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夢想国師

自作小説がメインでファンタジーやBLなど一切掲載してません 地方経済の活性化を図る「風越峠 見返り桜編」がお奨めです

第1章 野良猫にされた小次郎とマリー

好きな女と一緒になる条件として、ソマリミックスアメリカンショートヘアーを処分しなければならなくなった金ぴかという男。
ソマリのマリーはまだ一歳にも満たないが、雑種の小次郎は五歳で野良猫の経験があった。
そんな二匹の心温まる物語だが…

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 車は野辺山から八ヶ岳の麓に入り、別荘地帯を過ぎたところで停まった。

「寒いな」
「そんなこといってないで、早く捨ててきてよ」
 山並みばかり続く景色に飽きて目を閉じているマリーを起こした小次郎が、やっぱりそうだろうと囁いた。
「これからどうなるの?」
「さあな。こらーが捨てるっていうんだから、金ぴかも俺達を捨てるんだろ」
「えー。朝ご飯早かったし、お昼どうする?」
 昼どころか、この先どうやって餌にありつけばいいのか、それを考えると憂鬱になる小次郎だった。何しろ捨てられるのはこれが二回目で、
小次郎は野良猫の辛さが身に沁みているのだ。
「これも全部、一緒に捨ててきてよ」
 こらーが餌と一緒に猫じゃらしなどを詰め込んだダンボールを振り返りながらいった。それに頷いた金ぴかが後ろのドアを開け、そのダンボールを木の根元に置いた。
「こらー。あんたも出て行きなさいよ」
 煙草をふかしながらいうこらーの化粧臭い顔が迫り、マリーは太くて長い尻尾を振りながら小次郎の後を追った。
「ほれ。マリー。お前はまだ小さいんだから、小次郎のいうこと聞いて、しっかりするんだぞ」
 マリーが金ぴかの顔を見上げた。
「情けない顔すんな。俺達を捨てる男なんだぞ」
「だって、今まで面倒見てくれたんだし」
「あんな女と一緒になるために猫を捨てる男に、未練がましい顔見せるんじゃないよ」
「下の別荘に行けば、お前達を飼ってくれる人見つかるから」
 金ぴかが置いたダンボールにはキャットフードが山のように入っていた。また、二匹の健康診断書が目立つところに貼られていた。
「これでお別れだけど、元気でな」
 金ぴかは小次郎とマリーに、それぞれ一袋ずつ開封した餌を与えた。
 マリーは空腹に耐えられず袋に顔を突っ込むようにして食べ始めるが、小次郎は後姿の金ぴかに怒鳴っている。
「悪いな、小次郎。泣いても、連れて帰るわけにいかないんだ」
「馬鹿野郎!そんなんじゃないや。お前らなんか、ペット飼うな。事故に遭って、死んじまえ」
 マリーは小次郎の怒りを理解していた。それで小次郎と一緒に、金ぴかのまわりをうろついていた。
「猫なんて外のがいいのよ。こんなに元気に走りまわってるじゃない」
 そういうこらーの脛に噛み付いた小次郎がマリーに合図した。それに気付いたマリーもしゃがんでるこらーの背中を踏み越え、金ぴかの頭から車の上に飛び乗った。
「馬鹿猫。保健所に持って行こうっていうのに、あんたがこんなとこ連れてくるから、噛まれちゃったじゃない」
 こらーのストッキングが破れ、血がにじんでいた。金ぴかがハンカチを巻いて手当てをしているが、こらーは恩知らずなドラ猫なんだからと口汚く小次郎とマリーを罵った。
「さ、車に乗るんだ。これ以上邪険に扱ったら、化けて出るぞ」
「変なこといわないでよ。馬鹿猫。早く死んじゃえ」
 こらーが枯れ枝を小次郎めがけて投げながらいうが、金ぴかは彼女を押し込んだ車を発車させた。
 元気でいろよ。たまには様子見にくるからな、と心の中でつぶやく金ぴかだった。

 行っちゃったねと俯きながらマリーがいう。
「あの女。とんでもない奴だ」
 小次郎は箱座りで吐き捨てるようにいった。
「本当。化けて出ようか」
「馬鹿だな。化けるってのは、死んでからじゃないとできないんだぞ」
「あ、そうなの?」
「死んで、堪るかってんだ」
「でもさ、これからどうしたらいいの…?」
「心配すんな。お前はまだ子猫だから、誰かが拾ってくれる」
「おじちゃんは…?」
 小次郎はここへくる途中見た景色に心当たりがあった。そこへ行くにはどうしたらいいのか、考えているのだった。
「俺は野良だからな…」
「あたし置いて、どっか行っちゃうの?」
 マリーが小次郎の顔を見つめながら聞いた。
 小次郎はマリーの頭を右手で撫でるだけで、それ以上のことを答えなかった。

 梶山は車の外に置いたコンロで珍味の小鯵をあぶり、それを肴に酒を飲んでいる。無数の星が瞬き、東京じゃこんなの見られないと夜空を見上げた。
 火を止めたコンロにその目を戻した梶山が、何かがいるのに気付いて飛び上がった。
「何だ。猫かよ」
 梶山が驚いた以上に、マリーのが吃驚してふみゃーと泣いたのだ。
「脅かすなよ。狐かと思っただろ」
 そういいながら、梶山は口に咥えたままの小鯵を猫に差し出した。
 それを見ていた小次郎が、のっそりと歩いてマリーに近づいた。
「ありゃ。二匹もこんなところに。捨て猫か?」
 小次郎がみゃーおと泣いてねだると、コンロの網から小鯵を放ってくれた。
「怖い人じゃないっていったでしょ」
「そうみたいだな。それにしても、いい味してるな」
「初めて食べたよ」
「俺なんか、もっと分厚いのを失敬して食べたこと、何回もあるぞ」
「焼いたばかりのは熱いでしょ」
「あー。それを隠れてはふはふしながら食うのは、キャットフードなんか問題ならないぐらい美味いんだ」
「へー。あたしも食べてみたい」
「今はこれで我慢するんだな」
「はいはい。でもさ、この寒い中、あのダンボールじゃ寝られないよ」
「さっきいいところ見つけた。今夜はそこで寝よう」
「さすが、おじちゃんだね」
 狐のような尻尾を振りながらもっとくれといってるような猫。それに体は小さいがしぐさが大人っぽい猫。三日月の下でそれを見分けた梶山は、車から蟹の缶詰を取り出して二匹に与えた。
「金ぴかより、いいもの食わせてくれる」
「本当。あたしなんか、これ大好きなのに、二回しか出してくれなかったし」
 顔を缶詰に叩きつけるようにしてあっという間に食べた二匹。
「もう、ないよ」
 食べっぷりのよさに、梶山が呆れながらいった。
「こんだけ食べたら、眠くなってきた」
「俺もだ。ドア開いてるから、あそこに入ろう」
 背伸びしたかと思えば、さっと車に乗り込んだ小次郎とマリー。
「まいったな。俺んところは犬飼ってるから、連れて帰るわけにいかないぞ。ま、今夜は俺も野宿だから、お前達もここでゆっくり寝ていいけどよ」
 翌朝梶山は雑炊を食べ、猫にはビーフジャーキーとチーズをやり、荷物をまとめて二匹にじゃーなと別れを告げた。
 小次郎がボンネットに飛び乗ってフロントガラスを叩いた。
 駄目だろといいながら窓を開け、梶山が小次郎を追い払おうとすると、そこにマリーが飛び込んだ。
「駄目だって。降りろ」
 梶山がドアを開けてマリーを追い出そうとするが、小次郎までが乗り込んでしまう始末だった。
「しょうがねーな。俺みたいな貧乏じゃ、お前達を飼うわけいかないんだって」
 マリーは助手席でちょこんと座り、梶山の顔を見つめている。小次郎はギアボックスに手をかけ、時には梶山の膝を手で叩いている。
「分かったよ。その代わり贅沢いうなよ」
 梶山が二匹の頭を撫でると、甘えた泣き声を返す小次郎とマリーだった。
 高速料金をけちって一般道を二時間ほど走ったところで、梶山は小用のために車を停めた。
「お前は、あの男と一緒に行きな。俺は元の飼い主のところに戻るから」
 マリーの返事を聞かずに小次郎が車から飛び出した。そして、梶山のそばで何度も礼をいった。
「有難う。マリーを宜しく」
「何泣いてんだ?喉乾いたからって、俺の小便飲むなよ」
「人間に、俺の気持ちが伝わればな…」
 小次郎は見覚えのある煙突のほうへ歩き出した。
 マリーは梶山のところに一緒に行こうかどうか迷っていたが、親代わりをしてくれていた小次郎の後を追うことにした。
「どこ行くか知らないけど、元気でな」
 梶山はそういうと、二匹が元いたところに置かれていたダンボールをトランクから出した。
「腹へったら、ここにくるんだぞ」
 小次郎とマリーは梶山に振り返った。だが、小次郎はすぐに歩き出した。

 小次郎はまわりに注意しながら、生まれ故郷の匂いがするところにたどり着いた。
「ここだここだ。マリー。疲れたか?」
「くたくただわ」
「三キロぐらい歩いたからな」
 飼い主だった村井春樹が戻ってこないことに、小次郎は不思議がった。
「どうしたんだ?いつもなら夕方前に、畑から帰ってくるはずなのに」
「どっかで、お酒飲んでんじゃないの」
「ここにゃそんなとこない」
「あー、おなかへった」
「俺についてきた罰だな」
 いつもなら食べては寝る繰り返しのマリーだった。それが今朝四時頃から、ずーっと起きっぱなしだった。
「おなかもそうだけど、眠くなってきたから、そこの座布団で寝る」
「いいよ。俺は起きてるから、心配しないで寝てろ」
 かび臭い座布団の上で、
マリーはいつものように仰向けになった。
「風邪引くぞ」
 小次郎がいっても、疲れ果ててるマリーは前足を半分折ったまま寝込んでしまった。その体にタオルをかけてやる小次郎だった。
 小次郎とマリーがいるところは、廃屋になって半年過ぎていた。
 村井春樹がいた頃は畑にいろんな作物がなっていたし、彼の好きな干物が冷蔵庫に入っていた。だが、小次郎とマリーが餌にするようなものは、今となっては何も残ってなかった。
 小次郎はしかたなく、夜更けに車から降りたところに戻りキャットフードを咥えてきた。
 小次郎が出て行った後すぐに目を覚ましたマリーが、一匹で知らないところにいる恐怖で身を縮めていた。
「どこ行ってたのよ」
「どこって、餌がなきゃ死んじゃうからな」
「え?あそこまで取りに行ったの?」
「そんなこといいから、食べろ」
 小次郎はキャットフードのパックを犬歯で破った。転がったカリカリをマリーが拾って食べている。くる日もくる日もそんな日が続き、ダンボールのキャットフードもなくなってしまった。
「もう、これで死ぬの?」
「弱気になったらおしまいだ。もっと強くなれ」
「だって、もう三日も草と水だけだよ」
「鼠を探そう」
「何よ。それ」
「マリーにゃ捕まえられないだろうな」
「何々」
 小次郎は鼠のことをマリーに話し、それを捕まえに行こうといった。
「あたしは、そんなの気持ち悪くて食べられない」
 実際、小次郎が咥えてきた野鼠を、マリーはひとくちも食べなかった。
「食べないと、死ぬんだからな」
「それでもいい。あたしは草で我慢するから」
 そのマリーは一日中ほとんど寝ていたが明け方になると雑木林や畑に行き、ときたま捕まえた昆虫などを口にしていた。それでも体は痩せ衰え、狐のように立派だった尻尾まで貧相になっていた。
「病気になったんじゃないのか?」
「分かんないけど、体が熱い」
 横に寝そべって動こうとしないマリーの腹を舐めてやる小次郎だが、どうすることもできない。水を飲んで冷たくなった舌で舐めるぐらいしか、手立てがなかった。
「金ぴかの馬鹿が捨てなきゃ、こんなことにならなかったのに」
 そういっても、マリーは目をあけなかった。そのマリはー一歳になったばかりだった。

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キスの味はレモンじゃなかった

 キスの味はレモンじゃなかった
 
高校生の梶山三郎が自由が丘ジャズ喫茶ファイブスポットで知り合った女子大生との淡い恋物語を短編小説にしてみました。

 青木洋子はガス燈でのバイトが終わると、駆け足をしなくても二分で行けるファイブスポットへ飛び込んだ。
洋子がそれだけ急いだのは、ファイブスポットオスカー・ピーターソンが来るかも知れないという噂を聞いていたからだった。それで地下の店内に駆け込んだのに満席状態だった。
そんな彼女をボーイが椅子を持ってテーブルに案内した。
「相席させてやって下さい」
 ボーイにいわれ振り返った梶山三郎の目に、戸惑いを見せる女の姿が入ってきた。
「座って座って。なに黙ってんだよ。席詰めろって」
 そういうのは梶山と向かい合ってる長谷山だった。
「つかえねぇー奴だな」
 長谷山は美人な青木洋子を見て、梶山に席を詰めて彼女を座らせるようにいうが、梶山は壁際に座っていて席の詰めようがなかった。むしろ、長谷山の隣のがスペースが空いてるほどだった。
「俺がお前の隣に行くよ」
「そうしろ。お前の面見ててもしょうがないし。可愛い子チャンの顔拝みたいから、早くしろ」
 調子のいい長谷山にうんざりしながら梶山が席を替わった。
「悪いわね」
オスカー・ピーターソン目当て?」
「そんなところよ。あなた達も?」
「僕はビル・エバンスのがいいって思ってるけど、この彼がオスカーがいいっていうんで、無理やり連れられて来たんですよ」
「そうなの。ピーターソンのが、私は好き。麻薬なんてやらないし」
「そ、そう。昨日彼にいわれてピーターソンのアルバム聞いたら、エバンスより上手いなって」
 そんなやり取りも満席状態の店内では誰も気に留める者はなく、誰もが早くオスカー・ピーターソンが来ないかという顔だった。そんな思いを察したのか、磯野てるおがコンサートが長引いてる模様なので、もう少しお待ちをとアナウンスした。
 狭い店内はタバコの煙でもうもうとし、いかにもジャズ喫茶という雰囲気だった。
 壁や柱に飾られたジャズメンの油絵はどれもそっくりで、手で顎を支えてるウエス・モンゴメリーなど生き写しのようだった。いや、彼だけでなくマイルス・ディビスやジョン・コルトレーンなどどれもそっくりな絵ばかりだった。
 そんな絵を見ながら、梶山がジンライムをちびりちびり舐めている。
 長谷山が手洗いに行くと、静かになったわねと青木洋子が梶山に話しかけた。
「あの人。若大将に出てくる青大将みたいね」
 梶山がまったくだとばかりに苦笑した。
「あなた。ピーターソンのどんな曲が好き?」
「サマータイム。メロー・ムードのアルバムの曲は皆好きだけど、特にサマータイム」
「もしかして、ポギーとベスの映画見た?」
「見ましたよ。こないだのテレビ」
「やっぱり……。ポワチエとサミー・ディビスよかったわね。でも、音楽としてはピーターソンのが一枚上。あたしもメロー・ムード持ってるのよ」
「あのなかのニカの夢もいいし」
「そうそう。気が合いそうね。あたし達」
「輸入版でテンダリー聞いたら、痺れた。凄くジェントリーな感じだったし」
「それ、聞いたことない。聞いてみたいわね」
「今度持って来ましょうか?」
「ほんとに?貸してくれるの?」
「ピーターソンのファンなら、聞いて欲しいし」
「有難う。彼、遅いわね」
「あんなうるさいの、連れて来なきゃよかった」
「それも一理あるわね」
 そういうところに長谷山が戻って来た。
「下痢だよ。お前が奢ってくれた水割り。毒入れたんじゃないか。帰るよ。ジャーね、可愛い子ちゃん」
 長谷山と入れ替わりに青木洋子が手洗いに立った。
 その彼女が戻ると、梶山からオスカー・ピーターソンが来ないことを知らされた。
「道が混んでて、ここに着くのは夜中になるらしいって」
「残念。マスターにバイト早めに切り上げてもらったのに」
「どこでバイトしてんですか?」
「ガス燈って知ってる?」
「あそこなら、何回か行ったことあるけど」
「そうなんだ?よかったら遊びに来て。あたし、青木っていうの。夕方から九時まで毎日ほとんど行ってるし」
「あ、レコード持って、明日行こうかな」
「嬉しい。待ってるわね」
 
 梶山が着替えてグラウンドに出ると高野というOBが来ていた。
「このなかにタバコ吸ってる奴がいる。吸いたい気持ち分からないこともないが、息切れして走れなくなるぞ。そうじゃなくても、貴様ら試合に勝ったことないくせに。勝つためには走り込みだ。ジャス喫茶なんか行ってる暇あったら、少しでも走れ」
 梶山は自分のことをいわれてると思いながら、その高野を見ていた。
「いい女だったな。女といちゃつくにゃ、まだ十年早いぞ」
 梶山がジャズ喫茶で女といたことが皆に知られた。
「よし、多摩川まで往復ランニングだ。三十分以内で戻ってこない奴は、しごくぞ」
 その声に、皆が我先に駆け出したが、梶山は高野を睨み付けながらゆっくり走り出した。そんな梶山がいちばんでグラウンドに戻って来た。
「タバコ吸ってるくせに、足は速いらしいな。でもな、ラグビーを舐めんなよ」
 高野はそういうと、部長である太った副島を肩車して腰割り百回を梶山に命じた。
「タバコ吸ったのがそんなに悪いなら、学校にいえばいいのに」
 梶山の言葉に副島がやめろと制した。
「先輩に楯突くな」
「そんなこといったって、理不尽だし……」
「ここもずいぶん変わったもんだ。OBにいい返すのがいるとはな」
「えらそうなこといってんじゃないよ。なにがOBだ。あんただって在学中、部室で吸ってたんだろ」
「やめろ」
「OBだからって、勝手なこといってんじゃねぇーよ。どうせ、大学じゃ万年補欠で試合にも出してもらえないのが、ここに来ちゃ威張り腐って、いい気になってるだけじゃねぇーか」
 そこに皆が続々と戻り、険悪な雰囲気を固唾を飲みながら見ている。
「いい度胸してんじゃねぇーか」
「あんたみたいに、女の穴追っかけるほどじゃないけどな」
「なんだと。もう一度いってみろ」
「あんたにいいよられて、困ってる女がいるってことだ」
「梶山。高野先輩に謝れ」
「嫌だね。こんな奴に頭下げるぐらいなら、辞めるぞ」
 三年生は受験勉強に追われ、部長は梶山と同じ二年生の副島だった。そういう状況で、三年生の元部長が高野に練習を見てくれないかと頼んだらしい。
「自分のやってること、分かってるのか?おまえは」
「タバコぐらい、どうってことねぇーだろ。あんただって俺達が走ってる間、吸ってたんだろ。あんた大学二年だけど、確か、早生まれだったよな。だから身体も小さい。まだ二十歳になってないはずだ。それを、自分は吸って俺にどうこうっていうのは、虫が良すぎるってもんだ。ファイブスポットであんたを見たら、俺はあんたの大学に通報するからな」
 梶山は高野の足元に転がってるタバコの吸殻を見ながらいった。その高野は梶山を制裁するつもりで来たものの、逆にやり込められてしまった。
「こんなのがOB面してるから、俺達は勝てないんだ。皆。グラウンド十周だ」
 梶山のことばに、おーっと応えた皆が彼の後に続いた。
 高野は女癖が悪いと部内でも評判のOBだった。後輩の彼女を無理やり紹介しろと迫り、それに従わないと練習で仕返しをするという姑息な人間性に、辞めていった部員が何人もいた。そういう悪い話が部内で引き継がれているのだった。
 
 学生鞄は入学当時少しの間だけ持って通学していた梶山だが、周りの皆の程度の低さに教科書を持ち帰って復習や予習などしなくてもいいと分かれば、VANやJUNの紙袋に必要最低限の物だけを入れて学校に通っていた。それが二年になると、それさえも持たない日が多かった。その代わりに、石鹸やシャンプーにタオルといった風呂道具を入れたスポーツバッグを持つことが多くなった。
「風呂行くか?」
「あったぼうよ。今日は帰りに寄るところあるし」
「高野がいってた女か?」
「まあね」
 副島がパン屋で牛乳を飲みながら梶山と話してる。
「あいつには気をつけたほうがいいぞ」
「いわれなくても分かってるって。退学なったところで、俺は別にどうってことないし」
「そんなこというなよ。もうすぐ三年になるんだし。バイトで何とかなるだろ」
 梶山は母子家庭で育ち、近所の子供達を集めて宿題を教えたりしては授業料を払ってる状態だった。
「お前は頭もいいし、大学だって行けるって、森戸もいってるし」
「公立とか国立行ければいいけど、私立じゃ金かかってしょうがないしな」
 そんな二人が風呂でお互いに背中を流し泥だらけの頭を洗い、制服から私服に着替えれば高校二年には見えない。
「そういえば、長谷山が最近見えないな」
「あいつ、女孕ませて退学になるらしいぞ」
「馬鹿な奴だな」
 梶山は長谷山と深入りしなくてよかったと安堵した。
 風呂から出た二人に片山美樹が声を掛けた。
「お風呂?」
「こんな時間まで、何やってたんだ?」
「文化祭の準備。それより、二人ともいい匂いしてる」
 梶山も副島も風呂上りにMG5で整髪したばかりだった。
 副島は駅に着くと梶山と片山とは反対方向の電車に乗った。
「副島君。格好いいよね」
「何だよ。俺はよ?」
「梶山君も格好いいけどさ」
「ついでみたいにいうな」
 自由が丘に着くと梶山は片山美樹と別れ、北口の改札口を出た左側のスタンドでホットドッグにメロンジュースを頼んだ。それを口に入れた後は、三省堂隣のレコード屋でフランシス・レイの「白い恋人たち」を視聴した。そして南口のドンキーへ行った。
 青木洋子は時間がないといいながらも、梶山の買ったばかりのレコードジャケットに見入ってる。
「この映画、フランス人らしい視点で面白かった。眼鏡かけた日本人の団体が出てたり、凄くエスプリが効いてるっていうか」
「ルルーシェらしいよね。今日、あの高野って野郎にはっきりいってきた」
「誰?高野って?」
ファイブスポットで、しつこくいいよってきた男だよ」
「あー。でも、なんであの人知ってるの?」
「高校の先輩だった」
「それはちょっと、まずいんじゃない?大丈夫?」
「平気平気」
「ならいいけど、喧嘩しないでよ。これ、有難う。永い間借りててごめんね。じゃ、バイト行くから。また来て。ご飯ぐらい、奢るわよ」
 ニキビ面の梶山にそういい、洋子は彼の頼んだアイスココアの伝票を持って立ち上がった。
「いいよ。自分で払うから」
「いいわよ。レコード貸してもらったし」
 タイトミニの洋子の後姿を見送った梶山が、氷で薄くなったココアをストローで吸い上げた。それでも喉が渇いてしょうがなく、洋子が残したレモンスカッシュを飲んで店を出た。
 
 青木洋子はガス燈の客と一緒にファイブスポットへ行った。
「な、今夜はいいだろ?」
「そんなこというなら、帰るわよ」
「冷たいこというなよ」
「あたしはジャズが聞きたいから来ただけで、あなたと付き合いたいなんて、これっぽちもないし」
「はっきりしてるな。そういうところも好きだけどな」
「生で演奏してるんだから、黙っててよ」
 ステージではハウスクインテットがレフト・アローンを演奏している。
 
心を満たしてくれたあの愛はどこなの?
 決して別れないはずのあの人はどこなの?
人は皆私を傷つけ そして見捨てる
私は置き去りでひとりぼっちよ
他には誰もいない
 
 そんな歌詞を思い出しながら洋子が演奏に聞き入ってる。
「こんなところより、タンポポ行って飲もうや」
「しつこい人、嫌い。もう、お店にも来ないで」
「ちぇっ。すかした女だな」
 男が出て行くと、入れ替わりに高野が洋子の前に立った。
「相変わらず、気の強い女だな」
 洋子はラークを吸いながら高野を見上げ、彼の顔に煙がかかるように吐き出した。
「横浜にドライブしないか?」
「お一人でどうぞ」
「そういわずに、付き合えよ」
 そこにボーイが、洋子がお変わりしたレモンスカッシュを持って来た。
「軟派するなら、出て行ってくれませんか」
「ほんとよ」
 ファイブスポットはジャズを聞かせる店で客質は良かったが、ときには高野のような輩が来るとボーイが排除した。
「もてるね」
 ボーイはそういいながら洋子の前にグラスを置き、ウインクしてホールに戻って行った。
 授業が終われば友人とたまに遊びに行ったりするが、高崎から出て来て下宿生活してる洋子はバイトに追われる毎日だった。
 洋子を女にした男はアメリカに行ってしまい、彼女が現在付き合ってる男はいない。こうしてファイブスポットでジャズを聞くのが唯一楽しい時間だが、ややもするとその彼のことを思い出すことがある。それを忘れるには、好きなジャズを聞くのがいちばんだった。身体の中から嫌なものが消えていくように思えるからだった。
 
 梶山が洋子から返してもらったレコードを袋から出すと、手紙が入っていた。
 
テンダリー、いい曲で何十回も聞いちゃった。ピーターソンがオーケストラバックに弾いてるなんて、初めて聞いた。ストリングスのせつない感じが素敵だったよ。なにかお礼しないといけないんだけど、映画の前売りで我慢してね。
 もう秋っていうより冬で寒くなるし、風邪ひかないようにね。
今度、スケートでも行こうね
 
 たったそれだけの文章を、梶山は何度も読んだ。
 バレンタインに学内の女子から手紙つきのチョコレートをもらったことがあるが、それとは比べ物にならない興奮が梶山の胸を熱くさせている。
 まさか手紙が入ってるとは思ってなかったし、梶山より三歳年上の洋子の達筆な字が、彼に大人の女を感じさせるからだった。それに、スケートの誘いが書かれていたことも、彼には嬉しかった。
 夕方会ったときの洋子の化粧の匂いが思い出され、それを胸に布団に入る梶山だった。
 城達也のナレーションで始まるジェットストリームが始まる頃、彼は青木洋子の夢を見ながら眠りに落ちていった。
 
 期末試験で学校が早く終わった梶山たち四人が学校近くの雀荘に行くと、定時制の教師達と出くわした。
「お前たち。テストはちゃんとできたのか?」
 四人は笑ってごまかすが、そこにラグビー部顧問の外山がいたので立ちすくんでしまった。
「梶山。高野に食って掛かったそうだな」
「そういう訳じゃないですよ」
「お前。あんまり騒ぎ起こすと、進級できんぞ。職員会議じゃ、しょっちゅうお前のことが取沙汰されてるし。出席日数だってぎりぎりだろう」
 梶山はなんの反論もできず、他の三人に帰ろうといった。
「いくら試験ができたって、出席足りなきゃ、俺だってかばいきれないぞ」
 外山の声を背中で聞きながら、梶山が雀荘から出て行った。
 母の具合が悪くなり、それで梶山は学校を休んで近くの植木屋にバイトに行くことがあった。そこの三村という親父に可愛がられ、退学するなら俺のところに来いといわれていた。そんなこともあり、彼の気持ちは揺らいでいた。
 母が爪に火を灯す思いで溜めた金で夏に家を新築したローンを払うためにも、なんとかしなければならない状態だった。それでも森戸という学年主任は大学へ行くようにと、執拗に彼を言い含めている。
 このぼんくら学校じゃ珍しいぐらいの秀才だ。奨学金制度もあるし、なんとか進学しろと、親身になっていわれていた。
 そんなもやもやした思いが吹っ切れず、梶山は一人足早に駅に向かった。
 
 自由が丘デパートの餃子センターで百五十円の定食を食べ、ハイライトを買ってファイブスポットに入った梶山。
 目を閉じ、自分の将来をどうしようか考えながらハイライトを吸った。
「偶然ね」
 青木洋子はおちょぼ口の梶山のハイライトを取り上げながらいった。
「高校生がサボって、昼間からこんなところ来たら駄目でしょ」
「びっくりした。センコウかと思った」
「悪いことばかりしてるからよ」
 にやっとしながら、洋子が梶山から取り上げたハイライトを吸った。
「辛い。私はやっぱりラークのがいいわ」
 洋子はハイライトを梶山に返し、それを彼が吸い始めた。
「間接キスだね」
「ませたこといってる」
「どっか遠くに行きたい」
「いいわねぇ。あたしもそんな気分」
「バイトは?」
「まだ早いわよ。ね、トップでオムレツケーキでも買って、うちに来る?こないだレコード買ったし、聞きにおいでよ」
 洋子のくりっとした黒目がいたずらっぽく見えた。
「お酒ある?」
「レッドならあるけど」
「それでもいいから、飲ませてよ」
 九品仏のアパートまで歩いてると木枯らしが吹き、洋子は梶山の身体に寄り添って風を凌いだ。
「なんだか、恋人同士みたいだね」
 梶山は細身のトップの学生ズボンだが、がっしりとした身体の上には黄色いスタジアムジャンパーを着ていて高校生には見えない。
「レッドのお湯割り飲んで、温まろうね」
 洋子はアパートに着くとすぐに薬缶をガス台にかけ、クラッカーの上にサラミやチーズを乗せた皿を梶山に出した。
「これ、ミロスラフ・ビトウズよ。ハンターで買って来たの」
「ウェザー・リポートにいたメンバーでしょ」
「そう。よく知ってるわね」
 ファイブスポットの磯野てるおがFMNHKでジャズの解説をしてる番組を、梶山はエアチェックしては聞いていた。そのおかげで、グループやプレーヤーの名前をよく知っていた。
「フユージョンにちかい感じだけど、なんだか聞き心地いい」
「でしょう。七百円で安かったから買ったんだけど、正解だった」
 静かな出足のベースはエレクトリックな感じで、サントリーレッドのお湯割を二杯飲んだ梶山の身体に、その音がすーっと入っていく。スローテンポだがリズミカルな音が次第に高まり、リターン・トゥ・フォーエヴァーを感じさせるメロディに、梶山は身体だけでなく心までが酔っていった。
「ゆっくり飲んだほうがいいわよ」
「なんか、寒くて」
 木枠のガラス窓が木枯らしで揺れ隙間風が入って来る。洋子はカーテンを閉め、炬燵に入ってる梶山の肩にに毛布をかけてやった。そして、その彼に彼女が寄り添うように座った。
「そんなにそばに来たら、おかしくなりそうだって」
「いいよ。おかしくなって」
 梶山は洋子を抱き寄せたかったが、手が出ない。
「経験、ないんでしょ?」
 
 梶山は軟派じみた格好をしてるものの、やることは硬派なことが多かった。
 部活はラグビーだし、加藤文太郎が主人公の「孤高の人」を読んで感化され、ときには山に登ったりもする。
クラスメイトや部活仲間とつるむこともあるが、バイトをしなければならないこともあり、そんな学友達と別行動をすることも多かった。
 その彼が学校内でタバコを吸ったり、アイビールックで通う姿は職員の間で問題になっても、女子からは結構人気があった。
 その一人の片山美樹と、梶山は二回キスしたことがある。それは、ただ唇を合わせるだけで舌を絡ませるまでいってなかったし、勿論セックスなどしたことがない彼だった。
 青木洋子という年上の女性と知り合ってからというものは、彼女のことで眠れない夜もある梶山だった。
 
その青木洋子が今、梶山に寄り添っていた。
「無理にとはいわないけど」
「青木さんのこと好きだよ。でも……」
 梶山はセックスに興味があるものの、その反面恐怖心があった。うまくできるかどうかという、未経験者特有の恐れる気持ちだった。恥をかきたくない思いが強く、それが洋子を目の前にしながら彼女の誘いに甘えられなかった。
「いいの。こんなこという、あたしがおかしいんだし」
 洋子はそういい、レコードをパワフルなヴォーカルのレイ・チャールズに替えた。
「バイト休むから、ゆっくり寝たら」
 洋子はそういって梶山を自分のベッドで寝かし、彼女は炬燵でみかんをつまんだ。
 
 梶山は洋子のアパートに行った日から、彼女と少し距離を置くようになった。
 ラグビーシーズンが本格化し練習は毎日のようにあったし、そのうえ三村のところではデパートの催事場へ植木の運び込みなど夜勤のアルバイトにも行ってた。さらに土曜の午後は近所の子供達に勉強を教えたし、毎日くたくたで、ファイブスポットへ行く回数も減っていた。
 それが冬休みになるとバイトで得た金で懐具合もよくなり、クリスマスには洋子と会った。
「久しぶりじゃない。電話なかったから、嫌われたと思ってたんだ」
「そんなことないよ。ただ、うまくいかないで、恥かきたくないっていうのあるし」
 洋子は梶山の無垢な気持ちが分かっていた。だからこそ、そんな彼に身体を預けようとしたのだった。
「あたし、明日実家に帰るのね。戻って来るの、一月の半ば頃かな」
「じゃ、そのときは送って行く。上野ならここから日比谷線で行けるし」
「無理しなくていいわよ。バイト終わってからだから、遅くなるし」
「九時に、東横線のホームで待ってる」
「有難う」
「白い恋人たちダビングしたテープ。聞いて」
「嬉しいなぁ」
 洋子はそういって喜んだ。
 
 翌日、洋子はホームで梶山にマフラーを巻いてやった。
「一日遅れのクリスマスプレゼント」
 梶山は声が出ず、礼をいえない。
「気に入ってくれないの?アイビーのあなただから、タータンチェックなら喜んでくれると思ったのに」
「嬉しくて、声が出なかった」
 洋子が苦笑した。
 日比谷線が御徒町を過ぎ上野に着いた。
「時間平気?」
「冬休みだし、終電で帰れば平気だけど」
「だったら、ご飯食べよう。それとも、お酒のがいい?」
「どっちでもいいけど」
 終電時間から逆算すると一時間の余裕があった。
 二人はコンパで飲み、国鉄の高崎線のホームに向かった。
「飲んでるから、走ったら眩暈する」
「こっちもだよ」
 列車が発車するまで十分ほどあった。
「ちょっと待ってて」
 梶山は売店で女性雑誌二冊を買い込んで来た。
「これ、読んでたら退屈しないでしょ。酔って寝過ごすこともないし」
「気が利くんだね」
 洋子は礼をいいながら列車に乗り込んだ。
 発射ベルが鳴り梶山が手を振った。その手を洋子が引っ張って彼を車内に引っ張り込んだ。
「一緒に行こう」
「そんなこといったって」
「いいから、一緒にいて。恥なんてかかせないから、心配しないで」
 洋子は自分で大胆なことをいってることに気づいているが、恥じらいはなかった。梶山の優しさとぬくもりが欲しかった。そして、ジャズの話をしたいと思った。
ドアが閉まり、列車が動き始めた。
「後悔させないから」
 梶山は洋子の吐息に、どうにでもなれと思った。
 高崎まで洋子は梶山の膝枕で寝ていたが、着けばホテルに彼を連れて行った。
 梶山にキスした。
「これが四回目のキスだ」
「どうして?」
 二人が初めてファイブスポットで会ったときと、洋子がドンキーでレコードを返したとき。梶山は洋子が残したレモンスカッシュを、彼女の口紅のついたストローで飲んで間接キスをしていた。その他にタバコでの間接キスがあった。
そして今、唇を合わせたのが四回目だったのを話した。
「純情だよね」
 そういいながら洋子が梶山をベッドに押し倒し、彼の唇を舌でこじ開けてキスした。
 梶山は初めてのディープキスに、全身の力が抜けていくようだった。
「キスはレモンじゃなく、チキンバスケットの味だ」
 洋子がくすっと笑った。
「歯、磨こう」
 そういって立とうとする洋子を引き止め、梶山は自ら彼女の舌を絡めとるようにキスした。
 コンパで食べたチキンバスケットは生姜とニンニクの味が利いていた。その香りが洋子の口のなかに残っていた。否、梶山にしてもそうだった。
 来春には退学し母の代わりに働かなければならない梶山だったが、女を知った喜びで、その前途を明るく感じているようだった。
「働くようになったら、一緒にどっか行こう」
 洋子が梶山の顔を見上げながら頷いた。そして、彼の舌を吸い込むようなキスをした。

                          完
                            
 

晴耕雨読 女は男の浮気防止で田舎暮らしを始めるのだが・・・

梶山の浮気を見つけた美樹は田舎暮らしを提案し、彼はその術中にはまるものの、当の美樹の心中は……

 カラオケは歌い疲れ飽きたし、これ以上飲めば間違いなく二日酔いになることが分かっている梶山三郎が帰るといった。
「まだ十時だぜ」
「俺には、もう夜中だよ。お寝んねしないと、朝がきついしな」
「俺だってそうだって」
 梶山を引きとめる森野将太は台湾人のホステスにちやほやされご機嫌だったが、梶山は外国人より日本人のが好きだった。そういうこともあり、森野に台湾パブに誘われても、一人で先に店を出ることが多かった。
 
帰宅した梶山は、風呂から出たばかりの美樹を相手に飲みなおしている。
「随分早かったじゃない」
「森野はああいうところが好きだけど、俺はどうもな……」
「森野さんって、ああいうお店じゃないと、多分持てないと思うな」
「随分なこというな。あいつに、いっといてやるよ」
「いいわよ。そんなこといわなくても。でも、仕事のこともあるし、付き合ってあげればいいじゃない」
「なんだ。けなしたと思ったら、今度は持ち上げるのか」
「そんなことないわよ。聖人君子のあなたのが、よっぽど好きだし」
「なんか、そういういいかたって、棘があるな」
 美樹がコンドームをテーブルに置いた。
「あたし達、こんなの使ったことないわよね」
 それを眼にした梶山がとりなそうとするが、いい考えが浮かんでこない。
「さっき、洗濯しようとしたら出てきたんだけど……」
「森野がくれたんだよ。持続時間が永くなるからって」
「そう。さっき、奈々子って人から、電話あったわよ」
「へー。どういう風の吹きまわしかな」
「しらばっくれないで、いえばいいじゃない。浮気したって」
「してないものを、したなんていえないさ」
「だったら、彼女がなんで電話かけてくるのよ」
「お前もおかしなこというな。考えてみろって。俺が本当に浮気するならだ、なんでその奈々子って女に自宅の電話番号を教えるんだ。飲みに行った先で、たまたま二人とも山が好きだってことで意気投合したから、それで教えただけだって」
「意気投合しちゃったんだ」
 そういう美樹は怒ってる訳ではなく、意地悪くにやけている。
「なんだよ。その笑い方は」
「ま、いいけど。でもさ、結婚したら、浮気はしないでよ」
 一年以上も付き合ってる梶山にとって、いつも同じ美樹相手では新鮮味がなく、時には刺激がほしくなることがある。それでつい、奈々子を抱いてしまったのが昨夜のことだった。
 目を潤ませている美樹にそういわれると、梶山は不味いことをしたなと後悔している。
「今日は泊まっていくのか?」
「そのつもりよ。久しぶりに、一緒に寝たい気分だし」
「降ってきたな」
 都心から離れた郊外は緑が多く、鬱蒼としたシルエットが雨に煙っている。
「ね、いつかは結婚するじゃない。このままいけば。そしたらどこに住む?あたしはここより、もっと静かなところがいいな」
「ここより静かっていったら、本当に山の中になっちゃうじゃないか」
「あたし、こういうマンションて、味気なくて厭よ」
「年寄りじみたこといってるな」
「だってさ、まるでニワトリのゲージだよ。マンションなんて」
「ニワトリ小屋はないだろ。ここだって二千万も出して買ったんだぞ」
「分かってるけどさ、そんなお金あるなら地方で、もっといい家買えるじゃない。一軒家で大きい家とか。あたしの親にいえば、それぐらい出してくれるし」
 女性としては背の高い片山美樹は、バストで止めたバスタオルから、長い足を投げ出してソファーにもたれている。そのバストは俗にいうお椀形で、梶山の掌からはみ出すほど大きい。
 そんな美樹と何度となく肌を重ねてきたが、結婚すればそれは快楽を求めるだけでなく、その結果子供もできるだろう。二人の子供だし、可愛い子に違いないと思う梶山だった。その子供に人間らしい生活をさせるなら、美樹がいうように地方のがいいのかも知れない。
「さっきね、ここにくる前にスーパーで買い物したんだけど、野菜が凄く高かった。うちの田舎千葉だけど、周りの農家の人が採れたてのくれたりして、それがみずみずしくて美味しいんだ。トマトなんて酸味のなかに甘味があって、最高に美味しいの」
「なんだ。田舎暮らししたいのか」
「そうまで思わないけど、都会より田舎のがいいかなって」
 梶山は塗装と防水を生業にしていた。
大手ゼネコンの下請け業者としてやっていたが、現場への往復時間だけで三時間から四時間かかることもざらで、家を出てから帰るまで十五時間ぐらいかかることが普通になっていた。そういう生活に不満を感じたこともあり、半年前から一般住宅専門に仕事を切り替えている。それも、なるべく近場の現場を取るようにしていた。その結果時間的なゆとりができ、美樹が泊まりにくることもふえていた。
「通勤ラッシュがない田舎で、のんびりしたいって思わない?」
「そりゃ、できればそうしたいけどな。でも、美樹。お前って、変な奴だな」
「どうしてよ?」
「齢いくつだよ?」
「二十四よ」
「二十四の女が、田舎がいいなんていうか?友達にいったら笑われるぞ」
「そんなことないわよ。他の子だって、地方のがいいって、結構いってるし」
 梶山が眠いというので、美樹が布団を敷いた。その布団に入った彼は三十秒としないうちに寝息をたて始めた。その彼に起きてよといっても起きないので、美樹は胸にキスしたり刺激を与えるが、寝息は高まるばかりだった。
 
 翌朝も雨が降っていた。
 梶山が淹れるコーヒーの匂いで目を覚ました美樹が、彼のカップを横取りして口をつけている。
「美味しい」
 椎茸をバター焼きにし、それにスクランブルエッグを添えたものでパンを食べる美樹。
「いい味してる」
 梶山が住んでるマンションの大家が自家栽培してる椎茸だった。
「今日は雨で、仕事できないんでしょ」
「うん」
「土曜だし、ドライブしようよ」
「行きたいとこあんのか?」
「別に。でも、ここから少し行けば日帰り温泉あるでしょ。そこ行こうよ」
 二人は営業開始時間にあわせてタクシーを走らせた。
 そこで朝風呂に入った二人は、大広間でビールを飲んでは横になっている。
「酔ったよ」
「朝のビールは効くからな」
 ゼネコンの仕事を辞めてからというもの、雨の日の梶山は本を読みながら朝っぱらからビールを飲むことが常だった。
「これが二人っきりだったら、もっといいのにね」
 美樹が座布団を枕に仰向けでいう。
「あたしさ、編み物好きだし、あなたのために、いろんなもの編んであげるね」
「そうかい。ありがとさん」
 二人は俄かに混み始めた広間の隅で、束の間の眠りについた。
 
 美樹がいいところがあるから行こうと梶山を誘ったのは、六月も入梅を目前にしたときだった。着いたところは山また山ばかりで、かろうじて開けてるのは駅のある飯山方面だけだった。そして、美樹があの家なら住んでもいいといってるその家に入ると、朽ちかけた外観にしては柱や梁が太く、板の間もしっかりとしていた。
「どう?」
「どうって?まさか、ここで新婚生活を送ろうって気じゃないよな」
「そのつもりだけど。ここが厭なら、もう一軒あるのよ」
「どこだよ」
「山梨の増穂ってところで、ここから四時間ぐらいかな」
「長野から山梨かよ。朝早く出てきて、もう疲れてるんだからな」
「諏訪湖に緑水っていうホテルあるんだけど、いいところなのよ。料理は美味しいし。そこで泊まって、明日でもいいじゃない。どうせ、仕事は暇だっていってたし」
「そりゃそうだけど・・・。増穂ってどの辺だ?」
「市川大門て知ってる?」
「あ-。昔仕事で行ったことある」
「その近くよ」
「そっかぁ。諏訪湖からなら二時間ちょいだな」
 美樹は梶山が帰ろうというのではないかと思っていたが、ホテルに温泉はあるのかと聞いてきたのでほっとした。
 緑水という宿の部屋は広く、美樹のいうように温泉は自家源泉の掛け流しだし、料理は和洋折衷で品数が多くて美味いものだった。
「食べたなー。仕事が早く終わったとき自炊してるけど、こんな料理作れないし」
「あたしが作ってあげるって。フレンチでもイタリアンでも。最近は会席料理も習ってるし」
「結婚準備は万端って訳だ」
「お母さんが料理しか取柄がないんだから、しっかり覚えなさいって」
「そんなことないだろ。美人だし、性格もまぁまぁだし」
「まぁまぁなんだ……。いいけど」
「そんな美樹が、どうして俺を選ぶんだか、不思議でしょうがないよ」
「どうしてだろうね?」
「こっちが聞いてんの。仕事してるとき、いろんなのから付き合おうっていわれてんだろう」
「それはあるけど・・・」
「それなら、なんでその男と付き合わないのかって、俺にしたら不思議でな」
「あなたより格好いい人いるけど、なんでだろう・・・。タイミングかな」
 梶山は腑に落ちなかったが、美樹がいうように、男と女の結びつきなどそんなものかも知れないと思った。 
翌日増穂に行くと、民家もほどほどあるし甲府にも近いので、仕事も何とかなるだろうと思う梶山だった。
 
結婚式まであと半月となり、梶山は雑務に追われると同時に不安が募っているようだった。
「いいよなぁ。あんな女と一緒になって逆玉でよ。親父さんがあっちこっちマンション持ってるし、家賃の上がりだけでも食っていけんじゃん」
「そんなのあてにして結婚する訳じゃないけど、なんか不思議でなんないんだよな」
「どうしてだよ?一年も付き合ってきたんだし、別に不思議じゃないだろ」
「三か月前、いきなり結婚しようっていってきたと思ったら、田舎暮らししたいっていうし」
「いいなー。田舎のがのんびりしてて、いいって」
 森野のいいたいことは分かるが、美樹が急に田舎暮らしをしたいという真意には、何か別の意味があるのではないかと思ってる梶山だった。
 これから新婚生活を送るべき家の近くには美樹の祖父の実家があり、その親戚があっちこっちにアパートや貸家を持っている。地主なので顔が広いし、その伝で梶山に仕事も紹介するとのことだった。
 高校中退で塗装業の世界に入った梶山は人に騙されることが何回かあったし、そういうことで辛酸も少なからず舐めてきた。それだけに、あまりにも恵まれた環境を与えられることに、躊躇いがあるのかも知れない。
 
 結婚式も終え新居に移った梶山と美樹の生活は、何もかもが目新しいことばかりで面食らうことが多々あった。だが、なるほどと思わされることが多くて面白い。それに、周りの人間は排他的なところがなく、二人を快く受け入れてくれることもあり、新婚生活は順風満帆だった。
「あたし、明日はクラス会で東京に行くけど、三日ばかりお家に戻ってていいかな?」
「ゆっくりしてくればいいよ。俺は近場の山でハイキングしてるよ」
 
 美樹が自宅に戻ると田舎暮らしの退屈なことを嘆いた。
「もうね、何にもないの。下着ひとつ買うのも甲府まで行かなきゃなんないし、毎月買ってた雑誌も、大きな本屋がないから買えないし」
「しょうがないじゃない。あなたが梶山君に浮気されないために、わざわざそういうところへ行ったんだし。男なんてものは、浮気もしないようじゃ、魅力ないってことなのよ。それをあなたがあまりにもナーバスになりすぎて、若い子がいない田舎で暮らそうなんていいだすから、こうなったんじゃない」
「でも、あのままあそこにいたら、あの人毎晩飲み歩いて、女と遊び歩くと思ったからさ。これまで、三回ぐらい浮気されたし」
「そんなことされてでも一緒になりたいっていう、あなたもどうかしてるわよ」
「そうだけど、あの人といると幸せだって感じるし」
「だったら、しょうがないじゃない。浮気されないためには、今のところで我慢することね。でも、増穂だって開けてきてるし、若い子だってかなりいるんでしょう。飲み屋さんだってあるんだろうし」
「彼の友達がきて、なんだか可愛い子のいる店見つけたとかいってるし」
 美樹の母は娘が思うほど、梶山が持てるとは思っていない。
だが、今のうちから地方で地に着いた生活をしていれば、行く末いいことがあるだろうと将来のことを考えていた。それは家を建てるにしても東京では地価が高いとかもあるが、それよりも安全な食べ物が手に入ることがいちばんだった。極端なことをいえば日本の食生活は崩壊している。それが、地方なら自給自足をしようと思えば可能だし、何れは自分達夫婦が娘の美樹の元へ行こうかという考えもある。そういうことで娘の取り越し苦労を親身になって検討した結果が、田舎暮らしということになったのだった。
「子供ができれば、浮気なんてしないわよ。毎日家に帰るのが楽しくなるってものよ。男って、そういう生き物なの。覚えておきなさい」
「そうかな……」
「心配ばかりしてないで、さっさと帰りなさい。梶山君が淋しがってるわよ」
 お嬢様育ちのわりには苦労性な美樹だった。それにすれてないので、何かと考え込んでしまうのかも知れない。
「何かあったら、いつものようにメールしてきなさい。夜中でもいいから」
 毎晩のように肌をすり寄せていたので、たったの二日間といえども梶山のたくましい腕に抱かれないのが淋しい美樹だった。そう思うと、すぐに車に飛び乗った。
 
「ただいまー」
「何だ。帰りは明日じゃなかったのか」
「あなたが淋しい思いしてると思って、帰ってきたのよ」
「朝は畑仕事してそのあとは山で、今は風呂上りのビールだ。明日は雨だっていうし、畑仕事もできないな。でも、美樹が持ってる畑は、雨だろうが晴れだろうが、毎日耕すからな」
 美樹は何のことだか分からないが、梶山のグラスのビールをひとくち飲んで風呂に入った。
 ここでの梶山に友人はまだできていなかったし、暇なときは本を読むことで暇を潰していた。晴れていれば勿論仕事もする。まさしく、晴耕雨読の生活だった。

                     完
 

晴耕雨読


狂った夏 若い女が酔っ払いに絡まれ・・・・・・

勧善懲悪主義の梶山を襲った冤罪とは・・・

kurutta_natsu_001 kurutta_natsu_002       

 狂った

 
日曜の昼下がり車内は閑散としていた。
 だが、その静寂な雰囲気を壊そうとしている者がいた。
「いいオッパイしてんじゃねーか」
 不精など通り越した伸び放題の髭面は工員のような服を着、女性には縁がないといった男を象徴したいでたちだった。
そんな男が両手で吊り輪を掴んで腰を引き気味にしながら、薄着の女の胸元を覗き込んでいた。
 男の顔が間近で吐く息は酒臭かったし、すえた汗が強烈な異臭を放っていた。
それに我慢できない女が立ち上がろうとすると、男がその女の肩を押し沈めた。
「やめてよね」
「いいじゃねーか。見るぐらいよ」
 男は吊り輪にだらしなくぶら下がるような格好で、操り人形のように全身を前後左右に揺らしている。
 
 友人と昼食を兼ねてビールを飲み、いい気分の梶山三郎が電車に乗り込んだ。
彼が座ろうと思ったとき悲鳴のような声がした。
その声の方に目をやれば、労務者風の男が女のブラウスを肩からずりおろそうとしている。
梶山は躊躇うことなく隣の車両にいる男に駆け寄った。
「いい齢して、変なことするんじゃないよ」
「ふん」
 酔っ払いは梶山に鼻を鳴らし、なおも女の肩から手を離そうとしないどころか、ブラウスを掴み上げている。
「やめろってんだ」
 梶山が男の手を捻り上げた。
「何しやがんだ」
 そういう男を後ろ手にしホームに引っ張り出した梶山は、彼を蹴っ飛ばしてやろうかと思うが、これ以上手荒なことはよしたほうがいいと判断した。
「いい格好すんじゃねぇ。おめぇーだって、この女のオッパイ見てぇだろう。男好きするあの女と、やってみてぇくせによ」
 酔っ払いは尻餅をついたかと思えば、仰向けになりながらいった。
発車ベルが鳴ったので、梶山は急いで車内に戻った。
 飛び込んで乗った車内の椅子に座り込んだその彼の向かい側に、女が何事もなかったかのように澄ましている。
 有難うの一言もなしかよと思う梶山だが、礼をいって欲しいために男を車内から連れ出した訳ではない。
世の中こんなもんなんだと呆れるとともに、少しばかり興奮してしまった彼は前屈みになって肩で息をした。
床に目を落としていた彼がゆっくり顔を上げていく途中、女の素足の付け根に白いものが見えた。そして座席の背もたれまで上体を起こしたが、それでも彼の目にはミニスカートの奥の白いパンツが視界に入ってくる。
梶山が助けた女は普通に座っていても、バッグなどを膝に置かなければパンツが見えてしまうほど短いスカートで、白いブラウスはシースルーのように青いブラージャーがくっきり浮き上がっていた。
こっちは人助けをしたっていうのに、礼もいわないで、なんでそんな目で見てんだよ。
そう思っているうち、梶山は眠くて目を閉じてしまった。
 
電車の揺れるリズム感は気持ちいいもので、梶山は中学時代の夢を見ている。
 
友人達が塾に行く時間だとか、遅くなるから帰ると三々五々散って行く。
何の予定もない梶山が一人で駅に行くと、教育実習に来ている有馬佐智子という女性と出くわした。
「さっきも教室でいったけど、時間あったら遊びに来てね」
「行って、いいんですか?」
「いいわよ。うちのそばにはキャンプがあるから、外人がいるの。三溪園も近いし、いい写真撮れると思うわよ」
 そういわれた写真好きな梶山は、休みに有馬佐智子と三溪園に行った。
 佐智子はの短大の体育大生で、バレーボールで鍛えた身体は日焼けして黒い。
 その彼女と梶山が別れ際に喫茶店で向かい合ったとき、ミニスカートから白いパンツが見えたが、彼はすぐに目を背けた。
「明日から軽井沢でアルバイトなの。絵葉書送るから、住所教えて」
 パンツの鮮やかな白が目に浮かんでる梶山は、喜んで佐智子の手帳に住所を書き込んだ。
 
肩を叩かれた梶山が目を覚ました。
痴漢みたいな目で、見てたでしょう」
 何のことだとばかり、梶山がしょぼついた目をこすった。
その目に、さっき助けた女がぼやけた視界に浮かんでる。
「降りてよ」
「何いってんだよ」
「さっき、ずっと屈んで、スカートの奥見てたじゃない」
「いい加減にしろよ」
 電車が止まると、意外な力で脇に手を入れられて立ち上がらされた梶山。
 女に同調するかのように梶山の隣に座っていた男が、彼女と一緒になって彼をホームに引っ張り出した。
 駅長室に連れて行かれた梶山は身元確認を求められるが、そんなことにはいっさい応えようとしない。
「あんた、おかしいよ。人がせっかく助けたのに礼をいうどころか、俺を痴漢扱いにしてるんだぜ」
 何ら悪いことをしてないという面持ちの梶山は、込み上げている怒りを抑えようとしながらいった。
「そっちこそおかしいじゃない。あたしはさっきの痴漢のことをいってるんじゃないの。あなたはあの痴漢を追っ払ってくれたからいい人だと思ったのに、あたしのスカートの中を覗いてたのよ。そのことをいってるの」
「馬鹿いってんじゃないよ」
「どっちが馬鹿なのよ」
 梶山と女の押し問答が延々と続いてるとき、一人の女性が駅長室に入ってきた。
「私、この女性のそばに座ってましたけど、男の人はその女性のスカートの中、覗いてるようなことなかったですよ」
「何いってんの。ヤラシイ目で見てたの、あたしはちゃんと見てたんだから」
「この男性はお酒飲んで、苦しかったから俯いてただけでしょ。それで顔を上げるときあなたの姿を見る形になったけど、それはスカートの中を見るとかじゃなくて、自然の成り行きで目に入っただけだと思うけど。それに、そんなスカートじゃ、下着を見てっていうようなものでしょ」
 確かにそうで、梶山は労務者風の男をホームに引きずり出し車内に戻ると、酒を飲んでたのと興奮したのとで動悸が激しくなっていた。それで腰を曲げた状態で鼓動が静かになるのを待ち、背もたれまで上体を起こしたかと思えば、窓硝子に頭をつけて居眠りしたのだった。
「それに、この女性の言い分は、どう考えてもおかしいです」
 梶山を痴漢扱いしてる若い女は顔を赤くしながら、彼を援護している中年女性に冗談じゃないわといった。
「百歩譲って、この男性が仮にあなたのスカートの中を見ていたとしても、あなたはこの人に助けてもらったのよ。この人があの酔っ払いを追い払わなかったら、あなたはブラウスを引きちぎられてたかも知れない。そういう人を痴漢扱いにするのは、私には信じられないわ」
「まったくだ。あんたの頭は狂ってる。あれが電車の中じゃなく、人通りのないところだったら間違いなく、あんたはレイプされてたんだからな」
 梶山はペットボトルのウーロン茶を飲んでいった。
「そんな奴から助けてやった俺が、なんでこんなところにいなきゃなんないんだよ。ふざけんのもいい加減にしろってんだ」
「助けた助けたっていうけど、誰が頼んだ?あたしはあんたに、助けてなんていってないからね」
 梶山は悪い夢を見ているんだと思いたかった。
 駆けつけた警察官が腕組みしたまま聞いていたが、これでは埒が明かないと判断し、被害者と思われる女と痴漢扱いされてる男。その彼を擁護している女性の三人に、警察署で事情聴取するために同行を求めた。
 梶山がそれを固辞した。
「どうしても連れて行くんなら、逮捕してくれませんか。そうすれば、こっちは名誉毀損で裁判起こすし。それはこの女だけじゃなく、あんたに対してもね」
 梶山は定年間近と思われる警察官にいった。
「公務執行妨害でも何でもいい。手錠掛けたきゃ掛ければいい」
「そちらのお嬢さん。あんたはどうする?こちらの男性は名誉毀損で訴えるっていってるけど」
「勝手にすれば。これから仕事だから、あたしは行くからね」
 立ち上がった女を無理やり振り向かせた梶山が、彼女の頬におもいっきりピンタを張った。
「いたっ」
「お前のために、こっちはいい気分を害された挙句、痴漢扱いされてんのが判んないのか!ばっか野郎が」
「何すんのよ!」
「それはこっちの台詞だ」
「見たでしょ。この男、あたしのこと殴ったのよ」
「今までの話を総合してみると、あんたにもかなりの落ち度があるようですな」
「何でよ?」
 その短いスカートもそうだし、ブラジャーが透けて見えるそのブラウス。誰だって、男ならおかしくなりそうな格好じゃないか。ストリッパーなら別だけどな」
「あたしがストリッパー?」
「いや、物の例えということでね」
「酷い」
 女は上気させた頬に涙をこぼした。
「もういい。帰る」
「冗談じゃないぜ。こっちはいい恥かかされたんだ。このまま帰して堪るかってんだ」
「女性がもういいっていってることだし、あんたもこのまま帰ったほうがいいんじゃないのかい」
「冗談もいい加減にしてくれよ。変態扱いされて、それを今度はもういいからっていわれて、黙って引き下がれるかってんだ」
 梶山はやたらに乾く喉にウーロン茶を流し込んだ。
「名誉毀損。侮辱罪で、この女を訴える」
 
 簡易裁判所を出た梶山の隣に、彼の証人として出廷した中年女性が立っている。
「有難うございました。お忙しいところ、申し訳ありませんでした。
「いいえ。私が酔っ払ったあの男性を止めてれば、あなたもこんなことになってなかったでしょうに」
「あの酔っ払いを止めるには、女性には無理だったろうし……」
「見て知らん振りしてる私達にも責任あったし……。いちばんいけないのは酔ってるとはいえ、女性に乱暴しようとしたあの男性なのに、あなたはとんだ迷惑を被ってしまったわね」
「困ってる者見たら、放っておけない性質なんで」
「それにしても、助けてもらってお礼をいうどころか、冤罪を着せるああいう女性って、何考えてるんだが……。これに懲りず、これからも悪い人をとっちめて欲しいけど、こんなことになるんではおいそれと人助けもできなくなるわね」
 女性がそれではと会釈し、梶山は深々と腰を曲げてその彼女を見送った後、空を見上げて眩暈を覚えてしまった。
 それはかんかん照りで暑いこともあったが、彼を痴漢扱いした女の言い分に愕然となっていることのが大きかった。
 
労務者風の男に乱暴されそうになって怖かった。
それで助けてくれた男にほっとしていたら、自分のパンツを盗み見しているのに気付いた。
労務者なら分かるが、きちんとした格好の男までが自分をそんな目で見るのかと思うと、腹が立って駅長室に連れて行った。
できれば、痴漢に仕上げて金を巻き上げたかった。
 
そんな女の浅墓さが分かると、梶山は何のために労務者から女を助けたのかと、嘲笑すらできなかった。
 
 少女三人がコンビニ前の路上に座り込んでいる。
彼女達はそろいもそろってローライズのジーンズやスカートで、パンツだけでなくヒップの割れ目まで見えていた。
「すいません。ちょっとごみの整理するんで、他へ行ってもらいたんですけど」
「ちぇっ。うっぜーな」
「どけ!道端に座り込んで、邪魔だろ」
 裁判に勝ったものの、心がすっきりしない梶山だった。
 痴漢呼ばわりした女と同様、やりきれない気持ちを関係のない人間に向ける梶山だった。
「通れんじゃん。こんなに道あいてんだから」
「道は座り込むためにあるんじゃない。店の人だって困ってんだから、さっさとどけ!」
「オッサンの道じゃないくせに」
「行こう。変なオッサンでキモイよ」
「何がキモイんだ。蹴っ飛ばすぞ」
 四十過ぎの店員が苦笑しながら、梶山にお辞儀をした。
「今の子供達は、自分を中心に地球がまわってると思ってるのが多くて」
「若い子だけじゃなく、皆、狂ってる」
 梶山はぎらつく太陽を遮るように、手を庇代わりにして歩き始めた。
 
無差別殺人が起きたり、警察や裁判官に教師までが痴漢で捕まったり、このところおかしな事件が続いている。
 各地で連日猛暑が続き、東京は四十度に迫ろうかという厳しい暑さだった。
 平和に見える日本だが、勧善懲悪主義の梶山さえ、痴漢という冤罪を被らされるのが実情だった。
 人間の心が猛暑で狂うようなが、まだ続きそうだった。
                        

                 完
  

風越峠 9~最終章 見返り桜編

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Author:夢想国師
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