対価について

「ものを作ったことに対する対価は支払われるべきだ」という制度の話が、どこかで「愛があるなら対価を払うよね」みたいな話にねじくれるのが不思議すぎだ。

  • 「愛があるなら対価」論では、可処分所得100万円の人と可処分所得10万円の人の愛は10倍違うってことになるような気がするが、それは屁理屈だろうか。
    • この屁理屈もしょうもないが、この屁理屈への返答が「そこはそれ、自分の身の丈にあった金額を払えばいいじゃないですか」とかなりがちで、もっとしょうもない。可処分所得に一定の率を掛けただけの金額…いやそれでは不公平だから…累進ドネション制とかになるでしょうか…。
    • 愛と呼んでいるものを、自分の生活の自由度を下げる(カネを払う)ということで表現してますけど、それは本質的には不自然ですよね、ということだ。
    • たしかにその不自由さによって、「ありがたい」「大事にする」という気持ちになるかも知れないけど、それは自演の匂いがするというか、一般論にはなりえないと思う。
    • 言い方を変えると、「たいていのクソゲーは金を賭けるようにすれば面白くなるよ」あるいは「断食したあとのおかゆはこの世で一番おいしいよ」といったことがらは、経験的には正しいが、個人の経験の域を出るものではない。
  • こういうこと言うと「感謝の気持ち」とか「賞賛」とか、無形のものに値段をつけるものではない、感謝は感謝だから尊いのだ、なんて持ち出されたりして。でも、「感謝しましょう」という義務感は、感謝を通貨として払ってる(カネの代わりに感謝を払ってる)ことだと思うけど。
    • 前にも書いたけど「こんなソフトウェアを無償で提供してくださっているのですから感謝して使いましょう」という言い方はおかしい。有償なら感謝しない?
    • 裏を返すと、「一円でもカネを払っていると突然お客様になる」とか「嫌儲」みたいなかんがえと同じじゃないのかしら。
  • 制度維持のためにカネを払うという気分はなくはない(エンターテイメントの本とかそういう気分が強い)が、もっと払った人が報われるようにならないとだな。
  • アーティストを支援するためにカネを払う、というのは、回り回ってはそうかもだけど、制度に対してカネを払わざるを得ないという状況が無視される。ビートルズのアルバムをポールとリンゴを養うために買ってるのだとすれば、この先ポールかリンゴのどちらかが死んだときにビートルズのアルバムは安くなる、というのが自然な筈だけど…そうはなってない。
    • そうしろ(中抜きにしてしまえ)、ということではなくて…現実そうなってないものに、アーティストへの愛や感謝を理由に金を払え、なんてのは、心情論以上の意味はないんじゃないの、と思う。
    • さらにさかのぼると、とりあえず感謝をカネという形でしか伝播させられないからそうしてるということもある。対価は対価、感謝は感謝。