コントローラの向こうのわたしが考え(た)

この話に普遍性があるように感じられるのは、どうしてだろう。

ゲームをリセットすることで、それまでゲーム内の法則に従って、キャラクターとして出来事を受容していた<ニコ>が、ゲームの外でコントローラを持ったプレイヤーの<おれ>として、突然放り出されてしまう。そういうことではないのかと思った。

ふだんそれを意識することは少ない。だいたいのことは、「これはゲームです」という注釈でラップされて、プレイヤーに受容される。自分の操作するキャラクターが死んでも、悲しくならない。主人公の死とプレイヤーの死は、連動していないから。主人公以外の登場人物の死は、それが予定されているものならば、「フラグ」「イベント」という概念で回収される。

没入度が高いゲームを遊んでいると、その包み紙が破れて、プレイヤーではなく、キャラクターとして思考している自分に気づくことことがある。だとすれば、自分のキャラクターとしての思考が、ゲームの「リセット」を選ぶことも、ごくまれに、あるのかもしれない。

「プレイに失敗したからリセットする」…ということではない、それは、プレイヤーの思考だ。キャラクターが選ぶ「リセット」は、プレイヤーが選ぶ「リセット」よりも、もっと重い意味を持つ。なぜなら、自分の存在もろとも、自分のいる世界を消してしまうことだから。

ここで元記事に還る。

<ニコ>として感情を処理する方法を、ゲームの中で発見できたなら、そのままプレイは続けられた。死者に手向ける花がないかと探し、それがゲームの中で見つけられないとわかると、…

「僕はここに、残ろうと思うんだ」

ニコは反転(フリップ)した。ゲーム部屋におれは投げ出された。低反発クッションで吸収できなかった衝撃は体を横にたおして受け止め、コントローラを抱えたままおれは床の上を数回ころがった。世界を放棄したニコはその世界とともに死んだ。

それまでの死を忘れて巻き戻された世界を映し出すモニタを眺めて、おれはゲームの中では生きられないということを思い出した。