軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

南京事件について(その5)

「南京における日本軍の衛生活動」大阪朝日新聞北支版(昭和13年4月16日)の林田特派員による南京便りを引用する。

「仕事は死体整理 悪疫の猖決獗期を控えて 防疫委員会も大活動」

「戦いの後の南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なっている幾満とも知れない死体。これを捨て置くことは衛生的に言っても人身安定の上から言っても害悪が多い。
そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片付け始めた。腐敗したのをお題目と共にトラックに乗せ、一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力が掛かる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業は続き、最近までに城内で1、793体、場外で30、311体を片付けた。約11、000円の入費となっている。
苦力も延5,6万人は働いている。しかしなお城外の山のかげなどに相当数残っているので、更に8、000円ほど金を出して真夏に入るまでには何とか処置を終わる予定である。
防疫方面についてわが現地当局者間に防疫委員会が生まれ、十月には大掃除を市内全部にわたって行うが、支那側警察局でも苦心し、百人の清潔班の派遣をはじめ所々汚い地区では大掃除を行ったり、大小便すべからずの立て札を立てたり、ドブを埋めたり死体を収容したり、相当努力しており将来は『防疫病院』の設立、衛生事務所(衛生組合のようなもの)の設置、種痘施行その他を企画している。
町の半ば以上の廃墟の中には特に古鉄類が醜かったが、自治委員会が買い入れを発表したので、仕事のない自由労働者群が拾い屋になって集めまわり、何百トンとまとまりつつあり、わが日鉄が買い上げることになっている。これなどは民国らしい清掃の名案だ。
夏むきの悪疫流行期を控えて食物衛生は特に重要であるので、いよいよ近く市内四箇所に市場が新設されることになった。
鶏が払底しているはずだのにむし卵売りが市内に氾濫しているという珍現象にあらわれている通り、南京は食料には弾力性のある町であるが、今のように大道の砂埃の中で豚肉を売っていたり野菜を並べていたりする風景を一掃、全部市場へ集めると同時に、江北方面から豚や新鮮な野菜をウンと集められるわけである。
わが兵隊さんも野菜には不自由しないのだ。」

この特派員報告記事を読んで、奇異に感じる日本人も多いに違いない。南京城内に入った日本軍は、城内で約1、800の遺体、城外ではなんと30、000余の遺体を、現地人の苦力約5,6万人を使って賃金を支払って?片付けているのである。日本山妙法寺にはこの時の記録が残っているのではなかろうか?
衛生情況の改善にも真剣に取り組んでいて、日中一体となって努力している様が彷彿とする。その上、中国農民達は鶏や野菜などを確保していて、それを記者は「弾力性ある」と表現しているのである。30万人もの虐殺が行われたのであればこのような記事は書けまいし、第一中国側当局者の協力が得られるはずはない。その後で日本軍が計画的に南京市民を虐殺したとも考えにくい。この頃の各国のメディアにも殆ど報道されていないのはどうしたことであろうか?
勿論、占領下である以上、イラク・バグダッドほどではなかったかもしれないが、残存中國兵によるテロ行為は続いていたに違いない。

当時の米国副領事が、1938年1月に国務長官宛に次のような「南京における状況」報告をしているが、その抜粋を書いておこう。

南京米大使館・作成者  米副領事 ジェームス・エスビー
       確認者  3等書記官 ジョン・エム・アリソン
       作成日付  1月15〜24日
       郵送日付  1938年2月2日
1, 12月10日以降南京に発生したる事項の概略
シナ軍は市の城壁の外側の市に属する大なる部分を焼き居れり。これは軍事上の目的よりその土地の邪魔者を除去せるなり。然れども残留せる在留米国人は、退却中のシナ兵による城壁内にて行われたる財産の放火破壊および略奪は僅少なりと主張しおれり。故に日本軍は入城と共に南京が実際に荒らされおらざるを発見せり。市民の残りの大部分は南京国際委員会の計画設定せるいわゆる「安全地帯」に避難しおり、相当数のシナ兵を巧みに補足する筈なりしが比較的少数なりしなり。実際に残留せるシナ兵の数は不明なれども数千の者はその軍服を脱ぎ捨てて常民の服を着て常民に混ざり市内のどこか都合よき処に隠れたるに相違なきなり。
(中略)
しかしながら、ここに一言し置かざるべからざるは、支那兵自身は日本軍入城前に全然略奪をなさざりし訳にはあらず。少なくもある程度には行ないおれるなり。
最後の数日間は疑いなく彼らにより人及び財産に対する暴行犯されたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じその中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いしなるべし。彼らの無秩序の時のことなり。
退却する軍人および常民にても、時と場所とにては計画的ならず略奪を為せしことは明らかなり。全ての公の施設の機能停止による市役所の完全なる逼賽と、支那人政府と大部分の支那住民の退却とにより市に発生したる完全なる混乱と無秩序とは、市を如何なる不法行為をも行い得らるる場所となし了れるなり。
 これがために残留せる住民には日本人来たれば待望の秩序と統制との回復あるべしとの意味にて日本人を歓迎する気分さえもありたることは想像せらるる所なり」

口語体のしかも翻訳文なので、多少読みづらいところがあるが、米国人が当時の状況をどう捉えていたか、又「便衣兵」(修正・ご指摘感謝します!)がいたことを証言する貴重な記録であろう。