Aは、うちによく来る。金曜の夜に3人で飲んで、そのままソファで寝ていく。妻は「家族みたいなもんだよ」と言う。たしかに、そういう距離感だと思っていた。少なくとも、1年前までは。
最初にAとそういう関係になった夜のことは、いまでもはっきり覚えている。
妻が仕事で帰れなくて、Aと2人で待っていた。いつものようにテレビを流しっぱなしにして、どうでもいい話をしていた。Aは酔っていて、いつもよりよく笑っていた。
終電がなくなった頃、Aが「今日はここに泊まってもいい?」と言った。
「いつも泊まってるじゃん」と答えると、Aは少し黙って、「ベッド、空いてるよね」と言った。
そのあとの細かいことは書かない。ただ一つだけ、今でも頭から離れない場面がある。
全部が終わったあと、Aがシーツを直しながら、ぽつりと言った。
「ねえ、いつも奥さんにしてあげてるみたいに、髪、撫でてくれない?」
その瞬間、喉が詰まった。
自分は、無意識に、Aの頭に手を乗せていた。いつも妻が疲れてソファで寝落ちしたときにやっているのと同じ動きで。指先が、Aの髪の生え際をなぞった。Aは目を閉じた。
「こういうの、ずるいよね」とAが笑いながら言った。
その一言で、「ああ、自分はいま、本当にまずいことをしてるんだ」とやっと理解した。
妻と3人で飲む
妻が先に寝る
Aがキッチンで片付けを手伝う
目が合う
そのまま、寝室に行くこともあれば、ソファで並んで眠ることもある。
Aは、終わったあと、必ず同じことをする。
何も言わない。こっちも何も言わない。
ある夜、Aが小さな声で言った。
「ねえ、奥さんにもこうやってくっついてる?それとも、もうしない?」
その質問に、うまく答えられなかった。
Aは「そっか」と笑った。笑ったけど、そのあと、ずっとTシャツから離れなかった。
翌朝、妻が起きてきて、Aに抱きついた。
「おはよう、A」と言って、髪をくしゃっとする。
そのとき、自分の手が勝手に動いて、妻の頭にも同じように触れそうになった。
あわてて手を引っ込めた。妻は何も気づいていない。
それ以来、「髪を撫でる」という、ごく当たり前のスキンシップができなくなった。
妻がソファで疲れて寝ていても、頭に手を伸ばせない。
伸ばそうとすると、Aがシーツの上で「奥さんにしてあげてるみたいに」と言った声が蘇る。
多分、妻がこれを読んだら、行為そのものより、この部分で一番ムカつくと思う。
そして、自分だけが知っている「妻にしていたはずの手つき」が、別の人にもコピーされてしまっている事実。
Aは時々、冗談のようにこう言う。
答えられない。
どっちも楽しい、とも言えないし、どっちかを選ぶこともできない。
代わりに、「こういうこと聞くなよ」と笑ってごまかす。
Aは「ごめん」と謝るけど、そのあと、またTシャツの裾を掴んで黙る。
妻は、何も知らないまま、「Aがいてくれて良かった」と言う。
「あなたが仕事で遅いときも、Aがいてくれると安心する」とも言う。
そのたびに、胃の奥が重くなる。罪悪感だけじゃない。安堵もある。
「今日も何もバレなかった」という安堵と、「今日も二人に同じ手つきをした」という嫌悪感が、同じ場所でぐるぐる回っている。
やめようと思ったことは何度もある。
Aに「もうやめよう」と言おうとして、喉のところで止まった言葉が、いくつもある。
Aの顔を見ると、その言葉が出なくなる。Aは何も言わない。ただ、Tシャツの裾を掴む。
たぶん、自分が一番怖いのは、「全部バレて終わること」じゃない。
ホモ?