なぜ悪しき慣習はなくならないのか?
出し物が終わって新人達に労いの言葉をかけ、どういうかんじで準備したのか聞きました。
9月くらいから、「出し物はどうするよ?」みたいな話は同期の間で出ていたようですが、ぐだぐだ言っていて、全然決まらなかったようです。
そして、11月にいよいよやばいとなり、数人のリーダーシップを取れる人間が仕切って、構成を決めていったとのこと。
最初は残業時間中に集まって話をしていましたが、忙しい人もいて、休日に集まって話し合ったり、小道具を買いに行ったり、パソコンでショートフィルムを作り、何とか本番にこぎつけて、成功させました。
話を聞いた人は「あ~。無事終わってよかった」と言っていました。
2年目にも聞いたところ、昨年もやはり大変で、途中内輪揉めまで起こったそうです。
その2年目が今年の忘年会の計画を立て、例年同様、出し物を組み込みました。
自分たちが、大変な思いをしたのになぜ中止にしないのでしょうか?
確かに、伝統という圧力があります。2年目が中止にするのは荷が重いでしょう。
また思い出というのは美化されるので、大変だったことを忘れているのかもしれません。
しかし、僕は2年目の1人が言った「私たちも頑張ったから、新人の出し物も見てみたい」という発言に中止にならない大きな理由があると思います。
思うに、人間というのは、自分の苦しみを人にも味わわせたいという思いが本当に強いと思います。
その最たる例が高校の運動部でしょう。
1年生で入ってきた時は、先輩達にしごきを受けます。
これは愛のムチではなくいじめ。
必要以上に雑用をさせたり、時には暴力まで・・・。
1年生達はストレスが溜まるでしょう。
じゃあ自分たちが上級生になった時は、いじめをせずに、皆が本当に運動に打ち込めるような雰囲気にすればいいと思いませんか?
しかし、そうはならずに結局同じように後輩をいじめます。
「俺もあの辛さに耐えたから、今の俺があるんだ。お前達も頑張れ」とか意味不明の正当化をして、後輩をいじめます。
ただ、自分が先輩にされた仕返しがしたいだけなんじゃないですか?
それを変な理由をつけて正当化して、いじめるなんて絶対に許すことができません。
上記のように多くの人間は善人ぶっていますが、本当に卑しい感情を持った生き物です。
そして、人が集まり組織になることで、その卑しさがもっと巨大なものになるのです。
こんな場所に身を置いていたら、いつ自分がいじめの標的にされるか分かりません。
正直怖いです。
しかし、実際問題として、今の僕に組織を抜けてやっていけるだけの実力や経済力はありません。
とにかく金、金を貯めるんです。
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