PKKはクルド人民会議、クルディスタン労働者党の略で一般には過激派テロ組織の代名詞がつけられる。1918年の第一次世界大戦後、1924年にトルコも独立しトルコ共和国になったが、それ以前からクルド人はトルコ領、シリア領、イラン領、アルメニア領、そしてイラク領に広範囲に居住していた。右の図の黄色い部分。ト ルコでは差別的な扱いを受けクルド語の使用さえ出来ない時代もあり抑圧されていた。1970年代、世界に社会主義を唱える学生運動が頻発した時期にPKK は発足し、その当時のPKKはマルクスレーニン主義でクルド族国家樹立を目指す革命組織だったが、軍事国家の色濃いトルコにあっては、多数が拉致、拷問を 受け、それに抵抗してテロ、暗殺に走った。その当時は同じクルド人に対しても主義の違いから残虐な闘争を繰り返し、女、子供を多数殺害したことで知られ以 後過激派と言われている。この辺は当時の中国の紅衛兵と似ているが、当時の援助はソビエトから受けていた。その後戦術を変更し、民族の独立と自由、領土の 獲得を目指しているが、戦術の違いから、イラク内では同じクルド人やクルド自治政府からは孤立している。イラク北部の山岳地を拠点にし、ケシの栽培や出稼 ぎクルド人の送金などを資金源にする。正規軍は4000人ともそれ以上とも言われ、特徴は半数ほどが女性であり、若い女性兵士が実戦についている。
クルド人全体で見れば、各国の国境で民族が分断され、イラクのフセイン軍事体制下ではイランの国境に近い北イラクのクルド人地区・ハラブジャで1988年、フセイン政権がサリンやVXガスを混合したガスを散布、これにより少なくとも五千人の市民が虐殺される目にあった悲劇の部族でもある。イラン・イラク戦争(1980~88)当時、イランと親密な反フセインのクルド人がフセインに目の敵にされた結果で、この虐殺で一時的にイランに占領されたハラブジャはイラク、フセイン政権に奪還されました。
PKKの戦術は過激であっても、各国に住む同じクルド人には支援する者も多い。トルコもクルド族もイスラム教で多くはスンニ派であり、トルコとPKKの争いは主権、人権と領土の争いであり、イラク国内のような宗派闘争ではないのが特徴。イ スラム原理主義国家樹立を目指すアフガニスタンのタリバンや反イラク政府組織アルカイーダとも違う位置にいる。 トルコ内部ではすでにPKK攻撃反対のクルド人によるデモが頻発している。少数ではあっても山岳地でのゲリラ戦に長(た)けていて過去においてはトルコ国 境警備隊が大打撃を受けている。以上、自己流のまとめ方であり多少の解釈違いはあるかもしれません。ビデオはPKKと彼らの住むクルディスタン地方。