事実・想像・理論と、その周辺


1.「言説を紡ぐ/に対する態度」の補足として。

北田 さっきの脳の話で言うと、斎藤環さんがお怒りになっていた「ゲーム脳」論がありました。斎藤さんの反論はおそらく正しい。しかし、問題は斎藤さんを無条件に支持する人たちです。たぶん斎藤さんを支持する人たちの多くにとっては、斎藤さんの反論は本当は専門的すぎてわからないはずなんです。しかし、とにかく「知の欺瞞」の臭いがしたものに対しては徹底的に叩くということになってしまっている。[中略]デリダドゥルーズもちゃんと読んだことはないけど、こんな偉い自然科学者たちが批判してるらしいから、これはもうダメなはずだ、と。人文学的な解釈ゲームに対する違和感が、そのまま「反人文主義」へと直結し、ゲームを終結させてくれる自然科学的な言説への無条件的な信頼へと直結する。デリダの言ってることもソーカルが言っていることも実は同じぐらいよくわからないんだけれども、ソーカルを信じたほうが解釈学から解放される、安心できる。そういう妙な安心感は、「細かい理屈はよくわからないけど、安全を保証してくれるなら監視カメラOKでしょ」というリバタリアン的な感覚とすごく似ている。

[中略]

鈴木 (笑)。いま、お話を聞いていて思い出したのは、少年犯罪問題かなにかで宮台さんたちが『朝まで生テレビ』に出ていたのですが、例によってグラフを出して少年犯罪は増えていないとかいうわけですね。ところが反論として「グラフなんかが問題なんじゃなくて、みんなが少年犯罪が増えていると思っていることが問題なんだ」みたいなものがありました。[中略]ゲーム脳でもそうですが、斎藤さんは完璧に反論したのに、データやロジックで勝ったとしても、「実感」ばかりが先行して、社会的な効果が薄かったりする。

 そのとおりです。そうすると、逆に、宮台さんや斎藤さんが取っている戦略では、結局宮台さんや斎藤さんを支持する人が喜ぶだけのようにも見える。多数決では漠然とした不安を煽る人に負けてしまう。
 先月の鼎談でも言いましたが、問題なのは、いま経済学者が弁護士的な役割を帯びはじめていることだと思うんです。学者がみなどこかの代理人になっている。


[北田暁大鈴木謙介東浩紀リベラリズム動物化のあいだで」東浩紀編『波状言論S改 社会学・メタゲーム・自由』(青土社、2005年)、215-218頁]


2.「事実が必要とされない理由」の補助線として。

私は誰よりも早い段階(酒鬼薔薇事件直後)から、各書において少年犯罪の「凶悪化」や「激増」が曲解であると指摘し続けてきました(『透明な存在の不透明な悪意』『脱社会化と少年犯罪』など)。

その上で、そうした曲解の背後には不安が存在すること。不安の背後には動機の不透明化が存在すること。動機の不透明化の背後には……と思考を進めてきました。

[中略]

そしてもちろん、動機の不透明性とは、動機理解の社会的な紋切型にハマらないという現象を指すのであって、本質的な動機の理解不可能性を指すものではありません[予期理論]。

逆に、僕が「脱社会化」という概念が狙っていたのは、「人格障害」概念の社会的相対化です。時代や文化や世代によって「マトモな感情」の物差しが変わることを述べて来ました。

[中略]

私たちの社会は、感情が壊れていると“見える”か否かで大きく境界線を引く傾向があります。こうした「感情のポリティクス」に抗うことが、僕のソーシャルデザンンの一貫した目的です。

こうした感情のポリティクスが支配する空間では、感情が壊れていると“見える”、社会の向こうに突き抜けたと“見える”,と表現するだけで不安が惹起されることもあり得ます。

そうした不安に全く加担しなかったとは断言していませんよ。しかし、必要な議論の応酬という観点から言えば、「その程度の加担」など大したことはないと申し上げているのです。


またまた基礎的読解を欠いたトラックバックが…@MIYADAI.com Blog


 ラカンは確かに「正しい」。その説得力は、脳科学的に実証されるかどうか、治療効果があるかどうか、といった世俗的な「実証性」や「有効性」の彼方にある。僕はその力を認めるが、しかし、だからこそ、その力の源泉は、特定の時代的・社会的条件に否応なく縛られていると考える。要は、ラカンの「心についての理論」が正しいように見えるのは、そもそも私たちの社会がラカンの理論が正しく見えるような構造をしているからなのだ、というのが、大学院時代、現代思想界隈の文献を漁り続けた朴が到達したひとつの結論だったのである。


 言うまでもなく、心そのものは時代によって変わったりはしない。しかし、社会の構造が変われば、そこで正しいように見える「心についての理論」の構造も変わる。これが僕の考えである。そして、『動物化するポストモダン』でもほかのところでも、僕が「近代的主体」とか「ポストモダン的主体」とかについて語るとき、そこで念頭に置いているのは、この後者のほうである。
 近代とかポストモダンとか言うと、必ず、「でも人間の心ってむかしもいまもそんなに変わらないと思うんですよ」といった反論が来る。そんなのは僕もわかっている。問題は、その「変わらない心」について、人々が作り出すイメージや理論のほうなのだ。
 心そのものは変わらないかもしれないが、イメージや理論は変わる。そして、ひとはしばしば、心そのものよりも、そのイメージや理論に振り回される。「ポストモダン的主体」、すなわち、〈ポストモダン社会が作り出し、そこで正しいものとして流通する心についての新しい理論〉について考えなければならないのは、その新しいイメージや理論を、いまの私たちがうまくコントロールできなくなっているからだ。私たちは、現実の脳について認知科学的に研究するのとはまた別のレベルで、私たち自身が心についてどのように感じているか、その感覚を、言語化し、相対化しておかなければならない。


[東浩紀「crypto-survival noteZ」『文学環境論集 東浩紀コレクションL journals』(講談社、2007年)、729-730頁]


1と2の関連が割と見え易く付いたので良かった。コピペしながら言うのもなんだが、文脈を踏まえることが重要なのは、周回遅れで変なことしないためなんだな。もちろん、前が変なことしているために遅れて来た者が困るという事態も往々にしてあるわけだが、その場合にも一応きちんとした手続きを踏まえて問題を解除してあげないといけない。それが学問とか科学の面倒なところだ。でも、固有の文脈から剥ぎ取った断片に対して我田引水的に批判を加えることで事足れりとするような党派的な態度を採ることは避けたい*1、とやっぱり思うので、面倒なことも我慢してやらなければならんね。




文学環境論集 東浩紀コレクションL

文学環境論集 東浩紀コレクションL

*1:そういう実例は過去にも、紋切型にシュティルナーを嗤って済ます(ことで誰か/何かにおもねる)数多の文章の中に、散々見てきた。とりあえず科学的であることを志すのならば、(サークル内部でしか)批判として成立していない批判を印象操作によって塗り固めて説得力を水増ししようとするのは控えることだ。