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張栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

張 栄(ちょう えい、1182年 - 1264年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯(漢人軍閥)の一人。字は世輝。真定史天沢保定張柔東平厳実らに並ぶ、済南を中心とする大軍閥を築いたことで知られる[1]

概要

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モンゴル時代の華北投下領。済南路がカチウン家の投下領=済南張氏の勢力圏であった。

張栄は済南府歴城県の出身で、奇偉な容貌で知られる豪傑であった。張栄は若い頃従軍して流れ矢が目を貫いた時、人に足で額を踏んで矢を抜かせたが、秦然自若としていたという。1210年代チンギス・カンによる金朝侵攻が始まると、各地で敗北を喫した金軍は拠点防衛に転じ、華北の農村地帯はモンゴル軍による略奪と盗賊が横行する無政府状態に陥った。このような中で登場するのが「郷兵」「義軍」と呼ばれた農村の自衛集団(後の「漢人世侯」)で、張栄もその一人として済南の黌堂嶺を根拠地とし徐々に勢力を拡大し始めた。張栄は章丘・鄒平・済陽・長山・辛市・蒲台・新城・淄州といった地を勢力圏とし、モンゴル軍や盗賊が来ると山に逃れる生活を送っていた[2][3]

1226年(丙戌)、東平の厳実や保定の張柔といった有力世侯がみなモンゴルに下ったため、張栄も遂にモンゴルに投降することを決めた。この頃、山東地方の済南方面はチンギス・カンの弟のカチウンを始祖とするカチウン・ウルスの領地(投下領)と定められていたため、張栄はカチウン・ウルス当主アルチダイ・ノヤンに投降を申し出た。アルチダイに連れられてチンギス・カンの下を訪れた張栄は「山東の中でも唯一投降を拒んで抗戦してきた汝が、なぜ投降するようになったのか」と尋ねられ、「山東の地は広大であるが、悉くが帝(チンギス・カン)の有する所となった。もし私にほかに頼るべき勢力があればモンゴルに服従はしなかっただろう」と答えた。チンギス・カンはこのような張栄の不遜な態度をむしろ評価し、「まさにサイン・バアトル(「賢明なる勇士」の意)である」 と評したという[4]。この後、張栄はチンギス・カンより金紫光禄大夫・山東行尚書省、兼兵馬都元帥、知済南府事に任じられ、初めて済南を拠点とするようになった[5][6]。また、モンゴルに下った証として孫の張宏を質子(トルカク)としてアルチダイのオルドに送ったが、これにより張宏は多国語に通じた将軍として育つこととなる[7]

1230年(庚寅)、第二次金朝侵攻が計画されると、 張栄は自ら先筆を務めることを申し出、これを喜んだオゴデイは張栄を漢人諸侯の指揮官に位置付けた。1231年(辛卯)、黄河の渡河時には死士を率いて対岸の金軍を破り、更に勝勢に乗じて張・盤の山寨を陥落する功績を挙げた。これらの山寨を陥落させたときには数万の捕虜を得たため、張栄の上官のアジュルは反乱が起こることを恐れてこれを皆殺しにしようとしたが、張栄は説得してやめさせたという。1233年(癸巳)、睢陽を攻略した時にも同様の議論が起こったが、やはり張栄が城民の殺害をやめさせた[8]

1234年(甲午)には沛を包囲したが、城の守りは固くなかなか攻略できなかった。 ある時、沛の城主が夜襲を計画したが、張栄はこれを事前に察知し、夜襲を撃退した上勢いに乗じて沛城まで攻略してしまった。次いで徐州を攻撃したが、ここでも守将の沛が攻撃を仕掛けてきたのを撃退し、その勢いで城を攻略した。1235年(乙未)には邳州を攻略し、1236年(丙申)には皇族のコデンの指揮下で南宋領の棗陽・光化等3県を破った[9]

張栄は他の漢人世侯と同様に荒廃した華北の復旧にも尽力し、済南に移住してきた漢人を保護して土地家屋を分け与えたため、済南一帯の曠野は開けて楽土と化したという。中統2年(1261年)には既に80歳という高齢であった張栄が「済南公」に封じられた。死後の追封ではなく生前に封じられるのは異例のことであり、同時期に「安粛公」に奉ぜられた張柔とともに帝位継承戦争でクビライの勝利に貢献した恩賞であると考えられている[10]。その後間もなくして張栄は83歳で亡くなり、子の張邦傑が後を継いだ[11]

済南張氏

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張衍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張栄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張邦傑
 
張邦直
 
張邦彦
 
張邦允
 
張邦孚
 
張邦憲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張宏
 
張守
 
張崇
 
張宇
 
 
 
 
 
 
張宓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張元節
 
張元里
 
クラクル王妃
イェスンジン
 
金剛奴王妃
 
 
 
 
 
 
張元輔
 

脚注

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  1. ^ 愛宕 1988, p. 192.
  2. ^ 『元史』巻150列伝37張栄伝,「張栄字世輝、済南歴城人、状貌奇偉。嘗従軍、為流矢貫眥、抜之不出、令人以足抵其額而抜之、神色自若。金季、山東群盗蜂起、栄率郷民拠済南黌堂嶺、衆稍盛、遂略章丘・鄒平・済陽・長山・辛市・蒲台・新城及淄州之地而有之、兵至、則清野入山」
  3. ^ 堤 1995, p. 3-4.
  4. ^ 漢人軍閥の中でも特に有力な者は「バアトル」というモンゴル語称号を与えられており、史天沢は「サムカ・バアトル」、 張柔は「張バアトル」 と呼ばれていたことが記録されている(堤 1995, p. 8)
  5. ^ 『元史』巻150列伝37張栄伝,「歳丙戌、東平・順天皆内属、栄遂挙其兵与地、納款於按赤台那衍、引見太祖、問以孤軍数載、独抗王師之故、対曰『山東地広人稠、悉為帝有。臣若但有倚恃、亦不款服』。太祖壮之、拊其背曰『真賽因八都児也』。授金紫光禄大夫・山東行尚書省、兼兵馬都元帥、知済南府事。時貿易用銀、民争発墓劫取、栄下令禁絶」
  6. ^ 張栄の一族は済南の軍閥として著名なため当初から済南を拠点としていたように考えられがちであるが、実際には済南に権益を有するカチウン王家と結びつくことで初めて済南に入ることができたのだと堤一昭は指摘している(堤 1995, p. 6)
  7. ^ ただし、張宏の生年は張栄がアルチダイに投降したとされる歳の1年前の1225年であり、張宏が生まれた直後からカチウンのオルドに送られたというのは考え難い。そのため、張栄がアルチダイに投降したのは1225よりも早い段階で、張栄がチンギス・カンに面会したのが1225年ではないかと考えられている(堤 1995, p. 8)
  8. ^ 『元史』巻150列伝37張栄伝,「庚寅、朝廷集諸侯議取汴、栄請先六軍以清蹕道、帝嘉之、賜衣三襲、詔位諸侯上。辛卯、軍至河上、栄率死士宵済、守者潰。詰旦、敵兵整陣至、栄馳之、望風披靡、奪戦船五十艘、麾抵北岸、済師、衆軍継進、乗勝破張・盤二山寨、俘獲万餘、大将阿朮魯恐生変、欲尽殺之、栄力争而止。癸巳、汴梁下、従阿朮魯為先鋒、攻睢陽、議欲殺俘虜、烹其油以灌城、又力止之。既而城下、栄単騎入城撫其民」
  9. ^ 『元史』巻150列伝37張栄伝,「甲午、攻沛、沛拒守稍厳、其将唆蛾夜来擣営、栄覚之、唆蛾返走、率壮士追殺之、乗勝急攻、城破。就攻徐州、守将国用安引兵突出、栄逆撃之、亦破其城、用安赴水死。乙未、抜邳州。丙申、従諸王闊端破宋棗陽・光化等三県」
  10. ^ 堤 1995, p. 7.
  11. ^ 『元史』巻150列伝37張栄伝,「時河南民北徙至済南、栄下令民間、分屋与地居之、俾得樹畜、且課其殿最、曠野辟為楽土。是歳、中書考績、為天下第一。李璮拠益都、私餽以馬蹄金、栄曰『身既許国、何可擅交隣境』。却之。年六十一、乞致仕、後十九年、世祖即位、封済南公、致仕卒、年八十三。子七人長邦傑、襲爵、先卒。邦直、行軍万戸。邦彦、権済南行省。邦允、知淄州。邦孚、大都督府郎中。邦昌、奥魯総管。邦憲、淮安路総管。孫四十人、宏、襲邦傑爵、改真定路総管」

参考文献

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  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男東洋史学論集』第4巻 (元朝史)、三一書房、1988年9月。NDLJP:12171554https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001938616 
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉 軍事拡大の時代』講談社現代新書、1996年5月(杉山1996A)
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈下〉 世界経営の時代』講談社現代新書、1996年6月(杉山1996B)
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊; 65(新装版3)〉、2004年。ISBN 4876985227国立国会図書館書誌ID:000007302776https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776 
  • 堤一昭「<論説>李璮の乱後の漢人軍閥 : 済南張氏の事例」『史林』第78巻第6号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1995年11月、837-865頁、CRID 1390572174799773312doi:10.14989/shirin_78_837hdl:2433/239347ISSN 0386-9369