国家論のために
- 作者: 佐藤優
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2007/12/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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最近、国家についての思考を改めてまとめておく必要があるなと思い直したところで、この本を読んだ。国家論として読む限り新たに得るものは多くないが、参考にならないわけではない。ちょっと今、萱野稔人『国家とはなにか』の射程がどこまでだったか確認するために読み直しているのだが、萱野本と照らし合わせる形で思考を進める助けにしようかと思う。以下は、特に国家について論じた過去のエントリ。
萱野国家論の補足
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20061221/1166691154
esperantoとconvention
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070704/1183546723
政治学の根本問題
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070116/p1
- 作者: 萱野稔人
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2005/06/17
- メディア: 単行本
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- 作者: 稲葉振一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/09/06
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ところで、佐藤の国家観は素朴に古いと言うよりも意識的な近代主義的選択の現れであると思うのだが*1、それにしてもこの本での「ポストモダン」の退けられ方は随分無造作であるような感を受ける。これ程の知性を持つ人が、なぜ通俗的なポストモダンフォビアと大して区別もできないような気安さを見せるのか、やや不可解な気さえする。これに対してはとりあえず、塩川伸明の言を引いておきたい。
自己批判にいろいろなやり方があるように、他者批判にも様々なものがある。特に大事なのは、相手の低いところを批判する――これは極めて容易なことだ――のではなく、高いところを乗り越えるようにすべきだということである。低いところを叩くという安易な作業は自己満足以外のなにものももたらさないが、高いところを乗り越えようと努める中でこそ、批判者の側も自己を磨くことができるというものである。
(中略)
今日、マルクス主義が批判される場合、主として正統的・教条的マルクス主義が念頭におかれていることが多い。これは、先ほど用いた表現を繰り返せば、マルクス主義をその低い地点で乗り越えようとする態度である。これに対して、私は、マルクス主義をその最も高い地点で乗り越えるよう努める必要があると考える。つまり、教条的なマルクス主義よりは一歩も二歩も進んでいたはずの批判的マルクス主義でさえも、最近の情勢からは立ち遅れているのではないかということである。教条的マルクス主義を批判するのは今日ではたやすいこと、安易なこと、ファッショナブルなことでさえあるが、批判的マルクス主義の再検討は、それよりは手ごたえのある作業である。今日、何よりも必要なのは、安易な作業としての前者を流行の尻馬に乗っかって繰り返すことではなく、後者のより困難な作業を遂行することではなかろうか。
塩川伸明「日本における(旧)ソ連・東欧研究の反省」『社会主義とは何だったか』(勁草書房、1994年)58-60頁。原文の傍点を省略。強調は引用者。
塩川の議論の進め方は慎重でありながら大胆であり、丁重でありながら容赦が無い。私もこうありたいと、強く魅かれる。イシューとして多少関連するので、以下も載せておく。こちらも相当に厳しい。
大澤真幸『ナショナリズムの由来』読書ノート
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/oosawa.htm
- 作者: 塩川伸明
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1994/09/01
- メディア: 単行本
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*1:無論、ものの見方が古いか新しいかは、それ自体として学問的価値の高低とは別次元の問題である。