金銭感覚
金銭感覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:20 UTC 版)
踊り子となった当時、最低限の生活費と育児費を除き、ほとんど給料に手をつけなかった。紙幣の1枚1枚にアイロンをかけ、当時の住居であるアパートの畳の下に保存するという生活を、3年間続けた。6畳間で約8万円に昇り、畳の下に紙幣が満ちると、その上に新聞紙を重ね、また紙幣を敷いていた。公演後には劇場付近でたばこの吸殻を拾って、金に換えていた。 自宅アパートに金庫が備え付けられたある日、真夜中に火事に遭った。斎藤は「お前たち逃げろ! 俺に構うな!」と言って、同居の踊り子たちを逃がし、自分は必死に金庫にしがみ付いて金を守ろうとした。結局は踊り子たちに引っ張り出されて避難することになり、家事はボヤで済み、金庫も無事であった。 子供を育てるために家を建てようとの意志は固かった。踊り子として給料だけでは足らず、衣装縫い、キャバレー、ナイトショーと掛け持ちしつつ、金をためた。佐野の劇場を借りた際は敷金120万円、家賃月8万円であり、何の保証もなかったが、働きぶりだけで信用して分割払いにされたという。 限りない節約家でもあり、日々の食事は踊り子や従業員と共に、大鍋の炊き出しで済ませていた。1日の副食代は1500円で済ませており、普段の食事は飯と漬物で十分とも語っていた。複数人での食事では、皿におかずが残ることをひどく嫌がり、もったいないと言って、自分の口に放り込んだり、他の人の皿に回したりした。 2000年6月、長く人に貸していた草津の小屋を、斎藤が再び興行主として仕切ることになった。昨今の温泉場は客入りが悪いとの声もあったが、小屋を休ませるのは忍びない斎藤は「もったいないじゃないですか」の一言で済ませた。現地に責任者は置くが、斎藤はどうしても自分で現場を仕切らないと気が済まず、毎週、前半は浅草で業務をこなし、週末は上山田のキャバレーのレジを打ち、その合間に草津へ行って踊り子の世話をするという生活を送った。移動に使うワゴン車の走行距離は、1カ月に約7千キロメートルを記録した。 ロック座では、踊り子の衣装やかつらも決して外注には出さず、ロック座の斎藤の自宅兼稽古場兼裁縫場ですべて従業員が作っており、公演前には斎藤自らも徹夜で針を取った。時には踊り子の子供の服まで縫うこともあった。「生地を安く買ってきたり、浴衣をこわしたりしてね。踊り子の胸囲、身長とかを計って型紙をとってね。そうしておくと、何度も型紙が使える。安上がりだし、いいものができるから」とのことだった。斎藤のもとで現役を卒業した元踊り子たちが手縫いで豪華な衣装を仕上げることもあり、小道具もまたすべて自前であった。 2003年(平成15年)時点では、ロック座ビル近くに自宅マンションを持っていたが、そこへは帰らず、1分1秒を惜しんで仕事をしていた。東京新聞の記者がインタビューをした際、3度目に話を聞きに行ったときも、楽日後の精算でまったく会うことができなかったという。 このように金銭に執着するようになったのは、劇場経営に乗り出した頃、女だからとの理由で他の劇場主のいじめや嫌がらせに逢い、専属の踊り子を増やして劇場を繁盛させることも難しかったからともいう。
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