やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

女のからだの編集-操作

 

 ピエール・ルジャンドルの下で博士論文を執筆し、パリ第十大学法学部教授にして法制史・宗教史から現行のフランス民法に及ぶ該博な学識で知られるジャン=ピエール・ボーは、その著書『盗まれた手の事件 肉体の法制史』のなかで、フランスの現行法のルーツとなったローマ法の、さらにその知的枠組を形成したギリシア哲学について「すべての学派が一様に肉体を心の底から軽蔑し、肉体を魂の「牢獄」、あるいは「墓場」、あるいは「敵」であるとして告発した」と述べている。

 これはどう見てもグノーシス主義的だ。そして、あの有名な「健全な精神は健全な肉体に宿る」(orandum est, ut sit mens sana in corpore sano)というユウェナリスのエピグラフも、そうしたグノーシス主義的な観点(ボー自身はグノーシスという言葉を使っていないが)から解釈している。すなわちボーによれば、この言葉の真意は、

 

 清潔でたくましく健康な肉体はかえってその存在を忘れさせ、それによって真の理想、すなわち健全な精神にいたることができる。これが「健全な精神は健全な肉体に宿る」という有名な言葉の意味である。

 

 というのだ。
 なるほど、確かに健全な肉体は、ダルいだのしんどいだの、つべこべ言わずに勤勉な活動を手伝ってくれそうである。また頭痛がするだとか胃がもたれている、などといって鬱々とすることもない。清潔さも大切で、頭がかゆいだの手が汚いだの云っていたら、当然ながら作業に集中できない。

 そんなわけで、「清潔でたくましく健康な肉体」があれば、なるほど色々なことがうまく行き、世を僻んだり他人を嫉んだり自分自身に拗ねたり、冷笑的になってさしたる根拠も実力の裏付けもなく目に映るものを片っ端から馬鹿にしてみたり、自暴自棄になったり、あまつさえ他人への悪意を呼び込むこともない、という理屈である。


 そして肉体の頑健さだけではなく美しさの追及。これもまた、古代ギリシア人による肉体嫌悪の裏返しであったとボーは位置づける。つまり自らの肉体美を磨きあげ、また芸術家が神々のような理想の肉体を描こうとするとき、それは同時に「現実的な肉体」の否定を意味するのだ。Love Your Bodyという現代的な発想は、彼らには思いもよらなかった。あくまで彼らが目指し賞賛したのは、「ありのままではない肉体」であった。

 

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 見ろよ! ヴィーナスだぜ!

 

 *

 

 「現実的な肉体」の否定、そして表現者たちによる「理想的な肉体」の追求、さらに後ほど幾つかの例を挙げるが、現実の肉体への影響は、今日まで一貫して続いていると言える。ここに一つ付け加えて言うならば、このような肉体の編集-操作は、歴史的に見た場合、もっぱら男から女に対して行われていた。

 

 そうした例は幾つでも挙げることが出来る。たとえば、古代ギリシア随一と称されていた画家ゼクシウスは、伝説の美女ヘレネーの絵を描くために五人の乙女を雇い、それぞれの顔やからだの最も美しい部分を組み合わせてヘレネーの姿を想い描いたという。

 

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 ヴィクトール・モテ『モデルを選ぶゼウクシス』(1858)。結局一人に決められなかったゼクシウスは、「5人の体の最良の部分を組み合わせて描く」という荒技に出る。

 

 敢えて単純に言えば、彼女らの肉体の五分の四は「現実的な肉体」であったためにヘレネ―の姿としてそぐわないと判断され、棄却されたのだ。そしてそれぞれの肉体の五分の一だけが、美の理想に適うものとして採用された(ゼクシウスのライバルであったパラシオスにも似たような逸話が残っており、古代ギリシアの画家はしばしばこのような方法を用いたようである)。

 

  追記:最近知ったのだが、現代風俗研究会編『アブない人体 現代風俗'94』所収の常見耕平「ダッチワイフの身体論」によれば、オリエント工業の〈影華〉というドールの造形は二人の実在の女性から型抜きをし、それらをミックスしたものなのだそうだ。

 一人は手足、もう一人はそれ以外の部分を使っており、全体に対して手足がやや小さくなるようにしているとのこと。

 

 フランスにおける先史学・文化人類学の第一人者であるアンドレ・ルロワ=グーランは『先史時代の西欧芸術』において、「旧石器時代の画家や彫刻家たちは、現実に見たままの女を描き出さず、抽象芸術の領域に属する図式的な形で表現している」と述べている。ルネ・ネリは『文明とエロティック』のなかで、グーランの指摘を次のように要約している。

 

 彼らが刻み上げた女の姿は、きまって紡錘型をしており、頭部はきわめて小さくて、あるかなきか(頭のない女は、長い間女を嫌う男の夢であった)である。胸と腹が、ひどく膨れた体の中央部をなす(彼女たちは常に孕んでいたのだろうか)。短い両脚(この主婦たちは夫と同じくらい頑健だったにちがいないが、横になってやっと体の平衡がとれると思われたのだろうか。それとも、走って男を打ち倒すようなことでもあれば一大事と思われたのだろうか)は、合体して円錐形となる。これが下部である。

  

 このことは、たとえばヴィレンドルフの女神像やイナンナ女神像、キュベレー像などを見ればあきらかだろう。

 

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 ヴィレンドルフの女神像

 

 ルネ・ネリはさらに次のように付け加える。

 
 古代芸術は、あるべき女性らしさの基準、現実には「男のための女」の基準を立てる――その基準は実際上二十世紀まで維持されている――に当たって、肉づき豊かな、どちらかと言えば肥り気味の女を特に美化し、調和のある姿に仕立て上げた。

 

 いささか美術史の講義……といえば聞こえがいいが、むしろ生真面目が取り柄の学部生のレポートめいてきたので、少し話を急ぎたい。

 そんなわけで、このような女体の編集-操作の芸術史的エピソードは、その気になれば果てしなく続く。

 中世恋愛詩における恋人=意中の貴婦人の描写が、つねに紋切り型で、現実の対象をまったく反映していないこと(輝く瞳、甘いくちびる、豊満な胸、云々……)についてはつとに指摘されているし、いっぽうで好みに染まぬ――すなわち、痩せた女にたいする痛烈な皮肉や当てこすりの詩や散文は、十七世紀を中心に現代に至るまで広範囲に見られる。こうした賛美や嘲笑を代わる代わる浴びせられた女たちが、どうして自由気ままな体型のままでいられようか。

 

 裸体美術論の泰斗ケネス・クラークが『ザ・ヌード』で為そうとしたことは、はだか(naked)と裸体像(nude)を区別し、後者を「芸術の中心命題」として探求することであった。クラークによれば裸体像という言葉は、

 

 それがわれわれの心に漠然と投影するイメージは、丸くちぢこまった無防備な身体のそれではなくて、均整のとれた、すこやかな、自信に満ちた肉体、再構成された肉体のイメージである。

 

 加えて「日本語版への序文」によれば、

 

 人間の身体を幾何学原理にもとづいたある種の構築に変貌させる裸体芸術というものは、紀元前五世紀のギリシャの流れを受けていない文化圏においてはほとんど理解しえないに違いない

 

 とのことである。

 またエドゥアルト・フックス『エロチック美術の歴史』は、マルクス主義的な下部構造の論理を美術史に持ち込んだ特異な書だが、本稿の云わんとすることと重なる箇所があるので引用しておく。

 

 美術もまたここで問題になる意味において、けっして原因ではなく、いつでも発露であり、いつでも結果である。美術は、時代の特殊な欲望のイデオロギー的な結晶化作用の、もっとも高貴な形態にすぎない。

 (中略)

 そして、これにつらなる美術家の生活が表現を必死に求めて、表明したスタイルもまた同じである。言いかえると、これらのスタイルは、スタイルもまた単なる「もまた(auch)」であることはできない。これらのスタイルこそは、大事なことの一つでなければならない。なぜなら、美術家のとるスタイルの変化、いっそうの発展のなかに、何よりもまず、経済的土台のなかにたえずおこなわれる変革が、表現されているからである。

 

 つまりフックスによれば、理想の美は時代ごとに変化するものであり、そしてそれは常に経済的土台(下部構造)によって規定されるものであった。

 ルネ・ネリに話を戻すならば、ルーベンス「レウキッポスの娘」やレンブラントのアダムとイヴを描いた版画の女性像の「丸さ」について、現実の女体よりも当時の美の理念が先行していたことを彼は抜け目なく指摘している。いわく「レウキッポスの娘たちの拉致では、この球体は画面の中央を占めている」「イヴの腹は完全な球になっており、しかも、臍が正確に中心にきている」云々。

 

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 ルーベンス「レウキッポスの娘」。女体による球体が画面の中央を占めている。

 

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 レンブラントによるアダムとイヴの銅版画。たしかに腹は球形で、臍がその真ん中に正確に配置されている。

  

 又、男にとっての理想の体型に近づくための、女たちの涙ぐましい努力。

 たとえば十五世紀以降のコルセットは木片、鯨の骨、銀、象牙、鋼鉄などの頑健な素材で女性の胴を締めあげ、呼吸器や消化器に深刻なダメージを与えるに至った。

 十七世紀フランスの地方裁判所に、身体の保全のためコルセットを禁止する条令の記録が残っているが、殿方に気に入られるためか、あるいは女性同士の見栄か、はたまたそうした「内面化」も含めてすべて男社会による押し付けか――といった面倒な議論になりそうなことにはここでは深入りしないが、とにかく、理想の肉体を手に入れるためなら、そんな条令などかまってはいられない。モテるためなら、多少の命の危険が何だと言うのだ!

 

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 のちにコルセットには胸部を大きく見せるクッションが入れられるようになる。

 ウエスト・ニッパーやガードルは腰を締めつけると同時に尻の線を強調し、ブラジャーは乳房を下から押し上げ谷間を強調する。だがそんなものは生ぬるい。二十世紀にはもっと直接的な、美容整形に豊胸手術、ウエストのくびれを出すための肋骨の切除といった「操作」が平然と行われるようになる。

 

 【ここまでの要点】

 ①西洋文化史において哲学者や芸術家はつねに、現実の肉体よりも理想の肉体を追い求めてきた。

 ②それは専ら男から女に対する理想化であり、また現実の女の肉体への干渉でもあった。

 ③その具体的内容は、おおむね肉づき豊かな、豊満な女性が好ましいものとされてきた。

 

 *

 

 近代詩の父であると同時に美術評論においても後世に大きな影響を及ぼしたシャルル・ボードレールは、彼の生きた一九世紀中期に次第に普及してきたヌード写真を嫌悪していた。

 その理由は、先述のギリシアの伝説的画家ゼクシウスが一人の女を描くのに五人のモデルを雇った理由ときわめて似ている。つまり現実の女体そのものをうつしたヌード写真は、彼からみて醜悪だったのである。彼は「理想とモデルについて」のなかで次のように述べている。

 
 初期の芸術家たちもまた細部を表現しなかった。
 (中略)
 彼らの方から細部をさけたのではなく、細部のほうが彼らをさけたということにつきるのである。というのは、選択するためには、完全に把握していなければならないからである。デッサンというものは、自然と芸術家との間の闘争であって、そこでは、芸術家が自然の意図をよりよく理解すればするほどよりたやすく勝利をうることになるのだ。芸術家にとっての問題は、模写することではなく、より単純な、より輝かしい言葉に翻訳することである。

 

 ここにおいて、ルネ・ネリのいう「あるべき女性らしさの基準」「現実には男のための女の基準」の、近代における絶頂が見出される。伊藤俊治は『聖なる肉体』によれば、

 

 つまりギリシア時代に“ヌード”が誕生して以来、ローマ、ルネサンス、マニエリスム、バロック、ロココ……とヌードはその時代時代においてある理想の象徴として機能し、その伝統は一九世紀のヨーロッパのアカデミー学派においてある頂点をきわめていたのである。ボードレールはもとよりアカデミーに対して批判的ではあったが、こうした長い西洋美術の伝統からつちかわれたあるテイスト(好奇趣味や細部へのこだわり……)からは決して自由ではなかった。

 

 ここでいう「細部へのこだわり」とは、「細部を忠実にスキャンする」ことではなく、むしろ「細部まで自らの意図を行き渡らせる」ことを指すのだろう。
 もう一つ、気になることといえば、ボードレールがデッサン――当然ながら裸婦を含む――を「自然と芸術家との間の闘争」と表現していることだ。ここでは男は文明側であるのに対し、女性は「自然」側である。

 だからこそ、女性は美術史上の大半において(クラナッハのような例外はもちろん挙げようと思えば挙げることができるけれど)大地母神的なイメージ、豊満な女性として表象されてきたのであり、西欧男性文明の「自然との闘争」における「自然」観念には、いわゆる森や海のような「自然」の他にも、動物や、しばしば女性が含まれていたと言える。

 

 ちなみにフェミニズムは、この女性=大地母神的な表象に対し、どのようなリアクションを取るべきか常に揺れてきた。母性アイデンティティは男女平等の理念にどのように接合すべきなのか。母権論や、二十世紀末の欧米のカルチュラル・フェミニズム(M・フラーやC・P・ギルマンを源流とし、近年の代表的な論者はM・デイリー、A・リッチー、S・グリフィンなど)は、女性固有のカウンターカルチャーとしての女神主義を提唱した。だがこの話は本稿のテーマではないので、別の機会があれば触れたい。

 

 伊藤俊治は、さらに次のように述べる。

 

 ボードレールにとってのヌードとは現実を超越し、古くからの“芸術の伝統”に従って様式化された芸術作品のことであり、そこには現実や自然のままのものを醜悪で、嫌悪すべきものとして見る視点がまずあり、それが時代的な状況とも共振して異様な形でふくらんでいた。

 

 ここまでくるとなかなかに激烈で、冒頭でギリシア哲学に見たような、グノーシス主義的な肉体嫌悪さえ彷彿とさせる。

 だがそうなってくると、ボードレールから逆照射したグノーシス主義も、なにやら少々いかがわしく見えてはこないだろうか? つまり、肉体や自然や欲望を敵視し超越的世界への帰還を目指すという思想は、結局のところテメエの「女にたいする欲望(の苦しみ)」を「女への憎しみ」にすり摩り替えているだけではないのか? ちょうど、イスラムの女が「男を誘惑しないため」、肌や髪を隠すよう強制されているのと同じように。

 

  *

 

 最後に、二つのことを指摘して本稿をしめくくりたい。
 一つは、ここまで主に十九世紀以前の、一種の象牙の塔でもある美術界の話をしてきたが、べつに芸術ではなく映画やグラビアやポルノメディアにおいても、そして二十世紀以降においても、こうした事態は何ら変わっていないどころかさらに女体の編集-操作は加速しているということについて。

 

 グラマー(安田註:1950年代に戦争の匂いのする「ピンナップ・ガール」に代わって台頭してきた名称)たちはそうしたセックス・アピールをより強調すべく、背中を弓なりにする体操を繰り返し、身体の均整がとれ、かつ動作が優美になるよう常に心がけた。食欲を抑えるために毎朝、薬物を飲み、麻薬とダイエットを続けたあげく神経性食欲減衰におちいることもある。毎日のように美容院へゆき、美顔マッサージとスティーム療法をおこない、数時間かけて髪や爪を整え、手足や鼻の下にワックスを塗って毛を抜きとりツルツルにした。さらに、ほとんどのグラマーたちがなんらかの整形手術を受けていて、ハリウッドではノーズ・ジョブといわれるリノプラスティーで鼻梁を削り、乳腺と胸筋の間のゆるい組織にシリコンを注入し、瞼を切り、皮膚を剥がして脂肪を切りとった。

 (中略)

 その上、映画やポスターの撮影の際には乳房や尻にオイルが塗られ、陰毛はそられ、毒毒しい濃厚なメーキャップがなされ、さらにできあがってきたフィルムにはエアブラシ等で綿密な修正がほどこされてあの忌まわしいほど美しいイメージが生成されることになる。
 (『GS』第二号「特集:POLYSEXUAL 複数の性」所収、伊藤俊治「セックス・シアターのフリークス」)

 

 また、ポルノについて。

 

 『ハスラー』はシャープ・フォーカスで毛穴や肌目の形状まですべてをクリアに見せる手法により、モデルたちに指で性器をおし広げさせ内部の鮮烈なピンクをむきだしにしたヌード・グラビアを創刊号から大胆に開始した。さらにフリントは性器に紅やピンクの化粧をほどこすことさえ命じ、オイルを塗って光沢を与え、ヘアを刈りこんで輝くばかりにそのまわりを飾りたてるといった作為をほどこすようになり、この極彩色の性器は人々に強い印象を残し、ハスラー・ピンクと名づけられて一躍、有名になった。
 (同書)

 

 フレデリック・ルヴィロワによると、痩せたいと人々が思うようになったのは、おおむね第二次大戦後のことである。二十世紀初頭から先進国においてダイエット本のベストセラーが出始めるが、ランキングの常連になるのは六十年代からとのこと。だが、いずれにせよ時代ごとの美の理念が現実の肉体に先行するという状況は変わっておらず、言いたいことのもう一つは、こうした理想の押しつけに対し、近年ようやくそれに対するカウンターが見られるということについて。

 たとえば、H&Mの「現実的な体型のマネキン」。

 

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  また、Love Your Bodyの潮流や、ファッション誌にスキニーなモデルばかり起用することが女性、とりわけティーンにとって過度なダイエットや摂食障害へ繋がることへの批判。それを受けて、一部のファッション誌が「自然な体型の」モデルの起用に踏み切ったこと。

 

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 そして、ポルノにおける素人ものの興隆である。

 思えば『ハスラー』におけるシャープ・フォーカスは「現実的な肉体」志向を予見していたと言える。ここにきて、男たちはようやく「現実的な肉体」の魅力に気付き始めたのである。それが専ら男にとっての利得なのか、あくまで女の「ありのままの自己の肯定」が主導し、男の価値観に修正を迫ったものなのかは、いまだ不明瞭ではあるにしても。

 また『プレイボーイ』における“プレイメイト”のコンセプトも、「手の届かないような絶世の美女ではなく近所に住んでいる可愛い女の子」というものであった。これは近年のアイドルのイメージ戦略にも通ずるものがある。

 

 時代は、ようやく美のイデア――その底に潜む現実的な肉体の嫌悪という呪縛を抜け出そうとしているのかも知れない。そうした潮流の変化は常に目に見えないところで、着実に進行しているのだ。

 そのことに鋭敏で居続けるためにも、本稿を書き上げつつあるいま、今夜あたりから早速、素人ものAVの学術的研究に取り組むべきなのかも知れない。それが知的誠実さというものだ。

 

エロティックと文明

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ザ・ヌード (ちくま学芸文庫)

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聖なる肉体

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