この語はたいてい、経済力も地位もなく、恋愛市場でも敗北した男を指すラベルとして使われる。
要するに、敗者の烙印だ。だが少しだけ論理をひねってみると、この言葉はかなり妙な構造をしている。
まず観察してみる。弱者男性と呼ばれる人間は、社会的に支持してくれる集団をほとんど持たない。政治勢力でもない。文化的権威でもない。メディアの後ろ盾もない。企業のマーケティング対象ですらないことも多い。
つまり、社会のほぼすべてのプレイヤーが「味方ではない」状態に置かれる。
この構図をゲーム理論っぽく書き直すと、プレイヤー1対プレイヤーNのゲームになる。弱者男性 vs 社会全体。
フェミニストには巨大な言説ネットワークがある。大学、出版社、メディア、NPO、SNS。
自称強者男性には企業組織、収入、社会的地位、しばしば家庭という同盟がある。
対して弱者男性はどうか。
彼らは単騎だ。援軍はほぼ来ない。むしろ四方から批判が飛んでくる。
「努力不足だ」「性格が悪い」「男のくせに弱い」「社会の寄生虫だ」。
ここで少し冷静に考えてみる。
もし本当に「弱い」存在なら、社会全体から石を投げられ続けたらすぐに消えるはずだ。生態学で言えば絶滅だ。
ところが現実には消えない。今日も普通に存在している。仕事をし、税金を払い、ネットで愚痴をこぼしながら生き延びている。
1対多数の戦いを継続できる個体は、普通は弱くない。むしろかなり耐久力が高い。
プレイヤー1人に対して、ボスは全方向から攻撃を受けても倒れない。
弱者男性とは、社会的ステータスの定義上は「弱者」だが、ゲームの構造上は「ボスキャラ」に近い。
フェミニストや自称強者男性が怒りながら弱者男性を叩く光景は、実はこう翻訳できる。
それでも単騎プレイヤーはまだゲームからログアウトしていない。
この状況を「弱者」と呼ぶのか、それとも「猛者」と呼ぶのか。
社会はよくこう言う。
弱者男性は弱い、と。
だがゲームの構図を正直に書くなら、こうなる。