のちのことなど想ふ

 きょうはウラをテーマにした(つもりの)常滑です。

 きのうの「赤い家」の表側に回って撮った写真がきょうの一枚目ですが、赤い家は全く見えず、観光案内に載っていない路地のひとつに入らないとあの家は見えないのでした。
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表は裏とはだいぶん違う。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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裏ではないが表口でもない。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

塚本邦雄
 花蘇枋われは童女を侍らせて死ののちの死のことなど想ふ   (詩歌變)

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裏庭は喫茶店。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

 ある本にきょうの短歌の童女を塚本邦雄の孫娘と解説してありましたが、現実にそのような場面があったとしても歌人の脳は別世界を空想しているように思います。歌人は愛妻を蘇枋処女と呼んでいたとどこかで読んだ記憶があり、童女は妻その人ではなかったかと感じます。

きりてあかき

 今日は赤をテーマに。
 赤は外に向かっていく積極的な色という印象があって、引っ込み思案気味の私にはあこがれても届かない色です。
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三日住めば性格が変わるかも。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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隅もちゃんと塗りました。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

 赤は目立つので一部分だけを塗ってすませる事ができず、どんどんとペンキが拡散してやがて全体が赤くなった。そんな印象を受けましたが、それにしても塗り残しのない丁寧な仕事ぶり。
 引用する歌は、きのうの「革命」つながりと今日の「赤」で選びました。

塚本邦雄
 きずつきて彼らがなさむ革命を待つ 夜を斷(き)りて赤き陸橋   (日本人靈歌)

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わたしは赤なのか。金だろう。 M.ZUIKO 25mm F1.2

 ところで三月もおわりなので、ブログの写真を中心に「さよなら三月」というスライドショーにしましたが、友人のタブレットで見たらPCで作ったものとは違う動画になっていました。WEB上で再生する動画なので、端末がスマホやタブレットだと作成した通りには再生できないようでした。(リンク先『さよなら三月』

 賞味期限一カ月の動画です。(音量調整ができませんので大きな音が出ます)


もうたがはむ無

 きょうは煙突がテーマです。
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空へ通じる道かも。 M.ZUIKO 25mm F1.2

塚本邦雄
 菠薐草(ほうれんさう)鍋に死につつこの午餐後もうたがはむ無血革命   (日本人靈歌)

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きっと天に通じる道だ。 NOKTON 17.5mm F0.95

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私も上れるだろうか。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

 ホウレン草が煮えてぐったりしていくのを「死につつ」などというのを、大仰ととるか大胆な比喩ととるのかは人それぞれでしょうが、日常の風景を思いっきり外界にとばしてしまう表現がわたしには勉強になります。勉強しても上達しませんけど。(笑)

 「日本人霊歌」は1958年出版され翌年「第三回現代歌人協会賞」受賞にいたった歌集だそうですが、歌の後半に世界革命への懐疑と革命という言葉になお心惹かれるインテリゲンチャが引っ張るこの時代の世相を感じます。もっとも「無血革命」は短歌の変革のことを指しているのかもしれないとも思うのですが。

いたむあけぼの

ふたたび常滑散歩を、晴れ時々ネコということで続けます。
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ミモザの季節ですね。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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土管でポーズ。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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この家に住めば野菜ぎらいが直ります。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

塚本邦雄
 別れぎは聯隊旗手にくちづけをゆるしたあとのいたむあけぼの   (透明文法)

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主よ人の望みの喜びを。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

おぼろなり

 うかうかしているうちにもうサクラの季節になってきましたが、3月中旬に撮ったウメの花ののこりをアップする機を失うことを恐れて、きょうはしだれウメのライトアップを。
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M.ZUIKO 25mm F1.2

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M.ZUIKO 25mm F1.2

 歌も三月中が賞味期限のものを引用します。
 
塚本邦雄
 涅槃西風(ねはんにし)くびすぢに吹き眞晝さへ靈長類の靈おぼろなり   (獻身)

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SUMMILUX 15mm F1.7

 撮影に行った日はあの大震災の6年目にあたりました。
 夜になって灯りが入ると、一つ一つの花に命が宿ったように感じました。

それぞれのうちに

 三日もネコを続けてしまってブログの趣旨が動物系になるのをおそれて、今日は植物で。あいかわらず常滑ですが。
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ようやくあなたに出会えました。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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見上げれば。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

 植物系といいつつ、まだネコもいたりして。

塚本邦雄
 盲(めし)ひたる猫それぞれのうちに養(か)ひ微溫浴室(テビダリウム)のごとし我家は   (日本人靈歌)

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お行儀よい。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

秘密もち

 仏の顔もと言いますが、ネコは仏じゃないから三度目も許されるかと思って、今日も常滑でネコをつづけます。
 短歌も季節はずれも無視して、ネコ。
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観光スポットの「土管坂」で遊ぶ。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

塚本邦雄
 祕密もちてこもれるわれの邊に睡り初夏(はつなつ)耳の孔紅き猫   (日本人靈歌)

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見上げれば君がいた。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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お賽銭は無いの? M.ZUIKO 25mm F1.2

すこし愛す

 きのうのネコにちなんで、猫つながりで常滑です。
 モデルは、私物の「貯金箱」になってもらいました。
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かれが、来い来いと呼んでます。 M.ZUIKO 25mm F1.2

 短歌も、以前にも引用したものですが、ネコで。

塚本邦雄
 飼猫をユダと名づけてその昧(くら)き平和の性(さが)をすこし愛すも   (装飾樂句)

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足元が不安定で、ちょっとだけヒアヒア。 M.ZUIKO 25mm F1.2

 反射神経というものがもともと無くて、運動神経というものももともと持ってないので、敏捷なものを撮るのが大の苦手です。モータースポーツ、鉄道、イヌ、ネコ、どれもうまくとれません。
 その点で、ここのネコは、もたもたしている私をいつまでも同じポーズで待ってくれている優しいヤツです。

なまぐさ

 きょうはうす曇りの一日でしたが、ジャンパーを着て歩くと汗ばんでしまいました。
 最近ごろごろとして、なまぐさを決め込んできた罰を受けて、足どりもあやしく、汗をふきふきほっつき歩きました。
 ここは常滑です。

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貴方は美しい。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

塚本邦雄
 春雷のあとなまぐさき椿かな   (現代詩手帖「塚本邦雄の宇宙」より 斎藤慎爾選「燦爛」)

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ぼくのハートを。 NOKTON 17.5mm F0.95

なにが世捨人

 鈴鹿の森公園のしだれ梅ライトアップ、なお。
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光る梅花のシャワーの中で。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

塚本邦雄
 何が世捨人苔色の春服(しゆんぷく)著て   (現代詩手帖「塚本邦雄の宇宙」より 斎藤慎爾選「燦爛」)

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梅花が光をろ過している。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

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六稜の星に影法師。 M.ZUIKO 25mm F1.2

 ときどき寝ころんで読んでいる本(2011年出版)に、気になっている写真家、金村修へのインタビューがのっていて、彼が20年間新聞配達をしながら、11時くらいから14時半くらいまでの朝刊と夕刊の合間にプラウベル・マキナ(なつかしい!)で10本ぐらい撮っているとありました。
 才能は時間の多寡を容易に超えるのだと、自らのダラダラ生活に比べて、うらやましいような憎らしいような。

矢印の方、夜

 三連休を家でゴロゴロして、歳を考えれば貴重な残り時間を浪費したと後悔中です。
 鈴鹿の森公園しだれ梅ライトアップを続けます。
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WBを変えました。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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春が来たかな。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

塚本邦雄
 鳥人クラブ解散式は地下二階矢印の方、夜の海に落つ   (驟雨修辭学)

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夜のウメに落つ。  M.ZUIKO 25mm F1.2

ぬつと

 鈴鹿の森公園のウメに戻って。
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足元に灯りが入る午後5時半。 NOKTON 17.5mm F0.95

塚本邦雄
 椿一枝(いつし)ぬつと差出し擧手の禮嚇(おどか)すなこの風流野郎   (汨羅變)
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日が傾いた午後4時半。 NOKTON 17.5mm F0.95

 ウメの短歌を探しそこねてツバキでごまかしました。(汗)
 むかしの映画をみていると兵士の動作に今とは大きな差があるように感じ、そのもっともたるものが挙手の礼です。軍隊の経験者がそろっていた時代ははるか過去になったと実感しますが、その分、戦争のリアリティがどんどん薄れていくのが少し危うく感じられます。

あえてかかわらざる

 きのうのつながりでなお、いなべ市農業公園です。
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背高の低い木が規則正しく並ぶここはウメ畑でしょうか。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

塚本邦雄
 憂國にあへてかかはらざる彼らジン飲むと野火のごとき火放ち   (綠色研究)

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わたしの神経叢または肺胞毛細血管網。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

 並ぶことは苦手です。規則正しくすることが苦手です。我慢強いので、なんとか耐えていますが、心の中で列を乱そうぜとかちょっとぐらいはずれてもいいさ、という誘惑の声が聞こえます。それゆえ、「あえて」かかわらない風をよそおうのです。

このむなしき量

 三重県の北の方にある「いなべ市農業公園」で撮りました。
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ここは鈴鹿山脈に近い場所です。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

 昨年から今年にかけて雪降りが多かったのですが、写真はたった2回という『むなしき量』の撮影しかできませんでした。
 春のお彼岸にちなんだ歌を探したら、『雪ふりてこのむなしき量』という歌に出あって、そんな気持ちをまた思い出してしまいました。

塚本邦雄
 正述心緒正述心緒彼岸會に雪ふりてこのむなしき量(かさ)   (波瀾)

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約4500本のウメがあるそうです。 NOKTON 17.5mm F0.95

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左上の小さな屋根は、滞在型貸し農園施設「クラインガルデン」だそうです。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

未だ花婿のごとく

 ウメばかりでは見飽きるので、目先を変えて目くらましをかませば、もしかして冷静な評価が狂うのではないかと期待して、きょうは「鉄分」のある写真にして、明日はまたウメかな。
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とびだし注意しないとガードレールは鉄製だよ。 NOCTICRON 42.5mm F1.2

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菜の花には鉄がよく似合うって文豪が言ってましたっけ。 NOKTON 17.5mm F0.95

きょうは彼岸入りなので、それにちなんだ歌を引用しました。墓参りを「展墓」ともいうそうです。
塚本邦雄
 すみれ咲く或る日の展墓死はわれを未だ花婿のごとく拒まむ   (星餐圖)

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青い箱のような小屋は亜鉛メッキした鉄板でつくってあります。 TOKINA Reflex 300mm F6.3

 歌人は墓参りの行き来にすみれを見たのでしょうか。そのときの感情を花婿という言葉に飛躍できる脳に羨望を感じます。作歌という行為をたえず意識しているから、そうした発想が可能になるのではないかと想像します。
 レベルはまったく違うのですが、わたしもカメラを持っているときと手ぶらの時では見えるものが違ってきます。写真を撮ることそのものが好きなのは、それが楽しく、そのときのわくわくが好きだからですが、楽しくわくわくするのはものの見方がいつもと変わるからのような気がします。普段は注意を払わないものが、カメラを持っているときはキラキラして見えるのです。

いろまさる

 きのうにつづき鈴鹿の森庭園、しだれ梅です。夕方からライトアップされています。今日の写真はウメに月という異類婚のような写真で。
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そろそろ日没。 SUMMILUX 15mm F1.7

塚本邦雄
 北山の春雨にしもいろまさる乙女わかむらさきのかなしき   (源氏五十四帖題詠)

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きょうは満月。 M.ZUIKO 75mm F1.8

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ちいさいけれど満月です。 NOKTON 17.5mm F0.95

 すこし以前にブログの写真を大きくして質を量でカバーしましたが、なおカバーできないなので、さらに大きい写真を使ってカサを増やすことで質をおぎなおうともくろみました。不味いケーキを食べごたえのあるカサにして、値段の割にお値打ちにしようという「良心」の結果です。(笑)

今生は明日待つことの重なり

 3月11日の「三・一一に見捨てらる」に書いたYahoo! JAPANの企画の報告があり、429万4千532人が参加し、4千294万5千320円が東北復興にたずさわる団体へ寄付されるそうです。
 復興のための税を支払っていても実感がありませんが、わずか10円でも自分の意志で復興に参加したという手ごたえがうれしい企画でした。
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鈴鹿の森庭園 M.ZUIKO 25mm F1.2

 今日の写真はしだれ梅ですが、この季節の花として塚本邦雄はツバキが好きだったようなので、
塚本邦雄
 今生は明日待つことの重なりに白うるむ加茂本阿彌椿   (黄金律)

 昨日ふれた「ヌード写真はもはやオワコンか?」という小見出しがある本は「写真の新しい自由」(菅付雅信 玄光社)でした。この本を買った理由はその小見出しに興味をもったからです。いえいえ、「ヌード写真は・・・」ではありません。(笑)
 「風景写真は撮るな!」という見出しです。『ただお気に入りの風景をそのままカメラに収めただけの古典的な風景写真は、最も退屈な写真』という一節にはグサッときました。一方で「絶景何々」というフレーズがうける理由も理解できたような気がしました。

は永久(とは)に

 この町の高校に通っていたころ男子は学生服に丸刈りが校則でした。学生服の襟のフックは、いつもははずしていても、「卒業式」などではきちんと止めました。成長して太くなった首周りはカラーで赤くなりました。

塚本邦雄
 固きカラーに擦(す)れし咽喉輪(のどわ)のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男のことば   (感幻樂)
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もう少し、少しだけがんばろう。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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変速式だぜ、まだ。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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トタンの上を泳ぐのは養殖されているコイですって。 M.ZUIKO 17mm F1.8

 以前に『オワコン』が「終わったコンテンツ」という意味と知らなかった恥ずかしい話を書きましたが、そのとき読んでいた本の小見出しが「ヌード写真はもはやオワコンか?」でした。PBが2016年3月号でヌードグラビアやめると発表したことを受けた小文でした。

 文の最後にオワコンの解題として、「ヌード写真自体が衰退したのではなく、写真表現として魅力のないもの、作家性のないものが淘汰されつつあると捉えるべきでは。」とあり、自分の無能を言われたように感じて、またもや思わず「そんなこと分かってらい!」と心の中で毒づいてしまいました。

ややふとりぎみ

 わたしが高校時代をすごしたころ、この町は生活空間の中心地でしたが、わたしが成長し空間も拡大していくとむしろ周縁の場所となっていきました。「中心はつねに周辺を取り込むことで活性化する」というテーゼがあるそうです。意識の中で「周辺」となったここに立ち寄ることで、もういちど自らを活性化できるのではないかと妄想します。
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春の陽ざしを浴びてやわらかく。 キヤノン7用 CANON 50mm f0.95

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輝くドア、金色のさび。 M.ZUIKO 17mm F1.8

 先週の週末にこのまちのお寺で寝釈迦まつりがあったようです。
 祭や雑踏が苦手なわたしは出かけませんでしたが、その行事にちなんだ歌を引用します。
塚本邦雄
 春寒のいたむみぞおちややふとりぎみの寝釋迦を仰ぎて愛す   (黄金律)

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すき間から覗いたら向こう側が見えた。 キヤノン7用 CANON 50mm f0.95

にとらわる

 景色は現実にそこに存在してはいるけれど、見られることで景色になると感じられます。
 この町はわたしが高校生だったときよりも随分とさびれたように思えますが、それは少年が見る景色と老人が見る景色の違いではないかと思うのです。
 さびれているのは町ではなくてわたし自身なのです。
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コンポジション。 M.ZUIKO 17mm F1.8

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アールデコ。 M.ZUIKO 17mm F1.8

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ルネサンスまたは二点透視図法。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

もう一日、きのうにつづけて照井翠「龍宮」より引用します。

春の海髪一本も見つからぬ
三月や遺影は眼逸らさざる
春光の揺らぎにも君風にも君
なぜみちのくなぜ三・一一なぜに君

塚本邦雄
 あけぼのの白魚二寸今日一日(ひとひ)人に非ざる俳にとらはる   (魔王)

三・一一に見捨てらる

ことしもこの日が来ました。

この特別な日には昨年のきょうと同様に、
照井翠「龍宮」より引用します。

春の星こんなに人が死んだのか
 冥途にて咲け泥中のしら梅よ
春灯のひときは燃えて尽きにけり
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鈴鹿の森庭園 M.ZUIKO 25mm F1.2

梅の香や遺骨無ければ掬う泥
 三・一一民は国家に見捨てらる

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鈴鹿の森庭園 M.ZUIKO 25mm F1.2

きょうの23時59分までに、Yahoo! JAPANで「3.11」というキーワードで検索された方おひとりにつき10円が、東北復興にたずさわる団体に寄付されるそうです。

誇る一日を持たざれば

 きのうにつづけてノスタルジアの霞の中を散歩です。この町にある高校へ私は通いましたが、そのころはまだ映画館も本屋も、写真屋さんも何軒かありました。乳母車屋さんというのもありました。
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箱の中は大人の世界。 M.ZUIKO 17mm F1.8

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現役ですよ、まだ。 キヤノン7用 CANON 50mm f0.95

塚本邦雄
 もろともに誇る一日を持たざれば日昏れは行けれ道の片處(かたど)を   (歌誌『オレンヂ』1947 3月 3号)

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片処に、なお誇りを残して。 M.ZUIKO 17mm F1.8

 写真家の大和田良さんは「僕の作品制作の方法は大きく二つに分けられる。 一つ目は蓄積した知識や経験を纏めあげ、ある一定の細かい点に収束させる方法。・・・(略)・・・。 二つ目はカオスのように頭の中で渦巻く知識や経験が何らかの被写体の前で突然リンクし、カメラを向けるという場合だ。・・・」(「大和田良「ノーツ オン フォトグラフィー」リブロアルテ)と書いています。
 邪念と怠惰のカオスの中で撮り続けているわたしにとってはどちらも、買いもしない宝くじの当りを夢見ているようなものだと思いました。

はるかよりひびきくる春の

 気分転換して、地元のごく普通の町へ。ここで生まれ育った友人が、「ここはむかしお医者さんだった」「ここの二階へ習い事をしに通った」「ここの家は同級生がいた」などと案内してくれました。
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カベを流れるのは何。 キヤノン7用 CANON 50mm f0.95

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とっくのむかしに映画館はなくなりましたが。 キヤノン7用 CANON 50mm f0.95

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ここに停めると美しいトタンが見えなくなるので駐禁。 M.ZUIKO 17mm F1.8

塚本邦雄
 跫音(あおと)はるかよりひびきくる春の夜の卓上に火酒あふれてゐたり   (歌誌『日本歌人』1950 3月号)

 きょうの塚本邦雄は、イメージの跳躍も言葉のきらめきも不十分な気がしますが、それが今日撮ってまわった町のたたずまいによく一致するように感じます。ノスタルジックな町に合わせて、キヤノン7用の50mmとおとなしい描写のMズイコー17mmを中心に撮影しました。
 ところでCANONはキャノンと発音しますが、日本語表記を「キヤノン」と書いている私はやっぱり化石なんでしょうね。ギリシャと発音する国名をギリシアと書きなさいと、はるか昔に習ったような記憶があるのです。

どこか明るく

 興聖寺は現役のお寺なので手入れも行き届いてチリ一つありません。「チンダル現象」で光の射している光路が見えるほどに、ほこりだらけのわが家とは雲泥の差です。
 今日は、庫裡の廊下や僧堂の三和土(たたき)の写真で。
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主役は光。光が廊下を清掃している。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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右に並ぶのは座禅用の座布団。昼寝用のマクラではありません。 M.ZUIKO 25mm F1.2

塚本邦雄
 夜更け地のどこか明るく風邪の子のしめりたる掌(て)に肉桂匂ふ   (装飾樂句)

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金色につつまれる時間まで。 M.ZUIKO 25mm F1.2

 目がかゆいので花粉症なのだと思いますが、寒気がするのは何故でしょう。鼻水も止まりません。

 きょう読んだ本に石川直樹の言葉がのってました。
 「やっぱり自分の美意識で四角に切り取ると、自分の美意識で切り取った狭い世界しか写らない気がするんですよ。・・・(略)・・・自分が撮るというより、向こうから投げられてくるボールをカメラをグローブのようにしてキャッチしたい。キーパーがボールを取っていくように、世界を受け止めたいんです。」(小林紀晴「写真と生活」 リブロアルテ)
 「世界」という語に石川らしさが表れているように感じました。

こころのかたすみに

宇治、興聖寺の建物は応仁の乱で焼けて、江戸時代に入ってから伏見桃山城の遺構などを用いて再建されたそうです。また、二つある書院は明治大正の築ということです。
今日は、唐風の山門と、いまにも座禅が始まりそうな僧堂です。
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丸いのはレンズのせいです。いえ、私の歪んだ心です。 ZUIKO ED 8mm F3.5 Fisheye

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この先は立入禁止。だからピントもはずしました。 M.ZUIKO 25mm F1.2

 きのうの「漁色てふこれぞまことは靑年に投網(とあみ)放てる白魚處女(しらうををとめ)」は、もしかしたら白魚処女という人がいるのかもしれませんが、私には分かりません。作者は何々おとめという言葉をいくつも歌におりこんでいます。お気に入りなのでしょうか。
 鶺鴒少女(せきれいおとめ)、桜桃処女(おうとうおとめ)、木犀少女(もくせいおとめ)、紅茸少女(べにたけおとめ)、鶍少女(いすかおとめ)、杏少女(からももおとめ)、尺蠖少女(しゃくとりおとめ)、麦少女(むぎおとめ)といくつも見つかります。 

塚本邦雄
 鮒鮨のけはしき酸味舌刺してこころのかたすみに西行忌   (豹變)

これぞまことは

宇治、興聖寺の開祖は道元禅師だそうで、1233年ここを開創されたあと越前に移って永平寺を開いたようです。
きのうにつづき今日は、回廊の窓、清掃のいきとどいた桟敷、ひかり射す堂の一角。
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ここでは時間が見える。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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直角に歩いてしまう。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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音がでるまでの午睡。 M.ZUIKO 25mm F1.2

 きのうの「紅梅黒し国賊のその一匹がみんごと生きのびてここに存る」を読んで、ああ作者はかつて国賊と言われた経験があるのだろうと思いましたが、その記憶と紅梅が何故むすびつくのか想像できないのです。
 紅梅が黒ずんでもかすかに残っている香りをかいで、だれもが忘れた過去の記憶が自分にはかすかに残っていることに気付いたのでしょうか。「みんごと」というのは見る見られる視線を意識した形容ですから、作者には、国賊と言った人間がまざまざと見えているのかもしれないと感じます。
 ところで塚本邦雄の歌を読んでいると、漢字で遊んでいるのではないかと思うことがときどきあります。黒も国も音読みはコクです。漢字のイメージから国賊という語につながったのではないかとも想像するのです。

塚本邦雄
 漁色てふこれぞまことは靑年に投網(とあみ)放てる白魚處女(しらうををとめ)   (風雅黙示録)

生きのびてここに

宇治、興聖寺。曹洞宗の道場だそうです。
うつくしい仏具のおかれた開山堂、履物入れの続く内庭の回廊、音の数を数える小石のある鐘楼。
訪問者は多くともしずかな雰囲気を終始うしなわない場所でした。
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開山堂でおつとめを待っている。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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陽ざしの中をまっすぐに。 M.ZUIKO 25mm F1.2

塚本邦雄
 紅梅黑し國賊のその一匹がみんごと生きのびてここに存る   (獻身)

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12番目が見つからない。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

 ブログで一番望んでいることは写真を見ていただくことですが、美しい風景や観光スポットで撮った写真はどうしてもどこかで見たような写真になっています。きれいな景色や花をきれいに撮るのも私には難しい事で、それさえ出来ないくせに、自分らしさをどこに求めればいいのか悩みます。

 塚本邦雄の短歌を毎日引用しているのは、誰かの写真と同じように撮れば済むという怠惰に流れそうな自分への諫めとして、彼の短歌のように予定調和を排除し禁忌を犯す態度で写真を撮りたいという願望の反映です。
 たとえば、きのうの「山川のたぎち終れるひとところ流雛(ながしびな)かたまりて死にをる」の最後の一節などはバッド・テイストで、何か言う気持ちさえ萎えてしまうのですが、明のうらの暗を見る態度が弱ってきている自分に気づかされます。

ひとところ

塚本邦雄
山川のたぎち終れるひとところ流雛(ながしびな)かたまりて死にをる   (不變律)
(塚本邦雄の短歌は写真と無関係です。塚本邦雄を尊敬していますが、引用した歌はブログの護符かお守りのつもりです。)

宇治散歩中。
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のってみたいなあ。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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横顔がりりしいだろ。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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なぜこんなもの撮ったのだろう。 M.ZUIKO 25mm F1.2

声あわす

塚本邦雄
春雪にこごえし鳥らこゑあはす逝ける皇女のためのパヴァーヌ   (水葬物語)
(塚本邦雄の短歌は写真と無関係です。塚本邦雄を尊敬していますが、引用した歌はブログの護符かお守りのつもりです。)

京都宇治で散歩を。
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M.ZUIKO 25mm F1.2

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KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

重たきからだ

塚本邦雄
夜天より鞦韆(しうせん)赤き鎖垂る―――死者をして死者を葬らしめよ   (装飾樂句)
鞦韆(しうせん)に搖れをり今宵少年のなににめざめし重たきからだ   ( 〃 )
(塚本邦雄の短歌は写真と無関係です。塚本邦雄を尊敬していますが、引用した歌はブログの護符かお守りのつもりです。)

平等院。
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KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

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KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

 しゅうせん(鞦韆)はブランコのことだそうですが、以前に別の短歌を秋の季節に引用してしまったことがあります。ブランコが春の季語だとそのとき知らなかったのです。
 ブランコの鎖が天から垂れるように見えるのはブランコに腰かけて見上げた時で、夜のブランコにしずかに座っている主人公を想像してしまいます。この歌をおさめた歌集「装飾樂句(カデンツァ)」が世に出たのは1956年ですから、あの公園のブランコと「ゴンドラの唄」が印象的な映画「生きる」より4年後のことになります。

春は

塚本邦雄
GIの群華かに歩むあたり額(ぬか)あげて視む春はなかりき   (歌誌『木槿』1947 4月)
(塚本邦雄の短歌は写真と無関係です。塚本邦雄を尊敬していますが、引用した歌はブログの護符かお守りのつもりです。)

宇治で動物系。
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アベックは古語か死語か。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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見返り地蔵ならぬ見返りうさぎ。 M.ZUIKO 25mm F1.2

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かろうじてお頭付き。 KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8

 きょうの歌は1947年という時代を反映していますが、”GI”をほかの言葉に置き換えれば普遍的な凡庸なイメージをいくつでも作り出せるのがつまらなさを生んでいるように感じます。