本の教育制度の問題を明治時代の立身出世と金儲けのための教育制度の創設にあると論じている。

 

さて「科挙」の試験内容は、何と「詩作」であったというから驚きである。唐代の詩人、杜甫、李白等が生まれるのも納得がいく。それにしても、「詩」をどのように評価するかは見物である。中国人が、詩的言葉に感動し感情を揺り動かされるのは、この「科挙」の「詩賦」(韻文)により培われた精神性にあるとも言えなくはない。杜甫、李白等の詩は奈良時代以後、日本にももたらされ、和歌とならんで日本人の精神にも大きな影響を与えた。

 

国民国家の知的レベルを上げることは、民主制という単純なシステムによる安定的国家運営のために必要欠くべからざるものであるからであり、そのため、教育は基本中の基本となる。しかし、教育が立身出世や金儲けのために、官吏試験や就職試験に合格するための受験勉強と化してしまうと、教育内容は人間教育から偏差値教育へと変質することになる。

 

中国の科挙が四書の丸暗記と解釈、詩賦であったことは少しは救いであった。なぜなら、論語は、学習とは何かを説いたものだからである。

 

論語』とは?

 

四書のうち論語孔子の死後、弟子達によって編纂され、512の短文を全20編で構成したものである。孔子の根本思想は、第1編の「学而第一」にまとめられていると朱熹(朱子)は言う。

 

論語は、非常に短い文章で構成されており、その論法が他の中国思想書とは別格であることが最大の特徴の一つである。そのため、注釈も本国中国においてすら困難を極め、現代中国では論語研究者の数も少ない。

 

孔子の思想の真髄は、第一編「学而」冒頭の短文にみることができる。

 

「子曰。學而時習之、不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。」

 

読みは、「子曰く、學んで、時にこれを習う。また説しからずや。朋、遠方より來たるあり。また樂しからずや。人、知らずして慍らず。また君子ならずや」である。

 

日本人には、なじみ深い文章であり、特に、「朋、遠方より來たるあり。また樂しからずや」は、ある年齢以上の人はほとんど知っていると言えよう。問題は、伝統的な解釈にある。

 

安富は、これでは何を言っているのかわからないと言う。まさに、そのとおりである。学校で勉強を教えてもらい、家に帰って復習するだけの学問がおもしろいわけがない。古い友人が、久しぶりに遠方から訪ねてきたことの喜びと何の関係があるのか。さらに、人が知らないからといって怒らないのが君子だというのと、友人が尋ねてくるのとどういう関係があるのか。安富は、長い論語解釈の歴史に一石を投じている。

<注>論語については、『「生きるための論語」 安富歩 著  ちくま書房』を参考に紹介することにする。

   安富は、この本の出版時点では、毛むくじゃらのむくつけき男であったが、最近のYouTubeでは、髪を長くし、ひげも剃り、女装している。本人は、女性の方がぴったりくるのだそうである。見かけはどうでも、この人の分析視点は、注目すべきものがある。

 

「習う」とは、一般には練習とか復習という意味で使われるが、論語の中で使用されている「習」に着目すると、「習」は単なる練習や復習の意味ではなく、後天的に身につくという意味だと解釈される。そして、この最初の短文を、「何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくことは喜びではないか」と訳した。そうするとその後の文章との意味のつながりが明確になる。単なる知識の断片の記憶では、何の役にも立たないばかりか理解すら困難である。しかし、問題に直面し解決を迫られ試行錯誤を繰り返すと、記憶された知識の断片が連続的につながり、箇々の知識の意味が理解できるようになるというようなことがある。あるいは、データ分析の手法を学んだ段階では、知ったつもりでいるが、実際のデータ分析に向かうとほとんど手が付けられない。しかし、試行錯誤を繰り返していると分析手法の意味していることがふと理解できるようになることがある。安富は、この「学習」思想が論語思想の第一であるとする。「儒家は、外部からの強制をよしとしない。それは法家の発想である。それと同時に、無為自然もよしとしない。それは老荘の発想である。儒家は、人間の本性に根ざしながら、それに基づく作動を他者と調和させ、学習して成長する道を求める」と言う。

安富が言うように、「人間社会が人間の学習能力によって秩序化される」という思想は、孔子が自ら言っているように孔子の独創ではなく、古来言い伝えられていた思想であろう。学習思想は、人類に普遍に見られるが、往々にして学習過程を停止する誘惑に駆られ、論語の思想は学習過程が停止する方向で読まれてきた。

 

論語において忘れてはならないのが、「知」についての言及である。安富は、論語のもう一つの根幹をなしているのが知識論であると言う。

 

子曰、由、誨女知之乎。知之爲知之、不知爲不知、是知也。(為政第二、十七)

子曰く、由、女(なんじ)に之を知ることを誨(おしえ)んか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是知るなり。

 

金谷訳(論語 金谷 治訳 岩波文庫)は、下記のとおりである。

先生が言われた、「由よ、お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ。」

 

安富も他の訳の例を挙げて解釈をしているが、これでは知とは何かを説明することにはならないと言う。そのとおりである。知の定義は、最後の句の「是知也」の「知」である。この「知」は、前2句の知・不知の「知」とは明らかに異なる。安富は、知ることと知らないことを峻別する過程、つまりこういう学習過程によって新たな「知」を獲得するという。

より端的に表現すれば、学問の神髄とは物事の知識の限界を明らかにすることであり、それは、今は分かっていることはこれであり、まだ分からないことはこれだということを明らかにすることである。知不知が峻別されることにより、不知をさらに究明するという知の探求が繰り返される。「是知也」の「知」とは、新たな知を求めつづける「知性」そのものの動作原理を指していると言えよう。

 

さて、論語を読み解いていくと、孔子の人となりを想像させる文章があちらこちらに散らばっている。下記は、子罕篇に出てくる文章である。

「達巷党人曰、大哉孔子、博学而無所成名、子聞之、謂門弟子曰、吾何執、執御乎、執射乎、吾執 御乎。」

書き下し文は、「達巷党(たつこうとう)の人曰く、大(だい)なるかな孔子、博く学びて名を成す所なしと。子、これを聞き、門弟子に謂いて曰く、吾何をか執らん(とらん)、御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか、吾は御を執らん。」

達巷という村の人が孔子という人は知らぬことがない博識で偉い人だ。何が専門なのかわからないと言ったのに応えて、弓術か馬術か、馬術にしておこうと言ったという話である。

同様に、子罕編には、「子曰。出則事公卿。入則事父兄。喪事不敢不勉。不爲酒困。何有於我哉。

「子(し)曰(いわ)く、出(い)でては公卿(こうけい)に事(つか)え、入(い)りては父兄に事(つか)う。喪事(そうじ)はあえて勉めずんばあらず。酒のために困(くるし)められず。われにおいて何かあらんや。」 これぐらいなら孔子は自分にもできそうだと言う。

 

孔子をもって恕の人と言うが、まさに心のままである。弟子達によって孔子の死後に論語が編纂されたが、孔子の人格を伝えることにも考慮していたと推測される。

 

論語の思想概念は、仁、忠、恕、道、義、和、礼という概念系列で表され、仁を最高概念としている。安富の解説によれば、仁は学習過程、つまり前述の学而の思想が実践されている状態を示していることになる。一方、儒教では、五常の徳と呼ばれる、仁、義、礼、智、信がある。この五常の徳は、白虎通義(後漢の儒学書)に表されているもので、人の常に守るべき5つの道徳として説かれているが、孟子は、五倫として、父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信を挙げ、書経等では異なる徳が説かれている。論語には五常の徳と呼ばれるものは存在せず、まして守るべきというように強制するような思想概念はない。論語に登場する思想概念は、これら以外にも多数あるが、上述の概念系列は、仁であることによってそれぞれが相互に関連する一連の因果関係系列を形成している。

 

このように論語は全20偏からなる短文列で構成されているが、単純な断定的表現には細心の注意が払われている。論語そのものが、学習の思想の実践の書であることがこのような文章構成から理解される。安富が注目したのもこの論法・論理構成にあると推測される。

一方、孟子にはこのような計算された論理構成が見られない。一つの思想が生まれ、それが後世へと継承されるに従って、自由な学習の思想に時代時代の解釈が加わり、言わば時代の要請に応える形の思想が形成される。こういった思想の変遷では、原初の論理構成を踏襲するということがない。

 

論語の最高概念である「仁」については、論語の随所に出てくるが、「仁」に関する明確な定義はどこにもないが、「仁」を説明した有名な文章がある。

 顔淵問仁。子曰、克己復禮、為仁。(顔淵第一二、一)

 顔淵、仁を問う。子曰く、己を克して禮に復す、仁と為す。

「他人の影響、誘惑、脅迫を離れて全く自由になりえた人が、自ら進んでやる行為が自然に仁となることを言った」(宮崎市定、1996)と解釈されている。自己革新である。あるいは無意識の行為を意識下におくことができた状態が仁であるとも言える。一方、孟子になると、概念定義は簡潔明瞭となる。

 孟子曰。自也者人也。合而言之、道也。(孟子 巻第十四、一六章)

仁という言葉は人という意味であり、人間らしくあれといういうことである。{義ということばは宜という意味であり、是非のけじめをつけるということである。}この仁{と義との二つ}を合わせて、これを人の道(道徳)という。

有名な惻隠の情の章においても、四端として下記のように記されている。

惻隠之心、仁之端也。羞悪之心、義之端也。辞譲之心、禮之端也。是非之心、智之端也。(孟子 巻第三 六章 四端「仁義禮智」)

惻隠の情は、仁の萌芽だと言う。惻隠の情とは、人の瞬間的な反応であり、瞬間的な価値判断・直感に基づく心の動きであり行動である。合理的な価値判断を指しているのではない。

安富は、西欧倫理学の有名なモデルを取りあげて惻隠の情を説明する。線路が二股に分かれていて、一方に5人、片方に1人がいる。あなたが列車に乗っているとしたらどちらをひき殺すかという倫理問題である。孟子にこの問題をだせば、恐らく一笑に付され惻隠の情で殺せというのが安富の見解である。頭でゴチャゴチャ考えている間にどちらかが轢き殺される。ゴチャゴチャと合理的判断をしている人間は小人なのである。

安富は、倫理観の相違をアダム・スミスを例に取りあげる。スミスは、全体の利害のために自分を犠牲にすることが「倫理」であり、他人の目にさらされていることへの意識によって「倫理」は生じるとしているが、孟子に言わせればとんでもない話となる。孟子は、自発的に作動し、理屈抜きの心の動きに社会の秩序を見、スミスは、周囲の目を気にし、人の臆病に社会の秩序の源泉を見ると言う。


道徳・倫理といっても、ヨーロッパと東洋ではこれほどの差があるのである。

 

安富は、現代思想との比較研究をとおして論語思想の現代性に迫ろうとする。ハーバート・フィンガレットを引用し、次のように述べている。

「フィンガレットは、西洋文明において人間にとって本質的と考えられている「選択」という概念が論語にないことを指摘した。つまり、同等な選択肢が人間に与えられ、そのいずれかを主体的に選ぶ、という考え方がない。そのかわり人間には従うべき分岐なき「道」がある。良い選択と悪い選択という概念はなく、道に従うか、そこから外れるかしかない。悪い結果が生じるとすれば、惑って道から外れてしまったからだ、と考える。・・更に、孔子が罪悪感について言及していないことを見出した。罪悪感とは、自分の行いが、外的規範から外れることから生じる感情である。・・・西洋文明の基本的な秩序感の前提は、選択と責任という概念である。・・・・・・これに対して孔子が認めるのは恥という概念である。恥とは、道に沿っていないときに覚える感情である。それは外的規範に沿うということではない。」

これ以外にも、ノーバート・ウイーナー、ピーター・ドラッガー等の思想にも言及し、論語の影響を示唆する。

 

近年の脳科学は、理性と感情との関わりについての解明を進めている。マーケッティングの分野では、商品選択における理性的、合理的経済判断において感情が強く関わっていることがわかってきた。18世紀以来の西欧哲学における、感情を排した理性の分析的追求、経済哲学の合理的経済人や功利主義等における理性的価値判断というものは、現実の人間の意志決定では、理性とか客観性とかのウエイトは必ずしも高いものではない。選択、つまり意志決定は、人間の持つ情動的部分が強く理性に働きかけた結果であると考えられるのである。その選択が正しい道であるか否かは、その人が仁であるか否かによって決まり、仁となるためには学而の思想の実践に依らなければならない、と孔子が言っているようである。

 

孔子は、実践の場を求めて彷徨する。孔子の思想を理解する君子による新たな社会秩序の形成を求め続けた。孔子の学習思想による新たな社会秩序の形成という欲求は、後世に引き継がれ変貌し、儒教として中国政治思想の根幹となる。

 

「論語読みの論語知らず」とは昔から言われたことであるが、孔子以後2500年を経てなお難解であることに変わりはない。難解さの故に、徳治思想として様々に変貌する。

 

論語に興味を持たれた方は、どうぞ安富氏の前述の図書をおすすめする。大学、中庸、孟子については、岩波書店から文庫版が販売されている。論語に比べると格段にわかりやすく、かつ理解が容易である。

 

(次回へ続く)

                                          2020/08/20