縄文土器「諸磯C式」を追いかけた話(毛呂山町歴史民俗資料館に行ってきた)
このあいだ埼玉県歴史と民俗の博物館の企画展「縄文コードをひもとく」を観に行った際、目を奪われた土器があった。
展示されていたのではなく、企画に連動して配布されていた「縄文カード」に記載されていたものだ。
恐ろしくデコラティブ。過剰なほどに飾り立てられたその佇まいは異形。不穏さと純粋さが同居しているように感じられた。
実物を見てみたい! と思った。
入間郡毛呂山町にある「毛呂山町歴史民俗資料館」に行けば見られると知った。
で、今日行ってみた。
行ってじっくり見ることができたのだが、その写真をここに載せることはできない。
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行く前に調べて、わかったことがある。
- その土器は常に見られるものではなく、来年1/14までの期間限定で展示されている(電話をかけて聞いた)
- 写真撮影は禁止されているらしい(検索したらそう書いているブログがあった)
資料館には10時前に到着。その後ぼくらが帰るまで、閲覧者はぼくらだけだった。
その土器は「金谷遺跡出土の深鉢」という。
想像していたよりは小さく、それゆえに大胆さだけでなくきめ細やかさも醸し出しているようだった。
やはり、撮影は禁止と表示されていた。
受付にいた女性に“なぜ撮影禁止なのか”をややビビりながら聞いてみると、後の机にいた男性から「通常は非公開なので」という答えが返ってきた。
わかったような、わからないような…。
この土器の画像はカードに載っていて、館の入口の掲示板には写真が掲出されているのに、現物を撮ってはいけない、とは?(ちなみに常設展示物のほとんどは撮影OKだ)。
そういうことなので、館内にいる間に5回ぐらいこの土器の前に戻っては眺め、記憶に刻もうとがんばった。
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この土器が作られたのは縄文時代前期。型式は「諸磯式C型」に分類されるという。これ1つだけ屹立しているわけじゃないんだな。
検索してみると、たしかに群馬県や長野県で似たような土器が出土しているようだ。
参考リンク:
- 諸磯 a/b/c式土器(縄文前期後半 ≒ 6050~5600 calBP)
「202 諸磯 c式(長野丸山遺跡)高21.8cm. 口唇部の大柄な貝殻状突起、頸部から胴部への小さなボタン状貼付、その間の短い中型の突起が、地文の集合沈線とよくマッチし、短い筒形の胴部もやや張出気味の底部によって、大きい口辺に調和し、全体に安定感がある。器上半部の横、下半部の縦を主としたモティーフや、頸部隆帯のあり方も心にくい構成といえよう。」
- 前橋フィールドミュージアム 諸磯c式土器
「出土地 広面遺跡
時代 縄文時代 前期」 - 諸磯貝塚(縄文時代前期の土器諸磯式の標式遺跡)
「諸磯貝塚(もろいそかいづか)、または諸磯遺跡(もろいそいせき)は、神奈川県三浦市三崎町諸磯字新堀にある縄文時代の遺跡。縄文時代前期の土器型式諸磯a,b,c式の標式遺跡である。」
縄文土器の世界は、奥深い。なんといっても、今の文明の少なくとも5倍の長さ=約1万年かけて陶冶されたものだからなぁ。
まだまだ追いかけたい。
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ついでに、毛呂山町歴史民俗資料館で見たものをいくつかクリップしておく。
「延慶の板碑」の下から出土したという「灰釉瓶子」。釉薬の感じがとてもいい。
養蚕が行われていた毛呂山町では、小正月に「繭玉(りゅうべい)」が飾られたという。
これ、「柳餅(りゅうべい)」「餅花(もちばな)」のバリエーションだよな。
毛呂山町は出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)の「流鏑馬」が有名らしく、展示に力が入っていた。
朝・昼・夜にそれぞれ「浅的(あさまとう)の矢」「願的(がんまとう)の矢」「夕的(ゆうまとう)の矢」を射る、それぞれ意図も違うので形状も違う、というのが興味深い。
さらについでに。
資料館の近くには「鎌倉街道」「延慶の板碑」「川角古墳群」などがあり、散策できるようになっていた。
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