十年むかし

野暮用の昼休みに撮った写真が”雑草写真”なので、ブログ開始以前の東近江のナノハナを、数で勝負ということで。

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1枚目と2枚目は当時使っていたズームレンズ、3枚目はペンタックスの28mmソフトレンズをマウントアダプターで撮ったと思います。

「むかし」を引用して、
 白粥の咽喉(のど)こゆるとき二十年むかし讀みたる「憂愁夫人」   (塚本邦雄:風雅)

知ってるつもりにならない

きのうは数か月ぶりの野暮用でした。
昼休みにこっそり撮った写真をアップしてみたものの、我が家の庭で撮った雑草写真とちっとも変わらなかったので、きょうこそは花を目論んだのですが、花の盛りはもう終わってました。

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nokton 60mm 0.95

先日知っていること知らないことについて引用しましたが、きょうは写真家石川直樹の言葉を、

 このごろ、時間について考えることが多かったんです。たとえば昨年2020年は、コロナ禍のために無為に消費されていく時間がたくさんありました。若い頃は時間が流れるのが遅く、年齢を重ねるにつれてどんどん時間が矢のように過ぎ去っていくのはなぜなのか。心理学的にもそう言われているようですが、実感としてもそうですよね。子どもの頃は、一年が早かったなあ、なんていう感慨はなかったので。赤ちゃんの頃は、いろいろなことに日々驚いて、手で触ったり、投げたり、舐めたり、いろいろなことをしながら世界を知覚しています。そのように世界と向き合っていたら、一日が早く過ぎ去るなんてことはない。

 子どもたちにとっては多くのことが初めての経験だったりして、それは羨ましくもあり、できれば歳をとっても初めて出会う世界として目の前の風景を認識できたらいいなあ、と思うことがあります。むしろそうでなければ、あらゆることに反応できなくなってしまうし、シャッターも切れなくなってしまいますので、常にいろいろなことに驚いていたい。

 そのためには「知っているつもり」にならないようにしたい、と心がけています。知っているつもりになって、いろいろなものを切り捨てていっちゃうと、何も反応もしないまま時間が過ぎ去って、いつのまにか年老いて、写真も撮れないし、つまらないなあと。

 僕は、自分が出会ったときの驚きや反応でシャッターを切っています。それは山へ行ったときも都市でも人物を撮影するときでも、変わりません。どんどん変化していく東京も、人間が作りだしてきた風景であり、極めて人工的な環境です。それを拒絶するのではなく、受け入れるというか、ひたすらしつこく見続けることが必要ですね。見続けながら、言葉にならない出会いや発見を繰り返し、知ってるつもりにならずに世界を知覚し、どうにかシャッターを切り続けたいと思います。(Real Sound 写真家・石川直樹が見つめる、”東京”の変化 「いまこの写真集を出すことに意味があると思った」より)

「知ってるつもり」になると、写真は撮れなくなってしまうそうです。東日本大震災を理由に大きな写真賞授賞式を欠席した人らしいと思いました。

 われら知らぬ濃き愛の日日つぐなふと囚徒らの脚險しく細し   (塚本邦雄:水銀傳説)

とりあえず

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のごとく立つ

消えてなくなる前に11年前の竹生島を。

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むかしの同僚が退職後に始めた写真趣味のグループ展案内をいただき行ってきました。
おおくは年上のメンバーだと思いますが、わかわかしく写真を撮ってみえる様子がうかがえて気持ちよかったです。

案内状をくれた友人はこの一年間でなにやこれや数回新聞に紹介されたそうで、pithecantroupusは少しうらやましくなりました。

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 裂かれし獨活(うど)のごとくわれ立つ 冩眞展、キャパの〈倒れる兵士〉の眞下   (塚本邦雄:日本人靈歌)

記憶が消え失せ

玄関から三歩の”ゴミ写真”を三日続けたあとは10年以上前の写真で。
当時から”何撮ってるの”写真を撮ってました。

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むかしの写真データを保存したHDが壊れつつあるようで、すでに読みだせなくなっているものがあります。
きょうは、全部読みだせなくなる前に助け出した11年前の写真。
記憶はとっくに消え失せて、こんどは写真まで消え失せる。

 ありし日の「し」こそ眞實、刎頸の友消えうせて形見の長靴   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

いましめ

これはゴミではありませんよ。似ているけど。

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tokina 300mm 6.3  reflex
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m.zuiko 60mm 2.8  macro

きのうの坂本スミ子で映画の思い出がよみがえったので、雑誌GQジャパン最新号”「語る」日本映画”から、『小津安二郎が男たちに送る「大人になれよ」というひそかなメッセージ』(内田樹)の一節を引用します。

・・・彼らはみな少年らしさを残していますけれど、それは幼児性ではありません。女性に甘えもせず、威張りもせず、ただ親切に、正直に接する、そういう風通しのよい青年を小津はときどき造形します。たぶん、男はどんな年齢であっても、なにかのはずみで一瞬「青年」になることがある。手に負えない幼児性と老成と青年のみずみずしさ、それらを併せ持っているのが成熟した男なのだ。小津はそんなふうに考えているように僕には思えます。ただ、世俗を脱して好々爺然としているのが「男の成熟」ではない。男が成熟するというのは、もっと複雑な存在になることだ、と。・・・

pithecantroupusはいまだに幼児性と真ん中とばしの老人性だもんなあ。不良少年性もちょっとあるなあ。青年はどこへいったのかなあ。

 理髪店まひるとざして縛めし靑年の皮剥げる火曜日   (塚本邦雄:綠色研究)

すみやかに去る

雨傘をさして撮った昨日の写真に気をよくして(自己満足!)晴天の今日も”三歩写真”を撮りました。

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tokina 300mm reflex

モノクロームも。
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m.zuiko 60mm macro
先週に坂本スミ子が亡くなったそうです。
歌よりもグラマーな肢体のほうが記憶に残っています。野坂昭如「エロ事師たち」の映画で胸もあらわなスリップ姿が目に焼き付いたままです。(汗)

映画の少し前にトラジスタグラマーという言葉がはやって、彼女のような女性のことをさしているのだと理解ました。
早熟なpithecantroupusが大好きだったイタリア映画「苦い米」の女優、シルバーナ・マンガーノを思い出させました。

スミ子のかわりに”すみ”で引用して、
 すみやかに去る壮年のうしろ髪されば若葉の香のみだるるを   (塚本邦雄:摩多羅調)

枯草に落椿

雨だけど玄関から三歩で
枯れた雑草と落ちたツバキを撮りました。きれいでしょ?

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m.zuiko 30mm 3.5 macro
 椿畷椿小路とたづねつつこの戀すゑはたれをあやめむ   (塚本邦雄:天變の書)

撮れればうれしい

きのうに引かれて伊良湖ノスタルジアで。

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あの日は神島が見えていました。
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あるところに、
『私も書ければ(読めれば)うれしい。しかし、もし書けなくなった(読めなくなった)としても希望の最後の一片はのこるだろう。』(津野海太郎「最後の読書」に引用された鶴見俊輔と幸田文の文から)
とあったのを、写真に置きかえて想像してしまいました。

 春夏秋冬わがたましひの歩みゆく道・途・通の最後は夢か   (塚本邦雄:歌誌『玲瓏』 2003年5月)

みんな仲良く

きのうふる~い伊良湖のナノハナの写真だったので、伊良湖の”記念写真”を。
どこにでもあるような”記念写真”ですが、こんな日もあります。
「毎日がどこにでもある写真じゃないか」などと厳しい事はいわないということで。

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恩赦でいくら稼いだのだろう。必要のない離任式でいくら税金をつかったのだろう。
離任式でまた勝手にミュージシャンの音楽を使ったけど、文明から遠いところにいれば普通のことなんだろうなあ。
こんな記事読みました。

 デモクラシーは取り扱いの難しい仕組みです。デモクラシーは集団成員に市民的に成熟して、この「適切なさじ加減」ができるようになることを要求します。
 デモクラシーが他のすべての政体より優れているのは、それが市民に「大人になること」を求めるからです。市民的成熟を遂行的課題をして集団成員たちに求めてくるという運動性と開放性がデモクラシーの最大の手柄なのです。(内田樹「市民社会とコモン」)

 みんな仲良く殺しあふべし萬綠に店舗(みせ)開け放つ二瓶(にべ)刃物店   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

ナノハナ

菜の花が撮りたいなあ。近所ではまださいていないかなあ。皆さんのブログにはきれいな菜の花が写っているのになあ。
ということで、まだブログを始める前に撮った伊良湖のナノハナ。古くてちょっと黄色に変色してます。

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おつむが歪んでいない証拠も必要だから。
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 菜の花のつめたき朝の崖下りひとり敵(かたき)の街にむかへる   (塚本邦雄:透明文法)

未知の部分

玄関から三歩そとへ出て、寒いから目の前の枯れ草を拾って、あったかい部屋でパシャッ。
何かの種子ですが、どんな花が咲いていたのかはっきりと思い出せません。シランだったかも。

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m.zuiko 30mm 3.5 macro
以前も引用した加藤典洋「大きな字で書くこと」の中に『知っていることのなかに、知らないことを見つけることは、難しい。知らないことは、決して探して見つかるものでないからだ。』と書いてありました。

pithecantroupusは知っているではなくて知っているつもりだから、知らないことはすぐ見つかります。(汗)
心配は、頭が固くなってきているから「知らない」と素直に言えない事。知っているフリをしてしまう事。

 今日の未知の部分 少女ら抱へゆく半透明の風呂敷の中   (塚本邦雄:日本人靈歌)

時には力に

「時には写真が今を生きるための力にもなる」という言葉にすがって今日も変り映えのしない写真です。
一昨日の「神戸レクイエム」に使えなかったショットを。

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タテ位置で、やっぱり使えなかった写真も。

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冒頭の「時には写真が今を生きるための力にもなる」は河北新報のきのうのコラムから引用しました。

 昨秋公開された映画『浅田家!』の主人公は、写真家浅田政志さん(41)がモデル。東日本大震災の津波で流された写真をきれいに洗い、持ち主に返したボランティア体験が素材になっている。
 スクリーンを見ているうちに気になった。いったい、あの震災でどれだけの写真が救済されたのだろうか。
 被災写真の洗浄と復元の活動に取り組んできたNPO法人「おもいでかえる」(仙台市若林区)によると、市内の被災地で回収された写真の数はおよそ30万枚。そのうち約14万枚を毎年開いてきた返却会などで持ち主に届けた。
 「おもいでかえる」の丹野ゆみ理事(53)は「写真には生きた証しが刻まれている。かけがえのない思い出を取り戻してほしい」と願う。残る16万枚はファイルやデジタルデータで保管され、2月と3月に仙台市で展示返却会を開く予定。
 10年たってようやく「家族の写真を探したいという気持ちになった被災者もいます」と丹野さん。『浅田家!』の主人公も言っていた。「時には写真が今を生きるための力にもなる」(河北抄『昨秋公開された映画『浅田家!』の主人公は…』

 生きて冬の海を聽くてふおそらくは血も紺靑のなごりのうしほ   (塚本邦雄:靑き菊の主題)

効果なしの回想法

きのう昔々のなら写真を見ていたらまた回想法の虫がうごいて一枚。
経験上ちっとも効果が出ていない回想法ですが甘美な味に負けました。

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季節外れで、
 奈良伽藍こころもそらの少女らが夏のかぎりを囀りつくす   (塚本邦雄:閑雅空間)

26年目

26年目を忘れていないと、10年前の奈良で撮った写真でレクイエムのムービー。
どこが鎮魂という鋭い指摘はしないということで。(汗)

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ムービーはうまく埋め込めないので、このリンクでたどって下さい。



動かないのをもう一枚追加。

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 蝶墜ちて空氣さびしきあらがねの地震観測所裏初霜   (塚本邦雄:黄金律)

昨夜のゆめ

そろそろ菅島を卒業しないと、と思いつつ今日も菅島です。ノスタルジアは甘美だからなあ。

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ときどき引用する歌人の穂村弘を今日も引用します。(世界が比喩になっていく Webちくま「絶叫委員会」第126回)

 新幹線以前の特急の名前は、例えば「つばめ」とかだった。最高時速200キロとも云われる鳥のスピードに肖っているのだろう。「つばめ」は実体のある生き物だ。ピイピイ囀って餌を食べて糞もする。それに比べると「こだま」や「ひかり」は実体感が薄い。生き物じゃないし、手で触ったりもできない。とはいえ、音や光は一応体感することができる。だが、「のぞみ」はさらに進んでいる。もはや実体はどこかへ溶けてしまった。
 話は新幹線に限らない。時代が下るにつれて、ネーミングセンスというか、その背後にある我々の感受性が、どんどん実体から遠ざかってゆく、という現象があるんじゃないか。・・・

 ・・・イメージ化によって欲望を無限に肥大させること。お金の動きをベースとした社会にとってはこの点が重要で、その結果、ほとんどの実体は溶けてゆく。最後に残る実体とは死。これだけはまだ避けられない。我々はその直前までイメージや比喩の夢の中にいるのだろう。

そういえば写真も同じかもしれませんが、くやしいことにpithecantroupusはまだ前世紀から抜けていないようです。
だいたいからして、”ぜんせいき”を変換しても”全性器”と出てくるようではpithecantroupusの新世紀は遠いなあ。(笑)


 アルプスの禽(とり)啖(く)ふ昨夜(よべ)のゆめさめて性器みのりしわかもの步む   (塚本邦雄:水銀傳説)

それにしてもこの薄汚

なお菅島。

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あす受験生は大変だなあと、身近に年頃がいないのでのんびり他人事ですが、”「PCR検査受けられない」 受験生悲鳴、追試の恐れも”というニュースを見ると、ちょっと耳がピクピクしてしまいます。

濃厚接触者とされた受験生がPCR検査陰性を受験までに必要とするのだけれど、文科省が厚労省に要請したのが12月で厚労省が自治体に要請したのが今週の12日と書いてありました。しかし検索すると、文科省が厚労省へはっきりとPCR要請をしたのは今月8日のようです。

試験直前になってニュースにするのも遅すぎますが、情報の伝え方が不十分では、報道への信頼が低下します。
トランプSNS外しへのメルケル首相コメント報道も、誤解を与える内容でした。

 鶴飛來のニュースは七日前それにしてもこの薄汚れたる日本に   (塚本邦雄:約翰傅偽書)

なぜかいまごろ

菅島にもあった観的哨を。ノスタルつづきです。

季節外れですが「海軍」がでてくるので、
 柿若葉潮騒に似て夜に入るをなぜかいまごろ海軍記念日   (塚本邦雄:汨羅變)

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菅島のスイセンもなお。

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ちょっとまえにこんな記事を読みました。

 仕事から解放された後に訪れる日々を、江戸の人々は、「老入(おいれ)」といっていた。いよいよ好きなことにひたすら打ち込むことができる。老入はそうした生き方へのスタート地点、そんな思いがあったようだ。
 改めてつぶやいてみると「老入」は、実にいい言葉ではないか。老後というと「老いの後」。人生の残り、おつりというニュアンスが強いが、老入ならば、「老年期に入る」。現役を終えた後も人生の一つの期間ととらえ、これから一勝負できるという前向きで明るい気分も伝わってくる。(朝日新聞「一冊の本」より菅原 圭「老入」のススメ)

ネット検索をしてみると「老入」はあちこちに言及されていました。もしかしてまたひとつ賢くなったのかも。

同じ「一冊の本」サイトの別記事で、『老いを考えたり描いたりするのはエレジーになりがちですが、そこには若さとは別種のエナジーが潜んでいるように思うのです。』(仁木 英之「老いて枯れ 老いて壮んな男たち」)という言もあって、老に負けそうなpithecantroupusは調子に乗ってしまうのです。(へへへ)

音楽といえば

菅島ノスタルジアなお。

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ちいさいころは正月というのは羽根つきと凧あげとこま回しをしなければならないと思いこんでいました。
なので正月の写真も一枚、菅島の帰りがけに鳥羽で撮りました。

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村上龍が、
 東日本大震災と福島原発事故のあと、過去の音楽や映画に接することが増えた。昔を懐かしがるのは嫌いだったし、今も嫌いだが、昔を思い出して現実から逃れようとしているわけではない。現実からは逃れられない。ただ、当たり前のように見たり聞いたりしていた昔の映画や音楽が、本当は貴重なものだったと今さらながら気づきはじめたのだ。(村上龍「櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている。」)

村上はこのあと、アルフレッド・ハウゼやアントニオ・カルロス・ジョビンやプラターズやレイ・チャールズなどをあげつつ、時代状況に言及した後、

 カルロス・ジョビンもレイ・チャールズもビートルズも、二度と現れることはない。わたしは往年の名曲を聴きながら、失われてしまって二度と戻ってこないものに、思いをはせているのかも知れない。

と結んでいるのを読んで、ノスタルジアだっていいじゃないかと開き直るpithecantroupusです。

音楽といえばキリギリス。アリは保護責任者遺棄致死罪。
 きりぎりすその複眼に映りつつ惡魔なり 音樂を生(な)せしもの   (塚本邦雄:綠色研究)

塔にまたともる灯

スイセンを撮った菅島観光のメイン、灯台は、明治6年製レンガづくりだそうです。記念写真をとらなくっちゃ!

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 砲塔にまたともる燈(ひ)よ かずしれず小鳥わななきあふ冬の夜を   (塚本邦雄:透明文法)


『習慣とは変なものですね。いつもと同じという安定を生むと同時に、変わりたくても変われないというジレンマも孕みます。』といいつつ、
 習慣はひとつの記憶だと思うことがあります。手間ひまかけてつくる記憶です。繰り返し、繰り返されることでつくられる習慣が体に記憶を生じさせ、日常をオートマチックにサポートしてくれます。それは、体に「わたし」が乗っ取られつつ、「わたし」が体に執着していくきっかけにもなる。(村瀨孝生「手間ひまかけてつくる記憶」)
という文を読んで、忘れないようにしようとするよりも足元の明るいうちに習慣にしようとおもったpithecantroupusです。

かぞえられるとが

一枚だけ。

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 レオナルド・ダ・ヴィンチの咎に算へむは水仙の香を描き得ざりし事   (塚本邦雄:魔王)

ある地点にて

10年も前、まだブログを始める前、鳥羽市菅島へスイセンを撮りに行きました。

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かの国会議事堂突入はナチズムを連想させました。
破壊と暴力と、コロナウイルス汚染を議事堂にまき散らしました。

反ベトナムで立ち上がった若者たちはもういない。
そのことがかの国の病理を示しているように感じます。

 奔流が或る地點にて憤然とくづれおちたり「ナツィの瀧」とふ   (塚本邦雄:汨羅變)

あいつ、今日

毎日「窓から写真」では中性脂肪が増加するばかりなので、きょうは「玄関から三歩写真」です。
たとい3歩でも体を動かしたので、パチパチ撮って戻って、ぜんざいをいただきました。(笑)
3歩ですから写真の出来は棚に上げて。

「さんぽ」の歌を引用して、
 三方金の詩集賣り拂つて哭いてゐるあいつ、今日「鉛婚式」か   (塚本邦雄:詩魂玲瓏)

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nikkor 135mm 2.8
6日、戦後日本が民主主義のお手本にしてきた国の出来事に驚きました。

「クーデター未遂」前の記事ですが、
 マルクスは『ブリュメール18日』で、人間たちはまったく新しいことをしているつもりでいるときに「過去の亡霊」を呼び出し、過去の「スローガンや衣装を借用」すると書いています。その通りだと思います。今もまたアメリカ人たちは、遠い昔に誰かが使った台詞を繰り返し、埃を払って古い衣装に手を通しているのです。(内田樹「アメリカ大統領選を総括する 2020-12-3」より末尾の部分)

同じようなことをどこかで読んだと思ったら、幸田露伴が「新年言志という事について」に続いて「簡素治新ということ」を書いていて、
 新しくさえすればいいと思って、新しいつもりで昨日とちがったことを今日やりだすと、今日やりだした事が実は新しくなくてかえって去年既に行われたことであることが稀でない。つまり知ることの少いものには新しいものがおおい道理で、小児には大抵のものは新しい、老人には新しいものは少い。・・・・世人はおおく自己の出あいつけぬ事物に出あった時、それを新しいといい、然様でないものを古いというのである。
と書いていました。

しかしさすが文豪は、
 沈滞して流れぬ、それを古いといいたい。生々活動する、それを新しいといいたい。・・・・斯様いうようにいうと一切のものは皆日に新しい。・・・・
と結んでいました。

コロナ時間

年賀状を来年からやめますというのがいくつもありましたが、年上だけでなく、息子のような年齢の人からそう言われて違和感が残りました。
以前に、年賀状をもらってから出すというやりかたにするにはまだ2、3年かかりそうと書きましたが、『年始状』というものがあるそうなので、検討しようかな。

きょうも家の中で丸くなっているので、窓から一枚だけ。

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nikkor 135mm 2.8
緊急事態宣言ふたたびだそうです。
業界に差をつけるのはメリハリですか。“変容”というなら、サマータイムのような“コロナ時間”をやったらどうでしょう。正午からは、実際の時間にプラス2時間とする“コロナ時間”。
会社も学校もコロナ時間午後5時(実際は3時)で終了。飲食業は従来通り午後10時まで営業。大河ドラマも午後8時(実際は6時)に放送。

 人生いかに生くべからざるかを憶ひ朱欒(ザボン)を眺めゐたる二時間   (塚本邦雄:黄金律)


振り返るなんてことを

う~、さむい。だから窓からパチリで。

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正月のテレビで実業団駅伝を見ていたらコニカミノルタとなつかしい名前が出てきました。てっきりソニーブランドに吸収されていると思っていたら、カメラ部門だけソニーと教えてもらいました。
それでまた彼を思い出したので、こちらの記事を引用します。

 「男が一度こうと決めて走り出した以上、どんなことがあっても後を振り返るなんてことを、するじゃねえ」( 平川克美「見えないものとの対話」より)

彼の遺書を読むたびに涙腺がゆるんだpithecantroupusはうるうるしてしまいます。
引用したのは父親が彼を叱咤した言葉ですが、これも胸に刺さるのです。
pithecantroupusも一時期、うしろをふりむかないという強迫にしばられていました。
これは武士道のこころえでした。だから、ドラマの武士がふり向くと白けてしまいます。

 風のちまた百のテレヴイにマラソンの獅子奮迅のずたずたの獅子   (塚本邦雄:綠色研究)

ほうおうに背きしもの

きのう言った自分の言葉に反省しつつ強面(こわもて)のウシをひとつ。
欲しかったベコサスが手に入らず、ちょっと似ているホウオウベコです。

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m.zuiko 30mm macro
2枚目もあげないと不安なpithecantroupus。あいかわらず。

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m.zuiko 30mm macro

オリンパス(ズイコーフレンドクラブ事務局)から”【連載:オリンパスを受け継ぐ、OMデジタルソリューションズの想い】序章:新会社へ変わる。でも、フィロソフィーは変わらない。”という長ったらしい件名のメールが来ました。
1月1日にオリンパスのカメラ部門がOMデジタルソリューションズへ完全移行したのを受けたもののようです。
面白いかもと思いつつ、今後配信予定の第一章が『「OM」の誕生が、一眼レフカメラの既成概念を覆した。』というのを見てちょっと失望しました。pithecantroupusにとってOMは妥協の上にできた不完全な一眼レフです。

引用もホウオウで、
 法王にそむきし者ら繋ぎたる裏に葡萄の彫りある手錠   (塚本邦雄:装飾樂句)

奪ふもの

きのうの円筒埴輪を模した構造物が、水飲み場にも使われていましたので、「軽蔑の記念写真」を。
進化なし、後退のみ、ああいやだ。歳はとりたくない、といえば歳をとった人々に失礼ですね。

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nokton 29mm 0.8
軽蔑の蔑で、
 はなびらに孔ふさがれし噴水のわれより奪ふものあらば侮蔑   (塚本邦雄:感幻樂)


きのうの舌の根も乾かないのに、出来の悪さに2枚目を。
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nokton 29mm 0.8

届いた年賀状の牛たちは半分以上がかわいい系で、あとは真面目系。本物はくさくてきたないけど、そんなのは皆無。
強面(こわもて)系がひとつぐらい見たかったなあ。いらんこといって自分の首を絞めるpithecantroupusです。

やがて自分も歩む

神社の池に円筒埴輪を模した噴水がありましたのでパシャッ。

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nokton 29mm 0.8
前に、一日一枚を目指してすぐに挫折しました。それでもいつかはとは思っています。
きょうもその虫が出ました。(汗)

昨年のことですが、「横書きのコンマ(,)が点(、)に」という文化審議会の記事を読みました。
和文タイプでは縦書きと横書きの読点は活字が別だったと思います。記憶があやしいけど。
コンマの方が間違いなく横書き和文が書けたのでは。

いまはPCで横書き和文が簡単に書けますが、それでも毛書体を斜体にされるとちょっと気になります。
しかし昨日かいたように、それも老化がなせる事と思えば、しかたがないなあ。もう戻ることはないし、やがて自分も歩む道だから。


 老いゆかばいろなき冬日きみを背にうけつつ孤り焚かむ枯菊   (塚本邦雄:透明文法)

人ら神社に向かう

お昼ご飯の「ついでに初詣」写真です。
地元で大事にされているけど遠くから来る人はいない、ヤマトタケルに縁のある神社。

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nokton 29mm 0.8

神社に向かうのは「人ら」ですから、人と人でないものの両方ですよね。
 二日、畷のさびしき曇りたむろして人ら夢違(ゆめちがひ)神社に向ふ   (塚本邦雄:風雅)


届いた年賀状を見ていると、ある年齢以上の方は年々の老化が分かるような気がします。pithecantroupusも同じように齢をさらしているのでしょうね。

趣味の写真を使ったものもいくつかあるのですが、ことしはシカの写真の一枚だけが様になっていました。あとは山の写真の一枚もまあまあかな。それに、定点写真は家族写真同様、意味があると感じます。
以前は家族写真をちょっと軽く見ていましたが、昨年、浅田政志の写真を見て考えを改めました。

毎年気になるのは賀詞のフォントや文字飾りです。フォントはまだしも文字飾りはほとんどダメですね。
あいかわらず今年も自分のことは棚に上げるpithecantroupusです。(笑)

あみの孔に

新年最初の写真がこれでは、今年のこの先があやういですが、この辺がpithecantroupusの限界。

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nokton 29mm 0.8

「もうろく帖」(鶴見俊輔)の2000年1月1日に『もうろくしていないふりをするな。』と書いてありました。(翌日は、知ったかぶりしない云々と)
pithecantroupusは、金網にとらわれてしまっていることをそのまま受け入れなければいけないのでしょうね。

 とりあみの孔幾千に霰降るはかなしよ神も人を戀ふると   (塚本邦雄:雀羅帖)

年末ネットのニュースで、リスが人を襲っているというのを見ましたが、つけてある写真のリスがいかにも挑戦的な態度で警察の「容疑者」写真みたいに写っていました。
むかしむかし、ウサギやリスはあこがれの動物だったなあ。思いっきりさわりたいといつも願ってました。


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雪の元旦の計

つつしんで

2021ブログ2

足元が明るいうちに
写真を撮り
本を読み
Age of Penに訪れていただいた皆様によきことが訪れることを祈り
水たまりの大きさのAge of Penが涸れてしまわないことを願います


一昨年死去する2か月前に加藤典洋は『もう一人の自分をもつこと』と書きました。
 長いあいだ、ものを考え、言葉に書くということを続けてきて、自分について、思うのは、考える場として、つねに二つの場所をもってきた。そのことのもつ大切さである。 ・・・
 ・・・ 自分のなかに、もう一人の自分を飼うこと。ふつう生活している場所のほかに、もう一つ、違う感情で過ごす場所をもつこと。それがどんづまりのなかでも、自分のなかの感情の対流、対話の場を生み、考えるということを可能にする。

Age of Penはpithecantroupusのもう一つの場所です。
大切な場所です。


 今年二千首をくはだつる淡雪の元旦の計姦計に似つ   (塚本邦雄:不變律)