勧善懲悪主義の梶山を襲った冤罪とは・・・
狂った夏
日曜の昼下がり車内は閑散としていた。
だが、その静寂な雰囲気を壊そうとしている者がいた。
「いいオッパイしてんじゃねーか」
不精など通り越した伸び放題の髭面は工員のような服を着、女性には縁がないといった男を象徴したいでたちだった。
そんな男が両手で吊り輪を掴んで腰を引き気味にしながら、薄着の女の胸元を覗き込んでいた。
男の顔が間近で吐く息は酒臭かったし、すえた汗が強烈な異臭を放っていた。
それに我慢できない女が立ち上がろうとすると、男がその女の肩を押し沈めた。
「やめてよね」
「いいじゃねーか。見るぐらいよ」
男は吊り輪にだらしなくぶら下がるような格好で、操り人形のように全身を前後左右に揺らしている。
友人と昼食を兼ねてビールを飲み、いい気分の梶山三郎が電車に乗り込んだ。 彼が座ろうと思ったとき悲鳴のような声がした。
その声の方に目をやれば、労務者風の男が女のブラウスを肩からずりおろそうとしている。
梶山は躊躇うことなく隣の車両にいる男に駆け寄った。
「いい齢して、変なことするんじゃないよ」
「ふん」
酔っ払いは梶山に鼻を鳴らし、なおも女の肩から手を離そうとしないどころか、ブラウスを掴み上げている。
「やめろってんだ」
梶山が男の手を捻り上げた。
「何しやがんだ」
そういう男を後ろ手にしホームに引っ張り出した梶山は、彼を蹴っ飛ばしてやろうかと思うが、これ以上手荒なことはよしたほうがいいと判断した。 「いい格好すんじゃねぇ。おめぇーだって、この女のオッパイ見てぇだろう。男好きするあの女と、やってみてぇくせによ」
酔っ払いは尻餅をついたかと思えば、仰向けになりながらいった。
発車ベルが鳴ったので、梶山は急いで車内に戻った。
飛び込んで乗った車内の椅子に座り込んだその彼の向かい側に、女が何事もなかったかのように澄ましている。
有難うの一言もなしかよと思う梶山だが、礼をいって欲しいために男を車内から連れ出した訳ではない。
世の中こんなもんなんだと呆れるとともに、少しばかり興奮してしまった彼は前屈みになって肩で息をした。
床に目を落としていた彼がゆっくり顔を上げていく途中、女の素足の付け根に白いものが見えた。そして座席の背もたれまで上体を起こしたが、それでも彼の目にはミニスカートの奥の白いパンツが視界に入ってくる。 梶山が助けた女は普通に座っていても、バッグなどを膝に置かなければパンツが見えてしまうほど短いスカートで、白いブラウスはシースルーのように青いブラージャーがくっきり浮き上がっていた。 こっちは人助けをしたっていうのに、礼もいわないで、なんでそんな目で見てんだよ。
そう思っているうち、梶山は眠くて目を閉じてしまった。
電車の揺れるリズム感は気持ちいいもので、梶山は中学時代の夢を見ている。
友人達が塾に行く時間だとか、遅くなるから帰ると三々五々散って行く。
何の予定もない梶山が一人で駅に行くと、教育実習に来ている有馬佐智子という女性と出くわした。
「さっきも教室でいったけど、時間あったら遊びに来てね」
「行って、いいんですか?」
「いいわよ。うちのそばにはキャンプがあるから、外人がいるの。三溪園も近いし、いい写真撮れると思うわよ」
そういわれた写真好きな梶山は、夏休みに有馬佐智子と三溪園に行った。 佐智子はの短大の体育大生で、バレーボールで鍛えた身体は日焼けして黒い。
その彼女と梶山が別れ際に喫茶店で向かい合ったとき、ミニスカートから白いパンツが見えたが、彼はすぐに目を背けた。 「明日から軽井沢でアルバイトなの。絵葉書送るから、住所教えて」
パンツの鮮やかな白が目に浮かんでる梶山は、喜んで佐智子の手帳に住所を書き込んだ。
肩を叩かれた梶山が目を覚ました。
何のことだとばかり、梶山がしょぼついた目をこすった。
その目に、さっき助けた女がぼやけた視界に浮かんでる。
「降りてよ」
「何いってんだよ」
「さっき、ずっと屈んで、スカートの奥見てたじゃない」 「いい加減にしろよ」
電車が止まると、意外な力で脇に手を入れられて立ち上がらされた梶山。 女に同調するかのように梶山の隣に座っていた男が、彼女と一緒になって彼をホームに引っ張り出した。 駅長室に連れて行かれた梶山は身元確認を求められるが、そんなことにはいっさい応えようとしない。
「あんた、おかしいよ。人がせっかく助けたのに礼をいうどころか、俺を痴漢扱いにしてるんだぜ」 何ら悪いことをしてないという面持ちの梶山は、込み上げている怒りを抑えようとしながらいった。
「そっちこそおかしいじゃない。あたしはさっきの痴漢のことをいってるんじゃないの。あなたはあの痴漢を追っ払ってくれたからいい人だと思ったのに、あたしのスカートの中を覗いてたのよ。そのことをいってるの」 「馬鹿いってんじゃないよ」
「どっちが馬鹿なのよ」
梶山と女の押し問答が延々と続いてるとき、一人の女性が駅長室に入ってきた。
「私、この女性のそばに座ってましたけど、男の人はその女性のスカートの中、覗いてるようなことなかったですよ」 「何いってんの。ヤラシイ目で見てたの、あたしはちゃんと見てたんだから」
「この男性はお酒飲んで、苦しかったから俯いてただけでしょ。それで顔を上げるときあなたの姿を見る形になったけど、それはスカートの中を見るとかじゃなくて、自然の成り行きで目に入っただけだと思うけど。それに、そんなスカートじゃ、下着を見てっていうようなものでしょ」
確かにそうで、梶山は労務者風の男をホームに引きずり出し車内に戻ると、酒を飲んでたのと興奮したのとで動悸が激しくなっていた。それで腰を曲げた状態で鼓動が静かになるのを待ち、背もたれまで上体を起こしたかと思えば、窓硝子に頭をつけて居眠りしたのだった。 「それに、この女性の言い分は、どう考えてもおかしいです」
梶山を痴漢扱いしてる若い女は顔を赤くしながら、彼を援護している中年女性に冗談じゃないわといった。 「百歩譲って、この男性が仮にあなたのスカートの中を見ていたとしても、あなたはこの人に助けてもらったのよ。この人があの酔っ払いを追い払わなかったら、あなたはブラウスを引きちぎられてたかも知れない。そういう人を痴漢扱いにするのは、私には信じられないわ」 「まったくだ。あんたの頭は狂ってる。あれが電車の中じゃなく、人通りのないところだったら間違いなく、あんたはレイプされてたんだからな」 梶山はペットボトルのウーロン茶を飲んでいった。
「そんな奴から助けてやった俺が、なんでこんなところにいなきゃなんないんだよ。ふざけんのもいい加減にしろってんだ」
「助けた助けたっていうけど、誰が頼んだ?あたしはあんたに、助けてなんていってないからね」
梶山は悪い夢を見ているんだと思いたかった。
駆けつけた警察官が腕組みしたまま聞いていたが、これでは埒が明かないと判断し、被害者と思われる女と痴漢扱いされてる男。その彼を擁護している女性の三人に、警察署で事情聴取するために同行を求めた。
梶山がそれを固辞した。
「どうしても連れて行くんなら、逮捕してくれませんか。そうすれば、こっちは名誉毀損で裁判起こすし。それはこの女だけじゃなく、あんたに対してもね」
梶山は定年間近と思われる警察官にいった。
「公務執行妨害でも何でもいい。手錠掛けたきゃ掛ければいい」
「そちらのお嬢さん。あんたはどうする?こちらの男性は名誉毀損で訴えるっていってるけど」
「勝手にすれば。これから仕事だから、あたしは行くからね」
立ち上がった女を無理やり振り向かせた梶山が、彼女の頬におもいっきりピンタを張った。
「いたっ」
「お前のために、こっちはいい気分を害された挙句、痴漢扱いされてんのが判んないのか!ばっか野郎が」
「何すんのよ!」
「それはこっちの台詞だ」
「見たでしょ。この男、あたしのこと殴ったのよ」
「今までの話を総合してみると、あんたにもかなりの落ち度があるようですな」
「何でよ?」
その短いスカートもそうだし、ブラジャーが透けて見えるそのブラウス。誰だって、男ならおかしくなりそうな格好じゃないか。ストリッパーなら別だけどな」
「あたしがストリッパー?」
「いや、物の例えということでね」
「酷い」
女は上気させた頬に涙をこぼした。
「もういい。帰る」
「冗談じゃないぜ。こっちはいい恥かかされたんだ。このまま帰して堪るかってんだ」
「女性がもういいっていってることだし、あんたもこのまま帰ったほうがいいんじゃないのかい」
「冗談もいい加減にしてくれよ。変態扱いされて、それを今度はもういいからっていわれて、黙って引き下がれるかってんだ」
梶山はやたらに乾く喉にウーロン茶を流し込んだ。
「名誉毀損。侮辱罪で、この女を訴える」
簡易裁判所を出た梶山の隣に、彼の証人として出廷した中年女性が立っている。
「有難うございました。お忙しいところ、申し訳ありませんでした。
「いいえ。私が酔っ払ったあの男性を止めてれば、あなたもこんなことになってなかったでしょうに」
「あの酔っ払いを止めるには、女性には無理だったろうし……」
「見て知らん振りしてる私達にも責任あったし……。いちばんいけないのは酔ってるとはいえ、女性に乱暴しようとしたあの男性なのに、あなたはとんだ迷惑を被ってしまったわね」
「困ってる者見たら、放っておけない性質なんで」
「それにしても、助けてもらってお礼をいうどころか、冤罪を着せるああいう女性って、何考えてるんだが……。これに懲りず、これからも悪い人をとっちめて欲しいけど、こんなことになるんではおいそれと人助けもできなくなるわね」
女性がそれではと会釈し、梶山は深々と腰を曲げてその彼女を見送った後、空を見上げて眩暈を覚えてしまった。
それはかんかん照りで暑いこともあったが、彼を痴漢扱いした女の言い分に愕然となっていることのが大きかった。
労務者風の男に乱暴されそうになって怖かった。
それで助けてくれた男にほっとしていたら、自分のパンツを盗み見しているのに気付いた。
労務者なら分かるが、きちんとした格好の男までが自分をそんな目で見るのかと思うと、腹が立って駅長室に連れて行った。
できれば、痴漢に仕上げて金を巻き上げたかった。
そんな女の浅墓さが分かると、梶山は何のために労務者から女を助けたのかと、嘲笑すらできなかった。
少女三人がコンビニ前の路上に座り込んでいる。
彼女達はそろいもそろってローライズのジーンズやスカートで、パンツだけでなくヒップの割れ目まで見えていた。
「すいません。ちょっとごみの整理するんで、他へ行ってもらいたんですけど」
「ちぇっ。うっぜーな」
「どけ!道端に座り込んで、邪魔だろ」
裁判に勝ったものの、心がすっきりしない梶山だった。
痴漢呼ばわりした女と同様、やりきれない気持ちを関係のない人間に向ける梶山だった。
「通れんじゃん。こんなに道あいてんだから」
「道は座り込むためにあるんじゃない。店の人だって困ってんだから、さっさとどけ!」
「オッサンの道じゃないくせに」
「行こう。変なオッサンでキモイよ」
「何がキモイんだ。蹴っ飛ばすぞ」
四十過ぎの店員が苦笑しながら、梶山にお辞儀をした。
「今の子供達は、自分を中心に地球がまわってると思ってるのが多くて」
「若い子だけじゃなく、皆、狂ってる」
梶山はぎらつく太陽を遮るように、手を庇代わりにして歩き始めた。
無差別殺人が起きたり、警察や裁判官に教師までが痴漢で捕まったり、このところおかしな事件が続いている。
各地で連日猛暑が続き、東京は四十度に迫ろうかという厳しい暑さだった。
平和に見える日本だが、勧善懲悪主義の梶山さえ、痴漢という冤罪を被らされるのが実情だった。
人間の心が猛暑で狂うような夏が、まだ続きそうだった。
完