やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

ウヨクに勝ちたいサヨクとサヨクに勝ちたいウヨクのために

 

 選挙時のツイッターほど憂鬱なものはない。質の低い与党支持者と質の低い野党支持者がポリシーもなにもないきわめて下品かつ煽情的なプロパガンダツイートを濫発するからだ。最もお手軽で脳味噌からっぽのネット運動家にも出来るのは、プロパガンダ用の画像に「絶対に〇〇党に入れてはいけません!」といった簡単なコメントを添え、仲間同士で拡散したり、政党や政治家・マスメディアの公式アカウントへ大量にリプライすることだ。信憑性や深度のある議論など必要ない。なにしろ投票日はほんの数日後なのだから、まともな人間はそんなツイートを一つ一つ検討している暇などない。とにかく膨大なイメージで理性を麻痺させ、思い通りの候補者の名前を書かせてしまえばそれでいい。われらの民主主義万歳!

 

 ……で、そうした現象の一環として、いつかの選挙期間中に安倍晋三のポスターに何者かが落書きしたというツイートが流れてきて、見るとリプライ欄が少々白熱していた。

 そういう画像はちょっとググると幾らでもヒットする。ようするにポスターに落書きなんぞは日常茶飯事ということだ。一応出てきた画像の中から、話のイメージが浮かびやすいように典型的なものを一つ貼っておく。

 

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 リプライ欄では「誰がこんなことをしたのか」「こんなことをする野党支持者は頭がおかしい」「いやこれは安倍支持者が自作自演したのだろう」といったうんこの投げ合いが起きていた。そして皆うんこまみれになりながら、安倍政権支持者は「やはり安倍政権を支持すべきだ」と確信を強め、野党支持者は「やはり安倍政権を打倒すべきだ」と決意を新たにし、例によっていつのまにか話は雲霧消散したのだった。おそらくこんなことは、選挙のたびに何度でも起きているのだろう。

 

 この不毛な争いのなかで、興味深いことが一つだけある。それは”本当に”誰がなんの意図でやったのかわからないということである。

 より精確に云うと、「誰がなんの意図でやったのか、真相に辿り着くための因果の糸が切れている」ということだ。

 

 *

 

 こうした問題はずっと以前から指摘されている。例えばボードリヤールは有名な『シミュラークルとシミュレーション』のなかでウォーターゲート事件を採り上げ、次のように述べている。

 

 ウォーターゲート事件は、体制が、反体制側にしかけたわなでしかなかった——刷新をもくろむスキャンダルのシミュレーションだ。これは映画〔『大統領の陰謀』〕で《ディープスロート》〔ワシントンポスト記者、ウッドワードの秘密情報源である人物〕によって演じられた。彼はニクソンをほうむり去るためにジャーナリストを操る共和党の黒幕だと噂された——それも一理ある。どんな仮説も可能だが、これはちょっと浅薄だ。つまり、左翼は自らすすんで右翼の働きをするものだ。だからといって、そこに良心の呵責を見い出すのは軽率だ。なぜなら右翼もまた、左翼の働きを自発的にするのだから。終りなき回転台では、あらゆる操作にまつわる仮説は可逆的だ。というのは、操作とは肯定と否定を互いに引き起こし、と同時にそれを隠し、そこには受動も能動もないうつろいやすい因果関係だからだ。

 (ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』

 

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 ここでいう「操作」を安倍首相のポスターへの匿名の落書きだと考えると、まさしくそれは「肯定と否定を互いに引き起こし」(野党支持者の浅ましいふるまいを告発するようでもあり、安倍政権支持者の狡猾さを示すようでもある)、「同時にそれを隠し」ている(どちらとも特定されることない)。したがって「あらゆる操作にまつわる仮説は可逆的」である(どうとでも説明がつく)。

 さきほど「因果の糸が切れている」と云ったのは、この「どうとでも説明がつく」ということと表裏である。「どうとでも説明がつく」ということは逆に云えば真実と繋がる唯一の解釈は存在しないことを意味する。

 けっきょく、落書きをした者が与党支持者だったのか野党支持者だったのか、野党支持者を装う与党支持者だったのか与党支持者を装う野党支持者だったのか、あるいは与党支持者を装う野党支持者を装う与党支持者だったのか(以下無限に続く)……はわからない。ここではイエスの言葉を引いて「為すところを知らざればなり」、彼自身にもわかっていないのだ、と言いたくなってくる。

 ただ、それでも確実に云えることがある。それは「彼が政治的意図を込めていたとするならばそれは失敗した」ということである(彼はまさしく混乱そのものを望んでいたという可能性はあるが、その場合は彼の目論見は微小な規模で成功したが、彼の人生そのものが失敗している)。

 

 なお僕は、けっして「真剣になってもしょうがない、君の行為は君の信念と逆の結果を招くことだってあるのだから。少なくともどっちに転ぶかはまったくわからない、だったらユーチューバーがコーラにメントスを入れて一気飲みする動画でも眺めていたほうが賢明だ」といったシニカルな見方を推奨しているわけではない。

 逆だ。ストレスの捌け口として政治ごっこをしているのでなければ(僕もやることがありますが)、つまり本当に自らの発言によって些かなりとも世論に訴えようとするならば、このようなジレンマを意識し、どう乗り越えるべきか考えなければならない、と言いいたいのである。言語行為論的に云えば、「自らの発話がパフォーマティヴな次元において何を意味するか」を自覚し制御することが課題なのだ。

 なおボードリヤールは、上の節のしめくくりに「このうずまく因果関係を任意に止めることでしか政治の現実原則を救うことはできないのだ」と述べている。正直、肝心なところで曖昧なことを云っているなあと感じたが、僕自身も具体的にどうしろと言われても難しい話なので、まあ致し方ないのかも知れない。

 

 *

 

 スラヴォイ・ジジェクも最新刊『真昼の盗人のように』のなかでこの問題に言及している。彼が例として採り上げるのは、2017年のイギリス総選挙における労働党主ジェレミー・コービンの善戦だ。

 

 われわれが救いようもなくメディアによる操作のいいなりになっているようにみえるとしても、奇跡は起こる。つまり、操作された偽物の世界は不意にくずれ、その効力を失う。二〇一七年のイギリス総選挙に向けてのキャンペーン中に、ジェレミー・コービンは保守系メディアによる計画的な誹謗中傷の標的になった。では、彼はどのようにしてこの状況を切り抜けたのか。彼は誠実さや礼儀正しさを誇示し、一般大衆の抱く不安に関心をよせることで、首尾よく誹謗に抵抗した、というだけでは充分ではない。彼は誹謗中傷を受けたからこそ善戦したのである。それを受けなければ、彼はおそらく、明確なヴィジョンもカリスマ性もない、いささか退屈なリーダーであり続けただろう。つまり、旧来の労働党の代表にすぎなかっただろう。彼は自分のことを容赦なくこきおろすキャンペーンに反抗した。彼の凡庸さが長所となり、彼に対する低俗な攻撃にうんざりしていた有権者にとって魅力的になったのは、この反抗においてなのである。

 (スラヴォイ・ジジェク『真昼の盗人のように』)

 

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 ここまで読まれた方は、ポスターの落書き、ウォーターゲート事件、イギリス総選挙におけるコービン善戦のあいだには同じ問題が横たわっていることがおわかりいただけるだろう。

 ジジェクは続けて云う。

 

 つまり、ネガティヴ・キャンペーンの作用をあらかじめ確定しておくことは不可能であった。この決定不可能性(むかしはやった言葉を使えば)は、単線的な決定論によっては説明できない象徴的決定がもつ、ひとつの特徴である。ここでの問題は(中略)ひとつの主張がいかに味方にも敵にもなるか、ということである。

 (中略)

 出来事のなりゆきを決定する、付け足された名状しがたいもの(the je ne sais quoi)は、よく練られたプロパガンダの手をのがれるものなのである。

 (同書)

 

 「よく練られたプロパガンダ」からしてこれなのだから、ツイッターで毎日見かけるような安易なネトウヨツイート・左翼ツイートがストレートに受け取られるということを、どうして期待できるだろうか。

 実際、僕から見るとツイッターで喧しくやっている人たちのツイートは、発言者が属すると想定される陣営にマイナスイメージをもたらしている(つまり「引かれている」)場合がほとんどなのである(いわゆるツイフェミとアンチフェミの抗争にしても同様)。凄絶なオウンゴール合戦といえる。

 

 【メモ】ところでジジェクの言う「象徴的決定」はもちろんラカン的な概念だが、そこはかとなく「正しい政治参加とは歴史的真理に準拠することによってのみ可能となる」といったなつかしの唯物史観的なものを感じる(実際、ジジェクは共産主義者である)。ただしそれは常に、あるいはしばしば人間の思惑を越えるという点において唯物史観とも少し異なるようだが、あるいは唯物史観においても「前衛のみがそれを認識できる」ということで結局は同じモデルを採るのだろうか?

 ネガティヴ・キャンペーンの失敗に何らかの意味があるとする姿勢は、むしろ「現実的なものは理性的である」というヘーゲル『法哲学』的なものではないかという気もする。こうした文脈では、保守派はまさにヘーゲルの言う「目の前の現実以上に観念によって物事をよく知っていると思い込む傲慢」(大意)に嵌まったといえる。

 「起きたことは都合が良かろうが悪かろうが意味がある」とするか、それとも「都合の良いことは我々の正しさを証明し、都合の悪いことは何かの間違いである」とするかといった違いは、今回のブログの主旨についての支線となりうる。というのは、ネットでオウンゴール合戦をしている人たちは、ここで言う後者=都合の良いようにしか外界の情報を処理していないのではないかと疑っているからだ。

 

 *

 

 だが結局どうすればよいのだろう。ある政治的意見を持つ主体が、どうすればオウンゴールにならずに発話することが出来るのか。Twitterの煽り合いに留まらず、それなりの規模のメディアによる「よく練られたキャンペーン」でさえ逆効果になりうるというのに。

 最後に、僕の思うところの処方箋——誰にでも言えそうな話にすぎないが——を書き出して、このブログの締めくくりとする。

 

 1.いったん黙って、落ち着いて周囲の様子を見る。

 2.煽情的で根拠に乏しいプロパガンダは短期的にも極力避けるべき「分の悪い賭け」であり、長期的には必ず敗北し、言論空間を空洞化させ、社会全体にとってマイナスとなり、地球が滅び、みんな死ぬ。

 3.「敵」への過剰な憎悪や、詭弁を弄してでも議論の勝敗にこだわることがプラスの訴求効果を持つことは有り得ない。できれば敵味方思考からの脱却、そんな聖人にはなれないということならばせめてフェアな議論をすること。

 4.相手の社会的背景や心情への曇りない洞察。それは理解し合うためにも、やっつけるためにも、どのみち必要となる。

 5.本当に社会によかれと思ってコミットしているのか? たんなる憂さ晴らしではないのか?(100%前者でなければならないわけではないが、少なくともある程度の自覚や内省が必要である)

 6.このブログをもういっかい読むこと。そして絶賛のコメントを添えて拡散すること。

 

シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)