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    5年ぶりに新しい本が出る。

    200ページと少し、厚さ17ミリメートル、読書猿初の「薄い」本である。

    ゼロからの読書教室・表紙・キャプ


    本書は、2022年4月から2年間、NHKの『基礎英語レベル1』で連載した、本についての対話篇をまとめたものである。

    これが、これまで書いてきた単著、3冊の『大全』との大きな違いだ。
    手元においておくと、どこまでも文章を修正し続けて、いつまでも書き終わらない悪癖があることは自覚している。
    毎月書いたものを手放さなくてはならない連載は、この悪癖を封じるのに効果的だった。おかげで、こうして一冊の本が世に現れることができた。

    もう一つの違いは、これまでに書いた3冊の『大全』はどれも、決めたテーマが演繹的にすべてが決めていった。
    「そのテーマなら何と何を書かなくてはならないか」が決まり、どんな順序であるべきかが決まり、それがそのまま構成になり、目次になった。次に、それぞれの項目が何を備えていなくてはならないかが決まり、あとは、ひたすら完成させていくことになる。つまり、すべてを自分で設計して、自ら施工した感じである。

    今回は本は違う。
    連載1回の分量は2000文字くらい。よく書きたいことがあふれて、次回へ持ち越しになった。それが毎回、次回への引きになったのだが、結局その時に一番書きたいこと、いや「書かなくてはならない」と感じたことを書いた。
    なんというか、図面を引いてその通り作り上げるというより、走り抜ける感覚であった。
    だから今も、書き終えた(完成させた)というより、走り終えた感慨でいっぱいである。

    連載のお話があったときに、「一冊にまとめることを前提に」という話だったが、実を言うと、あまり意識せずに走りつづけた。気がつけば、2年間の連載(全24回)が終わり、書籍化の作業に取り掛かり(例によってここで遅筆癖が炸裂し)、完成させるまでに随分時間が経ってしまった。

    こうして連載された記事をまとめて読み直してみると、意識していなかった本の姿が浮かび上がってきた。
    自然と、本とのつき合い方を見直す話題が並ぶ第1部と、本との出会い方について具体的に扱った第2部という構成になっていた。
    この本はおそらく、この通りにしかならない/それ以外の姿にすべきでない本なのだろう。
    そう合点がいくまでに、また時間が必要だったけれど。




    「読書猿」などという筆名だから、「読書について書いてください」というお話は何度もいただいたが、その度に固辞してきた。
    理由は筆名の由来と同じ、自分が「読書家には遠く及ばない」、読書について語る資格なんかないと、ずっと思ってきたからだ。

    その気持は実は今もあまり変わらない。
    でもまあ、「資格」などなくても本はできてしまうのである。
    必要なのは、何かの機運とか機会のようなものだ。


    『大全』シリーズでは、そのテーマに必要なこと、発想法、問題解決、学び方や知識のあり方など、必要な技術や知識は、どの分野の由来しようと、誰が考えたものだろうと、すべて詰め込むことを目指した。

    今回の本は、かなり違う。
    読書について書くべきことは、確かにまだまだたくさん残っている。
    けれど、書かなかったこと、書けなかったことたちが、この本を、もっと気楽で、もっと軽くて、もっと自由なものにしていると思う。
    それこそがこの本が目指すところ、そして読み手に手渡したいものだ。
    本と付き合うには「しなければならないこと」など本当はなく、「しなくてもいいこと」の方がずっと多い。

    これがトップダウンに設計して知識を凝縮する『大全』という形では、書けなかったことだ。


    あちこちで繰り返し話していることだが、自分自身、本を読むことが得意ではない。
    読むのが遅く、すぐに疲れてしまし、飽きてしまう。
    「全部読まなくてもいい」「途中でやめてもいい」「わからないことがあってもいい」というメッセージは、いつも自分を甘やかし救い出すために繰り返している「言い訳」だ。

    けれど、そんな「言い訳」で開くドアがあるのなら、開けよう。
    本を前に気負ってしまうすべての人に、このドアを開け放とう。

    読書はきっと、本当はもっと自由であるはずだから。



    この本は薄いけれども、濃縮したエッセンスやノウハウ集の類ではない。
    本を開いて少し読んだら、すぐ本を閉じて、自分が本当に読みたい本を探しに行ってほしい。
    『ゼロからの読書教室』は開け放たれた扉だ。
    その向こうにはたくさんの出会いを待つ書物が待っている。


    明日(5/23)、書店に並ぶ『ゼロからの読書教室』を、ぜひ手に取ってみていただければうれしい。
    その手触りが、気持ちまで軽くしてくれることを願っている。


    では、本屋さんかポストの中で、お会いしよう。






    『ゼロからの読書教室』
    著者:読書猿
    出版社:NHK出版
    発売日:2025年5月23日
    定価:1760円(本体1600円+税)
    判型:四六判並製(208ページ、厚さ17mm)
    ISBN:978-4-14-081995-1
    全国書店およびオンライン書店にて取り扱い

    ゼロからの読書教室・表紙・キャプ


    目次構成

    第1部 本となかよくなるために──しなくてもいいこと、してもいいこと

    1. 全部読まなくてもいい
    2. はじめから読まなくてもいい
    3. 最後まで読まなくてもいい
    4. 途中から読んでもいい
    5. いくつ質問してもいい
    6. すべてを理解できなくてもいい
    7. いろんな速さで読んでいい
    8. 本の速さに合わせてもいい
    9. 経験を超えてもいい
    10. 小説なんて読まなくていい
    11. 物語と距離をおいていい
    12. 小説はなんでもありでいい

    第2部 出会いたい本に出会うために──してみるといいこと、知っておくといいこと

    13. いろんな本を知ろう
    14. 本の海「図書館」へ行こう
    15. レファレンスカウンターに尋ねよう
    16. 百科事典から始めよう
    17. 百科事典を使いこなそう
    18. 書誌はすごい道具
    19. 書誌を使ってみよう
    20. 件名を使いこなそう
    21. 上位概念を考えよう
    22. リサーチ・ナビを活用しよう
    23. 青空文庫に浸ろう
    24. デジコレにもぐろう



    ---

    「あとがき」より──読書猿からのメッセージ

    こんなペンネームなのに、本を読むのは苦手だ。

    小さな頃から、本を読むのはあまり好きでなかったし、得意でもなかった。何より集中が続かない。本を開いて読み始めても20分もすれば力尽きてしまう。なので、たくさん読むことは難しい。
    何かのきっかけがあって苦手な読書が楽しめるようになったとか、素晴らしい方法を発見してスラスラ本が読めるようになったとか、そういう話ができればいいのだけれど、残念ながら私にはそういう幸運は起こらなかった。
    この本に書いたのは、そんなささやかな工夫や気の持ち方、たとえば読書についての考え方のようなことだ。

    唯一良かったのは、本を読めない理由はすべて自分の中にあって、忙しすぎるとか本屋がないとか周囲に読書家がいないせいではなかったし、「読書すると冷たい人間になる」「本なんてぜいたく品だ」などと誰かに邪魔された訳でもなかったことだ。

    自分だけのことだから、必要なのは自分だけの工夫とか気持ちの持ち方であって、社会や他人のせいにしなくて済んだ。
    この本に書いたのは、そんなささやかな工夫や気持ちの持ち方、例えば読書についての考え方のようなことだ。

    読書は誇るべき立派な行いではない。どちらかというと後ろ暗いことだ。こっそり楽しむ楽しみだ。
    そう思っておけば、誰かに無理やり読むことを勧めて、その人を読書嫌いにしなくて済む。
    我々の誰もが好きな本を読んでよいのと同じように、読まないことを好きに選んだって構わない。

    私やあなたが読まなくても、誰かがきっとあなたの代わりに読んでくれる。

    もちろん好きでこの本や他の本を読んでくれるなら、とても嬉しい。
    あなたが「好き」で書物のページをめくることで、知らない誰かに書物が届き、世界のどこかで本が生まれる。


    遠藤 嘉基、渡辺 実 著『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』が復刊します (ちくま学芸文庫, エ-17-1) 。
    タイトルを繰り返しただけですが、お伝えしたかったのは以上です。

    ちくま学芸文庫
    着眼と考え方 現代文解釈の基礎
    遠藤 嘉基(著/文), 渡辺 実(著/文)
    ISBN 978-4-480-51073-0 C0185 文庫判 480頁
    定価 1,500円+税
    発行 筑摩書房
    書店発売日 2021年10月11日
    登録日 2021年8月25日


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    蛇足ですが、文庫での復刊なので、最後に解説がつくのですが、これを読書猿が担当いたしました。

    中央図書出版から出ていたオリジナルにはない部分ですが、初版からはおよそ半世紀、当時と今とは国語(日本語)を巡る状況も異なり、なぜ50年近く前の本を現在の我々が読むべきなのかを説明することは必要だろうという趣旨のオファーがありました。
    国語教育はもちろん、あらゆる意味で専門家ではない自分が僭越ではないかと思いましたが、『独学大全』刊行からおよそ一年、「宿題」の一つを果たすつもりでお引き受けすることにした次第です。

    『独学大全』をお読みの方はお気付きの通り、実例編としての第4部の「国語」のパートで、『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』を大々的に取り上げました。「入手困難な本を取り上げて!」と非難されるのを覚悟の上です。登場人物に「こういう本こそ復刊したらいいのにね」とまで言わせました。
    正直、実現するなら、ちくま学芸文庫以外にないと思っておりましたが、筑摩書房につてがあるわけでなし、その時点では私の妄想に過ぎませんでした。

    実現には、膨大な作業と想定外のご苦労があったとお聞きしています。
    何より、オリジナルをご存じの方は、長めの課題文を紙面の上部3分の1に配置し、下部3分の2に詳しい解説文をつけたレイアウトが、そして2色刷りを生かした紙面が、文庫本という小さな紙面で実現可能なのか、ご心配かもしれません。
    結果は、編集部ですら危惧されたこの難問を、デザインの力で違和感なく、そして読みやすい形で、クリアーされています。
    先日、北村一真 先生の『英語の読み方』(中公新書)について「新書でここまでやる!」と驚嘆したと申し上げましたが、同様の感動を覚えたことをお伝えします。
    「文庫でここまでできる!」だったらもう学習参考書の文庫戦国時代が来るのではないか、と。

    しかし、我々はかつてのように多くの時間をかけた国語科教育を受けなくなって久しい。
    この書はもともと中学を出たての高校1年生のために書かれたものですが、昨今の受験が要求するレベルを遥かに越えています。
    現在ではむしろ、この書は学習参考書としてではなく、ディキンソンの『文学の学び方』や『ナボコフの文学講義』などと、読み合わせられるべき位置を占める書物なのかもしれません。
    国語科を見下し蹂躙してきた歴史は、我々が書き言葉を扱う能力を剥奪されてきた歴史でもあるからです。

    言うまでもなく、書き言葉を扱う能力は、我々の知的営為を根底で支える力です。
    読み書きが満足にできないで、どうしてまともに考えることができるでしょう。

    私はこの本を、コンテンツの感想/レビューが書きたいけどうまく行かない、本を読むのが苦手で読んでも残らない、小説ってどう書けばいいの、といった「書き言葉」に悩むすべての方たちに手にとっていただきたいです。

    長らくおまたせしました。

    『着眼と考え方 現代文解釈の基礎』、満を持して復刊です。


     













    時折、

    「生という漢字の読み方は沢山(100以上、150以上)あるが、死の読み方は1つしかない」


    といったうんちくをSNSなどで目にすることがある。

    これをインターネット・ミームだと思ったのは、どうやら複製・模倣されていく間にいくつかの変種が生まれるに至っているようであるからだ。

    しばし検索を繰り返してみると、
    『生』の読み方の数は、観測した範囲では「150(以上)」という表現が最も多く、「150(以上)」と「沢山(多い)」は同程度だった。

    一方で変化していない部分もある。それは、様々な変種はあってもそれらが同じミームだと同定できる決め手となる「死の読み方は1つしかない」というフレーズである。
     「生き方は様々でも、死ねばみな同じだ」などの死生観を乗せやすいために、講演のつかみなどでも用いられるようになっている、という。

    しかし、これがインターネットを通じて広まったものと断定するのは難しい。
    手近なところで、Google booksでは用例を見つけることができなかったが、もとより網羅的なものではない。

    ※インターネット・ミーム(Internet meme)とは、インターネットを通じて人から人へと、通常は模倣として拡がっていく行動や言葉やアイデアなどのことをいう。


    ○まず漢和辞典を引いている

     そこで方向を変えて、より強い主張である「死の読み方は1つしかない」の反例を探すことにした。

     これは普通に辞書を引けば、すぐに見つかる。

     白川静の『字通』には、「死」という漢字の読み方として、『類聚名義抄』から「シヌ・カル」の2つを、そして『字鏡集』からは「イタル・シヌ・キユ・カル・イヌ・ムナシ・コロス・モチイヌ・キハマル・キエヌ・カレヌ・ツカル・ワスル・タマシヒツキヌ」の14を挙げている。

    幸いなことに『類聚名義抄』 と『字鏡集』については、国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができる。

    『類聚名義抄』 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2609857
    11~12世紀ころの成立と推定される漢和字書。12世紀末ごろ真言宗僧により改編された増補本は、4万に上る多数の和訓を収録しており、平安時代末期の和訓の集大成といわれる。「仏」「法」「僧」という、我々には馴染みの薄い分類を採用しているので、求める文字を探すときは、『類聚名義抄. 仮名索引』を使うと便利である。
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212361/79
    をみると「死」は「佛 上の七八」をみろとある。

    『類聚名義抄』佛 上の七八は、ここ。
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586891/45


    『字鏡集』
    じきょうしゅう
    菅原為長の撰によると伝えられる漢和字書。7巻本と 20巻本がある。成立年代未詳。寛元3 (1245) 年以前に成立。訓が豊富であることを特色とする。
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2610089

    こちらは該当箇所を探し当てることができなかった。識者のアドバイスを待ちたい。



    ○ふりがな文庫での調査

     「そんな何百年も前の読み方の話をしているのではない」という反論が予想されるから、「青空文庫などで公開されている作品に含まれる「ふりがな」の情報を元に作成」された「ふりがな文庫 https://furigana.info 」でも検索しておこう。


    ふりがな文庫によれば「死」には50を超える読み方がある。
    https://furigana.info/w/死

    読み方(ふりがな) 割合
    し 58.9%
    じに 9.6%
    しに 7.0%
    ち 3.8%
    じ 3.4%
    しん 2.9%
    な 2.2%
    くたば 1.7%
    しな 1.2%
    お 0.9%
    (他:49) 8.4%


    ついでに「生」についてもふりがな文庫を見ておこう。こちらは400を超える読み方がある。
    https://furigana.info/w/生

    読み方(ふりがな) 割合
    は 16.9%
    なま 12.8%
    い 12.2%
    う 9.1%
    お 8.1%
    な 6.7%
    しょう 5.1%
    うま 3.8%
    き 3.5%
    せい 3.1%
    (他:400) 18.7%


    ○隠語大辞典での調査

    「死」の読み方はさらに多様である。

    皓星社の『隠語大辞典』はネット上でもWeblio辞書(https://www.weblio.jp)で引くことができる。

    これによると「死」は、「おめでたい」「くたばる」「ごねる」などと読まれることがある。
    最後にあげた例は「しぬ」と読むが、その意味が人が死亡することではない(なかなか辛辣な言い回しである)。


    https://www.weblio.jp/content/死?dictCode=INGDJ


    読み方:おめでたい

    死ぬること。往生。(一)めでたからねば戯れに逆さごとをいふ。「親分は-くなッたよ」。(二)年に不足なき高齢者の死。
    分類 東京




    読み方:くたばる

    死スコトヲ云フ。〔第六類 人身之部・大阪府〕
    倒死、往生に同じ、死を卑しみていふ語。「-つた」。「-りそくない」。
    分類 大阪府、東京




    読み方:ごねる

    死亡-〔関東及阪神地方〕。〔第四類 言語動作〕
    死ぬと云ふことの下等語。「〓屋のおやぢもとうとう-た」。
    死ぬることをいふ。
    分類 東京/下等語、関東及阪神地方




    読み方:しぬ

    人品賎くして、金策の覚束なき客をいふ。附馬仲間の隠語。
    分類 東京/附馬仲間






    ○死ははたして一つか?

     これまで「死」という漢字からその読み(訓)を追ってきたが、逆のアプローチも考えておこう。
     実は「しぬ」ことを表す漢字についても、「死」ひとつではない。

    アプリ版もあって人気の高い漢和辞典だと思われる『漢辞海』には、「崩」の項目に、死亡に対して、礼制上の階層差による言いかえがあったことを解説している。すなわち

    ・帝王の死に対しては「崩(ホウ)」
    ・諸侯には「薨(コウ)」
    ・大夫(タイフ)には「卒(ソツ)」
    ・士には「不禄(フロク)」


    そして最後に

    ・庶人には「死」


    といったのだ、と。

     和語でも「崩」や「薨」に対しては「みまかる」という訓があてられている。

    日本でも、中国礼制の影響を受けた、喪葬令(そうそうりよう)では、

    ○15 薨奏条

    百官(散官・女官・無位皇親等全てを含む)が死亡したならば、親王、及び、三位以上は、薨と称すこと。五位以上、及び、皇親は、卒と称すこと。六位以下、庶人に至るまでは、死と称すこと。

    (出典:現代語訳「養老令」全三十編(HTML版) 第二十六 喪葬令 第十五条 http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/yoro26.html#15



    親王または三位以上の者の死を〈薨〉といい,五位以上の者は〈卒〉,六位以下庶人は〈死〉と称して区別した。


    つまり「しぬ」ことは、少なくともそれを言い表す言葉については、「誰にも等しく同じ」というわけではなかった。


     再び白川静の『字通』では、「しぬ」という訓をもつ漢字には「死」以外にも次のようなものがあることを教えてくれる。

    亡、化、没(沒)、歿、卒、殂、逝、故、喪、落、殞、薨

    いくつかの紹介を引いておこう。

    「亡」は屍骨の象、「化」は骨片の形から来ているが、これに対して「死」は残骨を拝する形である。「葬」は草間に残骨を拝する形で、複葬を示す字である。


    「卒」(そつ)は卒衣。死者の襟もとを結んで、魂の脱出を防ぎ、邪霊の憑(つ)くのを防ぐもの。


    「殂」は且(そ)声、且に「徂(ゆ)く」の意がある。


    「逝」(せい)はもと往く意、のち長逝の意となる。


    「喪」は多くの祝告の器、犬牲を加えて哀告すること。そのとき用いるものを器といい、明器という。


    「殞」は員(いん)声。員は隕で上より落ちるもの(隕石の隕だ)、殞は人の死をいう。


    死因による違いでは、「沒」は水没することいい、その死を「歿」という。


    「薨」(こう)は、夢魔による死をいう。貴人には鬼神が憑(よ)ることが多く、その夢魔による死をいう。その昏睡の状にあるときの声をまた薨という。