TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 7・8月大阪公演『ひょうたん池の大なまず』『西遊記』五行山の段、一つ家の段 国立文楽劇場

第一部は「親子劇場」。

展示室にそもそも「西遊記」とはなにかという解説パネルが置かれるなど、おこさま客にも話が理解しやすいような施策がなされていた。
その登場人物紹介パネルを読み上げて子供に聞かせてあげていたお母さんが、
「三蔵法師の肉🍖食べると不老長寿になれるんやてッッッ!!!!!!」
と、独特のところに食いついていた。それは妖怪の発想。

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ひょうたん池の大なまず。

すみません、タイ(?)とウナギとなまずが同時に泳いでいらっしゃるようなのですが、この池はどういう生態系なのでしょうか。という謎の池「ひょうたん池」に住むクソデカなまずを釣り上げるべく、釣り人ごんべえさんが奮闘するという話。

魚類のうち、うなぎと、4連の魚の群れが良かった。
うなぎは、魚類のくせにかしらを遣って動いていた。冒頭部、ナレーションじゃなくて、うなぎが喋ってんのかと普通に思ってしまった。
4連の魚の群れ(4匹の魚を2x2の列にして、2本の棒の表裏に蒲焼き状に取り付けられた小道具キャラ)は、舞台の端までくると、瞬間的に裏返ってターンしていた。目にも止まらぬターンが「いかにも小魚」で、良かった。魚をよく観察している。玉志サンのような華麗で無駄のないターンだった。(魚類が玉志さんなのではなく、玉志さんが魚類なのか?)

魚類はなまず含め、種類によって個性があり、独特のおもしろい動きになっていて良かったのだが、人間は「?」だった。ごんべえさんがどんな人なのかわかるような、ふくらみを持たせた演技にしてほしかった。実際にはそうしたい、あるいは、そうしているつもりなのだと思う。しかし、人形が反りかえってしまっているとか、基本的なところでつまづいているように感じた。
陸上に上がったなまずとの絡みは、振り付けとして、いまなにがどうなっているのかがわかりづらく感じた。自由演技的な動きはセンスがもろに出るというのと、客席から遠い二重の上段(後方の高くなっている段)でやっていて見づらいというのと、黒衣を含めた人の重なりが見苦しく客席からの見え方をあまり意識していないのかなというのと。ごんべえがなまずにまたがるところは、見せ場のはずなのにもたついており、構図的にも見づらい。人形に対してなまずがちっちゃすぎというのもあるけど……。
演技が決まっている古典は、「なにがどうなっているのか」、誰がやってもある程度わかる型にされているんだなと思った。そして、この手の短編は、むしろテクニックで押し切れる人じゃないと厳しいなと思った。

演出全体についての感想は後述する。
さきにひとつ書いておくと、これ、「夏休み」公演で上演するんだから、舞台を「夏」にしたほうがよかったのでは。「今日はぽかぽかよい天気」とか、「春近し」とか、季節外れに感じる。文章を夏仕様へ変更し、ごんべえは汗を拭く、太陽を見上げ眩しそうにするなど暑そうな演技を入れたり、お弁当は池の水につけておいたすいかを食べるとか、虫はカブトムシやセミを飛ばすとか、季節感をいかした演出を入れたほうがよいのではないか。そういう、舞台と観客とにつながりを作ることに工夫がなされていれば良かったのにと思った。

 

ロビーに置かれていたごんべえさん。

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ごんべえのかしらは技芸員(勘十郎さん)私物。解説パネルの文章があまりよくわからなかったのだが、ごんべえのかしらは文楽劇場にも所蔵のない特殊な仕様でありながら、技芸員私物としては(今回舞台で使っているものと、ロビーに展示しているものとで)2つあるということか? かなり小ぶりなかしらだった。なお、ごんべえさんの衣装は、本編では紺色です。

 

ひょうたん池の生態系のみなさん





 

 

 

 


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解説 文楽ってなぁに。

毎年の課題かとは思うが、第一部自体が子供向けという企画意図を反映した解説だといいのにと思う。雅楽之助やお園で定番の型を見せても、型を演じる演目をやらないからなぁ。ごんべえさんに出てきてもらうなど、観客の興味を継続させる演出を入れたり、解説と舞台とを接続させるのが良いと思うのだが、と思った。舞台で使っている人形を解説で使用するのに抵抗がある方が多いということなのかな? 玉翔さんは自分の人形持ち込んでたことあると思うけど。

おこさま人形遣い体験コーナーは、主遣いの子が普通にうまかった。小学校低学年くらいと思われたが、人形の位置が高く、かしらがまっすぐ正面を向いていた。簑太郎さんが筋いいですね〜とか言ってたが、ほんまやで。一瞬手本を見ただけで介添えなく正しい位置まで人形を差し上げられるとか、天才か? 「おやおや〜☺️」って兄貴ヅラしてる後ろの4人(アシスタントが1人来た)よりうまいんちゃうか。近くの席の子だったので、お母様に「息子さん相当に才能ありますよ、将来の人間国宝です、こんどぜひ体験会へ遊びにいってみてください」と営業かけそうになった。文楽劇場の客席に湧くツメ人形の使命として。

プログラムの『文楽ってなあに?』の解説に、「(文楽は)テレビで放送される人形劇、あるいは学校などで演じたことのある人形劇とはどこが違うのでしょうか?」と書かれていた。しかし、残念ながらそれは説明していなかった。
地方公演や一般向け鑑賞教室では、文楽は「三人遣いだから」ほかと違うということをことさら強調している。しかし、それは手法の一形態でしかない。私は、本質はそこじゃないと思う。本質がなにかということが、このような子供向け公演、鑑賞教室公演では問われると思う。

  • 解説=吉田簑太郎(前半)桐竹勘次郎(後半)

 

 

 

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西遊記。

昨年に続く上演。今回は、孫悟空と三蔵法師の出会いを描く「五行山の段」と、山中の一軒家で妖怪に遭遇する「一つ家の段」。

昨年はあまりにレベルが低すぎて、「おはなし」の体すらなしていないことに呆れたが、今回はちゃんと「文楽の物語」であることが担保されたものになっていた。
詞章を「ちょっと難しめの昔話風の言葉遣い」にアレンジしているのが良かった。完全に現代語にせず、かつ「絵本調」にしすぎない、子供にもわかりやすい役割語的な仮想の「むかしのことば風」の温度感に調整されていた。また、その文章がある程度こなれているのも良かった。新作で擬古文(偽古文?)になっているものは、文の流れなどに違和感がある場合が多い。しかし、この作品は原作が存在するため、文章は流用・リライトがメインとなっており、不自然さは大幅におさえられていた(現行の『西遊記』は、幕末に作られた演目『五天竺』を原案としている)。「ぞくぞく(喜びの表現)」など、ほどよく古典ならではの言葉が残してあるのは雰囲気が出ている。
今年は最初から人形出遣いで演じており、通常の公演同等にされていた。配役もきちんとした人を据えていて、上演品質が保証されているのも良かった。

花火やSEといった「文楽にしては特殊」な演出はお楽しみにはなっているものの、古く見えると感じた。逆に、ぶっかえり・引き抜きのような昔ながらの演出を見てもらうほうがいいんだろうな。そういう意味では、ガブと早替わりを使っているのは良かった。NHKのインタビューでも、おこさま客が「娘さんが鬼になったのがこわかった!」とガブのことを話していた。伝統演出は、解説でも、「むかしからお客さんを驚かせる仕掛けはいろいろ考えられてきたんですよー」と話せるし。

 

前半、五行山の段。

あらすじ

岩山にある、封印の札が貼り付けられた巨岩。その下には、孫悟空〈吉田玉佳〉が天界を騒がせた罰として閉じ込められていた。そこへ旅の僧侶・三蔵法師〈桐竹紋臣〉が通りかかる。悟空が観音様から「尊い僧侶に救いを求めよ」と告げられたことを知った三蔵法師は、自らが観音様より受けたお告げとの符合を感じ、悟空を岩の下から救う。悟空は三蔵法師に付き従い、天竺への旅にお供することを誓うのだった。

雲海を望む岩山の書割を背景に、立体的な岩を積み重ねた舞台。岩には「封」と書かれた赤い大きなお札。岩の隙間(わりとスカスカ)から、悟空が上半身を覗かせている。三蔵法師は下手から歩いて出る。

悟空は、大道具の岩の隙間からちょこんと上半身を出していた。『出世景清』(復活演目)の、牢に閉じ込められた景清が、鉄格子を打ち破って出てくるシーンをイメージしているのか。悟空が岩からピョコっと出てきたとき、玉佳さんが「はわ〜!(やっと出られた!)」みたいな顔をしていたのが良かった。いや良くねえよ。
封印のお札は、マジックテープで貼り付けられていた。貼ってはがせるお札。観音様、サスティナブル。マジックテープがなくては文楽の舞台はままならない。ありとあらゆるものがマジックテープでくっついとる。マジックテープこそ観音様のご利生である。

三蔵法師はシュッとした佇まいで、紋臣さんにしては、かなり男性的な雰囲気に寄せられていた。そもそも若い男性役への配役自体、ほとんど見たことないが、高貴な佇まいや大人っぽさといった本来難しい部分もきちんと出ていた。
三蔵法師は徒歩だった。え? 馬は? 三蔵法師って、なんか白い馬に乗ってなかった? でも、たしかあの馬も「キャラ」の一人(一匹)で、なんかいろいろありがたい謂れがあったような気がするから、登場はもっと後なのかな……。あと、持っている笠が市女笠だった。節約を感じさせて泣けた。サスティナブルII。*1

原作にあたる浄瑠璃『五天竺』には、「五行山の段」と同一の場面はない。近年のオリジナル脚本ということかな。

 

後半、一つ家の段。

あらすじ

三蔵法師と悟空の旅は、はや唐の国の西の果てへ辿り着いていた。山中の谷間には一軒家が建っており、老婆〈吉田簑一郎〉と娘・芙蓉〈桐竹紋秀〉が2人で暮らしていた。美人の芙蓉は従兄弟の猪悟八〈吉田文哉〉から付纏われ、迷惑そうにしていたが、老婆が割って入り、猪悟八をぶん投げて追い払う。猪悟八は文句を言いつつ、木陰へ隠れる(ストーカーなので)。
そこへ、旅の僧侶が訪ねてくる。一夜の宿を乞う僧侶を老婆は快く迎え入れ、菓子を差し出す。ところが、菓子を口にした僧侶はたちまちに苦しみはじめる。実は老婆は旅人を襲う山賊であり、天竺への旅をしているという話を聞いて、僧侶の持っている路銀を奪おうと毒菓子を食わせたのだ。老婆がとどめの短刀を振りかざすと、僧侶は大猿へと変身する。実は僧侶の正体は孫悟空で、山中の一つ家が妖気を発しているのを怪しんだ悟空が、三蔵法師に化けて乗り込んできたのである。
悟空が老婆を打ち殺そうとしたところ、本物の三蔵法師が現れてそれを止める。三蔵法師は老婆に改心を勧めるが、老婆はその説諭をありがたいと思いながらも、罪滅ぼしに自害する。駆け出てきた芙蓉が母の死を嘆き悲しんでいると、木陰に潜んでいた猪悟八が「叔母の仇」と悟空に打ちかかってくる。奮闘する猪悟八だったが、悟空にとっ捕まって殺されそうになる。三蔵法師は、彼は観音様からお告げのあった仲間・猪悟能だと語り、妖怪の正体を映す鏡を差し上げる。すると、猪悟八はたちまち猪の化け物の姿をあらわす。三蔵法師は猪悟八に「猪八戒」という名前を授けて弟子にする。一行は八戒の案内で妖怪の住むという山へ向かうことに。
悟空と八戒は先に出発し、三蔵法師がそのあとを追おうとしたところ、芙蓉が三蔵法師にすがりつく。三蔵法師への恋を語る芙蓉だったが、三蔵法師はその正体を妖怪と見破る。数珠で頭を打たれた芙蓉は妖怪・銀角の姿をあらわし、あたり一帯は嵐で荒れ狂う。三蔵法師は仏の助けによって雲霧とともに姿を消すが、銀角はそのあとを追ってゆく。
岩山で悟空が三蔵法師を守護していたところへ、波間を泳いで銀角が追いついてくる。悟空が毛を抜いて吹きかけると、それらは無数の子猿と化す。悟空と銀角は戦いながら波の果てへ去っていくのだった。

下手に渓谷風の山水の風景の書割。舞台中央に、いわゆる「一間」のない、ワンルームのちっちゃなおうちの屋体。装飾、のれんなどはニセ中国風のしつらえ。
後半は大道具を転換して、岩山と急流の風景。舞台二重の中央に岸辺をあらわす巨岩、船底側は川の設定。

簡単ながらひとつの物語を形成しており、文楽らしい雰囲気のある段。山の一軒家に住む老婆、スケベ近隣住民、実は鬼女といういわくあり美女、川を泳ぐバケモノなど、文楽の類型にあたるキャラクターが登場する。登場人物の定型的なセリフ(喋り方)やクドキなど、文楽の定番表現が詰め込まれているのも良い。詰め込みすぎてものすごいちょっぱや感があるが、よく構成されたパッチワークだと言える。

 

老婆は莫耶のかしらで、基本的には『奥州安達原』「一つ家の段」の岩手御前と同じ考え方でキャラクターがつくられていると思う。
芙蓉は古典演目にはない特殊な結髪。高く結い上げた大きな平たいおだんごに、ビーズのちょうちょのティアラをつけた髪型にされていた。変に錦祥女と同じとかにしなかったのは賢明で、衣装も古典や史実考証にとらわれない現代的中華ファンタジー風のかわいい女の子キャラの仕立て。観客に一番伝えなくてはならない「かわいこちゃんキャラが実は化け物」というギャップがストレートに伝わる拵えだった。
猪悟八(猪八戒の人間時代)が文哉さんというのはそのまんますぎて笑った(失礼)。猪悟八自体は、なんか、こういうの、『国性爺合戦』でもおったよな。虎に襲われるやつ。というような見た目だった。

冒頭に登場する三蔵法師は、悟空が化けているという設定。人形自体は前段の三蔵法師と同じだが、人形を持っているのは悟空役の玉佳さんというギミック。私の席の近くに座っていたおこさま方はめざとく「さっきと三蔵法師役の人が違う!」と指摘していた。
三蔵法師に出されるお菓子は、文章では「干菓子」となっているが、まるっこくてピンクと緑色で、桜餅(道明寺)みたいな感じだった。『恋女房染分手綱』のご褒美のお菓子や『伽羅先代萩』の毒菓子とはまた違うものだが、これもどこかからかリサイクルされてきた品なのか。お茶用のお盆は、フチにラーメンどんぶりみたいなグルグル模様が銀色で描かれていた(想像上すぎる中国模様)。

いっぽう、本物の三蔵法師は、ババアに「今から心改めて仏の教えを守るならば、罪もやがて消え、極楽へ行くこともあるぞ」(床本原文ママ)とか言っていたが、「こともあるぞ」ってなんだ。なんでそんな曖昧な表現なんだ。仏の教えを守る=比丘に布施をする等だと思うが、早寝早起きとかだと思い込んで、行けなかったらどうしてくれるんだ。
三蔵法師が持っている鏡は……、この鏡、なんかこう、よく、奈良の山の中にも埋まっているような……。サスティナブルIII。

後半、銀角から逃れて岩の上に登った悟空と三蔵法師(と猪八戒)は、ピトッとくっついていた。お師匠さんをシッカリ守ってる!!と言いたいのだと思うが、カップルのようなくっつき方。阿曾次郎と深雪くらいくっついていた。三蔵法師の背中に悟空が手を回しているのは、よく言えばBL風なのだが、どちらかというと、飲みすぎて帰りの道端で吐いている友達を介抱している人状態になっていた。三蔵法師の前に堂々と立つ等にしたほうがいいな。

銀角は、「龍」と言いたいのだと思うが、なんか、蛇風の下半身が龍にしてはやや短めで、人魚みたいなことになっていた。スタバにおるやつ?みたいな? 水中を泳ぐのはともかく、それで山を登るのは大変だな。と思った。登ってたけど。あと、長さが中途半端なので、宙乗りのときはぶらぶらしないよう、悟空に持ってもらっていた。
銀角は後半、赤い毛の「鬼女」のかしらになり、毛振りをする場面がある。進行が速い場面なので回すのは数回程度ではあるものの、紋秀さんはしっかり安定して回せていた。泳ぎ、毛振り、宙乗りを連続してやるのはかなり大変だと思うけれど、不安定さや焦りはまったく見せず、ハリのある堂々とした見えになっていた。むろん娘のときは可愛く遣っていたが、鬼女になって以降は、この手の役の中性的な姿がうまく映えていた。紋秀さんに時々ある、過剰な力みもなく、役が役らしく見えていた。
紋秀さんは、芙蓉が銀角に姿を変えたあとは、『紅葉狩』や「戻橋」で使われるヤンキーの成人式風の特殊着付になっていた。あの着付、あまりに最高デザインすぎて、ミノジロオしか似合わんと思ってたのに、紋秀さんも妙に似合っていた。

最後の宙乗りは、悟空・銀角の2人でおこなうものだった。昨年のように宙乗りと本舞台とが中途半端に混在し、「どこ見たらええかわからん」とはならず、飛び去っていく2人を見守って幕となる形式で、視線誘導がスムーズだった。
銀角は、着付はそのままで人形を持つ通常の方法。悟空は昨年同様、人形遣いがたっつけ袴になった人形の下半身衣装を自身で身につけたうえで人形の上半身をかかえ、自分の足を人形の足として扱う手法だった。ただ、今年はそれがあまり効果的ではなかったかな。玉佳さんがちょっと「ぴえん🥺」となっちゃってたのもあるけど、そもそも空中で静止する場面がないので、足を強く踏み締める効果を見せる機会がない。悟空も普通に人形持って吊り上げで良かったんじゃないかな。タマカ・チャンがしっかりボディのため、レスリング選手かよっていうすげー体格よすぎの悟空になっていた。

 

「一つ家の段」は、原作『五天竺』にも同じ名前の段があり、内容もほぼ同一。文章もそこからの流用が多い。ただし、みどり的な上演でもスムーズに見せるためか、原作からは設定の簡略化・変更が行なわれている。
『五天竺』では、一つ家の女主人*2は無作為に金目当てで三蔵法師を襲ったのではなく、とある理由から元々三蔵法師を狙っていたという設定になっている。実は三蔵法師の父母は彼女の亡夫の敵であり、女主人は、訪ねてきたのが三蔵法師だと知ったからこそ殺意を抱いたのだ。むろん、三蔵法師の父母が女主人の夫を殺したのには理由がある。彼女の夫は盗賊で、赤ん坊のころの三蔵法師と父母が離別する原因を作ったのが彼であり、盗賊のために死んだ父母は艱難辛苦を乗り越えてあの世から蘇って云々……と、原作は、人形浄瑠璃らしい因果と運命が入り組んだ設定になっている。単なる山賊ババアになったのは近年の子供向け化による改変かと思いきや、明治時代の『五天竺』上演時のプログラムや番付(配役表)を見ると、その時点ですでに現行と同じ省略になっているようだった。
なお、末尾が途中で切れているように感じられるが、これは原作通り。『五天竺』でも、悟空と妖怪(『五天竺』では銀角ではなく悪龍という設定)が戦いながら観客の視界から見切れていくところで終わっている。

 

 

タマカ・ウィズ・サル

 

 

一つ家のみなさん。(ごめん。正直、猪悟八は完全に忘れたので、妄想です)

  • 義太夫
    • 五行山の段
      豊竹希太夫/鶴澤友之助、鶴澤燕二郎、鶴澤藤之亮(7/31休演)
    • 一つ家の段
      豊竹藤太夫/竹澤團七(7/31-8/6?休演、代役・竹澤團吾)
  • 人形
    三蔵法師=桐竹紋臣、孫悟空=吉田玉佳、芙蓉 実は 銀角=桐竹紋秀、猪五八 後に 猪八戒=吉田文哉、婆=吉田簑一郎

 

 

 

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今年の親子劇場は、『西遊記』の「一つ家の段」が良かったので、満足。
「一つ家の段」は、旅行先で有名店巡りをして名物をゆっくり食べることができなくても、おいしい名物がちょっとずつ詰められていて、さっと買ってさっと食べられるという、まるで駅弁のような手軽な仕立てで文楽らしさを楽しめる構造になっていた。常連客なら誰しも、ああこういうのよくあるよね、と思っただろう。「文楽プチ体験」として、よくできていると思う。
文楽らしさ、話のわかりやすさ、みどころの入れ込みやすさを考えると、このような「古典のアレンジ」は、文楽の新作の制作手法として、かなりベターなやりかたなのではないだろうか。本作は中国舞台だが、文楽らしさがもっとも発揮できる日本舞台で、このような作品が拝見できればと思う。

それにしても、「親子劇場」というネーミングをいまだに使い続けるのは、どうなのか。「キッズ文楽」にするとか、子供向けということがわかればいいのではないだろうか。

 

 

ここからは「新作」の制作一般についての話。
私は、文楽劇場の公演は、つねに「本物」を見せていることに価値と魅力があると感じている。
現代の文楽の一番よいところは、古典作品が高レベルで継承されており、かつ、上演の品質はおしなべて高く、観客もその形態を自然に受け止めた状態の興行が成立・継続できていることだ。古典を演じられる人がいないからもうできない、古典を見る客が集められないからもうできないという状況には至っていない。「本物」が成立し続けられている業種であることに、観客も誇りを持っている。
そのなかで、「本物」であることのクオリティを保持しつつ、「本物」の幅をいかに拡張できるかが、子供向け公演および「新作」の課題だと思う。文楽の場合、常演している古典演目へ来場してもらうことが子供向け公演(初心者向け公演も含む)や「新作」上演の目指すべきゴールなので、やるべきことは実はかなり絞られてくると考えている。「本物」の幅をいかに拡張できるかについては、現代の舞台・エンタメに習熟した専門家の客観的な視点の導入が必要になる。表現の可能性を広げるため、あるいは出演者の視野を広げるために必須だと思う。

そのひとつとして、いまは「新作」が初心者にウケる!……ということになっているのだと思うが……、その当否は別として、「新作」をやるなら、まず、舞台として最低限のレベルを確保してほしい。
文楽の「新作」にレベル高いもんが出てくることはあらゆる意味でありえないと、制作も技芸員も客も、全員そう思っている(と思う。ただ、単なる想像ではなく、ある程度確度のある伝聞を総合すると、ほぼ間違いないことだと思う。少なくとも、無条件に肯定している人はいないだろう。仮にディスカッションを設定するならば、レベルが低くても制作を継続するべきか、レベルが低いものになるなら古典の復活等にリソースを使うべきかが議題になる、そういう状態だと思う)。結構すごい状況だよなと思う。私は新作やらんでええ派だが、やるならやるで、ちゃんとしようよと思う。

単純なところで、『西遊記』の「五行山」と「一つ家」のあいだの大道具転換の待合い。外部演出家が入っている公演(『新編西遊記 Go West!』『かみなり太鼓』など)は、大道具転換の待ち時間を作らないようにされていたよね。転換中は下ろした幕に映像を映して物語を継続させる、廻り舞台・セリを使うなどで、常に観客の耳目を舞台から離さないようにしていたはず。今回も、たとえば浅葱幕を下ろして、三蔵法師と悟空の人形にその前を歩かせて旅路を表現するなどのつなぎがあっても良かったと思う。新作で確実に古典を超えることができる要素はテンポアップ。没入感を阻害するような意味のない空白を作らないのは、一般の舞台興行なら当然配慮されるだろう。
スモークの使い方にしても、もう少し検討があったほうが良かったと思う。スモークによって人形を差し替える(スモークが登場のタイミングになる役をつくる)のなら、スモークが晴れて客席から人形が見えるようになったあとに名乗りという流れにしないと、見えない。演出家がついていれば、人形がスモーク位置より大きく前へ出るか、あるいはスモークが消えるのを待つためのつなぎを入れるなど、改善の指示をしたと思うが、現状は誰も何もおかしいと思わないということなのかな。

安易に技芸員へ演出をまかせてしまうのも首をかしげる。やっぱり、技芸員は演出のプロではないのよ。新作にほしいのは、「工夫」ではなく、「演出」の構想である。
『ひょうたん池の大なまず』は、かわいいね、工夫があるねとは思う。これまでは、この手の新作でも、できるだけ良いところを探して感想を書いてきた。でも、これはちょっと素朴すぎじゃないかな。40年前に幼稚園での上演向けとして作ったものを多少アレンジしてそのままやりました、ということなのだろうが、これだと「人形劇」というか、「欽ちゃんの仮装大賞」。舞台を二面分割して陸上/水中を断面で見せる構成とか、演劇として面白いというより、平成初期の仮装大賞での変わったことしぃやろ。撒き餌がキラキラの紙吹雪だとか、ブイを池に投げ込むと大きなものに差し替えられるというギミックも、あくまでその場限りの仮装大賞的トッピングだろう。仮装大賞は素人が手作り感満載の素人くさい芸をテレビという「プロの大舞台」で披露するから面白い(かった)のだが、文楽劇場で「文楽」の看板つけて上演するならば、洗練が必要だと思った。
この作品、筋をそのままいかすとすれば、後半パートで、釣り上げた瞬間の大なまずという物体への驚き、物語の転換点としてのなまずの逆襲を強く打ち出し、オチに意外性と最大の見せ場を設定しなくてはいけないと思う。たとえば、もうひと展開として、なまずの後を追ってごんべえさんも池に飛び込み、水中で格闘するパートをつくるとか。あるいは、イキっていたごんべえさんが溺れてしまって、なまずに助けてもらうパートを入れるとか。水中シーンを入れると、「文楽人形は宙に浮いている」という人形の特性をいかせて、動きも大きく・面白く見せられる。とにかく、後半にもなんらかの見せ場を作らないと、尻すぼみ感が強い。たとえ仮装大賞であっても、釣りあげたあとのなまずは池の中にいたときの10倍のサイズで出して、オチにたたみかけのサプライズを作るだろう。ツカミやクスグリといったトッピング要素と、総合的なドラマの盛り上げの演出は区別したうえで構成されてしかるべきで、ほのぼのしているのと稚拙なのとは違う。このあたり、ちょっと甘すぎだと思う。

そこいらあたりを考えると、やっぱり、昭和の『曾根崎心中』の復活は、文楽最高の「新作」だったんだなぁと、つくづくと感じる。結局、近松の詞章をいじっているのがダメだという批判はあったとしても、逆に言えば、「詞章をいじっている」以外にダメなところはないわけだからね。詞章をいじっている以外は、舞台としては相当な傑作。なぜあれを「内製」で作り出せたのか。松竹時代の制作だからなのか。当時の技芸員に才能がある人が集中していたからなのか(これは事実だと思う)。その両方なのか。それは今日、再現することができないものなのか。過ぎ去った時代は美しいね。
おわり。

 

 

 

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清十郎ブログに、第一部の舞台稽古の写真が掲載されていた。舞台稽古は頭巾なしなので、左や足、小道具的に登場する生き物の配役がわかるようになっている。


NHKの『西遊記』取材。床山さん、玉佳さんインタビューのほか、舞台稽古や初日本番の映像あり。


小学生向け新聞記事で、人形遣いのお仕事(玉佳さん・談)が紹介されている。
タマカ・チャンの一日つき。働きすぎ働かされすぎのタイムテーブルに驚愕。

 

 

 

 

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ここが、「国立文楽劇場」なんだってッ!

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おっきいねぇ〜!

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お客さんが「いっぱい」だねッ!

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孫悟空の抜け毛から生まれるこざる。毛皮が張り替えされたため、ふわふわ。

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恐怖!さるのなまがわ!!

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毛髪量の多いカッパ。

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琵琶湖博物館から出張していただいたナマズさんたち。なんなんだこのコラボ。

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*1:それにしても、過去に三蔵法師を勘彌さんが遣っていたことがあるが、あれは良かったな。シルクロードのどこかには服をとかすスライムが80匹くらい潜んでいるに違いないと思った。あと、勘彌三蔵法師って絶対『悟空道』の三蔵だよなと思って『悟空道』読み返してみたが、だいぶ話を忘れていた。(何の話?)

*2:『五天竺』の女主人は、老婆ではなく、老女方程度の年齢の女性に設定されていたようだ。本文を読むと、狂乱の場面に玉手御前(摂州合邦辻)のように美しい黒髪を振り乱す所作が仕組まれているのがわかる。