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王義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 義(おう ぎ)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。

概要

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王義は真定府寧晋県の人で、代々の農家の出だった。1214年、モンゴル軍の侵攻を受けた金朝朝廷が中都(現在の北京)から汴梁に遷都すると、華北一帯では行政機構が崩壊し盗賊が横行する状態に陥った。そこで寧晋県の人々は以前から文武に優れたことで知られる王義を自分たちの指導者として推戴した。王義は崩壊した寧晋県の行政機構を代行し、「都統」 と称した[1]

同年、金朝の南遷を口実にモンゴル軍が再度南下を始めると、王義はムカリ率いる左翼軍団に投降した[2]。その後、チンギス・カンに謁見した王義は駿馬2匹を与えられ、寧晋県令の地位を認められた。また、華北の治安がますます悪化する中で王義は寧晋の東に位置する「瀝城」という城塞ならば身を守ることも、付近の魚を捕ることで自活もできると述べ、寧晋の住民を移住させた。この判断により、多くの者を兵乱から救うことができたという[3]

1215年乙亥)、金朝の将軍李伯祥が趙州に入ってモンゴル軍への反攻を始めたため、ムカリは王義にこれを討伐させようとした。王義は大風雨の中長梯子を携えて趙州を急襲し、夜の内に四方から城壁を登りこれを陥落させた。李伯祥には逃れられたものの王義は趙州の平定に成功し、この功績によりムカリから趙州太守・趙州及び冀州招撫使の地位を授けられた[4]

1217年丁丑)、モンゴル軍は南下して鉅鹿洺州城を落として帰還しようとしたところ、金の監軍納蘭率いる軍団が北上しようとしていることを偵知した。そこで、王義は伏兵を置いて僅か100騎でこれに戦いを挑み、敗勢を装って退却したところで伏兵に攻撃させ、大勝利を収めた。1218年戊寅)には束鹿県深州を攻略し、順天都元帥の張柔がその功績を報告したことで、深州節度使・深州・冀州・趙州招撫使に昇格となった[5][6]

1221年辛巳)、武仙は再び盧秀・李伯祥ら配下の武将を派遣し、盧秀・李伯祥らは趙州に進出し瀝城を奪取した。これに対し、王義は数百の軍船を率いて河を下り、紀家荘の戦いで敵兵1千余りを殺す大勝利を収め、盧秀を捕虜とした。李伯祥のみは逃れたものの、王義の迫撃によって瀝城が陥落すると西走し、王義は趙州から武仙軍を撃退することに成功した。また、この頃邢州では「趙大王」と称する盗賊が横行しており、任県の水塞を拠点としていた。水塞の守りは固く、真定の大軍閥史天沢がこれを攻略しようとして失敗するほどであったが、王義は1222年壬午)に水塞を陥落させ趙大王の勢力を平定してしまった。その後も王義は深州・冀州一帯の統治に努めたため、治安の悪化していた他の華北州県と比べ楽土のようであると評されたという[7]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻151列伝38王義伝,「王義字宜之、真定寧晋人、家世業農。義有膽智、沈黙寡言、読書知大義。金人遷汴、河朔盗起、県人聚而謀曰『時事如此、吾儕欲保全家室、宜有所統属』。乃相与推義為長、摂行県事、尋号為都統」
  2. ^ 紫山大全集』巻18龍虎衛上将軍安武軍節度使兼行深冀二州元帥府事王公行状(『元史』巻151列伝38王義伝の元になった史料)では王義のモンゴルへの投降を1213年(癸酉)冬のこととするが、これは金朝の南遷(1214年)の後に記載されており、時系列が入り乱れている。『紫山大全集』を元にして作成したと考えられる『元史』巻151列伝38王義伝では「1213年(癸酉)」という記載は省略されており、やはり「癸酉」という年次は信用できないものと考えるのが正しいと池内功は論じている(池内1980,71-73頁)
  3. ^ 『元史』巻151列伝38王義伝,「太師・国王木華黎兵至城下、義率衆、以寧晋帰焉。入覲太祖、賜駿馬二匹、授寧晋令、兼趙州以南招撫使。是時兵乱、民廃農耕、所在人相食、寧晋東有藪沢、周回百餘里、中有小堡曰瀝城、義曰『瀝城雖小而完、且有魚藕菱芡之利、不可失也』。留偏将李直守寧晋、身率衆保瀝城、由是全活者衆」
  4. ^ 『元史』巻151列伝38王義伝,「歳乙亥、金将李伯祥拠趙州、木華黎遣義擣其城。会天大風雨、義帥壮士、挾長梯、疾趨、夜四鼓、四面斉登、殺守埤者。城中乱、伯祥挺身走天壇寨、一州遂定。木華黎承制授義趙州太守・趙冀二州招撫使」
  5. ^ 『元史』巻151列伝38王義伝,「丁丑、大軍南取鉅鹿・洺州二城、還軍至唐陽西九門、遇金監軍納蘭率冀州節度使柴茂等、将兵万餘北行。義伏兵桑林、先以百騎挑之、納蘭趨来迎戦、因稍却、誘之近桑林、伏起、金兵大乱、奔還、獲納蘭二弟及万戸李虎。戊寅、抜束鹿、進攻深州、守帥以城降。順天都元帥張柔上其功、陞深州節度使。深冀趙三州招撫使」
  6. ^ 『元史』巻151列伝38王義伝,「金将武仙以兵四万来攻束鹿、仙諭軍士曰『束鹿兵少無糧、城無楼櫓、一日可抜也』。尽鋭来攻、義随機応拒、積三十日不能下、大小数十戦皆捷。一夕、義召将佐曰『今城守雖有餘、然外無援兵、糧食将尽、豈可坐而待斃』。椎牛饗士、率精鋭三千、銜枚夜出、直擣仙営。仙軍乱、乗暗攻之、殺数千人。仙率餘衆遁還真定、悉獲其軍資器仗。木華黎聞之、遣使送銀牌十、命義賜有功者。庚辰、抜冀州、獲柴茂、械送軍前、木華黎・張柔復上其功、授龍虎衛上将軍・安武軍節度使、行深冀二州元帥府事、賜金虎符」
  7. ^ 『元史』巻151列伝38王義伝,「辛巳、仙復遣其将盧秀・李伯祥、率兵謀襲趙州、並取瀝城、率戦艦数百艘、沿江而下。義具舟楫於紀家荘、截其下流、邀撃之、義士卒皆水郷人、善水戦、回旋開闔、往来如風雨、船接、則躍登彼船、奮戈疾撃、敵莫能当、殺千餘人、擒秀。伯祥退保瀝城、義引兵抜之、伯祥西走、二子死焉。邢州盗号趙大王、聚衆数千、拠任県固城水寨、真定史天沢集諸道兵攻之不能下。壬午、義引兵薄其城、一鼓下之、獲趙大王・侯県令等数人殺之、餘党悉平。義乃布教令、招集散亡、勧率種芸、深・冀之間、遂為楽土云」

参考文献

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  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-1-」『創立三十周年記念論文集』四国学院大学編、1980年
  • 『元史』巻151列伝38王義伝