堕落論2018 恐怖の思想―民主主義・自由・言論・ネット社会―
ネット社会が、人間に潜む飽くなき欲望の情報空間であることは、これまでも何度か論じてきた。ツイッター、フェースブック等々、SNSと言われるサイバー空間は、あらゆる画像、動画、音、言葉で満ちている。日常の他愛もない出来事から、金儲け、セックス、中傷、宗教、政治問題・・・・そして私のブログのような言論である。ネット社会は、情報だけの社会なのだから、むなしいものだと言えばそれまでであるが、ネット社会がどのような社会であるべきかを考える意義はある。ネット社会は、民主主義の投影なのだろうか?
ところで民主主義とは何なのだ。日本では、戦後民主主義として、戦後の占領下に押しつけられたアメリカ民主主義ということになっている。民主主義という言葉は、民主と主義という二つの言葉からなる。「主義」と言う言葉は、福地桜痴(源一郎)の訳と言われている。福地は、英語のPrincipleの訳として用いたが、Principleの語源は、Prinであり最初のことを意味し、原理、原則を指している。原理、原則から発展して、体制、制度まで意訳されることになるが、さらに意訳すれば「良いこと」とも言える。ちなみに「社会」も福地の訳である。「社会」は、Societyの訳であるが、Societyの本来の意味は、「仲間」である。同業者仲間とか、クラブ仲間といった意味だ。民主主義は、民主を原理・原則とする制度・体制のことになる。それでは民主とは何かと言えば、これは古い中国の言葉、漢語である。本来は、民の主(あるじ)、つまり君主、皇帝のことであるが、いつの頃からか人民に主権があることの意味に使われるようになった。日本語には、このように元々の意味と真逆の意味になることがよくある。言葉の定義にあまり厳密性が要求されないことも日本語の特徴かもしれない。
さて、君主が存在する国で、人民に主権がある制度のことを民主制と呼ぶ。イギリスとか日本のように女王や天皇等の君主がいる民主主義のことである。これに対して、フランス、ドイツ、アメリカには君主がいない。君主がいなくて民主主義である制度を共和制という。ややこしいはなしだが、いずれも民主主義に変わりはない。共和という言葉は、中国の史記にあるらしい。共同和合の意味である。共和に相当する英語はなく、Republicと言う場合には共和政体をさす。元来は民衆の物という意味であり、公共財であり、政体をさす。政体は国家ではないのかというと、話がややこしくなるが、厳密には国家と政体は別物である。日本という国家は、領土と国民という物理的存在であるが、政体は国家の運営・経営を司る主体、組織をさす。というこで民主制も共和制も民衆の合議制による政体運営という意味では同義である。
さて、○○主義という言葉だが、この言葉にはある特定の明確な思想という意味が込められている感がある。しかし、古い中国語では政治思想などではなく、個人的な思考・嗜好をさす言葉のようである。例えば、私は肉を食わない主義だという言い方である。英語では、-ism(イズム)が付けられる。何とかイズムである。コミュニズムは共産主義、キャピタリズムは資本主義、リベラリズムは自由主義と何でもイズムになる。-ismを辞書で引くと、Doctrineと同義とある。教義、学説、政策上の主張のことである。だから、自由主義というときには自由に関する学説、主張を意味する。しかし、民主主義の英語は、 Democracyでありismは付いていない。Democracyを民主主義と誰が訳したかは全く不明である。Democracyは、古代ギリシャ語のデーモスとクラトスとを合わせた言葉であり、人民・民衆による権力・支配を意味する。反対語は、アリストス(優れた人、哲人)による支配、寡頭制である。古代アテネの都市国家では、権力者の選出は市民権を有する市民による直接選挙で選出された。
Democracyという言葉は、民衆による国家経営の単なる手続き・手法を指しているにすぎないと考えられる。Democracyが民主主義と訳されると、人民主権の確固たる思想にまで拡張されてしまう。どうも言葉というものはややこしいものだが、明治維新という近代化がもたらした我が国特有の言論の混迷と言わざるを得ない。明治維新以前に○○主義という言葉を見つけることは困難である。なかったのだ。確固たる自己主張を嫌った日本人には、○○主義という言葉は適切ではなかったこともあろう。欧米でも、○○主義という言葉が、思想・哲学用語として登場し、知識人が頻繁に用いるようになるのは17世紀以後であろう。個人主義、自由主義、重商主義・・・・。哲学・思想論争、経済論争、政治・政策論争等々のいわゆるディベートにおいて自らの主張と他の主張とを区別し二元論で整理するためにこのイズムという言葉は都合が良いのである。およそイズムは常に対語(反対語)となっている。
民主主義の定義はこれぐらいにしておくが、この民主主義なる言葉をことさらのように啓蒙したのが戦後義務教育である。こう言われると、クラス会、生徒会等を思い出す方も多いだろう。級長や生徒会長の選挙、クラスでの議決は、多数決で決めるが、この方法を民主主義と呼んだ。多数決民主主義と言うそうだが何とも大げさな表現である。参加者多数決方式とか何とか言えば良いものを、民主主義とは大げさにもほどがある。この民主主義の延長線上に、市長選挙、地方議会、国会がある。物事は多数決で決めなければならないという思想が戦後民主主義なるものの本質である。多数者の意見が正しく、少数者の意見は正しくないので、多数決で決まったことに少数者は従わなければならない。従うのが嫌なら所属する組織から出ていけば良いが、学校もそうだが地域社会、国からそう簡単に出て行くわけにはいかないから、少数意見者は多数者に従属することになる。民主主義社会では、自由は多数者にのみ与えられ、少数者は制約を受け、自由が制限されるのである。国会で決まる法律は、全てこの命題から逃れることはできない。
自由についても、遙か昔から議論されてきた。ミルの自由論等は有名である。一般的に「自由」を論じる場合には、あくまでも個人としての自由という前提条件で論じられる。社会あるいは組織の構成員としての自由、政治的自由については、ミルの自由論、バーリンの自由論に常識的に論じられるにすぎない。つまり、集団・組織の法律、ルール、約束等を前提条件として、個人は、人としての道理を守る限り自由であると。しかし、民主主義の多数決の原理は、少数者の自由を奪うこともある。ミルの自由論においてもこの点は指摘されている。戦後民主主義なるものは、社会秩序を維持する上で最善であるかのごとく、小学生から職場まで、全ての国民を啓蒙した。単なる、集団秩序の意思決定の手法にしか過ぎない単純な多数決手法をである。
法律は、議会で決定される。議会は議員で構成し、議員は国民の投票で選ばれる。どんな法律をつくるかは、選挙の時点ではわからない。国民は、法律の意義、効果については、ニュース報道以外に知る方法がない。それどころか、国民は、その法律について議会で反対を表明することもできない。議員に議会決定の全てを委託しているからだ。
自由を辞書で引いてみると、中国の後漢書に登場するというから、古い中国の言葉であるらしい。元来は、勝手気ままの意味で使用していたとある。哲学的、政治的に用いられる現代の自由ではない。英語では、Freedom、Libertyである。両語とも、抑圧からの解放を意味している。人間が、勝手気ままに、やりたいことをやっていたらそれこそ大変なことになるが、奴隷として自由を奪われ、売買され、殺されるという言いようのない抑圧もまた大変である。
奴隷制についてちょっと見てみよう。古代では、奴隷は当たり前である。古代ギリシャの都市国家では、それこそデモクラシーの国家であるが、都市間の戦争は、日常茶飯事であった。負けた国家の民は、男は子供から老人まで全て殺され、女は奴隷とされた。プラトンもアリストテレスも奴隷制は当たり前、常識であると考えていた。ヨーロッパの奴隷制の廃止は、19世紀前半から中期にかけてイギリス、フランス等が廃止している。アメリカは、リンカーンで有名であるが、1865年に廃止された。隣の韓国には、奴婢制度が儒教的階級制度として定着しており、実質的には日韓併合(1910年)の前年に廃止された。中国の奴隷制も1909年で建前では廃止となるが、実質的には1949年の中華人民共和国の建国まで存続していた。我が日本は、律令制がとられていた奈良時代後期から平安時代前期までは奴婢制があったが、律令制の崩壊とともに姿を消した。日本の制度というものは、西洋や中国等に比べて明確な定義のないままに時代を重ねる、つまり習慣法的な性格が極めて強く、いつのまにか忘れ去られていくという摩訶不思議なものになっている。それでも、人身売買は残っており、実質的な奴隷制は、かなり続いたと考えられる。森鴎外の小説「山椒太夫」は、平安時代後期の人身売買の物語であるが説経節をネタ元にしたと言われる。江戸時代の飢饉では農家が娘を売っていた。ただし、江戸幕府は、度々人身売買禁止令を出していたようだが、世の中は、年季奉公という名目でかわしていたようである。ただし、実質的な賎民差別はあり、現代に痕跡を残している。
西欧、中国等、日本を除く多くの国家では、長い間奴隷制が合法であった。圧政と奴隷制からの解放が近代に入ってやっと実現に向かい、改めて個人の自由とは何かが政治思想の主要命題として取り上げられることになる。民主主義に自由が内包される思想は、抑圧からの解放という歴史を踏んだ欧米国家が近代に獲得した思想と考えられる。日本では、江戸幕藩体制に圧政がなかったかと言えば、度重なる飢饉と百姓一揆をみると圧政に近いとは言えるが、西欧、中国、韓国のような奴隷制はない。しかし、武士階級とそれ以外、農民の移動禁止等、自由を束縛するルールは存在した。武士道などは、武士階級が自らに課した死のルールである。見方を変えれば、自由死のための作法とも言えるだろう。世界の中で日本だけが西欧的政治制度や中国・韓国の儒教的階級制度とは異なる、士農工商という緩やかな階級制とその階級制を維持するために、支配階級である武士が自らを律するために作りあげた美徳による統治であった。それがである。明治維新以後、西欧近代主義が生み出した自由論が日本に襲いかかるのである。それでも、明治の先人達は、巧みに情報を選別して政治制度や種々の思想形成に利用した。しかし、輸入思想の混濁は今に残っている。民主主義思想は、自由、平等等の思想とともに戦後民主主義なるものとして現在まで混濁したままである。
輸入思想であれ、伝統的思想であれ、現代の社会・個人の生活においては、ほとんど何の関係もないといえなくはない。無関係に見えるのである。結婚もせず、政治には関心がなく、今を楽しく生きれば良いと考える若者達。それでいて、何となく虚無感が漂い、徐々にニヒリズムへと落ち込んでいるように見えるのは何故なのだろうか。こう感じているのは私一人だろうか。ハロウィンとかで、渋谷に繰り出したおびただしい数の化け物達。かつて、若い頃、アメリカでハロウィンを経験したが、渋谷のは何とも異様な光景であった。ケルト人の魔除けが由来らしく、アイルランド系移民の多いニューヨーク当たりで盛んに行われており、化け物パレードまである。それにしても、ゴミは散らかし放題、物はぶっ壊すとは。こんなことをやるぐらいなら、ストライキやデモでもやってくれ。移民政策が本格化しそうな雰囲気だし、給料は上がらず、企業は400兆円もため込んでいる。国は、夫婦共稼ぎをやれという。医療保険だって破綻しそうだし、介護保険などというあきれた制度まであり、将来年金はもらえても生活できそうにもないぞ。日本の労働組合なるものは一体全体何をしているのだ。働き方改革で満足してしまったのか。学生諸君、今は売り手市場だが、もうすぐ移民で仕事が奪われるぞ。君たちごときの技能では、移民者のハングリー精神には勝てそうにないのだ。
昔から、年寄りは、「世も末だ」と嘆いて死んでいったが、そう簡単には「末」にはならなかった。しかし、明治維新、日露戦争、第二次世界大戦と、この150年間で三度も「末」を経験した。特に、第二次世界大戦の敗戦は、まさに「世の末」であった。「世の末」から立ち直り、どうやら平和になったと思ったら、白人至上主義、虚無な若者達、ニヒリズムへの傾倒、ネオナチ、オルト・ライト(オルタナ)・・・・等々、ISもびっくりしそうな言論、思想がいつのまにか世界中で同時進行しているでなないか。
西部邁氏がなくなってからもうすぐ1年になる。保守思想家として言論人として実に痛快な人であった。私の師匠の一人である。ずっと昔、若い頃にお会いしたことがあるが、言論人としての人格に磨きがかかったのは、60歳を過ぎた頃ではないだろうか。民族の歴史、伝統、文化こそが国家の骨格であり構造である。アメリカなどという伝統のない人工的国家を国家と呼べるか・・保守の神髄はここにある・・・私にはこのように聞こえてきた。話は逸れるが、西部師匠の言論は、そこらへんの物知り顔の言論人にはない、独特の臭いがあった。人によってはそれを下品だとか、厭らしいとか感じる者もいたかもしれない。しかし、人生において失意のどん底を経験し、貧乏の極みまで追い詰められた人間は、こういった経験のない人間にはわからない独特の臭いをはなつのである。それは、感性と理性の絶妙なバランスが生み出す独特の言論表現と言っても良いだろう。経験と直感というフィルターを通さない言論に価値はない。堕落の底を自分の足で歩いた者だけに思想、哲学を語る資格がある。西部師匠が挑み続けた言論は、机上の、脳内の、思考のみで作りだした言論ではなく、思考結果を体験、経験、直感という感性実験を通して思想へと昇華させることであったと思われる。年老いた思想家にとって、過ぎし日の経験のみが自らの思想のよりどころとなる。それではならぬ。たとえ老いた肉体であっても、生きている間は生きるという体験と思考との循環がなければならぬ。死の体験は、西部師匠の最後の思想への挑戦であった。
さて、アメリカの中間選挙が終わった。トランプ政権の2年間の評価が下されたが、大方の予想どおり上院は共和党、下院は民主党となった。選挙結果に対して、専門家なるものが、アメリカの分断に拍車がかかったとか、多様性が増加したとか、何が分断で何が多様化なのかほとんど意味不明の単語を並べている。分断とは、右派と左派に極端に世論が分かれることを言うらしい。極右と極左でもいいだろう。どこかの国では、極右と極左が手を組んで連立を図ったという最近のニュースがあるが、これは分断ではなく融合になる。トランプよりのミニトランプを右寄りの保守といい、サンダース寄りの社会主義擁護派を左寄りのリベラルというらしい。アメリカばかりではなく、およそ民主制の国家というものは、右と左に大きく揺れ動くものだ。民主制は、物事の決定に時間がかかる。少数派の意見も取り入れるから中途半端な決定になることは避けられない。しかし、決まらない状態が長く続くとさすがに社会に様々な歪みが生じる。例えば、保険制度の不公平制や、公務員の堕落などである。そうなるとジャーナリズムが儲けるチャンスとばかりに、大衆受けする情報を流す。大衆は、刺激的な情報に飢えているからそれとばかりに政治批判、体制批判に回る。いよいよ政党の出番となり、革新性をスローガンに刺激的で極端な言葉で大衆を扇動する。これが、右寄り又は左寄りである。専門家なるものが、分断された社会などと声高に叫ぶのも大衆受けを狙った自己宣伝だ。アメリカは、遙か昔から、白人社会から様々な人種の社会へと変化していたことは、オバマ大統領の誕生で明らかではないのか。今更、多様性などとことさらに分析する必要もない。多様な人種、多様な宗教で構成された社会が、法律以外の何を基に国家の基盤となる社会秩序を形成しうるのか。アメリカという国家は、21世紀の今でも実験国家である。
アメリカが社会主義国家になるわけがない。だから、社会主義擁護派のリベラリストというのもおかしな話だ。アメリカだって国家体制は社会主義であり、世界一の軍隊等はその代表格である。サンダースの言う社会主義といっても、福祉、教育等の公共サービスの拡大を意味しているに過ぎない。トランプ流の保守思想だって当たり前の話だ。日本をみろ。移民は原則禁止である。不法に入国すれば強制送還だ。周囲を海で囲まれているから、壁は作る必要がない。貿易不均衡だから関税をかける、そのとおりではないか。中国が知的所有権を侵害しているのは、公然の秘密であり、テクノロジートランスファーとか何とか言ってごまかしているにすぎない。そんな国は許さないというのも納得がいく。自由貿易だ、グローバル化だなどと叫ぶ方がおかしいのだ。国境を越えた、グローバルで自由な経済、経済に国境はないという思想は、正しいのか。思想だから正しいとか、不正とかの問題ではないが、アメリカの保護主義に対して、自由貿易こそが正義なのか。
確かに、貿易は、古代から行われてきた。2400年前のギリシャ・アテネの経済は、貿易で成り立っていた。都市国家であり、農業生産はゼロに近い。ギリシャ時代の経済システムというのは、今でも理解に苦しむ。小さな都市国家のほとんどが貿易によって国家経済を成り立たせているのである。そのかわりといっては何だが、しょっちゅう戦争をしている。やくざの抗争と同じで、シマの奪い合いだ。勝てば、奴隷、つまりただの労働力が手に入る。いわば、戦争は一種のビジネスではなかったのか。貿易の対象商品は、金属加工物、壺などの陶器、酒だ。当時としては、先端の工業製品である。おわかりか、技術革新に成功した都市国家が富を得る。製品開発だけではなく造船、武器、戦闘技術も技術革新されるから、貿易国家はますます強くなる。かくして、アテネは古代ギリシャの覇権を握る。
国家経済は、技術革新、貿易によってのみ維持される。しかし、我が日本の江戸時代は、鎖国政策をとっていたから貿易量は僅かであった。江戸時代中期以後の100年間ぐらいは、人口3千万人程度で安定している。国内だけで完結した経済システムであるが、幕藩の財政は、相当厳しかったようだ。上杉鷹山のように、藩の特産物に知恵を絞り、江戸に移出して稼がなければならない。200以上の大名国家が、農産物、工芸品に知恵を絞るだけ絞って100万都市江戸に移出を試みた。織物、工芸品等に見られる伝統的技術の大半は、この江戸時代に確立された。さらに、色彩、デザイン、構図等の美的感覚と絵画的技術も同様に磨かれた。何のことはない、江戸時代はギリシャの都市国家と同じようにイノベーションの時代なのである。ただし、戦争というビジネスは許されなかった。
西欧社会における戦争というビジネスは、第一次世界大戦まで続いた。戦争に負けたドイツは、現在の日本円に換算すると200兆円を超える賠償金を請求された。これがナチズムを生み出した。ちなみに、この額はその後1/40まで圧縮されるが、1990年から2010年までかけて残りの分を支払っている。賠償金だからビジネスとは言いがたいというかもしれないが、現物、つまり戦争で失われた家畜、燃料等は現物賠償となっているので金は相手国に支払われる。賠償金を受け取った国は、戦死者への補償等はしないので、国が勝手に使うことになる。韓国との慰安婦問題で、我が国が韓国に支払った賠償金には、慰安婦補償や徴用工補償も含まれているはずだが韓国政府は何もしなかったのと同じだ。
ここまで見てくると、国家経済というものは、イノベーションと貿易なしには存続しえないことがわかる。国家間の貿易を自由にするということは、経済が一体的になることを意味し、経済からみれば国境が必要ないことになり国家も必要がないことになる。国家が存続していくためには、国家間の自由な貿易、自由な経済は、原則禁止にしなければならない。ここに、経済と国家の関係に矛盾が生じる。国家でありつづけるためには、イノベーションと貿易によって豊かな経済を作りださなければならないが、自由な経済、貿易は国家を崩壊させる。イノベーションも同じであり、革新的な科学、技術は、グローバルな環境で生まれ、世界中から情報を収集する必要があるが、国境を超える自由な技術革新は、国家の衰退を招く。
国家が存続するためには、国境を越える自由なイノベーションと貿易、つまりグローバルな経済を適当に調整・制御しなくてはならない。トランプを除く多くの国家リーダーは、グローバル化、自由貿易を叫んでいる。しかし、叫べば叫ぶほど国家存続の意義が問われることになる。大衆、民衆にとって国家とは何かである。
そこで、国家とは、風土、言語、宗教、伝統を一にする共同体であると定義してみよう。特に、歴史が大きくものを言う。国家には、歴史が不可欠なものとするのである。それも長い歴史がなければならない。日本の歴史は、記録が残っている時代でみると1500年程度といったところだろう。ヨーロッパにしても、記録があるのは、ギリシャ、ローマが主であり、スペイン、フランス、イギリス、ドイツ等にローマ時代の遺跡がある程度だ。イタリア、ギリシャ以外の西欧諸国でもせいぜい1900年程度と考えられる。特に、古い文字・言語の記録があるのは、エジプトとバビロニアであり、4000年以上であるが、現代の言語にその痕跡は見られない。言語の歴史からみると、北アフリカ諸国、アラブ、ペルシャを起源とする中東諸国のうちトルコ等の一部の国家が2000年以上である。これらの諸国と比較すると、アメリカなどは、僅か250年だから、日本の江戸時代中期、徳川吉宗以後の歴史しかない。世界を見回すと、歴史の浅い国が意外に多いことに気づく。南北アメリカ大陸全土、ロシア、東南アジアの一部、東欧圏の一部、アフリカ大陸中南部、オーストラリア等であり、地球の陸域面積の6割以上は、歴史の浅い国家だと言って良い。中南米の古代マヤ文明は、1万年前からとされるが、中南米全体が17世紀以後、スペインの侵略により破壊されており言語も喪失している。このようにみてくると、言語、文化、歴史を今に残す国家としては、エジプトを起源とする北アフリカ諸国、ギリシャ・ローマを起源とするヨーロッパ諸国、ペルシャを起源とする中東諸国、漢字4千年の歴史を残す中国、そしてこれらには及ばないが我が日本ということになる。
ところで、中国の覇権主義が近年国際問題として浮上している。一帯一路だそうだ。陸の鉄道網は既に東欧にまで達した。海路は、南沙諸島の軍事基地化をはじめとして西太平洋、インド洋まで進出している。港湾整備の資金を融資し、返済が困難になると90年間の管理権を獲得する。中国の海外基地づくりに関する新手の手法といったところだろう。中国の海外経済戦略はかなり荒っぽく、融資と人の移住であるが、ひょっとしてかつてのソビエト社会主義共和国連邦のように、中華人民共和国連邦を目指す野心があるのではないだろうか。今でも香港、北朝鮮、チベット、内モンゴル自治区で連邦制国家になることは可能だから、そのうち台湾、ベトナム、カンボジア、フィリピン、タイ、ラオス、ミャンマー等々を金で取り込むということは考えすぎだろうか。
中国の人口はおよそ13億8千万人、ほぼ14億人であるが、1880年頃の地球の総人口に匹敵する。中国を統治するということは、1880年代の世界を統治しているのと同じなのである。インドの人口は、約12億人で中国とインドの人口を合わせると26億人となり、1950年代の地球人口に匹敵する。中国、インドの統治システムによって、1950年代の全地球の統治が可能となる。考えてみるまでもなく、中国やインド政府の統治システムとはとてつもない代物である。経済、技術、軍事、統治システム等々の進歩がもたらした結果ではあるが、大衆・民衆の経済水準の向上が現在の国家統治をどうやら可能にしている最大の要因であろう。経済成長がとまり、貧富の格差が拡大するともはやどんな統治システムをもってしても国家の存続は困難となる。インドは民主主義、中国は共産主義と統治思想と制度は異なるが、共通しているのは資本主義という経済システムである。資本主義であって継続的な経済成長があり、所得の再分配がうまく機能している間は、国民大衆の生活においてどんな政治思想も無関係である。平たく言えば、毎年給料が上がり、税負担に無理がなく、合理的な社会保障制度があり、公共事業が毎年一定規模実施され、犯罪が少なく安全であり、政治が堕落・腐敗していなければ、どんな政治制度であっても国民大衆の多くは満足する。インド、中国は、どうあっても経済成長と公共事業を止めるわけにはいかない。止まると国家が崩壊する。崩壊したときには第二次世界大戦の数倍の規模の戦争が始まる。この二つの国は、核爆弾を保有しているのだから。
しかし、もう少し踏み込んで考えると、経済成長や技術革新がそんなに長く続かないことは明らかだ。我が日本が全てを物語っている。1955年を成長開始時点、1990年を成長終焉と考えるとわずか35年しか続かなかった。現代の技術革新は、1960年代に比べると遅々としている。マイクロソフトでもグーグルでもネット・ニュースの技術情報を見ると、スマホや自動車のニュースばかりだ。こんな程度の技術革新は、革新とは言い難い。人工知能だって同じである。もはや画期となる技術革新が生まれる可能性は、確率的にもかなり低い。既存技術の製品が人口の半数程度にいきわたると、恐らく成長は鈍化し、低成長となる。日本のシンクタンクは何をしているのだ。自然環境がどうのこうのと政府の提灯もちみたいな調査レポートばかりでは存在価値がない。インド、中国の未来シナリオをしっかり描け。単純なモデルでも、中国で今後10年以内、インドで20年程度で国家崩壊の危機があるというシナリオは描ける。こういったシナリオを描く場合、最も重要な要素は、その国がよってたつ政治思想、国民大衆の土着思想・宗教感である。
民主主義と自由のテーマが、とてつもない方向に進み始めた。言論とは、本来こういうものだ。一つのテーマについて、広い領域に目を向けて関連する問題を片っ端から取り上げ、その議論の限界、これ以上は議論をしても堂々巡りを始める限界点を探るのである。深くえぐるのは、テーマやそれに関連する言葉の持つ根源的意味、本質的意味に限定する。広い領域に目を向ける時には、広く浅く、つまり大きな視野が必要となる。そして、科学技術については専門的知識と正確性を、歴史、思想については深い洞察力と直感力が要求される。ここでいう洞察力とは、ものごとに対する評価の多面性、多元性である。直感力とは、知識による判断をさすのではない。言葉を認識する知力と知的経験とが融合し、論理を超えた脳内領域で生じる瞬間の判断、ひらめきである。現代における言論とは、18世紀から続く哲学や論理学の系譜とは全く異なる。言論は、思想的論究と科学的根拠による問題限界の重層的証明でなければならない。
さて、現代のネット社会をみてみよう。トランプのツイッターで有名になったフェイクニュース、極右勢力によるヘイトクライムやナチズムの喧伝、イスラムテロ集団の残虐行為、そうかと思えば、殺人、爆薬製造、自殺幇助等の異常者の世界、悪質なアダルトサイト、出会い系サイトというあからさまなセックス交換サイト・・・・・・・。ネットTV、ニュースサイト、ネットラジオもある。とにかく、画像、音、文字、情報といわれるものは全ての種類の情報がネット上にある。
これらの情報のどれが正しく、どれか正しくないか。どの情報が正確でどの情報が不正確なのか。何が事実でなにがフィクションなのか。一つの情報から判断することは困難である。例えば、グーグルのニュースサイトには、新聞社のニュースもあれば、その他のニュースも混在している。マイクロソフトのニュースサイトに至っては、これがニュース報道かという内容の情報まで入っている。よく、言われることだが、大手新聞社のニュース報道は、必ず裏をとり、その事実が確かであることを確認して報道すると言われるが、常識の範囲ではそうらしいが、朝日新聞の慰安婦報道のように、明らかに作りあげた報道もある。アメリカのワシントン・ポスト、ニューヨークタイムズのでっち上げまがいの報道などは昔から有名である。トランプが、フェークだと叫ぶのも当然と言えば当然なのである。
話はそれるが、ネットニュース文章のひどさにはあきれて物が言えない。これが、報道文章かと唖然とする。大手新聞社の文章は、まだましだが、それでも何を知らせたいのか全く意味不明の報道まである。ところで、NHK BSニュースというのがあるが、最近のニュースの手抜きにはあきれ果てる。ある事件の現在状況を報道しているらしいが、その事件はどういった事件で現在どこまでわかっているのかといった説明が全くないから、受け取る方が何が何だか全くわからない。さらにひどいのは、ニュースタイトルを読むだけで終わりというのもある。ニュース映像が全くないのだ。200億円も利益をあげておきながら、手抜き報道にもほどがある。それでいて、低質なドラマに金をかける。経営者は、みんな首だと言いたくなるが、総務省さん何とかしてくれ。
この堕落論2018を乗せているブログを見ると、ほとんどどうでもいい(利用させてもらっていながら、辛口の批判で申し訳ないが!)情報ばかりである。料理のレシピや、子供の誕生、成長、芸能人の結婚・離婚・・・・日常茶飯事のことであるが、時々、暇なときにこういったブログに目を通してみる。こういった情報は、昔は茶飲み話や井戸端会議でやっていたものだ。私などは、ときどき買い物に行ったときに、年増の店員さんと暇つぶしに話す内容である。別に悪いとは言わないが、それこそ、友人達と話をすれば良いだけなのだが、現代とは、話す機会が少なくなったのではないかとも思う。
ところで、このネット社会を支えているものは、パケット交換網という通信技術である。1960年代のアメリカ国防総省が開発した技術であるが、1990年代までは、回線スピードが遅すぎて使えなかった。パケット交換網とは、簡単に言えば、複数のコンピュータを一つの回線でつなぎ、コンピュータ間での通信を行うものである。通信方式は、パケットと呼ばれる情報の集まりで行う。コンピュータには、それぞれアドレスが付けられており、AというコンピュータからBというコンピュータへパケット情報を送るときにBのアドレスを付けて回線に送り出す。回線上には、A、B、C、D・・・・等複数のコンピュータが接続されており、それぞのコンピュータは、自分のところにくる情報かどうかをパケット情報の中の送信アドレスを見て判断し、送信先がBになっていればBのコンピュータがパケットをピックアップする。回線上の情報については全ての接続コンピュータを通過することになる。この接続コンピュータのことをサーバーと言う。通信網は、回線を提供する会社(日本ではNTT等)が設計して配線する。
この単純な通信原理からもわかるように、インターネットは、回線が接続されていれば世界中を飛び回る。ネット社会というのは、完全にグローバルな社会と言って良いのである。勿論、言語の障壁があるが、自動翻訳が進めば、文字、音声は関係なくほとんど同時に翻訳されるから、将来的には言語障壁はなくなると考えて良い。しかし、都合の悪いことに、銀行取引、カード決済、電力会社の電力制御等々、かつては専用回線を利用していた業務用オンラインシステムがインターネット回線を利用している。サーバーをハッキングすれば、インターネット上にある世界の全てのこのような重要な情報にアクセス可能になることである。ところで、映画にあるような、パソコンからちょこちょことやってハッキングするという情報犯罪は、実はそう簡単にはできない。通信は、サーバーを経由するために、まずサーバーをハッキングし、サーバーの中に入り込むことから始める必要がある。理論的には、サーバーを直接コントロールできれば、銀行取引情報、カード情報などの重要な情報を盗むことも可能である。インターネット社会の情報犯罪は、そう簡単ではないが、通信情報が解読できれば物理的な障壁はほとんど皆無であると言って良い。元来、通信技術というものは無線であれ有線であれ、相当脆弱なものであり、暗号化なしには、情報を保護することは難しいものである。情報犯罪は、窃盗、侵入、名誉毀損等、世界中どの国もほぼ変わらない刑法で対応可能であるが、こういった明らかな犯罪は別として、ネット上に公開されている情報が野放しでいいのかという問題はある。
それでは、ネット上の様々な情報について、民主主義と自由の概念のように一定のルールの下に情報を管理することが果たして可能がどうかを検討してみよう。表現の自由、言論の自由の原則から規制すべきものなのだろうか。あるいは規制がかけられるのだろうか。
まず政治的情報である。アメリカの中間選挙が終わったが、選挙のたびに候補者同士で熾烈な中傷合戦がネット上で展開される。これに有権者や、応援団体、過激な思想団体が加わって、まことに賑やかなことだ。ありもしないデマ情報をネットに流して相手の名誉を傷つければ、犯罪であるから告訴して法定で争えば良いが、過激な思想、例えばヘイトクライム、左翼思想といった情報は、言論の自由からみても犯罪と見なすことは難しい。ドイツでは、ヒットラーが書いた「我が闘争」という書籍は出版禁止であるが、日本では禁止となっていない。言論の自由といっても、国の歴史的背景から制限範囲はそれぞれである。アメリカのテレビドラマを見ていると、中国のスパイ、ロシアの陰謀等、敵対的国家の国名が実名で登場するが、日本で国名を実名とした国際紛争のドラマは作った試しがない。勿論、第二次世界大戦の映画などは別だが。例えば、北朝鮮の諜報活動とテロ行為を題材にしたドラマなどは、誰も作ろうとしない。もし、こんなドラマを作って公開したらどうなるだろう。政策批判、極端な政治思想等のネット上での公開は、欧米諸国では当たり前だが、日本ではごく僅かに右翼などで見られる程度である。中国では、政治批判は許されない。イスラム圏や僅かに残る共産圏では、厳しい言論統制がある。
ネット上の言論統制は、それほど難しい技術ではない。交換網を提供しているのは国内企業であるから、接続されているサーバーを監視すれば良いだけである。
アメリカでは、グーグルやフェイスブック等の情報サービス企業が、サーバー内を自己責任で監視して不適切と思われるサイトを削除しているという。
政治的情報に関する言論の自由は、国家ごとの政策に関連して、国内公開情報を制御することになる。勿論、国外の情報も見ることが出来なくなるのは当然である。
商品情報についてはどうだろう。アマゾンで時々買い物をするが、商品情報の少なさというか、不確かさというか、とりあえず情報の内容が貧弱すぎる。書き込み情報は、少しは参考になるが、宣伝まがいの書き込みもあれば、競争相手の書き込みではないかと疑いたくなるような内容であったり、書き込み情報も信用できない。かつて、「暮らしの手帖」という雑誌があった。広告を載せない雑誌であり、商品評価を厳密に行っていた。「暮らしの手帖」は廃刊になったが、別の商品評価の雑誌が市販されているようである。ネット上で、商品評価情報を得るためには、電子書籍を有料で入手する以外にはなさそうである。
フェイスブックやツイッター等のSNSについてはどうだろう。個人の宣伝から仲間集め、クラスメートのいじめ等、様々であり多様なのは当たり前である。職業上の不満、制度への不満、差別への抵抗等、社会性の高い情報も多い。最近のニュースによれば、千葉大学の某先生が、ネット社会は「中抜き」社会だと解説している。「中抜き」とは、ネット社会が出現するまでは、民衆と政治の中間的組織が民衆の声をとりまとめ政治へと届けるという構造があったが、ネット社会の出現によりネット上で直接民衆の声を収集できるようになったため、従来の中間的組織の必要性がなくなったことを意味するらしい。これは、国民諸団体と国政、地域コミュニティと地域政治、メーカと消費者、企業団体と政府というような社会機構の崩壊であるというわけである。勿論、政治(国政、地域政治)と民衆の中間に位置する組織の大部分は、政治的に作られた組織であるから、政治的意味合いが薄れれば組織は不要になるので、ネット社会の出現が中抜きの原因とは限らない。多くの場合、経済成長に伴う企業の淘汰・整理、社会制度の進歩による国民生活の向上等が要因となって、従来の様々な社会活動の意義がなくなったことが中間組織の消滅の原因となっていると考えられる。しかし、見方を変えると、新たな組織化の可能性もある。ネット上で、新たな社会問題への活動を呼びかけ仲間づくりを始めるかもしれない。例えば、介護保険制度に対する不合理性を訴え、活動組織を立ち上げる等である。社会制度、税制、規制が細分化され精緻になればなるほど、住みにくい世の中になることは間違いない。これらの一つ一つに焦点をあてて社会運動を展開する組織が、従来のように政府主導で生まれるはずがない。ネット社会は、制度の堕落を見逃さないと信じよう。
ネット社会は、容易に言論の自由、表現の自由、思想の自由を統制することができるということが重要なのである。ネット社会に民主主義といった大それた思想を持ち込むことは出来ないと考えるべきである。ネット犯罪は、監視しなければならないが、犯罪を立証することが難しい情報については、規制は必要ない。ウイルスやHPを偽り情報を盗む等の明らかな犯罪については、国際的ネットポリス機構を作るなどの対応策が必要である。しかし、ネット犯罪の大部分は、被害者からの告発がなければ取り締まりが難しい。そのためにも、ネット告訴やネット犯罪に関する法律とネットポリスの設立は、急務である。
自由な言論、思想、表現は、一面において人間の堕落した側面でもある。堕落こそが人が人として再生する唯一の手段である。人間の一挙手一投足を制御する法律・制度・システムからは、何も生まれてこない。こういった束縛から自由な情報空間としてのネット社会をどのように守り抜くかを考える時代に入った。精緻、微細な規則づけの民主主義という、恐怖の未来に対して、ネット社会の自由は守り抜けるかが問われている。ISの首切り情報がネットに出た。戦争現場の悲惨な情景がネットで流れた。危険なセックス動画だ。殺人ライブだ。自殺だ。ネオナチだ。オルトライトだ。・・・・・。異常者を生み出す危険な情報については、何とか制御するにしても、まあ適当なところで妥協せざるを得ない。ネット社会は、可能な限り自由な社会であり、堕落していることが未来を切り開くカギになるとは言えないか。
2018年11月20日