TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 11月大阪公演『仮名手本忠臣蔵』大序〜七段目、『靱猿』 国立文楽劇場

11月公演は、『仮名手本忠臣蔵』大序〜七段目までの通し上演。コロナ禍以来、初の終日通し演目企画。大阪では久々の二部制だったこともあって、文楽を代表する大作らしいボリュームを感じた。そして、以前に通し上演された頃とはいろいろなことが大きく変わってしまったことを実感した舞台でもあった。

 


今月は、「殿中刀傷」がとても良かった。
高師直〈吉田玉志〉と塩谷判官〈吉田和生〉の芝居の掛け合いの密度がもたらす高い緊迫感、高潮感。
和生さんの塩谷判官の技術レベルとおぼっちゃま大名らしい品格、優美さには文句のつけようがない。ただ、頭よさそうすぎて軽薄感がないため、塩谷判官単独では、いかに「不測の事態」が起こるかという説得力に欠ける。今回は高師直が玉志さんだったため、(演技としての)頭の良さそうさが塩谷判官を上回っていた。そして、端正さと気品を主軸とする演技的特性が一致したゆえの高度な補い合いが発生し、いままで見た「殿中刀傷」において、塩谷判官が刀を抜くに至る心理描写がもっとも上手く行っていた。
玉志さんの緩急の強さとスピード感に塩谷判官がつられることで、緊迫感がいっそう増していた。もともと和生さんも緩急のメリハリが強い人だが、より一歩前に出た感じ。お!和生さんが踏み込んだ!!と思った。普段の配役(?)でやると、高師直より塩谷判官のほうが高い精度で芝居をしているために目を引いて、塩谷判官が刀を抜く準備をしているのが見えちゃうのよ。肩衣の内側に手を差し入れて跳ね上げる準備をしているのとか。でも、今回は高師直の振る舞いが派手で速度もあったため、塩谷判官に目がいきづらくなり、判官がいきなり抜刀したように見えた。むろん人形遣いはすべて計算でやってるんだけど、それらが計算でなく感性、偶然としての突発的な出来事に見える。技術力が高い人が少ない中、玉志さんを高師直に使うのはもったいないと思っていたが、玉志さんが高師直で良かった。

 

「殿中刀傷」以外でも、「恋歌」は今回は独特の味わいが出ていたし、あるいは近年の上演では首を傾げる部分が多かった「判官切腹」も整理が行き届いて浄瑠璃としての立体感・完成度が上がっていた。「一力茶屋」の由良助〈吉田玉男〉・斧九太夫〈桐竹勘壽〉の出る場面も良い。

ただ、全体としては、舞台の密度のムラが激しいというのが一番大きな印象。通し狂言の場合、段の機能による粗密のムラが出るのは当然だ。派手な場面がある分、つなぎや説明でしかない段は確実に存在する。しかし、今回は段の内容に関係なく、出演者の技術レベルによる粗密が大きく出ていた。
密度が高い段は非常に解像度が高く、精緻な表現によって浄瑠璃の文章以上の物語が舞台上に出現している。しかし、そうでない段は、「これ今なんの時間?」のような状態になっていた。そのため通し狂言企画にもかかわらず、物語がブツ切れ状態になっており、「忠臣蔵」がここまで「見取り」になってしまうのかと感じた。
「見取り」に見える理由は、たとえ語りなり演技なりが大きくバタバタしていても、あくまでつまみ食いでしかなく、踏み込んでいないからだろう。芝居として、人物の内面、相手役、そして物語に踏み込んでいない。それゆえ観客の心にも踏み込めない。そういう場面がしばしば……、結構……、あるように感じた。その細切れ部分があるため、全体もつまみ食い、すなわち見取り的な見え方になっているのだろう。「通し狂言」は、通し上演すれば「通し狂言」になるわけではないのだなと思った。

今月のプログラムの技芸員インタビューは、清介さんだった。そこで、清介さんは、「三代名作の通し上演は、その時の文楽座の力を全部出し切って、『今の力はこれです』とお見せすることでもあります」と語っていた。良くも悪くも、まさにその通りだと思った。

 

 

 

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以下、個別の段の感想。思ったことそのまま書き太郎の素朴感想です。

第一部、大序 鶴が岡兜改めの段〜恋歌の段〜桃井館力弥使者の段〜本蔵松切の段〜下馬先進物の段〜腰元おかる文使いの段〜殿中刀傷の段〜裏門の段〜花籠の段〜塩谷判官切腹の段〜城明け渡しの段。「鶴が岡兜改め」から「本蔵松切」まで人形黒衣。
相対的に第一部のほうがまとまっており、時代物の大作らしい風格が出ていた。端的には、手慣れた上手い人が第一部に集まってるからだと思う(そのまんますぎ)。

 

「兜改め」、黒衣だと、人形遣いの技術が顕著に見える。傾いている人形がいる。人形が傾いている人はいつも傾いている。

 

「恋歌」が良かった。「恋歌」が良いってなんやねん、この段説明しかおまへんがなと思いきや、高師直と顔世御前〈豊松清十郎〉のやりとりに世話物の密室劇のような密度があった。二人だけで会話しているシーンなので、このやり方は確かにありえるが(というか、結果的にこうなったのだと思うが)、雑に流されがちな段のため、新鮮に感じた。
高師直は鋭さの中に気品が強く滲み、ノワール映画調。ミキモトのブラックパールのごとき気品とクールさのなかに、針のような悪意、他者をモノとしか思っていないドライさが鋭く表現されていた。
品格への意識が通常の役以上に強く、所作が大変美しい。「恋歌」の最後で、高師直は下手へ退出する直義に向かってお辞儀する場面がある。下手へ向かってお辞儀する役は非常に珍しいが、そのお辞儀の姿勢が非常に綺麗。「殿中刀傷」の塩谷判官とのやりとりで、激昂する塩谷判官を制止する際に扇を当てないのは過去配役時と同様。非常に品のある手法。しかし、今回はやや「芝居」らしいまとまりが出ている。これまで玉志さんのいろいろな役を見てきたが、役への探究心、こだわりの強さによる表現レベルは非常に高くありつつ、それが求道的になりすぎたり、内面へ向かいすぎたりするケースがあった。しかし、今回は和生さんの塩谷判官がそれを「芝居」の世界へ引き戻していたと思う。『一谷嫰軍記』の熊谷役もそうだった。和生さんが相模を演じたときは雰囲気が変わった。和生さんは、玉志さんがなにをやりたいのかを理解して、受け止めたうえで、より良い方向へ寄せていってくれるんだろうなと思う。和生さんは細かい演技もしっかり受けてリアクション返してくれるし。そして、あまりに内へ内へと向かうのを引き留めて、お客さんが見るための「芝居」の世界へ呼び寄せてくれるのだと思う。また、和生さん玉志さんは「演技の振り出しができる人」同士の組み合わせでもある。和生さん玉男さんの組み合わせは、お互い慣れすぎていて「おかーさんとボーヤ☺️」になる場合もあるが、序列の異なる玉志さんだと程よい緊張感があるのも良いな。
それにしても、玉志さんが悪役をやると、スパダリになる。Super Darlin'。松永大膳(祇園祭礼信仰記)、藤原時平(菅原伝授手習鑑)、蘇我入鹿(妹背山婦女庭訓)など、現代的に颯爽としつつスケール感のある色気をたたえている。と言うと古典芸能批評っぽいが、それスパダリだよ! 松永大膳や藤原時平がスパダリなのはわかるが(社会的属性や性根が本当にスパダリだから)、高師直までスパダリ。そうだったのか世紀末。憎々しさが強いわりに清潔感が炸裂しすぎて全くキモくないせいだと思うが、かなり独自の方向へ吹っ飛んでいて、すごかった。一応書いておくが、松永大膳のスパダリ感、藤原時平のスパダリ感とは完全に区別した上での高師直なりのスパダリだった。どんだけスパダリの幅あるねん。
余談ながら、セクハラ感はまったくなかった。普通にスパダリが口説いているシーンに見えた。そうきたか。逆に、セクハラキャラではないのに所作がキモすぎて、直視しがたい役があった。どういうときに誰に対してどの程度の距離感で何をするかの判断ができていないゆえのことだと思う。電車でいちゃついてる「うわ…(ドン引き)」なカップルを見たときの「うわ…(ドン引き)」感。その方は以前からこの手の演技が何度もあり、さすがに名指しできないが、役柄と違うキモさが出ているのはまずいので、まじで誰かなんとか言ってやってくれと思った。

「鶴が岡兜改め」の顔世御前は、人形がかしぎすぎて動きが不自然になっており、場や役割に合っていなかった。しかし、「恋歌」「花籠」「判官切腹」は病的な佇まいが彼女の深い懊悩として非常に良い方向に出ていた。救いようのない後悔の念が強く滲んでいたのが良い。
前述の通り、「恋歌」は世話物の密室劇のような心理的陰影を帯びており、顔世御前の困惑が「物語を動かすための舞台装置」にならない深刻さがあった。むろん、本題はそこではないので、見え方として顔世御前の内面にフォーカスされすぎてもまずいのだが、高師直にキッショいウエットさがなかったため、全体がノワール調に寄って、ちょうどよい塩梅だったと思う。「恋歌」で高師直に艶書を返す所作が、投げ捨てではなく、目を逸らしながら手すり(地面)にスッと差し出す方式なのも清十郎さんらしく、清楚だった。

 

「力弥使者」「本蔵松切」「下馬先進物」は端正な雰囲気。
それは、本蔵〈吉田玉佳〉の折り目正しくさらりとした造形によるものだろう。こういうジジイ、古典芸能の会場とか老舗百貨店にようおる。本蔵らしい気の強さにはやや欠けるものの、老齢らしい端正な品があった。20年くらい前の古いデザインの背広着てても清潔感ある的な。
小浪〈桐竹紋吉〉は恋の表現は良いがフォルムがデカい。バレーのオリンピック選手のようだった。おぼこ感は残しつつ箱に入る感じで頼むわ。
「力弥使者」の冒頭に出てくる奴が私に水をかけてきた。生意気。

 

「殿中刀傷」の素晴らしさは前述の通り。緊迫感と端正さのある、文楽らしい段だった。

 

「文使い」「裏門」は、かなり「?????」な状態になっていた。相当に散漫。話をトータルでどう見せたいのかがわかっていない人が一気に固まってしまう場面はどうにもつらい。登場人物が物語のなかでどのような位置付けになっているのか、まじでわからん。ほかの段だと、重要な役を担った「他の人」がそのうち出てくるので、ある程度流せる。ただ、「文使い」、そして特に「裏門」は、「他の人」が出てこないので、「?????」が集約されてしまった感があった。

 

「判官切腹」は、近年の上演だと、床に首をかしげることが多かった。「静謐」の表現に難があり、登場人物のパワーバランス、品格の序列の整理がついていないことが多く、状況が意味不明になり、緊張感に欠けるケースが多かった。そして、何度も書いているが、この段、近年の配役だと、薬師寺の「性悪」を「品がない」と混同した状態になっている場合が極めて多い。今回はその点がクリアされていた。静かさ、序列への意識は文楽の表現に必須ながら、いまの中堅以下に欠けている要素であり、それぞれの研究が必要だと思う。

玉男さんの「判官切腹」の由良助は、あの場に入ってきた時点で、完全にすべての覚悟を決めているよなぁ。良い意味で、走って入ってきているように見えない。いや、走ってはいるんだけど、自分の感情のために大急ぎしているのではなく、いちはやく塩谷判官を安心させるために急いでいるように見える。すべての結果(=最終的に高師直へ報復して自分は切腹)がわかってここに来ているように思える。どこか落ち着いていて、堂々としている。玉志さんは、塩谷判官への心配と由良助自身の焦りとで、本当に急いで走ってきているように見える。塩谷判官が死ぬ結果はわかっているが、その先がまだぼんやりとしか見えていないような青さがある。玉男さんの由良助も玉志さんの由良助も、基本的に左と足は同じ人だと思う。それでここまで違って見えるというのはすごい。
塩谷判官が切腹したのち、ひとしきり暴言を吐いた薬師寺〈吉田玉輝〉が休息のため上手の間へ入るくだり。この直前、上手を向いていた由良助が下手へ向き直る演技がある。その際、振り返る際に由良助が薬師寺へ投げかける眼光の鋭さに、薬師寺がビクッとすることに気づいた。これより前に薬師寺の暴言に力弥が立ち上がろうとする場面があるが、そのとき由良助はさっと手を差し出して息子を制止する。この場にはどうあっても逆らえない(逆らってはならない)社会的序列があることを表現する演技だ。しかし、序列があろうとも、由良助は薬師寺の態度を許しているわけではないことがわかる。
由良助は強い視線を持つ役として遣われるし、由良助をやるほどの人は自然な動きで振り返るのでこれまでは気づかなかったが、今回は薬師寺がかなりはっきりビビり演技をしていたので、所作の意味がわかった。今回は由良助玉男さん、薬師寺玉輝さんと、初代吉田玉男の弟子で配役されていた。ほかの配役でもこうしていたかは記憶にないが、玉男さん玉輝さんのタイミングがしっかり合っているところを見ると、初代玉男が弟子たちに「ここで由良助は薬師寺を睨むんやで」と教えていたということなのかな。

石堂右馬丞〈吉田簑二郎〉は、塩谷判官の死骸を検視したあと、懐に差していた上意書をその上に置く。その際、上意書の置き方が場合によって別れる。①扇子を敷く ②扇子の要を壊して長方形状に大きく広げた上に置く ③扇子を敷かずに直接置く の3パターンがあるが、今回は日によって①③が混在していた。なぜ? 左が小道具を出すのを忘れることがあるから、すべてが主遣いの考えとは言い切れないが……。

今回、大阪では珍しく(?)、「判官切腹」が「通さん場」に設定されていた。観客参加型の取り組みとしては面白いが(お客さん誰も「通さん場」だと気づいてない感あったけど)、緊張感のある演出効果のためという本来的なところを考えると、「通さん場」にするかどうかはほぼ関係ないんだよな。変なところで声をかける人、不適切な場所で拍手しちゃう人がいるから。
由良助が入ってくるところで拍手する人が出るのは、大阪では仕方ないと私は思っている。大阪はそういう街だからこそ文楽が成立しているともいえる。でも、段の頭で「待ってました」と声をかけるとか、最初の塩谷判官の出や最後に諸士のツメ人形が退出するところで拍手するのは、ダメだと思う。あまり言いたくないが、なぜダメなのかわからないなら、かけ声や拍手は控えるべきだろう。「判官切腹」は、上演中の声がけや拍手は自由という「タテマエ」は「嘘」であることを示す、典型的な段だと思う。

 

 

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第二部、山崎街道出合いの段〜二つ玉の段〜身売りの段〜早野勘平腹切の段〜祇園一力茶屋の段。
第二部は、物語がひとかたまりのもの、ストーリーの流れとしてまとまらず、断片化して、その場その場になりすぎているように感じた。「その場その場」に面白さを出すことそれ自体が悪いわけではないが、浄瑠璃に沿って物語を牽引できる人(床でも人形でも)が軸として出ていないと、場面ごとにバラけて散漫になる。さっきの場面と話つながってないよね的チグハグが多かったように思う。

第二部で一番気になったのは、物語のターニングポイントとなる場面で、重要な人物が「自分で自分の行為をどう意識しているか」の描写が薄いこと。
五段目で、勘平〈桐竹勘十郎〉が定九郎〈吉田玉勢〉の死体から財布を抜き取るとき。七段目でおかる〈吉田一輔〉が鏡で由良助の手紙を盗み見るうち、簪を落とすとき。このとき、彼や彼女は、世間的には「悪」「不道徳」とされる行為をしている。しかし、その行為をすること、あるいは露見することに煩悶やビビリがない。リアクションにそれまでの場面との差がないのだ。
勘平やおかるを、自分のやっていることの良し悪しがわからない「民度」の低い「バカ」(=そのために周囲までが巻き込まれるような悲劇が起こる)としてやっているなら、フラットなのもわかる。事実、勘平やおかるは、「バカ」の部類だろう。ただ、今回の場合、そういう演技設計による意図的なものではないだろうな。これが脇役なら、多少内面描写が薄っぺらくなっても気にしないけど、彼や彼女は重要な役なので、役柄の研究を深めて欲しい。
勘平の場合、「下馬先進物」で出てきたときから程度の低い行為を何度も繰り返しはするものの、財布の抜き取りは最大の致命的な「過ち」だ。後戻りができなくなる運命上の重大な「過失」なので、そこをどう表現するかは重要。似たようなしょうもねぇカスムーブ男でも、『冥途の飛脚』の忠兵衛の場合、「不道徳」な行為、運命を引き返せなくなるとき、ドラマの頂点が「封印を切る行為」で一致しているためわかりやすく、演技としてもやりやすいだろうが、勘平はそこが細かくバラけており、段階を踏んでいるから、難しいんだなと思った。いや、段階を踏んでいて、だんだん追い詰められるからこそドラマとして面白いんだけど……。
また、原郷右衛門〈吉田玉也〉と千崎弥五郎〈吉田文哉〉がおかるの実家へやってきたときの勘平の内面の表現がないことも気になった。勘平はここが運命の分水嶺だとわかっているはずだ。この時点で岐路のひとつとして切腹を覚悟しており、それは、裏門で焦って切腹しようとするときのようなとってつけではない深刻さを伴ったものなのではないか。少なくとも、人形待ちはもっとたっぷり間合いをとったほうがいい。勘平という人物ではなく、人形遣い自身が、人形待ちで待たせることを焦って気がそぞろになっているように感じられた。髪を撫で終わったあとなど、動きを一度止めるところを作ったほうがいいのでは。
おかるについては、勘平の死を知る前と知った後の変化が薄い(文章で指定されている動作以上のものがない)のも違和感があった。おかるの人格については解釈が別れるので、茶屋勤めをしてからは別に勘平のことはどうでもよくなっているという理解ならそれはそれでいいのだが、前述の通り、軽薄さを見せる意図は感じなかった。
いずれにしても、ターニングポイントの意識とそれをきっかけとした心理描写の重要性、難しさを感じた。

 

「山崎街道出合い」〜「二つ玉」で描かれる山崎の山中のくだりは、視界に合わせて文章が書かれている。視点となる人物から、周囲や相手がどれだけ見えているかが描写に反映されているのだ。「山崎街道出合い」で勘平と千崎弥五郎が出会うところは、千崎が提灯を持っており、お互い旧知のため、状況の描写が明瞭に書かれている。しかし、「二つ玉」で与市兵衛と定九郎が出会うところでは、与市兵衛が急ぎ歩いているのは暗闇だという文飾になっている。夜の山道であることに加え、おかるや勘平を想って視野が狭まっているため、彼の目の前は暗く見づらい状態だ。そのため、与市兵衛がどのような人物に話しかけられているかは地の文章に一切書かれていない。セリフの文体のみで定九郎の異様さや不気味さが表現されている。与市兵衛を殺したのが何者かわかるのは、勘平に撃たれた瞬間だ(それでも名前のみ)。
このあたりの文章構成を利用した演出ってできないのかな。見えない中での定九郎の恐怖とか、子供のためそれに抵抗しようとする心理とか。いまの「観客だけがすべてを目撃している」という見せ方自体は面白いんだけど、もう少し、場がどういう状況なのか、登場人物がその場を五感でどう感じているかを意識した踏み込みが欲しいと思った。いまの演出は歌舞伎の流用であり、「派手でおもしろいでしょ」ということだろうが、人形・床ともに、「与市兵衛は弱々しいおじいさん」「定九郎は派手な悪役」以上の深掘りができないかなと思った。難しいか。この段、みんな別にどうでもいいと思ってそうだし。

人形さんはそれぞれの人、精一杯頑張っていると思う。ただ、定九郎の左、手を差し出す位置が全体的に低すぎる。肩の横に出てしまっていて、定九郎の物理的大きさや若さが出ていない。人形の大きさや主遣いが右手を差し出す高さを意識して欲しいし、周囲も言ってあげて欲しいと思った。

いのししにお客さん誰も笑っていなくて、かわいそうだった。

 

身売りの段〜早野勘平腹切の段。
『仮名手本忠臣蔵』は、「三大名作」だから「スゴイ」のではない(「三大名作」という言葉は歌舞伎での上演回数が多い義太夫狂言を指している)。文楽の『仮名手本忠臣蔵』が名作なのは、浄瑠璃そのものの完成度が高いからだ。
『仮名手本忠臣蔵』五〜六段目の勘平が切腹に至るくだりは、浄瑠璃の文章そのものを読むと、傑作である。芝居において、女で失敗する薄っぺらい色男は一種のテンプレ、「よくあるキャラ」だ。しかし、勘平はほかの浄瑠璃に登場する、物語に置かれたコマでしかない数多の色男役とは異なる。彼が「その他大勢の人形」と違うのは、いまの状況はすべてが自分のなしたことの結果であり、言い逃れのしようがない状況で、誰にも助けを求めることもできず、また誰も助けてくれず、どんどん追い詰められて、「無駄死に」していくという心理劇が描かれている点だ。そこに勘平というキャラクターと、五〜六段目の面白さがある。主人公が「愚劣」な人物だという造形は、スター興行を旨とする演劇ジャンルにはできない設定であり、語りそのものや人形にすべてを負わせる文楽の魅力を最大に引き出せる物語でもある。

ただ、実際の舞台が、浄瑠璃自体よりも面白いと思ったことはない。むしろ「駄作」だと感じる場合が多い。それは、勘平の陰影の表現や内面描写がなされていないからだろう。
人形に限って言えば、和生さん、勘彌さんの勘平は上手い。何も考えていなかっただけの「普通の人」が悲劇に巻き込まれる過程を、高潔な悲劇として美的に描いている。その点においては芝居としても綺麗にまとまっており、節目節目の心理描写も的確。真面目な美男子としての勘平の陰影もよく描かれていて、彼らのパフォーマンスは賞賛に値する。何も考えていない人は世の中に数限りなくいるのに、彼だけが地獄へ落ちてしまう。それは偶然なのか、必然なのかという問いかけが成立している。

それはそれで良いんだけど、私が本当に五〜六段目に求めたいのは、「小心者の惨めさ」なんだよな。勘平の転落はすべて自己責任だ。かわいそうな偶然の重なりではない。考えのないその場その場の行動による愚かさの積み重ねによって必然的に地獄に落ちるのだ。自業自得、因果応報。私はその救済のなさに『仮名手本忠臣蔵』らしさを見出す。だから、勘平の自分への甘さ、運命への怯え、惨めさを描いて欲しいのだ。

そういう意味では、私は、勘十郎さんは「オドオドした小心者」が上手いのではと感じており、勘平は適役なのではと思っていた。しかし、勘十郎さん自身にはその自覚(=自分の特性をいかして勘平の内面描写を深める)はないのだなと思った。こういう部分で、自分の個性を引き出すよりも、ある意味誰にもでもできる表面的なことをしてしまう=端的には切腹後を大袈裟な演技にするという自縛にとらわれているのが、勘十郎さんの個性であり、強みであり、弱さだというのを改めて実感した。なんか……、本当、もったいないよな……。ご本人は自分のその弱さ、ナイーブさを引け目に感じていて、「そんなことしたら地味になってしまう」と思っているんだろうな。でも、弱さって、玉男さんも和生さんも、他の誰も持ってないものだから。それこそ誰にも真似できない勘十郎さんの個性だと思う。自分の良いところって、やっぱり、自分ではわからないんだなと思った。(すべて私の想像に基づく類推)

現状、私が理想とする路線でいうところの勘平像描写が一番上手いのは、清十郎さんだな。最悪の悲劇が待っていることを自覚しているような異様な暗さ、惨めさ。本当は武士に戻りたいなどと思っていないのではないか、おかるのことすらどうでもいいのではないかという陰鬱さ。清十郎さんはいつか自分が転落することを常に不安に思っていそうだから、妙にリアリティのある「負の方向へ惰性でどんどん引きずられていく」的な勘平像がうまくいっているのかな。今後、勘平役がどうなっていくかはわからないが、もう一度、清十郎さんの勘平を見たい。

 

「身売り」の口入・一文字屋の出で長唄が入っていた。見取り上演だとお囃子のみで長唄は入らないと思うが、通し上演で七段目に長唄をアサインしているから、ついで? 『忠臣蔵』の通し上演が久しぶりすぎて、前どうだったか、忘れた……。ただ、歌っている人自体は複数であるものの、同じ部のなかに何度も長唄が入ることになるため、またかい感があったのも事実。六段目と七段目を取り出して上演しているがゆえの違和感か。

 

玉男さんの「一力茶屋」の由良助は、良すぎ。色里での「やつし」芝居を楽しむいかにも前近代的場面ながら、映画的なリアリティを伴った現代的な上手さがある。
一番良いのは、おかるに手紙を盗み見されたときから、目つきが変わること。由良助の目は無機質な殺意に満ちている。松王丸や熊谷とはまた異なる心の見えなさだ。「かわいそうだが止むを得ない」という御涙頂戴の大時代的ニュアンスはなく、目的を害する軽薄な邪魔者をすみやかに排除しようとする冷徹な意思を感じる。それ自体は「大義のためには犠牲を厭わない」という浄瑠璃によくいる知的な男性キャラのテンプレでもあるが、玉男さんの場合、影の濃さと鋭さに独自性がある。影というのはうら寂しさといったような人格的陰影ではなく、冷徹さ。人間の俳優でいえば成田三樹男のような。このあたり、玉男さんらしい分厚い強靭さがあった。あと、意味不明の紫の着付も玉男由良助だと似合うのが良い。あんな変な服似合うの、玉男さんしかいない。今何か失礼なことを言ったような。
由良助が顔世御前からの手紙を読む直前、釣行燈から油を取って(?)鬢に撫で付けていた。どういう意味なのだろう。

しかし、場面によるクオリティの粗密が一番激しかったのがこの段。もともとシーンの切り替わりが多い段ではあるが、「これ、何の時間……?」と感じるところが多かった。居酒屋でコース頼んだら、一番の売りの刺身は良かったんだけど、料理が出てくるのにやたら間があいて、解凍しきれていない冷食の唐揚げを出してきたり、ひとり一個ずつのはずの小鉢料理の数が人数分なかったり、みたいな……。
簑助さんが引退したとき、今後の七段目は決定的に違うものになるだろうと思っていたけど、想定していた以上のものを感じた。あのときと同じような部構成で上演しているのに、客入りも全然違う。いろいろなことを考えた。

 

 

 

  • 義太夫
    • 大序 鶴ケ岡兜改めの段(御簾内)
      竹本織栄太夫、豊竹薫太夫、竹本聖太夫、竹本碩太夫、竹本小住太夫/鶴澤藤之亮、鶴澤清方、鶴澤清允、鶴澤燕二郎、野澤錦吾
    • 恋歌の段
      師直 豊竹睦太夫、顔世 竹本南都太夫、若狭助 豊竹靖太夫/竹澤團吾
    • 二段目 桃井館力弥使者の段
      豊竹希太夫/鶴澤友之助
    • 本蔵松切りの段
      豊竹芳穂太夫/野澤錦糸
    • 三段目 下馬先進物の段
      豊竹亘太夫/鶴澤清公
    • 腰元おかる文使いの段
      豊竹睦太夫/野澤勝平
    • 殿中刃傷の段
      豊竹呂勢太夫/鶴澤清治
    • 裏門の段
      竹本小住太夫/鶴澤清馗
    • 四段目 花籠の段
      豊竹藤太夫/鶴澤清友
    • 塩谷判官切腹の段
      切=豊竹若太夫 鶴澤清介
    • 城明け渡しの段
      [前半]豊竹薫太夫/鶴澤清允
      [後半]竹本聖太夫/鶴澤燕二郎
    • 五段目 山崎街道出合いの段
      竹本碩太夫/鶴澤寛太郎
    • 二つ玉の段
      豊竹靖太夫/竹澤團七、胡弓 鶴澤清方
    • 身売りの段
      竹本織太夫/豊沢藤蔵
    • 早野勘平切腹の段
      切=竹本錣太夫/竹澤宗助
    • 七段目 祇園一力茶屋の段
      由良助 竹本千歳太夫、力弥 竹本碩太夫、十太郎 竹本津國太夫、喜多八 豊竹咲寿太夫、弥五郎 豊竹亘太夫、仲居 竹本聖太夫おかる 豊竹呂勢太夫、仲居 豊竹薫太夫、一力亭主 竹本小住太夫、伴内 豊竹芳穂太夫、九太夫 竹本三輪太夫、平右衛門 竹本織太夫/鶴澤燕三(前)豊澤富助(後)
       
  • 人形
    足利直義=吉田文哉(吉田文司全日程休演につき代役)、高師直=吉田玉志、塩谷判官=吉田和生、桃井若狭助=吉田文昇、顔世御前=豊松清十郎、奴関内=吉田玉路、奴可介=吉田和馬、加古川本蔵=吉田玉佳、妻戸無瀬=吉田簑一郎、娘小浪=桐竹紋吉、大星力弥=吉田玉翔、鷺坂伴内=吉田簑紫郎、早野勘平=桐竹勘十郎、腰元おかる=吉田一輔、茶道珍才=桐竹勘介、原郷右衛門=吉田玉也、斧九太夫=桐竹勘壽、石堂右馬丞=吉田簑二郎、薬師寺次郎左衛門=吉田玉輝、大星由良助=吉田玉男、千崎弥五郎=吉田文哉、百姓与市兵衛=吉田勘市、斧定九郎=吉田玉勢、与市兵衛女房=吉田勘彌、一文字屋才兵衛=桐竹紋秀、めっぽう弥八=吉田玉延、種ケ島の六=吉田簑悠、狸の角兵衛=吉田玉征(前半)桐竹勘昇(後半)、一力亭主=吉田簑太郎、矢間十太郎=桐竹勘次郎、竹森喜多八=桐竹亀次、寺岡平右衛門=吉田玉助

 

 

 


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第二部の頭に、『靱猿』が入っていた。

いらんわ。こんな露骨な人数稼ぎ演目、おかしすぎるだろ。客を舐めてんのか。

というのが企画に対する正直な感想だが、今回は特殊演出による上演となっており、通常、男性の人形で演じられる「大名」を、「女大名」として女性の人形(おふく)に差し替えていた。これは良かったと思う。昭和の新作(同然)演目だと、これくらい奇抜なことをしないと面白くない。

出演者のレベルが高く、上演クオリティ自体は高かった。人形は無駄遣いとしか思えない配役だった。真面目な人が大集合して、いかにも狂言風のやばい真面目オーラを発していた。

さる〈吉田玉彦〉は自分勝手系アニマルだった。一匹だけ独自の時間軸や目線で動いていた。本物のアニマル同様、こちらに目線を合わせてこない(=客席のほうを向かない)。自分が見たい方向を見ていた。食う柿の数はアドリブのようだった。ただし、姿勢は若狭之助よりシャキッとしていた。なんでや。

しかし、大名〈桐竹紋臣〉が上手から矢を射る演技は振り付けとしてやはり無理があるな。このレベルの人(紋臣さん)がやって無理なら、誰がやっても無理だろう。本来の振り付けでは左遣いが人形の前に立たないよう、客席に対しやや振りをつけて弓をかまえる指定がされているはずだが、今回は真横にしていた。左の避け処理がうまかったので邪魔とは感じなかった。中途半端に斜めにするよりは松葉目的な様式感が出ていて、その点は工夫が感じられた。

自分が観たのは初日から1週間程度後だったためか、演奏にバラツキがあり、こなれ感がないのがやや気になった。もともと散漫な内容だからかもしれないが、なかなか大変なのだろうなと思った。

 

  • 義太夫
    猿曳 豊竹藤太夫、大名 豊竹希太夫、太郎冠者 豊竹咲寿太夫、ツレ 竹本織栄太夫、竹本文字栄太夫/鶴澤清志郎、鶴澤清𠀋、野澤錦吾、鶴澤燕二郎(前半)鶴澤清允(後半)、鶴澤籐之亮

  • 人形
    大名=桐竹紋臣、太郎冠者=吉田玉誉、猿曳=吉田簑二郎、猿=吉田玉彦

 

 


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冒頭に書いた通り、いまの文楽の「良くも悪くも」が非常に強く感じられる公演だった。
良い場面は良い。そうでない場面はそうでない。その分断が、この演目の、通し狂言にも侵入してきたのだと思った。

人形は女性の配役が難しいな。『仮名手本忠臣蔵』は、女性描写が浅い。そのため、自分で役を膨らませることのできる人が配役されないと、「こいつ、おる意味、ある?」になってしまう。
文章以上の描写をなしとげているという意味では、清十郎さんの顔世御前、勘彌さんのおかるママは押し引きの度合い含めて良かった。しかし、言ったら終わりではあるが、それよりももっと重要な役があるわけで、彼らをもっと良い役につければもっと面白くなったのでは?と思ってしまう。首をかしげる状態になっている役でも、左に上手い人が入っている場合もあり、その人は良かった。左は良かったとか、そんな話は一般論から隔絶しすぎていて、感想として成立してませんが……。

床は、今回は複数の場に出る人も多く、大変そうだった。そして、ベテランと中堅の差が出ている印象だった。
ベテランは良い。それぞれの人の長年の研究が舞台へ自然と滲み出ていることを感じた。「大作だから」「良い場面だから」などの気負いのなさからくる地に足のついた描写が良かった。
中堅・若手は、「心を込めて朗読しているんだなぁ」と感じる場合が多かった。本当に若い子はそれでいいんだけど、中堅が「声色」をつけすぎたり、「カギカッコ付き」でセリフを喋っているのは気になる。登場人物のほとんどが裏声になっていたり声の大きさばかり立ってしまうと、目立ちたがりの男子大学生が居酒屋で騒いでいるような聞こえ方になってしまう。これだと、聞くのが辛い状態になってしまい、もったいない。「声色」、「心を込めて朗読」は、鑑賞教室で「語り分け」を強調しすぎているがゆえの自縄自縛からきているのだろうけど、手段と目的が逆転していると思った。
文楽のお客さんは、出演者本人が思っている以上に丁寧に聞いていると思う。声色でない部分での「語り分け」をみなさんちゃんと知っているし、それを聞きに来ている。客をもっと信頼して欲しいと願う。客の顔色を見る必要はない。

 

口上の声量がクソデッケェ黒衣がいて、笑った。最近になって口上を任されるようになった人だろう。緊張してより一層デカ声になっているのだと思うが、段の雰囲気を考えずその声のデカさでやると太夫さん困っちゃうから、がんばれッ。と思った。口上はボソボソ調こそ好ましけれ。
そういえば、だいぶ昔、とある外部公演で、人手不足が超絶的に極まって、玉男様が口上していたことがあった。おいアイツ明らかに普通のツメ人形とちゃうど的な、よだれくりがやっとんのかという口上で、かなり良かったな。あれくらいの違和感があった。(?)

 

八・九段目を含めた完全通しにできなかったのは、残念。大序〜四段目と九段目を同じ日に上演しないと、『仮名手本忠臣蔵』にならない。九段目でなぜ本蔵があのような行動に出て、由良助へあのようなことを言うのかが重要なのだ。その「大きな物語」が綴じられていくことによって、そのはざまで運命の車輪に轢き潰される弱い人々の「小さな物語」もまた収斂してゆく。
同じ日に上演するとしたらこの配役ではいられなくなり、目玉となる段がガッチャガチャになるのは目に見えているが、通しでないことによる話の見え方の中途半端さのほうが問題だ。それにいますでに七段目がガッチャガチャになっているので毒を食らわば皿までじゃ。『靱猿』を抜き、10:00開演21:00終演でも全通しにして欲しかった。
仮にこの秋・正月2分割の上演形態でやるにしても、ここで切ると、勘平・おかるが物語の核心となり、責任重大となる。そのあたりの調整(要するに配役)に、工夫がいると思った。いまの状態だと、登場人物中、もっとも深い懊悩をしているのが顔世御前になっとるがな。

 

 


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展示室のモニターで、文楽劇場開場当時と、10周年記念時の全員出演『寿式三番叟』の映像が流されていた。
見てよくわかるのが、いまの人形遣いの技術レベルの高さ。特に左遣い。記念演目として人形全員出遣いで出演しているため、左遣いが誰なのかわかる状態になっていた。左遣いにはいまの幹部が入っているが、正直、「彼ら」よりも、今の大役の左を遣っている人のほうが上手いと思った。

10周年記念の映像では、いまの玉男さんが初代玉男の翁の左を遣っていた。なんか、すんごい、人形の正面を覗き込んでいた。なるほど、いまの玉男さんの客席正面から見たときの人形の見え方が綺麗なのは、若い頃からその意識があり、師匠がどう遣っているか、自分が遣っている部分がどう見えているかを耐えずチェックしていたからか。と言いたいところだが、実際のところはクソ邪魔だった。人形の前を遮るな!!!!!!!! いま人形の前に回り込むような遣い方をする左がおったら、「お前を見にきたんとちゃうわ!!!!! 引っ込めボケナス!!!!!!!!」とブチ切れるとこやわ。でもほかの左よりは上手い。和生さんと玉男さんだけ上手い。和生は当然前を覗き込んだりしないので完璧左。和生は若い頃からまとも。若い頃から顔が同じ(本当)(本当)(本当)。

記念演目の場合、「記念」であること自体が重要なので役が序列順となる。そのため、本来的な意味では役に対して不適格な配役になっている場合がある。体力的にもうその人形を持てない人が無理に配役されている場面も多々ある一方、初代玉男は爆裂上手くてめちゃくちゃに目を引き、やっぱりこの人、本当に上手かったんだなと思った。

 

 

 

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今回の会期中に、簑助さんが亡くなった。

自分が大阪へ行っていた日は、亡くなった当日7日と、その翌日8日、逝去が正式に発表された日だった。

文楽協会からの正式発表があり、報道へ出たのは、8日の夕方。五〜六段目の上演中だった。最初に出た報道直後に25分休憩が入ったが、当然ながら劇場ロビーへの貼り出し等はなく、来場されているお客さんのほとんどは気づいていなかったと思う。(休憩時間のツメ人形はメシを食うのに夢中なため)

七段目のおかるは、勘平の死を知らずに茶屋の軽薄な雰囲気に酔っている。お客さんも同じだと思った。みんなの大切な人だった簑助さんが亡くなったことを知らず、派手な演目を呑気に楽しんでいる。「むかし、この場面、簑助さん出とったよなぁ」という近くの席の人たちの話し声が、無性に悲しく感じられた。
そして、技芸員さんたちは幕が開く限り、人形のようにこの劇場に縛り付けられている。人形は自分の意思で動くことはできない。

簑助さんのおかるは、みんなのこころの中で、いまも、かわいらしく艶やかに微笑んでいる。

 

 

 

 

  • 第1部
    『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』大序 鶴が岡兜改めの段、恋歌の段、二段目 桃井館力弥使者の段、本蔵松切の段、三段目 下馬先進物の段、腰元おかる文使いの段、殿中刃傷の段、裏門の段、四段目 花籠の段・塩谷判官切腹の段、城明渡しの段
  • 第2部
    『靱猿(うつぼざる)』
    『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』五段目 山崎街道出合いの段、二つ玉の段、六段目 身売りの段、早野勘平腹切の段、七段目 祇園一力茶屋の段
  • https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2024/611/
  • 配役:https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/02_koen/bunraku/2024/202411haiyaku.pdf

 

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