後藤和智さんの言説について、最後に
おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)
- 作者: 後藤和智
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2008/09/10
- メディア: 新書
- 購入: 9人 クリック: 334回
- この商品を含むブログ (74件) を見る
後藤和智『おまえが若者を語るな!』を読みました。従前通りのクオリティで、ほとんど見るべきところは無い本だと思います。いわゆる「俗流若者論」への戒めの書としては、既にご本人が『「若者論」を疑え!』(宝島社(宝島社新書、2008年))を書かれていらっしゃいますから、この新刊に社会的な存在意義はあまり無いでしょう。ざっと目を通しただけでも色々と突っ込み所の多い本ですが*1、基本的に「実証性が乏しい」の一本槍で(多くの場合は)積極的な反証が為されるわけでもありませんし、東浩紀についても(「「動物化するポストモダン」は若者論でしかない」と断言に至った割には)特に新しい材料は見当たらず、私が過去に「「動物化」論は若者論ではない」で述べたことの範疇を超えていないと思いますので*2、とりたてて詳細な批判を加えるようなことはしません。
東や宮台真司の議論への私の大雑把な評価は、「現代日本社会研究のための覚え書き――序論」に書きました。簡単に要約すると、再帰的近代化論やポストモダン化論は基本的に肯定し得るが、検証と補強が必要。「脱社会的存在」論には疑問が大きく、「動物化」論については感覚的には説得されるものの社会学的認識としてそのまま受け容れるのは困難だろう、と*3。
ポストモダニティを云々する議論一般の検証については、「現代日本社会研究のための覚え書き」なる連載で行っています。特に「「俗流若者論」批判は切れすぎる刀か」のコメント欄で安原宏美さんらとの話題に上った体感治安などの問題については、同連載の「セキュリティ/リスク」の項で扱っています。また、安原さんらは「自由と管理―パノプティコンと現代社会」や「事実が必要とされない理由」などにも批判を加えておられたと記憶していますが、前者については「親密圏/人権」の項が、後者については「セキュリティ/リスク」の項の特に脚注27を参考にして頂くことができると思います。さらに、「セキュリティ/リスク」では長過ぎて引用できなかったU.ベックの文章を載せておきましょう(できれば、この後もぜひ読んで欲しい)。
大衆は「不合理」にも危険の「知覚」において「正確でない」。それは技術者の目から見ると、大多数の国民が工学部学生の新入生かそれ以下の程度でしかないからである。国民は無知だが善意には満ちあふれている。なんとかしようと思っているが、どうしてよいかわからないでいる。国民一人ひとりのイメージは、まだ十分に専門知識を有していない素人技術者ということになる。こういう人間には技術に関する詳しい知識を与えてやればよい。そうすれば、専門家と同じように、技術が操作可能なものであり、危険といっても本来は危険でない、と考えるようになるだろう。大衆による反対、不安、批判、抵抗は純粋に情報の問題なのである。技術者の知識と考えを理解さえすれば、人々は落ち着くはずである。もしそうでないとしたら、人々は救いようもなく非合理な存在である。
しかしこの見解は誤っている。たとえ、高等数学を駆使した統計や科学技術の装いがほどこされてはいるといっても、危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくるのである。このような判断は、われわれが自然科学や技術科学の領域を無期限に侵犯することによってのみ下すことが可能なのである。ここで国民に向けられていた非難の矢は向きを変える。国民が科学者の危険の定義を受け入れないからと言って、国民の「非合理性」を非難できないのである。いやそれどころか、科学技術が危険について述べる場合、科学が受け入れている文化的前提が誤っていることがはっきりと示されている。技術畑の危険専門家たちの誤りはこうである。彼らは、自分たちの前提とする暗黙の価値、つまり何が国民に受け入れられ、何が受け入れられないのか、ということについての自分たちの価値前提が経験的に妥当性をもっていると考えているのだ。国民の危険認識が「誤った非合理なもの」だなどと言うのは、誤りもはなはだしい。科学者たちは自分たちが受け入れた文化的前提の中に隠れている概念を経験的批判に曝されないようにする。そして、他人がこう考えているだろうという自分の見方を絶対視して、不安定な王座にすわり、国民が「非合理」であると評価を下す。しかし、その国民の考えにこそ、専門家は耳を傾け、自らの研究の基礎にしなくてはならないはずである。
[ウルリヒ・ベック『危険社会』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998年)、89-90頁]
私が後藤さんを科学的であるよりも政治的であろうとする人だと評したのは、別にその筆致が感情的であるからということ(だけ)ではなく、批判対象の問題意識に付き合う姿勢が一切見られないからです*4。実証は大切ですが*5、実証が困難な領域や、実証を超えた問題を扱わなければならないこともあります*6。無論、実証が困難であるからこそ、より慎重な手続きを経た研究を積み重ねようとする――「見切り発車」を避けようとする――多くの研究者の姿勢は尊敬に値するものでしょう*7。しかし、後藤さんの姿勢はそれとは少し違っていて、実証性という比較的「与しやすい」論点に戦線を限定して批判対象を「引っかけ」、一点突破によって対象の議論を全否定しようとすることが多い。それはいわば相手の「低いところ」を狙うことであり、政治的には有効ですが、学問的・科学的にはあまり褒められた態度ではありません*8。学問的・科学的な批判とは、相手の「高いところ」、つまり批判対象の議論の最も良質な部分をこそ乗り越え、それを発展させていくような営為でなければ意味がありません*9。「後藤さんの宮台批判について」で、後藤さんの批判は後藤さんが引く宮台が意図したような「批判」の体を成していないと述べたのも、同じような意味です。
どうも後藤さんは私が大した理由もなく単に「気に入らない」とか(宮台や東に心酔しているから?)そういう理由で「絡んでいる」or「愚痴っている」と思っていらっしゃるようなのですが、一連の論難にはきちんとした理由があるのだということを明言しておいた方がいいようです。過去のエントリを見れば、断片的ながら、そういったことはそれなりに書いてあります。この点では私も譲り過ぎて、「内容が伴わない批判」との印象を過度に与える愚を犯してしまっていたかもしれません。参考までに、エントリの最後に後藤さんに言及した過去記事と関連記事を挙げておきます。
正直言って、本書を半分ぐらいまで読んだところで辟易して、もうどうでもいいかなと思ったぐらいなのですが、逆にこれだけトリヴィアルなことをこれだけの熱量を持って書き立てられるというのは凄いと思って、やっぱり尊敬に値するかもしれないとも感じました。もとより、後藤さんはポリティカルな方面、ジャーナリスティックな方面でご活躍すればよいとある時点から見切りを付けていることもあり、頑張ってくれればいいなと心から思っています。もっとも、いくら後藤さんが便利だからといって、その姿勢を批判することも「教育」することも避けたり怠ったりしている年長の研究者たちには、責任の一端を感じて頂きたいですが*10。
最後に、本書で唯一見るに値し得るのは、世代論からの脱却を訴えて、いわゆる「ロストジェネレーション」を含む労働運動などに苦言を呈している第五章末部であることを言い添えておきます。私も世代に落とし込む議論や世代間の対立を煽る議論には批判的なので、「世代に一番こだわっているのは後藤さんではないのか?」との直感的な疑念は横に置いて、その姿勢を率直に支持したいと思います。赤木智弘さんをはじめとする「ニート論壇」(?)とどう対決/対話していくのか、そういう面ではポリティカル/ジャーナリスティックな面に限定されない後藤さんのご活躍を期待しています。後藤さんの言説についてエントリを立てるのは、これで最後になるでしょう。後は連載の進行とブラッシュアップに集中します。
- 後藤さんに直接言及しているエントリ
- 関連エントリ
- 作者: 後藤和智
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2008/04/09
- メディア: 新書
- 購入: 7人 クリック: 217回
- この商品を含むブログ (35件) を見る
- 作者: ウルリヒベック,Ulrich Beck,東廉,伊藤美登里
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1998/10/01
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 97回
- この商品を含むブログ (86件) を見る
*1:「権力者」「時の権力者」という正体/定義不明の概念が頻出すること(8頁ほか)、議論の内容と直接関係の無い印象操作が随所で行われていること(例えば宮台真司の言説は「新しい歴史教科書をつくる会」の論調と似ていると指摘する18頁、宮台の著作や言論活動について「自らの教え子を売り出すための本」という決め付け(中傷)や青少年問題について石原慎太郎に「ご注進」しているという戯画化が行われている142頁など)、批判対象に定めた論者の議論全体を若者論に還元した上で批判が行われていること(例えば宮台の天皇主義的転向を若者論からの副産物とする41頁、「全世代、全階層、全分野にわたって」日本人が「劣化」しているとの香山リカの議論に対して「香山の(俗流)若者論の極北」と規定する50-51頁、「都市無党派層が、典型的にはギャルなどを含めて大挙して選挙に出かけ、おおかたが小泉自民党に票を投じた」との(必ずしも若者に還元されない)宮台の指摘を若者に責任を押し付けた議論の典型と見做す70-71頁、あまり明確な根拠も示されないまま東浩紀の「動物化」論はオタク論でも社会論でもなく若者論だと断定する101-102頁など)、北田暁大や中島岳志の「ナショナリズム論」は「ナショナリズムに代表される「閉塞感」「気持ち悪さ」を「それは今までとは違う歴史的、あるいは世代的背景を持った『若者』に原因がある、だから彼らを叩かなければならない」と考える人々の要請に応えて」展開されていると無根拠に断定されていること(80頁)、「一例に過ぎない」根拠しか示さずに「東の言説は、結局のところ若者論においてのみ影響を持ち、若者の行動が近代的な枠組みの崩壊と関連している、という「理解」を広めただけだった」ことは「確実にいえる」としていること(116-117頁)、引用部と前後の論旨の対応に疑問が残る箇所が散見されること(例えば梅田望夫の文章を引いて「情報化が社会に革命的な変化をもたらすという主張」と規定する138-139頁)、「超コンビニ化社会」が「人間の工夫や人間同士のコミュニケーションを奪ってゆく」とする藤原和博の主張を「思い込みに過ぎない」と断ずる根拠が示されていないこと(159頁)、「宿命論」や「決断主義」などの概念がよく分からない意味で使われていること、全く意味が取れない箇所が幾つかあること(例えばエディプス・コンプレックスが弱まっており、それは子どもの「本質的な心の変化」に原因があるかもしれないとの香山の主張を「生物学的な差別論」と規定する――何が差別なのか解らないしそもそも「生物学的」ではないのでは?――64頁や、荷山和子の議論を「ここまで露骨な差別もあるまい」とする――荷宮が言う「無教養な田舎者」とは多分「「月刊現代」をわざわざ読んでいる、といった人たち」を指すのではないと思うのですが――82頁)、など。
*2:このエントリに対する後藤さんの反論は無かったのですが、本書の記述が反論の体を成しているとは考えられません。「でしかない」と小見出しで断言しながら、結論が若者論として書かれている「感が強い」と言うに落ち着くとは(102-103頁)、いささか脱力感を覚えずには居られませんでした。また、「構造分析」ではなぜダメなのかの理由も述べられてはいません(103頁)。
*3:ちなみに後藤さんは宮台の「脱社会性」についての議論がある時期に唐突に生起したかの様に書いていますが(30頁)、「脱社会性」の背景などについての説明を見ると、過去の議論との整合性はあり、「脱社会性」云々が宮台の言説の文脈上、それほど突出していたわけではないと思われます。
*4:「科学」の意味については、「科学的なるものの概念」をご覧下さい。ちなみに後藤さんは宮台が目指す「社会科学の新しいステージ」は「科学の要件を満たしていない」と断じていますが(169-170頁)、そこに引用されている部分に限って言えば、以下に引くヴェーバーの言からして、まだ科学の範疇に含め得るのではないでしょうか(もとより宮台においては「自らが権力者となったときにどのように振る舞うか、ということに重点がおかれている」というのは後藤さんの無根拠な決め付けですから)。「すなわち、われわれは、意欲された目的の達成が、予見できる出来事の連鎖を介して、他のいかなる価値を損なうことになるか、そうした形でなにを「犠牲にする」か、という問いに答えることができる。大多数のばあい、もくろまれた目的の追求はことごとく、この意味でなにかを犠牲にする、あるいは少なくとも犠牲にしうるから、責任をもって行為する人間の自己省察で、目的と結果との相互秤量を避けて通れるようなものはない。とすれば、そうした相互秤量を可能にすることこそ、われわれがこれまでに考察してきた〔科学にもとづく〕技術的批判の、もっとも本質的な機能の一つである。ところで、この秤量自体に決着をつけることは、もとより、もはや科学のよくなしうる任務ではなく、意欲する人間の課題である。そこでは、意欲する人間が、自分の良心と自分の個人的な世界観とにしたがって、問題となっている諸価値を評価し、選択するのである。科学は、かれを助けて、あらゆる行為、したがって当然、事情によっては行為しないこともまた、それぞれの帰結において、特定の価値への加担を意味し、したがって通例―このことは、今日とかく誤認されがちであるが―他の諸価値にたいしては敵対することになる、という関係を、意識させることはできる。しかし、選択をくだすのは、意欲する人間の課題である」(マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店、1998年)31-33頁)。なお、補訳者の挿入を一部省略しており、太字強調は原文傍点。
*5:ところで後藤さんは「推論」だからダメだとのロジックを多用しているのですが、主張の根拠の確からしさは究極的には程度差でしかないので、いかなる科学的認識も最終的には推論であることを免れないわけです。したがって、少なくとも「推論」だから取るに足らないと言うだけでは、批判としていささか頼りない印象を受けます。
*6:後藤さんがこの本で批判している論者の扱っている議論が全てそうだということではありません。
*7:ただ、その謙虚さが時には保身にしかならないことは指摘しておかねばなりません――「厳密派」。
*8:批判したい議論の「内容」を精査したり、その内在的論理を追体験してみたりという作業をスキップできるという意味で、楽な態度でもあります。