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張宏 (元)

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張 宏(ちょう こう、正大2年(1225年) - 至元24年11月5日1287年12月10日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯(漢人軍閥)の一人。字は可大。済南を中心とする大軍閥を築いた張栄の孫にあたる。

元史』には立伝されていないが『雪楼集』巻16「済南公世徳碑」や『国朝文類』巻50「済南路大都督張公行状」などにその事蹟が記され、『新元史』にはこれらを元にした列伝が記されている。

概要

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生い立ち

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張宏の祖父の張栄済南を拠点にモンゴルに仕えた漢人世侯の一人であり、その息子の張邦傑質子(トルカク)としてモンゴル高原に滞在していた時に、モンゴル人女性との間に生まれたのが張宏であった。没年からの逆算により1225年(乙酉)の生まれであったとみられる[1]。張宏は幼い頃からモンゴル高原で育ったことにより、広く諸国語に通じていたとされる[2]

1254年甲寅)頃に父の張邦傑が若くして亡くなると、張宏は24歳にして済南張氏当主の地位を継承することになった[3]。この頃から張宏はモンゴル軍の南宋領への侵攻に従軍するようになり、東平路行軍万戸厳忠済・保定軍民万戸張柔・真定万戸史権・曲陽行軍万戸邸浹・大名路行軍万戸王文幹・水軍万戸解誠・水軍万戸張栄実らとともに皇弟のクビライ率いる部隊に属して先鋒を務めた[4]。モンゴル軍が陽羅堡に至ると、張宏は400艘を率いて先行し、大船を奪って南宋水軍を潰走させる功績を挙げた[5]

1259年己未)、モンケ・カアンが急死すると、クビライは友軍救出のために南下して鄂州を包囲したため、張宏もこれに従って功績を挙げた。クビライは中統元年(1260年)に皇帝位への即位を宣言し、鄂州包囲から一貫してクビライを助けてきた張宏も済南府行軍万戸・管民総管の地位を授けられた[6]

李璮の乱

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即位したクビライは華北支配を強化するために十道宣撫使を派遣したが、これによって華北を支配する漢人世侯の反感を買い、山東地方の大軍閥である李璮が叛乱を起こすに至った。張宏は事前に李璮が叛乱を起こすことを察知しており、側近の姜彧と相談の上これを 「逆跡十事」 としてクビライに報告することとした[7]

中統2年(1261年)10月、張宏をはじめ漢人世侯は燕京(後の大都)に集結するよう命じられており、その翌年正月に宴席で張宏は李璮の叛乱についてクビライに報告した[7]。その後、16日に燕京の近郊で狩猟が行われ、そこで初めて李璮の叛乱が「逆跡十事」としてクビライに伝えられた[7]

張宏の訴えた「逆跡十事」は以下のように伝えられている[8][9]

  • 一つ、諸路の城壁は補修が進んでいないが、益都は壕が城壁がわりとなっている。国初、モンゴル軍が李全(李璮の父)が守っていた益都を攻めた時には数年経っても降らなかったというのに、今や益都は更に糧食や壮丁を蓄えているのは、何のためか[10]
  • 一つ、諸路の兵は久しく征戦に従事しており、休息を得られず皆疲弊している。李璮の兵は5-7万を数え、南宋の討伐を掲げて練兵を行うも実際に戦うことはない。士卒はただ李璮の号令のみを聞き、朝廷の命を聞くことはない[11]
  • 一つ、我が軍の主力は昨年北方のモンゴル高原を征し(シムルトゥ・ノールの戦い)、郡臣もみずから従軍したのに、李璮のみが南宋への抑えを名目に加わらなかった。更に我らが帰還した時に諸侯は朝観したにもかかわらず、李璮のみが来なかった。李璮の不臣の心は、路の人が皆知ることである[12]
  • 一つ、我らは昨年南宋に使者を派遣して和平を結んだが、李璮のみがこれを喜ばず引き続き兵を出して南宋を威嚇した。これは下は兵威を窺い、上は国の信を失うものである[13]
  • 一つ、馬の交易について諸路は統制を受けているが益都のみには及ばず、李璮は南宋と密かに交易を行い、また王文統と組んで利益を上げている[14]
  • 一つ、中統年間に入り「中統鈔」の法が諸路で通行されたが、李璮のみは引き続き漣州会子を用いている『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「又中統鈔法、諸路通行、唯璮用漣州会子、所領中統鈔顧於臣境貿易諸物、商人買塩而鈔不見旧」。
  • 一つ、山東の塩の価格は中統鈔で3,500定に掃蕩するが、李璮はこれを2,500定と定め、利潤は尽く我が物としている[15]
  • 一つ、昨年に我が軍が長江を渡ったとき、李璮は之に乗じて漣州を攻め落としたものの、その功績を理由に擅に徴税・徴兵を行っている[16]

しかし張宏の忠告に対して、クビライは「軍国の機密であるので他者に漏らすな」と命ずるのみで、張宏・姜彧らの提案した機先を制して李璮を攻撃する計画は容れなれなかった[7]。中統3年(1262年)春、李璮は遂に叛乱を起こしたものの、思うように周囲の支持を得られず、本拠の益都を棄ててより堅固な済南を奪取する策に出た。兵力に劣る張氏は済南を守り切れず、張宏は祖父の張栄とともに済南を放棄しクビライの下に逃れた[17]。この時、張栄は張宏やその他一族・将校を前に剣に誓い、皆これを聞いて士気を高めたという。

クビライ軍の主力は北方の帝位継承戦争に振り分けられており、李璮の叛乱討伐は傍系王族のカビチとアジュ、そして漢人世侯たちに委ねられた。張宏は討伐軍の先導を行い、済南城の包囲戦では反乱軍の糧道を絶つ功績を挙げた。また、包囲戦と並行して李璮の本拠益都では早くも戦後処理が進められており、益都路の領主であるタガチャル、その側近であるサルギスとともに張宏もこれに携わったとされる[18]。済南城が陥落した時、張宏は総大将のカビチに「城民は無罪であり、略奪は禁じてほしい」と請願した。カビチはこの請願を受け容れて厳しく略奪を禁じ、婦人の衣服を奪おうとしたものを斬刑に処したため、 城民は難を免れたという[19]

失脚

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至元年間の初頭には、クビライによる漢人世侯解体政策の一環として、張宏は本拠地の済南から引き離されて真定路総管・兼府尹に任命された。しかしこの頃より、クビライによる漢人世侯解体政策の一環として、立て続けに済南張氏の処罰が行われた[18]。まず、張宏の叔父にあたる張邦直兄弟が李璮の叛乱に加担していたと告発され、姜郁・李在らを含む27人が処刑された[20]。更に、元々張宏に仕えていた官が張宏の父の罪状を告発し、これが張宏に連座することになった。また、張宏が済南にいた頃官物を盗んでいたことも告発され、クビライはそれまでの功績を考慮して厳罰は下さなかったが、官職は剥奪されてしまった[21]。この時になって過去の罪が摘発されたのは、帝位継承戦争がクビライ側の勝利に終わり、漢人有力者に配慮する必要がなくなったためと考えられる[18]

晩年

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至元9年(1272年)、襄陽城の包囲戦が始まると張宏は免職から7年越しに懐遠大将軍・新軍万戸として起用された[22]。この襄陽包囲戦では、裏陽の守将である呂文煥を説得し降伏させる功績をあげている[22]。至元10年(1273年)には陥落した陽城の管轄を任されて襄陽等処統軍使の地位を授かり、17万人の兵を統べたという[23]

至元13年(1276年)、臨安の陥落によって南宋は事実上滅亡した。張宏の功績も認められたが、この頃より張宏は病にかかって地位を退き、済南に帰還した。張宏の地位は息子の張元節が引継いだが、モンゴルで生まれ育った張宏は亡くなるまで隔年でモンゴル高原のウルグイ河畔を往復していたと伝えられる[24]。済南張氏は軍閥としての地位を失った後も現地の有力者としてカチウン王家との姻戚関係を続けており、張宏の二人の娘はカチウン王家の金剛奴とクラクル王に嫁いだ。その後、至元24年(1287年)11月5日に至り、59歳で自宅で死去した[25][26]

張宏には姓氏の不明な女性と、趙氏・姜氏の三人の婦人がいた。男子は趙氏から生まれた張元節と姜氏から生まれた張元里の2人がいた。女児は4人おり、上よりクラクル王、姜従吉金剛奴王、洪沢屯田千戸の梁紹にそれぞれ嫁いだ[27]

済南張氏

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張衍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張栄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張邦傑
 
張邦直
 
張邦彦
 
張邦允
 
張邦孚
 
張邦憲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張宏
 
張守
 
張崇
 
張宇
 
 
 
 
 
 
張宓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張元節
 
張元里
 
クラクル王妃
イェスンジン
 
金剛奴王妃
 
 
 
 
 
 
張元輔
 

脚注

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  1. ^ 堤 1995, p. 8.
  2. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「公張姓、諱宏、字可大、世為済南人。……初以質子侍王藩、娶阿可亦真氏、生公。性長厚、自幼嶷然、有成人風長、博通諸国語」
  3. ^ 堤 1995, p. 6.
  4. ^ この時クビライの配下にあった漢人部隊は、オゴデイ時代に史天沢が率いていた「三万戸」に由来するものであったと考えられる(池内1984,10-11頁)
  5. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「及嗣為政、一以継志述事為心。属歳大旱、徒歩四十里、禱雨龍洞、既奠而雨霑足。其在軍旅、拊循士卒、号令厳明于襄于揚、累奏戦功。世祖皇帝在王邸、総率兵、伐宋、公為前鋒、得生口輒詢山川地形、途所従出、城郭向背、主将誰某、倉廩所実幾何、守兵幾何、一一為上陳之。且逆策其可勝之、状画其進取当自某処、当用兵若干若指諸掌曁捷卒如所策。上毎曰『汝殆身親歴耶、何其言之信也』。抜木欒山寨獲男女万餘口、咸釈之俾復生、聚宋人以王師之至所向款附。至陽羅堡、上視師江北岸小山、公進言『彼宋舟師雖衆、我以四百艘可必取之。請偕水軍、先済江』、許之。奪其大舡、名白鷂者一、大戦江中、連勝。我師増気、其偏将以二百艘直抵南岸、宋師奔潰。而公之北斗旗已樹矣」
  6. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「上随整諸軍、渡江至鄂州。公啓城東南、維彼悉衆守禦、号難攻、請先諸軍以攻、彼既下、則城自陥矣。攻之登其陴、宋人悉力来奪、公連戦復破之、城随陥。上命公籍府庫、秋毫不私。師旋、部降民数千、徙之内地、嬰孺無失。或有疾、命医視之、皆全活。上正位宸極、有詔若曰:乃祖為国有収撫之勲、治郡存節倹之業。其父相継致力於民、承襲至卿、餘風尚在。又随朕南進、殊有功。労可遵奉先朝聖旨、依旧懸帯虎符、授済南府行軍万戸・管民総管之職、凡在所属、並聴節制。敬持朕命、慎守卿司」
  7. ^ a b c d 堤 1995, p. 9.
  8. ^ なお、後に張宏の叔父の張邦直らが「南宋への馬の密貿易」と「李璮の乱への通牒」を理由に処刑されており、済南張氏の中では李璮に通じる者も多数いたがために、李璮の現状について張宏は詳しく報告できたのではないかと考えられている (堤1995,10-11頁)
  9. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「中統三年春、李璮叛兵起益都、率逆徒数万擣済南、前此公臆知其端、条其逆跡等十事。大略以為」
  10. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「諸路城壁不修、而益都因澗為城。国初以全師攻之、数年不下。今更包以甎石、而儲粟於内、且留壮丁之転輸者于府、其志欲何為哉」
  11. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「又諸路兵久従征伐、不得休息、率皆困弊、而璮假都督之重、擁彊兵至五・七万日練習整厲、名為討宋、而実不出境。士卒、唯知璮之号令、不復知稟朝廷之命。平章王文統故璮参佐、儻中外連構、窺伺間隙、以逸待労、此尤可慮」
  12. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「又大駕前歳北征、郡臣躬扞牧圉、而璮独以禦宋為辞、既不身先六軍、復無一校以従。本欲休養士卒以覘国家虚実。及駕還京師、諸侯朝覲、璮又不至、不臣之心、路人共知」
  13. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「国家去歳遣使徃宋、寔欲百姓休息、璮独不喜、其和奸欺叵測、方発兵辺境、下窃兵威、上失国信」
  14. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「又如市馬、諸路無論軍民概属括買、独不及益都。而璮方散遣其徒於別境、高其直以市。其王文統与璮締交於此尤著」
  15. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「又山東塩課之額、歳以中統鈔計為三千五百定、近年互為欺誑、省為二千五百定、餘悉自盗、属法制初新、宜復旧額、而欺盗仍前」
  16. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「又前歳、王師渡江、宋人来禦、璮乗其隙偶陥漣州、輒貪其功悉留歳賦為括兵用、而又侵及塩課。誠使璮絶淮而南、歳陥一二城壁、去杭尚遠、方今急務、政不在此。而徒以兵賦假之、不可不慮、今亟宜罷王文統、而択人代璮、且徴璮従攻西北、足以破其姦謀。必東南須璮鎮戍、剌真督兵西南、緩急豈能相及」
  17. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「公以其言秘、俟燕間以聞。二年元会、上命公酒、知公意有所陳。謂之曰、卿比還、当陛見、朕与卿有言也。十六日、上猟近郊宿郊壇旁、夜召公与語。公遂具奏、上諭近侍以軍国密計毋泄。至是、璮兵西来城守之卒数不満千、公遂偕其祖済南」
  18. ^ a b c 堤 1995, p. 10.
  19. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「公告変京師半道、詔以諸王合必赤総兵撃之、有旨諭衆安業俾郡県、兵従公討賊。割山東塩課以済師仍戒諸道兵毋肆侵掠。以公為前導、而璮已拠済南諸道、兵既合、詔無攻城以傷吾民、乃築城周六十里囲之。璮既不得出、公率卒青斉境上、断其饟道、攻下寨柵、脅従之民相率帰正。逆徒数突囲、公及諸軍逓却之、以功遷大都督。秋七月甲戌、璮伏誅。公言『済南民皆王民、城為逆徒盗拠。今罪人斯得、恐軍士例肆虜掠、請戒勅兵毋入城』。於是王遣将分掌門鑰。尋有卒、禠民婦衣、斬首以徇、諸軍粛然」
  20. ^ 『元史』巻6世祖本紀2,「[至元元年夏四月]丁卯、追治李璮逆党万戸張邦直兄弟及姜郁・李在等二十七人罪」
  21. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「至元初、例遷真定路総管・兼府尹、加鎮国上将軍。有故吏掇拾公諸父罪辞連公。上以其有功、特原之、然猶免所居官」
  22. ^ a b 堤 1995, p. 13.
  23. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「九年、師次襄陽、起公為懐遠大将軍・新軍万戸、佩金虎符。宋安撫呂文煥守襄陽攻之不下、諭之不従。最後遣人徃招呂曰得張済南一言、吾無盟矣。公持詔徃諭、文煥遂挙城降。十年、授襄陽等処統軍使、総兵十七万人」
  24. ^ 堤 1959, p. 21.
  25. ^ 堤 1995, p. 21.
  26. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「十三年、宋平、公悉帰功。諸将以在軍旅歳久、積労成疾、堅乞骸骨以帰。与人言、未嘗及平宋事。公生遼東兀魯回河、又其二父為藩王妃、性楽其風土、且便畜牧、遂晋居間歳、一至済南、優游暇像、以佚其老。二十四年十一月初五日、薨于済南私第之正寝、享年五十有九」
  27. ^ 『国朝文類』巻50済南路大都督張公行状,「夫人:某氏・趙氏・姜氏。二子、元節、趙出。元里、姜出。四女、長也速貴、為諸王忽剌忽児妃。次適姜従吉。次為金剛奴王妃。次適洪沢屯田千戸梁紹」

参考文献

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  • 安部健夫『元代史の研究』創文社、1972年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「<論説>李璮の乱後の漢人軍閥 : 済南張氏の事例」『史林』第78巻第6号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1995年11月、837-865頁、CRID 1390572174799773312doi:10.14989/shirin_78_837hdl:2433/239347ISSN 0386-9369 
  • 新元史』巻140列伝37張宏伝