霧と闇 第2章 武者震い
しかし、小泉旬が所属するタレント事務所の護山一という社長があらゆるところで暗躍してるので、それを記事にしたがらないメディアを、真っ向から切り崩そうとする。
小塚慶太が雲渓荘という宿を始めて三年ほど経っているが、せいぜい一日に二組でそれさえもたいして来ないので、しばらく間をおいて再訪して来る客の顔を覚えてることが多い。
「これはまためずらしいお方が」
「ご無沙汰してます」
「予約なしですが、泊れますか?」
「はい。松茸のいいのが採れまして、今夜はそれをお出しできます」
「そりゃいい。ここの料理は美味しいんだ」
岩永亮介が連れの女性にそういい、座敷に上がりこんだ。
「彼女、横峯紗世さんというんだ。部屋は別で頼むよ」
承知しましたという小塚が二人に茶を淹れた。
「今日は、釣りじゃないんですね」
「あぁ。彼女に本を書いてくれと頼まれてね。それはいいんだけど、映画化を仮定して、その主役に小泉何とかっていうタレントを起用するってんで、その相談をかねてのことなんだ」
「小泉旬ですか?」
「知ってるねのかね」
「ここに来たんですよ」
「ほー。それは奇遇だ。ところで、あのふてぶてしい顔した猫は、元気かい?」
小塚が紋次郎を連れて来た。
「脱走してるかと思ったら、こんなに元気だ。猫も肥ゆる秋だ」
岩永が抱き上げた紋次郎の腹が出ていた。
紗世は気乗りしてない岩永亮介に、どうしても本を書いてもらわなければならなかった。それができなければ、メディアプロデューサーとしての立場が危うくなる恐れがあるからだった。
「先生。私、この企画に賭けてるんです」
「君の気持ちは分かるけど、映画化を仮定して本を書くっていうのがね…」
「こんなこといったら大変失礼ですが、このところ先生がお出しになった作品の売れ行き、あまり芳しくないですよね」
焼き松茸の美味さにご機嫌だった岩永が苦笑した。
「随分、はっきりいうじゃないか」
「申し訳ございません。男と女の心理状態を書かせたら右に出る者はいないとまでいわれた先生ですし、この辺りで新境地を拓いてヒット作を書いていただきたいっていう、私の願いもあるんです」
「お世辞はいい。作家というのがどういうものだか、君はそれを理解してないと思うんだ」
テレビ局と出版社に映画の配給会社までをコーディネートし、ようやく掴んだ大仕事に燃えてる紗世の気持ちはよく分かるが、だからといって安易なものは書きたくない岩永だった。はっきりと物をいう紗世に気分を害してる訳ではなく、彼は自分の信念をいってるだけだった。
「本の内容までこちらで指定するのは厚かましい要求ですけど、どうしても先生の名前が必要なんです」
「そりゃおかしいよ。売れ行き不調だってことは、君がいったとおりだ。そんな作家の名前が、どうして要るんだい?」
本の売れ行きが悪いといっても、テレビや雑誌などでコメントをしている岩永亮介の知名度は高かった。そして、紗世が交渉した飛龍出版は弱小だが、岩永亮介ならという条件だった。
「殺人を犯した男が野良猫を拾ったことで自首するなんて、そんな陳腐なもの、私には書く気になれないね」
「猫は今、物凄いブームなんです。ブログでも猫についてのものが多いし」
岩永が雲渓荘に来たのは、猫の紋次郎に会いたかったこともあった。木枯らし紋次郎ではないが、頬に傷があるのまでそっくりだったし、その不敵な面構えが好きだったからだ。その紋次郎が岩永の顔を見上げている。頭と尻尾だけになった串刺しの岩魚を欲しがってるようで、岩永がそれを紋次郎にやった。
「おいしいか?」
頭を撫でながら、岩永は紋次郎に聞くようにいった。
「確かに猫は可愛いっていうか、私にしても興味のある対象だけどね」
「それなら、是非、お願いします」
「小泉っていうタレントだよ、問題は」
「はすっぱな彼なら、こちらの女性がいってる役どころに、あいそうですよ」
紋次郎を連れて来た小塚はそのまま囲炉裏の前に居座っていた。
「あの人間の目つきは、どうも気に入らなくてね」
「私も岩永さんと同じで、彼に好感持ってませんが、今の若い者には、ああいうのが人気あるらしいですよ」
小塚はよけいなことをいったといって、座敷から離れた。
杉浦が雲渓荘を訪れていた。
「やー、いつぞやは有難うございました」
「これはこれは。今日はまた何の御用で」
「泊りに来たんですよ。ここの料理が美味いって聞いたもんで」
岩永と紗世が小泉旬のことで話してるところなので、小塚は杉浦を泊めたくなかった。だが、杉浦は靴を脱ぎ、ずかずかと座敷に上がりこんでしまった。
「秋だっていうのに、何なんですかね、この暑さは。ビール。ビール下さいよ」
「済みませんが、今日はお泊めできないんですよ」
「何いってんのよ。昨日の電話で、空いてるからどうぞって、いったじゃないですか」
「あなただとは知らなかったもんで」
「それじゃなんですか?私が泊るのは、厭だってことですか?」
口を尖らせていう杉浦に、小塚が困惑した。
「あなたが早川真理のことを教えてくれてですね、あれからずーっと彼女のことマークしてて、それで記事になるところまで漕ぎ着けたんで、そのお礼を兼ねて来たんじゃないですか。土産だってこうして持って来てるっていうのに、それなのに、何なんですか。いいから、ビール持って来なさいって」
根負けした小塚は、しかたなく杉浦を受け入れることにした。
「青い空に、紅葉。それに露天風呂まであるっていうじゃないですか。ここで長逗留して、作家気取りでもしますか」
杉浦はがははと呵々大笑してビールを飲んだ。
「よほど、嬉しいことがあったみたいですね」
「だから、いったでしょう。小泉旬と早川真理のことを記事にするんだって。彼女が堕胎した裏づけとったし、小泉旬が彼女と別れて大河内志乃とかっていう女優と同棲してるところまで掴んでね。それを記事にまとめるんで、久しぶりに温泉でも浸かりながら書こうって算段なんですよ。部屋は二階でしょ。眺めのいい部屋にしようじゃないの」
杉浦が勝手に階段を上り始めるので、小塚が慌てて彼を引き止めた。
「今日お帰りになる予定だったお客様がまだいるんですから、静かにお願いしますよ」
「そうなの。そうならそうと、はっきりいってくれればいいのに。水臭いな」
春に会ったときとは違う杉浦のはしゃぎぶりに、小塚はあっけにとられるばかりだった。
紗世は夕食のときも岩永に仕事の話をしている。
「他のお客さんもいることだし、それはまたにしようじゃないか」
「明日の朝には、帰らなければいけないんです」
「それは君の勝手だけど、だからといって、私が書くとはいえないね」
「タレントのスケジュール調整。これ以上引き伸ばせないんです」
「あんな小泉旬くんだり、どうでもなるんじゃないのかね」
「彼が所属してる社長。護山一、ご存知ありませんね」
「知らんね」
「護山一に背くと芸能界だけでなく、あらゆる面で妨害されるらしいです」
「そんなこといって、私を脅してるつもりかい?」
「いえ。先生のためを思って、いっただけのことです」
穏やかに飲んでた岩永が血相を変えて立ち上がった。
「帰りたまえ。この話はなかったことにする」
少し離れたところで美味い料理に舌鼓を打っていた杉浦が吃驚し、岩永の後姿を見詰めた。
「どうしました?こんな綺麗な女性相手に怒っちゃ、せっかくの夜が台無しじゃないですか」
小塚が慌てて杉浦を制するが、杉浦はビール瓶を持って岩永に近づいた。
「怖い顔しないで、さ、楽しく飲みましょう」
四角い顔をほころばせながらいう杉浦に、岩永は大人気なかったと我に返ったようだった。
「驚かせて済みません」
「いやー。私なら、気にしないで下さい。ただ、どうせ飲むなら、楽しく飲みたいじゃないですか。さ、ささ。そちらのお嬢さんも、そんな顔してないで、こちらの方に注いであげなさいって」
杉浦のにこやかな顔に、紗世は気色ばった顔をとりなし、座った岩永のグラスにビールを注いだ。
「小泉旬がどうのこうのっていってましたが、どういうことです?」
「杉浦さん。こちらの話に割り込まないで、あなたはあちらにお戻り下さいって」
「何いってんですか。他にお客さんいないんだし、客同士仲良く飲んで、どこがいけないんです?そうでしょ。ビール。ビール持って来なさいよ」
杉浦はちゃっかり座りこみ、紗世が注いだばかりの岩永のグラスにビールを注ぎ足した。
「あなたは小泉旬のことだけでなく、護山一のことまでいいましたね」
紗世がしまったという顔つきになった。
「いいじゃないですか。もう聞いてしまったんだし。彼のこと、あなたはどれぐらい知ってるんですか?」
「どれぐらいって…」
「私が、仕事ができなくなるっていうことらしい」
「えー。確かに、私は聞きましたよ」
「それは…」
「こんな綺麗でうら若き女性が護山のことを知ってるなんて、大変なことですよ。あんな男と関わり持ったら、酷い目に遭います。口に出すのも汚らわしい男ですよ。それでも、私は彼と戦いますがね」
杉浦の顔からは既に笑みは消えている。タバコを吸うその顔は渋い面で、いぶし銀のような貫禄さえ漂っていた。
「これまで、護山の尻尾を掴んでも、尻込みしてまともに扱ってくれるところはなかった。でも、私はね、ようやくある出版社を探し当てましたよ。護山や、あのくだらないテレビや映画に出てる小泉旬のことを、書いてもいいっていうところをね。あんな能無しタレントを祀り上げてるメディアに、私は真っ向から戦おうと思いましてね」
紗世は身震いしていた。杉浦という男が護山や小泉旬の何を掴んでるのか?それ次第では、自分の身に火の粉が降りかかってくるのではないかと思うと、恐ろしくなってくるのだった。岩永を説き伏せるどころではなかった。
「私、これで失礼します」
「いいじゃないですか。まさか、帰るつもりじゃないでしょうね。分かった。恐れをなしてるんですね」
杉浦に見透かされ、紗世は顔色がなくなっていた。
「私だって、正直怖いんですよ。護山のことなど書かなきゃ、もう少しで年金で田舎暮らしをしようって年です。その老体に鞭打って、こうして命懸けになったのも、如何に護山が非道かってことを知ったからです。あなたが彼のこと、どこまで知ってるか知りませんが、情報交換しようじゃありませんか。ね、いい思いつきだと、思いませんか?」
杉浦は岩永の肩を叩きながら、大袈裟にいった。
「一人より二人、二人より三人だ。そうなれば、敵さんだって、こりゃ手強いぞって思うもんですよ」
そういってはしゃぎながらいう杉浦は、岩永だけでなく紗世と小塚にもビールを注いだ。
「やだな、しんみりしちゃって。お通夜じゃないんだから、さ、ぱーっと飲もうじゃないですか」
仕事ができなくなると紗世からいわれた岩永は、そんなことないだろうと思っていたが、杉浦の話で彼女のいうことがまんざら嘘でもないのかも知れないと悟った。
「横峯さん。元気出しなさいって。君が護山という人間とどんな取引したか知らないが、こちらの方が味方になってくれるそうだし、心配ないだろう」
岩永と紗世が部屋に戻っても、杉浦は一人でビールを飲んでる。
「大きな仕事をする前の、武者震いってところですか?」
「そう、見えましたか?」
「えー。自分を鼓舞してるようでした」
「なるほど。そうかも知れませんな」
囲炉裏にくべられた薪が燃え尽きそうになっていた。そこに小塚が薪を足すと、大きな炎が燃え上がり始めた。
「心の炎をたぎらせていくのは、疲れますよ」
「私より若いのに、達観したこといいますね」
「こう見えても、人並み以上の苦労してきましたからね」
「私は苦労を買ってでもしたい性質なのかも知れませんな」
杉浦が自嘲しながら立ち上がった。
「ゆっくり、休んで下さい」
「迷惑かけましたな」
「いーえ」
長身を揺らせながら階段を上っていく杉浦の後姿に翳りは見えなかった。
セブンイレブンに排除命令
当然のことですね。
食べ物を廃棄処分するのは人間としてためらいがあるし、それならいっそのことホームレスや野良猫や野良犬にやったほうが、一挙両得だろう。
だが、それでも加盟店側にしたらそういった消え物のロスは、経営を圧迫する大きな原因になっているのが実情です。
そこで消費期限が近づいたものは値下げしてでも販売し、しかも売り切ってしまいたい。
それを、セブンイレブン本部は、同じ商品に値段のばらつきがでて、イメージ低下に繋がるとして反対してきたわけです。
そういったセブンイレブンの主張は正論のように聞こえますが、それではスーパーや駅ビルなどの弁当や惣菜はどうでしょうか?
私の知る限り、閉店間際とか消費期限が近づいたものは、はほとんど値下げ販売しています。
セブンイレブン本部は、なぜ加盟店を苦しめてまで価格維持するのか?
上記の理由もさることながら、ロスが出ようと出まいと、加盟店に少しでも卸高を増やしたいというのが真相ではないでしょうか?
そして、本部は常に利益を伸ばしていきたい。
そのためには、商品の補充を第一とし、機会ロス(商品の欠品)をさせないことを最前提として加盟店に強要してる。
だからこそ、セブンイレブングループが小売業界で君臨してるのではないでしょうか?
そんな業界を風刺っぽく書いた私の小説「風越峠 見返り桜編」をぜひ読んで欲しいものです。
霧と闇 第1章 五里霧中
それは芸能界の暗部というか恥部で暗躍する者の仕業だろう。
そういった闇社会に足を突っ込んだ、杉浦直樹というジャーナリストがいる。
彼の軌跡を通して芸能界の裏を小説化していきます。
ここに登場する個人や団体は架空のものです。
旬はマネージャの電話を一方的に切り、真理が待っている玄関に行った。
「古いなぁ。ゴキブリでもいるんじゃないか」
「やなこといわないで。古いけど、清潔じゃない」
真理が少し大きな声でこんにちはと声を掛けると、中から男が出てきた。
「小泉だけど、予約の電話いってんでしょ」
小泉旬はマネージャーに宿の手配をさせていた。
「ようこそおいで下さいました。古いところですが、さ、どうぞ」
「ほんと、古いよな。天井は真っ黒だし」
小泉旬と早川真理が訪ねた雲渓荘は合掌造りのため、季節問わずほとんど毎日のように囲炉裏の火で天井をくすぶらせている。それを知らずにいう小泉旬という俳優がどんなに人気者であろうと、宿の主である小塚慶太は彼を世間知らずだと思った。
「高級ホテルもいいけど、たまにはこういうクラシックなのもいいじゃない」
小塚はそんな二人を大木を輪切りにした椅子に座らせ、冷えた緑茶を出した。そして、宿帳に記入するように頼んだ。
「俺のこと、知らないの?」
「存じておりますが、お上の達しでして」
小塚はテレビなどニュースしか見ないので、小泉旬がどんな俳優だかタレントだか、彼について詳しいことなど知らなかった。
「宿をやってる以上、どんなお客様にも記帳していただかないと、後々困りますので、ご面倒でもお願いします」
金髪をかきあげながら宿帳に名前と年齢に住所を書き殴った旬がマリに、自分で書けよといった。
「貸切だろうな。一晩で三十万払うんだから」
「はい。他にお客様はいませんので、ごゆっくりできます」
二階の客室に案内された旬は冷蔵庫もないのかよと不貞腐れ気味に、ビール持って来てくれといった。そういわれた小塚が清水で冷やしてあるビールとチーズを持って来た。
「何か御用のときは、そちらにインターフォンがありますので。では、ごゆっくりどうぞ」
そういって小塚が出て行くと、旬はビールの栓を乱暴に抜くとラッパ飲みした。
「何、怒ってんのよ」
「気分悪い親父だな」
「そんなことないじゃない」
「俺のこと、馬鹿にしてるんじゃねぇか」
「考えすぎだって。あたしにも頂戴よ」
「真理には、もっといいもん飲ませてやるって」
摘んで来た山菜をあく抜きし、それを天麩羅やおひたしにして出した。串刺しにした岩魚は囲炉裏の縁にさしてあり、客が頃合を見計らって食べられるようにしてある。その他にテリーヌなども出し終えた小塚に、肉ないのかよ、と如何にも不機嫌といった感じの旬がいった。
「ございますよ。まだこれは前菜のようなものでして」
「早く出せよ」
「すいません。何か、マネージャーと揉めたみたいで」
「いーえ。気にしてませんので」
何だと、という感じで旬の顔がさらに険しくなった。
「せっかくのお休みなんだから、かっかしないでよ」
「とっとと、持って来いってんだ。葉っぱばかり食わせやがって、鶏じゃねぇんだぞ」
焼きあがったばかりのローストビーフは肉汁まで美味かった。お代わりまでした旬は、それをワインと代わる代わる口に放り込んだ。
「これもいいけど、ステーキにしてくれよ」
「申し訳ございません。お代わりされたので、もう肉がございません」
「けちくせーとこだ」
「食べすぎだよ。一人で、五百グラムぐらい食べてんだよ」
山葵ソースのローストビーフは飽きのない味で、真理の分まで食べている旬だった。
「味噌漬けでもよろしければ、お出しできますが」
「それでいい。早くいえって」
「一枚が八十グラムほどですが、どれぐらい焼きましょうか?」
「三枚だ。足りなかったら、またいう。それに、ワインだ。こんなぬるいの、飲めたもんじゃねぇ。がんがんに冷えた奴でな」
赤ワインを冷やすなど聞いたことのない小塚だったが、我侭な客をこれ以上怒らせる必要もないだろうと、いわれるままシャブリのように冷して運んだ。
雲渓荘から二キロほど山に登ったところに東屋があり、そこへ駆け上がるのが小塚の日課だった。
「小泉旬が泊ったようですね」
首からカメラを提げている男が自動販売機でお茶を買い、それを小塚に手渡し聞くともなしにいった。
「さぁ。お客様のことは、人様に聞かせるものではありませんので」
「もっともですな。私、杉浦というしがないジャーナリストです」
杉浦が名刺を小塚に差し出した。
「せっかくですが、必要ありませんので」
小塚はそういって、タバコをふかし始めた。
「そういわず、いつか役立つときあると思いますから」
小塚に名刺を無理やり取らせた杉浦が長身を翻した。
「ゴシップなんて書きたくないけど、硬派なこと書いても、最近の雑誌は取り合ってくれないもんでしてね」
そういう杉浦の横顔に翳りはなく、小塚には飄々としてるように見える。
「人間生きていくには、誰しも、清濁併せ呑むってことですな」
「そ、それなんだなぁ。私にしたって、あんなジャリタレの後追って、こんなとこまで来るなんていやでね。それも生きていく糧だから、しょうかたなしってところです」
「早川真理っていう子は、あの男の子供を堕ろしたらしい。いや、独り言いってしまった」
二人は含み笑いしながら別れた。
真理は毎日仕事に追われて忙しいが、それでも友人と飲み歩いてる。それも中目黒や自由が丘など、人目に付くところでも平気で行く。
「夏はどう?」
「もうね、スケジュールびっしり」
「いいな。あたしなんて、空きだらけ」
「へっこまないの。そんな顔してると、本当に仕事来なくなるよ」
真理は暇なモデル仲間の梨沙を励ました。そして、乾杯した二人は人目を気にすることなくいろんなことを話し始めた。仕事のことだけでなく、プライベートなことまでだ。
「ね、身体のほう、あれから順調?」
「平気。でもね、欲しいっていうとき、できない可能性あるかもって」
「そうなんだよね。それに、流れ易いんだって。彼のいうこと分かるけど、あまりだよね」
「しょうがないよ。それで、仕事ふえたんだし」
堕胎させられた事実を盗み聞きしたことより、それをあまり気にしてない真理に、杉浦は唖然となっていた。
雲渓荘の主がいってたことが嘘でないことがはっきりした。
だが、それを証言してくれる者は誰もいない。真理と話してる梨沙に媚薬を嗅がせる手立ても、芸能関係に疎い杉浦には何にもなかった。本人である真理がいったことを録音してても、そんな物は握りつぶされてしまう。芸能界の闇に迫るには、そこをなんとしてでも突き崩さねばならなかった。それは出版社だけでなく、あらゆるメディアで、杉浦にはどうしていいのか見当もつかなかった。それでも、彼にはひとつのことに対する情熱があった。それはどんなことにも屈しない姿勢だった。
いつもにこやかな杉浦だが、このときだけはさすがに彼の顔も強張っていた。芸能界のドンと呼ばれる護山一と決闘する覚悟を決めたからだった。
第3章 雨降って地固まる
野良猫についての問題提起した小説「小次郎とマリー」完結です
いびきをかいてる小次郎は、サリーが話しかけてもじゃれついても起きなかった。
「疲れてるみたいだから、そっとしてあげなさい。サリーはこっちよ」
小次郎は適度な圧力で自分に添い寝してたはずのサリーがいなくなると仰向けになった。
「これからサリーと一緒に、あの子も温泉に行くのよ」
サリーは紗里奈の顔を舐めて喜んだ。
そのサリーよりご機嫌だったのが小次郎だった。熱い湯に入るのは初めてだったが、とにかく気持ちいい。その上、シャンプーしてくれて綺麗にしてくれた紗里奈に、小次郎は感謝をこめて彼女の前で四本の足をそろえて座った。
「有難うございます。なんだか、死んでもいいような気分で幸せだ」
「変なこといわないで」
「いやー。俺も歳だから、いつ死んでもおかしくないんだよ」
「せっかく再会できたのに、そんな縁起悪いこといわないでよ」
「ごめんごめん。弱気になっちまったな」
ちょこんと座ってるような小次郎の姿が何かいいたげな顔だが、紗里奈に分かるはずもない。それでも何かを感じたのか、紗里奈は小次郎の頭を撫でてはいい子だねといってる。
その小次郎は娘に諭され、武者震いするかのように濡れた体を何度も胴震いさせた。
ペット専用のホテルは至れり尽くせりで、温泉だけでなく小次郎をはしゃがさせるものがいっぱいだった。ササミや魚料理で満腹になればキャットタワーもあり、それでサリーと戯れた。紗里奈のうまいあやしに乗せられ、一晩中部屋を駆けまわった小次郎はさすがにくたくたで寝込んだ。朝になれば庭の草むらに放され、その草いきれに懐かしい匂いを思い出すものの、サリーに追いかけられ汗だくになる。そして、また温泉に入るという繰り返しだった。
紗里奈の自宅に戻ればミーチャがたずねてきては体の具合を心配してくれ、小次郎は今までにない極楽の日々を送っていた。
寄ってきた雌猫のかすかな匂いにはっとし、マリーは誰に会ってたのと必死に聞いた。
「誰って、あんたこそ誰よ」
「あ、あたしはマリー。ね、小次郎と会ってたんでしょ?」
「あんたがマリーかい」
「やっぱり、小次郎おじちゃんのこと知ってるんだよね」
濡れたような目を大きく見開いているマリーという若い娘の気持ちは分かるが、会わせていいものかどうか迷っているミーチャだった。
「あんた、韮崎から一人できたのかい?」
「そうよ。おじちゃんに置いてきぼりにされて、それで一人で追いかけてきたのよ」
「それは大変だったね。でもね、小次郎は野良猫でね。あんたと一緒に、暮らすわけにはいかないんだよ」
「どうして?」
「野良猫には野良猫の、しきたりってものがあるんだよ」
「あたしだって捨てられて、野良猫になったんだから」
「そうはいってもね…」
ここへどんな思いをしてきたのか、マリーはミーチャに懸命に訴えた。
百五十キロもの旅をするというのは並大抵のことではない。その辛さはミーチャ自身よく知っていた。それで、泣き声でいうマリーの気持ちを察し小次郎のところへ案内した。
マリーはサッシュのガラスに前足を何度もよじっては吠えるように泣いた。
それに気づいた小次郎もガラス戸に駆け寄った。紗里奈がガラス戸をを開けると、マリーはいっきに駆け上がった。
「何で置いてきぼりにしたのよ」
「悪い。お前はあそこで、可愛がられてたしな」
「おじちゃんがいなかったら、生きてる意味ないんだからね」
マリーはそういって涙を流した。
紗里奈はそんなマリーと小次郎の関係を察したようだった。
紗里奈はブログでサリーのことを取り上げることが多く、新しく家族の一員に加わった小次郎とマリーの画像も掲載した。マリーの愛くるしい表情をした画像は評判がよく、たくさんのコメントが書き込まれている。
「クララちゃん可愛いですね。彼のところに、少しだけニャンコいたんですよ。でも、私と結婚するときにに捨ててきたっていわれて、凄いショック受けたことあるんです。あんな可愛いニャンコ捨てるなんて、信じられませんよ。男って、勝手だなーって思いました。また遊びにきますね」
それを読み終えた紗里奈がコメント返しをした。
「セレブ奥様。いつもコメント有難うございます。ソマリのクララはアメリカンショートヘアーのクロベーが舞い込んでから、三日ほどしてから我が家にきました。それも、クロベーの後を追ってきたようです。汚れていたものの二匹とも元は飼い猫だったようで、すぐに懐きました。誰かに捨てられたんだと思いますが、こんな可愛い猫ちゃんを捨てる人間の気持ち、私には分かりません。というより、許せません。心ある人間なら、ペットを捨てるなんてこと、しないはずです」
紗里奈は子供が寝付いた後も、サリーにクロベーとクララの様子を見ている。
年長のクロベーこと小次郎は体はマリーよりも小さいが、その風格は二匹にないものだった。マリーにちょっかい出されても、髭を少し動かすだけで居眠りを決め込んでいる。
「こっちおいで。お父さんは眠いんだから」
「前はよく遊んでくれたんだけどね」
「疲れてるんだね。マリーはまだ若いから、体力がすぐに快復するけど、お父さんはもう中年だし」
「親父だね」
「旅の疲れが出てるんだと思うよ」
「あたしもそうだけど、楽しくてしょうがないし、はしゃぎたいのよ」
「まだ、子供だし」
「そんなことないわよ。あたしだってお父さんと同じように、ここまできたのよ。餌がなくて、ゴキブリやカマキリだって食べたし。大人になったつもりだし」
「どれぐらいかかってここにきたか知らないけど、お父さんはそんなこと、毎日のようにやってたのよ。あなたと会う前は」
「野良猫って、いつ死ぬか分からないことばかりだから、大変だよね」
「あたしは野良生活したことないからよく知らないけど、お父さん見てて、幸せだって思うわ。ここのおばちゃん気はいいし、こないだは温泉にもつれてってくれて、お父さん感激してたよ」
「ふーん。温泉て何だか知らないけど、面白いの?」
「お風呂みたいなもんよ。もっと大きくて、泳げるし」
「いいなー。行ってみたい」
サリーはミーチャだけでなく他の猫との交流もありいろんな情報を耳にしているが、マリーは小次郎とサリーだけしか知らない。それだけに、自分の世界がどんなに小さいかを思い知らされてるようだった。
「さ、あなた達も寝たほうがいいわよ」
紗里奈はサリーとクララを代わる代わる撫でて寝室へ行った。
金ぴかが煙草をそうとすると、こらーがそれを取り上げた。
「あたしが煙草やめたの、知ってんでしょ。嫌味なこと、しないでよ」
「ごめんごめん」
「昼は、何つくってくれるのかな?」
「忙しくて、それどころじゃないわよ。レトルトあるんだから、それでも食べてよ」
我侭なそんなこらーがパソコンに戻っていった。
「そうか。一人淋しくカレーでも食べるかな」
そういいながらモニターを覗き込むと、彼女は猫の画像を閲覧してるようだった。画像は小さいがソマリで、それにコメントを書き込んでるようだった。
自分の部屋に入った金ぴかがパソコンの電源を入れた。こらーが浮気してるのではないかと疑心暗鬼な金ぴかは、彼女専用のパソコンを盗み見してるのだった。
俺には捨ててこいっていっておきながら、あの女は何考えてんだ。
「サリーの気まぐれ交遊録」というブログには、たくさんの猫の画像が貼り付けられている。そして、来週のオフ会参加の呼びかけが書かれていた。それを見てるうち、金ピアかは小次郎とマリーがどうしてるか気になってしょうがないようだった。
「どこ行くのよ?」
「ランチ食べに、八ヶ岳でも行ってこようと思ってね」
「あのレストランなら、あたしも行くわ」
「忙しいんじゃないのかい?それなら、昼飯はここでカレーでも食べたらいい」
「最低」
こらーは出て行く金ぴかに、あっかんベーをした。
紗里奈の元に梶山三郎が訪ねた。
「何だ。こいつら、何でここにいるんだ?」
「知ってるの?」
梶山の足元にまとわりつくクロベーとクララに、紗里奈が聞き返すようにいった。
「五月末八ヶ岳行ったとき、この二匹が俺の車に乗り込んできてな。そしたら、韮崎で降りて行ったんだ」
「まさか。人違い、じゃなくて猫違いでしょ」
「間違いないって。家に行けば、こいつらを撮った写真あるし」
「韮崎から東京まで、猫がどうやってきたのかしら?」
「犬と同じで、猫にも帰巣本能があるらしい。それにしても、韮崎からよくたどり着いたもんだな」
「帰巣本能っていうことは、この猫ちゃんたち、東京にいたのかしら?」
「そうだろ。じゃなきゃ、わざわざあんな遠くからくるはずないしな」
紗里奈は驚くと同時に、クロベーとクララがやってきたときの哀れな姿を思い出した。
そこにオフ会の参加者が集まってきた。初めての者もいて、皆に自己紹介をしてる。
「私は小鳥遊うのです。最近ニャンコのこと大好きになって、それでやってきました。自分でもこれから飼ってみたいんで、宜しくお願いします」
うのという女が挨拶してるとき、小次郎がマリーを小突くようにして見ろといった。
「誰だか、覚えてるだろ」
「こらーだね」
「調子のいいこといってる」
「そうですか。猫ちゃんは手のかかるペットですけど、きちんと面倒を見れば飼い主の言うこともよく聞きますよ。里親制度もあるんで、よかったらいい子紹介しますよ」
そこに、金ぴかが現れた。
「どうなってるんだ?」
寝そべって不貞腐れたような格好をしていた小次郎が、勢いよく立ち上がった。マリーもそれに倣い、ぴょんこと立った。
「突然お邪魔して済みません。私、うのの夫で小鳥遊好男といいます。そこにいるソマリとアメリカンショートの二匹。私の家内であるうのの言いつけで、私が八ヶ岳に置き去りにしてきた猫達です」
皆が小鳥遊夫妻を見詰めた。そして、小鳥遊好男が見てる二匹の猫に視線を移した。
「君がここに何しにきたのか、僕は知ってる」
小鳥遊好男がそういい妻のバッグを無理やり奪って、中の物を床に落とした。
「あの二匹を殺そうとしてるんです。捨てようとしたとき小次郎に噛まれたのを怨みに持って、八ヶ岳から東京まで戻ってきた小次郎とマリーを、殺そうとしてるんです」
「何いってんの?そんなこと、するわけないでしょ」
うのがいくら言い訳をしたところで、床に転がってる農薬らしきパッケージを見ては、皆は彼女を軽蔑視するだけだった。
「私がここにきたのは家内に残虐なことをさせないのは勿論、小次郎とマリーに謝りたいからです」
そういわれた小次郎とマリーが、小鳥遊好男こと金ぴかに駆け寄った。
「悪かったな。こんな悪い女の言いなりになった俺が馬鹿だった」
二匹は金ぴかの顔を舐めた。
「お前とは、離婚だ」
「こんな猫の、どこがいいのよ。私を捨てる気?」
「そうだ。俺は、猫を捨てるんじゃなく、お前を捨てるべきだったんだ。な、小次郎。マリー」
小次郎とマリーは金ぴかの真意を知り、彼に飛び上がってじゃれ付いた。
別れる夫婦がいれば、元の鞘に収まる男と女もいた。
「私たち、やり直せるんじゃない?」
「俺はいつでも、そう思ってたけどな」
梶山が紗里奈を抱き寄せていった。
小次郎とマリーは金ぴかのところに連れて行かれ、捨てられる前の状態に戻った。
「お前達。ここがいちばんいいだろう」
「知ってたら、何で捨てたんだよ。この大馬鹿もんが」
「おじちゃん。いうことがきつい。元に戻ったんだから、いいじゃない」
「マリーはな、お前は、そういうところが甘いんだ。俺みたいな野良猫を増やさないためにも、金ぴかみたいな奴を、懲らしめないと駄目なんだぞ」
小次郎はそういってぴかの腹の上に飛び乗り、彼の顔にパンチを何度もくれてやった。マリーも小次郎に負けず、彼の頭を叩き始めた。
そんな金ぴかの顔が嬉しそうに笑っている。
Summer of '42 おもいでの夏
これに限らず、小説を創作するとき、よくメディアプレーヤーを聞きながら書いてます。
それもほとんどが映画音楽ばかりで、そのなかでもよく聞いてるのは「おもいでの夏」(原作はSummer of '42)です。
ハーマン・ローチャーの原作を映画化した少年と年上の女性との儚いひと夏の物語ですが、多感な思春期の少年と戦争で夫をなくした女性の心理状態を巧みに描いています。
音楽を担当したのは「風のささやき」や「シェルブールの雨傘」で知られるミッシェル・ルグランです。
この「思い出の夏」のサウンドトラックのLPを持ってるんですが、レコードプレーヤーが壊れてて聞けないのが辛い。
そこで映画音楽を集めたCDを買ったんですが、これはオリジナル版ではありません。
ところが、ここに録音されてる「おもいでの夏」はオリジナルを凌ぐ編曲で、せつない映画を思い出させるものでした。
私はそれをユーチューブに初めて投稿しました。
拙い技法で、他の動画に比べれば本当につまらないスライドショーなんですが、とにかく音楽自体が素晴らしい。
視聴者の方はそれを知ってるにも拘らず、聞いているようです。
手前味噌で恐縮ですが、googleでsummer of '42を今日検索したところ、1億6千万件ヒットし、そのトップに私のつくったYouTubeがランクされてました。
summer of '42は本国のアメリカで舞台化され、それがときたま上演されてるのか、多いときは2億を越すことがあるモンスターです。
それでも、このYouTubeは常にトップ10にランクインしてるんです。
こういうことを書いてると、何自慢してるんだと思われる方もいるでしょう。
はい。
本当に自慢したい気持ちもありますが、それよりはこの素晴らしい楽曲を聴いて欲しいのが私の本音です。
それに付け加えるなら、ヒロイン役のジェニファー・オニール(Jennifer O'neill)の美しさです。
第2章 小次郎の軌跡
三食昼寝つきというより食べては寝、起きて小次郎とじゃれあっていた頃が懐かしく、マリーはそんな夢を見ていた。
「元気出せ」
小次郎がそういって頬を舐めたので目が覚めたマリー。
「これから誰か呼んでくる。一人で平気か?」
「すぐ帰ってきて」
「あー。弱気に、なるなよ」
マリーが重体になってることを知り、小次郎はとにかく人を呼んでこなければと人家を捜し歩いた。
村井春樹が住んでたところから、隣の家へ行くのに五百メートルもあった。人間なら歩いて十分とかからないが、猫なら倍以上の時間がかかるだろう。それを強い日差しの中、小次郎は黙々と歩いた。畑に人がいないかと注意深く見ながら、ひたすら歩いている。
「猫だな」
「どこのだ」
「春樹が昔飼ってたことあったけど、もう三年も前のことだしな」
「いやいや。ありゃ、春樹んところの猫に違いないよ」
灰の縞模様で鼻から上だけが黒くなってる振り向いた猫に、老婦が確信していった。
「紋次郎」
車から降りた老婦が駆け寄りながら呼んだ。その女の顔に見覚えがある小次郎だが、紋次郎とは誰のことだと訝りながら抱かれた。
俺が紋次郎なのか?いや、そんなことより、マリーのところに連れて行かなきゃならない。
紋次郎は女の腕からゆっくり飛び降りた。そして、少し歩いては女に振り返る。
「どうしたんだ?紋次郎」
男も車から降り、久しぶりに会った紋次郎を抱き上げて頬ずりしたが、小次郎はまたしても地面に飛び降りた。
「なんだろうね。せっかく会ったっていうのに」
「なんかこいって、いってるんでねーか」
男がそんな小次郎の後を追った。それを女が車でゆっくり追いかけた。
老夫婦がマリーを獣医に見せた結果、寄生虫がいることが分かった。それに栄養不足や蚤やダニの発生で衰弱してるとのことだった。
「これで、しばらく酒も飲めんようになったわ」
「親父は飲みすぎだから、ちょうどいい」
「本当だ。あんたの酒代より、この猫の命のがよっぽど大事だって」
虫下しを飲まされたマリーはまだぐったりしていたが、小次郎が安心しろといって慰めている。
「それにしても春樹の奴。こんな賢い紋次郎を捨てるだけで飽き足らんで、家畑も投げ打って、どこ行ったんだか」
「無理もないって。あんなバイオ農業だか訳分かんないのに手だして、物凄い借金つくったんだから」
「帰ってくりゃえーのにのぅ」
そんな経緯を知り、小次郎は春樹の身に何があったのか悟った。二年だが世話になった春樹のことをあまり思い出すことはなかったが、こうなると彼が哀れに思えてならなかった。いや、自分が置かれてる現状のが悲惨のはずだが、今はマリーの快復を待つだけだった。
狐のように太い尻尾を振って愛嬌を振りまくマリーは皆に可愛がられた。顔も狐そっくりだが、人見知りしない性格が愛されるのだろう。半月もすると元の体重に戻った。
「ねぇ、ここにずっといるの?」
「俺を捨てた春樹に文句のひとつもいおうとしたんだけど、蒸発していないっていうしな…」
「なんだか、金ぴかが懐かしい」
「馬鹿いえ。俺達を捨てたんだぞ」
「でも、それは金ぴかの真意じゃないじゃない。こらーに命令されたんだから」
「それが、男として許せないんだって」
「でも、金ぴかは優しかったよ」
「だったら、お前一人で帰れ。それで、ろくでなしのこらーに、また、捨てられろ」
「そんないいかたしなくても、いいでしょ。ただ、懐かしくていっただけなんだから」
「ふん」
「男の癖に、もっと広い心持たないと、もてないよ」
小次郎はそんなマリーの尻尾に噛み付いた。
「痛い」
「人間に媚びるしか脳のないお前に、俺の気持ちが分かって、堪るかってんだ」
「ひねくれ者」
いつにない顔で噛み合ってる姿に、驚いた家人が二匹を引き離した。
「紋次郎はやっぱり、野良猫の性分が強いんだな」
「こっちは愛嬌があって、おとなしいのにね」
「紋次郎は夜中になるといつも出て行くし、放してやったほうがいいのかな」
「一緒にいたんだろうし、そんなことしたら可哀想だって」
「そうはいうが、この喧嘩見たら、放っておくこともできんし」
「たまたま虫の居所が悪かったのよ、二匹とも」
「それならいいがな」
俺は紋次郎なんかじゃない。小次郎だ。
その小次郎と命名したのは金ぴかだった。やせ衰えてるにもかかわらず精悍な目で人を睨んでる顔は、宮本武蔵と対決してる佐々木小次郎を思わせ、金ぴかが勤務先近くの公園で何回か小次郎に餌をやり自宅に連れ帰ったのだった。
小次郎は三年前春樹が東京に行ったとき、佃島で捨てられたのだった。
そこは高層ビルが林立し、餌などほとんど見当たらないところだった。だが、ビルの料理屋などの鼠を待ち構えては捕まえ、それで飢えを凌いでいた。ときには下町風情が残るほうへ行き、飼い猫とじゃれあったり交尾もした。そんな矢先に金ぴかに拾われたのだった。
小次郎が外に出た。春樹と東京へ行った時の情景を思い浮かべながら、彼は満月に照らされた道で佇んでいる。
明け方になり、小次郎はのそのそと歩き出した。帰巣本能が小次郎に野や山を越えさせ、排気ガスの異臭と高層ビルの佃島に着いたのは、マリーがたらふくで老父の膝で丸くなって寝ていたのを見てから、二ヵ月経過した八月だった。
小次郎はふらふらになりながら、民家の前で泣き声を上げた。
「うるさい猫だね。汚いったら、ありゃしない」
家人に遅れて老猫が出てきた。その猫が小次郎の匂いをかいでいる。
「病気でも移されたら大変なんだから、近づいちゃ駄目だよ」
でぶっとした女は抱き上げるが、老猫は彼女の両腕からするりと地面に降り、なおも小次郎の体臭をかぎ分けている。
「小次郎だって」
「元気だったのね」
「ミーチャは元気そうだな」
「勝手気ままに外に出て行くのよ。そうじゃないと、このヒステリー女を一日中相手してやらないとなんないし。小次郎は疲れてるって感じだね」
「韮崎からきたんだ。この哀れな姿を見てくれ」
ミーチャの案内で噴水に連れて行かれた小次郎は、そこで汚れと一緒に長旅の疲れを癒した。そして、小次郎との間に生まれた子供が引き取られた家にも、ミーチャが小次郎を案内した。
「この子はサリー。あんたの子だよ」
「ミーチャに似てるな」
サリーは誰だとばかりに小次郎の体をかぎまわっていたが、父親だと分かると仰向けになって彼に腹を見せた。
「百五十㌔も歩いてきた甲斐があった。こうして女房子供にも会えたし」
そんな親子3匹の再会を知ってるかどうかは別として、飼い主が冷たいミルクとケーキを出した。
「あんたは見かけない子だね。ミーチャの知り合いかな?」
あんたが飼ってるサリーの父親だと教えてやりたい小次郎だが、その意思は伝わるべくもない。
ミーチャとサリーが小次郎の濡れた体の毛づくろいをしている。
「ここで旅の疲れ落とせばいいよ」
「歓待してくれるか?」
「あたしのお父さんだし、飼い主だって喜んでくれるわよ」
「それならいいけどな」
ミーチャが明日くるからといって帰ると、サリーの飼い主が小次郎を獣医に連れて行った。
別に問題なく、栄養のあるもの食べさせ、ゆっくり休養させれば元気になるからとのことだった。
サリーの飼い主の小達紗里奈は小次郎をクロベーと呼んだ。
「クロベー。肉球にかすり傷たくさん作って、どこ歩いてたのかな」
分かってくれるかな…。ここにくるまで大変だった。野良犬に吠えられるぐらいならいいけど、追っかけまわされて木に登って逃げたりとか、死にそうなぐらい怖い目に遭ったし。それに、山は思ったより餌がなくて、飢え死にしそうだった。
「そんな思いしてまで、ここにきてくれたんだね」
サリーが小次郎の首の毛づくろいをしながらいった。
「マリーっていう妹分がいたんだけど、喧嘩して別れてきた」
「一緒に連れてくればよかったのに」
「そりゃ無理っていうもんだ。まだ一歳になったばっかだし、甘えん坊でな。鼠も食べないんだぞ」
「あたしだって、そんなもん食べないって。だいいち、そんなの食べたら病気になるんじゃないの」
「生きるか死ぬかっていうときに、そんなこといってられないの」
小次郎はサリーのていねいな毛づくろいで眠りに落ちていきながら、マリーがどうしてるのか気になっていた。
小次郎が行方不明になった翌朝マリーもいなくなり、老夫婦一家は気の抜けたような毎日だった。
「もう二ヶ月以上たってるし、帰ってこんだろ」
「狐みたいな子だけでも、帰ってきて欲しいもんだけどね」
そのマリーは、噴水そばで小次郎がマーキングした木立にいた。
昼は民家の縁の下に隠れ、夜になると近くを徘徊しては小次郎の気配を探っているのだった。