学部の実験の授業は型稽古

shunsuke's blog:起業して3ヶ月で会社を崩壊させて思ったことと、近況報告です。を読むまで存じ上げませんでしたが、関係する方々へのフォローをちゃんとやっているならば、何もマイナスではないと思います。

で、全然関係ないところが気になったのでメモ。関係ないところで、ごめんなさい。

ほかに、それっぽい理由をあげるなら、とにかく大学の授業に頑張ってついていくことに全然意義が見いだせなくなった、のもあります。正直誰でも一回くらい”これ意味なくね?”って思ったことはある気がします。僕はその状態が続きました。興味のない実験、しかも実験とは言っても結果はわかっているし、やることも指示されてる。更にそのレポートをちゃんと出さないとなぜか先生にめちゃくちゃ怒られる、一個でもレポート出さないとその時点で留年が確定する。ってもう意味不明にも程がありました。
(shunsuke's blog:起業して3ヶ月で会社を崩壊させて思ったことと、近況報告です。より。強調はnext49)

これが型稽古であるという説明が足りていたのかというところが心配。というのは、学生時代に実験の授業で強く感じたのがこれ。学部時代の実験というのが型稽古であると気づいたのは大学院生のときに「パラサイト・イブ」という小説を読んだから。それまでは、分野や研究テーマの関係で、実験に創造性が必要されるというのがまったくわからなかった。プログラミングで言う写経というのが、追実験&実験レポートであると思う。

学部で実験を担当する教員のみなさま、および、TAのみなさまにおかれましては、学部の実験の授業は型稽古である(部分練習である)ということを、ぜひ、何度も繰り替えして伝えていただければと思う。

追記1

ブックマークコメントで紹介いただいた効率的に失敗の種類や細かいノウハウを学ぶ機会としての学生実験という視点。

追記2

ブックマークコメントより

型稽古っていうか、結果の分かっている実験でその通りの結果が出せない人が、結果の分からない実験をしても何も確実なことは分からないと思うんだけど。

この考え方も非常に現実的で正しいと思うのだけれども、これは「なぜ、結果のわかっている学生実験を繰り返させるのか」の主たる理由ではないので、反発を招くと思う。学生実験は型稽古という前提があったうえでの付加的な意味合いとしてはおっしゃるとおりだと思う。これはレポート、論文、申請書において「書式間違いがある=真面目にやっていない。能力がない。」とみなされる理屈と同じ。