やすだ 😺びょうたろうのブログ(仮)

安田鋲太郎(ツイッターアカウント@visco110)のブログです。ブログ名考案中。

世界を「読む」という欲望について

 

 高山宏『殺す・集める・読む』は文庫本ながら*1 彼らしい稀有壮大な仮説に満ちた文化史的ミステリー論だ。冒頭を飾る三つの論文はシャーロック・ホームズについてのものだが、そのなかで高山は、十九世紀末にピークとなった推理小説ブームの土壌である当時の情報環境を、「過剰な根茎(リゾーム)状の混沌」と評している(後述)。


 ホームズが活躍した世紀末のロンドンは世界の中心であった。世界中の文物や奇異なものの一切が、諸学問の成果が、そしてあらゆる出来事についての情報が流れ込み、日々膨大に集積されていた。だがそのような状況はかえって人々を混乱に陥れ、不安にさせもする。デイヴィッド・シェンクが「生体的情報不適合症候群」と呼んだ、フラストレーションや判断能力障害、他人に対する配慮や関心の低下、心臓血管系ストレス、視力の低下……*2これらが極度の情報過多から起こるのだとすれば、はや後期ヴィクトリア朝市民を襲っていたと想像してもそう的外れではあるまい。

 「毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、一七世紀の英国を生きた平均的な人が、一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている」といわれる*3。人が多くを知るようになるのはもちろん、長く生きたり遠くに行けるようになるのと同様に言祝ぐべきなのだが、良いことには副作用がつきものだ。人々は、かつてのような牧歌的な無知には二度と戻れない。

 ではどのようにして不安に抗すればよいのか。そこで名探偵の登場である。名探偵とは、情報の混沌を読み解き、理解可能なもの(テクスト)に変換してくれる情報処理者、リチャード・ワーマン風に云えば「理解エージェント」として読者に熱狂的に受け入れられる。

 

 名探偵のあるべき性格造形とは何か。枝葉を捨てて一言にして言えば、読みの困難なものを解読可能なものに、過剰な根茎状の混沌を要するにテクストに変えてゆく能力の体現者と言うに尽きるだろう。万事が「読み」とりにくい世紀末の状況が要請していたそういう記号論的ヒーローが、つまりは名探偵であり、彼が一切を解読して世界をテクスト化してゆく経緯を描くメターテクストたる推理小説という斬新なジャンルは、従って十九世紀末をもってそのピークに達する理屈になる。そして、これは現にその通りになった。*4

 

 してみれば殺人事件とは世界の「わからなさ」のシンボルではないだろうか。ちなみにヴィクトリア朝の情報ビッグ・バンと殺人事件が切っても切れぬ深い関係にあることはよく知られている。R・D・オールティックは次のように述べるている。

 

 いずれにせよ、ヴィクトリア朝人の殺人嗜好がどんな結果をもたらしたのかについては、確信をもって語ることができる。ヴィクトリア朝の人びとの間でものを読む習慣が広まり、それにともなって、政治、社会、文化に重大な変化をもたらすことになったが、この習慣を大いに助長したのは、興味尽きぬ話題としての殺人事件の存在であった。何百万という文盲、半文盲の大衆は殺人に魅せられ、そこから、新聞・雑誌を読むのに必要な程度の活字を読む力をマスターすることになった。これは当時の正式な初等教育の場でさえなかなか達成できない目標だった。*5

 

 殺人事件の報道は識字率の向上をもたらすだけではなかった。一方でマスメディア側も、このような読者に突き動かされて巨大産業へと成長していったのである。

 

 殺人は、ヴィクトリア時代に発展した大量発行部数のジャーナリズムに、尽きることのない材料を提供した。たやすく読める煽情的読物を求める読者層が膨れつつあるというのに、まだその辺がまったく手つかずの状態だということに気付いたジャーナリズムは、新聞・雑誌・廉価本出版業を一大産業に仕立て上げることに本腰を入れはじめた。こうして、活字というものを、教育を受けたほんのわずかな人間たちだけの限られた市場さえなかった時代には考えられなかったほどの大きな利益を生む商品にしたのだ。*6

 

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『Illustrated Police News』(1895)。エミリー夫人は13歳のロバート少年によって殺害された。

 

 どこか共犯関係めいているが、話を戻すと殺人事件が「世界のわからなさ」のシンボルであり情報産業にとっての理想的なコンテンツだったとするならば、名探偵とは理性のシンボル(世界は理解可能である!)に他ならない。そして後者が前者に打ち勝つ物語は、情報の大海に喘ぐ近代市民を安堵させる効用があった。

 

  これはまったく現代的なテーマではないか? 今日の我々は世紀末のロンドン市民に劣らず……おそらくはそれ以上に溢れかえる情報の渦のなかで、混乱に陥り、基本的な生活-社会の認識すらおぼつかなくなっている。政治や経済や海外情勢などなおさら手に負えない。ましてや歴史や文化や諸学問の成果を、いったい誰が自信をもって「要点は把握している」などと云えるだろうか。おそらくそのようなことが云えるのは、よほどの碩学が自分の専門分野に関してでなければ、流行りのダニング=クルーガー効果の実践者くらいのものだろう*7。実際、SNSではどこにでもいる一般人が、あらゆる領野における「正解」を確信をもって、時にはその道の学者の意見をあっさり否定しつつ語るさまをしばしば目にするのである。*8

 

 * 

 

 認知的な欲求(やそれが満たされないことに対する不安)は、もともとは生存のため不可欠な要素であった。どこに水があり、どのキノコを食べてはいけないか。どの一帯に危険な猛獣がうろついていたり底なし沼があるか、何が天候変化の兆しであるか、食べ物を長期間保存するにはどうすればよいか、火を起こすにはどうすればよいか、怪我や病気を治すためにはどの薬草が有効であるか……云々。

 「知る/わかる」ことは生存の可能性を高めることであり、逆に「知らない/わからない」ことは死の危険を意味していた。殺人事件への関心も、もともとは人の生存欲求に根差している。

 オールティックによれば、十九世紀では都市のスラムや田舎で人が不審な死に方をしたり失踪しても、必ずしも警察が捜査するとはかぎらなかった。「人知れず殺人を犯すことが今日より容易だった」*9 のであり、殺人犯はなにくわぬ顔で我々と生活している可能性もあった。意外と最近まで、事件や事故の情報は己の生死と直結する、少なくともそのような切実さで受け止められていたのかも知れない。別の機会に調べてみたいが、ヤジウマが馬鹿にされるのは時間的にごく限られた(二十世紀後半以降?)現代人の視線であるように思う。

 

 現代人は生存のため最低限必要な知識を外部に蓄積し、また職業分化も進んだので、知識の獲得と生存はかなりの程度切り離された(スーパーに毒のある魚が売っていたりはしない……基本的には)*10。しかしたかだが数千年で遺伝的プログラムは改変されず、基本的に人は食欲や睡眠と同じように、認知に対する欲求を常時抱えている。

 つまり出来るだけ多くの事象を詳しく知り、その本質を把握して未来の判断のよすがとしたい、と思っている。ハムスターが運動本能によって車輪を回すように、われわれは外界を認識し理解するように駆り立てられていると云える。

 それはそれでいいだろう。もはや生死に直結しなくなったとしても、何らかの損得に関わる知識もある(広義には金銭・物・人間関係・生活環境その他あらゆる損得は生死に関係しているとも言える)し、知ること自体が楽しい場合も多い(これもこじつければストレス発散による健康長寿の促進といえなくもない)。だが情報量があまりにも多く複雑だと、当然ながら消化不良を起こす。処理しきれない情報は生存の危機の感覚と直結している。このような不安の感覚は、短いスパンでは如何ともし難い。

 

 *

 

 ホームズは新聞を熟読する。ネットはもちろんテレビやラジオ放送もない時代であり、新聞はこれらの今日的メディアを広く兼ねたものと思っていただきたい。

 

 さて新聞だが、ワトスン君、利用方法を知ってさえいれば新聞というものは実に有益な機関だね、と名探偵は言って、いつでもどこでも新聞を耽読し、必要なことは「切り抜き帳」に「データ」化する。新聞の構造が示す知識の断片性が、それを「データ」化し、目的を与えていこうとする感性によって悪魔祓いされる。*11

 

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「5つのオレンジ」冒頭。ワトソンが不吉なニュースをホームズに読み聞かせる。

 

 「データ化」とはすなわち検索・比較・精査を可能にするということであり、これはどうしてもオープンソース・インテリジェンスといった言葉が頭をよぎる。諜報員が得ている情報の大半はオープンソース(公開された情報)の分析によるものであり、秘密の情報を盗んだりといったことは、なくはないにしても始終そんなことをやっているわけではなく、スパイ映画のようなイメージは現実的ではないというのは今日、広く知られるようになった。
 胸躍る話である。つまり我々も、特殊な情報にアクセスできなくとも公開された情報を注意深く読むことによって、あたかも名探偵や諜報員のように事物の性質や動向を把握し、理解できるようになるのではないか、という夢想を与えてくれるからだ。

 

 ……しかし最後にどうしても述べておかなくてはならないことがある。それは、そもそも情報にたいする強迫観念は「読む」ことよって寛解するのだろうか? という疑問についてだ。

 

 ヴィクトリア時代当時の読書界にとって、情報というものは一種の強迫観念になりつつあり、切り抜き史料つくりが個人の趣味としてはやり始めていたのである。*12

 

 と、グラハム・ノウンは云う。洗浄強迫の人がいくら手を洗っても根本的に問題が解決しないのと同じように、強迫観念に駆られて読み続けることは、ともすれば悪循環であるようにも思える。

 このブログでも、そのような強迫観念に対する処方箋を何度も書いてきた。しかも相反する二通りの処方箋を。ひとつは強迫観念そのものと向き合い、ある種の断念によって寛解を目ざす方向性であり、もう一つはあくまで「手を洗い続ける」方向性である。只ししかるべき(名探偵/諜報員流の!)洗い方があるだとか、ある程度は洗うためにコストをかけるべきだ、という話として。

 それらは振り子のように堂々巡りを繰り返しており、未だに結論には至っていない。ハイデガーなら常に一つの態勢にしっくり来ないことこそが人間の存在の地平であり、つまりそれでいいのだ、と云うかも知れないが。

 

 ハイデガーはこの境遇から脱出する道を指し示す。われわれは実はこの世に「投げ込まれている」としたら、そこでは決してくつろげることはないのだとしたら、いつも本来の位置からずれていて、「間接がつながっていない」としたらどうだろう。このずれがわれわれを構成する原初的な条件、われわれの存在の地平そのものだとしたらどうだろう。(中略)そしてまさにこのずれこそが、脱-自的に世界へ開けてゆく人間の根拠だとしたらどうだろう。*13

 

 いずれにせよ、この問題については本稿に限らずすでにさまざまな角度から書いたので、これくらいにしたいと思う。あとは日々の実践のなかで答えを求めてゆくしかない。あるいはもしかしたら、問題自体を忘れる、つまり寛解するほうが早いだろうか。 

 

ハイテク過食症―インターネット・エイジの奇妙な生態

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情報選択の時代

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信じるということ (Thinking in action)

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*1:現時点で高山宏の唯一の文庫本(2002年刊)で、高山は「美書で高価、おまけに難解というイメージで、好かれ、また嫌われてきた俗にいう「高山ワールド」を、まっさらな知的感受性にぶつけてみたいと思います」と述べている。

*2:デイヴィッド・シェンク『ハイテク過食症 インターネット・エイジの奇妙な生態』

*3:リチャード・ワーマン『情報選択の時代』

*4:高山宏『殺す・集める・読む』所収「ホームズもタロットカードも」

*5:R・D・オールティック『ヴィクトリア朝の緋色の研究』原文ママ。

*6:オールティック、同書

*7:能力の低い人ほど自らの容姿や発言・行動などについて高い自己評価を下すという認知バイアス。ようは「バカほど自信に満ちている」ということなのだが、若干ジョーク理論的なニュアンスを感じる。ウィリアム・パウンドストーン『クラウド時代の思考術』(2017)で大々的に採り上げられており、この本の刊行あたりから本邦に広まったのではないかとひそかに憶測している。パウンドストーンも優秀だがジョーク的なものが好きな書き手である。

*8:もちろん私は権威主義者ではないが、根拠主義者ではある。そして往々にして根拠とは、専門的な読み解きが必要であったり、それなりの時間をかけて複数の根拠を突き合わせ精査することによって、はじめて事実が浮かび上がる類いのものなのである。

*9:オールティック、同書

*10:かといって知識の欠如/軽視がまったく生死に直結しないわけではなく、例えば「健康格差」と呼ばれるものの大きな原因の一つは、ある種の人々が現代医療を軽んじるためだという。またセーフティネットへのアクセス、各種防犯などは、いまでも知識と生死が関わりをもつ分野である。

*11:高山、同書

*12:グレアム・ノウン『シャーロック・ホームズの光と影』。只し上述の高山の本から引いた。

*13:スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』