fc2ブログ
2019/05/29

堕落論2018 恐怖の思想―民主主義・自由・言論・ネット社会―

 ネット社会が、人間に潜む飽くなき欲望の情報空間であることは、これまでも何度か論じてきた。ツイッター、フェースブック等々、SNSと言われるサイバー空間は、あらゆる画像、動画、音、言葉で満ちている。日常の他愛もない出来事から、金儲け、セックス、中傷、宗教、政治問題・・・・そして私のブログのような言論である。ネット社会は、情報だけの社会なのだから、むなしいものだと言えばそれまでであるが、ネット社会がどのような社会であるべきかを考える意義はある。ネット社会は、民主主義の投影なのだろうか?

 ところで民主主義とは何なのだ。日本では、戦後民主主義として、戦後の占領下に押しつけられたアメリカ民主主義ということになっている。民主主義という言葉は、民主と主義という二つの言葉からなる。「主義」と言う言葉は、福地桜痴(源一郎)の訳と言われている。福地は、英語のPrincipleの訳として用いたが、Principleの語源は、Prinであり最初のことを意味し、原理、原則を指している。原理、原則から発展して、体制、制度まで意訳されることになるが、さらに意訳すれば「良いこと」とも言える。ちなみに「社会」も福地の訳である。「社会」は、Societyの訳であるが、Societyの本来の意味は、「仲間」である。同業者仲間とか、クラブ仲間といった意味だ。民主主義は、民主を原理・原則とする制度・体制のことになる。それでは民主とは何かと言えば、これは古い中国の言葉、漢語である。本来は、民の主(あるじ)、つまり君主、皇帝のことであるが、いつの頃からか人民に主権があることの意味に使われるようになった。日本語には、このように元々の意味と真逆の意味になることがよくある。言葉の定義にあまり厳密性が要求されないことも日本語の特徴かもしれない。

 さて、君主が存在する国で、人民に主権がある制度のことを民主制と呼ぶ。イギリスとか日本のように女王や天皇等の君主がいる民主主義のことである。これに対して、フランス、ドイツ、アメリカには君主がいない。君主がいなくて民主主義である制度を共和制という。ややこしいはなしだが、いずれも民主主義に変わりはない。共和という言葉は、中国の史記にあるらしい。共同和合の意味である。共和に相当する英語はなく、Republicと言う場合には共和政体をさす。元来は民衆の物という意味であり、公共財であり、政体をさす。政体は国家ではないのかというと、話がややこしくなるが、厳密には国家と政体は別物である。日本という国家は、領土と国民という物理的存在であるが、政体は国家の運営・経営を司る主体、組織をさす。というこで民主制も共和制も民衆の合議制による政体運営という意味では同義である。

 さて、○○主義という言葉だが、この言葉にはある特定の明確な思想という意味が込められている感がある。しかし、古い中国語では政治思想などではなく、個人的な思考・嗜好をさす言葉のようである。例えば、私は肉を食わない主義だという言い方である。英語では、-ism(イズム)が付けられる。何とかイズムである。コミュニズムは共産主義、キャピタリズムは資本主義、リベラリズムは自由主義と何でもイズムになる。-ismを辞書で引くと、Doctrineと同義とある。教義、学説、政策上の主張のことである。だから、自由主義というときには自由に関する学説、主張を意味する。しかし、民主主義の英語は、 Democracyでありismは付いていない。Democracyを民主主義と誰が訳したかは全く不明である。Democracyは、古代ギリシャ語のデーモスとクラトスとを合わせた言葉であり、人民・民衆による権力・支配を意味する。反対語は、アリストス(優れた人、哲人)による支配、寡頭制である。古代アテネの都市国家では、権力者の選出は市民権を有する市民による直接選挙で選出された。

 Democracyという言葉は、民衆による国家経営の単なる手続き・手法を指しているにすぎないと考えられる。Democracyが民主主義と訳されると、人民主権の確固たる思想にまで拡張されてしまう。どうも言葉というものはややこしいものだが、明治維新という近代化がもたらした我が国特有の言論の混迷と言わざるを得ない。明治維新以前に○○主義という言葉を見つけることは困難である。なかったのだ。確固たる自己主張を嫌った日本人には、○○主義という言葉は適切ではなかったこともあろう。欧米でも、○○主義という言葉が、思想・哲学用語として登場し、知識人が頻繁に用いるようになるのは17世紀以後であろう。個人主義、自由主義、重商主義・・・・。哲学・思想論争、経済論争、政治・政策論争等々のいわゆるディベートにおいて自らの主張と他の主張とを区別し二元論で整理するためにこのイズムという言葉は都合が良いのである。およそイズムは常に対語(反対語)となっている。

 民主主義の定義はこれぐらいにしておくが、この民主主義なる言葉をことさらのように啓蒙したのが戦後義務教育である。こう言われると、クラス会、生徒会等を思い出す方も多いだろう。級長や生徒会長の選挙、クラスでの議決は、多数決で決めるが、この方法を民主主義と呼んだ。多数決民主主義と言うそうだが何とも大げさな表現である。参加者多数決方式とか何とか言えば良いものを、民主主義とは大げさにもほどがある。この民主主義の延長線上に、市長選挙、地方議会、国会がある。物事は多数決で決めなければならないという思想が戦後民主主義なるものの本質である。多数者の意見が正しく、少数者の意見は正しくないので、多数決で決まったことに少数者は従わなければならない。従うのが嫌なら所属する組織から出ていけば良いが、学校もそうだが地域社会、国からそう簡単に出て行くわけにはいかないから、少数意見者は多数者に従属することになる。民主主義社会では、自由は多数者にのみ与えられ、少数者は制約を受け、自由が制限されるのである。国会で決まる法律は、全てこの命題から逃れることはできない。

 自由についても、遙か昔から議論されてきた。ミルの自由論等は有名である。一般的に「自由」を論じる場合には、あくまでも個人としての自由という前提条件で論じられる。社会あるいは組織の構成員としての自由、政治的自由については、ミルの自由論、バーリンの自由論に常識的に論じられるにすぎない。つまり、集団・組織の法律、ルール、約束等を前提条件として、個人は、人としての道理を守る限り自由であると。しかし、民主主義の多数決の原理は、少数者の自由を奪うこともある。ミルの自由論においてもこの点は指摘されている。戦後民主主義なるものは、社会秩序を維持する上で最善であるかのごとく、小学生から職場まで、全ての国民を啓蒙した。単なる、集団秩序の意思決定の手法にしか過ぎない単純な多数決手法をである。

 法律は、議会で決定される。議会は議員で構成し、議員は国民の投票で選ばれる。どんな法律をつくるかは、選挙の時点ではわからない。国民は、法律の意義、効果については、ニュース報道以外に知る方法がない。それどころか、国民は、その法律について議会で反対を表明することもできない。議員に議会決定の全てを委託しているからだ。

 自由を辞書で引いてみると、中国の後漢書に登場するというから、古い中国の言葉であるらしい。元来は、勝手気ままの意味で使用していたとある。哲学的、政治的に用いられる現代の自由ではない。英語では、Freedom、Libertyである。両語とも、抑圧からの解放を意味している。人間が、勝手気ままに、やりたいことをやっていたらそれこそ大変なことになるが、奴隷として自由を奪われ、売買され、殺されるという言いようのない抑圧もまた大変である。

 奴隷制についてちょっと見てみよう。古代では、奴隷は当たり前である。古代ギリシャの都市国家では、それこそデモクラシーの国家であるが、都市間の戦争は、日常茶飯事であった。負けた国家の民は、男は子供から老人まで全て殺され、女は奴隷とされた。プラトンもアリストテレスも奴隷制は当たり前、常識であると考えていた。ヨーロッパの奴隷制の廃止は、19世紀前半から中期にかけてイギリス、フランス等が廃止している。アメリカは、リンカーンで有名であるが、1865年に廃止された。隣の韓国には、奴婢制度が儒教的階級制度として定着しており、実質的には日韓併合(1910年)の前年に廃止された。中国の奴隷制も1909年で建前では廃止となるが、実質的には1949年の中華人民共和国の建国まで存続していた。我が日本は、律令制がとられていた奈良時代後期から平安時代前期までは奴婢制があったが、律令制の崩壊とともに姿を消した。日本の制度というものは、西洋や中国等に比べて明確な定義のないままに時代を重ねる、つまり習慣法的な性格が極めて強く、いつのまにか忘れ去られていくという摩訶不思議なものになっている。それでも、人身売買は残っており、実質的な奴隷制は、かなり続いたと考えられる。森鴎外の小説「山椒太夫」は、平安時代後期の人身売買の物語であるが説経節をネタ元にしたと言われる。江戸時代の飢饉では農家が娘を売っていた。ただし、江戸幕府は、度々人身売買禁止令を出していたようだが、世の中は、年季奉公という名目でかわしていたようである。ただし、実質的な賎民差別はあり、現代に痕跡を残している。

 西欧、中国等、日本を除く多くの国家では、長い間奴隷制が合法であった。圧政と奴隷制からの解放が近代に入ってやっと実現に向かい、改めて個人の自由とは何かが政治思想の主要命題として取り上げられることになる。民主主義に自由が内包される思想は、抑圧からの解放という歴史を踏んだ欧米国家が近代に獲得した思想と考えられる。日本では、江戸幕藩体制に圧政がなかったかと言えば、度重なる飢饉と百姓一揆をみると圧政に近いとは言えるが、西欧、中国、韓国のような奴隷制はない。しかし、武士階級とそれ以外、農民の移動禁止等、自由を束縛するルールは存在した。武士道などは、武士階級が自らに課した死のルールである。見方を変えれば、自由死のための作法とも言えるだろう。世界の中で日本だけが西欧的政治制度や中国・韓国の儒教的階級制度とは異なる、士農工商という緩やかな階級制とその階級制を維持するために、支配階級である武士が自らを律するために作りあげた美徳による統治であった。それがである。明治維新以後、西欧近代主義が生み出した自由論が日本に襲いかかるのである。それでも、明治の先人達は、巧みに情報を選別して政治制度や種々の思想形成に利用した。しかし、輸入思想の混濁は今に残っている。民主主義思想は、自由、平等等の思想とともに戦後民主主義なるものとして現在まで混濁したままである。

 輸入思想であれ、伝統的思想であれ、現代の社会・個人の生活においては、ほとんど何の関係もないといえなくはない。無関係に見えるのである。結婚もせず、政治には関心がなく、今を楽しく生きれば良いと考える若者達。それでいて、何となく虚無感が漂い、徐々にニヒリズムへと落ち込んでいるように見えるのは何故なのだろうか。こう感じているのは私一人だろうか。ハロウィンとかで、渋谷に繰り出したおびただしい数の化け物達。かつて、若い頃、アメリカでハロウィンを経験したが、渋谷のは何とも異様な光景であった。ケルト人の魔除けが由来らしく、アイルランド系移民の多いニューヨーク当たりで盛んに行われており、化け物パレードまである。それにしても、ゴミは散らかし放題、物はぶっ壊すとは。こんなことをやるぐらいなら、ストライキやデモでもやってくれ。移民政策が本格化しそうな雰囲気だし、給料は上がらず、企業は400兆円もため込んでいる。国は、夫婦共稼ぎをやれという。医療保険だって破綻しそうだし、介護保険などというあきれた制度まであり、将来年金はもらえても生活できそうにもないぞ。日本の労働組合なるものは一体全体何をしているのだ。働き方改革で満足してしまったのか。学生諸君、今は売り手市場だが、もうすぐ移民で仕事が奪われるぞ。君たちごときの技能では、移民者のハングリー精神には勝てそうにないのだ。

 昔から、年寄りは、「世も末だ」と嘆いて死んでいったが、そう簡単には「末」にはならなかった。しかし、明治維新、日露戦争、第二次世界大戦と、この150年間で三度も「末」を経験した。特に、第二次世界大戦の敗戦は、まさに「世の末」であった。「世の末」から立ち直り、どうやら平和になったと思ったら、白人至上主義、虚無な若者達、ニヒリズムへの傾倒、ネオナチ、オルト・ライト(オルタナ)・・・・等々、ISもびっくりしそうな言論、思想がいつのまにか世界中で同時進行しているでなないか。

 西部邁氏がなくなってからもうすぐ1年になる。保守思想家として言論人として実に痛快な人であった。私の師匠の一人である。ずっと昔、若い頃にお会いしたことがあるが、言論人としての人格に磨きがかかったのは、60歳を過ぎた頃ではないだろうか。民族の歴史、伝統、文化こそが国家の骨格であり構造である。アメリカなどという伝統のない人工的国家を国家と呼べるか・・保守の神髄はここにある・・・私にはこのように聞こえてきた。話は逸れるが、西部師匠の言論は、そこらへんの物知り顔の言論人にはない、独特の臭いがあった。人によってはそれを下品だとか、厭らしいとか感じる者もいたかもしれない。しかし、人生において失意のどん底を経験し、貧乏の極みまで追い詰められた人間は、こういった経験のない人間にはわからない独特の臭いをはなつのである。それは、感性と理性の絶妙なバランスが生み出す独特の言論表現と言っても良いだろう。経験と直感というフィルターを通さない言論に価値はない。堕落の底を自分の足で歩いた者だけに思想、哲学を語る資格がある。西部師匠が挑み続けた言論は、机上の、脳内の、思考のみで作りだした言論ではなく、思考結果を体験、経験、直感という感性実験を通して思想へと昇華させることであったと思われる。年老いた思想家にとって、過ぎし日の経験のみが自らの思想のよりどころとなる。それではならぬ。たとえ老いた肉体であっても、生きている間は生きるという体験と思考との循環がなければならぬ。死の体験は、西部師匠の最後の思想への挑戦であった。

 さて、アメリカの中間選挙が終わった。トランプ政権の2年間の評価が下されたが、大方の予想どおり上院は共和党、下院は民主党となった。選挙結果に対して、専門家なるものが、アメリカの分断に拍車がかかったとか、多様性が増加したとか、何が分断で何が多様化なのかほとんど意味不明の単語を並べている。分断とは、右派と左派に極端に世論が分かれることを言うらしい。極右と極左でもいいだろう。どこかの国では、極右と極左が手を組んで連立を図ったという最近のニュースがあるが、これは分断ではなく融合になる。トランプよりのミニトランプを右寄りの保守といい、サンダース寄りの社会主義擁護派を左寄りのリベラルというらしい。アメリカばかりではなく、およそ民主制の国家というものは、右と左に大きく揺れ動くものだ。民主制は、物事の決定に時間がかかる。少数派の意見も取り入れるから中途半端な決定になることは避けられない。しかし、決まらない状態が長く続くとさすがに社会に様々な歪みが生じる。例えば、保険制度の不公平制や、公務員の堕落などである。そうなるとジャーナリズムが儲けるチャンスとばかりに、大衆受けする情報を流す。大衆は、刺激的な情報に飢えているからそれとばかりに政治批判、体制批判に回る。いよいよ政党の出番となり、革新性をスローガンに刺激的で極端な言葉で大衆を扇動する。これが、右寄り又は左寄りである。専門家なるものが、分断された社会などと声高に叫ぶのも大衆受けを狙った自己宣伝だ。アメリカは、遙か昔から、白人社会から様々な人種の社会へと変化していたことは、オバマ大統領の誕生で明らかではないのか。今更、多様性などとことさらに分析する必要もない。多様な人種、多様な宗教で構成された社会が、法律以外の何を基に国家の基盤となる社会秩序を形成しうるのか。アメリカという国家は、21世紀の今でも実験国家である。

 アメリカが社会主義国家になるわけがない。だから、社会主義擁護派のリベラリストというのもおかしな話だ。アメリカだって国家体制は社会主義であり、世界一の軍隊等はその代表格である。サンダースの言う社会主義といっても、福祉、教育等の公共サービスの拡大を意味しているに過ぎない。トランプ流の保守思想だって当たり前の話だ。日本をみろ。移民は原則禁止である。不法に入国すれば強制送還だ。周囲を海で囲まれているから、壁は作る必要がない。貿易不均衡だから関税をかける、そのとおりではないか。中国が知的所有権を侵害しているのは、公然の秘密であり、テクノロジートランスファーとか何とか言ってごまかしているにすぎない。そんな国は許さないというのも納得がいく。自由貿易だ、グローバル化だなどと叫ぶ方がおかしいのだ。国境を越えた、グローバルで自由な経済、経済に国境はないという思想は、正しいのか。思想だから正しいとか、不正とかの問題ではないが、アメリカの保護主義に対して、自由貿易こそが正義なのか。

 確かに、貿易は、古代から行われてきた。2400年前のギリシャ・アテネの経済は、貿易で成り立っていた。都市国家であり、農業生産はゼロに近い。ギリシャ時代の経済システムというのは、今でも理解に苦しむ。小さな都市国家のほとんどが貿易によって国家経済を成り立たせているのである。そのかわりといっては何だが、しょっちゅう戦争をしている。やくざの抗争と同じで、シマの奪い合いだ。勝てば、奴隷、つまりただの労働力が手に入る。いわば、戦争は一種のビジネスではなかったのか。貿易の対象商品は、金属加工物、壺などの陶器、酒だ。当時としては、先端の工業製品である。おわかりか、技術革新に成功した都市国家が富を得る。製品開発だけではなく造船、武器、戦闘技術も技術革新されるから、貿易国家はますます強くなる。かくして、アテネは古代ギリシャの覇権を握る。

 国家経済は、技術革新、貿易によってのみ維持される。しかし、我が日本の江戸時代は、鎖国政策をとっていたから貿易量は僅かであった。江戸時代中期以後の100年間ぐらいは、人口3千万人程度で安定している。国内だけで完結した経済システムであるが、幕藩の財政は、相当厳しかったようだ。上杉鷹山のように、藩の特産物に知恵を絞り、江戸に移出して稼がなければならない。200以上の大名国家が、農産物、工芸品に知恵を絞るだけ絞って100万都市江戸に移出を試みた。織物、工芸品等に見られる伝統的技術の大半は、この江戸時代に確立された。さらに、色彩、デザイン、構図等の美的感覚と絵画的技術も同様に磨かれた。何のことはない、江戸時代はギリシャの都市国家と同じようにイノベーションの時代なのである。ただし、戦争というビジネスは許されなかった。

 西欧社会における戦争というビジネスは、第一次世界大戦まで続いた。戦争に負けたドイツは、現在の日本円に換算すると200兆円を超える賠償金を請求された。これがナチズムを生み出した。ちなみに、この額はその後1/40まで圧縮されるが、1990年から2010年までかけて残りの分を支払っている。賠償金だからビジネスとは言いがたいというかもしれないが、現物、つまり戦争で失われた家畜、燃料等は現物賠償となっているので金は相手国に支払われる。賠償金を受け取った国は、戦死者への補償等はしないので、国が勝手に使うことになる。韓国との慰安婦問題で、我が国が韓国に支払った賠償金には、慰安婦補償や徴用工補償も含まれているはずだが韓国政府は何もしなかったのと同じだ。

 ここまで見てくると、国家経済というものは、イノベーションと貿易なしには存続しえないことがわかる。国家間の貿易を自由にするということは、経済が一体的になることを意味し、経済からみれば国境が必要ないことになり国家も必要がないことになる。国家が存続していくためには、国家間の自由な貿易、自由な経済は、原則禁止にしなければならない。ここに、経済と国家の関係に矛盾が生じる。国家でありつづけるためには、イノベーションと貿易によって豊かな経済を作りださなければならないが、自由な経済、貿易は国家を崩壊させる。イノベーションも同じであり、革新的な科学、技術は、グローバルな環境で生まれ、世界中から情報を収集する必要があるが、国境を超える自由な技術革新は、国家の衰退を招く。

 国家が存続するためには、国境を越える自由なイノベーションと貿易、つまりグローバルな経済を適当に調整・制御しなくてはならない。トランプを除く多くの国家リーダーは、グローバル化、自由貿易を叫んでいる。しかし、叫べば叫ぶほど国家存続の意義が問われることになる。大衆、民衆にとって国家とは何かである。

 そこで、国家とは、風土、言語、宗教、伝統を一にする共同体であると定義してみよう。特に、歴史が大きくものを言う。国家には、歴史が不可欠なものとするのである。それも長い歴史がなければならない。日本の歴史は、記録が残っている時代でみると1500年程度といったところだろう。ヨーロッパにしても、記録があるのは、ギリシャ、ローマが主であり、スペイン、フランス、イギリス、ドイツ等にローマ時代の遺跡がある程度だ。イタリア、ギリシャ以外の西欧諸国でもせいぜい1900年程度と考えられる。特に、古い文字・言語の記録があるのは、エジプトとバビロニアであり、4000年以上であるが、現代の言語にその痕跡は見られない。言語の歴史からみると、北アフリカ諸国、アラブ、ペルシャを起源とする中東諸国のうちトルコ等の一部の国家が2000年以上である。これらの諸国と比較すると、アメリカなどは、僅か250年だから、日本の江戸時代中期、徳川吉宗以後の歴史しかない。世界を見回すと、歴史の浅い国が意外に多いことに気づく。南北アメリカ大陸全土、ロシア、東南アジアの一部、東欧圏の一部、アフリカ大陸中南部、オーストラリア等であり、地球の陸域面積の6割以上は、歴史の浅い国家だと言って良い。中南米の古代マヤ文明は、1万年前からとされるが、中南米全体が17世紀以後、スペインの侵略により破壊されており言語も喪失している。このようにみてくると、言語、文化、歴史を今に残す国家としては、エジプトを起源とする北アフリカ諸国、ギリシャ・ローマを起源とするヨーロッパ諸国、ペルシャを起源とする中東諸国、漢字4千年の歴史を残す中国、そしてこれらには及ばないが我が日本ということになる。 

 ところで、中国の覇権主義が近年国際問題として浮上している。一帯一路だそうだ。陸の鉄道網は既に東欧にまで達した。海路は、南沙諸島の軍事基地化をはじめとして西太平洋、インド洋まで進出している。港湾整備の資金を融資し、返済が困難になると90年間の管理権を獲得する。中国の海外基地づくりに関する新手の手法といったところだろう。中国の海外経済戦略はかなり荒っぽく、融資と人の移住であるが、ひょっとしてかつてのソビエト社会主義共和国連邦のように、中華人民共和国連邦を目指す野心があるのではないだろうか。今でも香港、北朝鮮、チベット、内モンゴル自治区で連邦制国家になることは可能だから、そのうち台湾、ベトナム、カンボジア、フィリピン、タイ、ラオス、ミャンマー等々を金で取り込むということは考えすぎだろうか。

 中国の人口はおよそ13億8千万人、ほぼ14億人であるが、1880年頃の地球の総人口に匹敵する。中国を統治するということは、1880年代の世界を統治しているのと同じなのである。インドの人口は、約12億人で中国とインドの人口を合わせると26億人となり、1950年代の地球人口に匹敵する。中国、インドの統治システムによって、1950年代の全地球の統治が可能となる。考えてみるまでもなく、中国やインド政府の統治システムとはとてつもない代物である。経済、技術、軍事、統治システム等々の進歩がもたらした結果ではあるが、大衆・民衆の経済水準の向上が現在の国家統治をどうやら可能にしている最大の要因であろう。経済成長がとまり、貧富の格差が拡大するともはやどんな統治システムをもってしても国家の存続は困難となる。インドは民主主義、中国は共産主義と統治思想と制度は異なるが、共通しているのは資本主義という経済システムである。資本主義であって継続的な経済成長があり、所得の再分配がうまく機能している間は、国民大衆の生活においてどんな政治思想も無関係である。平たく言えば、毎年給料が上がり、税負担に無理がなく、合理的な社会保障制度があり、公共事業が毎年一定規模実施され、犯罪が少なく安全であり、政治が堕落・腐敗していなければ、どんな政治制度であっても国民大衆の多くは満足する。インド、中国は、どうあっても経済成長と公共事業を止めるわけにはいかない。止まると国家が崩壊する。崩壊したときには第二次世界大戦の数倍の規模の戦争が始まる。この二つの国は、核爆弾を保有しているのだから。

 しかし、もう少し踏み込んで考えると、経済成長や技術革新がそんなに長く続かないことは明らかだ。我が日本が全てを物語っている。1955年を成長開始時点、1990年を成長終焉と考えるとわずか35年しか続かなかった。現代の技術革新は、1960年代に比べると遅々としている。マイクロソフトでもグーグルでもネット・ニュースの技術情報を見ると、スマホや自動車のニュースばかりだ。こんな程度の技術革新は、革新とは言い難い。人工知能だって同じである。もはや画期となる技術革新が生まれる可能性は、確率的にもかなり低い。既存技術の製品が人口の半数程度にいきわたると、恐らく成長は鈍化し、低成長となる。日本のシンクタンクは何をしているのだ。自然環境がどうのこうのと政府の提灯もちみたいな調査レポートばかりでは存在価値がない。インド、中国の未来シナリオをしっかり描け。単純なモデルでも、中国で今後10年以内、インドで20年程度で国家崩壊の危機があるというシナリオは描ける。こういったシナリオを描く場合、最も重要な要素は、その国がよってたつ政治思想、国民大衆の土着思想・宗教感である。

 民主主義と自由のテーマが、とてつもない方向に進み始めた。言論とは、本来こういうものだ。一つのテーマについて、広い領域に目を向けて関連する問題を片っ端から取り上げ、その議論の限界、これ以上は議論をしても堂々巡りを始める限界点を探るのである。深くえぐるのは、テーマやそれに関連する言葉の持つ根源的意味、本質的意味に限定する。広い領域に目を向ける時には、広く浅く、つまり大きな視野が必要となる。そして、科学技術については専門的知識と正確性を、歴史、思想については深い洞察力と直感力が要求される。ここでいう洞察力とは、ものごとに対する評価の多面性、多元性である。直感力とは、知識による判断をさすのではない。言葉を認識する知力と知的経験とが融合し、論理を超えた脳内領域で生じる瞬間の判断、ひらめきである。現代における言論とは、18世紀から続く哲学や論理学の系譜とは全く異なる。言論は、思想的論究と科学的根拠による問題限界の重層的証明でなければならない。

 さて、現代のネット社会をみてみよう。トランプのツイッターで有名になったフェイクニュース、極右勢力によるヘイトクライムやナチズムの喧伝、イスラムテロ集団の残虐行為、そうかと思えば、殺人、爆薬製造、自殺幇助等の異常者の世界、悪質なアダルトサイト、出会い系サイトというあからさまなセックス交換サイト・・・・・・・。ネットTV、ニュースサイト、ネットラジオもある。とにかく、画像、音、文字、情報といわれるものは全ての種類の情報がネット上にある。

 これらの情報のどれが正しく、どれか正しくないか。どの情報が正確でどの情報が不正確なのか。何が事実でなにがフィクションなのか。一つの情報から判断することは困難である。例えば、グーグルのニュースサイトには、新聞社のニュースもあれば、その他のニュースも混在している。マイクロソフトのニュースサイトに至っては、これがニュース報道かという内容の情報まで入っている。よく、言われることだが、大手新聞社のニュース報道は、必ず裏をとり、その事実が確かであることを確認して報道すると言われるが、常識の範囲ではそうらしいが、朝日新聞の慰安婦報道のように、明らかに作りあげた報道もある。アメリカのワシントン・ポスト、ニューヨークタイムズのでっち上げまがいの報道などは昔から有名である。トランプが、フェークだと叫ぶのも当然と言えば当然なのである。

 話はそれるが、ネットニュース文章のひどさにはあきれて物が言えない。これが、報道文章かと唖然とする。大手新聞社の文章は、まだましだが、それでも何を知らせたいのか全く意味不明の報道まである。ところで、NHK BSニュースというのがあるが、最近のニュースの手抜きにはあきれ果てる。ある事件の現在状況を報道しているらしいが、その事件はどういった事件で現在どこまでわかっているのかといった説明が全くないから、受け取る方が何が何だか全くわからない。さらにひどいのは、ニュースタイトルを読むだけで終わりというのもある。ニュース映像が全くないのだ。200億円も利益をあげておきながら、手抜き報道にもほどがある。それでいて、低質なドラマに金をかける。経営者は、みんな首だと言いたくなるが、総務省さん何とかしてくれ。

 この堕落論2018を乗せているブログを見ると、ほとんどどうでもいい(利用させてもらっていながら、辛口の批判で申し訳ないが!)情報ばかりである。料理のレシピや、子供の誕生、成長、芸能人の結婚・離婚・・・・日常茶飯事のことであるが、時々、暇なときにこういったブログに目を通してみる。こういった情報は、昔は茶飲み話や井戸端会議でやっていたものだ。私などは、ときどき買い物に行ったときに、年増の店員さんと暇つぶしに話す内容である。別に悪いとは言わないが、それこそ、友人達と話をすれば良いだけなのだが、現代とは、話す機会が少なくなったのではないかとも思う。

 ところで、このネット社会を支えているものは、パケット交換網という通信技術である。1960年代のアメリカ国防総省が開発した技術であるが、1990年代までは、回線スピードが遅すぎて使えなかった。パケット交換網とは、簡単に言えば、複数のコンピュータを一つの回線でつなぎ、コンピュータ間での通信を行うものである。通信方式は、パケットと呼ばれる情報の集まりで行う。コンピュータには、それぞれアドレスが付けられており、AというコンピュータからBというコンピュータへパケット情報を送るときにBのアドレスを付けて回線に送り出す。回線上には、A、B、C、D・・・・等複数のコンピュータが接続されており、それぞのコンピュータは、自分のところにくる情報かどうかをパケット情報の中の送信アドレスを見て判断し、送信先がBになっていればBのコンピュータがパケットをピックアップする。回線上の情報については全ての接続コンピュータを通過することになる。この接続コンピュータのことをサーバーと言う。通信網は、回線を提供する会社(日本ではNTT等)が設計して配線する。

  この単純な通信原理からもわかるように、インターネットは、回線が接続されていれば世界中を飛び回る。ネット社会というのは、完全にグローバルな社会と言って良いのである。勿論、言語の障壁があるが、自動翻訳が進めば、文字、音声は関係なくほとんど同時に翻訳されるから、将来的には言語障壁はなくなると考えて良い。しかし、都合の悪いことに、銀行取引、カード決済、電力会社の電力制御等々、かつては専用回線を利用していた業務用オンラインシステムがインターネット回線を利用している。サーバーをハッキングすれば、インターネット上にある世界の全てのこのような重要な情報にアクセス可能になることである。ところで、映画にあるような、パソコンからちょこちょことやってハッキングするという情報犯罪は、実はそう簡単にはできない。通信は、サーバーを経由するために、まずサーバーをハッキングし、サーバーの中に入り込むことから始める必要がある。理論的には、サーバーを直接コントロールできれば、銀行取引情報、カード情報などの重要な情報を盗むことも可能である。インターネット社会の情報犯罪は、そう簡単ではないが、通信情報が解読できれば物理的な障壁はほとんど皆無であると言って良い。元来、通信技術というものは無線であれ有線であれ、相当脆弱なものであり、暗号化なしには、情報を保護することは難しいものである。情報犯罪は、窃盗、侵入、名誉毀損等、世界中どの国もほぼ変わらない刑法で対応可能であるが、こういった明らかな犯罪は別として、ネット上に公開されている情報が野放しでいいのかという問題はある。

 それでは、ネット上の様々な情報について、民主主義と自由の概念のように一定のルールの下に情報を管理することが果たして可能がどうかを検討してみよう。表現の自由、言論の自由の原則から規制すべきものなのだろうか。あるいは規制がかけられるのだろうか。

 まず政治的情報である。アメリカの中間選挙が終わったが、選挙のたびに候補者同士で熾烈な中傷合戦がネット上で展開される。これに有権者や、応援団体、過激な思想団体が加わって、まことに賑やかなことだ。ありもしないデマ情報をネットに流して相手の名誉を傷つければ、犯罪であるから告訴して法定で争えば良いが、過激な思想、例えばヘイトクライム、左翼思想といった情報は、言論の自由からみても犯罪と見なすことは難しい。ドイツでは、ヒットラーが書いた「我が闘争」という書籍は出版禁止であるが、日本では禁止となっていない。言論の自由といっても、国の歴史的背景から制限範囲はそれぞれである。アメリカのテレビドラマを見ていると、中国のスパイ、ロシアの陰謀等、敵対的国家の国名が実名で登場するが、日本で国名を実名とした国際紛争のドラマは作った試しがない。勿論、第二次世界大戦の映画などは別だが。例えば、北朝鮮の諜報活動とテロ行為を題材にしたドラマなどは、誰も作ろうとしない。もし、こんなドラマを作って公開したらどうなるだろう。政策批判、極端な政治思想等のネット上での公開は、欧米諸国では当たり前だが、日本ではごく僅かに右翼などで見られる程度である。中国では、政治批判は許されない。イスラム圏や僅かに残る共産圏では、厳しい言論統制がある。

 ネット上の言論統制は、それほど難しい技術ではない。交換網を提供しているのは国内企業であるから、接続されているサーバーを監視すれば良いだけである。

 アメリカでは、グーグルやフェイスブック等の情報サービス企業が、サーバー内を自己責任で監視して不適切と思われるサイトを削除しているという。

 政治的情報に関する言論の自由は、国家ごとの政策に関連して、国内公開情報を制御することになる。勿論、国外の情報も見ることが出来なくなるのは当然である。

 商品情報についてはどうだろう。アマゾンで時々買い物をするが、商品情報の少なさというか、不確かさというか、とりあえず情報の内容が貧弱すぎる。書き込み情報は、少しは参考になるが、宣伝まがいの書き込みもあれば、競争相手の書き込みではないかと疑いたくなるような内容であったり、書き込み情報も信用できない。かつて、「暮らしの手帖」という雑誌があった。広告を載せない雑誌であり、商品評価を厳密に行っていた。「暮らしの手帖」は廃刊になったが、別の商品評価の雑誌が市販されているようである。ネット上で、商品評価情報を得るためには、電子書籍を有料で入手する以外にはなさそうである。

 フェイスブックやツイッター等のSNSについてはどうだろう。個人の宣伝から仲間集め、クラスメートのいじめ等、様々であり多様なのは当たり前である。職業上の不満、制度への不満、差別への抵抗等、社会性の高い情報も多い。最近のニュースによれば、千葉大学の某先生が、ネット社会は「中抜き」社会だと解説している。「中抜き」とは、ネット社会が出現するまでは、民衆と政治の中間的組織が民衆の声をとりまとめ政治へと届けるという構造があったが、ネット社会の出現によりネット上で直接民衆の声を収集できるようになったため、従来の中間的組織の必要性がなくなったことを意味するらしい。これは、国民諸団体と国政、地域コミュニティと地域政治、メーカと消費者、企業団体と政府というような社会機構の崩壊であるというわけである。勿論、政治(国政、地域政治)と民衆の中間に位置する組織の大部分は、政治的に作られた組織であるから、政治的意味合いが薄れれば組織は不要になるので、ネット社会の出現が中抜きの原因とは限らない。多くの場合、経済成長に伴う企業の淘汰・整理、社会制度の進歩による国民生活の向上等が要因となって、従来の様々な社会活動の意義がなくなったことが中間組織の消滅の原因となっていると考えられる。しかし、見方を変えると、新たな組織化の可能性もある。ネット上で、新たな社会問題への活動を呼びかけ仲間づくりを始めるかもしれない。例えば、介護保険制度に対する不合理性を訴え、活動組織を立ち上げる等である。社会制度、税制、規制が細分化され精緻になればなるほど、住みにくい世の中になることは間違いない。これらの一つ一つに焦点をあてて社会運動を展開する組織が、従来のように政府主導で生まれるはずがない。ネット社会は、制度の堕落を見逃さないと信じよう。

 ネット社会は、容易に言論の自由、表現の自由、思想の自由を統制することができるということが重要なのである。ネット社会に民主主義といった大それた思想を持ち込むことは出来ないと考えるべきである。ネット犯罪は、監視しなければならないが、犯罪を立証することが難しい情報については、規制は必要ない。ウイルスやHPを偽り情報を盗む等の明らかな犯罪については、国際的ネットポリス機構を作るなどの対応策が必要である。しかし、ネット犯罪の大部分は、被害者からの告発がなければ取り締まりが難しい。そのためにも、ネット告訴やネット犯罪に関する法律とネットポリスの設立は、急務である。

 自由な言論、思想、表現は、一面において人間の堕落した側面でもある。堕落こそが人が人として再生する唯一の手段である。人間の一挙手一投足を制御する法律・制度・システムからは、何も生まれてこない。こういった束縛から自由な情報空間としてのネット社会をどのように守り抜くかを考える時代に入った。精緻、微細な規則づけの民主主義という、恐怖の未来に対して、ネット社会の自由は守り抜けるかが問われている。ISの首切り情報がネットに出た。戦争現場の悲惨な情景がネットで流れた。危険なセックス動画だ。殺人ライブだ。自殺だ。ネオナチだ。オルトライトだ。・・・・・。異常者を生み出す危険な情報については、何とか制御するにしても、まあ適当なところで妥協せざるを得ない。ネット社会は、可能な限り自由な社会であり、堕落していることが未来を切り開くカギになるとは言えないか。
                                 2018年11月20日
2019/05/29

堕落論2018 恐怖の思想-自由にものが言えない社会-

  クライトンは、「恐怖の存在」の最後に、「自由にものが言えない社会」について、オールストン・チェイスの言葉、「真実の探求が政治的意図でひっかきまわされるとき、知識の探求は権力の追求に堕する」を引用した。オールストン・チェイスという人は、日本ではほとんど知られていない。アメリカでも知っている人は少ないと思うが、ハーバードを出た哲学者である。クライトンの言う「自由にものが言えない社会」とは、政治における科学的知見の悪用、乱用を意味する。現代の日本では、個人や仲間同士で自由にものを言っても誰にもとがめられることはない。

  例えば、「今の国民健康保険制度はどこかおかしいぞ、あれが税制なのか」といった会話は自由である。本当にこの制度の不合理性は、徹底的に追求する必要がある思うが、国会での議論などは聞いたことがない。

  地球温暖化問題とその対策は、極めて政策的であり、政策なしでは二酸化炭素の排出量の抑制などは到底不可能である。しかし、二酸化炭素濃度が、地球温暖化の要因であることは今もって科学的に検証されていないことはこれまでの説明でも明らかである。科学者が、何も言わないのである。現役の学者が、「温暖化はどこかおかしい」等と発言すれば、「おまえそれでも学者か」と罵倒され、失職するかもしれない。「もったいない学会」という名の学会HPをみると、完全にリタイヤした学者が自由に発言しており、大方は、「地球温暖化と二酸化炭素濃度との関係は、科学的には検証できない」というものである。この点は、クライトンも指摘している。現役の学者と「金」は、密接に関連しているため、年金暮らしにならないと本当のことが言えないのだ。何とも、情けない社会である。現役世代が「自由にものを言う」ためには、全てを捨てなくてはならない。まさに、清貧に身を置く覚悟がいるのである。

  遙か昔に読んだ、中野孝次の「清貧の思想」という本を取り出して再度読んでみた。「貧乏」では人後に落ちぬ貧乏人で自慢できるほどの貧乏人である今の私からみると、この人は、本当の貧乏を知らないのではないかと思える。「貧乏」については、別の機会に論じることにしよう。

  クライトンは、「自由にものが言えない社会」が如何に恐怖の社会であるかを、「優生学」を例に説明している。「優生学」については、NHKでもフランケンシュタインの何とかという番組で取り上げていたのでご存じの方もいるだろう。さらに、最近の話題では、旧優生保護法により断種や不妊手術が強制された問題がある。

  「優生学」は、1883年にフランシス・ゴルトンにより提唱された科学と言われるが、現在では疑似科学、つまり科学とは似て非なるものとされている。しかし、優生なものは遺伝的に継承されるとする考え方は、古代から現在までほとんど信仰といって良いほどに信じられている。劣等な人間からは劣等な人間が生まれ、劣等人種の人口が増加することで社会の秩序が失われるというのが、優生学のいう基本理論である。何が優生で何が劣等であるかという定義さえ曖昧なまま、人間の価値を人種差別にまで適用したのが戦前のナチである。日本でも、ナチほど過激ではないが、同じような思想はあったし、人種差別が半ば公然と行われていた。戦前の日本は、ドイツ等の欧米諸国に比べて、極端な優生学論者ではなかったが、戦後になってにわかに「優生学」が政策に登場する。昭和23年の優生保護法の制定である。

  優生学が、科学ではないことは今では常識となっているが、当時は先端の科学として認識されていた。科学とは何かは、既に19世紀の学会で相当に議論されていたから、優生学が科学ではないことぐらい、学者の間では当たり前であったはずだ。しかし、学者は誰一人として、とは言い過ぎだが、ほとんどの学者は何も言わなかった。

 1920年代頃から優生学理論は、幅広い知識層、経済人から支持を得ることになる。ルーズベルト、チャーチル、グレアム・ベル、マーガレット・サンガー、スタンフォード、H・G・ウエルズ、バーナード・ショー、等々、蒼々たる知識人が支持を表明する。さらに、カーネギー財団、ロックフェラー財団等が研究資金を提供するに至ると、アメリカ科学アカデミー、全米医師会、アメリカ学術審議会などの学術界、ノーベル賞学者までもがこぞって賛同し始めた。なんと、1939年の第二次世界大戦の直前までアメリカからドイツに研究資金が流れていたのである。

  この理論、つまり、「優秀な人間が遺伝的に増加する速度は、劣等な人間が遺伝的に増加する速度よりは遅い」という理論を、一般論にまで拡大して社会問題に無理矢理適応させたものである。この理論に問題があることは、すぐにおわかりだろう。日本には「鳶が鷹を生む」ということわざがあるように(英語にも、「A black hen lays a white egg」ということわざがある)、劣等な人間から突如優秀な人間が生まれることは生物学的にも歴史的にも知られた現象である。だから、「何世代か後には、世の中は劣等な人間が圧倒的に多くなる」ということにはならず、優劣度合いによる人間の分布は、正規分布のようになる。優生学という似非理論は、極めて狭い条件で成立するかもしれないが、社会現象として成立することはあり得ない。従って、科学的には間違いなのである。何故、科学理論としてノーベル賞学者までが支持することになったのか。政治と金が「知」を堕落させたとしか言いようがない。

  現代の学術論文なるものを見ていると、研究成果が社会の役にたつかという点で言えば、優生学の理論展開と同じような論文がほとんどである。極めて限定的な条件での成立成果であり、一般的状態どころか特殊な状態でも起こり得ないと考えられるにも関わらず、新たな発見だとして発表される。そのような条件の発生確率がどの程度なのかには一切触れられずにである。現代においても科学的理論なるもののほとんどが、この優生学の理論展開と同じなのである。研究は、それなりにかなり厳密ではあるが、研究成果を社会に適応させる場合には、実にいい加減な仮説、理論展開を基にする。政策と科学は密接に関連しているが、様々な科学分野を統合して政策に適応させる科学は存在しない。

  地球温暖化、温暖化ガス排出問題等々は、この優生学という社会運動とどこか似ているとは言わないが、科学的というにはあまりにも問題が大きいと、マイクル・クライトンは言う。最も大きな問題は、優生学がそうであったように、科学者が自由にものを言えない社会だと言う。優生学の時代には、時のノーベル賞学者や政治家、作家が、こぞって賛同した。現代の地球温暖化も同様である。

  豊かな社会とは、定義はいろいろあるだろうが、端的には、企業が成長し、個人所得が増加し多くの国民が食べるには困らず、文化的な生活を営める社会のことであるが、こういった社会の最大の特徴は、税収が増加することによって際限なく肥大化する政府組織の存在にある。政府組織が、ある一定規模を超えると、もはや誰も止めることができない自己増殖の循環に入る。政府組織が豊かな社会を走るためのエンジンと化すのである。戦争状態となった政府の暴走を誰も止めることができないのと同じである。19世紀後半から成長を続けた資本主義社会は、二度の世界大戦を引き起こした。豊かな社会とは、社会の進むべき方向について、自由にものを言わせない社会なのである。豊かな社会は、暗黙のうちに、「豊かでありさえすれば」として自由にものを言わせない社会を容認し、こういった時間が長く続くと、政府組織という権力組織が豊かさに潜む堕落を餌に勢力を伸ばすのである。

  地球温暖化問題とは、豊かさに潜む堕落が作り出した新たな権力そのものである。知識人の諸君、科学者の皆さん、我が少国民よ、社会はどこかおかしいぞと叫ぼうではないか。
 
  安倍総理の三選が決まったそうだ。対立候補の石破氏は、地方創生、貧困が主な政策課題であったが、本音は自民党のなかで自由に議論できないムードに対する批判にあったのではないかと思う。かつての自民党、具体的には田中、三木、福田等々、1980年代初頭の自民党では、それこそ、これが政権与党かと疑いたくなるような議論があった。勿論、議論の細々した内容が報道されることはなかった。議論には、政治記者も加わっていたのだから、オフレコなどという前に、議論に加わった者として当然の仁義を通した。自由にものを言う社会にとって、知識、論理等に付随する教条性は有害である。自由にものが言える環境を作り出すためには、ものごとに対する個々人の経験と直感による極めて原初的な疑問が必要である。疑問の端緒を生み出す直感の確からしさを確認するために知識と論理が必要なのである。政治家の政治信念、理念といったものは、自由にものを言う風土がなければ醸成されることはない。かの、トランプを見ろ。政治とは何かについて、自由にものを言いあう環境の欠如が生み出した典型的な政治家である。トランプの価値観は、現実の損得勘定だけである。現実とは、少しだけの過去と、現在と、少しだけ先の未来であり、損得勘定とは、損か得か、儲かるか儲からないかである。今、損をしても数年先には儲かるからやるという未来の損得勘定は、トランプの価値観には存在しない。莫大な遺産を相続し、現実の損益勘定だけのビジネスによって何とか成功してきた経営経験が生み出した、極端に現実的な高利貸し的経営思想である。ビジネスは、利益がなければ継続は不可能であるから、ドラッカーが言うように利益を出すことは企業にとって経営目的ではなく活動継続のための制約条件でしかない。高利貸し的経営は、一に利益、二に利益、三、四がなくて五に利益、つまり利益が目的のすべてとなる経営のことである。トランプの言動をみると、アメリカ・ファースト、国益重視、国益になるならば嫌な相手でもお世辞を言い、それで駄目なら脅し、脅迫、とりあえず何でもする。

  政治思想が現実的であるべきか理想的であるべきかという論争は、ギリシャ時代から論争されてきた。E.H.カーは、1919年から1939年までを危機の20年と呼び、この時代の理想主義と現実主義との相克を分析した。トランプには、政治思想というものがない。政治思想としての現実主義でもない。政治における現実主義は、今そこにある貧困、今そこにある人種差別、今そこにある難民問題等、今そこにある現実問題に対する政治的処方のあり方にある。

  とはいっても、世論調査によれトランプを支持する者は40%以上はいる。株や金融商品の動きを見ると、トランプの言動で乱高下し、トランプが言動修正するたびに上昇に転ずる。石油価格もあっという間に40ドル台から70ドル台まで上昇した。このままいくと、シェールオイル・ガスによるミニバブルが起きそうである。トランプが、誰かわからないが、背後にいる経済人に巨額の利益を誘導しているとみるのは、思い過ごしだろうか。「ブラック・リスト」というBSドラマを見ていると、トランプが、秘密結社の幹部のように見えてくる。ところで、「ブラック・リスト」は、面白いので一度見てください。米国のTVドラマは、科学捜査もの、FBI、CIA等、サスペンスがほとんどだが、いずれも良く考えている。駄作も少なくないが、面白い番組は、複数のシナリオ・ライターによるグループ作業らしい。到底、一人で考えられる範囲を超えている。複数の人間でシナリオ創りしたからといって、必ずしも面白くなるわけではない。普通は、バランスが悪い、物語の合理性が失われる等、いわゆる面白くなくなる。優秀なインテグレータがいるのだ。極めて豊富な知識と教養を持ち、文芸的才能だけではなく、芸術全般に関する感性豊かなインテグレータである。我が日本はと言えば、NHKの何ともつまらないドラマばかりだ。時代劇には、時々面白いものもあるが、面白いのは池波正太郎のリメーク版ぐらいのものだ。原作がいいからだ。女性には申し訳ないが、女性が脚本・脚色のドラマというのはどうして面白くないのだ。脚本家、脚色家の大半は、今や女性だからあきらめるより仕方がないか。

  話が逸れてしまった。自由にものが言える社会では、こういう意見もお許し願いたい。面白くないものは、面白くない。韓ドラも同じだ。10年前の韓ドラは、日本にはない斬新さがあり、面白かった。最近のは、二番煎じどころか五番煎じ、六番煎じだ。韓国時代劇のあの"はでばでしさ"は、昭和30年代の東映時代劇ではないか。内容にしても、韓国王朝時代とは似ても似つかない。儒教政治、奴隷制度、過酷な刑罰制度、経済格差等韓国王朝時代と日本の江戸時代とでは天と地ほどの違いがあるはずである。何故、自国の歴史についてある程度の正確さを踏まえたドラマを創れないのだ。日本のバブル時代にも沢山のミステリードラマが作られた。どれもこれも実につまらない。原作が悪く、脚色もひどい。そんな作品を20年も作っていると、もはや面白い作品が生まれなくなる。堕落するのだ。そのときのブームにのった価値観が、人の感性を堕落させるのである。たかがドラマだ。たかが脚本だ。ものを言っても仕方がない。

  そうだ、これこそが、自由にものを言えない社会を生み出す源泉なのだ。少子高齢化社会は、自由にものを言わない社会を創りだした。研究者が完全にリタイヤしてから、本当のことを話すと言ったが、リタイヤしても本当のことを言わない研究者がほとんどである。現役時代の金と権力と地位の保身のための発言や何も言わなかったことに対する羞恥心や自尊心から何も言わないままに死んでいく。そこへ行くと、私のような少国民は気軽なものだ。老人達よ、ボケている場合ではないぞ。もう死ぬだけだから、後は野となれ山となれではない。今の社会はどこかおかしいとは思わないか。おかしいはずだ。いつの時代でもおかしなことは山ほどある。

  スエーデン社会の報道が時々ある。税金は、高いが社会保障が行き届いた理想的社会のように。しかし、現実社会はどうなのだ。夫婦共稼ぎをしなければ、年金支給額が制限され、子育てにくたくたになっている社会だ。こんな社会が、理想的社会か。我が国でも、女性の労働力の活用とかで、政府は、夫婦共稼ぎ社会の実現を目指している。そのための働き方改革だ。女性が社会進出することは、大いに結構だし、大賛成である。能力があり、やる気のある女性は多い。男女平等の就業機会づくりや労働環境づくり、女性差別のある仕事・慣行等を徹底的に排除する社会の実現は重要である。だからといって、夫婦共稼ぎ社会に持って行こうというスエーデン型の政策には断固として反対する。女性の社会進出を推進した結果がスエーデン社会だ。女性の社会進出を推進すると、扶養控除がなくなり、年金制度も制限され、社会保障制度そのものが夫婦共稼ぎを前提とした社会に組み替えられていく。今の日本は、その途上にあると言っても良い。社会学者、経済学者が、科学的根拠のない社会実験をしたがるのだ。我が国の介護保険、年金制度、医療制度等の社会保障制度は、まさに学者の社会実験の場となっている。制度の持つ不公正、不公平、不平等は全て無視し、国家として国民の「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことの保障を放棄し、保険制度という何の科学的根拠もない社会実験を続けることは、ある意味では国家的犯罪にも等しい。女性の社会進出、共稼ぎ世帯の推進、社会保障制度の充実、国家による救済社会・・・・。理想社会の実現へと向かっているように見えるが、その実、無限に拡大する国家組織が背景に潜んでいる。これこそが、恐怖の社会なのだ。

  介護保険制度などは、即刻廃止すべきである。こういうと増え続ける認知症老人はどうするという意見が出る。介護保険でもカバーできません。金持ちならば、資産を処分して有料ホスピスに入れば良い。数百万人に上る貧困老人に対しては、無料のホスピスを全国の山村に設置すべきだ。過疎化している山村には、使われなくなった公共施設がごろごろしている。認知症老人にプライバシーもへったくれもない。快適な空間、冷暖房、食事の提供、集団介護システムがあれば良い。期間は、せいぜいあと20年程度だ。全国1000の山村で、1山村当たり1000人収容であれば百万人は収容可能である。百万人の維持費は、年間2兆円もあれば十分である。施設改修費でも1兆円ぐらいだろう。20年間で41兆円で済むのである。なぜ、介護保険などという面倒くさいシステムを考え出したのだ。

  社会保障制度には、おそるべき恐怖が潜んでいる。単純明快に解決可能なシステムがあるにも関わらず、あえて面倒くさいシステムを作り出すには、何か理由があるからに他ならない。

  地球温暖化などもその典型である。二酸化炭素の排出量を抑制するために、莫大な税金が投入される。二酸化炭素の吸収システムの開発には、ほとんど投資されない。技術的には、吸収対策の方が単純明快であるにもかかわらず、しないのである。今世紀末には、海面が上昇し、沿岸域の都市は水没する。なぜ、都市移転を進めないのだ。

  一方で、電気自動車だそうだ。電力供給のためのインフラ整備に50兆円、電力供給量を現在の数倍に上げなくてはならない。こんなくだらないことのために電化が必要なのか。電力インフラの再整備をするぐらいなら、光合成による水素生産の方がはるかに現実的である。学者に言わせると水素生産の方が、電力生産よりもはるかに費用がかかるという。嘘だ、うそだ、ウソだ。これらの問題を打ち破るのが、科学ではないか。かつて、大型コンピュータ全盛時代に、パソコン等は、能力的に汎用機にはかなわないから、パソコンがとって変わることはないと、研究者や企業の技術者が叫んだ。しかし、そんなことは20年も続かなかった。大企業が推進しなかったのだ。パソコンの開発スピードを上げると、汎用機が売れなくなるからだ。電気自動車も良く似ているが、エネルギー全般の問題に関わる。もはや原子力発電では、無理である。新たな物理学を持ってしても、核廃棄物の無害化は不可能だからだ。そうなると、水素発電、核融合、放射線のでない核分裂、反分質エネルギー等を推進しなくてはならない。こういった研究開発にどれだけの投資がなされているのか。微々たるものだ。

  太陽光発電風力発電などはもってのほかだ。止めてくれ。こんなインフラ整備に税金や電力料金を使うのはやめてくれ。ゴミの山を作るだけだ。昔、炭鉱にはぼた山があったが、太陽光発電風力発電は未来のぼた山だ。

  自由にものが言えない社会は、科学者や研究者だけが保身のためにものを言わないのではない。彼らがものをいわない社会には、もっと沢山のものを言わなければならない問題が潜んでいる。自由にものを言えない社会は、自由にものを言わない人々、国民がつくりだしたのだ。恐れるな。知識がなければ、勉強すれば良い。ものを言う場は、昔と違ってサイバー空間があるではないか。スマホのかけ放題電話で無駄話をしている暇があるなら、SNSでも何でもいい、ネットにだせ。誰も見なくても結構。自由にものを言うことが重要なのだ。
                                   2018年10月8日
  
2019/05/29

堕落論2018 恐怖の思想-地球温暖化の恐怖 2-


  インターネットで最近の地球温暖化問題を見てみると、盛んにティッピング・ポイントという言葉が出てくる。臨界点のように訳されているが、後戻りできない点のことである。どうも、元々は、マーケッティング用語として使用されたようである。辞書によれば「tip」にingを付けた言葉である。「~から転じる」という意味らしい。今まで売れなかった本が急に売れ出すというような使い方をする。だからといって後戻りできなくなる点を指してはいない。急に売れ出した本も、時間がたてば売れない状態になる。
 
 こういう言葉を、常識のない科学者が、受けを狙って使うと、温暖化を止められなくなる臨界点、ティッピングポイントだということになる。今や、ティッピング・ポイントは、人類生存の恐怖の言葉と化した。
 
 二酸化炭素等の温暖化ガスの濃度が高くなり、ある一定値(ティッピング・ポイント:転換点)を超えると、地球の熱放射(宇宙に熱を放射する)の量が減少して、いわば魔法瓶の中の状態になって地球全体が高温のままの状態になる。この状態になると、太陽熱の一部を吸収しつづけることになり、地球の高温化が加速するというものである。人為的な二酸化炭素排出量を止めない限り、大気中の二酸化炭素濃度は上昇すると前回にも説明した。海水・森林が二酸化炭素を吸収する。しかし、森林は、二酸化炭素の吸収と排出については、プラスマイナス・ゼロなので長期的には対象外である。勿論、育成の仕方と200年ほどの期間内では、若干であるがプラスに働くかもしれないが、長期的循環の条件では、二酸化炭素の吸収源とはなりえない。従って、海水の二酸化炭素吸収力が頼りである。温暖化によって海水温が高くなるとともに、吸収力が低下し、限界に近づいているというのが、温暖化加速説・ティッピング・ポイント説の根拠となっているらしい。
 
 こういうこともありうるかもしれない。しかし、考えてもみろ。地球の歴史では、35億年前から25億年前の間に、シアノバクテリアが海水中で爆発的に増加し、光合成の働きによって膨大な酸素を放出した。シアノバクテリアは、現代でも大量に生存しており、光合成を続けている。爆発的に増加した原因は、海水中に二酸化炭素が大量にあったことを示している。
 
 ところで、植物には葉緑体があり、光と二酸化炭素から有機物と酸素を作る。小学校高学年で学習するから、光合成を知らないと言う人は希であろう。ところがである、この光合成というものがどのようななメカニズムなのか、どのような化学反応であるかは、つい最近までわからなかったのである。光合成について調べると、現象の説明か、せいぜい光による電気的反応程度の説明しかない。2017年、理化学研究所のSACLA(X線自由電子レーザー施設:高性能の電子顕微鏡みたいなもの)が、葉緑体中の光合成タンパク質の中に「ゆがんだイス」と呼ばれる触媒機能を持つ分子構造を特定した。水分子を分解して酸素を放出するのである。水の電気分解に似たようなものであるが、分解された水素は、二酸化炭素と化学反応を起こして別の有機物(例えばセルロース等)を生成するらしい。これだけ科学技術が発達しても、誰もが知っている光合成さえ人工的には出来なかったのだ。人工光合成システムが可能になれば、二酸化炭素の固定だけではなく、水素の生成も可能になる。エネルギー問題、二酸化炭素問題は一挙に解決する。とはいかないが、方向性を見いだすことはできそうだ。

 二酸化炭素の排出量抑制、COPだコップだと叫び、森林破壊だ消滅だ、森林が二酸化炭素の吸収源だとバカの一つ覚えのように叫ぶ世界の政府、環境保護団体なるものは、一体全体、何をしているのだ。毎年、何だかんだと集まって金を使い、結局、何も決まらない約束、決まっても守るこのできない約束を机上で作るだけである。どうせ金を使うならこういうところに金を使えと言いたくなるがいかがだろう。エネルギーにしてもそうだ。代替エネルギーだといって、自然災害ですぐに壊れ、耐久性能の低い、ちゃちなソーラーパネルや風力発電を山ほど作り、いくら作っても化石燃料の使用量は減るどころか増えている。さらに、電気自動車だそうだ。都市の大気は少しは改善されるだろうが、エネルギー使用量は増えるばかりだ。

 話が逸れて、愚痴になってしまった。愚痴の部分も、この「地球温暖化の恐怖」で取り上げてみたいが、”ティッピング・ポイント”に話を戻そう。
  
 さて、ティッピング・ポイントのもう一つの論点は、温暖化が進むと、北極、南極、グリーンランドの氷が溶け、深層海流の流れが止まって気候変動が進む、それも極端に温暖化するというものである。地球の歴史の中では、1万2千年前頃に深層海流が止まったことが知られている。「ヤンガードリアス」期と呼ばれる北大西洋で起こった気候変動である。2万年前の氷河期が終わり温暖化に向かった頃に、ヨーロッパやグリーンランドの氷床が溶けて大量に大西洋に真水が流れ込み、北大西洋の深層海流が止まった。それでは温暖化したかというとそうではなく、北半球全体が、一時的な小氷期になったのだ。それも温暖な状態から寒い状態に移行するまでに数十年という短期間で移行したという。この後、寒冷化は、1300年ぐらい続いたらしい。深層海流が長期的な気候の安定化に大きく影響していることは、わかってきている。深層海流の周期は、千数百年だから、「ヤンガードリアス」期のように、一端止まると、千数百年は気候が安定しなくなる。特に、北半球の高緯度地域は、暖かい海流が北極に移動しなくなるので寒冷化する。しかし、深層海流のメカニズムは、北極や南極の氷塊だけではなく、潮汐という月と地球と太陽に関係があることは明らかだ。温暖化が進むと深層海流が止まり、急速に地球は寒冷化すると考える方が正しいではないか。北極海や、グリーンランドの氷が溶けるのは地球を冷やそうとしているのだ。温暖化が止められなくなるという根拠にはならない。二酸化炭素濃度が高くなり、温暖化が止められなくなり、地球が金星のようになって、生命体は消滅する、それも100年後だなどの風説は、ノストラダムスの大予言みたいな話で、デマもいいところということになる。むしろ、寒冷化を心配しなくてはならない。

 ところで、ティッピング・ポイントはどうなったのだ。深層海流が止まることで、赤道付近で熱を吸収した海水の行き場所がなくなるから、赤道付近は高熱になるが、極に近い高緯度付近は、深層海流が止まったことで海水からの熱放射がなくなり、極端に寒くなる。高緯度付近の大気が冷えて収縮し、部分的に大気層が薄くなることが寒冷化の原因だ。赤道付近の高温状態も長くは続かない。極めて短期間で冷やされて、地球全体が寒冷化する。

 以上のように推測すると、ティッピング・ポイントなどはないと考える方が妥当である。「ヤンガードリアス」期の極地域の氷が溶けたのは、二酸化炭素が原因かどうかはわかってはいない。しかし、化石等から大規模な火災が発生したことは確からしいから、二酸化炭素濃度も急激に上昇したことは推測できる。彗星、隕石が衝突し、粉塵により太陽熱が遮られ寒冷化したという説もあるが、最近では否定的である。

 仮に、今世紀末に二酸化炭素濃度が極めて高くなり、地球の平均気温が現在よりも2℃以上上昇し、極の氷が溶けて「ヤンガードリアス」が発生したとすれば、22世紀初頭の数十年間で地球は急激に寒冷化する。勿論、グリーンランドや南極の陸地の氷床がとけるのだから海面上昇は避けられない。しかし、それも一時的である。寒冷化が始まると、北半球の仙台ぐらいの緯度地帯の山岳部は、全て氷河に覆われ、海面は急激に後退するだろう。「ヤンガードリアス」期のイギリスの年平均気温が-5℃というから、東京の年平均気温は0℃ぐらいであろう。とても生活できる環境ではない。およそ、日本全体での農業生産は困難となり、現在のような1億人を超える人口を支える等は不可能である。日本と同じような状態が北半球全体で起こるから、現在の先進国は全て消滅する。寒冷化は、恐怖の時代を作り出す。さて、22世紀初頭に、化石燃料はあるだろうか。寒冷化して、人口は112億人に達し、食料がなくエネルギーもない状態で、どうやって人類が生存できるだろうか。温暖化問題ではなく、寒冷化問題の方が人類にとっては恐怖ではないのか。

化石燃料は枯渇するのか?>

 ティッピング・ポイントは、学者やジャーナリズムが、人々の好奇心をかき立てるために、ウケを狙ってでっちあげたのではないかと推測できる。それでは、化石燃料枯渇の恐怖についてはどうだろう。地球上の資源が有限であることは当たり前であるから、化石燃料だって有限である。これは、誰が考えても正しい。だとすれば、化石燃料は枯渇しないという主張は嘘である。いつかは枯渇するのだ。それが50年後なのか500年後なのか、それとも5000年後なのか誰もわからないということである。実は、地球の資源が有限であるということを人々が認識し始めたのは、つい最近のことである。

 「宇宙船地球号」という言葉は、19世紀のアメリカ合衆国の政治経済学者、ヘンリー・ジョージがその著書「進歩と貧困(Progress and Poverty)」(1879年)のなかで登場させた。このときの「宇宙船地球号」は、汲めどもつきぬ「未亡人の壺」(旧約聖書)であり、資源は無限に存在すると考えた。それから90年後には、バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)が「宇宙船地球号操縦マニュアル」(Operating manual for Spaceship Earth 1963)により資源は有限にしか存在しないことを主張する。K.E.ボールディングは、「来るべき宇宙線地球号の経済学」において、開いた経済と閉じた経済という極端な経済モデルにより、社会的、経済的、倫理的価値の逆転を論じた。

  100年前と現在とでは、地球資源の有限性に対する考え方は正反対である。わずか1世紀前には、地球の資源は無限に存在すると考えられていたのだ。

 ところで、化石燃料の埋蔵資源量がどのくらいあるかについて正確にわかっているのだろうか。図-1は、エネルギー資源の確認埋蔵量を可採年数で表したものである。確認埋蔵量とは、現段階の技術と価格で経済的に見合う採取可能な資源量のことであり、可採埋蔵量とも言われる。可採年数は、確認埋蔵量をその年の生産量で割った年数である。図-1のグラフでは、石油は51年である。それでは、51年後には石油がなくなるのかと言えばそういうことはない。確認埋蔵量は、1970年代には40年程度であった。その後もしばらく40年が変わらず、2010年頃から50年と言うようになった。まあ、とりあえずいい加減で適当なのである。石油資源量の統計は、森林資源統計のように国家的統計ではない。世界の生産量の上位は、米国、サウジアラビア、ロシアの三国である。米国は何らかの資源調査を行っているが、その他の国では、企業が管理しており、資源探査も企業が行っているので、どのくらいの資源量があるかは、企業機密となっているため、本当のところはわからないというのが実態である。とりあえず、メジャーと呼ばれる石油会社の情報を基に、現在の可採可能な資源量を集計すると図-1のようになるということである。

  図-1 エネルギー資源の可採年数

 石油資源の探査には、莫大な費用がかかるそうである。そのため、探査しても予想どおりの埋蔵量が確保できなければ探査費用倒れで倒産に追い込まれることもある。可採年数がつい最近まで40年程度だったが、50年以上となったのは、オイルサンドやオイルシェールも統計に含めることにしたためである。

 地球そのものが鉄と炭素で出来ているみたいなものだから、生命体が鉄と炭素だけで生きていけるならば、資源はほぼ無尽蔵といっても良い。石油は、炭素と水素の化合物である炭化水素と呼ばれる物質である。炭素の数が1個の場合はメタン、2個になればエタン、3個ではプロパンとなる。炭素元素の結びつき方によって炭化水素の特性が変化する。石油は、炭素の数が5個以上10個程度までを言うらしい。炭素は、炭素としても存在するが、二酸化炭素や有機物・無機物の形でほぼ無尽蔵にある。しかし、水素は自然の状態では存在しない。水や有機物の中に存在する。だから、炭素と水素が含まれる有機物から石油が作られるという説は、合理的で説得力がある。有機物起源による石油生成説のことを石油有機起源説というらしい。油田地域は、大陸移動前の太古の大陸の海岸線に多く分布しており、油田からは生物化石が発見されていることから、この有機起源説が有力な仮説であった。

 これに対して、最近、石油無機起源説が有力となってきた。46億年前、地球誕生頃の膨大なメタンガスが地球内部に閉じ込められ、それが基岩部の割れ目からしみだして地下数千mで、地熱と地圧で石油に変化したというものである。これ以外にも岩石と水から石油ガスが作られることは実験的にも確かめられている。2005年に文藝春秋の日本の論点で取り上げられて話題となった。調べてみると、1870年代のメンデレーエフが始まりらしいから、かなり古くからあった仮説である。この仮説が真実であるとすれば、石油もほぼ無尽蔵に存在することになる。要は、探査・採掘技術の如何に関わることになる。

 石油生成の起源は、恐らく両方考えられるのだろう。2~3億年前の有機物を起源とする石油と、地球創成に関わるメタンガスを起源とする石油、あるいはこれらの要因が重なって生成された石油である。石油無機起源説の正しさが示されれば、石油あるいは石油ガスは、ほぼ無尽蔵と考えられる。

 石油の埋蔵量は、正確にはわからないのである。まあ、50年程度はあるということさえ確かであれば、「後は野となれ山となれ」である。今まで、何とかなってきたのだから、その先もあまり心配する必要はないということだろう。しかし、将来のエネルギー状況がこれほどあやふやな状況で、人類70億人の経済活動がよく営めるものだと考え込んでしまう。50年後に石油がなくなることが確実だとすれば、石油価格は暴騰するだろう。それが100年後であっても枯渇することが確実なら、希少性の原理から買い占めなどで高騰することは間違いない。庶民の生活で石油を消費するなどはとても考えられない価格となる。つまり、枯渇はしないと誰もが予想しているから、価格は安定しているのである。かつて原油価格が高騰した時代があった。現在も上昇しているようだが。第一次、第二次オイルショック(昭和48年、54年)の日本では、トイレットペーパーさえスーパーから消えた。その後、世界各地で油田開発が進み、ソ連の崩壊とともにロシア石油が、テキサス油田の枯渇に変わるオイルシェールの開発、カナダのオイルサンド、ベネズエラ、アフリカと次々に石油資源開発が進んだこともあって、比較的低価格で安定したが、2003年のイラク戦争を機に原油価格は上昇し、1バレル140ドルを超える価格を付けた。2008年のリーマンショックで30ドル台まで急落した。しかし、その後再上昇したが2015年以後は、比較的安定していた。先物市場と言っても、何十年も先の資源量の需給状況ではない、今よりもほんの少し先の、ほぼ現実といってよい程度の需給状況で動く価格変動である。石油資源の埋蔵量とは無関係と言って良い。

 石油市場にとっては、石油資源の可採埋蔵量が、毎年毎年、継続的に40年~50年と評価されていることが重要なのである。この可採埋蔵量の年数が短くなると、現実の需給状況で存在する市場が機能しなくなるのである。

 人間の知性というか精神というものは、何ともはかりがたいものではないか。現代社会にとって必要不可欠な基礎的資源である石油の埋蔵量が、40年~50年はもつらしいということがどうも確からしいと誰もが認識すれば、それ以上先のことは心配しないのである。もっぱら目先の利益のためだけの活動に終始する。それ以上先のことは、そのときに生きている人間が考えれば良いのだ。「後は野となれ山となれ」という思想は、人間存在の真理をついているのだ。それは、一方では、資本主義の真理であると言えなくはない。

 マイクル・クライトンは、「資源枯渇が目前に迫っていると信じている人は少しおかしい・・・」と言う。おかしいのは、資源枯渇教の信者ではなく、当面は資源枯渇がないと信じている市場経済にある。石油資源の市場が、市場を形成する企業、政府が、「現在の需給状況をみると、当面、資源枯渇にはならない」ということを相互に確信しあっているから市場が成立しているのである。市場経済というのは、たかだかこの程度のものである。市場経済は、目先の利益の追求だけに存在する。安定した市場とは、せいぜい40~50年程度の安定供給を前提条件として成立するのだ。考えてみると、人が成人し、家族を持ってから死ぬまでの人生期間とほぼ同じ年数ではないか。ある時代に生きている多くの人々が、死ぬまでに資源枯渇がなければ全てよしなのである。その後は、どうなろうと知ったことではない。

石油資源枯渇問題から見えてくる現実社会とは?

 石油資源は、当面は枯渇しない。当面とは、100年か? 200年か? いずれにしても数千年も先のことではない。技術的・経済的限界に近づいていく。埋蔵量自体は、ほぼ無限であったとしても、探査・採掘可能な技術を開発できないのである。しかし、石油資源の市場では、可採可能な埋蔵量は40年から50年と評価し続ける。石油資源が世界の主要なエネルギー資源であるかぎり、石油会社や産油国は、確認埋蔵量を減らすことはない。そして、Xdayが突然訪れる。テキサスの油田が枯渇したと同じようなことが世界の産油国で発生する。

 話は変わるが、イギリス、ドイツ、フランスは、2040年までに完全に電気自動車への転換を進めるそうだ。といっても、EVだけではなく、HV、PHVも含めて電気自動車と言っているから、ハイブリッド車が対象とみて良い。HV、PHVにはガソリンエンジンが搭載されているから、排気ガスがなくなるわけではない。仮に、完全に電気自動車(EV)に転換すると、電力供給量を今の50%以上にしなければならないという試算も出ている。安定した電力供給を前提とすると、太陽光、風力発電では無理だそうで、火力発電所と送電線網の追加が必要になるらしい。その投資額が、イギリスで10兆円以上、日本ならば50兆円以上と推定されるという。何ともばかばかしい話だ。石油資源の消費量が減ることはなさそうである。電気自動車が、科学技術の進歩の結果だと考える愚かしさと、それを利用しようとする政治と経済こそが、地球温暖化に潜む恐怖である。

 地球温暖化問題には、石油資源経済というグローバルな経済システム、国益の名の下にうごめく世界政治、エネルギー消費から逃れられない自動車産業、増え続ける電力需要を抱えた電力企業、等々、我々の日常とかけ離れた巨大システムがその解決のカギを握っている。例えば、電力消費は、家計部門が多いから、エコな生活を送りましょうと叫んでみても、現実社会では電力消費量を減らすような動きは何処にも見られない。国家を挙げてEVの普及をする等は、まさにその典型的な例である。電力消費量を今の半分に減らすことが出来たとしたら、全ての電力会社は、破産するか、電力料金を今の倍にしなければならない。第二次世界大戦後、世界の先進国の国家目標は、経済成長であった。鉄は国家なり、電力こそが成長のカギだと叫んだ。
 
 二酸化炭素濃度を抑制する、つまり、石油消費量を減らす等は、到底不可能である。二酸化炭素濃度は減らない。地球が温暖化するとは限らない。気候変動は二酸化炭素濃度とは無関係に発生する。これが現実であり、これまでの考察の結論である。クライトンが2004年に考えたことにも間違いはあるが、15年経ったが大方は正しそうである。クライトンと共通の感慨は、「自由にものが言えない社会」になっていることだ。地球の温暖化の恐怖の第三弾は、この「自由にものが言えない社会」の恐怖をとりあげてみよう。
                                                                  2018年7月16日

2019/05/28

堕落論2018 恐怖の思想-地球温暖化の恐怖 1-

  マイクル・クライトンという作家をご存知だろうか。映画「ジュラシック・パーク」の原作者、テレビドラマ「ER緊急救急室」の脚本家と言えばおわかりだろう。クライトンが2004年に発表した「恐怖の存在」という小説がある。環境テロリストの暗躍とその謎の究明をテーマにしたサスペンスで、結構面白い。この本の下巻387ページに「作者からのメッセージ」という一節がもうけられている。クライトンは、この本を書くために、3年間、環境問題の関連書を大量に読み込んだという。私も、1990年から環境問題に足を踏み入れた。1997年12月には、京都でCOP3が開かれ京都議定書が採択されたから、2000年前後は、地球温暖化問題が世界的なテーマとして浮上した時代である。
 クライトンの小説「恐怖の存在」は、地球温暖化という誰もその真実を究明できない問題に我々はどのように向き合うべきかを問うた。「自由にものが言えない」時代の到来である。
 この「自由にものが言えない」という風潮は、私感であるが2000年前後から始まったと思われる。1989年のベルリンの壁の崩壊、その後のソ連共産主義体制の終焉により、自由主義経済が最善のものであり、資本主義の勝利だという主張。そして到来した環境至上主義の時代である。今や、世界的に「自由にものが言えない」は、当たり前になりつつある。自由主義はどこにいった。
 
 クライトンの「作者からのメッセージ」を要約すると次のようなものである。
地球温暖化問題について>
 ○二酸化炭素の増加は、人間の活動にその原因がある。
 ○地球の気候は、小氷期(1850年頃に終わった)以後、温暖化に向かっていて、現在もその
    過程にある。
 ○現在の温暖化が、自然現象なのか、人間の活動によるものなのか、誰もわからない。
 ○これから温暖化がどれだけ進むか誰もわからない。
 ○温暖化は人間の陸地の利用によるものだ。
 ○気象モデルにより政策を決定する前にモデルの検証に時間をかけた方が良い-10年か20
  年-
<化石燃料について>
 ○200年間「資源枯渇が目前に迫っている」と言っているが、このような警告に惑わされ、
      信じている人間は少し変だ。
 ○資源枯渇が人間の様々な計算に根深く浸透していることは確かだ。
 ○温暖化問題がなくても、化石燃料から別のエネルギーへの切替は、来世紀には進むだろう。
 ○2100年の人口は、現在よりも減っており、22世紀にはもっと豊かになり、より多くの
      エネルギーを消費し、ずっと豊かな自然を満喫している。
 ○こういった問題を心配する必要はない。
<安全について>
 ○安全に対する現在のこだわりは、ヒステリーに近い。
 ○このこだわりは、資源の浪費であり、人間の精神を萎縮させる。
 ○最悪の場合、全体主義に通じかねない。この点を啓蒙する必要がある。
<環境問題について>
 ○持続可能な開発や予防措置等の環境基本方針は、先進諸国の経済的優位性を維持し、発展途上国
     に近代帝国主義の尻ぬぐいをさせるものだと結論する。
 ○予防措置は自己矛盾だ。予防措置を適切に運用した場合、予防措置自体を実行できなくなる。
 ○環境問題に対する人々の純粋な善意が蝕まれている。偏見、意図的な考えの歪曲、もっともらし
      い理由付け、きれいごとでごまかした私利追求、意図したとおりに進まないこと等があるため。
 ○世界は変化している。しかし、イデオロギーと狂信者は変わらない。
 ○科学はすさまじい変革の中にあり、進化と生態環境に関する考え方は大きく変わったが、いまな
      お環境活動家は、1970年代の知見と論法にこだわっている。
 ○自然保護の方法はまったくわかっていない。フィールド研究の形跡は見当たらない。足を引っ張
  っているのは環境保護団体だ。デヴェロッパーといい勝負だ。違いは強欲か無知かという点だけ
  だ。
 ○生態系を訴訟で管理することは不可能。
 ○自然環境ほど政治的なものはない。環境を安定的に管理するためには、全てのステークホルダー
  の参加を認めなければならない。
 ○政策研究には、研究者が公平中立を維持し、ひもつきでない資金を使える仕組みが必要。
 ○公正で偏りのない研究成果を許容する出資者など、この世には存在しない。
 ○環境の開発者には、環境保護団体、政府機関、大企業が含まれる。これらの全てが等しくスネに
  傷を持つ身だ。

 地球温暖化問題は、政治、経済、社会、環境、科学技術という、いわば人間の活動の全ての分野が引き起こしている問題であり、その構造は極めて複雑である。行き着く先は、「進歩とは何か」という思想的・哲学的問題となる。そこへ行く前に、まず、地球温暖化問題とは何かから始めよう。

地球温暖化問題とは何か☆

 地球温暖化が問題となるのは、1988年にIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が設立された以後であると考えられる。温暖化ガスに関する学術的研究は、1930年代には既に研究論文が発表されているので、二酸化炭素やメタンガスの温暖化効果は、既知のものであった。政治的に大きく取り上げられるのは、1992年のリオ会議(地球サミット)で採択され1994年に発行された気候変動枠組条約以後のことであると思われる。具体的な削減目標が設定されたのは、2007年の京都会議(COP3:第三回気候変動枠組条約締約国会議)である(京都議定書)。以来、以来2017年のボン会議まで23回(COP23)開催されている。環境問題に関する国際連合の取組は、少し複雑であり、公害、生物多様性、湿地の保存等多岐にわたっている。環境問題をこれだけ細分化し、誰が何をしようとしているのかが非常にわかりにくい。ここらへんにも、環境問題を政治的・経済的に利用しようという意図が感じ取れる。
 さて、それではこのような国際的な問題として取り上げられる地球温暖化問題とは何かである。大まかに次のように整理されよう。

(1)大気中の二酸化炭素濃度の上昇は人為的なものか?

 産業革命以後、化石燃料の消費量が急激に増加した。と同時に工業化の発展・経済成長、農業革命等により人口、化石燃料の消費量が急激に増加した。人口増加、経済成長により農地開発、都市開発、森林減少が進み、これらが原因で大気組成の二酸化炭素濃度が上昇した。以上のことはほぼ確かであるが、二酸化炭素排出量には構造的な問題があるのではないのだろうか。二酸化炭素排出量と大気中の二酸化炭素濃度との関係を見てみよう。

①世界の二酸化炭素濃度の推移を、電気事業連合会が公開しているグラフ(図-1)で見てみよう。


               図-1 二酸化炭素濃度、排出量の推移(電気事業連合会HPより引用)

 産業革命以後の1900年頃の二酸化炭素濃度は300ppm程度であったが、第二次世界大戦以後急激に増加し、2006年には382ppmにまで上昇した。2018年の最近の発表で400ppmに達したと報告されている。化石燃料の消費量及び二酸化炭素排出量は、第二次世界大戦後に急激に増加した。このグラフをみると、化石燃料の消費に伴う二酸化炭素の排出量の増加と大気中の二酸化炭素濃度の増加には明らかに関係性が見られる(相関がある)。

 ②人口増加についても図-2で見てみよう。2050年、2100年の人口は推計値である。
 1800年代の人口は10億人程度であったが、第二次世界大戦以後急激に増加し、現在では70億人と約200年で7倍となった。最近の発表では、今世紀末には112億人になると予想されている。

           図-2 世界の人口

③以上の三種類のデータをみると、「人口の増加によって化石燃料の消費量が増加し、それと同時
 に化石燃料に起因する二酸化炭素排出量が増加した。その結果として大気中の二酸化炭素濃度が増
 加した」と解釈することができる。しかし、本当にそうなのだろうか。つまり、人口の増加が原因
 なのだろうか。化石燃料の消費増大の要因は、単純に人口増加だったのか。
  これらの単純なデータだけからでは判断は難しいが、推理の方法はある。図-3は、これま
 でのグラフを人口1億人当たりの二酸化炭素排出量と二酸化炭素濃度に置き換えたものであ
 る。グラフから数値を読み取っているので相当な誤差があることはご容赦願いたい。
  図-3 人口1億人当たりの二酸化炭素濃度及び化石燃料からの排出量

 化石燃料に起因する人口1億人当たりの二酸化炭素排出量は、1850年と比較すると2000年には12倍以上となっているが、大気中の二酸化炭素濃度は、2000年には1850年の1/3程度に減少している。化石燃料由来の二酸化炭素排出量は、人口の増加速度以上に増加しているらしい。特に、第二次世界大戦以後現在までの人口1億人当たりの排出量はかなりの速度で増加している。一方、人口1億人当たりの大気中二酸化炭素濃度は、1850年以後一貫して減少である。二酸化炭素排出量が増加し、大気中濃度が減少しているということは何を意味しているのだろうか。考えられる要因は一つだけである。化石燃料使用量が人口の増加に比例して増加していないことが図-3という結果の原因と考えられる。つまり、人口増加に見合うだけの化石燃料を使用していれば、大気中の二酸化炭素濃度もそれに比例して増加しなければならないが、そうはなっていないことによる。図-3のような静的な分析では、ここら辺の状況を把握することは難しい。そこで、動的、つまり時間の変化量で分析してみよう。図-4は、50年間の変化量として、年間二酸化炭素排出量、二酸化炭素濃度、人口の各増加量を基に、増加人口1億人に対する排出量、濃度の増加量をグラフ化したものである。

図-4 人口1億人の増加に対するCO2排出量、CO2濃度の増加量

 図-4のグラフから、二酸化炭素排出量の50年毎の人口1億人当たり増加量は増加傾向を示すが、二酸化炭素濃度の増加量は、1950年までは同様に増加傾向を示し、1950年以後は減少に転じている。排出量増加分の増加率が、1900年は1850年の2.4倍、1950年は1900年の1.7倍、2000年は1950年の1.5倍と、排出量の増加率が鈍化しているのに対して、人口増加量増加率は、1950年は1900年の1.6倍、2000年は1950年の4倍と極端に増加した。このことが、図-4の人口1億人当たり二酸化炭素濃度が1950年以後減少となる原因である。
 化石燃料の消費量が鈍化している要因は、イノベーションによって燃料の消費効率が高まっていることが挙げられるが、それ以外に人口増加の背景も要因となっていると考えられる。人口増加の構造に問題がありそうである。1950年までは、排出量の増加と二酸化炭素濃度は、ほぼ連動して増加している。このことは、産業革命以後、1950年までは、主に工業先進国で人口が増加していたと考えられる。ところが、1950年以後は、発展途上国、低開発国で人口が増加し、化石燃料の主たる消費国である先進国での人口増加はあまりなかったのではないかと推測できる。先進国は、化石燃料を使って生産した商品を低開発国に輸出する。低開発国は、開発支援を先進国から受けて豊かになり栄養状態が向上して人口が増加する。人口増加の構造は1950年を境に変化したと考えられる。グローバリズムという資本主義の拡大は、人口構造に影響を及ぼし、化石燃料の消費構造にも影響を及ぼした。人口増加と経済成長、グローバル化に関する研究が必要である。

(2)化石燃料由来の二酸化炭素排出量はどの程度大気中に残留するのか?

 化石燃料由来の二酸化炭素排出量の全てが大気中の二酸化炭素濃度に反映されるわけではない。海水に吸収され、海水循環をとおして地球内部に入り分解される。二酸化炭素排出量のうち大気中にとどまる割合は、50%以下だと言われている。
 そこで、1900年から2000年までの100年間の二酸化炭素濃度の上昇分に相当する二酸化炭素重量と、その間の石油消費量との関係を試算した。算出方法は、気体の状態方程式(高校化学程度の知識)と簡単な数学だけである。問題を単純化するために、下記のような条件で計算することとした。
<試算条件と結果>
 ☆図-1のデータを利用し、二酸化炭素濃度の増加分を下記のように算出する。
  1900年の二酸化炭素濃度:300ppm
      2000年の二酸化炭素濃度:400ppm
      1900年に比べて2000年には100ppm増加したとして、増加分の二酸化炭素重量を算出
  する。
      ○二酸化炭素が大気中に拡散する場合の標高は、最低で5千m、最高で1万m
  ○大気圧は二酸化炭素の拡散層厚5千mの場合、平均800hPa、1万mの場合、
   平均600hPa。
  ○二酸化炭素の拡散層厚が5千mの場合、平均温度は絶対温度273度、1万mの場合は
        258度(地球表面の平均気温は15度C)。
  ○算出結果(二酸化炭素の増加分100ppmの重量)
        拡散層厚5千mの場合:約3千億t
                        1万mの場合:約4千7百億t
                                   平均すると約4千億t
 ☆図-1のグラフから化石燃料由来の二酸化炭素排出量について1900年から2000年までの
  排出量の総量を算出する。
  ○グラフから1900年、1950年、2000年の数値を読み取って単純グラフ化して算出。
  ○1900年~2000年二酸化炭素排出量の合計は、約9千百億t。

 以上の試算結果を考察すると下記のとおりである。
 ☆1900年から2000年までの二酸化炭素濃度は100ppm上昇し、この増加分の二酸化炭 
  素重量は約4千億tである。
 ☆1900年から2000年までに化石燃料に由来する二酸化炭素排出量増加分は約9千百億tであ
  る。
 ☆1900年から2000年までに地球上で排出された二酸化炭素の約42%が大気中に残留し、
  残りの58%は海水等に吸収されたかあるいは森林・植物の光合成により吸収されたと推測され
  る。
    
 化石燃料に依存したエネルギー利用を仮に1950年ベースにまで落としたとしても、大気中の二酸化炭素濃度は確実に上昇する。2000年現在(400ppmとして)、大気中には約1兆6千億tの二酸化炭素が残留しており、自然条件化では新たな二酸化炭素の排出量をゼロにしない限り、二酸化炭素濃度が減少するとは考えにくい。仮に、化石燃料の使用量をゼロとした場合、二酸化炭素濃度を1900年ベースの300ppm程度まで落とすには、どれほどの年数が必要かという試算はどこにも見当たらない。試算してみよう。1900年から2000年まで大気中の二酸化炭素は4千億t増加した。海水等に吸収された二酸化炭素は、排出量増加分からこの4千億tを差し引いた5千百億tである。100年間で吸収したので100で割ると、年間51億t吸収可能である。大気中の二酸化炭素増加分の4千億tが年間51億tづつ吸収されるとすれば、約80年となる。今後、化石燃料の使用量をゼロとしても、1900年の二酸化炭素濃度にまで落とすためには80年を要することになる。ということは現状の二酸化炭素濃度で維持するためには、毎年の化石燃料使用量を二酸化炭素排出量51億tベースとなる1950年代にまで落とさなければならない。現在の使用量を80%減少させるということになるだろう。二酸化炭素の吸収のメカニズムは未だわからない点が多く、こんな単純な計算では無理かもしれないが、現代のグローバルな経済状況をみると、二酸化炭素濃度を現状ベースで維持することなど到底不可能である。二酸化炭素濃度は、化石燃料の消費を止めない限り増加し続ける。これがティッピング・ポイントということである。もはや、パリ条約ごときの二酸化炭素排出量抑制策では、大気中の二酸化炭素濃度を低下させることなどは不可能なところまできたということだ。

 それにしても、IPCCや環境省というのは地球温暖化について何とももどかしい表現しか使っていない。研究者の論文やレポートにしてもそうだ。高校レベルの数学、簡略化すれば中学レベルの化学と数学の知識で、化石燃料の消費量が二酸化炭素濃度に及ぼす影響を推定することができるにも関わらず、専門的用語、わけのわからない都合の良いグラフをひけらかして、環境問題の専門家が言うのだからまかせておけという。傲慢である。これこそが、知性の堕落なのである。

(3)地球は温暖化しているのだろうか?

 さて、大気中の二酸化炭素濃度は、400ppmを超えていると推定されるが、それではこのことが原因で地球全体が温暖化しているのだろうか。地球の平均気温の変化を、図-5のグラフで見てみよう。
 このグラフは、気象庁が公開しているものであり、地球の年平均気温(陸域における地表付近の気温と海面水温の平均)の偏差を示している。赤線は、直線で回帰したものであり、100年間で0.73℃上昇したことを示している。
  このグラフからわかることは以下の三点だけである。
①1900年以後、確かに、地球の年平均気温は、上昇傾向を示している。
②しかし、何故か、1950年前後から30年間だけは、ほぼ変化のない安定した期間を示してい
 る。1950年前後は、前述のように化石燃料の消費量が増大する変曲点に当たっている。
③1915年頃から1935年頃までの20年間は、一定率で上昇している。
 
 以上のことと二酸化炭素濃度の上昇との関係は、このグラフだけでがわからない。

                  図-5 気象庁が公開している地球の年平均気温

 そこで、二酸化炭素濃度と年平均気温との関係のグラフを探した。図-6のグラフは、小川氏(名古屋大学名誉教授)が作成した、二酸化炭素濃度、年平均気温偏差、太陽活動との関係のグラフである。このグラフをみる限り、1985年頃までは、二酸化炭素濃度と年平均気温との関係は、無関係である。むしろ、太陽活動と年平均気温との関係が見られる。1985年から2003年頃までの期間は、二酸化炭素濃度と年平均気温に関係がありそうであるが、2003年以後の年平均気温の低下は、太陽活動の低下と関係しているように見える。

                          図-6  小川氏作成の地球気温変化
 どうも、地球の気温は、この程度の二酸化炭素濃度の変化ではあまり大きな影響を受けないのではないかとも考えられる。
 図-7を見ていただきたい。このグラフは、ドームふじ基地(南極の4つの基地の一つであり氷床コアの調査地である)の分析結果を「東北大学大学院理学研究科大気海洋変動観測研究センター」のHPで公開していたものを引用した。過去35万年の氷床コアを分析すると、10万年~13万年の周期で温暖期となり、その間は氷期になっている。南極で温暖期と氷期の温度差は、15℃である。このことは、氷期には地球の年平均気温は0℃であったことになるから、ものすごく寒かったはずである。温暖期はせいぜい2万年程度しか続かず、急激に氷期に移行している。温暖期と氷期の変わり目は極めて短期間に起こっていることがよくわかる。このグラフから、現在の温暖期は既に終わっており、あと2~3千年後(数百年後かもしれない)には、地球はものすごく寒くなるとも見て取れる。
 
                        図-7 南極ドームふじ基地の氷床コアの分析結果

  大気中の二酸化炭素濃度もメタン濃度も同時に上昇しているが、よくみるとやや気温の上昇の方が先行している。つまり、地球気温が上昇し始めると少し遅れて(数百年程度か?)二酸化炭素やメタンの濃度が上昇し始めることを示している。また、いずれの温暖期にも、二酸化炭素の濃度は300ppm程度がピークになっている。この二酸化炭素濃度は、南極の濃度であるから、地球全体の濃度、あるいは北半球の濃度となると、かなり高くなると考えられる。ひょっとしたら倍近くになるかもしれない。
 さらにもう一つグラフをみてみよう。図-8のグラフは、国立極地研究所が公開しているグラフである。グリーンランドの氷床コアの分析結果である。

       図-8 グリーンランドの氷床コアの分析結果による地球温度の変化

  一番下のグラフは過去4000年の変化を示したものだが、紀元前2000年頃から1000年頃までの3000年間は、かなり高温であった。1000年頃から現在まで小氷期に近い低温期であったが、最近はやや高温期に入っている。それでも1300年前(奈良時代頃)の高温期に比べたらかなり低い。

 公開されているデータからみると、地球気温の変化を100年程度の短期的変動で推定することは難しいことがわかる。勿論、統計的な気象観測というものが確立したのは、せいぜい50年前ぐらいだから、それ以外は、全て推定やシミュレーション、氷床コアの分析に依らざるをえない。大気中の二酸化炭素濃度が高くなったから、地球気温が上昇したという因果関係を説明することは、極めて難しいことが、これだけのデータでもよくわかる。地球シミュレーションによれば因果関係が認められると説明する研究者がいるが、二変数間の相関を基にしたシミュレーションは信用できない。気候変動に関連する変数の数は、膨大なものであり、その関係は極めて複雑である。数学では三体問題(三変数間相互に関係がある場合)が解けないのは常識である。

 さて、ここで、冒頭で取り上げた、マイクル・クライトンからのメッセージに戻ってみよう。まず、地球温暖化問題であるが、二酸化炭素等の温暖化ガスの排出量が増加してはいるが、これが原因で地球が温暖化していると断定するためには科学的根拠に乏しく、現段階では因果関係があるとした議論は正しくない。誰にもわからない。しかし、陸域の偏った土地利用(大都市への人口集中と化石燃料の大量消費)がもたらす様々な局地的気候変動は増加すると考えられる。氷床コアの分析等によっても、地球が寒冷化に向かうと考える方が妥当である。これも21世紀末に寒冷化するわけではない。数百年から数千年の間に急速に寒冷化するのではないだろうか。寒冷化の原因についても解明されていない。 
 二酸化炭素濃度が上昇するスピードは、現在の化石燃料消費量水準で推移するとした場合、年間2ppm程度のスピードで上昇する。しかし、酸素濃度は目立って減少しない。大気中の二酸化炭素量に比べて酸素量が圧倒的に多いためである。100年後には、二酸化炭素濃度は600ppmに達していることになるが、この程度の濃度では人体への影響はない。喫煙者の血中二酸化炭素濃度はこんなものではないだろう。さらに、大都市部の居住者の血中濃度も相当に高いはずである。問題は、エネルギー全体の利用量が、都市部を中心に急激に増加することだ。ヒートアイランド現象の影響である。地球がその前に一時的に寒冷化すると、大気中の二酸化炭素濃度は最大100ppmほど減少すると考えられるが、二酸化炭素濃度が500ppm以下に下がるとは考えにくい。化石燃料由来の二酸化炭素排出量を完全にゼロにするための方策があったとしても、使用エネルギー量が減少しない限り、地球は局地的に暖め続けられ、熱放射は増大する。二酸化炭素濃度が1000ppmになったとしても健康不安は少ないと言われている。当面、二酸化炭素濃度による問題はないと考える方が妥当である。

地球温暖化と二酸化炭素濃度の増加は別問題なのか?

 以上のように、現段階では別問題であると考えた方が科学的である。地球温暖化というよりは、気候変動の問題である。今回のような記録的豪雨は勿論、大規模山火事、干ばつ等、世界で局地的に発生する気候変動は、予測さえ困難である。今回の記録的豪雨などは一週間前には予報さえ出ていなかった。気候シミュレータは、どうなっているのだ。アメリカの大規模山火事にしても予測さえ困難である。二酸化炭素濃度の増加と地球温暖化を結びつけ、さらには局地的気候変動にまで関連づけ、地球規模での対策をとろうとする背景には一体何が存在するのだろうか。
 今や、地球温暖化問題に異を唱えれば異端者である。それを考えれば、「もったいない学会」等はがっばっている方だ。IPCCは、二酸化炭素排出量を今世紀末にはゼロにすると言っているそうである。どんなエネルギーをもってそれを可能にするのか。そんなものは、科学的にまだ発見されていない。科学者からは、何の異論もあがっていない。そうであった、学者、研究者は、既に堕落しているのであった。地球温暖化問題、二酸化炭素問題は、誰も何も言えないという社会を地球規模で作り出した。かつての優生学と同じである。劣等な人間は、断種してしまえ。劣等人種は、皆殺しである。当時の巨大資本・企業はこぞって優生学を支持した。地球温暖化問題、二酸化炭素問題は、ナチのホロコーストの思想が、形を変えて出現したのである。グローバル企業が競って地球温暖化問題を取り上げているのも、当時と同じである。ナチと同じようにドイツ、イギリスを中心とした、優生学的思想の系譜だ。第二次世界大戦後、その思想は消滅したと考えられていたが、思想の根底は消えていなかった。
 地球温暖化問題の根は深いところにある。地球温暖化問題の第二弾は、資源枯渇問題に触れてみよう。ここにも恐怖が存在する。

                                2018年7月8日
2019/05/28

堕落論2018 恐怖の思想-序-

「恐怖の思想」

 人に限らず、全ての動物にとって「恐怖」は、生と死の境界に位置する唯一の感情である。
 恐怖による人間の支配は、今に始まったことではない。人が人を支配する根本原理は「恐怖」である。「俺に刃向かえば殺す」、「法に背けば死刑だ」、「我が国は原爆を持っている」等々、レベルは違うが、恐怖が最も有効な支配手段であることは疑いようがない。会社でも同じだ。言うことに従わなければ左遷になるし、首になるかもしれない。組織管理と言えば聞こえはいいが、どんな管理手法を用いようと、衣の下には「恐怖」という鎧がある。マネジメントサイエンスの基本原理としての「恐怖」の存在は真理である。

 刑法、民法、商法等々の法理論は「してはならぬ」を原理とする。違反すれば、罰則により処罰される。罰則という恐怖によって国民を規制し、社会秩序を保つ。社会秩序の根本原理も「恐怖」である。

 一方、人間にとって、恐怖は生きるために必要な感覚でもある。現代人の恐怖に対する感度は、昔の人間に比べてかなり低くなったと言われる。恐怖に対する鋭敏性を失った人類は、絶滅の道をひた走ることになるかもしれない。「恐怖」は、人類生存のための原理でもある。

  「恐怖」は、個人の感性において最も鋭敏であり、生存の原理であるがために、政治的、経済的、社会的支配論理の根本原理ともなる。「恐怖の思想」とは、政治的・経済的・社会的人間支配の思想であり、人類生存の根本思想でもある。
                          
現代の恐怖

 現代における政策目標の第一は、「安心」、「安全」である。「安心」は、不安の少ない社会であり、「安全」は、危険な目にあうことの少ない社会のことだろう。こんな社会が実現できるかどうか、はなはだ疑問である。自然災害をできるだけ少なくしたいということならばわからぬわけではない。堤防を作り洪水被害を防止し、津波の被害を最小限に抑えようということである。だが、国民全体の漠然とした不安を解消するなどは到底不可能である。例えば、自由、平等、平和、正義等は、よく見られる政治的スローガンであり、哲学的、思想的、歴史的には議論し尽くしている。しかし、安心、安全となると、議論、究明の余地のない単純な概念であり、国家目標とするにはあまりにも幼稚なものとなる。

 日本語では、不安と恐怖は異なるという。不安は、恐怖の対象がはっきりしない漠然としたものであり、恐怖は対象がはっきりしているというのである。キルケゴールの実存哲学の受け売りだろう。英語では、不安も恐怖も同じだ。不安と恐怖は、恐怖感の程度の差でしかない。Fear、Anxious、Worry、Terror等々であるが、このうちTerror(テロ)だけは不安どころではない恐怖である。健康不安と言えば、いつ病気になるかわからない不安であるが、病気に対する恐怖とも表現できる。死に対する不安は「死の恐怖」である。しかし、両者には微妙な違いが感じられる。例えば、健康不安は、病歴があって普段から健康に注意しなければ病気になるのではないかという不安である。人の恐怖感には様々なレベルがある。日本語でも、不安、心配、気がかり、畏敬、恐れ等で表現される言葉がある。恐怖以外の感情と恐怖とが重なりあった複雑な感情を表現するものとなる。しかし、これらの複雑な感覚の第一には恐怖がある。恐怖=死への感覚を核にその他の感覚が複雑に関連するのである。「恐怖の思想」とは、人間の生存に関する恐怖の政治的、経済的、社会的問題に関する考え方である。
 現代社会における「恐怖の思想」として、「地球温暖化」、「民主主義」、「資本主義」、「科学技術」の4つの問題について考えてみよう。


 まず、最初に「地球温暖化問題」を取り上げる。1997年12月、京都議定書が採択された。地球規模で二酸化炭素排出量削減に取り組むというものである。2000年前後には、二酸化炭素による地球温暖化は本当なのかという議論が巻き起こった。二酸化炭素濃度、地球の平均気温計測、地球シミュレータに対する疑問等、どちらかと言えば科学的・技術的な曖昧さ、不確かさについての問題であったが、それよりも誰にもわからない地球文明の破滅というシナリオを政治的手段とすることに対する強い警戒感でもあった。

 二酸化炭素の排出量は、第二次世界大戦後から急激に増加している。人口増加と科学技術の進歩によるエネルギー消費量の増加が主な要因である。二酸化炭素濃度の急上昇は、地球温暖化の原因となり、地球規模の気候変動によって深刻な被害がもたらされる。そのため、化石燃料の消費量を抑制し、再生可能エネルギーに転換する等の対策を行うというのが地球温暖化対策である。

 二酸化炭素濃度はどこまで上昇するのか。二酸化炭素濃度がどの程度になると人間は死ぬのか。二酸化炭素を固定・吸収する方法はないのか。森林は二酸化炭素の吸収源となりうるのか。等々、二酸化炭素の排出・吸収に関しても様々な疑問がある。

 地球温暖化はどこまで進むのか。小氷期に向かう気候変動とどのように関係しているのか。気候変動はどの程度のものになるのか。海面上昇を止めることはできるのか。ティッピング・ポイントは本当にあるのか。等々、気候変動がどうなるのかさえわからない。

 代替可能エネルギーは、本当に利用されているのか。代替可能エネルギーで現在のエネルギー需要をまかなえるのか。代替可能エネルギーを効率的に利用するためにはどれほどの投資が必要なのだ。自動車を全て電気自動車に転換する、本当にできるのか。等々、エネルギー問題もわからないことばかりだ。

 一体全体、誰もわからない問題にどれほどの税金が投入されているのだ。投資効果はどれだけあがったのだ。来たるべき海面上昇、二酸化炭素濃度上昇に対して、真に取り組むべき対策は、他にあるのではないのか。この20年間の対策はほとんど無意味だったのではないか。等々、COPや我が国の取組についてもわからないことばかりだ。

 二酸化炭素濃度の上昇を疑うのではない。疑うべきは、対策の愚かしさ、愚策についてである。人類生存に関わる恐怖として、様々な角度から迫らなければならない。とりあえず、迫ってみよう。世界の堕落の行き着く先をみるかもしれないのだ。

民主主義に潜む恐怖

 民主主義の歴史は古く、ギリシャ時代に遡るから約2,400年前である。それ以前の文明に存在したかどうかはよくわかっていない。世界4大文明は、紀元前3000年頃に誕生した。なかでも、メソポタミア文明には、最古の法典であるウル・ナンム法典、ハンムラビ法典がある。およそ紀元前2000年頃のものである。ギリシャ文明における民主制の誕生が紀元前500年頃とすると、法制度が発明されてから民主制が誕生するまでに1500年を要している。ギリシャ文明も300年ほどでローマ文明へとその舞台を移す。ローマ文明は、共和制から皇帝制へと移行しつつ西暦400年~500年頃に西ローマ帝国の滅亡で西ヨーロッパ地域の覇権を失う。西暦400年頃からルネサンス期の1400年頃までの約1000年間のヨーロッパは、ゲルマン民族であるフランク族の定住、北からの民族移動、イスラムの勃興、キリスト教の興隆等々、宗教的教義を規範とする封建制国家へとめまぐるしく変化する。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という起源を同じくする宗教間の熾烈な覇権争いであり、宗教哲学と政治・経済・科学との分離の産みの苦しみと言うことも出来よう。ルネサンス期に入ってどうやら形而上的呪縛から解き放されたが、一方では、宗教的霊性と人間の理性、知性との関係に哲学者が悩み続けることになる。ローマ時代初期、つまり、キリスト教の誕生ともに民主主義は文明から姿を消した。民主主義が再び歴史に登場するのは、1789年のフランス革命であろう。現在、我々が使っている「左派」という言葉は、この時代のフランスで生まれた。議会の左側に革命を主導したジャコバン派が座ったことに由来する。しかし、このジャコバン派の粛清はすさまじく恐怖政治と呼ばれる。19世紀には再び王政が復興するが、18世紀の絶対王権と異なり、制限付ながら民主制となった。議会制の歴史を見ると、イギリスが13世紀には王政の元で議会制を採用しているが、現代の民主主義とは異なる。現代の民主主義に近いのは清教徒革命以後の18世紀にはいってからと考えられる。近代民主主義は、西欧では概ね18世紀半ばに形作られたと考えられ、せいぜい250年の歴史とみてよいだろう。日本では、明治20年の帝国憲法の制定以後であるから130年程度と、西欧の半分の歴史でしかない。

 ギリシャ時代の終焉とともに民主主義は効力を失い、2000年の時を経て再度復活する。この2000年間に帝国制、封建制、王政、君主制等々、どちらかと言えば支配者側に好都合な統治制度の実験が続いた。民主制は、権力層には都合が悪いのである。しかし、250年もああでもないこうでもないと民主制、民主主義を続けてくるとその思想にも、ほころびが見え始めた。最初の民主主義の失敗は、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までの20年間である。第二次世界大戦の終結で一端修復されたかに見えた。我が国では、見よう見まねの戦後民主主義なるものが戦後復興、人口増加を伴う経済成長とともにあたかも真の民主主義であるかのように現在まで継承された。果たしてそうであったか。バブル経済崩壊後の政治、経済、社会を振り返ってみよ。

 現代日本における民主主義とは何かを問わなければならない。「恐怖の思想」の第二弾は、戦後民主主義に潜む恐怖である。

資本主義に潜む恐怖

 1998年、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義、社会主義体制が崩壊した。中国は、1978年に鄧小平により改革開放路線が決定され、社会主義体制下での経済の自由化(価格の自由化)が進められたが、現在の経済成長につながるのは、ソビエト連邦の崩壊以後である。
 資本主義を英語では、Capitalismと言うが、語源はCap=頭である。資本を持っているものがCapとなることを意味する。資本主義の特性を論じたのは、アダム・スミスでありマルクスであった。勿論、彼らだけがこの仕組みがなんであるかを論究していたわけではない。18世紀以後現代にいたるまで、資本及び資本主義の特性については、自由放任、市場ルール、公共経済等々、議論、議論の連続である。今や、アメリカ社会は、国民の僅か1%に大部分の所得が集中する資本主義社会の堕落の極致となった。資本主義は、ルールなしの自由な社会では、放っておけば富める者はますます富み、貧しき者はさらに貧しくなる。経済の歴史がそれを示している。それでは、ルールがあれば貧富の格差は縮まるのだろうか。現代社会には、様々なルールがあるが、それでもアメリカのように貧富の格差は埋まらず、さらに広がっている。19世紀、20世紀初頭の金持ちは、基本的に悪い奴だった。だます、脅す、賄賂を使うは当たり前であり、邪魔な奴は殺してしまう。マフィア、やくざ等々もびっくりであり、政治権力とも密接につながっていた。この伝統は、今もあるかもしれないのだ。資本主義の反対は共産主義である。しかし、共産主義経済がうまくいかないことは、ソビエト連邦の崩壊、中国共産党の経済政策転換が示した。資本主義は、どのようなルール作りをしようと、人間の欲望と堕落をその源泉とする限り、自己崩壊へと転落する恐怖を内在している。「恐怖の思想」の第三弾は、資本主義に潜む恐怖である。

科学に潜む恐怖

 人工知能=AI、ひも理論、新たな物理学、分子生物学、バイオテクノロジー、宇宙科学等々、新たな科学的発見だと喧伝される。人工知能については、以前、説明したとおりである。21世紀になって、新たな科学的発見なるものが果たしてあったのだろうか。

 それはともかく、近代科学の進歩、技術の発展は、経済的、社会的、環境的、政治的なあらゆる側面においてとてつもない影響を及ぼした。第一次世界大戦以後の戦争は、それまでの戦争ではみられなかった破壊力である。科学・技術の進歩・発展は、それ自体のなかで生じるのか、あるいは、社会や経済の進歩との相互依存性によるものなのか。人間は欲望の動物である。欲望の故に自律を求め美徳を最善のものとした。しかし、科学者に美徳はない。欲望のままに未知なるものに挑む。宗教的戒律から解き放たれた人間にとって科学が自己完結的に進歩することは必然なのである。

 科学の進歩といっても内容が問題である。科学の何が進歩したのかである。社会科学、自然科学を問わず、科学は、まず、様式である。研究者になるために同業者仲間に入るところからその「様式」が始まる。手っ取り早く、どこかの学会の会員になるが、これだけでは駄目で、気の合う仲間を数人作る必要がある。研究方法、論文様式についても文句のない「様式」をマスターしなければならない。研究版の小笠原流とでも言えよう。この「様式」をマスターするにために数年をかけなければならない。研究者の何割かは、「様式」だけのために一生をかけている。次が研究テーマである。他人とは違う、誰もやっていないテーマを選ぶのは当然のことだ。研究テーマは、極めて狭い領域であるから、そのテーマで一つの新たな発見があるとわからない部分がさらに数倍に膨れあがる。こうして、先行研究者の発見によってもたらされた新たなわからないテーマを次の研究者がテーマとする。おわかりのとおり、研究テーマは、ねずみ算式に増加する。それも、重箱の隅どころではない、微細な分野であり、素人では何がこれまでのテーマと異なるのかを見いだすのは容易ではない。ここまで研究テーマが細分化されると研究成果の評価が難しくなる。さあ、そのためには、前述の「様式」が重要となる。研究仲間の評価、研究方法、論文の様式である。科学は、「様式」と微細な研究テーマとの間のキャッチボールに終始することになる。学会はもはや研究成果を論じ合う場ではなく、業界と化している。人類の生存、進歩への貢献とはほど遠い。研究者不足であるとして税金を投入し続ける。さらに悪いことには、重箱の隅どころではない微細な分野の研究者が、社会、経済、政治、環境等の総合的問題について学識経験者なるものとして解決案を提案する。問題の本質的所在さえ考えたことのない者が答えられるわけがない。もっと悪いことは、科学は、「価値」問題を扱わないことである。価値とは、何が良くて何が悪いか、何が一番で何が二番かということだが、科学にとって、序列、優劣は無関係である。

 科学に潜む恐怖とはこういうことである。ねずみ算的に増加する科学分野と、科学と密接に関連する政策、企業のイノベーションには20世紀に常識であった創造的破壊などは期待できそうにもない。際限なく拡大する科学に潜む恐怖なるものを見ることにする。

 恐怖の「恐」という字を漢字源で調べてみた。「恐」の上部は、穴を開けるという意味で、それに「心」を付けて、心の中に穴が開いた状態を意味するという。「怖」は、心が布のように薄いことを意味する。従って、「恐怖」とは、心を突き通して穴があいてうつろになり、ひらひらしたような状態ということになる。いてもたってもいられない不安ということだ。

 我々の生存にとって、今、そこにある恐怖を感じ取ることは、もはや理性的で分析的な能力だけでは困難である。今、そこにある問題とは、現実的な問題だけではなく、少し前の過去と少し先の未来も含めた問題である。遠い未来はわからない。しかし、現実の問題が少し先にも続くとすれば、それはかなり遠い将来にも持ち越されるのである。「恐怖の思想」には、これ以外に例えば、「社会による救済」という「恐怖の思想」もある。これは、最後にみることにしよう。

                                2018年6月10日
2019/05/28

堕落論2018 森友問題とは何か? -官僚制の堕落-

 去年から国会と言えば森友問題である。森友問題に何の興味もないが、もういい加減にしたらどうだと言いたくなるのは私一人だろうか。大阪地検が捜査をしているのだから、地検の捜査結果を見てはどうだ。野党にとっては絶好の政局到来だろうが、国民からすれば何ともちまちました民主主義ではないか。

 森友問題は、国有地の売却に安倍政権が関与した疑いがあるという点から始まった。安倍総理夫人というのも何とも訳のわからない人物である。一国の総理夫人ともなれば、もはや私人とは言いがたいにもかかわらず、一介の私立小学校の名誉職につく等は言語道断である。それも、極右的教育思想にかぶれた小学校にである。森友というのは、元々は珠算塾の創立者であったらしく、珠算教育では名の知れた人物のようである。教育勅語を子供達に暗記させるというのだから、時代錯誤どころではない。一朝ことあらば、天皇のために死ねという。それこそ堕落論の出だしを地でいっているようなものだ。
 
なぜ国有地の売値を9億円から150万円まで値下げしたのか?

 ところで、森友学園に売却された国有地の市場価格はどの程度のものだったのだろうか。ネットの情報によれば、不動産鑑定評価額は9億5千6百万円(2,658坪程度、坪当たり36万円)だが、実際の売却額は、150万円(坪当たり564円)だった。なんと、地下のゴミの処分費が8億2千万円、以前に処理したゴミ処分費が1億3千万円であったため、この両方のゴミ処分費の合計額が評価額から差し引かれて、150万円で売却となったものである。2011年には大阪音楽大学が7億円で入札したそうだが、近畿財務局が安すぎるとして落札できなかった経緯がある。大阪国際空港に隣接し、騒音指定地域になっている土地だから、とても良い土地だとは言えない代物である。それにしてもだ、坪564円なら私だって買っておいてもいいかなと思う。ドッグランにしても十分元手はとれそうだ。
  9億6千万円の土地を150万円まで値下げした理由がゴミ処分費に8億2千万円+1億3千万円かかるというのがよくわからない。国土交通省の試算だそうだ。鉛やヒ素が大量に含まれているのであればわかるが、どれほどの環境影響物質なのか等は何も報道されていない。そもそも、騒音にプラスして公害物質が大量に含まれる土地で小学校を経営するなどは論外ではないか。
 いずれにしても、売買価格がなぜこれほど安くなるかは大きな疑問である。報道情報によれば、当初は深さ3mまでのゴミ処理であったが、9.9mまでボーリングしたらボーリングの刃の先端にゴミが付着していたため、深さ10mまでのゴミ処理としたとのことである。深さ10mで2,700坪の汚染土壌の処理と再埋め立てなら、常識で考えても坪50万円程度はかかることになる。汚染土壌の深度は、今もってわからない。
 
国政調査権(国会証人喚問)の欺瞞

  前理財局長に対する証人喚問が行われたが、訴追の恐れがあるので話せないで終わりである。証言拒否は偽証には当たらない。さらに、「記憶にない」も証拠がない限り偽証ではない。国政調査権(証人喚問)なる制度は何の効果もないというのが一般的感想である。国会ショーのクライマックスといったところか。それにしても、大阪地検の捜査結果が出るのが遅すぎる。
 国政調査権というものは、野党の少数意見を広く国民に知らしめるためのツールである。そうだとすれば、野党はもっとこの権利を有効に使わなければならない。政治家の対応の何と下手くそなことか。政治家が証人喚問の壇上で証人に証言を求めるにはそれなりのテクニックが必要だ。当初は、国有地の売却に関する安倍総理周辺の疑惑だったが、現在は、理財局の公文書改ざんへと変化した。森友問題が国民にとってわかりづらいのは、何が問題なのか、何が法律に違反しているのか、何が不道徳で悪なのかがよくわからないことである。

森友問題の本質とは何か?

  そもそも、森友問題の本質とは何かである。
 第一点は、国有地が不当に安く売却されたことである。前述のように実質150万円で売却されたとすれば、安く売らなければならなかった理由があるはずである。仮に、安倍総理夫人の関与あるいは関連するものの何らかの圧力があったとしても、手続き、決済は財務省理財局によってなされたことであり、理財局内部において手続き上の不正があったことになる。大阪地検の捜査もこの点に集中するであろうことは容易に予想される。
 第二点は、安倍総理夫人及び関連政治家の関与の程度の問題である。金銭の授受等があったとすれば、大阪地検の捜査範囲であるが、そういうことがなくかつ政治家の圧力と言えるほどのものがなかったとした場合の問題は何かである。仮にも一国の総理夫人が関与していたのだから、法的に問題はないとしても、政治倫理・道徳においては最低の行為と言えるのではないか。反省し、今後は注意しますだけでは納得できる問題ではない。何らかのけじめがなければ、一国のリーダーとして現政権を維持することは難しいと考えられる。
 第三点は、決済文書の改ざん問題である。国有地の売却に関して手続き上の書類が改ざんされたことは、公文書管理法違反だとするものである。財務省における組織管理の問題である。公文書もワープロで作成される。ご存じのようにワープロで文書を作成する場合には何度も修正を入れることになるので、修正の都度保存することはできない。また、校正記録を残すことはできるがこれも最終的には反映させて履歴を消してしまう。公文書といってもどの時点をもって公文書とするかは容易ではない。米国の公文書管理機構と比較した日本の貧弱な機構について論じられる。米国の公文書管理記録局(公文書館)に保存される公文書は、各省庁の手を離れた文書を一元化して管理しているものであり、日本にも同様の組織があるが規模は比較にならないほど小さい。各省庁で保管管理するよりも効率的であるので、このシステムを活用すれば良いが、公文書館で保存されていない公文書は存在しないことになる。仮に、公文書管理が米国並みのシステムで管理されたとした場合、今回のような公文書改ざん問題は発生しないかというと、それは別である。公文書館に改ざん後の文書を送っていたら、改ざん問題にはならないではないからだ。理財局内部で再度決済し直したとしても、それは内部手続きの問題であって公文書として保存管理する前のものであり、そういった文書は全て破棄したで終わりである。つまり、文書作成と修正は常に発生するのが当たり前なのだから、最終的に保存管理される文書が公文書であると定義すれば、今回の事件は公文書改ざんと見なすことは難しい。財務省という官僚の中の官僚が、二人の自殺者を出すほどの事件ではあるまい。
 第四点は、官僚制度の問題である。政府組織というものは社会主義体制であると、堕落論2017でも論じた。官僚制度は、ギリシャ時代の昔から、民主主義であろうと共産主義であろうと絶対王政であろうとその本質に違いはない。ソクラテスは「国家」の中で、哲人政治こそが理想の政治と説いた。政治家が賢者であることを必須とする政治思想である。しかし、国政を実行するのは役人だから、役人こそが賢者、哲人でなければならない。孔子は、儒教思想による政治の実践を求めて全国諸侯を訪ね歩いて一生を終えた。それは、豊富な知識と高い教養を持ち徳を身につけた仁の人による政治こそが理想の政治と説いたのである。ソクラテスは孔子よりも100年ほど後の人であるが、社会や人間の理想像というものはこの時代に全て論じきられたのかもしれない。勿論、人権については、近代言論の産物ではあるが。官僚制の研究は、20世紀初頭のドイツ人経済学者、マックス・ウエーバーに始まる。階級的で硬直的な組織機構、社会主義的体制は世界共通であり、まさにグローバルなシステムである。こういった特性を持つのは、法治制度における行政組織では当たり前である。行政組織の活動は法律によって定められ、機能の多くは許認可に関わるから、許認可決済の手順に従ったピラミッド型の組織機構となる。情報化が進み、民主主義が国民に浸透した現代においても、この官僚組織に替わるシステムを作り出すことはできない。作り出せないという表現は間違っている。システムを変えるような切羽詰まった状況にはならないと言った方が適切である。

森友問題、加計学園問題などはうんざりだ!

 この堕落論2018を書き始めたのは、3月半ばのことだった。連日の森友ニュースにうんざりしつつ、この問題の本質はどこにあるかを考えた。考えれば考えるほどうんざりするのである。加計学園問題についても同様だ。愛媛県の一地方が、地方再生に目を付けたのが認可されない獣医学部の新設だった。アジアから留学生を集められるのだ。少子化にあって学校新設がビジネスになるわけがないのは誰でもわかる話だが、あえて挑戦した。国際的には、かなり可能性が高いビジネスになるかもしれないからだ。グローバルビジネスの中で、獣医、歯科医、医師の養成は、マーケットは小さいが高度な医療技術を有する日本にとっては結構おいしいビジネスになるかもしれない。つまり、グローバルな市場で、日本がリードできる分野は、ニッチな市場なのである。あらゆる工学分野、農学分野、観光学などのサービス分野等での人材養成産業は、どの分野をとっても労働市場は小さいがアジアでは有望な市場なのである。文部省の硬直した慣習を打ち破るには、これしか手がなかったのか。多分、これしかなかったのである。野党の追及の意味、目的が曖昧で、うんざりしていた。大所高所から、攻め込むことができない。未成熟な民主主義というべきか、堕落した民主主義というべきか。一つのビジネスチャンスが、なだれ的にビジネスを生み出すかもしれないのに、その芽をつむのである。こういうのは、通常、政権与党が仕掛けるか、官僚組織や検察が仕掛けたりするものだ。加計学園問題には、何となくこういうにおいがするがどうだろうか。

官僚制を廃止する方策はないのか?
 
 官僚制はすぐ堕落する。再発防止、綱紀粛正・・・。言葉は並ぶが、時間がたつと忘れてしまう。社会主義体制は、堕落するのだ。堕落しない理想的な組織であるべきであり、正義こそが使命だとして組織管理をすると必ず堕落するのである。資本主義的組織、企業組織は、元来、堕落を内包している。元々、企業は堕落した組織なのである。移り気な市場,金と欲望の堕落社会を生き残るには、衣の下に堕落を抱き込んでいなければならない。企業にとって堕落こそが鎧であり武器である。
 公僕を理想とする組織が、21世紀の資本主義社会に存続すること自体が異常である。官僚制を廃止せよ。廃止できずとも、官僚機構の階級制を廃止せよ。官僚制に内在する腐敗、怠慢、傲慢を、自らの組織内で正し、罰する仕組みを作らなくてはならない。組織内からの告発制度を作り、警察・検察などの従来の司法制度とは異なる国家組織内の司法制度を作れ。公文書管理などに森友問題みたいなちまちました手続きを入れるな。
 このためには何をするべきか。まず、法律改正、新法の発議は数年間停止せよ。規制緩和、旧法の廃止だけを国会審議とすべきである。これによって、官僚の仕事は、現法の執行だけである。暇な部所は廃止・統合せよ。当然、政治家も暇になる。政治家、公務員の給与は高すぎる。恐らく、先進国をみてもこれだけ高い給与を払っている国は他にない。公務員採用試験を現在の階級的試験から、一律の試験に変更せよ。中卒であろうと高卒であろうと大卒・院卒であろうと、試験は一本である。次は、終身雇用の廃止である。EUのように期間契約にすることである。期間契約制度を採用するからこそ、新法や法に準ずる規則等の変更を定期的に一定期間停止する制度が必要になる。
 これだけ法律が整備されているのだから、5年程度法律改正などはなくても何の支障もない。これだけで官僚制は終わる。堺屋師匠の言うように官僚制こそが日本のガンなのかもしれない。

                                2018年4月20日

2019/05/28

堕落論2018 人工知能で何が変わるか?

  2016年から2017年にかけて科学技術最大のニュースを挙げるとすれば、重力波の発見と人工知能(AI)だろう。人工知能が囲碁界最高のプロ棋士に勝った。将棋では既に人工知能が勝っているが、囲碁は将棋に比べると思考形態が人間的であるため、人工知能は勝てないのではないかと言われていた。ところがである。あっさりと人工知能が勝ってしまった。

人工知能は革新的技術か?・・・本当か?
  
  ところで、人工知能とは何かである。ネットで検索しても人工知能を理解することは容易ではない。ディープラーニング、ニューラルネットワーク、機械学習等々、様々な専門用語ばかりで、それが人工知能とどんな関係があるのかはほとんどわからない。コンピュータが人間のと同じように、言葉や画像を認識し、学習し、問題に対して判断を下すというのだろうか。現在のAI技術は、どこまで人間の知性に近づいているのか、将来どの程度まで成長するのだろうか。実は、わからないことだらけなのである。

  しかし、ニュース、テレビを見ると、今にも人工知能が人の仕事を奪うことのように伝えている。昨年、NHKが長々と内外の専門家なる者を数名集めて人工知能がもたらす社会変革に関する討論会を放送した。人工知能と呼ばれるコンピューターの仕組み、現在の技術、将来の技術進歩等に関する情報は何も放送せず、ただ人工知能が実現したらああなる、こうなるという無味乾燥というか、全く意味のない議論だった。受信料を徴収しているのなら、もっとましな放送ができそうなものだが、何ともおそまつな内容で話にならん。NHKの科学技術に関する放送のほとんどはこのようなものだ。NHKの企画スタッフが理解していないのだ。十分な知識と経験がないため、いい加減なところでごまかしてしまう。コズミックフロントという天文・宇宙の番組があるが、15分で終わる内容を無関係な内容でごまかして1時間に引き延ばす。韓国ドラマのNHK天文ドキュメンタリー版である。将棋・碁の人工知能との対決番組があったが、人工知能のアルゴリズムの説明が全くといってよいほど欠落している。コンピュータ碁のアルゴリズムは著作権フリーで公開されているのだから、もっと追求しなくては意味がない。こういった報道の意図しているところは一体何なのか。人工知能社会がすぐにでも実現され、大きな社会変化が起きるぞと国民に警告し脅すことなのか。恐怖、脅迫が社会を変えるという恐怖の思想ではないか。

  民間シンクタンクのHPを見ると、「日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に」なると公表している。それも、今から12年後の2030年のことだそうだ。コンピューターによる自動加工システム、自動倉庫等は、ものすごいスピードで改善・改良が進められており、今更人工知能などと大げさなことを言うこともない。

  人工知能が社会を変えるのか。本当か?。2018年の始まりは、人工知能の真実にせまろう。おそらく、ここにも堕落の何かが潜んでいるに違いない。

が情報を記憶する仕組みはどうなっているのだ?

  人工知能とは何かを知る前に、人間のの働きをみなくてはならない。近年では科学という科学が急速にの働きを解明している。の解剖学的解明は、1920年代から盛んに行われ、1940年代には神経細胞の構造が解明されている。ニューロンの働きである。

  最近、二冊の本を読んだ。佐藤愛子さんの「90歳。何がめでたい」と養老孟司さんの「遺言」である。久しぶりに丸善に寄ってぶらぶら見ていたら、とりあえず沢山積んである本があったのでとって見たらこの二冊の本だった。ただ、それだけで選んだので著者には申し訳ない。佐藤愛子さんの話し方や風貌を見ていると、何故か母を思い出し、親しみを感じる。大正生まれの女性に共通の何かがあるのかもしれない。「90歳。何がめでたい」は、最近の世相の異な事や、もの申すことが何となくはばかれる風潮に対する佐藤愛子さんの笑い飛ばしである。考えようによっては世間の脳内の問題とも言える。 

  脳に関連するのは、「遺言」である。養老先生は、「バカの壁」以来、私の師匠である。養老師匠は、物の見方、考え方には、様々な視点があることを説く。「遺言」は、意識と感覚とのバランスを論じたものと言って良いが、人間の脳の活動を、養老師匠の解剖学的知見とものの見方を基に思いのままに記述したものである。さすがに養老師匠、はじめに哲学についてことわりを入れてある。哲学は、ギリシャの昔から脳の中の問題を取り扱うからだ。養老師匠も脳の記憶のメカニズムとその活性について考えた。特に、静止記憶ではなく、時間経過を伴う記憶、動的記憶ともいうべき記憶である。

  脳の記憶のメカニズムは、静止記憶であろうと動的記憶であろうと、ほとんどわかっていないらしい。脳の神経細胞の1個には、核を中心に樹状突起と呼ばれる組織が沢山でている。一つの樹状突起には他の神経細胞から情報を受け取る受容体が1万個以上あるらしい。核からは他の神経細胞に情報を伝える伝送路ともいうべき軸索が一本伸びている。軸索の先にシナプスという他の神経細胞に情報を伝達するための器官がこれも1万個以上あるらしい。神経細胞は、他の神経細胞のシナプスから樹状突起の受容体で情報を受け取り、それを自分のシナプスを通して他の神経細胞に情報を伝える。情報といっても電気信号である。シナプスと受容体の間は化学的に結合しているので、シナプスは電気信号を伝達物質の放出に変え、受容体は伝達物質を受け取ると電気信号に変える。ここまでは、どの教科書にも書いてある。この神経細胞がどのような方法で情報を記憶するのだろうか。ディジタル回路に置き換えると、入力端子が1万個、処理装置に核があり、出力端子が1万個である。1万個の入力端子のうちどこかの入力端子がオンになると、どこかの出力端子がオンになるのだろうか。仮にそうだとすると入力から出力への経路を調節する働き(交換回路)が神経細胞になくてはならない。あるとすれば核にあることになる。どうやら、神経細胞核の遺伝子が作り出すタンパク質が関係するらしい。何度も同じ刺激、つまり入力があると、神経細胞核は、特殊なタンパク質を合成して、そのタンパク質がシナプスから放出される伝達物質を制御する。しかし、どのシナプスを活性化(発火)させるかはどうやって決めているのだ。要はわからないのである。ごくごく一部の機能が徐々に解明されているのが現状である。現代科学とは、このように重箱の隅どころではない微細な部分の解明なのである。微細な部分が解明されなければ全体がわからないという典型的な例が脳である。勿論、微細な部分がわからなくても現実の生活には何の支障もない。原因と結果が現象として解明されていれば現実世界の問題の99%以上は、解決可能だからである。だが、人工的な知能を作るということになるとそうは行かない。

  人間の脳の記憶のメカニズムは全くわかっていない。記憶のメカニズムがわかれば、思考の機構も解明されるだろう。少なくとも、現在のコンピュータ(ノイマン型コンピュータという)の記憶や演算のメカニズムとは似て非なるものであることは確かである。

コンピュータの記憶・演算はどうなっているか?

  それではコンピュータの構造を見てみよう。現在のコンピュータのプログラムによる処理メカニズムは、ノイマン型コンピュータと呼ばれる。ノイマンというのは数学者の名前である。ノイマンという人は、天才ではあるがややサイコパスなところのある人だったようで、水爆の開発に深く関与した。キューブリック監督の映画「博士の異常な愛情」のモデルとされている。コンピュータは、命令を一つづつ実行する逐次処理が原理であり、この60年間何も変わっていない。命令の解読部と呼ぶ回路と実行部という回路の二つの回路で一つの命令が実行される。解読部は、命令(二進数のコード)コードによって実行回路のどの回路にデータを送るかを決める。実行回路は、加算するとか減算するとかいう回路のことである。命令が加算であれば、加算回路の二つの変数の格納部分に、命令に付随している記憶番地の内容を計算用記憶領域にわたして、加算回路を実行させる。コンピュータは、ただこれだけしかしていない。お気づきだろう。電卓で計算する場合と同じなのだ。コンピュータの加算回路部分が電卓になっていて、電卓では命令解読部を人間がやっているのである。こんな単純な計算原理で人間の脳に匹敵する情報処理が果たして可能かどうかである。

  情報検索は、単に記憶装置に入っている情報を検索するだけである。グーグルで検索する場合、検索キーを入力すると、サーバーの検索プログラムが起動して上記のような計算原理で格納されているキー情報を探すだけである。勿論、検索確率等の検索効率を高めるための様々な工夫がされているが。

  現在のコンピュータの処理速度がものすごく速いこと、膨大な記憶容量となったことが、あたかもコンピュータに知能があるかのような錯覚をもたらしたとも言えそうである。そもそも、人工知能なる言葉は、マッカーシーが1955年に提唱したArtifitial Intelligence(AI)の邦訳である。当時のコンピュータの性能は、現在に比べればそれこそひどいものであるが、当時としては先端であった。マッカーシーの功績の一つはタイムシェアリング理論の提唱である。マルチタスクを実現するために、これ以後様々な工夫が試みられる。

  データの記憶は、0と1の二進数に置き換えてD-RAM、ハードディスクに格納する。コンピュータのデータ記憶とは単純なのである。画像にしても同じだ。単純に白か黒であれば0か1で良いので1ビットで良いが、カラーになると三原色に色の強度を付加するのでビット数はかなり多くなる。それでも二進数で記憶することに変わりはない。

  人間の脳の記憶のメカニズムはほとんどわかっていないが、神経細胞(ニューロン)の構造からみても、脳の記憶方式は、コンピュータの記憶方式とは全く異なるものであることは容易に推測できる。脳の記憶のメカニズムが知能をもたらしたとすれば、二進数の単純な記憶方式がコンピュータに知能を与えるとはとても思えないはずである。人の知能の進化は、情報の記憶の仕方によってもたらされたと考えることができるのではないだろうか。養老師匠によれば、脳内では、感覚所与は最終的に言葉に抽象化されるという。この辺になると、「脳科学」の進歩を待たなければならない。

囲碁・将棋の人工知能は、本当に知能なのか?

  人工知能がプロの棋士に勝ったからコンピュータは知能を持ったといえるか。囲碁のルールはいたって簡単である。縦横それぞれ19本の線を引き、その交差点に白と黒の碁石を交互に置いて、自分の碁石で囲った領地が相手の領地よりも多ければ勝ちである。それ以外のルールは、自殺手、コウ、セキぐらいのもので、他に3コウ等があるぐらいだから、極めてシンプルなものである。黒が第1手を打つ。どこに打ってもかまわないが、長い囲碁の歴史から、序盤の定石がある。定石で打てば大体五分五分の形勢となることはわかっているので、囲碁を学ぶときは、この定石を覚えることから始める。コンピュータ囲碁の初期は、盤面全体では難しかったので、定石や詰め碁といった碁の練習用のようなものであったが、後にモンテカルロ碁が登場したことで、にわかに人工知能が注目され始めた。モンテカルロ法というのは、確率的現象を利用して問題の数値解法を行うことである。簡単に言えば、コンピュータで膨大な乱数を発生させて結果を見ることである。例えば、コンピュータでさいころの丁半ばくちをやるとする。コンピュータが壺ふりで胴元である。コンピュータは、1から6までの乱数を二度発生させて丁か半かの目を出せば良い。これを繰り返すと、丁と半の出る確率は50%になるはずである。コンピュータで1万回ぐらい繰り返すと確かめられる。モンテカルロ法は、コンピュータの乱数発生機能に着目した計算手法である。有名な計算例では、円周率の計算や数値積分がある。

  囲碁のモンテカルロ法は、乱数を発生させてむやみやたらに石を置くのである。勿論、ルールを守ることが前提である。何度も、コンピュータに最後までやらせて勝率の高い次の手を打つという方法である。これが人工知能かと言えば、人工知能とは言いがたい。単なるシミュレーションでしかない。コンピュータ碁が人工知能(AI)と言えるようになるのは、ディープラーニングが登場してからだ。

  ディープラーニングというのは深層学習と呼ばれている。この方法の特徴は、ニューラルネットワークというコンピュータ解析手法を採用した点である。さあ、ここからが少しはAIらしくなる。ニューラルネットワークを検索すると、沢山の解説が出てくる。脳の神経組織の機能を模して開発されたソフト手法とか何とかである。確かに少しは(ほとんど似ていないと思うが)似ているかもしれないが、ネットワークモデルの特殊な例である。理論的な研究は1940年代からあることはあった。しかし、実際に利用することはほとんどなかった理論である。なぜなら、やたら計算しなくてはならないからで、計算時間が膨大な割には成果が少なかったからだ。それと、学者が嫌ったこともある。学者は、美しく単純な数式を求める。今でもその傾向は強いのだが。このニューラルネットワークが一番得意とするのは、画像認識である。良く例に出されるのが、手書き文字の認識である。人によって書き方がまちまちな文字をどうやって正確に識別するかである。それまでは、様々なパターンを作っておいて、パターンの合致したものを選択するという方法だった。しかし、これは学習ではなくてコンピュータが記憶したことと付き合わせるだけである。このニューラルネットワークでは、入力された内容を数段階(ニューロンの層のことで複数のニューロン層で構成される)に分けてパターンの特徴付けを行い最終的に抽象化して正解に対する確率を決定する。この特徴を抽出・抽象化する過程(重みとかバイアス、フィルターと呼ばれる)の数式の係数やパラメータの決定手法を学習と呼んでいる。つまり、ニューラルネットワークを経て得た解と既にある正解との誤差を最小になるようにパラメータを決定すれば良いのである。そのためには、正解が必要となる。正解モデルを教師とみなして学習するので教師付学習と呼ばれている。

  最近、ニューラルネットワークに関する非常にわかりやすい本「Excelでわかるディープラーニング超入門」(涌井良幸、涌井貞美 著 技術評論社)が出たので紹介しておこう。この涌井師匠達のの数学計算の解説書(他にもある)は、難解な理論を実に丁寧にわかりやすく解説している。これ以外に、囲碁の人工知能の本は多数あるが、アルゴリズムを丁寧に解説することを回避したインチキ本がほとんどである。

  手書き文字の認識であれば、時間はかかるが正解モデルが多数あるので、教師付学習を繰り返せばかなり精度の高いモデルが完成する。しかし、ゲームの場合、正解モデルの数には限界がある。そこで正解モデルがない場合の学習方法を考え出した。つまり、コンピュータ同士で対決することで学習する方法であり、これを強化学習と呼んでいる。涌井師匠達の本は、強化学習については触れていないのでご注意を。

  さて、ニューラルネットワークという計算手法によってコンピュータが問題を学習し、正解に近い回答を得るためのパラメータを得るということまではわかった。、ニューラルネットワークは、複数のニューロン層で構成され、入力データはフィルターによって特徴付けがされることもわかった。しかし、フィルターを経由すると何故特徴がうまく抽出できるかは、実はわかっていないのである。さらに、中間層を何枚にすれば正解確率が高くなるかもわかっていない。ほとんどが経験的にわかったと言って良いのである。囲碁の場合の強化学習等は典型的な例である。
  
ディープラーニングという人工知能は何に利用できるのか?

  今流行のディープラーニングが何に利用できるかを考えてみよう。AI囲碁は、ゲームであるからまあ、ゲームソフトの場合には利用できるかもしれないが、一般的には囲碁の事例を実務分野に応用できる可能性はほとんどない。画像認識には、昔から利用されていたから、この分野には活用出来そうである。気象観測、偵察衛星、道路安全管理、公共施設の点検監視等々、画像認識により自動的に判断する分野への応用は極めて広い。これは、音についても同じである。例えば音声認識等は、今後極めて高い精度となるだろう。教師となるデータが沢山得られる分野については、ディープラーニングの得意な分野なのである。

  音、画像等、養老師匠の言う感覚所与を数字・言語・パターンへと抽象化する手法であるディープラーニングは、活用目的によっても異なるがそれなりに進歩していくだろう。しかし、ディープラーニング的人工知能が進歩したからといって、世の中がどう変わると言うのだ。

自動運転が実現された自動車社会を想像してみると!

   自動車の自動運転試験が始まっているが、果たしてどんな自動車社会となるのだろうか。完全に自動運転が可能な自動車が開発生産されることになったと仮定してみよう。

  完全な自動運転が可能な自動車であるから、公道でのマニュアル運転が禁止されて運転免許は不要になる。運転免許講習所や、免許更新試験場は要らなくなり、大量の失業者が発生する。

  事故は、原則的に発生しない。事故が起きるとすれば、崖崩れや倒壊等による被害、故意に障害物を車に当てたり、飛び込む等の事故であるから自動車側には責任がないので、現在のような自動車損害保険は不要となる。不慮の被害にともなう保険だけになるので、損害保険会社の大半は倒産する。

  マイカーは、どうなるかと言えば、自分で運転することができないのだから、車を所有する必要性がない。車が必要な時は、ドライバーのいないタクシーを呼ぶことになる。田舎では、今や一人一台の時代だが、自動運転時代では、都市と同じで車を呼べば良い。こうなると、自動車メーカの生産台数は激減し、既存の自動車メーカは生き残ることができず、日本で1社か2社となり、生産台数も現在の1/10以下まで減少する。さらにEVだから自動車生産による経済波及効果は極めて低いものになる。もはや、自動車産業が経済成長の牽引産業ではなくなる。

  トラック輸送はどうかと言えば、ドライバーは不要だが、荷物の積み卸しや整理にはどうしても人手がいるので、人員削減はあまり望めそうにない。しかし、ドライバーが不要なこと、事故がなくなることから輸送コストは低下する。

  バス、タクシーはドライバーが要らないから、人件費が激減する。人件費が激減しタクシー利用が増加することから、タクシー代は格安になる。このため、公共交通網が発達し、自動車社会の基本は公共交通システムに転換することになる。

  こんな社会になることを自動車産業が望むだろうか。望むはずがない。ということは、人工知能により完全自動運転が可能な自動車などを自動車メーカが本気で開発するわけがないということだ。

  自動車メーカが人工知能開発を進めるとしても、現在の運転のごく一部、それも補助的な部分だけに限定されることになる。

  さらに、カーライフに代表されるように、人は何よりも自動車を運転したいために自動車を買うのである。あの機械の塊を自ら運転する快感こそが自動車市場の根底にある限り、人工知能による完全自動運転車は実現されない。

  ディープラーニングの仕組みは、科学的・論理的に説明不可能な部分で構成されているため、この技術をそのまま自動運転に採用することは難しい。さらに、教師付学習をするにしても、一般公道でどうやって学習させるのだ。事故体験がなければ学習のしようがない。仮に、今後、人工知能の学習が進んだとしても、完全自動運転の自動車が普及するとは考えられないのである。

  今から45年前になると思うが、宇沢師匠(宇沢弘文 経済学者)が、「自動車の社会的費用」を発表した。日本の自動車社会の到来が社会的費用の増加をもたらし、その結果、いびつな都市交通体系へと変貌する社会のあり方を説き、道路という社会的共通資本の効用の解明を説いた。完全な自動運転自動車社会は、理想ではあっても、現実となることを妨げる様々な要因を産業・社会、人間自体に内在するという矛盾を有することによって実現不能なのである。

人工知能は、現代コンピュータ科学の限界を見せた!

  このように人工知能技術や人工知能社会を見ていくと、現代のコンピュータに知能を持たせることは不可能であることが、ディープラーニングの進歩によって明らかになったとも言えよう。現代コンピュータ科学の限界である。プロセッサーの数やスピード、記憶容量の問題ではない。コンピュータの原理、機構そのものに問題があり、限界なのである。

  水力や風力をエネルギー源とした粉挽き機、石炭をエネルギー源とする蒸気機関、石油をエネルギー源とした内燃機関と人類は僅か250年の間に科学技術を進歩させた。しかし、一方では、核エネルギーによる発電は、150年前に発明された蒸気タービンによる発電である。核エネルギーを直接電力に変える科学は未だ発見されていない。人工知能も同じである。人工知能らしきアルゴリズムは、脳内記憶機構とは似て非なるニューロンと名付けられた単純なモデルとこれまで不可能であった最適化理論を数値解法により可能としたことのみで実用化されたのである。現代コンピュータ科学の延長線上に人工知能は存在しない。新たなコンピュータ理論の構築が必要なのである。

人工知能によって代替される職業・・単純労働の消滅なんて嘘だ!

  ところで、人工知能の進歩によって、人工知能搭載ロボットやコンピュータにとって変わられる職業について前述のようにどこかのシンクタンクが発表していた。我が国は、移民の受け入れ政策をやっていないから、ダーティワークや単純労働を日本人がやっている。しかし、世界の先進国は、全て移民を受け入れており、こういった職業の多くは移民(難民を含む)がやっている。移民、難民による労働コストと人工知能によるコストのどちらか安いかの単純な損得計算で決まる。靴のメーカの国際化の話は有名である。労働賃金の安い国で10年間製造すると、さらに賃金の安い国を探して移動する。

  この人工知能による代替可能性の高い職業をみると、全て人工知能で置き換えられるかのようになっているが、「何を考えているんだ。馬鹿者」と言いたくなるのは、私一人だろうか。例えば、ゴミ収集員とあるが、ゴミ収集作業の大変さがわかっていない。ただ、ゴミ箱から収集車に積み替えるだけではない。散乱している場合には、それらを集めて掃除をする。生ゴミなら臭いの対策もしなくてはならない。大体、ゴミ箱が定位置にあるなどというのは、ドイツぐらいなものだろう。どでかい金属製のゴミ箱をつり下げて回収する仕組みだが、日本のように、道ばたにゴミ袋が置かれていてネットがかぶせてある場合にどうやって人工知能回収車が回収するのか。

  また、一般事務職というのもある。定型的事務作業なら今もコンピュータ化されている。事務職が重要なのは、定形外の何が起こるかわからない事態への対応である。それに行政事務職というのもある。今でも情報システム化によって行政事務作業の大半はコンピュータ化可能である。あえて人工知能を使う必要もない。行政が、システム化をすると何か不都合なことがあるのか、あるいは、ワークシェアリングを維持することのなか、何らかの理由があってシステム化をしないようにしているのである。

  どうも、単純作業というものは人間の作業ではなく人工知能でやるべきだということを頭から信じ込んでいる馬鹿者がいるようである。これだけコンピュータ化が進んだ状況で、単純作業であっても人間がやらなければならない部分があるとすれば、それにはそれなりの理由があるからだ。

  創造的ではない単純作業は、今更、人工知能もへったくれもなく、コンピュータ化することはむずかしくない。コンピュータ化しないのは人件費の方が安く、労働市場があるからだ。移民だけではなく、発展途上国への企業進出等、今や労働市場はグローバルなものとなっている。賃金の安い国で起業すれば経済発展にもなり、新しい市場が生まれる。経済成長は、人工知能よりも優先するのである。

  それでは、人工知能を最も必要とする分野とはどういった分野かである。結論から言えば、知識産業でありクリエイティブな職業こそが必要とする。前述の、シンクタンクが発表した人工知能では代替できない職業こそが人工知能を必要とするのだ。シンクタンクの発表結果とは全く逆ではないか。

  例えば、デザイナーの仕事を考えてみよう。彼が商業デザインの新たなロゴの開発をしているとしよう。いくつかの案を思い立ったので、人工知能で検証するとする。人工知能は、画像認識で彼のデザインを読み取り、ネット上にある様々な画像から類似のロゴを検索する。このとき、画像で検索はできないので、言語に置き換えなければならない。ロゴ、デザイン文字、商業デザイン、ロゴのタイプ等々、ロゴの画像から考えられる単語、文章を作り出し、ネット上で検索をして類似画像を認識して抽出する。ここまで人工知能がやってくれれば、人工知能は彼のアシスタントとして十分である。知的作業やクリエイティブな作業には、専門的知識のあるアシスタントが不可欠なのである。一方、単純作業は、手作業が主となるから、ロボットやハンド等の機械装置と一体としなければならない。単純作業の人工知能は、設備投資の負担が多くなるので、簡単には代替できないのだ。

  知的職業やクリエイティブな職業で人工知能が必要となるが、専門的知識のための人工知能プログラムを誰が開発するのだろうか。専門的分野であるから極端に言えば、ある一人のためのソフトということになる。おそらくだれも提供してくれないから、その専門家が自ら開発しなくてはならなくなる。しかし、人工知能の導入によって生産性は数倍以上に高くなることは間違いないので、大企業の研究開発部門やデザイン部門等では、人工知能への大規模な投資が行われる可能性は高い。

  人工知能は、単純作業の職種を奪うことは希である。むしろ、生産性の低い知的職業やクリエイティブな職業で活用される。それも、投資余力のある大企業で集中的な投資が行われる。

学者、マスコミが言う人工知能の話題を信じてはならぬ!

  人工知能の研究者・学者の言うたわごとを信じてはならぬ。学者、研究者は、とりあえず目立ちたいのだ。少子化で学生の数が減少し、大学の経営は難しくなる一方である。とりあえず人工知能の何たるかを知らなくても、人工知能、人工知能と唱えれば注目される。マスコミも同じだ。
  全ての人工知能なるものは、既存の科学技術の延長線上でしかない。ディープラーニングの登場で人工知能の研究開発が10年縮まったなどと言うのは、真っ赤な嘘であり、逆なのである。人工知能研究の限界が見えたのである。

  現代科学、特に純粋な科学、つまり、宇宙や物質の根源に迫る科学、生命の本質に迫る科学等々は勿論のこと、ソクラテスに始まる哲学、20世紀に進歩した社会科学等々は、20世紀末で終焉を迎えたという本(「科学の終焉」)が1997年に出版されたことがある。著者は、ジョン・ホーガンというアメリカのサイエンスライターである。この本は、科学評論ではなく、どちらかと言えば文芸評論であるが、狙いは面白い。当時の各分野の一流の科学者とのインタビューを通して、純粋理論に新たな発見の余地のないことをだらだらと書き綴る。この中には、既にニューラルネットワークや人工知能についても語られている。20年以上も前の話である。現代科学の大半は、コンピュータによる解析手法の進歩と分子生物学等の分子レベルでの新たな発見にとどまっていることを考えると、あながちこの本の狙いが間違っているとは言いがたいのである。

  科学ニュースには、全て何らかの裏があるのだ。重箱の隅どころではない、些細な発見であっても、天下をひっくり返すような大発見として報道される。コンピュータが囲碁で人に勝ったからといって天下の何が変わるのだ。それも、単なるコンピュータの高速化によってこれまで実用化されなかった数値計算(最適化手法)が可能となっただけであり、人工知能とはほど遠いものだ。

  科学ニュースや報道は、眉につばをつけて接しなければならない。学者、研究者が堕落したのではない。学者、研究者は、元来、堕落しているのである。堕落している者が、さらに堕落するのを見過ごすわけには行かぬ。

政策立案に科学は深く関与している?

  ところで、政治・政策においても科学・技術は全ての分野で関与する。経済政策では経済学が、エネルギー政策では物理学・工学が、農業政策では農学が、福祉政策では社会学が、医療政策では医学がという具合である。時代の政策分野に対応して大学の学部が作られていると言っても良い。時代の要請がなくなれば、学部も消滅する。政策の立案・評価のプロセスでは、専門家なるものが深く関わっている。原子力委員会などはその代表的なものである。現代科学研究の大きな問題の一つは、重箱の隅どころではない微細な研究となっていることである。これが、70年前であれば、科学といえどかなりマクロな領域の研究であった。原子力、物理学、情報工学等々を振り返ってみればよい。社会科学の分野においてもそうである。70年前の経済学は、まだ、新古典派の時代であった。この頃の経済学の議論の一端は、ボールディングの著作が良く表しており、現代においてもその知識と洞察には感嘆する。

  当時の自然科学、社会科学の多くの研究者は、広い視野でものごとを見ていた。自らの研究分野についても現代のように論文の数で研究実績を問われることもなかった。大体、現在の学会論文なるものの内容のひどさにはあきれ果てる。テーマの設定の妥当性は勿論のこと、結果の検証もろくにない論文があり、中には結論さえない論文もある。100本のうちまあ何とか研究論文と言えるものは数本だろう。前述したように純粋に発見的な研究はほとんどなく、AIに代表されるような手法に関する研究がほとんどなのだ。それならば、今更、半世紀以上前の理論をこざかしく説明するなどは不要である。如何に、社会に役立つかを丁寧に説明するだけで良い。役立つことを説明しきれていなかったり、矛盾があれば、その論文はボツである。ちなみに、アインシュタインがノーベル賞をとった研究は、光電効果であり、相対性理論ではなかった。当時、相対性理論を評価できるものはほとんどいなかった。

  科学の学会なるものが業界と化して己の利だけを追求する。堕落である。学者や研究者は、元来、堕落していると言ったが、孤独、恐怖、欲望の中に生きるのだから堕落なのである。それが、集団となって欲望を満たし始めるとなると、まさに「科学の終焉」であり、堕落に堕落を重ねることになる。

  話がそれてしまった。本題は、政策における専門家の関わりであった。堕落に堕落を重ねる専門家、巨視的に物事をみる習慣のない専門家に政策という総合的な視野などあろうはずがない。誰かが、総合的にまとめなければならないが、現在の官僚あるいは政治家にそれができるのか。科学と政策の絡み合いをどのように整序可能なのか。民主主義や社会主義などのイデオロギーや制度、政治哲学、政治思想等々の問題ではない。細分化され複雑になった科学と社会との関わりを総合化可能な仕組みがあるのかという問題である。政策科学なるもののP-D-Aサイクル等のボケたマネジメントシステム(これも単なる手法でしかない)などでは到底不可能である。

                               2018年3月13日

参考
「90歳。何がめでたい」 佐藤愛子著 小学館
遺言」 養老孟司著 新潮新書
「Excelでわかるディープラーニング超入門」 涌井良幸、涌井貞美著 技術評論社
「科学の終焉」 ジョン・ホーガン著 竹内 薫訳 徳間書店
「自動車の社会的費用」  宇沢弘文著 岩波新書

2019/05/28

堕落論2017 「後は野となれ山となれ」という思想

  今そこにある現実-戦争、政治、情報社会-について、かなり不真面目で不純な評論家が、個人的経験と僅かばかりの知識と直感に頼って書き綴ってきた。しいて言えば、少国民の叫びである。記載内容の検証は、これをお読みになった方に委ねたい。この内容によって誰かの意見を変えたいとか、誰かに何かを行動させたいという意図のあるものではなく、私の心が思わず叫んだものである。
  
     ところで、今の日本に不満がないかと言えば、ないとは言えないが、それほど切羽詰まった不満があるわけではない。将来の日本に不安はないかと問われれば、今のままでは日本の未来はないと確信するが、正直なところ「後は野となれ山となれ」の心境である。それでは、「あなたは何を生きがいに生きているのか」と問われれば、「別に生きがいなどという大それたものはありません」と答えるだけである。今を生き、今を考えることに忙しく、生きがいなどというわけのわからないことを考える暇などないばかりか、こんなことを考えなければならないのならば生きている価値はないとさえ思う。そんなことではろくな死に方ができないから「自分探しの旅にでも出かけてみては」などと、旅行会社の宣伝文句のようなことを言われると、「馬鹿かおまえは」と言いたくなるが、そこはじっと耐えて、「どうもあやふやな人間なものですから」とか何とか言ってごまかす。

  堺屋太一氏が、以前から現代の若者について、「欲ない、夢ない、やる気ない」の3Yだと言っている。この人の著作のいくつかを読んだが、現状分析と未来への洞察ではほとんどぶれがない。以前から、未来学に関する私の師匠である、といっても、私がかってに師匠にしたのだが。情報社会のすばらしい点の一つをあげるとすれば、弟子が師匠を選ぶことができることだろう。情報空間に山ほどの情報と知識があり、知識の源泉を師匠とすることは容易である。ただし、師匠は弟子を選べない。これが江戸時代ならば、これと思う師匠に頼み込んで弟子にしてもらう。師匠は、頭の善し悪しは並程度としても、品性下劣で意欲のない者は弟子にはとらなかった。師匠が弟子を選ぶのである。現代情報社会はありがたいもので、かってに師匠を選ぶことができる。

  師匠堺屋が言うように、現代の若者には「欲がない」のだろうか。「欲」といってもいろいろある。この堕落論2017【情報社会Ⅰ】でも述べたように、情報空間は「自己顕示欲」という欲で溢れている。自己顕示欲は、人に見せたい、見てもらいたい、もっと言えば「私はあなたよりも上よ」と見せびらかしたいという欲求である。ヴェブレンの「有閑階級の理論」で実に丹念に展開されており、現代においてもヴェブレン効果として消費行動の分析や商品戦略の重要な思想である。社会から嫌われたくない、社会によく見せたいという自己から外部に対して発する欲求である自己顕示欲は、人間固有の欲のように見えるが、どうも人間だけではなく、社会性を持つ動物にも見られることから、動物の本能に近いところにあると思われる。人間が犬や猫、サルと異なるのは、知的レベルが高いために、欲求の発現の仕方が極めて複雑なことである。このように考えると、現代の若者の自己顕示欲はかなり旺盛であると言えなくもないが、発信している情報の内容を見ると、大半は自己の内面の吐露かつぶやき程度である。本来の自己顕示欲とは、もっとどろどろした欲の塊であり、こんなものではない。あまり欲が見え見えでは社会から嫌われるので、ほどほどのところで妥協して、ほどほどに自己宣伝する。若者に知恵がついたが、欲望の渦に身を置くことができないのである。情報空間で真の欲望が満たされることはあり得ない。

  こういった本能的欲求には、性欲、食欲のような生存欲とでも言える欲求がある。性欲はと言えば、今やネット上のアダルトサイトは、ただで見たい放題だ。何も苦労して女を口説き金を使う必要もない。現代のデートは割り勘らしい。恋愛も様変わりした。付き合ってすぐに寝るが、別れるのも早いそうだ。スタンダールや坂口安吾の「恋愛論」、ラッセルの「結婚論」はもはや虚論となりはて、若者にとって、全てを犠牲にしても相手と一緒になりたいという純愛は伝説となった。アダムとイブ以来、人間は恋に落ちて堕落するのである。恋に落ちた二人は、世間とは距離をおき、二人だけの世界に閉じこもって孤独な二人と化す。堕落とはこのようなものだが、現代の恋は、男女のありふれた関係であり、孤独や堕落とは無関係である。アダルトサイトで性的欲望を満たしたとしても、男女の性にまつわるどろどろとした欲望の果てを体感できるわけではない。性の堕落を避けるのが現代流恋愛術であり結婚観である。

  食欲はどうかと言えば、グルメ旅行だB級グルメだと何処へ行っても贅沢な食い物には事欠かない時代である。かつて、昭和30年代から40年代にかけて、日本が高度経済成長時代のまっただ中にあった頃は、誰もが「寿司が食いてー」、分厚い「ステーキが食いてー」と思ったものだ。贅沢品は高かった。とてもサラリーマンの給料では手が出ない代物である。毎日、仕事帰りに寿司屋で寿司をつまみながら一杯やるなどは、金持ちのステータスで、会社の社長か重役、商売人以外には無理だった。会社の交際費に制限がない時代だから、零細企業が儲けたら交際費で使わなければ税金で持って行かれるのだ。さて、現代となると、寿司は格安の寿司チェーンでたらふく食えるし、ステーキだって同じようなものだ。それにしても現代の若者のグルメ行動にはちょっとびっくりだ。生卵を食べるために車で数百kmもとばすのだそうだ。山梨県の田舎にうまい焼肉屋があると知れば、東京から食いに行くという。生卵1個で交通事故の危険もかえり見ず、ガソリン代と時間をかけて食いに行く、「馬鹿者」という前にあきれかえって物も言えない。珍味、グルメを格安で体感したからといって人生に何ほどの影響があるか。三度三度の食事に工夫を凝らし、毎日食べても飽きないメニュー、健康にいい食事、しかし贅沢ではないメニューを自ら考え、試行し、実践する知恵もない。グルメ情報に踊らされ、「あなた食べたことないの?」とこれみよがしのオタクを披露する。料理がうまいというのは、単に珍味であるとか素材とかではない。例えば、和食であれば、格式が高く、伝統的建築様式美に溢れた料理屋で、小粋な女将が、そっと差し出すセンスの良い向付けの絶妙な酢の物を肴に一杯やりながら、ちょっと危ない下ネタをさりげなく混ぜた会話を楽しむということだ。贅沢の極みであるが、これこそが食の堕落である。現代の若者のグルメ指向は堕落とはほど遠いのである。30代のうちに一度はこういう贅沢を身銭を切ってやってみろ。ただし、一度や二度の経験では、こういった楽しみを味わうことはできない。金と修行が必要だ。真の食の欲求を満たす堕落は容易ではない。

   師匠堺屋が言う「欲」を現代若者の一般的現象からみれば、欲望の渦にどっぷりとつかりきれず、かといって欲がないのではなく、少しばかりの欲で試してはみるが怖くて手が出せないのである。最近の脳科学によれば、思春期の反抗的行動は、記憶を司る海馬に近い部分に怒りに関する脳があり、記憶力が増す年代ではこの部分が敏感に反応するが、それに反して、理性を働かせる前頭葉が未発達なため怒りを理性的に抑制することができないことによると説明されている。さらに恐れに関する脳部分も海馬に近い部分にある。感情に関する全ての脳部位は、海馬という記憶メカニズム脳の近くに位置している。理性とは、問題に対して知識・経験知を論理的に組み合わせた対処方法のメニューとでもいうべきものであるから、怒りや恐れに対する対処メニューがない状態では、どうして良いかわからない状態となる。だから反抗的行動による経験知を積み上げなければならない。どうやら、若者に「欲がない」原因は、経済・社会が安定していることが原因だとは言い切れない。

  ところで、今から20年以上前になるが、30代の若手の研究者達と議論する機会が多くあった。その議論の中で、彼らの専門分野に踏み込んで批判めいたことを言うと、彼らは青筋をたてて怒り出したのだ。専門分野以外の社会問題や思想といった議論では、今度は黙り込んでしまう。質問を向けるとやはり真っ赤になって怒るのである。若手官僚との議論でも同じであった。当時は、こちらが年長なのに大人げなくむきになって議論を仕掛けたせいだろうかと、怒る理由がわからなかった。今、考えてみると、一つは、当時の若者達の知識人としての一般的教養レベルが格段に低かったことが考えられる。立花隆氏らが、若者の「知」的水準の低さを盛んに論じていた時代であった。知らなければこれから知ればいいだけである。恥でも怒りでもない。一方、専門分野といっても20世紀後半からは研究者の専門領域は極めて狭くなっている。現代では、重箱の隅どころではない。狭い領域の研究だからごく限られた研究者しか知らないのは確かである。しかし、だからこそ、他の多くの研究分野の人と議論することが重要なのだが、「そんなことは許さない」と怒りまくるのである。こういった知識人が現在50代前半となって、現代社会のリーダーとなっている。考えてみれば、現代は、教養なき大人達によって支配された恐るべき時代なのである。40年以前から始まった家庭内暴力、家庭崩壊、校内暴力、ゆとり教育、いじめ、少子化、高齢化といった社会変動と、バブル経済、デフレ経済という経済変動の二つの変動が、子供達の精神の発達に何らかの影響を与えたと言えそうである。

  師匠堺屋の言う3Y問題の解決策は、容易には見つかりそうにない。日本が破綻し、貧乏のどん底に身を置き、生きるためなら何でもするという状況にまで追い込まれない限り、精神革命は起こらない。現代は、意識改革などという生っちょろい手段では到底回復不能な時代なのだ。人間の精神は、欲望によってその根本が形成される。

  ところで、中国人の思想家に林語堂という人がいるが、彼は「中国=文化と思想」の中で、「中国人は進歩よりもむしろ生きることに重きを置いている」と語っている。中国の長い歴史は、孔子、老子らの偉大な思想家を生み出した一方、戦争にあけくれ数知れない皇帝を誕生させては消えていった。長い歴史の積み重ねによって中国庶民の生活思想に、「可知の世界はすでに先祖によって窮め尽くされ、人類管理の最後の言葉はすでに喝破され、書道芸術の最後の風韻はすでに発見されてしまった」という感慨を埋め込んだと、林師匠は言う。今を生きることにのみ思考し、何が美徳で何が正義か等々の先人が喝破したことについては思考を停止することにしたのである。現代日本人の思想そのものではないか。今を生きれば明日のことは明日考える。「風と共に去りぬ」という映画のシーンで、スカーレットオハラが「After all, tomorrow is another day!」と独り言を言う。直訳すれば、「結局、明日はまた別の日よ」となるが、「明日は明日の風が吹く」と訳す場合もある。しかし、頭の中が一杯になってこれからどうすれば良いかわからなくなった自分に「明日のことは明日考えよう」と言い聞かせるとする方が適切な訳のように思える。「後は野となれ山となれ」という思想は、人生観の本質を指している。

  断っておくが、知識と教養とは「知っているか知らないか」というレベルでは同じであるが、教養は知識を身につけ自らの思想、行為にまで高めることである。最近、社会問題、経済問題、政治問題で知識人、専門家なる者がテレビに出演して得意満面に専門的知識なるものを披露している。単なる知識の披露であり、知識人には違いないが教養人であるかどうかはわからない。この変動の時代を成長期で過ごした現代の知識人、専門家なる者が、専門的領域について話を始めると立板に水のごとくである。日本書紀、源氏物語、徂徠学等々、まあたいしたものだ。よく、そこまで体系だって記憶したものだと感心せざるを得ない。しかし、考えてみると、知は金で動き、知も商品なのである。一方の教養は金では買えず、金で動きようがない。ニュース報道やワイド番組が単なる知の切り売りにしか過ぎないとすれば、何とも浅薄な世相ではないか。日本の教養は何処に行ったのだ。これこそが「知の堕落」に他ならない。

  さて、師匠堺屋が言う「欲なし」については、中国思想にかの有名な「足るを知る」思想がある。「知足」思想は、老子・荘氏の思想の一つであり、「老子」の第33章、第44章、第46章に見られる。「足るを知るものは富む」から、「欲望を抑えてほどほどのところで満足すれば心穏やかに暮らせる」といった意味で使われている。国を支配し安定した治世とするためには、庶民の飽くなき欲望を抑えることが重要だという解説もある。この根拠は第46章の解説に見られるが、比喩として戦争を取り上げたもので、どう読んでも支配層を主語としているとは考えにくく、全ての人類に対して説いたものと考えるのが妥当なところである。前述の師匠林曰く、中国人の「足るを知る」思想とは、「人生から最も素晴らしいものを摂取しようとする堅い決意、所有する一切を享受しようとする欲望、万一得ることができずとも悔いなしとする心」であると。欲望を抑えるのではない。あらん限りの欲望で人生を生き、得られなければそれでも良いとするのが「知足」の精神なのである。2500年前の思想家が、「欲望を捨てよ、そうして心安らかに生きよ」と説いた「知足」の思想は、2500年を経ると、「欲望なき人生なんぞ何のための人生か、欲しいものが手に入らなければそれはそれで良い、後は野となれ山となれ」という思想となった。人間から完全に欲望を取り除くことはできない。生存欲、知欲、野心等、数え上げればきりがない。しかし、個人的領域に限られる欲望であり、他を犠牲にして得るものではなく純粋に個人の力で得られる欲望に関しては貪欲に追求し、所有することに執着するが、得られなくとも落胆したり後悔したりはしないということである。何となく、今の日本の生活思想に似ていないか。人生を楽しむためには貪欲であるが、社会や政治には関心がない。「経済はもはや生産ではなく消費だ」という経済学者の主張は、経済の実態から分析されたものだと思われるが、「知足」の思想は消費型経済に具現化されたのである。社会の変化は個人の生活思想の変化と同期し、経済の変化は欲望の変化にその本質がある。

  戦後復興の生活思想は、「武器よさらば」、「米国礼賛」、「経済優先」、「核家族」、「オラー東京さいくだ」、「3C」の言葉に代表されるように、自己及び家族を如何に豊かにするかというむき出しの欲望にあった。反面、労働争議、安保闘争等豊かさと対峙する貧困とイデオロギー闘争はあったが、豊かさの追求という欲望のスピードは、真理の追究のスピードよりも遙かに早かった。社会・経済・政治に関わる高邁な思想は、際限なく増大する個人の欲望によって駆逐された。誰もが、限りなき欲望こそが個人及び家族の豊かさの絶対的真理だと信じた。しかし、欲望が頂点に達した時、バブルがはじけた。際限なき欲望が行き先を見失った時代、その時代こそが「欲ない、夢ない、やる気ない」人間を生み出したのである。今や、現代思想ともいうべき確固たる思想はどこにもない。僅かに、師匠林が喝破した現代「知足」思想の日本版である。日本版という意味は、現代日本人は、中国人ほど確固たる人生への決意もなく、中国人ほど所有に執着せず、中国人ほどあきらめが良くないと言う点で日本版なのである。

  思想は、しばしば政治思想、社会思想、経営思想等々、国家、社会、組織の存在意義・価値の抽象的な論理体系として論じられる。しかし、思想は個人の思考そのものであり、個人が考えうる言葉を用いた思考の中の想像物であり創造物である。今そこにある現実ではなく、過去の事実でもない。今そこにある現実も、すぐに過去のものとなる。従って、思想はものごとの本質に迫るのである。自らの思考力を高め、思想的であるためには、ものごとに対して常に「何故、なぜ」と問わなければならない。思考を停止してはならぬ。何故、現代は「欲ない」かと問えば、前述のように様々な思考が可能である。一部は正しいかもしれないが、全てを説明してはいない。現代に思想はあるかと問えば、「思想」とは何かから問わなければならぬ。思想とは、抽象的で論理的で極めて理性的な創造物ではない。個人が、感性と知識と経験から個人をとりまく問題の本質に迫るとき思想となる。思想に関する文献は、明治以来、内外文献を問わず数多く出版され、戦後から1970年代までは、戦後思想としてマルクス等多くの出版物がある。思想は、マルクス主義であれ自由主義であれ、恋愛論であれ幸福論であれ、一人の個人の思考の結果に過ぎぬ。間違ってはならぬ、これらの思考の結果が絶対的真理であるとは限らないのだ。師匠丸山(丸山真男)は、日本では、「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されないという伝統がある」と言う。つまり、同じ論点を時間をおいて何度も繰り返し、いつのまにか元に戻ってしまい、真理の追究には至らないのである。特に戦後の科学技術、社会制度の変化は激しく、真理、真理と言っている間に現実社会がどんどん変質する。思想はフィクションであるとすれば、フィクションが現実とはかけ離れたものとなるのである。唯一、現実とマッチする思想があるとすれば、「後は野となれ山となれ」の思想である。

  我が国人口の25%が高齢者となった。死ぬ準備をしている人が4人に一人いるのだ。恐るべき社会ではないか。第二次世界大戦においてさえこんなことはなかった。「後は野となれ山となれ」は、やることはやったから後はどうなろうと知ったことかという意味で使われる。死に行く者に未練がないかと言えばないとは言い切れないが、100%死ぬのだから、未練があってもどうにもならぬ。「欲がない」かと言えば、いい女やいい男と最後に一度ぐらいはなどと下手な冗談を言うが、本音で言えば、いろいろな欲はある。しかし、どうにもならぬ。ヨーロッパ、アメリカ、日本がこういった状況に入り、中国もこれに続く。確実に先進国人口の1/4の中心思想は、「後は野となれ山となれ」となるのである。この思想は、社会に何をもたらすのだろうか。

  財産が沢山あれば、遺産相続で少しは残してやるが、できれば使いきって死ぬ方が爽快だ。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン主演の映画「最高の人生の見つけ方」は、余命を知った老人二人が、人生の最後にやりたいことをリストアップし、それを一つづつ実行して死んでいくという物語である。有り余る金で、グルメの極み、スリルの極致、性への陶酔と欲望と堕落の限りをやるが、結局のところ愛する者と最後の時を迎えるというものである。人生の結末は、真に自分が満たされて死ぬことである。

  これからの日本では、仏教・キリスト教などの宗教思想、武士道・商道など日本特有の伝統的道徳思想、「知足」思想などの東洋思想、これらが混じり合った思想の混沌などではなく、「後は野となれ山となれ」という単純明快な思想が流行る。思想が流行るという言い方はおかしいと思われるかもしれないが、「時代の思想」というように思想は人々に伝染し流行りすたりがある。流行りすたりの積み重ね、繰り返しの中からいつの時代にも生き続けた思想が、大衆、民衆、土着の思想として根付くのである。「後は野となれ山となれ」という思想は、人類普遍であり、現実である。思想というにはあまりにも単純であり明解すぎる。感情的でもなく、かといって抽象的・論理的で理性的な思考でもない。しかし、「後は野となれ山となれ」の心境に至るのは、たやすいことではない。まずは、やりたいことをやってみなければならぬ。人間はおろかなものだ。堕落しなければ、真の天国の門を見いだすことはできない。「ピンコロ」で死にたいと願い、神や仏を祈ってみても無駄である。健康に気を付けて、食事とサプリメント、運動に励んでみても無駄である。健康食品産業と健康器具産業を富ませるだけの人生の終焉などはやめておけ。やりたいことをリストアップするのだ。妻や夫、子や孫の心配などはする必要もない。派手な葬式や不相応な墓等は不要である。金があるなら、リストの中から順番に実行するのだ。いい女やいい男がほしいと思ったら、道徳や倫理はかなぐり捨てろ。やりたいことのために全ての力と金をつぎ込むのだ。自分のことだけではない。社会がおかしい、政治が悪いと思えば、仲間を集め政党を作れ。地方政党で十分である。社会活動への寄付などはやめておけ。金で済ますなどは下の下だ。私のように財産もなく金もない貧乏人は、働くのみだ。死ぬまで、ビジネスチャンスを追い続ける。老後に思い切りゴルフをやりたい。いいだろう、やってみろ。どうせやるなら、ゴルフ場の近くに住み、毎日やることだ。自分の何を満たせるかは、やってみなければわからない。そして、「後は野となれ山となれ」で最後を迎えるのである。

  「後は野となれ山となれ」という思想は、人が死に直面したときの現実の思考である。それが死ではなく、人生における一つの区切りであっても、自己以外の他者への未練を断ち切り、明日のことは明日考えるという覚悟こそがこの思想の本質である。

  戦後、70年以上経て、エネルギー不足となった若者達と、「後は野となれ山となれ」と死を迎える老人達で占められた日本において、政治は今よりはヨリ良くするといって法律を改正し、行政組織は屋上屋を重ね、国民負担を積み増し、重税へと進む。経済組織は、一向に生産性の上がらない日本に見切りをつけてグローバル化を加速する。今、死に行く人ができることは、「後は野となれ山となれ」の思想の実践である。それも徹底的にやることだ。もはや、政治・経済・社会・環境等はどうでもよい。後は生きているものが好きにやれば良い。地球の有限な資源は、利用し続ければ100年~200年で枯渇する。利用しなければ人類は死滅する。いずれにしても、数百年先には、人類が死滅することは明白な事実である。そんな先のことは生きていないのだから見ることはできない。やはり「後は野となれ山となれ」は真理である。
                                                                                                                                                                      2017年11月26日

参考
有閑階級の理論  ソースティン・ヴェブレン著 高哲男訳、筑摩書房
結婚論 バートランド・ラッセル著 安藤貞雄訳 岩波書店
恋愛論 坂口安吾 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
恋愛論 スタンダール著 大岡昇平訳 新潮社
中国=文化と思想 林 語堂 著  鋤柄治郎 訳 講談社学術文庫
日本の思想 丸山真男著 岩波新書
2019/05/28

堕落論2017 NHKはまだ必要か

  テレビ放送、インターネット、スマホだと世の中は、情報で溢れかえっている。情報爆発である。確かに、我々は、情報社会のまっただ中にいる。固定電話を持たない家庭が増えているという。固定電話の必要性がなくなったのである。私は、携帯電話もスマホも使わない。携帯電話は外出の時に持って出るが、緊急の場合の連絡用である。公衆電話がなくなったのだから仕方がない。公衆電話や電話ボックスが全くといっていいほど姿を消した。東京駅で公衆電話を探しても見つからない。日本だけかと思いきや世界的な傾向だそうだが、アメリカでは公衆電話が見直されているそうである。公衆電話の廃止は、採算性が悪いという理由だけではないと思われる。公衆電話があると、携帯やスマホの販売数が増えないからというのも理由の一つに違いない。
  
  テレビ放送も様変わりした。アナログ放送からデジタル放送へと通信方式も変わったが、それよりも放送チャンネルの多さである。地上デジタル放送のチャンネル数に大きな変化はないが、衛星放送のチャンネル数は、BS、CSでゆうに300チャンネルを超えるだろう。通信販売、有料放送、無料放送と放送内容も種々雑多である。

  このネットを中心とする情報社会の中で、公共放送なるものが存在し続けているぐらい不思議なことはない。公共放送について議論を進める前に、テレビ、ラジオ、新聞といった従来のメディアの現代的役割をみる必要がある。
  
  新聞については、全ての先進国において規模縮小、廃業に追い込まれており、ネット配信が主流になりつつある。有料の配信もあれば無料の配信もある。新聞の歴史をみると、新聞報道に対する姿勢は必ずしも中立的であったとは言いがたい。むしろ、新聞初期の時代には、時の政治権力、政府に対する批判勢力として機能し、言論の自由をうたっていた。日本語で批判というと、「あら探しをして人を中傷する」というイメージであるが、英語で「批判する」は、criticizeであり、勿論、「あら探し」や「非難」という意味もあるが、語源はギリシャ語、ラテン語にまで遡り、英語のcriticと同義である。criticは、評論、批評であり評論家、批評家の意味もある。何が事実で何が事実でないか、何がわかっていて何がわかっていないかの境界を明らかにすることを評論、批評という。新聞初期の役割は、政治評論であり社会評論であった。発行者の意志・思想が強く反映されたものであったが、新聞の販売を始めると、すぐに購読者のニーズへの対応を迫られることになる。要因は、経営が成り立たないことである。発行部数を増やし、広告主を探す必要に迫られた。明治初期から日露戦争直前までの新聞報道において、中江兆民が果たした役割は極めて大きい。現代政治思想の根幹は、明治10年頃から日露戦争直前までの、まさに兆民らが政治評論・社会評論で活躍した時期に形成されたと言える。この時期以後、新聞は良くも悪くもニュース報道を中心に、大衆・庶民が求める情報提供、政府のプロバガンダ等々、多種雑多な情報紙としてテレビ放送が開始されるまでメディアの本流としての地位を保つことになる。

  一方、テレビ放送は、昭和28年2月にNHKが、8月には日本テレビが実用放送を開始している。本格的にテレビが一般家庭に普及するのは、昭和34年の皇太子御成婚報道以後であると言われている。テレビ放送の特徴は、映像をリアルタイムに家庭に届けることにあり、皇太子御成婚のライブ放送等は、面目躍如といったところである。その後も、ケネディー暗殺、月面着陸、東京オリンピック、60年、70年安保闘争報道、浅間山荘事件24時間放送と、イベントや事件に事欠かない時代背景も重なって、テレビ報道は、新聞報道よりも優位にたつことになる。それでも、社説、評論等の文字による報道という特性を持つ新聞は、一面ではテレビ放送と一線を画していた。テレビ放送は、イベント・事件の映像を伝える点では優れていても、そんなに大それた事件や、大イベントがしょっちゅうあるわけではないから、ドラマや歌番組、クイズ番組等娯楽番組がその大半を占めていた。娯楽番組のほとんどは、アメリカの物真似であったが、アメリカの番組を見たことがない庶民にとっては、極めて新鮮なものであった。TVドラマで人気を博したのは、アメリカのTVドラマだった。今でも続く、NHKの朝ドラ、大河ドラマ、紅白歌合戦は、昭和を代表するTV番組であった。当時は、年齢を超える高い視聴率を確保した。これらの番組が、大衆から熱狂的に受け入れられた背景には、戦後経済成長というほぼ絶対的とも言える条件が重なっていた。豊かなアメリカ社会のニュース、ドラマ、音楽等が毎日のように日本の庶民に降り注いだ。そして、ついに、ジャパン アズ ナンバーワンの登場となる。

  1970年~80年代にかけて日本が熱狂的に浮かれた時代、経済成長の恩恵にあずかった最後の時代に、テレビ放送は考えられる限りの娯楽番組を制作した。

  インターネットの登場は、1995年のWindows95の発売後に広まった。本格的な普及は、光通信網の全国的整備以後であるから2010年代に入ってからである。日本の通信網の整備は、世界の先進国に比べてかなり遅れた。韓国に比べてもかなり遅い。この遅れが、その後の日本IT産業が世界の開発競争から遅れる大きな要因となったと考えられるが、もっと大きな原因は、バブル経済末期の1980年代後半から1990年代前半にあった。スマホは、2008年のiPhonの発売以後であるから、これも2010年以後といって良く、ここ数年のことである。GPS機能を除けば、ほとんどパソコンと同じ機能である。LSIの集積度、処理速度の飛躍的向上がスマホの誕生となった。理論的にははるか昔のものであり、製造技術の進歩によるものであるが、スマホよりも、サーバーと言われるコンピュータの処理速度と記憶容量の進歩はすさまじいものがある。また、この20年間のプログラム言語の進歩もかなりのものだが、言語というには少し問題があるかもしれない。

  インターネット上には、ありとあらゆる情報が記憶されている。ブログ、SNS、ツイッターには、世界中の膨大な個人情報が蓄積され、公開されていれば誰でも情報を見ることができる。トランプの言っているフェークニュースも堂々と出回る。サイバー空間は、まさに現実社会から情報だけを切り取った情報社会なのである。情報の発信者と受信者は、情報だけで相手のことを想像する。私は、中学生の頃、オランダの女の子と文通をしたことがある。文通の内容と言えば他愛もないことだが、一枚程度の便箋に書かれた内容で女の子のことを想像するのだからいい加減と言えばいい加減なものだ。現代の情報空間では、写真もビデオも掲載できるので、一枚の便箋よりも情報量ははるかに多いが、果たして、私が文通をしていた情報と何が違うのだろうか。私の文通の内容は、日常のこと、日本の歴史、習慣、家族のこと、学校のことであり、中学生が発信できる情報等はたかがしれている。女の子の手紙の内容などは全く覚えていない。サイバー空間を飛び交う個人間の情報のたぐいは、こんな程度のものである。サイバー空間を通してどんなに多くの人と交信したとしても、人生においてはほとんど無意味なものである。

  私がインターネットを利用するのは、メールが仕事上なくてはならないこと、新聞をとっていないので新聞代わりにニュースを見ること、辞書代わりに検索すること、ネット通販で書籍その他を購入することの4つである。肉体労働ではないので、情報さえあれば仕事ができるからメールは仕事上の必需品である。メール機能だけで元は取れている。ニュースを見るための利用があるが、テレビのニュース放送があまりにも内容がないので確認のために利用する。それこそフェークニュースがあるから、新聞社等のニュースで確認することにしている。辞書代わりの利用は、重宝するが内容に間違いが多いので電子辞書で確認する。また学術論文の検索は結構重宝している。ネット通販は、書籍の購入ではかなり便利だ。しかし、ぱらぱらと読んで選ぶということが出来ないので、これもネット上で書評等を検索したり、購入した雑誌等を参考に選択する。

    インターネット、スマホ、パソコン等を利用する情報社会の現実とは、私の利用範囲が一般的だろうと思うが、SNSで積極的な情報交換(おしゃべり)している個人も、アメリカの大統領でさえ利用するぐらいだから、膨大なユーザー数に達している。世界中で活動しているユーザー数は、20億人を超るという。世界人口の30%を超えるではないか。我が国でも6千万人~7千万人に達し、全人口の半数を超える。勿論、一人で複数の登録をしている場合もあり、かつ企業も登録しているから、人口と比較することは適切ではない。SNSユーザー登録数をみると、古くからあるSNS提供会社の登録数は年々減少の傾向を示し、新たなSNS会社が新技術を開発して登場するとユーザー数が増加する現象が起きている。

  何故、SNSに人が引きつけられるか。これまでのテレビ、新聞等のメディアでは、個人が情報を発信するなどということは不可能であった。個人が、メディアに取り上げられるのは、犯罪事件の犯人か政治家・俳優・歌手等の有名人に限られていた。それがSNSの登場で簡単に世界中に自分を発信できるようになった。目立ちたいという自己顕示欲を簡単な方法で実現できるのである。知性を発達させ言語を獲得した人間というものは、何ともやっかいな生き物である。情報社会は、自己顕示欲で充ち満ちた世界なのだ。堕落した世の中とは、欲で満ちあふれた社会でもあるから、仮想空間の情報社会はまさに堕落社会の代表とも言える。現実社会の中から情報を吸い上げて仮想空間に投影したら、自己顕示欲という人間の持つ一種の欲の情報が多数を占めたのである。SNSの内容を見ると、日々の行動、何を考えたか、自分が最近購入した物の情報等々、個人のありふれた内容ばかりである。「私が、僕が何を考えているか知って!」、「私が、僕が今日何をしたかわかる?」という情報に好奇心をかきたてられないかと言えば、興味を抱く人間も多いだろうが、長くは続かない。自己顕示欲を満たす情報は様々であり、グルメ、旅行、趣味、音楽、ファッション、コスメ等々の人間生活のあらゆる部面に存在する。SNSを経営する会社は、これでもかこれでもかと目先を変えて情報発信をしろと誘惑する。こうして、現実社会の多くの部分が、仮想空間で情報として記録され交換されることになる。現実社会の日常というものも他愛ない情報からなっていることを考えれば、ネット社会は情報による仮想社会だからこの点において変わりはない。しかし、現実社会と異なる点が一つだけある。現実社会で付き合う人間の数は、数人程度でそれもよく知っている人間であるが、ネット社会では膨大な数に上り、全く知らない人間であることだ。

  ところで、スモールワールドと言う言葉をご存じだろうか。ディズニーランドのスモールワールドのことではなく複雑系で取り扱うネットワーク理論の一つである。全く知らないある人と出会って話をしていると、共通の知人がいたといった経験がある人もいるのではないだろうか。「世間は狭いものだ」ということを科学的に立証したのがスモールワールドである。人間の情報ネットワークでは、人から人へと情報を伝達すると数段階でほぼ目的の人にたどり着くということである。SNSを利用すれば、このスモールワールドを体感することができる。

   話題が、SNSから複雑系へとそれてしまった。話を、NHK問題に戻そう。この70年間で、メディアの主流は、新聞からテレビ、テレビからインターネットへと大きく変化した。特に、この20年間の情報社会は、現実社会の投影としての性格-堕落の構造-だけが強調されている。

  さて、NHKであるが、NHKは、日本郵便(株)等と同じ特殊法人であるが、株式会社ではない。株式会社の場合には、株式公開を前提としているが、NHKは民営化の方向も見えない特殊法人である。NHKの受信料契約の憲法違反を巡る裁判が最高裁で争われており、1ヶ月後には結審の予定である。NHKは公共放送ということになっている。NHK問題を考えるとき、常に公共放送とは何かという極めて曖昧な問題を議論しなくてはならない。ちなみに公共放送とは、放送内容が公共的であるということではない。公共放送事業体としてのNHKという意味で使われている。アメリカにPBSという公共放送がある。PBSは受信料を徴収していない。参考までに、公共放送で受信料を徴収していない国には、カナダ、ニュージーランド等がある。PBSとは州や地方の小さな公共放送の連合体であり、NHKのような巨大な組織ではない。財源は、連邦予算、寄付金、広告収入等である。PBSは、市民的公共組織と言って良い。NHKが公共事業体かと言えば、特殊法人だから公共事業体には違いない。しかし、経営財源は、国の交付金も僅かながらあるものの大半は受信料収入によっている。利用者からの収入によって経営する点では、日本郵便(株)と同じであるが、郵便は利用したときに支払い、利用しなければ支払う必要はない。公共的事業体には、例えば電気会社、水道事業等があるが、いずれも利用しなければ支払う必要はない。

  ところで、気になる受信料契約であるが、イギリスBBCではテレビを買うときに半年分の受信料を支払った証明書を必要とする。ドイツでは、受信料徴収が連邦裁判で違憲状態であるとされ、世帯、事業所から無条件に徴収する方式に変更したとのことである。イタリアでは、面倒くさいので徴収をやめたそうだから、いかにもイタリアらしい。ちなみにイギリスBBCのチャンネル数は20を超えており、制作されるソフト数は、NHKとは比較にならない数に上る。

 日本、イギリス、ドイツは、強権的受信料契約制度と言えそうだ。イギリスの権力集中と国家的強権性は、王権の残像を今に残す伝統的国家統治思想と無関係であるとは言えそうにない。ドイツは、国家連邦は放送に関与しないことを国是としており、州の公共放送の連合体のARDとZDFで構成されている。ドイツは、ベルリンの壁の崩壊後、国鉄、郵便の民営化を行ったが、公共放送は州の管轄であることから体制は現在まで変わっていない。

  ところで、テレビ放送は全てディジタル化されたことから、基本的にスクランブル放送に設定することが可能である。いつでも有料放送と無料放送を切り替えることができ、無料放送の場合にはスクランブルを外せばいいだけである。何故、NHKは、有料放送にしないのかである。イギリスやドイツでも同じことである。イギリスの報道をみると、有料放送にすると契約数が激減するからだそうだ。契約数が減ると経営不能に陥るので有料放送にはできないというのがBBCの主張だ。

  公共放送を残さなければならないという政治的必然性は、どこから生まれてくるのだろうか。ドイツは、ナチス時代に放送がプロバガンダとして威力を発揮した経験から連邦としての公共放送をやめたが、州では維持し続けている。ヨーロッパ諸国では、第二次世界大戦時代の放送メディアに対する恐怖とでもいうべき記憶が今も後を引いているとしか考えようがない。国民の不満が大きくならないように、受信料を加減し、徴収方法に配慮しつつ、しかし、体制は残すというのが政治思想として今も脈々とヨーロッパ諸国の底辺を流れているのではないだろうか。このインターネット時代、ネット情報社会では時代遅れも甚だしいが、それよりも頑冥な政治思想の持つ怖さである。

  受信料の強制契約は、貧乏人はテレビを見るなということなのか。子供の貧困、生活保護費の増加、シングル家庭の増加等々、給食費さえままならぬ家庭が増えている時代に、年間2万円を超える受信料の強制契約は、まさに圧政に近い政治手法ではないか。

  一方、NHKの受信料契約については、最高裁により「契約の自由」、基本的人権を争点に争われている。しかし、いやしくも契約というからには、提供者、購入者の双方による契約が成立しなければならない。契約に関する常識的範囲では、NHKの受信料契約なるものは道理的ではない。前述のように、ディジタル放送ではスクランブル放送は常識であり、NHKを含め全ての放送電波がスクランブルされている。NHKは、有料放送に切り替え、契約世帯にのみ受信できるようにすれば良いだけである。BBCやドイツの公共放送においても同様の議論があったそうであるが、前述のように現在の規模を維持できなくなるという理由から問題を先送りしている。一定規模以上の受信料収入が必ず入ることを前提とした経営が存在することもおかしいと言えばおかしい。放送法により、受信者は受信料の支払が義務づけられているが、これもおかしいと言えばおかしい。年金制度も日本年金機構という特殊法人が行っているが、年金を支払わなければ年金は受け取れないのだから契約としては常識的である。放送法だけが、受信料支払いの義務化と強制徴収を可能にしている。「受信料契約は何かおかしい」と感じているのは日本だけではなく、世界中の先進国に共通ではないだろうか。

  公共放送が始まったのは、これも世界中ほぼ同時期の1920年代である。E.H.カーの言う「危機の20年」の時代に、ラジオ放送の実用化のための公共経営組織として登場した。第一次世界大戦から第二次世界大戦前までの20年間であり、この間の技術開発、軍備拡張はすさまじく、さらに世界各国の政治・経済も大きく変動する。世界連盟の設立、ロシア革命等、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの世界情勢は、猫の目のように変化していた。政治思想、社会思想においても同様である。実用化可能となったラジオ放送は、当時の政治権力にとって、国内の思想的混乱を最小限に抑えるために、政治思想の啓蒙・普及のプロバガンダとして効果的で効率的な道具であった。第二次世界大戦がはじまると、公共放送のプロバガンダとしての効果は決定的となった。戦後回復期においても同様である。自由主義圏は反共産主義を、共産主義圏は反資本主義を喧伝するために、公共放送は格好のメディアとなった。戦前、戦中、戦後という危機的社会状況においては、政治的行動というものは向かう方向は違っていても、強固な社会秩序の樹立と言う点では同じなのである。

  しかし、こうも平和な時代が長く続くと、危機的状況において極めて効果があった公共放送の役割は失せて、公共放送の組織体そのものが漫然と肥大化するのみとなる。組織というものは、経営財源に何らかの制約がなければ無限に拡大する。歴史的に、公的組織そのものが内部から改革することなどはあったためしがない。受信料は、制約条件のない組織財源の典型的な例である。現在の経営が成り立たなければ、受信料を上げれば良いのである。郵政民営化は、貯金・保険資金の政府への流入を止めることが目的であったろうが、それよりも組織の肥大化に歯止めがかけられなくなる限界であったに違いない。この意味では、小泉改革は評価できる。NTT、国鉄の民営化も同様である。現在、残っているのは、NHKと国有林である。

  国有林問題もいつか堕落論2017の議論にあげなければならないが、まずはNHK問題である。なぜなら、公共放送の存在価値や税金でもない受信料を強制的に徴収することの合理性について、政治・政府は何も説明していないからである。組織の制限なき肥大化に対しては、NHK人事、予算の国会承認が歯止めになっていると言うだろう。経営が成り立たなくなり、赤字が累積される状況になったとき、国民は税金の投入を認めるのか。年間8千億円もの費用がかかる法人である。受信料収入が仮に20%ダウンすると毎年の赤字額は1,600億円にもなる。5年間続くと8千億円もの借金を抱えることになるではないか。少子高齢化社会で、20年後には高齢者世帯のほとんどがいなくなる。受信料収入は、今から毎年減少し、おそらく2~3年後からは、毎年、受信料を上げざるを得なくなるというのが現実である。

  最高裁の判決がどのようになるかは想定さえできないが、受信料契約に違法性があるということぐらいの判定がなければ、現代民主主義国家をスローガンとする我が国の正義と我が国が依ってたつ法治思想が疑われる。NHKという公的組織をどうするかは政治的問題である。政治家が現実を直視し、かつての政治家が自らの政治思想を貫き組織改革を断行したように、NHK改革を断行する時代に入った。目先の政治的野合と保身に汲汲としている堕落した政治業界が、NHKという巨大メディア組織に切り込むことができるか。国民国家では、政治家を選ぶのは国民であるから国民が悪いという批判は正しくない。なぜなら、国民にできることはうまいことを言う政治家に票を入れることぐらいだからだ。国民の関心が薄いから、公共放送は際限なき肥大化へ向かうという批判も正しくない。NHKを変えられるのは、政治家しかいないのである。一旦、戦争を始めたら国民には止められないのと同じである。政治だけが戦争を止められるように、特殊法人という政治的判断により設立された組織の自然膨張を止めることができるのは、政治だけなのである。
                                                                                                       2017年11月6日
                                                                    
参考
   明治初期に活躍した思想家、評論家。「中江兆民評論集」(松永昌三編 岩波文庫)等。
○ジャパン アズ ナンバーワン
   「ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓」(エズラ F. ヴォーゲル 広中和歌子、
        木本 彰子 訳 TBSブリタニカ)
○スモールワールド
      「複雑な世界、単純な法則」(マーク・ブキャナン 坂本芳久訳 草思社)
○NHK放送文化研究所のホームページで「シリーズ 世界の公共放送のインターネット展開」
 が紹介されている。https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/oversea/086.html
○危機の20年
   E.H.カー著 原 彬久訳 岩波文庫
2019/05/27

堕落論2017 選挙で何が変わるか

 また衆議院選挙だそうだ。国民に信を問うたびに総選挙となる。今回の衆議院解散総選挙の目的は一体何なのだろうか。文部科学省の忖度問題に端を発した一連の政治問題、特に安倍総理近辺に漂う不信感に決着をつけることを狙ったものなのか。それとも、北朝鮮に対する安全保障問題なのか。 安全保障問題だとすれば、自民党政権は北朝鮮の脅威に対して何をしたいのだろうか。戦争の危機が迫りつつあることは間違いない。危機的状況がどの段階にあるのかは誰も知らない。政府、政党、政治家、政治評論家、軍事評論家、誰も危機的レベルを評価していない。70代のぼけのはじまった爺様と30代の頭のいかれかかっている青年との罵倒を我々は見ている。

 この金正恩という男の異常さ、残虐さは並ではない。この男の命令で処刑された人数は、70名を超えているという。さらに、腹違いの兄までも殺した。独裁者による虐殺は、歴史の上では常識である。独裁国家では、必ず虐殺が発生する。とりあえず、都合の悪い奴は殺してしまうのである。考えてみれば、民主制のようにああでもないこうでもないと政敵と議論するよりは殺してしまう方が極めて効率的で経済的だ。民主制は、非効率で金がかかるのである。

 米国がこれ以上北朝鮮を非難し制裁を加えるなら、太平洋で水爆実験をやるという。本当にやるのか。ミサイルに核弾頭を搭載し、日本の上空を飛んで太平洋上に落とすことになる。日本は、どうするのだ。間違えたら日本に落ちて爆発するかもしれない。しかし、あくまでも目標地点を太平洋上においた水爆実験であるので、日本に対する戦線布告ではない。こんな論理がどこまで通用するのか。水爆実験だと宣言しているが、考えようによっては、日本に対する戦線布告にも等しい行為である。
 日本上空を通過するミサイルに対して日本は、何もしていない。トランプも馬鹿ではないと見えて、安倍総理に「日本はどうするのか」と尋ねているようである。トランプの言うとおりではないか。日本は一体どうするのだ。戦線布告と捉えるのか、実害が起きていないから声明は出すが何もしないのか。太平洋上での水爆実験が実際に行われたらどうするのか。既に、過去にもミサイルは日本上空を通過しているが、何もしていない。こんな国がどこにあるのだ。我が国領海にミサイルが到達した段階で爆弾の搭載の有無にかかわらず宣戦布告とみなし、我が国は自衛のためにあらゆる手段を講じるぐらいのことは言うべきである。こういった議論を野党も出そうとはしない。国会の議論としないから国民は政府自民党や野党の考え方を知るすべがないのである。当面の戦争危機に直面して、今の政治は、国民への責任を果たしていない。政治家は全て失格である。

 戦争になるかもしれないという危機に直面したとき、民主制の国家は、国民に対して何を問いかけ、国会はどのような機能を果たすのか。あるいは果たすべきなのか。攻撃に対する反撃は、安全保障法制により原則として事前に国会の承認を得るが事後承諾もあるというものだ。憲法9条により我が国から戦線布告はできない。一方、戦線布告されたときにどうするかという法律・憲法条文もないのである。何をもって宣戦布告と見なすかについても何もない。こういう状態を「平和ぼけ」というのではないか。かつて、金正恩体制に移行した直後、北朝鮮は韓国に砲弾をぶちこんだ。死者がでたはずである。韓国は、これに対して報復の砲弾で反撃したが、北朝鮮のこの行為を宣戦布告とは見なさなかった。韓国人の国民性というものはかなりわかりにくい。というよりは、理解することが難しいのである。韓国の首都ソウルから一番近い北朝鮮との国境までの直線距離は、僅かに40km足らずである。自走砲やカノン砲等のいわゆる大砲の長距離弾であれば80km程度までは到達するいうから、北朝鮮が国境付近から撃てば、ゆうにソウルまで到達する。北朝鮮は、既に8千基を超える大砲をソウルに向けているという。こんな状態であるにもかかわらず報道を見る限り、韓国国民は実にのんびりしたものだ。ソウルから逃げ出すわけでもなく、政府に対する非難もない。何故、朝鮮戦争後に、国境に近い危険地帯のソウルに首都を置いたのか。日本に近い半島南部に首都を移すのが普通ではないのか。このあたりの政治感覚は、理解不能である。朝鮮半島をみていると、平和とは、細い糸が今にも切れそうになりながら何とか布をつなぎ止めている状態であることがよくわかる。政治とは、何とかとりつくろっているこの細い糸である。

 ギリシャ・ローマの昔から現代に至るまで、政治権力とは武力であり、暴力である。法治国家の本質は、法律という絶対的権力による統治を意味する。法に反すれば、武力が行使される国家を法治国家という。法を作るのが政治である。法の執行権は行政機関にある。法に反すれば、法の執行を委ねられた行政機関の権限において法を執行する。しかし、法が真に正義であるとは限らない。ただし、権力を手にいれるために暴力を使ってはならないというのが民主制である。

 数年前に、NHKがマイケル・サンデルの「正義」についての講義を放送した。政治における正義とは何かを考える講義である。ところで、正義とは何かについては、民主主義が発明されたギリシャ時代から、ソクラテス、アリストテレスによって論じられてきた。近代以前の正義論は美徳から出発し、近代以後は自由から出発する。正義は個人の権利を制限する。だから、政治を論ずるときには正義を論じ、正義を論じるときには個人の徳を論じ、自由を論じなければならない。個人の徳と自由は、純粋に個人的諸問題として片付けることができないのである。我が国憲法では、個人の自由権は、第19条思想及び良心の自由、第20条信教の自由、第21条表現の自由、第22条居住・移転・職業選択の自由、第23条学問の自由として定めている。しかし、社会の正義と、個人の自由・美徳との間には大きな矛盾がある。

 正義論へと論点が逸れてしまった。話を元に戻そう。平和を維持するということは極めて難しい。国内外のいずれにしても、武力という力なしに秩序を維持することは、現代のどのような知性をもってしても不可能である。武力を持たなければ武力を持っている側の論理を正義として受け入れなければならないのである。人間は、理性だけで生きてはいない。多くの人間は、感情と知性のバランスで生きている。感情をうまくコントロールできなければ世の中をわたれない。しかし、先天的に感性が弱い、つまり低い感受性しか持たない人間もかなりの割合でいるらしい。脳の感情を司る機能が先天的に発達していないのである。サイコパスと呼ばれる症状である。感情に対する感応性は低いが知能が高いのが特徴であり、通常の生活行動をみているだけでは判断がつかないという。サイコパスの診断表なるものもあるがほとんどあてにならない。高い知性を持っているので、どんなときに怒り、悲しむか、そのための条件は何かについては学習記憶されている。そのため、悲しむ場面に遭遇すると瞬間的に反応する。しかし、その場面が悲しむための条件として記憶されていなければ悲しむ場面で悲しめない。特に、芸術的感性に至っては、サイコパスの人間は記憶と知識と理性により反応するため、芸術特有の美に対する精緻で微細な感覚を感知できない。何が芸術で何が芸術でないかを判断する基準として感情が働かないのである。サイコパスの人間は、高い知力を必要とする職業、法曹界、政治家、新聞記者、高級官僚、学者、医者等の職業につく場合が多いと言われている。感性を失った権力者が、知性、理性、論理だけによって秩序を維持しようとすれば、権力者同士の対話による感性の機微に触れた感動といったものが得られないから、最終的には武力の行使を正当化し信じ込むことになる。西郷と勝の江戸城無血開城の対談等は、豊かな感性を持ったリーダー同士の対話の典型的な例である。武士道の本質とは、感性と知性を磨きあげることにより、感情的な死闘やドグマに陥った死闘を避けることにある。孔子の言う仁も、豊かな感性と高い知性との融合状態をさしている。

 ところで、人が他の人への信頼感を抱いたり、一体感を持ったりする、いわゆる社会性に大きな影響を与えるホルモンにオキシトシンというホルモンがある。勿論、このホルモンだけで人の社会性同化気質が決まるわけではないが、無視できない影響があるのは確かだろう。全ての哺乳動物で分泌されており、哺乳動物の知的レベルにおいても機能することを考えると、高度な知的レベルではなく、闘争、生存といった本能に関与していると考えられる。愛情ホルモン、信頼ホルモンとも呼ばれている。優しい接触、性交等により分泌される。外交交渉における首脳同士のつきあいは、この意味で極めて重要である。だからといって豪華な別荘で、馬鹿高いワインを飲む等は言語道断である。ゴルフ、釣り、スポーツ、うまい食事程度が妥当なところだ。
 
 北朝鮮との戦争が回避されれば、政治的には成功したと言えるが、将来の戦争勃発の不安が完全になくなったわけではない。外交交渉なしの経済制裁がどこまで続くのか。こうしているうちに、北朝鮮は本格的に核武装することになる。韓国、日本はこれにどのように対抗するのか。国民が対策を考えなければならないのか。
 野党合同で自民党を破ったとして北朝鮮の核武装に対して何をするのだ。自民党は、どうするのだ。何も言えない政党が、権力だけを求めて選挙をするのを国民は黙って見ているしかないのか。国民が堕落しているのではない。明らかに政治家が堕落している。政治家は、保身に走り、権力に走ったときに堕落する。

 ところで、国政選挙は金がかかる。かつては、解散総選挙となると、与党であれ野党であれ派閥の長は、金集めが大変であった。そこで、金権問題の解決策として税金で助成する政党交付金制度が設けられた。国民一人当たり毎年250円として計算される。年間320億円が税金から拠出される。先進国で政党交付金を出している国をみると、ドイツでは175億円、イギリスでは3億円、フランスでは98億円となっており、カナダ、スエーデン、デンマーク等も出しているようであるが、米国は出していない。選挙費用の公費負担分はこれとは別となっている。衆議院選挙費用の総額(投票用紙、ポスター類、管理・取り締まり人件費等々)は、700億円程度だそうだ。3年に一度選挙があるとして年間換算すれば、選挙費用で240億円あまりとなる。これに政党交付金を足すと年間平均560億円が選挙のために費やされる。参議院選挙費用を加算すれば年間600億円を超える。選挙費用はいたしかたなしとしても、政党交付金はやめるべきだ。政治家の集金能力は、一面においては、国民の政治家への信頼度や期待度を示すバロメーターともなる。勿論、企業献金に制限があること、個人から政治家への献金が原則である。選挙の活動員はボランティアが原則だが、一定範囲の謝礼は認めるべきである。ジャーナリズムは勿論、内部告発による摘発など監視を強化し、政治家、政党の行動をバロメーターとともに公開すべきである。

 といっても、政党交付金という楽な制度を作ったために共産党を除いて与野党ともこの制度を廃止すべきという議論はない。法律とはこういうものだ。政党にとって都合の良い法律ができると、それが国民のためにならないと知っていても廃止しようとはしない。政党交付金制度は、政党、政治家の堕落の温床である。こういった法制度を見直し廃止するために国民にはどんな方法があるのか。結論から言えば国民投票制度しか廃止する方法はない。行政訴訟や民事訴訟の対象とはならないからである。これが米国ならば、小さな政府を理念とする共和党が廃止、民主党が維持側になり対立するだろう。日本では、与野党の対立軸がほとんどないに等しい。与野党とも制度維持となる。真に国民と国益を考える政党がなく、一人でも正義とは何かを究明する政治家はいないのか。国民投票も実際には不可能である。国民投票を実施するか否かは国会の決議であるからだ。それではどうするか、地方議会や県民投票で発議を促す方法である。都民ファーストや希望の党は何をしている。大体、東京都民の選挙行動ぐらいいい加減なものはない。何が、都民ファーストだ。都知事ファーストの間違いではないのか。

 今回の選挙の野党連合なるもののいい加減さには、反吐が出る。政治理念などは二の次だ。前原の言うとおり名より実をとった。つまり理念・正義よりも議席と金と権力をとったのである。希望の党なる怪しげな政党は、ポピュリズムやデマゴーグという低級な思想とも無関係である。
 迫り来る戦争の危機に対して何をすべきか、人口減少社会における社会保障とは何か、経済成長の方法とは何か、子供の貧困対策とは何か等々、現実的諸問題への処方とその考え方を明示すべきである。現実問題の具体的解決方法と未来の予測が政治理念を作り出す。現実的諸問題への対応は、問題の本質を見抜かなければ正しい対応は不可能である。それが正義であり、理念である。これができなければ、かつて民主党が政権をとった時のようにポピュリズムでやれ。そんな政党はたちどころに崩壊する。

 自民党にしても同じだ。とってつけたような政策メニューで何を国民にアピールするのだ。迫り来る戦争の危機に対して政権政党は何をしようとしているのか。地方創生はどうなった。今もって、「社会全体で面倒をみます」か。できもしない社会保障夢物語を語るのか。介護保険だけでも大変なのに、今度は子供保険だ。ホケン、ホケンと犬が鳴いているんじゃない。年金制度の賦課方式という戦後経済成長のどさくさに紛れて、時の官僚と御用学者が何も考えずにとりあえずつじつま合わせに作ったシステムは、とうの昔に破綻しているではないか。世界に冠たる国民皆保険。嘘だ、嘘だ、ウソだ。介護保険にしてもはじめから無理だとわかっている。人口の25%が、高齢化しその大半に介護が必要となったとき保険でカバーなどできるわけがない。まして、社会全体で面倒をみる、つまり国が面倒をみるなどできるわけがないではないか。「社会保障は国がやります」というスローガンは、バブル経済の崩壊後に現れたポピュリズムだ。北欧の例にならい、高い税率であっても医療、老後は、国が保障するというものだ。スエーデンやノルウェーが何故可能かの説明が全くない。北海油田の歩油権が国庫に入り、使い切れない金がファンドにたまるだけ貯まっている国と、借金まみれの国とでは社会保障のためのファンドマネジメントシステムは全く違う。国民健康保険の金の使い方もひどいものだ。健康診断だ、高齢者診断だ、アンケートだ、予防接種だ、ガン診断だとやたら予防診断を行う。若い人なら少しは予防効果はあるだろうが、国民健康保険の対象の大半は高齢者である。高齢者には逆の効果になるばかりか、医者に患者を送り込む格好のシステムとなっている。そればかりか、市町村職員の増員につながっている。何を考えているのだ。こんなことを全てやめれば、国民健康保険の費用負担は、人件費の削減も含めて現在より数10%程度低くなる。医療保険というものほど悩ましい保険はない。健康な人は払い損し、不健康な人が払い得になる。生活習慣病等は、考えようによってはもってのほかだ。医療費の自己負担率を50%以上に引き上げるか保険料率を引き上げる必要がある。その代わり、医療用薬品のうちのジェネリック薬品については簡便な処方で入手できたり、市販薬として生活習慣病の証明等で購入できる方法を考えろ。個人が払った医療保険料の記録をしっかりとって保険料率に反映させるぐらいのシステムを構築することは、現代の情報社会では簡単なことだ。国の保険制度の改革の決断を自民党であれ野党であれ本気でやるとは思えない。まして、厚生労働省に企画立案させるぐらい危険なことはない。ここまでくると、国民には、社会変革のための手段が全くないことに気づかされる。国民参加の制度という、民主主義の根幹となる部分を、政治という業界が全て駄目にしたのである。政治業界の堕落である。

 経済成長なき日本の存続はもはやあり得ない。経済成長が不可能であれば、そう遠い将来ではない時期に日本政府が崩壊し、次に国家が崩壊する。経済成長のためには、政府も企業も国民もなりふり構わず取り組まなければ国が滅びる。オリンピックだと浮かれているどころではない。1千兆円の負債と成長なき経済は、ボディーブローどころではなくカウンターパンチとなって国民生活を襲う。

 現在の人手不足の状況は、25年ぶりだそうである。宅配便の運転手不足、青果市場の労働力不足、震災復興建設労働者の不足等、どの職業をみても、かつて言われた3K労働者の不足ではないか。AI技術者も不足しているらしいが、新技術の先食い現象だから一般の労働力不足とは質が違う。給料を一段と上げればすぐに人は集まる。人手不足といいながら給料を一段と上げようとはしないのは何故だ。わずかばかりのベースアップ、労働時間の規制、働き安い環境等々を整備すれば労働力不足は解消できるのか。

 ところで、この数年進められている労働環境改革なるものは何なのだ。過剰な時間外労働に規制をかけ、サービス残業等はとんでもないという。元来、ブルーカラーとホワイトカラーでは、働き方が全く違っている。熟練技術者であってもブルーカラーは、肉体労働が伴うため長時間労働では、生産性や品質が低下する。こういった職業では、会社側の管理もきちんとしていたが自己管理も重要であった。中小零細企業でも、過剰な労働を強制するようなことは全くないといっていい。高度経済成長期には、ホワイトカラー層では、何日も徹夜が続き、1ヶ月の残業時間が200時間を超える者もいた。残業が集中するのはそいつに能力があるからで、能力のない奴には仕事がこなかった。昔のような状況が良いというのではないが、経済成長にはこういった側面は必ずある。100人のホワイトカラーがいれば、そのうち20人程度は能力が高く、20人程度はかなり低く、60人は普通程度というのが人間組織である。たとえ能力が低くてもその能力に見合う仕事は、必ずある。時間外労働規制、ワークライフバランス等の労働規制を必要とする側面と、それらの規制がなく、しかし、労働時間に見合う報酬が支払われる仕組みとが共存しなければならない。現在の日本は、全員が楽して経済成長できるようななまやさしい状況にはないのだ。みんな楽して暮らせる社会という政治思想は、亡国の思想であり、堕落の思想である。
 労働環境改革の発端はいろいろあるが、有名広告会社の新人女性が、過剰な時間外労働を強いられて自殺に追い込まれたあたりから本格的に社会問題化した。亡くなった女性は、若く、美しく、聡明で感受性の強い女性であったと思う。豊かな感性が、自らを追い詰めた。報道の情報だけだが、この有名広告会社の組織管理が如何に非人間的であるかが推測できる。非人間的というよりは、理性だけで人をコントロールできるという管理思想の恐ろしさである。ほめる、なだめる、怒る、しかる、命令する、罵声を浴びせる、けなす等々、おそらくあらゆる心理的操作があったに違いない。こんな管理思想が、組織の主流をなしているとすれば、この会社が作った広告で商品が売れるわけがない。消費者は、理性だけで商品を選ばない。感情・感性に響かなければ、理性的判断を正当化しない。人は、自己実現の可能性が見えれば大抵のことは我慢できる。そして、感性の機微に触れる言葉が必要なのだ。最近のTVコマーシャルの俗悪さは、まさにこの事件の本質を表している。企業の管理思想の堕落は、人心の堕落である。今、求められている労働環境改革の本質は、労働時間規制等の規制いじりではないのだ。理性や悟性(技術)だけで人を動かそうとする管理思想は恐怖の思想だ。マネジメントサイエンスでは人は動かない。人を動かすためには、磨かれた感性が必要なのである。まず、政治・政党から始めよ。理性だけで忖度する組織などは不要である。感性による忖度は崇高なものである。

 米国の所得格差は極めて激しい。ロイターが発表した所得格差は次のようなものである。「一部のアナリストは、米国の富が上位1%の富裕層に集中していると指摘しているが、FRBの調査によると、実際には上位3%の富裕層に集中していることが分かった。2010~2013年の期間に、米国の家計所得(インフレ調整後)は平均でおよそ4%増加したものの、所得の伸びは富裕層に集中した。上位3%の富裕層が所得全体に占める割合は30.5%だった。また、家計純資産の保有状況ではさらに格差が拡大。上位3%の富裕層が全体に占める割合は、1989年の44.8%、2007年の51.8%から2013年には54.4%に上昇した」。

 米国の家計所得の平均は約4万6千ドル、世帯数は1億1千7百万戸なので、国民総家計所得は約5兆4千億ドル、日本円では約594兆円、ほぼ600兆円とすると、このうちの30.5%の183兆円が総世帯の3%、351万戸に集中していることになる。富裕層1戸当たり平均では日本円で5,213万円、富裕層を除く家計所得の平均は367万円である。富裕層と富裕層以外の所得格差は、14倍にも達する。世界各国の所得格差については、国連がいくつかの指標で示しているが、世界銀行が算出しているジニ係数はよく知られた指標である。また、所得の上位10%と下位10%の所得比率等もある。しかし、所得上位の世帯に何%の富が集中しているかを示す方が、富の極端な偏在を表す指標としてはわかりやすい。家計純資産についても公表されている。純資産とは、金融資産や不動産資産から借入金を差し引いた額である。収入のある個人の3%に個人純資産総額の54.4%が集中しているといのだから、ものすごい集中度合いである。

 日本の場合には、同じ基準の統計がないので比較は難しいが、公表されている統計で比較してみよう。OECDのジニ係数(2005年公表)では、日本は31.4、米国は35.7、メキシコが48となっており、日本は米国より僅かに低い程度であり、所得格差にそれほど差は見られない。メキシコの方が遙かに格差が激しい。所得格差をジニ係数で判断することは難しいことがよくわかる。所得格差問題では、一時期話題になったピケティの「21世紀の資本」がある。大学の講義録を本にしたものだから、500ページを超えるが、ポイントは、K/Y 比率を長期の統計データにより分析し、KがYより大きければ格差が広がるという結論だ。ピケティの本では、Kをrで示し年間資本収益率を、Yをgで示し国民所得や産出量の年間増加率を示している。この単純な式だけでは所得格差の拡大を証明することにはならない。そこで、家計所得の多い順の10パーセンタイル所得層の合計所得が総所得に占める比率の大きさを計算して所得格差の幅を評価した。その上でK/Y比率との関係を分析した結果である。資本収益率が高く、所得の伸び率が低いほど格差が広がる。現在の日本そのものではないか。給料が上がらず、株価だけが上がる。それでも一人当たり家計純資産は世界一だ。家計に占める借入金が極端に少ないのだ。米国は資産も多いが借金も多い。金融投資の比率が高く、金融利回りも6%程度と高いから、借金してでも投資に回す。住宅を担保に金を借りて金融商品に投資した方が所得が増加する。

 我が国の格差是正政策はどうなっているのだ。給料を上げろと政府が言っても、企業が「はいそうですか」と動くわけがない。それでなくても、マイナス金利政策で何とか円安を維持し、株価を維持しているのだから、マイナス金利政策をやめると円安から急減な円高に向かいかねない。

 加工貿易立国の我が国において公共事業以外の経済政策として何があるのか。ないならば、やることは一つである。地球温暖化で今世紀中には数mの海面上昇は避けられない。出来もしない温暖化対策等はほどほどにして(温暖化ガスの排出量を抑制するのは、公害の面からも当然取り組む必要がある)、沿岸域都市の内陸部への移転を本格的に考えよ。現行の新エネルギー対策はやめよ。太陽光発電や風力発電ではゴミの山を作るだけだ。新たな物理学研究に全力を傾けろ。水素の生産・備蓄技術開発を急げ。原子力発電を期間限定で解禁し、余剰電力で水素を生産し備蓄せよ。イオンレベルの蓄電池技術に未来はない。来たるべき電気自動車時代は、従来の蓄電池技術に依存する絵に描いた餅だ。膨大な蓄電池が生産され、地球の希少金属資源を使いつくし、新たな公害をまき散らすだけだ。世の中の環境学者、環境経済学者、地球温暖化信者と化した政治家、学者諸氏よ、目先の金に堕落せず真実を語れ。近未来のエネルギーに向けた新たな公共事業に踏み出すための財政手法を作り出さなければ我が国の未来はない。このエネルギー技術は、既存技術の延長線上にはない。地球温暖化という敵にくそ真面目に取り組んでいると、近い将来必ず我が国は崩壊する。

 経済成長、格差是正のための従来の経済政策は、完全に行き詰まった。それと同時に、化石燃料の枯渇が顕在化した。化石燃料の枯渇と人口爆発は、1970年のローマ会議で予見されていたが、世界は無視した。そして、1992年からは、気候変動問題だ。気候変動の原因が二酸化炭素の排出量だけではないことは、最近の幅広い気象学研究からも明らかにされつつある。経済成長のカギは、実に新エネルギー開発とそのエネルギーを利用する動力機関の革新的開発にある。リチウムの経済的生産限界、電極のための希少金属の埋蔵量と生産限界、再生技術と生産限界、廃棄処分費用等々、既存電池技術に関する技術的、経済的限界を早急に試算する必要がある。おそらく、試算するまでもなく、資源不足、採算性、コストパフォーマンス、社会的費用のいずれにおいても実現不可能と考えられる。

 政治は現実問題との戦いである。現実問題への対応策がなく、先送りも許されないとなったとき、政治はどんな決断を下すのか。外国との関係であれば国交断絶か戦争である。経済問題であれば、政府の破産である。たとえ政府が破産したとしても誰も責任をとる必要はない。国もなくなるわけではない。政府が破産するのだから、国家機関の全ての機能が停止する。警察、裁判所、自衛隊、霞ヶ関の省庁、入出国審査、年金事務等々だ。こういった政府の破産状況については、アルゼンチン等に既に事例があるし、ギリシャ等もその直前までいった例があるが、いずれも最悪の事態は避けている。法律が無効になったわけではない。国の支払がストップしただけなので、国債償還、国の支出停止をして再生計画を作るだけである。世界経済に及ぼす影響は計り知れないだろう。リーマンショックの数10倍のショックとなる。国債のデフォルトによる影響が最も大きい。

 ところで、日銀の国債保有残高は、最近の報道によれば500兆円を超えたという。銀行・保険業界の保有比率も40%を切っている。このまま、日銀が国債の買入れを継続すれば、近い将来、国債発行残高の70%程度を日銀が保有することになる。勿論、市場金利等から限界はあるだろう。日銀が、国債を買った銀行に買入額と同額を当座預金に記録し信用を与えたというような説明があるが、国債を担保にして当座貸し越しで融資するのではないのでこの説明は誤りである。日銀がマイナス金利政策をとっているので、当座預金の残高にはマイナスの金利がかかる。つまり、利盛りとは逆に残高が減少する。市中銀行は、日銀当座から資金を引き出して運用しなければ損をすることになる。そのため、まずは金利の高い国へ資金を移動し、つまり、円を売ってドルを買ってドルで運用することになる。円安へと誘導することになる。この日銀の操作を長く続ければ、円の信頼は低下し、市場は余剰資金で溢れかえる。

 円安、株高は、何のことはない国債を原資とする比較的単純な資本原理で動いていることになる。投資先のない資金は、どうなるのだ。ところで、企業経営者の年収を東洋経済で見ると、現職の社長、会長の最高額は22億円あまり、トヨタ自動車の社長でも3億5千万円程度だ。1億円以上が600人未満というのだから、何ともなさけない話である。これが、GDP世界第3位の経済大国、日本の実態である。銀行や企業にジャブジャブある資金を、経営者の報酬にも回せず、かといって従業員の給与にも回せずただ眠らせておくだけだ。税制では、法人税減税だという。投資先がないのに法人税減税をやってどうするのだ。研究開発への投資減税は、大いに結構だが、内部留保で金融投資をしている企業の法人税率は逆に引き上げるべきだ。銀行も同じだ。

 所得税についても同様である。非課税が年収100万円未満とは。年収100万円で生活ができるわけがない。生活保護の方が収入が多いではないか。年収100万円でも、国民健康保険、年金、地方税、介護保険はとられる。地方税の税率が高いのは何故だ。地方税を払ってどんなサービスを受けられるのだ。住民票、印鑑証明、選挙人登録ぐらいのものか。こんなもの、情報社会では個人情報保護を含めても簡単なシステムで対応可能だ。税制、保険制度は、国民生活の根幹に関わる。税金は払わないと抗議をすれば、逮捕投獄である。大体、所得税、地方税の徴収システムに金をかけすぎている。高額所得への税率を高くし、低所得者層の税率を抜本的に見直し、株など金融商品による所得税率を見直さなければならない。金融商品による所得は、とりっぱぐれがないのだから、徴収コストは極めて低い。所得税の徴収コストを徹底的に見直し、徴収効果がない税部分は控除方法・税率など全て見直すべきである。政府、与党の税制調査会なるものが、いかに機能していないか。国民は、税制についても何もできない。どうせ、解散総選挙で金がかかるのだから、税制の変更の都度、税制だけの解散総選挙をやったらどうだ。

 外交、戦争、経済、税制、教育、社会福祉等々、国政は、日本社会のありとあらゆる分野に行き渡る。活力を失い、経済成長もなく、社会全体で面倒をみるという福祉社会を理想とする国家に未来があると言えるか。政党政治は、今や目先の安定に堕落した。真の堕落は、金や権力という堕落の渦でなくてはならぬ。その堕落の渦の中から光明を見いだした者だけが真の政治を担うのである。

                                 2017年10月
2019/05/27

堕落論2017 戦争の危機

   坂口安吾が「堕落論」を発表したのは、昭和21年(1946年)4月である。戦争終結から八ヶ月、戦災の跡が生々しく、先のことなどは到底見えず、しかし戦争から解放されたという実感だけが国民に浸透していった。この年の12月には「続堕落論」が発表されている。
  論文でもなく、小説でもなく、かといって随筆と呼ぶには強烈な文体である。タイトルを見るとなにやら破滅的な思想書かと思うがそうではない。現人神がおわします神の国、神風が吹く神々しき国が一敗地に塗れ、今や、花と散り損なった若者達が闇屋となり、ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりてとけなげな心情で男を送った女達も、やがて新たな面影を胸に宿す世相へと変わった。人々が営々と作りあげてきたものが崩れ落ちる様のはかなさ、みにくさに対する叫びである。

  今、この時間も世界のどこかで戦争をしている。日本人のおおかたは、「戦争してるんだ」、「どうして戦争するんだろうね」、程度の認識だろう。
  ところで、私も含めた現代の日本人は、「戦争」について考えたこともないと思われる。毎年、8月になると、報道番組の主要なテーマは、第二次世界大戦一色となる。第二次世界大戦当時のニュース・フィルムの再編集か、僅かに生き残っている戦争体験者の体験番組が大半である。これらの報道内容の意味するところは、端的に言えば、戦争は悲惨なものであり、戦争をしてはならないという教訓である。とかく教訓というものは、まわりくどい。一方、第二次世界大戦がどのようにして引き起こされたかについては、ほとんど何も報道されない。そこで、開戦に至る原因のいくつかをひろってみると次のようなものである。
 「満州国(中国東北部)開国に対する中国の反発に対し、国連は、一度は対日経済制裁を黙殺したものの、盧溝橋事件以後日中事変の勃発によりアメリカを中心とする経済制裁の主張が本格化した。いわゆるABCD包囲網が張られ、その頂点に達したのが昭和16年の日本に対する資産凍結と石油の禁輸であった。現代の北朝鮮やイランに対する制裁手法とさほど変わりはなく、経済封鎖である。満州には石油はなく、石油資本は、アメリカ、イギリス、オランダが独占していた。若干の鉱物資源は満州で調達可能としても、火薬の原料となる硝石等はベトナムから輸入しなくてはならない。しかしベトナムはフランスの植民地だ。インドを始め東南アジア諸国は、欧米の植民地であった。中近東は、欧米諸国、欧米石油資本、王族とによる石油独占の独裁的国家である。日本は、我慢に我慢を重ねた結果、太平洋戦争の開戦を決意した」。説明不足の点はあるが、経済制裁による資源窮乏に対して堪忍袋の緒が切れたという説明である。

 1970年代に任侠映画が大ヒットした。高倉健主演の網走番外地は、70年安保時代の象徴的映画であった。健さんは、罪を犯しはしたが、それにはやむ得ない理由があった。彼は常に謙虚で、物事を深く考え、感情には流されず、しかし人情味あふれた人物である。彼が属する真面目な集団の権益を狙う悪者達が、ああでもないこうでもないと難癖をつけては執拗に妨害し、暴力を加える。忍耐に忍耐を重ねた結果、健さんは一人敵に立ち向かうのである。話は、単純だが物語の筋立ては、第二次世界大戦のそれとそっくりである。一人で戦うならば、まあ好きにやれでよいが、国民を巻き添えにするとなるとそうはいかない。日本は、資源がなく、国民の生活も困窮の極みに達し、生き抜くためにアメリカと戦うというのである。本当か。本当に、全ての国民が食うに食えなくなっていたのか。そんな馬鹿なはずはない。そんな単純な理由ではないはずだ。
 先の大戦は、日清・日露戦争での勝利、第一次世界大戦における漁夫の利、欧米先進国のアジア植民地化と富国強兵等々、明治維新から第二次世界大戦までの「成功の70年間」に徐々に蓄積された奢りが生み出した日本という国家の堕落によるものだ。坂口安吾は、終戦に人間の堕落をみたが、国家の堕落ははるか昔に始まっていた。
 ところで話はそれるが、テレビに氾濫している韓ドラを見ると、悪人と善人との関係が単純な論理構造になっていないのに気が付く。悪人が、嘘をつき、人をだまし、相手を殺すのにはそれなりの理由がある。悪人の行為には、悪人なりの正当な理由があってのことだと言う。その理由は、悪人の地位を脅かしたり、悪人の昇進を妨害するのは善人がいることである。善人さえいなければ悪人は幸せになれるのである。悪人は善人に比べて自己実現の欲望が強いだけで、だましたり、嘘をついたり、暴力といった行為は、悪人にとっては許容範囲なのである。この論理においては、自己実現の欲望が強いことは悪ではない。人間として当然であり、そういう欲求は正当なのである。韓ドラでは、悪人の善人に対するいじめが尋常ではない。反対に、いじめられる善人は、実に真面目だ。決して悪いことはしない。耐えるのである。そして、反論できない証拠をつかんでから、じっくりと反撃にでる。
 お国柄が違うと、善と悪、正義に対する考え方がこうも違うのかと考えさせられる。とはいっても、5分で済む内容を1時間もだらだらと続くのにはうんざりするが、耐えに耐えて善人が反撃に出るという筋書きには不思議な魅力がある。成り行きはわかっていても、反撃にでるものに対する同情と反撃の快感がたまらないのである。
  堪忍袋の緒が切れて開戦に踏み切るにしても、このような経済的理由以外の理由もある。それは、「恐怖」である。敵の軍事力が増強しており、これ以上軍事力が増すと危険にさらされるという恐怖だ。政治手法の根幹は、「国民」に対する脅迫にある。今、これをやらなければ将来国民はこれだけの損失を被ると脅迫する。河川改修等の国土保全に関わる公共工事の必要性に対する説明であれば、一定程度は受け入れられるが、戦争となれば話は別だ。「気候変動」も話は別だ。二酸化炭素濃度が、ppm単位で増加した場合の気候変動を実験レベルで証明しない限り信用できない。今の説明では、将来の海面上昇は必死である。それならば、何故、都市の高所移転を進めないのか。恐怖政治は、ここにも存在する。

 9.11以後、ブッシュがはじめたイラク戦争の大義は、建前は、「大量破壊兵器は持たせない」というものだったが、本音は、「やられたらやる」というものだ。その上、おりからの石油資源問題もあった。人類の歴史は、戦争の歴史である。塩野七生の「ローマ人の物語」は、全編、戦争、戦争、また戦争である。ローマの歴史書は戦史だ。それも何故戦争をしなければならなかったかは、勝った側が記録しているから、負けた側の理屈はわからない。
 なにはともあれ、戦争が始まったら、戦争を始める理由などは二の次、三の次、まあどうでもいいのである。勝たなければ歴史にその正義を残せない。
 第二次世界大戦は、我慢に我慢の末にやむなく始めたが、負けることはわかっていたというのである。戦争を始めるからには勝たなければならないが、負けるときも重要だと言うのだ。それは如何にうまく負けるかだというのである。これはどうなっているのだ。これでは国民は、たまったものではない。戦争を始める政治家、官僚、高級軍人は、将棋や碁のようなゲーム感覚で戦争を仕掛けたというのか。最近なら、スマホの戦争ゲームみたいなものだ。命を賭けた戦争では、負け方も何もあったものではない。小国民は、黙って国の言うとおりにすれば良い。批判でもしようものなら非国民である。欲しがりません勝つまでは、生めよ増やせよ、が国民の義務である。このモットーはドイツからの借りものらしい。国の責務は、負けることはわかっているからうまく負けることである。あまりにも都合が良すぎないか。おまけに、奇襲攻撃で開戦するのだから、天皇、政府関係者、軍人以外の国民にとっては寝耳に水の話だ。勿論、うすうすは知っていたか、戦争を始めるらしいとか何とかの噂は飛び交っていたに違いないが。

 しかし、一旦、戦争を始めたらやめることは不可能だ。相手がいるのだから、こちらが思っているようにはやめられない。それどころか、戦争を止める法律、制度、システムというものは何もないのである。勿論、戦争を始める法律もない。

 さて、我慢に我慢を重ね、戦争に踏み切るという決断が、国の指導層だけで勝手にできるのであろうか。限定的にしろ民主的国家において国家間の開戦は、それほど単純ではないはずである。

 開戦を正当化する思想、倫理・道徳、法は戦争開始と同時に形成されるものではない。まあ、一部にはそういうものもあるだろうが、政治思想というものは、多くの場合、時間をかけて、それもかなり長い時間をかけて、権力層、知識層、国民各層の間を何度も行き来しながらゆっくりと形成される。近代戦争における大義・思想の形成とはこういうものだ。第二次世界大戦に至る思想では、東亜新秩序、八紘一宇、五族協和等々があるが、よくもこれだけ考えたものだ。当時の官僚と御用学者によるものと思われる。このくそ真面目な作品が国民を戦争へとかきたてた根源である。

  「堕落論」の冒頭は、「半年のうちに世相は変わった。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は、大君のへにこそ死なめかえりみはせじ」である。言葉の調子というものは、人の感情に直接響く。しかし、意味がわからなくては響きようがない。「醜」とは、みにくいのではなく、「強く頑丈」なという意味だ。
 「海行かば」という曲がある。昭和十二年に作曲され、戦争中は盛んに歌われていたが、戦後は全く歌われなくなった。次のような歌詞であり、万葉集(元は日本書紀らしい)からとられた。「天皇の足下に死ねれば本望だ。後悔はない」といったような意味である。天皇に忠誠を誓った歌とされている。

海行かば 水漬(みづ)く屍
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

  音域はやや高いが、格調高い斉唱である。旋律は、日本人の心性に直接響く。こういう曲はどこの国にも一曲や二曲はある。第二の国歌だ。「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」という曲がある。「ナブッコ」というオペラの中で歌われる合唱曲だが、イタリアの第二国家である。しかし、それにしてもこの「海ゆかば」は、恐るべき歌詞である。死をもって天皇に忠誠を誓うという歌を国民に唄わせるという政府も政府だが、この歌を選んだ官僚の神経とは何なのだ。こんな国は、世界のどこにもあるまい。軍部の独走が開戦の要因だったという話がまことしやかに言われるが、そんなに単純な話ではない。時代の支配層、権力層、知識層、富裕層のほとんど全てが関係していたことは間違いない。

 言葉に楽曲が加わることで、思想にぬきさしならぬ心情的重みが加わる。国家指導層・政府は、戦争を始めるためにありとあらゆる手立てを講じる。これは戦争だけではない。戦後復興から高度経済成長へと進む時代も似たようなものだ。ちなみにこの時代の第二の国家は、昭和の歌謡曲だろう。戦前から唄われていた「影を慕いて」、「誰か故郷を思わざる」ばかりか、軍歌も盛んに歌われた。しかし、「海行かば」は、全くといって良いほど歌われていない。「リンゴの歌」、「港町十三番地」、「有楽町で会いましょう」、「銀座の恋の物語」、「函館のひと」、膨大な第二国家が誕生した。

 日本は、戦争に負けた。それも惨敗どころではない。無条件降伏である。政府が考えていたうまい負け方はどこにいったのだ。全ての、秩序、思想が崩壊した。敗戦直後の社会は、どのようなものだったのだろうか。闇市、売春などは小説・映画の題材で知られているが、社会秩序について記述した文献が皆無というのも不思議である。米国占領軍がもっとも恐れたのは、無法状態と化した日本への上陸であったという。しかし、上陸してみると何とも整然としていたというか無法地帯をとおりこして無条件従順社会へと変貌していた。終戦直後に占領軍が車で移動している記録映画を観ると、日本軍と思われる軍人が、道路側とは反対方向を向いて整然と立ち並び、あたかも占領軍の移動を護衛しているような映像が映し出されていた。こんな敗戦国は、世界のどこを探してもない。ちなみに、ドイツの終戦状況をみると、連合軍がじわじわと首都ベルリンに向けて侵攻し、ベルリンが陥落したときには、ドイツ国土のほぼ全域が連合軍に占領されていた。

  日本は、本土決戦を予想して武器の準備をしていたというから、無条件降伏だからといっておいそれと上陸できるわけがない。アメリカはゲリラ戦を覚悟していただろう。しかし、日本は何の抵抗もしなかった。勿論、全くなかったわけではないと思うが、ほとんど無視できるほどの抵抗だったに違いない。抵抗よりも従順解放を選択した。このまま進めば死ぬ、個人では選択できない運命、完全な強制から逃れられないという極限的状況からの解放である。体験したものでなくては知り得ない感覚であろう。戦争に負けた側の開放感は、勝った側の開放感の数倍も大きいに違いない。負ける側は、突如として負けるのではなく、負けそうだ、もう駄目だ、限界だと思いながら戦っているのだから、負けた、すべてを失ったとなった瞬間に、何とも言えぬ虚脱感と開放感に襲われる。何のために飢えや耐乏生活に耐えてきたか、何のための戦争だったのかといったことなどどうでもいいのだ。もう頑張る必要がない、何を言っても自由なのである。

 最近の戦争報道を見ると、武器を持った戦闘員同士が戦うのが正しい戦争で、一般市民を巻き込んだ戦争は正しい戦争とは言えないというのが一般的論調である。イラク、シリアの紛争報道では、一般市民が犠牲になった、学校、病院が空爆され児童や患者が殺されたといった報道ばかりである。本当にそうなのか。戦争ゲームみたいな戦争に変わったというのか。敵の国土を徹底的に破壊し、殺す、それが戦争ではないのか。軍人だろうと民間人だろうと区別はしない。敵国にいる者は全て敵なのである。近代戦争では、無差別攻撃こそが正当な戦術である。第二次世界大戦をみるとよくわかる。

 日本にしろドイツにしろ戦争に対しては実に真面目だ。自らの置かれている状況を真面目に研究し分析対応している。その上、前述のような開戦思想をくそ真面目に構築する。官僚や学者が真面目なのである。「クソ」がつくほどに真面目だ。真面目な分析と正しい分析とは違う。真面目な分析とは、分析結果に疑問を持とうとはしない。突っ走るのである。真面目という英語はearnestであるが、本来はearn(正当な報酬を得る)ではなくeager(熱烈な)に近い。熱烈かつ情熱的に物事に取り組み、真面目な行為に対しては正当な報酬が得られると信じている奴を真面目な奴と言う。クソ真面目な奴は危険なのだ。こうと信じたら何が何でもやる。実現するまでは何はともあれ堪え忍ぶ人並み外れた忍耐力がある。堕落に至る最大の要因はこれである。

 ところで、戦争をするからには、戦争によって得られるものがあるから戦争をするはずである。戦争の経済学である。第一次世界大戦前までは、戦争による利益は莫大なものだった。戦争は、利害関係の衝突の結果であり、より多くの利益が得られるか、多くの損失を被るかのいずれかの理由で戦争となる。ローマ帝国は、より多くの富を得るために数百年にわたって領土拡大を続けた。富の得られそうにないところは侵略しない。ローマ帝国の領土拡大の仕組みは実に面白い。ローマは、現代に比べると仕組みとしては単純だが、かなり民主的な方法で選ばれた元老院議員によって国家運営がなされていた。しかし、元老院の多数決でものごとが決定されても、皇帝が「ウン」と言わなければ国家の決定とはならない。拒否権だ。この点だけみれば、アメリカやフランスの大統領制と変わりはない。領土を拡大するためには、侵略する相手を納得させなければならない。「これからは、ローマ帝国がおまえたちの国を支配し統治する」と言い渡すが、納得しなければ暴力で屈服させる。単純明快である。ローマ軍の司令官は、元老院及び皇帝によって任命されるが、貧乏人は司令官にはなれない。軍隊は、司令官の私兵みたいなもので、報酬の多くは略奪した物資と司令官の資財であったからだ。元老院議員だって同じようなものだった。かのカエサルにしても、名門の出ではあるが女に貢ぎすぎて借金で首が回らなくなったためにガリアに活を求めた。カエサルは借金で首が回らなくなって戦争に走ったが、多くの場合には金持ちがより多くの富を得るために領土拡大に走った。カエサルが例外なのである。

 戦争をしないためには、相手国が侵略しても利益にならない国になれば良い。敵に回せば百害あって一利なしの国である。資源はないが富があり科学技術、知的能力が高い国、日本の場合にはどうすれば良いのか。第二次世界大戦では、スイスが中立国だった。あのナチも手出しはしなかった。スイスを敵に回せば、ドイツは国際的に完全に孤立する。ドルやポンド等の主要な外貨が調達できなくなり、かつ物資の輸入も困難になる。侵略するメリットは何もない。敵に回すと百害あって一利なしなのである。現代では、このような国家体制を維持することは不可能である。グローバルな経済環境下では預金者機密の完全保護は許されない。敵に回すと百害あって一利なしの国家となることは不可能である。

 日本は米国と同盟関係にあり、米国がどこかの大国と戦争状態に入れば、当然米国側につく。それでは、日本とどこかの国が戦争状態になった場合、米国は日本側について戦争をするだろうか。日本とどこかの国の戦争が世界を二分するほどの戦争となるならば、米国の参戦はあるだろうが、そうでなければ、単なる紛争であって積極的な米国の参戦は期待できない。中東のイラクとISとの戦いみたいなものだ。

 見方を変えると、第三次世界大戦が勃発するとすれば、第二次世界大戦のような世界を二分するような戦争ではなく、二国間の戦争が世界のあちこちで起こり、戦争状態が長期化することである。中東の紛争状態の長期化は、近未来の第三次世界大戦の始まりを感じさせないか。東アジアだって危ない。北朝鮮が内部から崩壊し始めた時が問題である。紛争の火種は世界中あちこちにある。

 外交力によって戦争を回避するというのが日本人の常識的考え方である。しかし、明治以来の我が国の外交を見ると、戦争を未然に防ぐ外交力というものが存在したか。これは、日本だけではない。第二次世界大戦におけるイギリス、フランスの外交力はどうだったか。第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る20年間のヨーロッパ外交はどうだったか。守られもしない、ころころ変わる同盟条約締結儀式の連続であった(E.H.カー)。英米に至っては、ナチズム、反ユダヤ主義を擁護する外交論調だって存在した。

 外交交渉は、戦争に至るプロセスである。うまく取引できれば戦争を回避することができるが、よしんば失敗したとしても戦争開始の名目はたつ。大体、戦争を始めようとする国との間に正常な国交があるわけがない。外交とは、平和な状態をできるだけ長続きさせるための手段であり、平和なうちに有事のための敵・味方を選別しておくことであり、戦争後の処理をうまくやるためのものだ。これから戦争を始める国との外交交渉などというものは基本的にあり得ないのである。

 敗戦から72年が経った。我々は、先の大戦から何を学んだか。戦争は悲惨だから、戦争をしないということを学んだのか。こんなことは学ぶまでもなく当たり前のことだ。我々は、戦争の歴史から何も学んではいない。否、戦争の歴史記録から学べるものは、戦争の仕方だけであり、それ以外に何も学ぶことはできない。国民を戦争へと駆り立てる狂信的思想の形成、国民に戦争の正義を信じ込ませる巧妙な政策手法、恐怖政治等、戦争の原因となった歴史的記録はあまりにも少ない。何故か。こういった事実・記録は歴史から消されているのである。知的進歩、知性は全て正しいのではない。知性にこそ真の悪が潜み、知的進歩はより強大な悪を作り出すのである。
                                                                                     2017年8月24日
2019/05/26

堕落論2017  堕落とは何か

 アメリカではトランプが自分を非難するメディアやキャスターをツイッターで口汚く罵り、そのたびにメディアが何だかんだと報道している。最近は、女性ニュースキャスターが大統領批判をしたとかで、トランプがやたらと怒りまくっている。ホワイトハウスの高官が「大統領批判をやめなければニュースキャスターのスキャンダルを公開する」と脅迫したそうだ。すごい国ですな。大国の大統領が、自分に対する評価にこれほど執着し、執拗にメディア攻撃を繰り返すとは。相手を執拗に汚い言葉で攻撃する人間が果たして正常なのかと疑いたくなる。人間、歳をとると、感情のコントロールが難しくなる。涙もろくなるのもその一つだ。なかには喜怒哀楽とは何の関係もありませんという老人もいる。顔の表情がほとんどなくなるのだ。そうかと思うと、やたら人の言動に固執する者もいるし、人の悪口しか言わなくなる者もいる。アルツハイマーや認知症の特徴の一つに極端な強迫観念があるそうだ。トランプの取り巻きは、大統領の病気を知りながら操っているというのは考えすぎだろうか。アメリカならありそうな話である。

 共和党の支持基盤である中西部の田舎町で、トランプについてどう思うかというテレビ報道を見た。「トランプの言うとおりだ」、「トランプは金持ちで信頼している」、「雇用の確保に努力している」といった意見ばかりだ。どうみても考えて意見を言っているとは思えない。一般的アメリカ人の知的水準とはこの程度のものか。この報道の前に、フランス大統領選挙についてのインタービューを見たが、まだあのフランス人の方が常識的だ。世界で最も豊かな国の国民がこの程度かと思うと日本国民もまんざらではない。
 
   ところで、我が日本はと言えば、文部科学省の天下り斡旋問題に端を発し、大阪の私立小学校の認可、四国の獣医学部の新設等、問題といえば問題ではあるが、なんともちまちました話ばかりだ。
 
 天下りに対して日本人は特に敏感に反応する。役人のOBがうまい汁を吸っているというのだ。中央政府に補助金や許認可の権限が集中しているのだから、優秀な役人を民間組織が欲しがるのは当たり前である。しかし、つい10年ほど前までは、役人の天下りは常識で、肩たたきと言って官僚が定年前に関連団体へ再就職していた。再就職先で高給を得、数年で莫大な退職金を手にし、さらに年金最高額を受け取るというのが当たり前だった。こういった天下り役人への報酬がどこからでていたかと言えば税金である。公共事業、委託事業、補助金等々様々な手法で税金が投入された。まさに国家的犯罪に等しい行為が堂々と行われていたのである。発展途上国もびっくりである。現在は、役人の定年延長、天下り対策もあってなりを潜めているが、潜めているだけでなくなったわけではない。水面下では数は少なくなっているが今でもあるに決まっている。世界のどの国をみても国家官僚は優秀なのだ。優秀な人材を求めるのはそれこそ当たり前のことだが、問題は税金の使途と関連していることだ。中国では、国営企業の役員が莫大な資産を保有しており、日本の天下り役人の比ではないと言う。どんな社会、組織でも人は必ず堕落する。

 役人の「忖度」が問題だといって野党が政権を攻撃している。組織あるいは社会というものが維持される大きな要素の一つに「忖度」があるのではないのか。高度経済成長時代、クレージーキャッツが「ゴマをすりましょゴマを・・・」とおおらかに歌っていた。サラリーマン社会では、偉い奴にゴマをするのは常識であり、サラリーマンとして生きるための欠くべからざる処世術である。ところで、「忖度」とは相手の考えを汲みとることであるが、「忖」を漢字源で調べると、心と寸の形成文字とある。寸とは、指一本の幅のことであり、指で脈をとるようにそっと相手の気持(心)ちを汲みとることである。行動するかどうかは別である。「忖度」は、知性のなかでもかなり高級な部類に入る。そこへ行くと、「ゴマすり」は、自分の利益のために偉い奴に取り入りへつらうことであるが、相手の考えを推察することは同じである。「推察」という本質的行為では同じだ。野党であっても組織があり階級があれば「ゴマすり」野郎は必ずいる。強固な組織には「忖度」は付きものであり、
「忖度」はマネジメントの根幹である。どうせゴマをすらなければならないなら、もっと粋な「忖度」をしろと言いたい。「ゴマすり」野郎は、堕落を生き残りの手段として使う。堕落といってもいろいろある。
 
 それにしても昨今の官僚の脇の甘さは目に余る。役所内の会議、打合せ、上司との会話は、全て記録されていてそれもパソコンに記憶されている。昔なら手帳にメモる程度であったが、今やパソコンへの記録保管、メールで配信ときたものだ。アメリカの元FBI長官もトランプとの会談をメモしていたというから、まあ、似たようなものだ。公文書の取扱に関する考え方は、アメリカと日本ではかなり異なる。それにしても、このデジタル時代にアナログのメモだ。録音しておけばいいではないか。今のレコーダーは超小型です。スマホでも録音できます。必要なければすぐに消せます。一人のパソコンに記憶されているならまだしも、メールであちこちに配信したというのだから話にならん。「情報の共有」と称して隣に座っている同僚や上司にも同時配信するのが当たり前になっている。会話で済む話だ。
 
  ツイッターにしろ、メモ情報の共有配信にしろ、情報社会とは何とも幼稚な社会ではないか。30年前、来たるべき情報社会の素晴らしさを誰も疑うことはなかった。情報社会は、情報処理の効率が飛躍的にアップし、生産性が極めて高くなると予想されていた。いざ現実となってみると、膨大な情報がネット上に溢れ、情報の共有という曖昧で無責任なマネジメントが横行する。生産性とは何の関係もない情報ばかりだ。情報社会は、我々に見えなかった現実を見せるようになったのではないか。そうだとすれば情報社会に生きる人間の「堕落」についても考える価値がある。
 
 情報が共有されたからといってマネジメントがうまくいくわけではない。不必要な情報はない方がいいに決まっている。何かのときの保身用にメモをとるのは、役人だけではなく組織人の常識だが、マネジメントとは何の関係もない。まして、組織や個人の保身のためにメモを共有するとは一体何を考えているのか。

 内閣府が特区事業を推進するために、文部科学省に圧力をかけて無理強いしたことが問題だと言う。アメリカの政治システムを見てみろ。ホワイトハウスがトップ官僚の人事権を握る。強要圧力をかけるどころではない。昨日まで長官だった人間が平に降格し隣に座っている等は当たり前だ。日本の官僚制が既に時代に合わなくなっている。
 
 国、地方を問わず政府組織の全ては社会主義体制で動いている。アメリカもヨーロッパも日本とさして変わらない。社会主義的で階級的な組織が堕落した場合、だれが堕落していることを見分けられるのか。はたまた、政治によって堕落を止めることができるのだろうか。堺屋太一は、官僚こそ日本の堕落の根源であると批判する。本人が高級官僚であったのだから、骨身にしみているに違いない。
 
 東京都議会議員選挙が終わった。自民党、民進党の惨敗、都民ファーストの会の圧勝であった。小池都知事を党首とする地域政党「都民ファーストの会」は、数ヶ月前に発足したばかりの新党だ。当選した党員の多くは議員経験がない素人である。何となくフランスの国政選挙と似ている。投票率も40%程度と極めて低い。フランスではマクロン大統領の新党「アンマルシェ (共和国前進)」が圧勝した。築地の移転問題、都政の伏魔殿問題等いろいろあるだろうが、なぜかしっくりこない。政治に対する「しっくりこない」感じとは一体何なのか。「しっくりこない」感じは、投票率に表れている。何をどうしようと、もはや政治は変わらず、官僚システムも変わらない。何も変わらないが、せめて新たな政治家がやる気をもって取り組むならば、少しはやらせてみようというものだ。日本では、1993年に細川護熙らの日本新党やその他の新政党が自民党をやぶった。自民党が敗れたのは、バブル経済の崩壊が直接の原因である。現在の政治のさきがけであった。それにしても、あれだけの政変があったにも関わらず、経済再生がうまくいかなかったのは何故だ。アメリカは、リーマンショックに対して極めて迅速に対応し、僅か数年で処理を終えたが、ヨーロッパはEUという体制・制度のために、今も後遺症を抱え、難民問題も重なって経済再生はうまくいかない。バブル崩壊から30年近くたつが、政変によって何がどのように変わったか。変わったのは、政治家の堕落、役人の堕落、政府を信用しない国民の堕落、情報社会の堕落だ。
 
 民主主義は、2千5百年前にギリシャで発明された。塩野七生の「ギリシャ人の物語」が読みやすいが、この本を読む前に、プラトンとアリストテレスを読んでおくことをお勧めする(くどくて相当に読みにくい)。民主主義とは、簡単に言えば、国民国家のことだ。国民によって選ばれた議員が、法を作り、国を統治する法治国家のことである。我が国では1925年から普通選挙が行われているが、明治憲法制定後からも国民による選挙は行われている。民主主義といっても、一人一票の平等な権利を持つ場合と、資産額に応じた権利を持つ場合の二通りの民主制がある。後者は、株主民主制が代表的である。議会議員選挙は国民一人一票である。戦前の日本、ドイツ、イタリアは、全体主義国家であったが、民主制でもあった。あのヒトラーも選挙で選ばれている。民主主義だからといって独裁国家にならないという保証はどこにもない。近年ではトルコのエルドアン、ロシアのプーチンが独裁制を強めており危ない。さらにポーランドもおかしい。民主制ではない国家の代表は中国だ。共産党一党独裁である。政府は共産党によって運営されているわけで、役所も軍隊も共産党の組織であって政府の組織ではない。国民全員が党員ならば、共産党という党そのものの存在が無意味である。中国の総有権者数に占める共産党員数の比率は約7%か8%といったところだから、少数の国民による一国独裁といって良い。こういう簡単な説明が、様々な文献のどこにもない。現在の日本は、自民党が政権政党ではあるが、司法、立法、行政の三権分立が建前であり、自民党が直接三権に関わることはない。従って、自衛隊は自民党の思い通りにはならない。欧米先進国も同様である。しかし、中国の軍隊は共産党の指揮下にあるので、党総書記、党中央軍事委員会主席である習近平の意思決定で動く。元来、国家と政府は別ものである。政府は国家運営を行う組織体である。政府が破産したとしても国家が崩壊するわけではない。ここまでくると国家とは何かを考えなくてはならなくなるが、これはもう少し後で考えよう。
 
 民主主義国家では、ポピュリズムは政治手法の常套手段である。最近では、フランスのルペンのようにポピュリズムどころかデマゴーグではないかと思える大統領候補さえ出てきた。ところで、ポピュリズムとデマゴーグの違いは何か。ポピュリズムは、大衆迎合主義というように訳されるが、大衆の望むような政治公約を掲げる政治姿勢を言う。選挙に勝つためには当たり前の手法である。例えば、税金を安くする、医療費を無料にする、学費を無料にする等は典型的なポピュリズムの政治公約である。最近のヨーロッパの極右政党は、ポピュリズムというよりデマゴーグである。デマを流して国民を扇動するのだ。最近ではフェークニュースと言っている。民主主義という政治システムは、ポピュリズム、デマゴーグという欠陥を内在している。自由で平等な国家にとって民主制は必須のシステムではあるが、自由・平等・法という甘い果実もぶら下げているのだ。だから、民主制の国家であっても独裁国家となりうるのである。
 
  最近のいくつかの政治的話題を見ても、何かがおかしいと思うが、人間というものは元来、ややこしくおかしなものなのだ。人間をややこしくおかしくしているのは知性である。勿論、動物的本能や生存本能、感性等の全ての知的生命活動を含む知性のことである。知性の本質とは何か、人間は何故このように堕落するかについて迫ってみる必要がある。それでは、どのようにこの問題に迫ることができるのであろうか。普通の学者ならば、抽象的に、形而上学的に、哲学的に、論理的に、つまるところ真面目に迫るであるうが、いい加減な評論家であり研究者である私は、不真面目に迫る方が適している。
 
 ところで、堕落とは何かであるが、和英辞典で引いてみると、あるわあるわ、沢山ある。人間は、これほどまでに堕落するのだ。名詞、動詞、形容詞等いろいろあるが、関係なく挙げると次のようである。

 corrupt,fall,degrade,rot,vicious(vice),lapse,decline,seduce,astray

 最初のcorrputはcor(共に)とrupt(決裂、折れる)とが合わさった言葉だから共倒れだし、折れるのだ。fallは文字どおり落ちるのである。degradeはグレードが低くなるのだから品質の低下で、品のないことだ。rotは腐敗を意味し、芯から腐った奴のようにに使われる。viciousは意地の悪さだから生まれながらの悪だ。lapseは過失や堕落を意味し、declineは下に曲げることだ。seduceは誘惑だし、astrayは道を外れる意味である。底意地が悪く、品格がなく、腐れきった奴で、誘惑に弱く、人生の脱落者ということになる。堕落の対象は人間だけではない。こういった人間を多く抱える組織、社会も対象だ。
 
 全て堕落に通ずる言葉だが、これだけではほとんど説明されていないに等しい。キリスト教では原罪を意味するらしい。アダムとイブが楽園を追われ現世に落ちて堕落するのである。現世は堕落に満ちている。といっても宗派によって解釈は様々なようだ。

 漢字源で「堕」の意味を見ると、丘や盛土が崩れる様が語源である。ただ落ちるのではない。苦労して盛り上げた土が崩れるのである。崩れては再び土を盛り、そしてまた崩れるのである。
 
 仏教では、現世は混沌としていて善人もいれば悪人もいる。欲望にあがないきれないのが現世なのである。仏教の教えに従っていればまんざらこの世も悪くないが、従わなければ堕落しこの世で苦しむことになるといった程度の堕落である。

 これから話を進める堕落とは、宗教的な意味合いの堕落とは少し違う。漢字の語源の方がより近く、人が積み上げてきたモノが崩れ落ちる様である。堕落とは、人々が作りあげてきた、あるいは作ろうとしている倫理・道徳・規範、その他もろもろの常識、人の道に背く様なのである。
 
 表題の「堕落論」は、坂口安吾が昭和二一年(一九四六年)四月に発表した「堕落論」からいただいた。坂口安吾は、戦争で焼け野原となった東京の片隅で生き延びた。戦時政府が崩壊し、それまで信じてきたものが全て無に帰した中で、人々が必死に生きようとする様に「堕落」を見たのである。それは、人間が極限的状況におかれた時の思考と行為を記録したものではない。人間が堕落する様に対する「叫び」なのである。
 
 最近の研究では、人間の進化は止まったと言う。700万年前に二足歩行を獲得したヒト属が、450万年という途方もない時間をかけて道具を使うヒト属のある種に進化する。それから、更に225万年をかけて現在のホモ・サピエンスとなる。今から25万前のことである。このホモ・サピエンスが現代人の祖先であるが、7万年前に発生したインドネシア・スマトラ島のトバ火山の大噴火によって地球が寒冷化し、人口1万人程度まで減少する。この人口減少が、現代人の遺伝的均一性を生み出した。現代に至る7万年の間に、人間は知性を発達させ、文明を生み出し、人口70億人にまで達した。しかし、遺伝子の多様性は失われた。遺伝子の多様性は生命体進化の原動力であるから、遺伝子の多様性が失われたことにより進化が止まったという説には説得力がある。遺伝的均一性により進化は止まったが、一方では知性の進歩を促した。人間は、絶滅の極限状況において知性を獲得した。しかし、知性の進歩と引き替えに堕落も獲得したのである。犬や猫を見ろ。実に真面目に生きている。サルにしてもごくごく真面目に生きている。人間以外の生命体の生き様は見事に真面目であり、決して堕落することはない。堕落は、知的生命体である人間のみが持っている。知性の進歩の本質は、堕落にある。
 
                                2017年7月