第2章 小次郎の軌跡

三食昼寝つきというより食べては寝、起きて小次郎とじゃれあっていた頃が懐かしく、マリーはそんな夢を見ていた。
「元気出せ」
小次郎がそういって頬を舐めたので目が覚めたマリー。
「これから誰か呼んでくる。一人で平気か?」
「すぐ帰ってきて」
「あー。弱気に、なるなよ」
マリーが重体になってることを知り、小次郎はとにかく人を呼んでこなければと人家を捜し歩いた。
村井春樹が住んでたところから、隣の家へ行くのに五百メートルもあった。人間なら歩いて十分とかからないが、猫なら倍以上の時間がかかるだろう。それを強い日差しの中、小次郎は黙々と歩いた。畑に人がいないかと注意深く見ながら、ひたすら歩いている。
「猫だな」
「どこのだ」
「春樹が昔飼ってたことあったけど、もう三年も前のことだしな」
「いやいや。ありゃ、春樹んところの猫に違いないよ」
灰の縞模様で鼻から上だけが黒くなってる振り向いた猫に、老婦が確信していった。
「紋次郎」
車から降りた老婦が駆け寄りながら呼んだ。その女の顔に見覚えがある小次郎だが、紋次郎とは誰のことだと訝りながら抱かれた。
俺が紋次郎なのか?いや、そんなことより、マリーのところに連れて行かなきゃならない。
紋次郎は女の腕からゆっくり飛び降りた。そして、少し歩いては女に振り返る。
「どうしたんだ?紋次郎」
男も車から降り、久しぶりに会った紋次郎を抱き上げて頬ずりしたが、小次郎はまたしても地面に飛び降りた。
「なんだろうね。せっかく会ったっていうのに」
「なんかこいって、いってるんでねーか」
男がそんな小次郎の後を追った。それを女が車でゆっくり追いかけた。
老夫婦がマリーを獣医に見せた結果、寄生虫がいることが分かった。それに栄養不足や蚤やダニの発生で衰弱してるとのことだった。
「これで、しばらく酒も飲めんようになったわ」
「親父は飲みすぎだから、ちょうどいい」
「本当だ。あんたの酒代より、この猫の命のがよっぽど大事だって」
虫下しを飲まされたマリーはまだぐったりしていたが、小次郎が安心しろといって慰めている。
「それにしても春樹の奴。こんな賢い紋次郎を捨てるだけで飽き足らんで、家畑も投げ打って、どこ行ったんだか」
「無理もないって。あんなバイオ農業だか訳分かんないのに手だして、物凄い借金つくったんだから」
「帰ってくりゃえーのにのぅ」
そんな経緯を知り、小次郎は春樹の身に何があったのか悟った。二年だが世話になった春樹のことをあまり思い出すことはなかったが、こうなると彼が哀れに思えてならなかった。いや、自分が置かれてる現状のが悲惨のはずだが、今はマリーの快復を待つだけだった。
狐のように太い尻尾を振って愛嬌を振りまくマリーは皆に可愛がられた。顔も狐そっくりだが、人見知りしない性格が愛されるのだろう。半月もすると元の体重に戻った。
「ねぇ、ここにずっといるの?」
「俺を捨てた春樹に文句のひとつもいおうとしたんだけど、蒸発していないっていうしな…」
「なんだか、金ぴかが懐かしい」
「馬鹿いえ。俺達を捨てたんだぞ」
「でも、それは金ぴかの真意じゃないじゃない。こらーに命令されたんだから」
「それが、男として許せないんだって」
「でも、金ぴかは優しかったよ」
「だったら、お前一人で帰れ。それで、ろくでなしのこらーに、また、捨てられろ」
「そんないいかたしなくても、いいでしょ。ただ、懐かしくていっただけなんだから」
「ふん」
「男の癖に、もっと広い心持たないと、もてないよ」
小次郎はそんなマリーの尻尾に噛み付いた。
「痛い」
「人間に媚びるしか脳のないお前に、俺の気持ちが分かって、堪るかってんだ」
「ひねくれ者」
いつにない顔で噛み合ってる姿に、驚いた家人が二匹を引き離した。
「紋次郎はやっぱり、野良猫の性分が強いんだな」
「こっちは愛嬌があって、おとなしいのにね」
「紋次郎は夜中になるといつも出て行くし、放してやったほうがいいのかな」
「一緒にいたんだろうし、そんなことしたら可哀想だって」
「そうはいうが、この喧嘩見たら、放っておくこともできんし」
「たまたま虫の居所が悪かったのよ、二匹とも」
「それならいいがな」
俺は紋次郎なんかじゃない。小次郎だ。
その小次郎と命名したのは金ぴかだった。やせ衰えてるにもかかわらず精悍な目で人を睨んでる顔は、宮本武蔵と対決してる佐々木小次郎を思わせ、金ぴかが勤務先近くの公園で何回か小次郎に餌をやり自宅に連れ帰ったのだった。
小次郎は三年前春樹が東京に行ったとき、佃島で捨てられたのだった。
そこは高層ビルが林立し、餌などほとんど見当たらないところだった。だが、ビルの料理屋などの鼠を待ち構えては捕まえ、それで飢えを凌いでいた。ときには下町風情が残るほうへ行き、飼い猫とじゃれあったり交尾もした。そんな矢先に金ぴかに拾われたのだった。
小次郎が外に出た。春樹と東京へ行った時の情景を思い浮かべながら、彼は満月に照らされた道で佇んでいる。
明け方になり、小次郎はのそのそと歩き出した。帰巣本能が小次郎に野や山を越えさせ、排気ガスの異臭と高層ビルの佃島に着いたのは、マリーがたらふくで老父の膝で丸くなって寝ていたのを見てから、二ヵ月経過した八月だった。
小次郎はふらふらになりながら、民家の前で泣き声を上げた。
「うるさい猫だね。汚いったら、ありゃしない」
家人に遅れて老猫が出てきた。その猫が小次郎の匂いをかいでいる。
「病気でも移されたら大変なんだから、近づいちゃ駄目だよ」
でぶっとした女は抱き上げるが、老猫は彼女の両腕からするりと地面に降り、なおも小次郎の体臭をかぎ分けている。
「小次郎だって」
「元気だったのね」
「ミーチャは元気そうだな」
「勝手気ままに外に出て行くのよ。そうじゃないと、このヒステリー女を一日中相手してやらないとなんないし。小次郎は疲れてるって感じだね」
「韮崎からきたんだ。この哀れな姿を見てくれ」
ミーチャの案内で噴水に連れて行かれた小次郎は、そこで汚れと一緒に長旅の疲れを癒した。そして、小次郎との間に生まれた子供が引き取られた家にも、ミーチャが小次郎を案内した。
「この子はサリー。あんたの子だよ」
「ミーチャに似てるな」
サリーは誰だとばかりに小次郎の体をかぎまわっていたが、父親だと分かると仰向けになって彼に腹を見せた。
「百五十㌔も歩いてきた甲斐があった。こうして女房子供にも会えたし」
そんな親子3匹の再会を知ってるかどうかは別として、飼い主が冷たいミルクとケーキを出した。
「あんたは見かけない子だね。ミーチャの知り合いかな?」
あんたが飼ってるサリーの父親だと教えてやりたい小次郎だが、その意思は伝わるべくもない。
ミーチャとサリーが小次郎の濡れた体の毛づくろいをしている。
「ここで旅の疲れ落とせばいいよ」
「歓待してくれるか?」
「あたしのお父さんだし、飼い主だって喜んでくれるわよ」
「それならいいけどな」
ミーチャが明日くるからといって帰ると、サリーの飼い主が小次郎を獣医に連れて行った。
別に問題なく、栄養のあるもの食べさせ、ゆっくり休養させれば元気になるからとのことだった。
サリーの飼い主の小達紗里奈は小次郎をクロベーと呼んだ。
「クロベー。肉球にかすり傷たくさん作って、どこ歩いてたのかな」
分かってくれるかな…。ここにくるまで大変だった。野良犬に吠えられるぐらいならいいけど、追っかけまわされて木に登って逃げたりとか、死にそうなぐらい怖い目に遭ったし。それに、山は思ったより餌がなくて、飢え死にしそうだった。
「そんな思いしてまで、ここにきてくれたんだね」
サリーが小次郎の首の毛づくろいをしながらいった。
「マリーっていう妹分がいたんだけど、喧嘩して別れてきた」
「一緒に連れてくればよかったのに」
「そりゃ無理っていうもんだ。まだ一歳になったばっかだし、甘えん坊でな。鼠も食べないんだぞ」
「あたしだって、そんなもん食べないって。だいいち、そんなの食べたら病気になるんじゃないの」
「生きるか死ぬかっていうときに、そんなこといってられないの」
小次郎はサリーのていねいな毛づくろいで眠りに落ちていきながら、マリーがどうしてるのか気になっていた。
小次郎が行方不明になった翌朝マリーもいなくなり、老夫婦一家は気の抜けたような毎日だった。
「もう二ヶ月以上たってるし、帰ってこんだろ」
「狐みたいな子だけでも、帰ってきて欲しいもんだけどね」
そのマリーは、噴水そばで小次郎がマーキングした木立にいた。
昼は民家の縁の下に隠れ、夜になると近くを徘徊しては小次郎の気配を探っているのだった。
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