「俗流若者論」批判は切れすぎる刀か


2007/06/26(火) 22:04:19 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-349.html

後藤和智新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜)さんのインタビュー。


後藤和智さんインタビュー 前半@女子リベ  安原宏美--編集者のブログ
後藤和智さんインタビュー 後半@女子リベ  安原宏美--編集者のブログ


直接に気になったのは二点。


一点目は前半の冒頭で、宮台真司が随分あっさりと切り捨てられていること。これほど簡単に突き放すことは確かに一種痛快だが、それだけで済むなら誰も苦労はしない。特に宮台の「転向」の理由を経済状況に還元している部分の妥当性が疑問。見方それ自体としては面白いので、以下に引用しておく。


 つい最近、仲正昌樹氏の『集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか 』を読んだのですが、これは非常に有益でした。なぜかというと、結局のところ80年代における「ポストモダン」やら何やらの戯れは、所詮は経済的な余裕があってこそのものだということがわかったからです。
 それに加えて、平成10年頃から14年頃にかけて、なぜ、宮台真司氏が「転向」したかもよくわかった。結局宮台氏の振る舞いもまた、仲正氏の言うところの「ポストモダン左旋回」の変形でしかないということです。
 経済的状況が悪化して、宮台氏の言うところの「まったり革命」みたいなことが不可能になり、多くの左翼(香山リカを含む)が「左旋回」してベタな危機感を表明するようになり、宮台氏は「再帰的近代」などといって天皇主義、アジア主義などに傾倒したけれども、どちらも「大きな物語」を呼び出すことによって若年層の「解離」(笑)を「治療」しようとしていることには何も変わりはない。
 要するに、彼らにとってすれば、子供の頃は、濃密な地域コミュニティの元で育ち、既存の権力に反抗して、背伸びして消費社会と「現代思想」に戯れることに青春を費やすというあり方こそが理想であって、今の子供のように、希薄化した地域コミュニティの元で育って、青春時代も自分の身の丈にあった消費にとどまるというあり方は、確実に知性やコミュニケーション能力の崩壊である。


二点目は、後半の冒頭で語られている検挙率低下の話について。検挙率低下の原因を被害相談などを重視し始めた警察の方針転換に求めて、「生活世界」の崩壊を直接検挙率の低下に結びつけるような言説を批判するのはいい。ただ、そのように批判するなら、なぜ警察が方針転換したのかという問題はそれとして残るということが触れられるべきであるのに、触れられていない。警察が被害者相談に熱心に取り組むようになったのならば、なぜそうなったのか、それを求める声が強くなったためだとすれば、なぜ強くなったのか、それ自体として考えなければならない(浜井浩一は直接の契機として1999年の桶川ストーカー事件を挙げているが、私はその背景に社会状況の変化があると考えており、この点については「自由と管理―パノプティコンと現代社会」で若干触れた)。


この点をスキップしてしまうと、後藤さんの俗流若者論批判というのは、言説の(内在的論理や理論的文脈を無視して)表層的な部分のみをあげつらった批判に過ぎないのではないか、という疑念が生じかねない。


加えて間接的には、後藤さんの言説とその受容のされ方(あと後続世代からの批判の仕方など)について多少考えたが、上手くまとまりそうにないので、これ以上は書かない。


最後に外野からの感想として言わせてもらうのなら、武器庫を営むのはいいとしても、切れすぎる刀を提供してくれるのもなかなか困りものだ、といったところか。取扱説明書を置いた方がいいかも。

コメント

はじめまして
後藤さんらと宮台さんとの違いは、現在の日本において、「正しいことを論じれば、人はそれをその正しさゆえにそれを受け入れるのだろうか?」という問いについて、肯定的か否定的か、もしくはそこに希望を見出しているか否かにあると思います。


後藤さんたちは、ネットで展開される正しい言説の流通量が増大すれば正しいものは必ず受け入れられると信じている。


宮台さんは、正しいものを受け入れるという、まっとうな感覚を取り戻すために、彼の言葉を借りれば「あえて」大きな物語を持ち込んだ。


「インチキ知識人どもが正しくない情報を流すから人々は正しい情報を知りえない」のか「統計に裏打ちされた正しい情報を流したところで今の日本には正しいことを受容すべきという規範そのものがない」のか、の違いではないでしょうか。


格差が拡大する中で、勝ち組にとっては、正しくない情報に寄り添った方がさらに大きな利権を得る事ができるかもしれない状況が発生しているように思えます。自分に不利になるかもしれないにもかかわらず、正しい情報を受け入れなければならないのはなぜか?という問いに対して、「それは正しいものだから」と答えることで果たして納得させられるのでしょうかね。


長々と失礼いたしました。


今後も知的な文章をお願いいたします。
2007/06/27(水) 00:06:12 | URL | sakaichi #qiBIuPWk [ 編集]


こんにちわ。
引用していただきありがとうございます。
警察の方針が変わったのは、「犯罪不安社会」でも浜井先生が書いてあるとおり、被害者対策に重心をうつしたことです。それは自明のもとにもう話しています。なせなら、私がその編集だからです。「今の日本には正しいことを受容すべきという規範そのものがない」というのは違うと思います。まず規範がくずれている証明は「少年犯罪分野」ではできません。仮説として置いても規範を内面化する処方箋になってしまいますよね?正しい情報をつみかさねたところに正しい解釈ができるのだと思います。
せめて「社会科学」というのなら、「物語でいいんだ」というひらきなおったなめた態度は慎むべきだと私は思います。
2007/06/27(水) 16:11:00 | URL | 安原 #- [ 編集]


sakaichiさん、安原さん、はじめまして。安原さんのコメントはsakaichiさんのコメントに反応していらっしゃる部分が多いようなので、一括してご返答させて頂きます。ご了承下さい。


ただし、先に安原さんに向けてのお答えを一つしておきます。検挙率低下の主たる原因が警察の被害者対策重視への方針転換にあるだろうことについては私も納得しております。私が上で問題にしているのは、では警察は何故そういう方針転換をせざるを得なくなったのだろう、という背景にある問題についても考える必要はあるよね、ということです。


さて、sakaichiさんがご指摘するように、宮台の目的が「正しいものを受け入れるという、まっとうな感覚を取り戻」させることにあるのか、また、「勝ち組」と呼ばれる人々が意識的に「正しくない情報」を流通させ、支持・消費しているのか、といった点については、私は懐疑的です。ただ、「正しさ」や社会一般に対する絶望の度合いにギャップがあるのではないか、というご指摘は当たっているかもしれませんね。


後藤さんの明確なご見解は知り得ませんが、安原さんは「正しい情報をつみかさねたところに正しい解釈ができるのだと思います」と仰る。今の宮台を社会科学をやっていると見做す人がどれだけいるのか分かりませんし、別に彼を擁護するつもりもありませんが、やはり「正しい情報」を積み重ねていけば状況は改善するのかという点について、安原さんよりも悲観的ないしシニカルなんだと思います。


で、その点に限れば、どちらかと言えば私は宮台寄りです。「正しい情報」を発信して普及させていくことは重要であり、その意義は小さくないと思いますが、「正しい情報」を積み重ねれば「正しい答え」が得られるとか、社会が良くなるなどと言い切るつもりにはなれません(もっとも、安原さんの仰る「正しい解釈」がどこまでを意味しているかは解りませんが)。


例えば治安問題にしても、(安原さんを含む)様々な人の努力によって、統計上治安は悪化しているとは言えないし、犯罪が凶悪化しているとも言い難い、といった「正しい情報」はだいぶ普及してきています。しかし、この点を認めた上で、「しかしながら「体感治安」が悪化しているのは事実だから、これに対する手当てとして厳罰化等は必要だ」といった主張をする立場は有り得ます/有ります。事実認識については一致が得られても、そこに更に踏み込んで何を読み込むか、どういう処方箋を導き出すか、という部分では一致するとは限らないということですね。


ただ、私自身は宮台の立場に与しませんし、「正しい情報」を提供することの意義を過小評価するのも不毛なだけだと思うので、それに限定を加えるのみです。私が危惧するのは、(必ずしも後藤さんや安原さんがどうと言うわけではなく)「正しい情報」を錦の御旗にして、言説の表層的な部分だけを取り上げて言説全体を否定するようなことが盛り上がってしまうケースです。こうした場合には、その言説が取り組もうとしている課題や、その背景にある社会的文脈、言説自体が持っている内在的論理などが丸ごとスキップされてしまいやすくて、私はそれは非生産的だと思うんです。批判すべきものは批判すべきだけれど、汲み取るべきものは汲み取らなければならない。批判対象に内在すればいいってもんじゃないけど、外在的批判だけで済ます限界は知っておかなければならない。そんなところですかね。


『犯罪不安社会』は素晴らしい本だと思いますので、安原さんにおかれましては、今後の一層のご活躍を期待しております。お二人とも、コメントありがとうございました。
2007/06/28(木) 20:29:36 | URL | きはむ #- [ 編集]


 こんにちわ。丁寧なお返事ありがとうございます。
 被害者問題が盛り上がったきっかけは、まず当の被害者が運動をはじめた時期と世界的な被害者保護の流れ、経済的な不安、あと世間の耳目を集める事件が重なったことで、「偶然」だと思います。それ以上でもそれ以下でもないです。
 実際の「不安」は何なのかを考えると右肩あがりの経済成長をベースに考えられいた社会との齟齬がでてきている部分をふつうーに調整していこう!と考えればよいのでは?ます大きく3点です。
 「子供の教育、家を買うこと(住宅ローンで)、家族にそれなりな医療を提供することができること」この3点が「できなくなってること」が大きな「不安」でしょう?これを右肩あがりじゃなくても、それなりにできるようにすることだと思います。
 治安問題については、今後も安全だと思っているわけではなく、「貧困」問題がこのまんまでにっちもさっちもいかなければ増えるんじゃないかと思います。とくに介護殺人のようなものはアメリカを見てれば政策を見てれば、かなりの負担を強いるのは確かで急速な高齢化とともに、私は佐藤先生がいってるように「言説をまわりこませる」努力がアカデミックは必要ではないかと思います。


)「正しい情報」を錦の御旗にして、言説の表層的な部分だけを取り上げて言説全体を否定するようなこと
「言説の表層的な部分を取り上げて」とは具体的に誰のどんな話でしょうか?基本的には私は地道に活動してる「知」の部分を紹介しているので、そういった「情報」量の大きくすればいいと思います。
 「正しい情報」の「正しい」というところに過剰反応する人が多いなあとは思っております。
 後藤さんがやってるような「批判のスタイル」こそ、逆に生かしたほうが「生産的」と考えております。
2007/06/29(金) 13:48:35 | URL | 安原 #- [ 編集]


なるほど。私にとって安原さんのご見解がだいぶ明瞭になりました。ありがとうございます。


まず、被害者への対策や支援が重視されるようになったのは偶然による、というご主張については賛同できません。その理由は、私が背景的な社会状況の変化を認めているためです。この点については過去に述べたことがありますが(http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070206/p1)、そこで述べていることだけでは根拠として弱いようにも思いますから、偶然説に対する十分な反論にはならないかもしれませんが。ただし、偶然説にしても、何故その時期に被害者運動が盛り上がったのか、世界的な被害者保護の流れはどのような背景を伴って出てきたのか、ということについての詳細な検討によって裏付けられない限り、説得力のあるものとはならないでしょう。世界的な被害者保護の流れの背後に社会状況の有意な変化が認められるなら、偶然として片付けることはできなくなりますから。私は、日本に限らず、その変化は存在するだろうと考えているわけです。


私が理解したところでは、安原さんは、社会に変化が認められるとするならば、その主たる原因は経済状況の変化/悪化に求められるとお考えになっているようです。それに対して、私は(「不安」が生まれてくる理由を含めて)経済状況の変化以外にも理由を求めていることになりますね。この点について述べると冗長になりますので、お手数ではありますが、繰り返すように上記URLの記事をご参照下さい。


言説の表層的な部分を取り上げた言説全体の批判については、主に後藤さんなどに影響を受けたネット上の幾つかの言説ないし雰囲気を想定していますが、インタビュー記事における後藤さんや安原さん達の語りの中からも、一定程度そうした印象を受けました。具体的にどの部分と言うよりは、そうした雰囲気のまま言説がドライヴしていく/滑っていくことの危険性を問題にしたつもりでいます。こういう答え方では納得されないかもしれませんが、個別の論点についての批判というよりは、全体の雰囲気ないし態度についての疑問の表明であるとご理解下さい。


「正しさ」について、私の反応が過剰であるかどうかは分かりませんが、過剰に思えるほど慎重に扱ってもいい言葉だとは思います。「正しい認識や理論に従えば、正しい/望ましい結果が得られる」と素朴に信じていたために、酷く悲しい結末を迎えた人々が無数に存在してきたということを、私たちは歴史に学べるのですから。
2007/06/29(金) 18:01:28 | URL | きはむ #- [ 編集]


こんばんわー。
あのう・・・被害者運動が盛り上がった社会的背景については「犯罪不安社会」でかなり検討してると思うんですけどねー(笑) パノプティコンとかと被害者運動の関連とかをいうことにどういう意味と「歴史」があるんかしら?どうでもいいんじゃないかな。あっそうそう日本の被害者運動やってる人たちが、経済的に「運動」ができる人たちだった、さらに世論に対する説得力をもたせられることができる力がある人たちだったというのは大きいと思います。
>世界的な被害者保護の流れはどのような背景を伴って出てきたのか、
えっとこれは調べればすぐ出てきますけど。刑事司法は国家との対審構造なので、「犯罪被害者」は想定してなかったんですね。それに司法参加などは「犯罪被害者」被害者運動の方たちもそれを根拠にしてますが、知りませんか?でもあんまりそういう実態的なお話は興味なさそうみたいですねー。


うーん、すいません。記事読ませていただきましたが、東くんとか鈴木さんコピーみたいな言説はさんざんいわれてきますが、一部の人文オタクには楽しいかもしれませんが、結局それに鼻白むばかりの人が多いから、左がだめになってるんじゃないですか?私にとってもだからどうしたの?という印象しか受けません。
>私たちは歴史に学べるのですから。
えっと、だから学んだほうがいいと思いますよ。パノプチコンとかじゃなくて実際どう動いたのかということをね、ってことをやりましょうねーっ。でもそういっても具体的にいったほういいからなるべく簡単にいってるつもりですし。これからもやっていくつもりです。応援ヨロシクです(笑)ではでは。
2007/06/30(土) 22:51:17 | URL | 安原 #- [ 編集]


あとね、ちょっと補足です。「正しい」っていうのって前「正義って意味じゃないよ」って書いたと思うですが、ニュアンスとしては「正確な情報」っていう意味ですね。
あのね「社会問題」にするなら、その「規模」なんですよ。自分のまわりだけで「深刻化」してることを一般化するほうがかなり危険かなって思いますです。それを批判してるわけです。


>「正しい認識や理論に従えば、正しい/望ましい結果が得られる」と素朴に信じていたために、酷く悲しい結末を迎えた


まあ、具体的にお話いただかないと、議論にはなりません。私は議論のための議論をするつもりはありません、っていうかできないかな。たびたび失礼いたしました。
2007/06/30(土) 23:01:05 | URL | 安原 #- [ 編集]


一応、「正しい情報」を。
全国犯罪被害者の会』をリンクしておきますね。

                    • -

http://www.navs.jp/victim/victim.html#1
>ドイツやフランスでは、犯罪被害者自身が公訴提起したり、刑事裁判に参加して加害者を追求する制度を設け、被害者感情に配慮しています。

                    • -


っていってますよね。
2007/06/30(土) 23:12:01 | URL | 安原 #- [ 編集]


こんにちは。私が具体的な論点への言及を控えめにしていることによって、議論の噛み合わせが悪くなっているようですから、私に可能な範囲で具体的に答えさせて頂きます。それは多分、トラックバックを下さっている遊鬱さんへのご回答にもなるでしょう。結構長くなりますが、ご容赦下さい。


パラパラと見返してみた限りでは、『犯罪不安社会』63頁に、80年代以降の英米を中心とした先進国において、犯罪被害者支援への積極的な取り組みが開始されたとの言及がありますね。そして、私が繰り返し申し上げているのは、では何故この時期に被害者支援への取り組みが開始されたのかということが、それ自体検討するべき一つの課題として存在しているということです。被害者支援の運動自体は本格的な国家的取り組みが開始される以前から存在したはずですが、そうした運動が広範に受け入れられ、国家を動かすほどの力を得たのは何故なのか。これまでの安原さんのコメントは、このような意味での「背景」について何の言及も含んでいません(欧米諸国においても偶然説が適用可能であるとのお考えなのかもしれません)。


『犯罪不安社会』では、浜井も芹沢も、近時の日本社会における厳罰化への支持増加や体感治安の悪化が、犯罪被害者支援を求める声の高まりと並行的ないし相乗的なものであったという旨を論じていますね。両者ともそれ以上遡った検討は行っていませんが(それは彼らの仕事ではないとも思いますが)、私は体感治安の悪化と被害者支援運動の支持拡大には、ある程度共通の背景的変化が存在しているのではないかと考えているわけです。上に挙げた記事で私は、その変化の具体的な例として、個人の権利意識の強化や中間集団の結合力の低下を挙げました。もちろんその論拠は、データを挙げた検証などを含まない、極めて不十分なものですが、表面的な出来事や統計数字の列挙だけでは必ずしも見えて来ない、より深層での変化が存在するのではないかという問題意識に基づいた考察を行ったつもりです。


このエントリにトラックバック頂いた記事でdojinさんが仰っているように、そういう深層での、あるいはより長いタイムスパンでの社会変化というのは、「再帰的近代」とか「第二の近代」とか「超近代」とか「リキッドモダニティ」とか「ポストモダン」とか呼ばれて社会学でよく議論されています。何と呼ぶにせよ、そうした何らかの変化に対する基本的な部分での認識というものが、社会学においてはだいたい共有されているんですね。そうした理論はいわゆるポストモダン的な言説に必ずしも肯定的でない点で「ポストモダニズム」とは少し違うのですが、近代的な社会枠組みを批判するという意味でポストモダン的な潮流というのは法理論・法社会学にも流れ込んでいまして、近代的な法理論を批判しています。


ご指摘のように、近代的な法理論においては、犯罪とは国家に対する罪であり、刑事法は主に犯罪者に対する国家の権力を縛る目的を有するものと見做されますから、相対的に被害者の立場が軽視されてきたと言われています。そして、そうした近代法の枠組みに対して批判的なのがフランス現代思想などのポストモダニズムの影響を受けたポストモダン法学などで、日本の法社会学では、浜井が言及している和田仁孝などがこうした理論的潮流に比較的肯定的な研究者として代表的です。何が言いたいかと言うと、直接的な影響・結合関係はともかく、70〜80年代以降の欧米において、被害者支援運動の盛り上がりとポストモダン法学の発展が少なくとも並行的な歩みを見せてきたということは言えるわけで、その背景に社会自体の変化を見出そうとすることは、不自然なことではないと思うんです。


私が表層的な批判と呼びたいのは、そうした深層(底流や構造と言ってもいいですが)での社会の変化が存在するのではないかという問題に目を瞑って、あるいはそうした変化が存在する可能性を考えもせず、自らが依拠する比較的単純な評価基準に則って、「良い=許容可能な言説」と「悪い=許容不可能(トンデモ)な言説」を截然と分けてしまうような批判です。後藤さんや安原さんの言説がこうした批判スタイルとして見做し得るものであるかどうかは、一旦措きます。しかし仮に、「俗流若者論」批判なるものが、(極端に言えば)若者に肯定的か批判的かといった一種のポリティカリー・コレクトのような基準のみを以て言説全体の評価を下し、例えば被害者支援運動拡大の背景にある変化のような、その他の無視できない問題についての慎重な検討(あるいは少なくとも留保)を欠くならば、表層的であると見做せるでしょう。


内在的論理や理論的文脈などと私が言うのは、「俗流若者論」を批判するのはよいとしても、批判対象が何故そうした言説を紡ぐ結果になってしまうのか、相手がどういう問題意識を持ってどういう課題に取り組もうとしているのか、どういう理論的背景や変遷があるのか、といったことを併せて慎重に検討しておく必要があると考えるからです。あらゆる相手に対してこうした態度を採れと言うのは現実的ではないかもしれませんが、大抵の場合、経済的環境=下部構造と世代的ノスタルジーだけで切るのは乱暴に過ぎます。後藤さん自身はこうした点に十分気を払っているつもりかもしれませんが、少なくとも上に挙げた宮台への批判は無邪気過ぎて、雑談としては面白くても真面目な言説としては頂けません。


いくら宮台の若者論がダメダメだとしても、彼が上で述べたような深層的社会変化に対する社会学の理論に基づいた深い認識を有しており、それを前提として言説を紡いでいる以上、若者を「治療」しようとしている(んですか?)一事を以てノスタルジック親父に過ぎないと批判してみたところで、建設的な批判にはなりません。また、批判のマナーに関わる問題として、後続世代が先行世代の論者に対して「アイツは結局〜世代だから」式の批判を浴びせるのは、世代的特権に寄りかかった批判であり、あまり好ましくありません。


最後に「正しさ」の問題です。私は、正確性/真理性という意味でも、正義/規範的正当性という意味でも、それは過剰に思えるほど慎重に扱うべきであると考えています。前のコメントのような書き方をすれば誰を想定しているのか解って頂けるだろうと勝手に思っていましたが、それは人文オタクの独りよがりのようでしたので、ご所望の具体例を挙げます。私がそこで想定していたのは、かつてのマルクス主義者、あるいは旧/新左翼の人々です。彼らは自派の理論は科学的で正しい理論であると信じていましたし、ブルジョワプチブルが流す虚妄の言説を批判して、自分たちのみが世界についての正しい情報を有しているのだと主張していたわけですよね。ここまで言えば、「酷く悲しい結末」の詳細についてまで具体例を示す必要は無いと考えます。インタビュー中に出ていましたが、仲正昌樹の「生き生き」批判というのは、そういった歴史への学習を前提にしていると思いますので、個人的には今後も学んでいきたいと考えています。


安原さんのお仕事については、今後とも応援しておりますので、どうぞ頑張って下さい。長々と失礼致しました。
2007/07/01(日) 18:28:16 | URL | きはむ #- [ 編集]


えっと、あげていただいた本はだいたい読んでおりますので、ながながとしたコメントに御礼は申し上げません(なぜなら私にとって勉強になるものではないから)。難しいかんじで書いてる本をクイズを解くように読みたい時期があるのもわかりますが(笑)日本で犯罪被害者運動が盛り上がったのは個人意識とか後期近代とか、そういうのではなく、ほんとに蚊帳の外だったことに当事者たちが気がついたことですよ。(世間も)(当局も)。さらに、「そして殺人者は野に放たれる」という日垣さんの本が売れたのは結果的に「野に放たれてる」って思ってない前提のもとに作られているタイトルでしょう?だからほとんどの人は犯罪者は刑に服していると思っていたからでしょう?「事実」が物語を壊してますし、ほんとうの事実が先回りしてないですよね?


>若者に肯定的か批判的かといった
私はぜんぜんそんなふうに思ってませんけど?実際大きいのは若者問題より高齢者問題だと思いますし。


>ノスタルジック親父に過ぎないと批判してみたところで、建設的な批判にはなりません。
あの・・・・そうのように批判したことは一度もないかと思いますが。「治安悪化」に荷担してる言説をひいて、おもいきり間違えてるんで批判してますが。もう一度こちらにもってきましょうか?


>雑談としては面白くても真面目な言説としては頂けません。
まったく逆で、貴方の話は雑談としてはおもしろいですが、まじめにさらに具体的に聞けば齟齬をきたす話ばかりだと思います。たとえばマクドナルドの椅子でしたっけ?硬くてもお金がなければ夜通し座ったホームレスの不可視化に手を貸してるじゃないですか?「環境設定権力」でしたっけ?あれも社会解釈としてはあんまり意味がないと思います。


>かつてのマルクス主義者、あるいは旧/新左翼の人々です。
労働問題としてはなぜ当時「エンゲルス」が受け入れてられたかって考えたみたほうがいいんじゃないかしら?ご心配な方は。おもしろいヒントがあるかもしれませんね。「動物化」が泣きますよ。ほんとに原典読んでらっしゃいますか?


理論を共有してないからおかしいっていうのはおかしいですよね。現実とあってなければ、「理論」が批判されるのはあたりまえではないでしょうか?


ではでは。ご自愛くださいませ。
2007/07/01(日) 19:16:21 | URL | 安原 #- [ 編集]


はじめまして
はじめまして。


具体的な回答?とやらを頂いたので私も考えるヒントになりそうなものを措いておきます(どうやらとっても世の中を見えていらっしゃるらしいので私ごときがあまり言を弄す必要はないと思いますので)。


>もちろんその論拠は、データを挙げた検証などを含まない、極めて不十分なものですが、表面的な出来事や統計数字の列挙だけでは必ずしも見えて来ない、より深層での変化が存在するのではないかという問題意識に基づいた考察を行ったつもりです。


このことについて、治安・若者批判・環境・医療・教育とずらずらと問題を並べてみてその「構造」的に問題化した経緯を時系列的に並べて眺めてみたらいかがですか?具体的には浜井教授・渡辺教授がなされた記事「数」分析などです。


>宮台の若者論がダメダメだとしても、彼が上で述べたような深層的社会変化に対する社会学の理論に基づいた深い認識


たとえ宮台が深い認識?(そんな立派なものを有していてこれだけ現状認識も、予測も外せるのは社会学という学問を貶めるだけのような気もしますが)を有しているかどうかは問うていませんよ?若者論がダメダメかどうかを問うているんです。「犯罪不安社会」をお読みなら、宮台が「鉄の四重奏」の片棒を担いでいることはわかるでしょ。
2007/07/01(日) 19:38:36 | URL | 遊鬱 #1q8K8B/6 [ 編集]


上の議論についてはよくわかりませんが、後藤さんの宮台批判について一言。


>dojinさんが仰っているように、そういう深層での、あるいはより長いタイムスパンでの社会変化というのは、「再帰的近代」とか「第二の近代」とか「超近代」とか「リキッドモダニティ」とか「ポストモダン」とか呼ばれて社会学でよく議論されています。


私はむしろ唯物論者に近いですから、雑駁にいえば、再帰的近代とかポストモダンとか後期近代みたいなものを「表層」と捕らえています。「深層」はもちろん、私的所有を軸に富の生産・配分・分配を行っていく資本主義社会です。


だから、ポストモダニスト言説や後期近代言説は経済的余裕があってこそ、というのは間違っていないというか、唯物論者からすれば当たり前です。彼らは、経済的土台の上の「瑣末な」(by唯物論者)ことをあーだこーだ論じているわけです。


私も、こういう「瑣末な」問題よりも、自分の主たる関心である財政や社会保障の問題とか、市場経済をどうしていく、みたいな問題のほうが「瑣末ではない」と勝手に思っています。


でもこれは私がただそうなだけであって、一方で、そういう「上部構造」の「瑣末な」問題はそれなりに面白いし、少なくとも今の日本社会では、一定数の日本人にとって、経済的問題よりも現実的な問題であると感じています(まぁ厳密に言えば両者がきれいに分けられるわけではないのでしょうが)。だから宮台真司には根強い需要があるわけだし、私も面白く読ませてもらっているわけです。


後藤さんもまだ若いんだし、そんなに急いで日本の論壇の悪しき慣行に従って凡庸な宮台批判をするのはもったいないんじゃないかな、と思うわけです。もうちょっと仲良くやりつつ、重要なポイントを堅実に批判したほうが、長い目でみたら生産的なはずです。


話をそらしてすみません。
2007/07/01(日) 23:08:21 | URL | dojin #0sMGOP1I [ 編集]


>安原さん


コメントありがとうございます。特に新たな論拠をお示しになることなく、偶然説を繰り返し唱えていらっしゃるのみであると理解致しましたので、こちらからもとりたてて新たな議論を持ち出すことは致しません。


マクドナルドの椅子の話を唐突に持ち出された理由はよく解りませんが、せっかくなので、そちらにだけお答え致します。私は、マクドナルドの椅子を東浩紀などが言う「環境管理型権力」(のことを仰っているのだと思います)として把握したからといって、その椅子に夜通し座り続けなければいけないホームレスの人々の存在を不可視化することにはならないと思います。環境管理型権力の代表例として、ホームレスの人々が居着くことを阻む目的を有して設置される駅前の意味不明のオブジェなどが持ち出されることがあります。権力は排除や支配、操作といった機能を有するものですから、権力論は排除の対象になりがちな社会的下層の人々の生活を認識することとも密接に関わっています。環境管理型権力のような議論が新たに出てくるのは、従来の理論では現実に働いている権力が上手く把握できないのではないかという問題意識に基づいて、新たな理論を提出する必要性が強く感じられるためでしょう。それは「再帰的近代」のような理論が出てくる場合においても同様です。


>遊鬱さん


はじめまして。コメントありがとうございます。私の能力不足についての批判は甘受致しますし、率直に恥じ入るばかりです。このエントリとこれまでのコメントでは、宮台の言説に問題が含まれていることには同意した上で、ある論者の言説における若者論のみを部分的に取り出して批判することに伴う問題性について述べてきたつもりですが、ほとんど伝わっていないようで残念です。


一般論を避けて私の論旨を繰り返させていただくなら、若者論や治安悪化言説を批判するのはよいとしても、ただ批判して事足れりとするのではなく、その周辺の無視できない問題についても言及して検討を加えるか、少なくとも留保をしておく必要がある、ということになります。「深層」を見よと言っているのは、批判すべき言説が広く受け入れられているなら、言説への批判それ自体とは別に、そうした言説が広範に受容されるような土壌がどのように形成されたのか、ということについても考える必要があると思うからです。


死刑廃止論者は死刑制度に犯罪抑止効果がほとんど認められないことについて、データを示して盛んに論じてきましたが、日本では未だに死刑廃止に至っていません。それは、死刑を手放せないような土壌(それが何か私には解りません)が無くならないからだと思います。治安についても同様のことが言えて、治安が悪化していないということをどれほど説得的に論じても、治安悪化言説を受け入れるような土壌が社会に存在する限り、状況は大きくは変わらないのではないかと思います。安原さんや遊鬱さんは、そうした土壌形成の原因を経済状況や特定の事件(それからマスコミの影響力)に求めるのかもしれませんが、私はそれらは重要な要因だとは思いつつ、それらだけに還元することには反対しているということです。


>dojinさん


コメントありがとうございます。私は「深層」という言葉を少し軽々しく持ち出したところがあって、もう少し正確な言い方が無かったかと反省しております。ただ、私が「再帰的近代」のような議論を「深層」側に位置づけたのは、資本主義社会体制に対してではなく、せいぜい10年から20年といったごく短期間における経済状況の変化に対してですので、dojinさんの議論枠組みとは少し違います。コメントで触れる以上、この点は言及しておくべきでした。


再帰的近代」のような議論は資本主義社会体制を当然の前提としていますから、そういう意味では、表層レベルの議論に位置づけられるとは思います。私自身は「再帰的近代」やポストモダン的言説と括られるような議論と、経済的な問題や資本主義そのものについての議論は同じくらい重要だと思っています。特に社会体制としての資本主義を議論の前提に設置するならば、ポストモダン的問題系とその時々の経済・福祉・貧困などの問題系の間に、表層‐深層の位置関係を認めることは難しくなると思いますから、その場合には尚更です。もっとも、このように整理することが可能かどうか、疑問の余地が大きいかもしれません。
2007/07/02(月) 22:01:02 | URL | きはむ #- [ 編集]


上のやりとりを拝読させてもらったのですが、安原さんの対応が非常に残念です。


私は『犯罪不安社会』を非常に面白く拝読させてもらいましたし、他の人にも薦めています。


しかし、上のやりとりを見ると、ブログ主の方が誠実に対応しようとなされているのに対して、安原さんの語り口はきわめて独善的であり、正直、読んでいて苛々させられてしまします。


安原さんは真理を語っているとの立場から、「真理」の存在を否定的に捉えるポストモダン的な発想には嫌悪感を示されているのでしょうが、ここでのやり取りを見るとむしろ「語り口」の問題を重視するポストモダンの発想は決して馬鹿にできないことを痛感させられてしまいます。


「難しいかんじで書いてる本をクイズを解くように読みたい時期があるのもわかりますが」というような人を見下す書き込みをしている限り、仮に真理を語っていたとしても反感ばかりが増すことになります。あえて言えば、安原さんの語り口からは、マルクスの「権威」によりかかって、論敵を叩き潰そうとする「マルクス主義者」のような匂いがします。


以上、厳しいことを書きましたが、『犯罪不安社会』の愛読者として、上記の点についてお考えいただければ幸いです。
2007/07/09(月) 01:23:47 | URL | 外野ですが #JalddpaA [ 編集]


真理観の相違
 はじめまして 放浪の社会学プログコメント屋の論宅と申します。

 
 似たような齟齬は、私と安原さんたちの間でもよく起こります。
いつも言いますが、真理観に差異があります。これを自覚しておかないと、議論がかみ合いません。安原さんたちは、対象と認識の一致という自然科学的真理に立脚しています。つまり、社会を自然のように必然として観察する立場です。


 宮台社会学のようなシステム論的視点では(私も究極のラディカル・システム論者ですが)、社会という対象を必然の相ではなく、複数の自由意思どうしの関係で創発されたものとして偶然の相で観察します。人間の相互作用によって社会はつくられたものであり、偶然の産物であるという感覚です。偶然に対しては因果法則ではなく、解釈としての物語が有効になります。社会理論も社会に対する一つの物語にしかすぎません。というよりか、物語としての機能を持ちます。物語は演じられることで、本当になり、創発されます。そのように割り切ることで、対象と認識の一致という真理観に基づく科学主義者と折り合いをつけます。二つの真理観は、同等の価値をもちます。
 社会は自然のように天から与えられたものではなく、社会は人間がつくったものですから、認識するという類のものではなく、参加して演じてつくるというほうが適切ですね。これは開き直り出はなく、一つの分別・区別です。もちろん、社会を実体視する社会理論や社会思想もありますが・・・。
2007/09/30(日) 12:10:18 | URL | 論宅 #JalddpaA [ 編集]


質的調査
 放浪の社会学プログコメント屋の論宅です。

 
 私は、ブログではメタ理論を書いていますが、実際のところ、社会学における質的調査を重視する臨床社会学あるいは社会病理学の立場に立っています。
 後藤さんや安原さんたちにしても、統計だけでなく、例えばホームレスや累犯障害者と直接話して面接調査し、その内面的な意味世界を記述し、理論化していく作業をなされたのか疑問をもっています。統計的現実は学者によってつくられた二次構成物であり、むしろ直に調査対象と接して生の現実を観察されることをお勧めしたいですね。原爆を例に出すのも変ですが、統計だけではキノコ雲の上だけ見てその下の悲惨な現実を見ない立場です。死者の数という統計だけでは原爆の真実は伝わりません。
 初期の宮台真司は、援助交際少女を対象としたインタビュー調査・質的調査を重ねた上で、議論していたようですね。それが説得力があったのだと思います。
2007/09/30(日) 12:42:51 | URL | 論宅 #JalddpaA [ 編集]


論宅さん、はじめまして。なるほど、システム理論とはそういうものですか。私には理解が難しいですが、それはそれで重要な観点なのだろうと思います。ただ正直に申しますと、(システム理論からは少し離れますが)最近ギデンズやベックをパラパラと読んで、理論社会学というものは、もう少し裏付けとなる具体的事実を示しながら議論できないものかな、と思いました。私自身はもう少し裏付けが示されているだろうと期待していたのですが、やはり別所でdojinさんが指摘されているように(http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20070803#c1186587320以下)、曖昧なところ・根拠が希薄なところが多いように見えました。


物語として一種割り切って捉えるべき局面もあると思いますが、やはり説得力を増すにはもう少しこう現実に即した論証の積み重ねが必要とされる気がします。その手段の一つとして質的調査もあり得るのでしょう。統計同様、質的調査も万能ではありませんが、様々な観点から得られた認識を擦り合わせることが重要なのだと思います。私は理論にせよ統計にせよ質的調査にせよ、それぞれの限界を自覚しつつ互いに参考にし合えると思うので、その場その場での結論が違うからといって批判して終わりにするのではなく、なぜ認識のズレが生じるのかをじっくり考えつつ認識を深めていって欲しいのですが、それは後藤さんや宮台ではない第三者的な立場の人ではないと難しいのですかね。
2007/09/30(日) 16:44:19 | URL | きはむ #- [ 編集]


理論社会学
 コメントありがとうございます。論宅です。

 
 理論社会学の本を読むと、確かに具体的事実にどう当てはまるのか、一体、何のことを指しているのかわからない場面によく出くわします。ベックに限らず、ルーマン等はその典型かもしれませんが、ヘーゲル法哲学を読むのと同じ感覚で読んでいます。伝統的な西洋哲学の知識なしに、理論社会学を読むのは困難かと思われます。ドイツ観念論の基礎を勉強してからのほうがいいかもしれません。
 欧米の社会学者だけが進んでおり正しいという先入観を捨て、もっと日本人の社会学者も勉強したいですね。そういう意味では、マクロ論理においては、富永健一社会学だげが、唯一、概念の精緻さからして、科学として扱える可能性があると思っています。(科学だけが正しいと思っていませんが) もちろん、あまりにも質実剛健で地味なので、目立ちませんが、宮台社会学に比べると、はるかに歴史的な事実に根付いています。ポストモダンの論客はあまり目にとめていないようですがね。


 おっしゃるとおり、統計調査と質的調査は、本来、相互補完的なものですね。特に、統計調査の違和感、例えば擬似相関関係は、質的調査によって見破ることができる可能性があります。


 今、擬似科学批判者や後藤氏など、事実志向の論客が増えています。そこで,それに関連して興味あるのは、ブルデューです。彼は、統計調査を駆使して、社会を分析します。抽象的な理論社会学やポストモダン論を床屋談義として否定する後藤氏や安原さんたちの思想的潮流が、ブルデューをどう評価するのか興味あります。ブルデューに依拠したネット論客の登場を期待しています。
2007/10/01(月) 19:28:21 | URL | 論宅 #G9QIIRpA [ 編集]


なるほど。ご教示ありがとうございます。広い視野と深い懐を持った社会学者の登場・活躍に期待したいところです(今も十分いるのかもしれませんが)。
2007/10/01(月) 20:56:08 | URL | きはむ #- [ 編集]

TB


義家弘介、無責任一代男。〜3年B組金欲ち先生〜 http://newmoon1.bblog.jp/entry/382129/


[学問]近代を分けることについて(タイトル変えました) http://d.hatena.ne.jp/dojin/20070630#p1


[悪意]食えない女 http://d.hatena.ne.jp/gerling/20070716/1184576813


反社会学講座批判 http://mercamun.exblog.jp/7512346